その妖怪は名無しである。
……いや、名無しと言う妖怪じゃない。名前がわからないだけだ。
誰も彼女の名前を知らないし、本人もど忘れしてるっぽいんで取り合えず名無しなり、Jane Doeとでも呼ぶしかないわけで。
まぁ今はなんと呼ぼうが一緒だが。今彼女はズタボロで、返事をする余裕などなさそうだから。
「酷いよ……何もここまでしなくても」
森の中、木陰で傷ついた体を休めながら呟く。
そもそも、彼女の持っていた本を人間が奪ったことが不幸の始まりだった。
たかが人間とたかをくくっていたのがまずかったか、けちょんけちょんにのされて、大事にしていた本を奪われたのだった。
本は数ヶ月前に拾った物。内容はわからないけど、なんとなく気に入ってた物だけに、あきらめきれずに後を追いかけたのだが……。
そこで別の人間にまたしてもボッコボコにのされ、この状態というわけである。もちろん本は取り戻せていない。
「あの本、気に入ってたのに……大切だったのに……」
本を奪われたことが悲しくて、本を奪った人間が憎くて、それを取り戻せない自分が情けなくて、すべてが悔しくて、彼女はぽろぽろと涙を零した。
あの本は数ヶ月前、彼女が森の中で見つけた物。住み家の側にぽつんと落ちていたので拾ったのだ。
「非ノイマン型計算機の未来」というタイトルのその本、内容はさっぱりわからなかったが、そんなことはどうでもよかった。
この本を読んでいるだけで、なんとなく賢くなったような気がする……そんな感じが幸せだっただけだから。内容を楽しんでいたのではなく、スタイルを楽しんでいたのだ。
「返してよ、私の本返してよ……」
雪の残る森の中、名も無き妖怪はただ一人泣き続けていた。
その頃、八雲邸では……
「紫様、聞いているんですか!?」
「ええ、聞いているわよ」
苛立った表情の八雲藍と、生返事を返しながら隙間を覗いている八雲紫。
「幻想郷に開けた隙間を閉じろ、でしょ?」
「そうです、わかっているなら早くかかってください。この前から博麗神社のおめでたいのがうるさいんですから」
「そうなの?私は初耳だわ」
「そりゃそうでしょう。紫様はここ数ヶ月寝っぱなしでしたから」
以前紫が戯れに開けた幻想郷とあっちの世界……要するにわれわれの世界……との境界の隙間はいまだ閉じられていない。閉じられていない理由は……
「でもなんか気乗りしないのよね」
「散々寝ておいて言うことがそれですか!?」
まったく、とでも言うかのように天を仰ぐ藍。
「とうとうこの前実力行使されました。おかげで橙も私も目も当てられない状態にされたんですから」
「あらあら、あのおめでたいのも結構短気なのね」
「紫様がのんきすぎるだけなんです!!そんなことだからおばさんとか言われ……」
「……藍、今なんて言ったのかしら?」
うっかり口を滑らせた藍に、紫はにっこり笑いながら振り返る。
……もちろん目は笑っていないのだが。
「いいい、いえ、な、なんでもありません、何も言ってないですから弾幕結界は勘弁してください」
「……まぁいいわ。今は勘弁してあげる」
そう言って、紫は先ほど覗いていた隙間に再び目を向ける。そこには森の中、泣き続ける一人の妖怪が映っていた。
「……しょうがないわね」
ため息をつきつつ、紫は別の隙間に手を突っ込み、なにやらごそごそ手探りする。
「同じものは出せないけど、まぁ代わりになるものでも……」
「はぁ……
どれほど泣き続けただろうか。名も無き妖怪は赤くなった目を擦って立ち上がった。
「……帰ろう」
泣いてもあの本は帰ってこない。なら忘れるしかない。そう考え、住処へ帰ろうとした時だ。
ぼすっ、ぼすっ、ごつん!
「はうっ!!」
頭に強い衝撃を三連発で受け、名も無き妖怪はつんのめって雪の中に顔から突っ込んだ。
「うう、何よ今のは?」
コブのできた頭をさすりつつ、妖怪は頭に落ちて来た物の正体を確認する。
「本?」
それは本。それも分厚くて読み応えの有りそうな古びた本だった。
名も無き妖怪はあわてて辺りを見回す。だが辺りには誰もいない。森の中にいるのは彼女ただ一人。
「これ、貰っていいのかな?」
その言葉に返事を返すものなどいない。
「貰っちゃうからね。もう返せといわれても無駄だからね!」
そう叫んでも、あたりには沈黙だけしかない。
「……これ、私のっ!!」
名も無き妖怪はその三冊の本をぎゅっと抱きしめると、先ほどまで悲嘆に暮れていたのも忘れたかのように、満面の笑顔で住処へと帰って行くのだった
「……もう人間に奪われないように、大切にしなさいな」
手探りでどこからか本を取り出し、隙間に放り込んだ紫は、にこやかに笑って隙間を閉じた。
「何をしたんですか、紫様」
「ちょっと妖怪助けを」
情況が掴めずに疑問符を出している藍に目もくれず、紫はうん、と背伸びをする。
「今日はひとつ善行を行ったし、これで気持ちよく寝られるってものね」
「お願いだから寝ないでください紫様っ!!早く隙間を閉じに行ってくださいよぅ!!」
「……そうでしたわね。まぁ気分もいいし、さっさと済ませちゃいましょうか……どっこいしょっと」
掛け声と共に隙間に乗る紫。
「……年寄り臭いですよ紫様」
「……『弾幕結界』」
「ま、ままま待ってください紫様、今の発言は撤回しますからそれだけはかんべ……はうっ!!」
無数の弾幕に囲まれ悲鳴を上げる藍。
……幸福と不幸の境界はここなのかもしれない。
……いや、名無しと言う妖怪じゃない。名前がわからないだけだ。
誰も彼女の名前を知らないし、本人もど忘れしてるっぽいんで取り合えず名無しなり、Jane Doeとでも呼ぶしかないわけで。
まぁ今はなんと呼ぼうが一緒だが。今彼女はズタボロで、返事をする余裕などなさそうだから。
「酷いよ……何もここまでしなくても」
森の中、木陰で傷ついた体を休めながら呟く。
そもそも、彼女の持っていた本を人間が奪ったことが不幸の始まりだった。
たかが人間とたかをくくっていたのがまずかったか、けちょんけちょんにのされて、大事にしていた本を奪われたのだった。
本は数ヶ月前に拾った物。内容はわからないけど、なんとなく気に入ってた物だけに、あきらめきれずに後を追いかけたのだが……。
そこで別の人間にまたしてもボッコボコにのされ、この状態というわけである。もちろん本は取り戻せていない。
「あの本、気に入ってたのに……大切だったのに……」
本を奪われたことが悲しくて、本を奪った人間が憎くて、それを取り戻せない自分が情けなくて、すべてが悔しくて、彼女はぽろぽろと涙を零した。
あの本は数ヶ月前、彼女が森の中で見つけた物。住み家の側にぽつんと落ちていたので拾ったのだ。
「非ノイマン型計算機の未来」というタイトルのその本、内容はさっぱりわからなかったが、そんなことはどうでもよかった。
この本を読んでいるだけで、なんとなく賢くなったような気がする……そんな感じが幸せだっただけだから。内容を楽しんでいたのではなく、スタイルを楽しんでいたのだ。
「返してよ、私の本返してよ……」
雪の残る森の中、名も無き妖怪はただ一人泣き続けていた。
その頃、八雲邸では……
「紫様、聞いているんですか!?」
「ええ、聞いているわよ」
苛立った表情の八雲藍と、生返事を返しながら隙間を覗いている八雲紫。
「幻想郷に開けた隙間を閉じろ、でしょ?」
「そうです、わかっているなら早くかかってください。この前から博麗神社のおめでたいのがうるさいんですから」
「そうなの?私は初耳だわ」
「そりゃそうでしょう。紫様はここ数ヶ月寝っぱなしでしたから」
以前紫が戯れに開けた幻想郷とあっちの世界……要するにわれわれの世界……との境界の隙間はいまだ閉じられていない。閉じられていない理由は……
「でもなんか気乗りしないのよね」
「散々寝ておいて言うことがそれですか!?」
まったく、とでも言うかのように天を仰ぐ藍。
「とうとうこの前実力行使されました。おかげで橙も私も目も当てられない状態にされたんですから」
「あらあら、あのおめでたいのも結構短気なのね」
「紫様がのんきすぎるだけなんです!!そんなことだからおばさんとか言われ……」
「……藍、今なんて言ったのかしら?」
うっかり口を滑らせた藍に、紫はにっこり笑いながら振り返る。
……もちろん目は笑っていないのだが。
「いいい、いえ、な、なんでもありません、何も言ってないですから弾幕結界は勘弁してください」
「……まぁいいわ。今は勘弁してあげる」
そう言って、紫は先ほど覗いていた隙間に再び目を向ける。そこには森の中、泣き続ける一人の妖怪が映っていた。
「……しょうがないわね」
ため息をつきつつ、紫は別の隙間に手を突っ込み、なにやらごそごそ手探りする。
「同じものは出せないけど、まぁ代わりになるものでも……」
「はぁ……
どれほど泣き続けただろうか。名も無き妖怪は赤くなった目を擦って立ち上がった。
「……帰ろう」
泣いてもあの本は帰ってこない。なら忘れるしかない。そう考え、住処へ帰ろうとした時だ。
ぼすっ、ぼすっ、ごつん!
「はうっ!!」
頭に強い衝撃を三連発で受け、名も無き妖怪はつんのめって雪の中に顔から突っ込んだ。
「うう、何よ今のは?」
コブのできた頭をさすりつつ、妖怪は頭に落ちて来た物の正体を確認する。
「本?」
それは本。それも分厚くて読み応えの有りそうな古びた本だった。
名も無き妖怪はあわてて辺りを見回す。だが辺りには誰もいない。森の中にいるのは彼女ただ一人。
「これ、貰っていいのかな?」
その言葉に返事を返すものなどいない。
「貰っちゃうからね。もう返せといわれても無駄だからね!」
そう叫んでも、あたりには沈黙だけしかない。
「……これ、私のっ!!」
名も無き妖怪はその三冊の本をぎゅっと抱きしめると、先ほどまで悲嘆に暮れていたのも忘れたかのように、満面の笑顔で住処へと帰って行くのだった
「……もう人間に奪われないように、大切にしなさいな」
手探りでどこからか本を取り出し、隙間に放り込んだ紫は、にこやかに笑って隙間を閉じた。
「何をしたんですか、紫様」
「ちょっと妖怪助けを」
情況が掴めずに疑問符を出している藍に目もくれず、紫はうん、と背伸びをする。
「今日はひとつ善行を行ったし、これで気持ちよく寝られるってものね」
「お願いだから寝ないでください紫様っ!!早く隙間を閉じに行ってくださいよぅ!!」
「……そうでしたわね。まぁ気分もいいし、さっさと済ませちゃいましょうか……どっこいしょっと」
掛け声と共に隙間に乗る紫。
「……年寄り臭いですよ紫様」
「……『弾幕結界』」
「ま、ままま待ってください紫様、今の発言は撤回しますからそれだけはかんべ……はうっ!!」
無数の弾幕に囲まれ悲鳴を上げる藍。
……幸福と不幸の境界はここなのかもしれない。
個人的には良かったと思います。