私の心。私の想い。
行き場のないそれらは、溜まっていって。澱んでいって。
いずれ、腐り、凝(こご)っていくさだめなのか。
「地下室に、ワイン倉庫があるのだけど」
そんなことを、ふいに言い出したのはメイドの長。
「そこへ行って、赤ワインを一本、持ってきてくれないかしら」
「それは、もちろん良いのですけれど」
私が小首を傾げると、頭の羽根がともに傾き。
「いったいどんなワインが、御所望で?」
「行けばわかるわ。というのは」
館のメイドの長たる彼女、ナイフ磨きに余念なく、
「倉庫には、ワインの管理人が居るのだから」
私はすこし疑問をもちつつ、されど断る理由もなく。
ワイン倉庫へ向かった。翼と翼はためかせ。
ふと、ふわりと横に並び飛ぶ影。
「そんなに急いで、翼を開げて、何処に行くの?」
問うてきたのは、館の門衛、その統率者。
屋敷の中では、珍しい対面。
「ワイン倉庫から、ワインを持ってくるようにと」
空中のこととて、軽い会釈で挨拶を済ませつつ、
「メイドの長に、仰せつかって」
すると彼女は、眉をひそめて顎をさすり
「さて? 私もここはずいぶん長いけれど」
ワイン倉庫、などは知らないと思案顔。
とはいっても、知らぬ顔もできないところ。
ひとまず私は地下室へ。
彼女も役目ある身とて、屋敷の奥へ。
ほどなく見つけた、ワイン倉庫、と記された扉。
そこは、しかし、固く閉ざされていて。
「――しかも、鍵穴がない」
「それはそうだ」
ふいに聞こえた、聞きなれぬ声。扉の奥からの、それは声。
「この扉は、私が開けたくなったときだけ、開くのだから」
私はぎくりとして、扉を見やった。
まさか、扉がしゃべったわけでも、ないだろうけれど。
「あの、私は――」
「心得ておる。……ワインが欲しいのだろう?」
「ええ――はい」
それならば、と室内からの声。「扉を開けるが良い」
軽く触れただけで、扉は開いた。
とたんに、むっ、と押し寄せてくる、この、濃厚な匂いは。
「葡萄――」
「それはそうだ」薄暗い室内には、オーク材らしき、大ぶりの樽がしつらえてあった。
「たいていのワインは、葡萄で作るのだからな」
声は、樽の中から聞こえてくるようだった。
「あなたが」私はいった。「倉庫の、管理者の方?」
「いかさまさよう」樽がいった。
「ゆえあって姿は見せられぬが、他でもない、私がこのワイン倉庫の主」
「用件は、聞くまでもないな。ワインを取りに来たのだろう」
「まさに」私は答えた。「その通りです」
「ふむ! それならば――それ。壁にある」
見ればたしかに、壁一面にびっしりと寝かされた、瓶のかずかず。
「――これほどとは」
いずれも赤ワインとおぼしいが、果たして何百本あるやら。
「この中の――どれを持ってゆけば、良いのでしょう」
「ああ、それも悩むまでもない。どれも、同じよ」
「同じ……?」
「同じ時期にとれた葡萄を、同じ時期にワインにこしらえ、保管しておる」
ゆえに、と樽の中の管理人。「どれも同じなのさ」
「では……一本、持って行きますけれど」
「ああ、持って行け……と、言いたいところだが」
「――何か?」
「まさか、代価もなしに、持ち去る気か」
私は当惑した。
「あの。私は、メイド長から」
「知っておる――もちろんな。だが、それとこれとは、話がちがう」
「持って行くのはお前なのだ。お前が、代価を払うべきではないか?」
とはいっても、と私は説いた。
「私は、何も持っていないのです」
「ああ! 確かにお前は、輝く黄金も、古びた飾り物も、ぴかぴかの宝玉も持ち合わせてはいなさそうだ」
だが、となおも樽の主は続けて、
「お前は持っている。私の持たぬものを」
「と、いうと?」
知らず、後ずさりしながら、私はいった。
不穏な気配を、いやおうなく、感じ取っていたから。
「ワインをこしらえるには、そのまま放っておいても良い――しかし」
「より深みのある、奥行きのあるワインを望むなら、一味、加えねばならぬ」
「お前は――良いワインの種を持ち合わせておる。それを――」
「置いてゆけ」
突然、何かに自由を奪われた。
どくん、と私の中で何かが、弾ける。
そして、身体から抜け出すような、感覚。
抜かれていく。血。
いや。これは。私の。心の。
薄らいでいく。あれは、あの、あのひとの、面影は。
「――厭」
吼えていた。
その刹那――駆け抜けていた。風。彩色の風。
轟音とともに、閃光に包まれる、樽。
私の眠っていた力が目覚めた――のではなかった。
くずおれかけた私を支えたのは、がっしりとした、肉付きのよい、腕。
「――どうして」
「仔細は後でね」
片目をつむって見せた彼女は、樽をにらみつけた。
先ほどの一撃をこうむりながらも、傷ひとつなさそうに見える、樽。
「ほう――そうか。より深い味を所望か、『彼女』は」
意味のわからぬことを言いながらも、樽は仕掛けてきた。
見えざる――圧力。
「は」
気合一声、私を抱えたまま、彼女は飛び退っていた。
寸前までいた場所を、何か重いものが横切った、気配。
「紅さま」
「飛べる?」
「!?」答える前に、突き飛ばされていた。
「く」
捕らえられていた。彼女。もう片方の、手。
「――紅さまッ」
「ほう、お前も――なかなか――良い『種』を持っておる」
愉快げな、それは声。
「――よいワインが、できようなあ――」
「う、あ、あ」
悶える彼女。身悶えている。そして――
「―――ッ!!」
「げ、えっ」
燃えていた。樽。
さほど強くはないが、表面を舐め、焦がしていく、焔の舌。
“――『アグニシャイン初級』”
放っていた。焔の渦。
師のわざを、見よう見まねで。
すべてを焼き尽くすとはいかないけれど、牽制くらいは。
「かぁっ」
不可視の手から抜け出した彼女が、咆哮し。跳躍し――
蹴り抜いていた。虚空。
断末魔。
「――どうして、ここに?」倉庫から抜け出してすぐ、私は尋ねずにはいられなかった。
嫌な予感がしたのよ、と苦笑いしながら、彼女。
「それに、メイド長の態度も、なんだか妙だったし」
「それだけで、わざわざ」
だって、と彼女は笑うのだった。「あなたに何かあったら、大変じゃない?」
「――っ」
そして。なおも、彼女は続けた。
「悲しむでしょ? みんなが」
「…………」
私はうつむいた。
喜ぶべきなのに。感謝すべきなのに。
とうてい、そうはできそうになかったから。
「あの」
「ん?」
いえ、と私は目を伏せた。「――ありがとう、ございました」
その“みんな”には。
「あなたも、入っているのですか?」
そう聞けたなら、良かったろうに。
「ご苦労様」
私が瓶を手渡すと、メイド長は微笑みながら受け取った。
「これで、好いシチューができるわ」
「あの」
「なあに?」
いいえ、と私はかぶりを振った。「なんでもありません」
厨房を出ると、そこにあの人が待っていた。
「何か言われた?」
いいえ、と私は答えた。「特には、何も」
そう、と彼女は帽子の位置を直した。
「まぁ、こういうことも、あるわ」
「紅さまは」
「え?」
「なぜ――この、館に」
「それは」
少し口ごもって、やがて彼女はいった。
「他に、行くところがないだけ」
肩をすくめ、はにかみながら。
でも、私は聞いてしまっていた。
あのとき。彼女が『吸われ』そうになった、あのとき。
彼女が呼んだ、名前を。
「――お嬢様は」
「えっ!?」
「あのワインを用いたお料理を、召されるのでしょうか」
「……どうかしら」
でも、と彼女はつぶやいた。
「もし、そうなら……」
「――そうなら?」
ううん、と彼女は首を振った。
「お気に召すと、いいわね」
「ええ」
私は、うなずいた。
「――きっと、お気に召しましょう」
「はは……なんだか、お酒の話ばっかりしてたら、飲みたくなってきたわ」
「飲みますか。一献」
「そうねぇ。ちょうど、いいものがあるし」
と、彼女が取り出したのは。
「あ――」
「一本くらい、減っちゃってもわからないわよね?」
私はスカートの端をつまんで、会釈した。
「――お付き合い、いたしましょう」
これで共犯ね、と屈託なく笑う紅さま。
お酒は、不思議に酔う。人も、妖も、魔も。
あるいは、私たちは――つねに酔っていて。
飲むことで、はじめて、本当の自分になれるのかもしれない。
今は、酔いたかった。
私の心が。私の、想いが。
じっと熟れて。澄み渡って。
いつか、豊かに香る美酒となるよう、祈りながら。
行き場のないそれらは、溜まっていって。澱んでいって。
いずれ、腐り、凝(こご)っていくさだめなのか。
「地下室に、ワイン倉庫があるのだけど」
そんなことを、ふいに言い出したのはメイドの長。
「そこへ行って、赤ワインを一本、持ってきてくれないかしら」
「それは、もちろん良いのですけれど」
私が小首を傾げると、頭の羽根がともに傾き。
「いったいどんなワインが、御所望で?」
「行けばわかるわ。というのは」
館のメイドの長たる彼女、ナイフ磨きに余念なく、
「倉庫には、ワインの管理人が居るのだから」
私はすこし疑問をもちつつ、されど断る理由もなく。
ワイン倉庫へ向かった。翼と翼はためかせ。
ふと、ふわりと横に並び飛ぶ影。
「そんなに急いで、翼を開げて、何処に行くの?」
問うてきたのは、館の門衛、その統率者。
屋敷の中では、珍しい対面。
「ワイン倉庫から、ワインを持ってくるようにと」
空中のこととて、軽い会釈で挨拶を済ませつつ、
「メイドの長に、仰せつかって」
すると彼女は、眉をひそめて顎をさすり
「さて? 私もここはずいぶん長いけれど」
ワイン倉庫、などは知らないと思案顔。
とはいっても、知らぬ顔もできないところ。
ひとまず私は地下室へ。
彼女も役目ある身とて、屋敷の奥へ。
ほどなく見つけた、ワイン倉庫、と記された扉。
そこは、しかし、固く閉ざされていて。
「――しかも、鍵穴がない」
「それはそうだ」
ふいに聞こえた、聞きなれぬ声。扉の奥からの、それは声。
「この扉は、私が開けたくなったときだけ、開くのだから」
私はぎくりとして、扉を見やった。
まさか、扉がしゃべったわけでも、ないだろうけれど。
「あの、私は――」
「心得ておる。……ワインが欲しいのだろう?」
「ええ――はい」
それならば、と室内からの声。「扉を開けるが良い」
軽く触れただけで、扉は開いた。
とたんに、むっ、と押し寄せてくる、この、濃厚な匂いは。
「葡萄――」
「それはそうだ」薄暗い室内には、オーク材らしき、大ぶりの樽がしつらえてあった。
「たいていのワインは、葡萄で作るのだからな」
声は、樽の中から聞こえてくるようだった。
「あなたが」私はいった。「倉庫の、管理者の方?」
「いかさまさよう」樽がいった。
「ゆえあって姿は見せられぬが、他でもない、私がこのワイン倉庫の主」
「用件は、聞くまでもないな。ワインを取りに来たのだろう」
「まさに」私は答えた。「その通りです」
「ふむ! それならば――それ。壁にある」
見ればたしかに、壁一面にびっしりと寝かされた、瓶のかずかず。
「――これほどとは」
いずれも赤ワインとおぼしいが、果たして何百本あるやら。
「この中の――どれを持ってゆけば、良いのでしょう」
「ああ、それも悩むまでもない。どれも、同じよ」
「同じ……?」
「同じ時期にとれた葡萄を、同じ時期にワインにこしらえ、保管しておる」
ゆえに、と樽の中の管理人。「どれも同じなのさ」
「では……一本、持って行きますけれど」
「ああ、持って行け……と、言いたいところだが」
「――何か?」
「まさか、代価もなしに、持ち去る気か」
私は当惑した。
「あの。私は、メイド長から」
「知っておる――もちろんな。だが、それとこれとは、話がちがう」
「持って行くのはお前なのだ。お前が、代価を払うべきではないか?」
とはいっても、と私は説いた。
「私は、何も持っていないのです」
「ああ! 確かにお前は、輝く黄金も、古びた飾り物も、ぴかぴかの宝玉も持ち合わせてはいなさそうだ」
だが、となおも樽の主は続けて、
「お前は持っている。私の持たぬものを」
「と、いうと?」
知らず、後ずさりしながら、私はいった。
不穏な気配を、いやおうなく、感じ取っていたから。
「ワインをこしらえるには、そのまま放っておいても良い――しかし」
「より深みのある、奥行きのあるワインを望むなら、一味、加えねばならぬ」
「お前は――良いワインの種を持ち合わせておる。それを――」
「置いてゆけ」
突然、何かに自由を奪われた。
どくん、と私の中で何かが、弾ける。
そして、身体から抜け出すような、感覚。
抜かれていく。血。
いや。これは。私の。心の。
薄らいでいく。あれは、あの、あのひとの、面影は。
「――厭」
吼えていた。
その刹那――駆け抜けていた。風。彩色の風。
轟音とともに、閃光に包まれる、樽。
私の眠っていた力が目覚めた――のではなかった。
くずおれかけた私を支えたのは、がっしりとした、肉付きのよい、腕。
「――どうして」
「仔細は後でね」
片目をつむって見せた彼女は、樽をにらみつけた。
先ほどの一撃をこうむりながらも、傷ひとつなさそうに見える、樽。
「ほう――そうか。より深い味を所望か、『彼女』は」
意味のわからぬことを言いながらも、樽は仕掛けてきた。
見えざる――圧力。
「は」
気合一声、私を抱えたまま、彼女は飛び退っていた。
寸前までいた場所を、何か重いものが横切った、気配。
「紅さま」
「飛べる?」
「!?」答える前に、突き飛ばされていた。
「く」
捕らえられていた。彼女。もう片方の、手。
「――紅さまッ」
「ほう、お前も――なかなか――良い『種』を持っておる」
愉快げな、それは声。
「――よいワインが、できようなあ――」
「う、あ、あ」
悶える彼女。身悶えている。そして――
「―――ッ!!」
「げ、えっ」
燃えていた。樽。
さほど強くはないが、表面を舐め、焦がしていく、焔の舌。
“――『アグニシャイン初級』”
放っていた。焔の渦。
師のわざを、見よう見まねで。
すべてを焼き尽くすとはいかないけれど、牽制くらいは。
「かぁっ」
不可視の手から抜け出した彼女が、咆哮し。跳躍し――
蹴り抜いていた。虚空。
断末魔。
「――どうして、ここに?」倉庫から抜け出してすぐ、私は尋ねずにはいられなかった。
嫌な予感がしたのよ、と苦笑いしながら、彼女。
「それに、メイド長の態度も、なんだか妙だったし」
「それだけで、わざわざ」
だって、と彼女は笑うのだった。「あなたに何かあったら、大変じゃない?」
「――っ」
そして。なおも、彼女は続けた。
「悲しむでしょ? みんなが」
「…………」
私はうつむいた。
喜ぶべきなのに。感謝すべきなのに。
とうてい、そうはできそうになかったから。
「あの」
「ん?」
いえ、と私は目を伏せた。「――ありがとう、ございました」
その“みんな”には。
「あなたも、入っているのですか?」
そう聞けたなら、良かったろうに。
「ご苦労様」
私が瓶を手渡すと、メイド長は微笑みながら受け取った。
「これで、好いシチューができるわ」
「あの」
「なあに?」
いいえ、と私はかぶりを振った。「なんでもありません」
厨房を出ると、そこにあの人が待っていた。
「何か言われた?」
いいえ、と私は答えた。「特には、何も」
そう、と彼女は帽子の位置を直した。
「まぁ、こういうことも、あるわ」
「紅さまは」
「え?」
「なぜ――この、館に」
「それは」
少し口ごもって、やがて彼女はいった。
「他に、行くところがないだけ」
肩をすくめ、はにかみながら。
でも、私は聞いてしまっていた。
あのとき。彼女が『吸われ』そうになった、あのとき。
彼女が呼んだ、名前を。
「――お嬢様は」
「えっ!?」
「あのワインを用いたお料理を、召されるのでしょうか」
「……どうかしら」
でも、と彼女はつぶやいた。
「もし、そうなら……」
「――そうなら?」
ううん、と彼女は首を振った。
「お気に召すと、いいわね」
「ええ」
私は、うなずいた。
「――きっと、お気に召しましょう」
「はは……なんだか、お酒の話ばっかりしてたら、飲みたくなってきたわ」
「飲みますか。一献」
「そうねぇ。ちょうど、いいものがあるし」
と、彼女が取り出したのは。
「あ――」
「一本くらい、減っちゃってもわからないわよね?」
私はスカートの端をつまんで、会釈した。
「――お付き合い、いたしましょう」
これで共犯ね、と屈託なく笑う紅さま。
お酒は、不思議に酔う。人も、妖も、魔も。
あるいは、私たちは――つねに酔っていて。
飲むことで、はじめて、本当の自分になれるのかもしれない。
今は、酔いたかった。
私の心が。私の、想いが。
じっと熟れて。澄み渡って。
いつか、豊かに香る美酒となるよう、祈りながら。
さて、私も一杯飲ろうっと。
独特な世界で、少し切ない雰囲気。
今夜はワインを飲もうと思います。
冒頭の一文はワインの澱になぞらえているのでしょうか。