Coolier - 新生・東方創想話

呼魂の絆

2004/02/11 10:07:43
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 ――春まだ来 深き眠りの褥にて。
 ――其は幼かり 妖し夢なり。




 広大な庭の樹々に、土に、足音が吸い込まれてゆく。
規則正しく、ゆっくりとした足音。そして、ぱたぱたと軽く不規則な足音が続く。
少女は近づいてくる足音に気づくと、大樹を見上げるのを止め、振り返った。
痩躯の老人と、老人の腰丈ほどしかない幼子がそこに居た。

 「その子は?」
桜花をあしらった着物に身を包んだ少女は、老人の連れた幼子を見て問うた。
「私の弟子です。今日から、私と同じ離れに住み込みで修行致しますので、ご挨拶をと」
「弟子……って、お庭の?」
「両方ですよ、嬢」
庭師である老人は、腰の差料を叩いてみせた。剣士――それが、老人のもう一つの顔である。

 「その子、女の子じゃないの」
「剣の道に男も女もありません。物の用に立てばよいのです」
丁寧だが折れぬ物言いに、老人の頑固さが窺えた。
「でも、こんなに幼い子を?」
「これぐらいから鍛えないと、物にはなりません」
老人は直截に言い放つと、傍らに立つ小さな弟子に目をやり、云った。

 「この方が、我らのお仕えする西行寺家の主、幽々子様だ。ご挨拶しなさい」
老人が幼い少女を促す。おかっぱの頭がぺこり、と下げられ、滑らかな黒髪が流れた。
「妖夢、です。幽々子さま、よろしくおねがいします」
あどけなくもかしこまった挨拶に、幽々子と呼ばれた歳若き主は、こぼれるように微笑んだ。

 「幽々子よ。よろしくね、妖夢」
ふわり、と幽々子の背後が揺らめく。それはまるで――
――蝶々、みたい。
少女は、魂を引かれたように、幽々子の姿を見た。




 妖夢は、泣いていた。
眼前には、鬼。
「立て」
銀髪の鬼が、杖を突き付け云った。
立てそうになかった。足が痛い。いや、痛まない箇所などなかった。
「刀を取れ」
首を振った。掌の皮が剥け、血が滲んでいた。長く力を入れ過ぎた指が、細かく震えていた。
「まだ終わっておらぬ。立て」
涙目を持ち上げる。薄ぼやけた視界の中で、鬼はどこまでも厳しくこちらを睨んでいた。

 「妖忌」
よく通る澄んだ声。
込められた非難の調子にも顔色を変えることなく、銀髪の老人は杖を妖夢に突き付けたまま、声の方を見た。
あからさまな怒りを瞳に湛えた幽々子が居た。
「今、稽古の途中です。用事なら後にして下さい、嬢」
主従として最低限の礼儀は弁えつつも、口調には普段の柔和さは欠片もない。冷酷な剣士のそれだった。

 だが幽々子も引き下がらない。
「もういいでしょう。妖夢は女の子なのよ」
「剣の道に男も女もない、そう申し上げた筈です」
にべもなかった。幽々子は耳を貸さず、妖夢に歩み寄ると、手を差し出す。
「いらっしゃい、妖夢。手当てしなくちゃ」
「まだ稽古は終わっていません。お下がりください」
妖忌の頑迷な物言いに、幽々子の眉がつり上がる。

 「私はあなた達の主よ。稽古は終わり」
「我ら師弟の稽古は、御役目果たすに必要なこと。嬢といえど、口出しは無用に願います」
互いに譲らぬ視線の応酬が、しばし続いた。
――もう、やだ。もうやめて。
剣の稽古も辛い。目の前でお師匠さまとけんかする幽々子さまを見るのも辛い。
でも、どうすればいいのか判らない。か細い腕に何の力もなく、涙は止まらなかった。

 「――――」
妖忌が、幽々子から視線を外し、刀代わりの杖を下げた。そのまま、二人に背を向け去ってゆく。
その背中を睨んでいた幽々子が、ふ、と息をつく。妖夢に向き直ると、涙で濡れた妖夢の頬を優しく拭った。
「さ、いきましょう妖夢。稽古は終わりだって」
連日の光景だった。妖夢が動けなくなるまで稽古を続ける妖忌を、幽々子が止める。
放っておけば妖忌が稽古を続けるのは疑いなく、妖夢にとって幽々子の厚情は正に天の救いに他ならなかった。

 だが、妖忌に打ち据えられ、そして幽々子に庇われる度、胸が痛む。
その痛みが何なのか、妖夢には判らず、ただその原因である刀が厭わしかった。
――何で、刀を持たなきゃいけないんだろう。
幽々子の手当を受けながら、妖夢は屋敷に来て以来何度となく繰り返した疑問を心中呟いた。




 「終わりだ。明日は朝から出かける。躯を休めておけ」
唐突な妖忌の言葉に、妖夢はしばし返事を忘れた。見れば、妖忌は既に杖を後ろ手に納めている。
慌てて納刀し、一礼する。背を向け去る妖忌を見ながら、妖夢は不安になった。
立ったまま稽古を終えられた事などついぞなかった。喜んでもいい筈だったが、妖忌の言葉が引っかかる。
躯を休めておけと云うからには明日の外出、物見遊山でない事だけは確かだった。
気鬱が、溜息になって出た。そしてその溜息は、薄紙一枚隔てた部屋にいた幽々子にも届いた。

 明けて早朝。妖夢の寝所の襖を開けた妖忌はしばし考え、本屋敷にある幽々子の寝所へと向かった。
襖越しに声を掛ける。だが応えはなく、黙って襖を開けた妖忌は、そこで妖夢の寝所と同じ光景を見た。
寝所はどちらも無人だった。
――さて、嬢にも困ったものだ。今日の儀式を済ませねば、妖夢もここに居られんというのに。
頭を振って嘆息し、襖を閉めようとして、片隅に落ちている何かが目に入る。
それを手に取った妖忌は顔色を変えるや、寝所を飛び出した。
それは、妖夢が普段身につけている御守りであった。

 早朝の濃い霧をかきわけ泳ぐように、屋敷から離れてゆく人影が二つ。
「あの、幽々子さま」
「なぁに、妖夢」
「どこへ行くんですか」
妖夢は不安げな面持ちで訊いた。幽々子は、んー、と指をおとがいにあてて宙を見上げ、
「妖夢は、どこへ行きたい?」
と訊き返した。

 「何か用事があるんじゃなかったんですか」
「別に。ただ、妖夢と一緒にお出かけしたいな、と思って」
そう云って、幽々子は楽しそうに笑った。
妖夢は呆気に取られた。そんな理由でお師匠さまとの約束を反古にすることになるとは。
「あの、困ります。わたし、今日はお爺……お師匠さまとの約束が」
「だからよ」
ふっと、幽々子の顔から笑みが消えた。
「今日、妖忌と出かける約束だったの、聞いたわ。だから、連れ出したの」
云いながら、幽々子は妖夢の肩に手を置く。そして、瞳を覗きこむようにして云った。

 「だって、酷いじゃない、妖忌ったら。毎日毎日妖夢を苛めて」
当の妖夢が驚くほど、憤慨した口調だった。
「今日だって、きっと外で稽古するつもりだったに違いないわ。お庭だと私が止めに入るから」
拳を握らんばかりに、だから妖夢を連れ出して困らせてやるの、と力強く宣言する幽々子を、
妖夢は茫然と見ていた。
――なんだか幽々子さま、いつもと違う。
幽々子の物言いは全く子供のそれであり、歳相応の考え方だった。だが、普段妖忌から
自分を庇ってくれる姿しか知らなかった妖夢にとっては、今の幽々子こそ意外だった。

 「――何か可笑しい? 妖夢」
「え、あれ? わたし、笑ってますか」
覚えず、笑みがこぼれていたらしい。幽々子が顔を赤らめて怒る。
「酷い、私が妖夢を心配して云ったのに、笑うなんて」
「そんな、幽々子さまのことを笑ってるんじゃないです」
「嘘。そんなに楽しそうに笑って。妖夢も意地悪だわ。妖忌に似たのかしら」
唐突に矛先の向いた幽々子の怒りに戸惑いながらも、妖夢は自分の胸の内に湧き出るものを感じていた。
――なんで、わたし笑ってたんだろう。なんで、怒られてるのにうれしいのかな。




 ――かつーん。
堅い木の棒で石を突くような音。
「いけない、妖忌だわ。妖夢、こっち」
幽々子が妖夢の手を引いて駆け出す。
「あのっ、幽々子さま」
「いいから、早く!」
腕を引かれるまま、息を切らせて走った。方向も何も考えず、ただ、繋いだ手の感触だけを頼りにして。
荒くなる呼気だけが耳に響き、音から遠ざかっているのか、ただ聞こえなくなっているのかも判らない。
どれほど走った頃か、終にどちらともなくへたり込んだ。
「音、が、聞こえない。もう、大丈夫、ね」
息を弾ませつつ云う幽々子に、妖夢が尋ねる。
「と、ところで、ここ、どこですか」

 「――何処かしら」
周囲は果ても見えぬほどに樹々が立ち並び、薄暗い。
屋敷の庭に似ているが、違うのは漂う陰気な雰囲気だった。屋敷の裾野に広がる森である。
だが、そもそも屋敷から出歩くことの殆どない二人にそれが判る道理はなかった。
「どうしましょう、幽々子さま」
「どう、って……まぁ、なんとかなるわよ、多分」
頼りない応えだった。

 ――かつーん。
聞こえる筈のない音に、二人の躯が固まった。
「嘘――もう追いつかれたの?」
「もう止めましょうよ幽々子さま。お爺ちゃんにあやまって……」
音がゆっくりと二人に近づいてくる。
「ちょっと待って。この音――なに?」
「なにって、杖の音……」
「ここ、土よ。石畳じゃないわ」
云われて気づく。この森の中で、杖の音が響く筈がない。音の主は妖忌だと疑わなかった。
ではこれは一体、誰。
――かつーん。かつーん。
樹々に谺し、四方八方から迫り来る音に、二人は思わず身を寄せ合った。

 朧な輪郭が二人の眼前に現れる。
杖を手にした和装の立ち姿は、どことなく妖忌に似ていなくもない。
だが、持っている杖は妖忌のものとは異なり、身に纏う黒い着物にも覚えがなかった。
それが、僧の纏う墨染衣であることを、二人は知らない。
奇妙なことに、服装が判るほどに近づいても、その者の顔は杳として窺えなかった。

 「誰」
問い掛ける幽々子の声があからさまに硬い。僧形の人影は、無言のまま杖を一つ突いた。
――かつーん。
鳴るはずのない音。杖の音ではない。この人影が「鳴って」いるのだ。妖夢が、幽々子の袖口を握り締めた。
「大丈夫よ妖夢、心配ないから」
視線を人影から外さず、幽々子が笑う。妖夢が屋敷に来てよりこの方見たこともない、不敵な笑みだった。

 「応える気はない、ってこと。それじゃ『こちら』に来てもらえば素直になるかしら」
云いながら懐より取り出した扇を広げる。
「妖夢、下がってて」
妖夢が慌てて袖を離し、背後に下がる。背中越しにでも、幽々子の掲げた扇に何かが集まってゆくのが
はっきり判る。その圧迫感は、稽古で妖忌が見せる剣気とは明らかに違う。
まるで、魂そのものに重圧を掛けられるような。正面で対峙すれば、ひとたまりもなく昏倒してしまうだろう。
――幽々子さま、一体何をしようとしてるの。

 それは、妖夢が屋敷に来てより、幽々子が久しく使っていなかった『力』だった。
いや、使おうとしなかった、というべきか。さしたる理由などなく、ただ、妖夢には見せたくない、と思った。
だが、今自分達の眼前に立ち、妖夢を怯えさせているこの人影相手に『力』を振るうことに、
何の躊躇いもなかった。
「初めまして、誰かさん。そしてさようなら。たとえ誰であっても、亡霊になってしまえば我が西行寺の客人。
つもる話は屋敷でゆっくり伺いましょう。それじゃ」
散る花と戯れるような調子で、扇を人影に向け軽く振るった。

 瞬間。
文字通り、魂消るほどの轟風。思わず妖夢が尻餅をつく。
収束した『力』が風を巻いて人影に襲い掛かった。
人妖を問わず魂を容易く躯からはじき出す程の霊圧を前に、人影は杖を無造作に持ち上げると、
石突きを『力』に向けた。
――かつーん。
ひときわ高い音が響き渡る。幽々子の唇から声が漏れる。
「……嘘」
人影は、何事もなかったかのようにそこに佇立していた。




 耳が痛いほどの静寂。
轟然たる風が揺らした筈の樹々すら、人影の杖のもたらした沈黙の前に、かさりとも云わず。
そして妖夢は、事の成り行きを茫然と見守るのみであった。
幽々子が何かとてつもない力を放ったことは判った。自分はもとより、妖忌であっても凌げたかどうか。
だが、それを眼前の人影は、杖一つでかき消した。
――怖い。
震える躯を押さえようとする両の手すらもがくがくと揺れ、自分のものではないように思える。

 「こんな事――ありえない!」
歯噛みした幽々子が、再び『力』を振るおうと扇をかざす。人影が杖を持ち上げる。
再び扇が振るわれる。今度は、杖を軽く地面に突いただけで打ち消された。
三度、一扇。またも、一杖のもとに消える。
「くっ!」
躍起になって扇を振るう幽々子。だが、その度に杖が鳴り、もはやそよ風も疾らなかった。
そして幽々子の知らぬ間に、人影との距離だけが縮まっていた。
幽々子がそれに気づいたとき、墨染を纏った手がすっと幽々子に伸びた。
扇を持った華奢な手を、節くれた指が掴む。

 「は、離し――て」
抵抗すると見えたのはほんの一瞬、幽々子の躯より力が抜け、漲っていた気も散じた。
「ゆ、幽々子さま!?」
妖夢には、幽々子が人影に捕えられ、気を失ったかと見えた。
震える躯を叱咤し、立ち上がろうとしたとき、幽々子が妖夢へと振り向く。
「幽々子――さま?」
光が、ない。
いつも優しかったあの瞳に。

 幽々子の背後の人影が杖を持ち上げる。まるで繰り糸を手繰られたかの如く、幽々子の扇が持ち上がる。
――ぞくり。
背筋を貫く悪寒。動かぬ躯でそれでも咄嗟に横ざまに飛び退くことが出来たのは、普段の稽古の賜物であろう。
数瞬前に妖夢の居た場所を、颶風が走り抜けていった。
「幽々子さまっ!」
幽々子が妖夢へと向き直る。妖夢の叫びは、おそらくは聞こえていまい。
――嘘だ。
扇が上がる。
――どうすれば。
必死で跳びずさる。またも『力』が空を穿つ。今度はかき消されることのない風が、森全体を轟かせる。
――幽々子さま。
既に声を上げる余裕すらない。嗚咽を噛み殺しながら、逃げ惑った。

――何もできない。幽々子さまを助けたいのに。
――この腕に、力がないから。私が、弱いから。
――力が、欲しい。
――刀が、欲しい。

 そして幾度目かの風が足首を払い、妖夢は地べたに転がった。
――かつーん。
人影が、喜びにうち震えるように鳴り響く。かろうじて向けた眼の端に、幽々子の扇が翻るのが見えた。
――ごめんなさい、幽々子さま。
「ごめんなさい――お爺ちゃん」
風が、吼えた。思わず目を瞑った。
森が轟く。鋼を断ち割るような甲高い音が響き、躯を貫く衝撃が――来なかった。


 「馬鹿者。師匠と呼べ、と云っておろうが」


 妖夢は、泣いていた。
眼前には、鬼。
「立て、妖夢」
銀髪の剣鬼が、角を人影に突きつけながら、背中越しに云った。
痛まない箇所などなかったが、それでも立った。
「刀を取れ」
首を一つ縦に振り、鬼の腰にある小太刀を受け取った。震える指で、鞘を払った。
「我らの働き、見せるは今ぞ。甲斐性見せい」
涙目を袖口で拭う。滲んだ視界の中で、鬼の背はどこまでも優しく、大きかった。




 「お師匠さま」
「油断するな、妖夢」
妖忌は、いつもの杖を構えていた。先刻の風を、この杖で斬ってみせたのか。
改めて師の業前に感嘆する。
「あれが嬢を操っておる。あれを斬れば、嬢は正気に戻る」
妖忌は杖を構えたまま、僧形に向け顎をしゃくった。妖夢もこくり、と頷く。
「儂が嬢を抑える。妖夢、その間にあれを斬れ」
幽々子の扇がひらりと返る。
「行け!」
業風、一扇。それを、妖忌が手にした杖で縦真っ向に斬り裂く。妖夢は、弾かれたように背後から跳び出した。

 跳び出した妖夢の方へ僧が向き直る。
――やはり、狙いは妖夢か。
普段肌身離さず持たせている御守り。それを落とした為に、あれが妖夢の魂の匂いを嗅ぎつけたのだろう。
それでも常ならば、桜の季節でもない限り動けぬ筈だが。
――嬢が妖夢を好いておるが故か。皮肉な。それにしても、よりによって今日の此の日にとは。
僧より僅かに遅れて、幽々子も妖夢へと向き直ろうとする。

 「嬢、御無礼仕る!」
云いながら杖で撃ちかかった。幽々子が扇をかざして受ける。正しくは、扇に纏った『力』で受け止めた。
そのまま扇を払いざま『力』を放つ。妖忌が下がりながらそれを横薙ぎに斬る。衝撃に杖が軋む。
――そう何度も持たんか。
魂魄の宝刀「楼観」ならば、幾度斬ろうが刃こぼれ一つせぬだろうが。
――今ここに無い物ねだっても詮無いことよ。
幸い、幽々子の放つ『力』は、僧が操っているためか一拍遅れる。受け切るだけの隙はあった。
そして、幽々子を操っている間、僧は無防備になる。その隙を突けば――。
――判るな、妖夢。

 妖忌の背後を跳び出した瞬間、僧がこちらを向くのが見えた。咄嗟に鞘と刀身を交差して構える。
だが、衝撃は来ない。見れば、妖忌が幽々子に撃ちかかっている所だった。
――そうか。
幽々子さまはあいつに操られている。つまり、あいつと幽々子さまは別々には動けない。
構えを解くと、一直線に僧へ向かって走り込んだ。
――幽々子さま、必ず助けます!

 僧の杖が鳴り響く。妖夢が振るった小太刀が受け止められた。
そのまま押しこまれるより速く妖夢が引く。同時に妖忌の杖が僧の頭上へ唸る。
幽々子の扇が庇うようにそれを止める。扇が『力』を放つより速く、横合いより妖夢が僧の懐へと踏み込み、
低い姿勢から撥ね上げるように小太刀を振るう。
僧の杖はかろうじて間に合ったが、幽々子が『力』を放つ機は失われた。
緩急相交えて隙を突く小太刀に、真っ向一閃断ち割る剛刀。二人の師弟が入れ替わり見せる剣筋は、
本来一人が遣う「魂魄二刀」の型であった。二人でありながら一人としてしか動けずにいる僧と幽々子に対し、
二人が一人であるかの如く振舞う師弟の剣は、地力の不利を覆し、着実に対手を追い詰めていた。

 幾合かの撃ち合いの果て、終に妖忌の逆袈裟が、幽々子の扇を高く撥ね上げた。
大きく体勢を崩した幽々子。二の手は、ない。
「今ぞ!」
「はいっ!」
幽々子を操ればその隙に妖夢の小太刀が届き、幽々子を操らねばそのまま妖忌の返し刃が襲う必勝の間合い。
――獲った!
そう二人が確信した瞬間。

 「よう、む」
幽々子の唇より漏れた言葉に、妖夢の小太刀が毫ほどの間止まった。
繰り糸が切れたように、幽々子の躯から力が抜け、その場にくず折れかける。
「幽々子さまっ!」
「妖夢、いかん!」
妖忌必死の叫びも届かばこそ。妖夢は幽々子を支えようと駆け寄り――。
その襟首を、僧の手がしっかと掴んでいた。




 ――しもうた!
心中叫びながらも脳天に向け振り下ろした妖忌の杖は、しかし僧の片手の杖に容易く受け止められた。
転瞬斬り返す手は、途中でぴたりと止まった。いや、止めざるを得なかった。
杖の前には、僧の片手にぶら下げられた愛弟子の姿。何時縊られてもおかしくない。
僧は、音もなく妖忌の間合いより離れた。
そも有利になればこそ操っていた幽々子を、不利な状況下で操っている理由などなく、だからこそ
あれは、絶妙の機を狙って嬢を開放したのだ。そしてその策は図に当たった。

 「ん……よ、妖夢」
崩れるように座り込んでいた幽々子の目蓋がゆっくりと開く。
幽々子は、未だ夢醒めやらぬといった風情で視線を彷徨わせ、僧に囚われた妖夢を見つけた。
「……妖夢! 妖夢っ!」
「――ゆ、ゆこ、さま」
白く細い喉首を掴まれた状態で、それでも妖夢は幽々子に応じようとする。
「くっ!」
「嬢、無駄です。あれに嬢の力は届かんでしょう」
扇を振るおうとした幽々子を妖忌が制止する。それにこの状況で幽々子が力を振るえば、
妖夢を巻き込まずにはおかないだろう。
「でも、だったらどうしたら! こんな、こんなのって――」
「う……む」
涙交じりの幽々子の叫びに、妖忌は応える術もなく、墨染の異形を睨みつけるのみであった。

 息が苦しい。冷たい指が喉に食い込んで、頭が熱くなる。そんな状態にあっても、視線は幽々子を探した。
こちらに向かって叫んでいる顔が目に入る。何を云っているかは聞こえずとも、その瞳に、光る涙に、
幽々子が正気を取り戻したことは判った。
――よかった。いつもの、優しい幽々子さまだ。
「に、げて、ゆゆこ、さま」
「! ……馬鹿なこと云わないで!」
切れ切れに妖夢の口から漏れる言葉に、幽々子は泣きながらかぶりを振った。

 妖夢の躯から力が抜け、小太刀の鞘が掌より滑り落ちた。
――やっと、わかった。
掴まれた首筋からすうと何かが抜けていくような感覚。

――わたしは、稽古が嫌だったんじゃない。
――幽々子さまに守ってもらっている、弱い自分が嫌だった。
――今だって、お爺ちゃんに守ってもらわないと全然だめで。
――こんなに弱いわたしだけど。
それでも、幽々子の涙を見て思う。

――わたしはずっと、幽々子さまを守ってあげたい、と思っていたんだ。

 ――かつーん。
僧の高鳴りに合わせるように、妖夢の躯より白い靄のようなものが立ち昇ってゆく。
妖夢の魂であった。全てが抜けきったとき、妖夢は物云わぬ骸となろう。
「そんな――だめ、だめぇっ!」
幽々子が妖夢の元に走る。
――幽々子さま、来ないで。また捕まっちゃう。
薄れゆく意識で、それでも妖夢は幽々子を押し留めようと。
僅かに残った力を振り絞り、手にある小太刀を握り締め。
己が喉笛を、掴まれた手首ごと、突いた。

 ――ぴしっ。
枝をへし折るような音。
貫いたのは、人としての迷い。現世への未練。ただ、主の為のみを思って突かれた白楼の小太刀。
人の妄執を喰らう墨染の手が、爆ぜた。
妖夢の躯が地面に落ちるより速く。
「失せい、化け桜!」
神速の踏み込み。妖忌渾身の片手斬りが、僧の頭蓋より臍中までを断ち割った。
――ばしぃっ!
生木の裂けるような音を立てて、僧の姿は霧散した。




 白い首筋に小太刀を突き立てたまま、妖夢は横たわり。
幽々子がその傍で泣きじゃくっていた。
「ばか、ばか、妖夢のばか。なんで、何でこんなこと――」
「妖夢は護衛のお役目を立派に果たしました。褒めてやって下され」
「褒めてなんてあげない! わたしの云う事も聞かないで、勝手なことして――」
妖忌の言葉に、幽々子は振り絞るように叫んだ。呼ばれたかのように、妖夢が薄く目を開ける。

「ゆ、ゆこ、さま、無事、ですか」
残った空気を吐き出すようにぽつりぽつり呟く妖夢。
「ばかっ、無事なもんですか。妖夢が、あなたが死んだりしたら、金輪際無事なんかで済まないんだから。
だから、逝っちゃだめっ」
云いながら妖夢の手を握り締める。華奢で小さな掌に、僅かに残った温もりを、決して離すまいと。

 妖忌は、幽々子の周囲を包む靄に気づいた。まるで泣く赤子をあやすように、包み込むように。
――魂がまだ抜けきっておらん。嬢が、繋ぎとめておるのか。
おそらくは無意識であろう、死に誘う力――呼魂の力――が、躯を抜けようとする妖夢の魂を掴んで離さず、
か細い命脈を保っている。
驚いた。妖忌の知る限り、幽々子の力がこのように振るわれたことは嘗てなかった。
――斯程に強い絆があろうとは。これも運命、か。

 妖忌は幽々子と向かい合うように妖夢の傍に座ると、着物の前をはだけた。
「ちょっと妖忌、何を――まさか」
「ご心配なく、ここで腹掻っ捌いて死ぬ、なんて不作法は致しません。ただ、たった今この場で、
本日予定していた儀式を執り行うだけです」
当初の考えとは少し違うが、むしろこの方が――嬢が見ているほうがいい。

 妖忌は、妖夢を仰向きにさせると、頭を支えて、片手を刺さったままの小太刀に掛けた。
「嬢、妖夢を離さないでいて下さい」
幽々子は真剣に一つ頷くと、改めて妖夢の手を強く握る。
妖忌は、ゆっくりと小太刀を引き抜いた。不思議と血は一滴も流れない。

 「妖夢」
その声は剣鬼のそれではなく、老爺が優しく孫を呼ぶものだった。
――おじいちゃん。
妖夢は瞑目したままだが、その魂の震えが声となって伝わる。
「よう頑張った。少し早いが、これでお前は正式な魂魄の跡取りだ。末永く、幽々子様にお仕えするのだぞ」
云いながら、妖忌は小太刀を己の腹に突き立てた。
やはり血は流れることなく、代わりに白く濃い靄がたゆたう。
靄は幽々子の周り、妖夢の魂を取り囲むようにしばし漂うと、やがて妖夢の魂と絡み合うようにして流れ、
妖夢の躯の上ひと所に集まった。

 妖忌の朗々たる声が響く。
――魂と魄 人と妖 共にこの躯得て一つとなせ
――其は 現の世にて観る 妖しの夢なり
――汝 名は『魂魄 妖夢』
詠唱に合わせ、絡み合った妖夢と妖忌の魂は、次第に喉の傷へと吸い込まれていく。

 「嬢、妖夢の名を呼んで」
妖忌の言葉に、祈るように目を閉じていた幽々子が、精魂込めて呼びかける。
「起きなさい、妖夢。あなたは西行屋敷の庭師。そしてわたしを守ってくれる最高の剣士」
「起きて、妖夢。魂魄妖夢!」

 「妖夢!!」




 ゆっくりと目を開いた。
最初に、涙でくしゃくしゃになった幽々子が目に入った。
――幽々子様。
そして、少し疲れた顔で、それでも優しく微笑う妖忌の姿。
――お爺様。
不思議な感覚。躯が、己のもので無いように軽い。そして、躯の外にもう一つ己があるような。
「幽々子様、ご無事ですか」
はっきりと声に出した。自分の声のような、そうでないような響き。
「大丈夫よ。妖夢のおかげね」
「涙をお拭き下さい。端正なお顔が台無しです」
手を伸ばして幽々子の顔を拭こうとする。白くわだかまる靄のようなものが、幽々子の顔を撫でた。
「しばらくは操るが難しかろうが、すぐに慣れよう」
妖忌が云った。それは妖忌の魂の半分が絆となって繋ぎとめている、妖夢の魂の半分であった。
「やあね、何だか急に大人びちゃって」
幽々子が涙を払いながら笑う。躯に入った妖忌の魂の影響だった。

 幽々子に支えられ、躯を起こした。さらりと揺れた髪もまた、煌く銀糸に変わっている。
妖忌が腹の傷にさらしを巻いていた。自分の喉に手をやる。傷はなかった。
「御師匠様、申し訳ございません。ご迷惑をお掛けしました」
「よい。弟子に先行かれそうになった不甲斐ない師よ。これ位せずして何とする」
これで、執り行うべき儀も済んだ。もうこの子が冥界を歩もうと、喰われる気遣いはない。
「今日のお前の剣は良かった。あの気概を忘れず、修行に励め」
「はい。これからも、ご指導よろしくお願いします」
「ん。今しばらく、眠るがいい」
「はい」

 幽々子が眠る妖夢を負って、白玉楼の階段を上ってゆく。
その後姿を眺めながら、妖忌が続く。
――まるで。
「まるで、仲の良い姉妹みたいね」
「これは――八雲様。いつの間に」
豪奢な洋装に日傘を携えた、少女とも熟女ともつかぬ雰囲気を持った女性が妖忌に並んで歩いていた。

 「私はいつでもどこにでも居るわ――なんてね。あなたが約束を守らないなんて珍しいから、
様子を見に来たのよ」
「御無礼お許しを、八雲様」
律儀な物言いに、八雲と呼ばれた女性は少し眉根を寄せる。
「別にいいわ。それより八雲様は止めて。紫でいいって云ってるのに」
「は」
「でも、何とかなってよかったわね」
「御覧になられたので」
「あなたが割腹するあたりから、ね」
滅多に見られるものじゃないわ、と紫は笑った。

 「結界でも張ろうかと思ったけど、必要なさそうだったし。一応辺りの邪気払いだけさせて貰って、
あとは見物してたわ」
「申し訳無い、紫様のお手を煩わせてしまって」
「いいのよ。元々そういう予定だったんだし。それに――」
幽々子のことは他人事じゃないし、と紫は云って、石段の先を歩く幽々子を見上げた。

 「でも、これでいいの? いくら冥界暮らしが長くても、魂の半分をあの子にあげてしまったら、貴方は」
「そうですな。そう長くは屋敷には居られんでしょう」
妖忌はさらりと云う。
「ですが、丁度いい。小煩い爺は隠居してもいい頃合だ。跡取りもできた。もう暫くは鍛えなきゃならんが」
「幽々子をおいて行く気?」
「嬢にはあれがいますよ」
非難げな紫の眼差しに、幽々子に負われて眠る少女を顎で指す。
「嬢もあれを好いておるようだ。きっと善くしてくれるでしょう」

 刺した白楼の感触を思い出すようにさらしを巻いた腹を撫で、妖忌は続ける。
「儂の眼の黒いうちに、この皺腹掻っ切っても惜しくないと思えるものを得た。それで、十分です」
「そう。でも行くときは一声かけてね。もう旧い知り合いは少ないんだから」
「承知しました。紫様も――」
そう云って妖忌が隣を見るより早く、紫は消えていた。
一息ついて顔を上げると、仲睦まじい姉妹二人の背中の向こうに、西行屋敷の門が見えてきた。


 ――背にし負う 浅き眠りの おさな夢 見るは幽雅の 姫桜なり。


 老人が屋敷を人知れず去り、半身幽霊の少女が老人の跡を継いで亡霊の姫に仕えるのは
もう暫く先のことである。
さてさて。
まずは、ここまで読んで戴けた方に、厚く御礼申し上げます。その上で、深くお詫び申し上げます。
「脳内設定にも程がある」御尤もなお怒りかと存じます。書き手もこんなになると思ってませんでした。

この脳内スパイラル、根源は「妖夢は本来人間、後天的な人造ハーフである」という超絶脳内設定に
端を発しております。無計画に書き始めるとこうなるという、いい見本でございます。
説明不足な設定が各所に散見され、お見苦しいこと甚だしいかと存じますが、一つ一つ説明するのも
恥の上塗り、ここは一つ笑い飛ばして戴ければ幸甚にございます。

それにしても、そもそもの書き始めは「どうして白楼剣には鞘が無い(ように見える)のか」だった筈なのに、
何故ゆえこうなったのやら。

罵倒一言レス大歓迎、何卒忌憚なきご意見戴きたく。
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コメント



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8.80rock削除
最高です。
21.80名無し削除
爺さんカッコいいぜ。紫との会話が旧友ではなく男女のそれに見えてちょっと萌え。
23.80絵利華削除
最高ですね。紫様に関する記述があれでしたけど(笑
53.80名前が無い程度の能力削除
確かにちょっとだけ設定に無理なところはあったかもしれませんけど(ちょっとだけですよ?)、それでも全然楽しめました。むしろこの程度の点数しか入っていないのが不思議なくらいです。妖忌カッコいいよー。
69.100名前が無い程度の能力削除
なにこれすごい
とても良い読了感でした