眼を開けると、木造の天井が見えた。
ぼんやりと薄汚れたそれを眺める。眺めながらはて、と思った。
一体此処は何処だろう。
1/
例えばその少年が怯えていたのなら、その恐怖をゆっくり味わってから食べたであろう。
例えばその少年の瞳に嫌悪が浮んでいたのなら、さっさと殺して食べたであろう。
例えばその少年が殺意を向けてきたのなら、存分に愉しませてもらってから食べたであろう。
――だが。
この場合は一体どうすればいいのか。
八雲紫は困惑していた。
目の前の少年の瞳には怯えも嫌悪も殺意も浮んでいない。只々(ただただ)真剣な表情で紫を見ている。
紫はゆっくりと首を振った。
どうすれば善いのか思いつかぬ。この状況は紫の理解の範疇(はんちゅう)を超えている。
だから、もう一度確認のため――と云うより聞き間違えであってくれと云う願いを込めて――聞き返した。
「御免なさい、もう一度云ってくれるかしら」
はいッ――と少年は妙に気合の入った声を上げ、
「僕と、結婚してください!」
高々とそう宣言した。
いとも簡単に願いは砕かれ、紫は頭を抱えた。
発端はついさっきの事である。
ここ、妖怪や鬼、そして僅かばかりの人間が共存する幻想郷と、人間が治める人間界との間には結界がある。結界は博麗大結界と呼ばれ、古くは妖怪を人間界に出さぬよう、今では逆に幻想郷へ人間を招かぬようにと張られている。
紫の趣味はその結界に揺らぎを作り、迷い込んだ人間の反応を見て愉しむ事だ。
そして先程。
紫の式神である藍が揺らぎから迷い込み気絶していた人間の少年を発見、捕獲し、紫の家に連れ帰って来たのだが――何をとち狂ったのか、目覚めた少年は紫に惚れてしまったらしい。
そして少年は今、紫の目の前で正座している。その顔は何度見ても大真面目である。
――まるで鴨の子供。
何となくそう思った。鴨の子供は卵から生まれて最初に見た者を親と認識すると云うが――人にもそうした特性があったのだろうか。
等とかなり本気で紫が考えていると、少年がおずおずと云った風に声を上げた。
「あの――お返事はその、いかがでしょうか?」
「お返事、と云われましても――」
紫は困惑して少年を見ることしか出来ない。どう見ても――残念ながら――冗談を云っているようには見えぬ。ならば矢張り本気なのだろう。
紫は小さく溜め息を吐いた。
「――理由を聞かせて貰えませんか? 何故、私とその――結婚したいと?」
「愛に理由が必要でしょうか?」
そう云い切られてしまうと、紫としてはどうしようもない。恋愛と云う事柄自体、紫には理解し難いのだ。
ですが――と少年は紫の眼を真っ直ぐ見ながら言葉を紡ぐ。
「敢えて云うならば、僕は――ええと、お名前を聞いて宜しいですか?」
「八雲紫です」
「紫さん――善い名前です。僕は木国友彦と云います」
どうぞ宜しくお願いします、と少年はぺこりと頭を下げた。はあ、と釣られて紫も頭を下げる。
会話が止まった。
「―――その、それで?」
「それで? ああ、はい、それでですね。僕は――紫さんに一目惚れしてしまったのです」
「一目惚れ、ですか」
紫は首を傾げる。一目惚れ、とは矢張り一目見て惚れると云うことなのだろうが――初めて会った人物に対して好意を通り越し愛情を抱く、等と云う事が在り得るのだろうか。
はい、と友彦は照れたように頷く。
「紫さんの笑顔が、僕の胸をドキュンと貫いたのです」
「どきゅん?」
「その瞬間僕は悟ったのです。この人こそが、僕の人生を賭ける人だと!」
友彦は熱く語る。何故か胸の前に握り拳まで作っている。
「貴女が望むならば、僕はこの身を粉にする事すら厭いません。貴女が呼べば、僕は何処へなりとも直ぐに馳せ参じましょう。貴女が喜ぶのであれば、僕はどんな苦行をも成し遂げましょう。ああ、貴女への愛の力があれば、僕に出来ない事はないのです――!」
紫は――矢張り理解出来なかった。呆然と熱に浮かされたような少年の顔を眺める。
さっぱりである。少年の言葉は最早異世界の言語の様でさえあった。
紫が何も云えずに居ると、友彦は熱から冷めたようにはっと握り拳を下げた。
「あ――その、すいません!」
頭を床に打ち付けるような勢いで、少年はがばッと頭を下げる。びくり、と紫は面食らって身を硬直させた。完全に少年の雰囲気に呑まれている。
「その、僕、ちょっと調子に乗り過ぎる嫌いがありまして、そうなっちゃうと自分でも訳の判らない事を口走ってしまうんです。友達にはデンパとか云われてて、僕も治そうとは思ってるんですけど――あのお気に触ったならどうか、その、申し訳ありませんです」
平身低頭して詫びる友彦に、紫はどうしたものかと額に手を当てた。
もう何だか面倒になってきた。少年が何故謝っているのかもよく解らないし、愛やら結婚やら本当に意味不明だ。
――さっさと殺して、食べちゃおうかしら。
それが一番手っ取り早いように思える。ふう、と溜め息を吐いて紫は心を決めた。
「――怒ってはいませんから、面を上げて貰えませんか?」
おずおずと友彦は顔を上げる。こうして『食べ物』として見ると、この少年は中々に美味しそうである。少々肉付きは少ないが、可愛らしい顔立ちは気に入った。さて、どう料理しようか―――。
それで、その――紫の考えは露とも知らず、友彦はきりりと表情を引き締める。
「お返事を――頂けるでしょうか?」
「返事――?」
調理方法に没頭していた紫は、一瞬会話の流れを見失った。直ぐにどう云った『返事』かを思い出す。
「――ああ、はい。そうね―――」
――断ってみたら、この少年はどんな顔をするのだろうか。
その考えに、紫は少し興味を惹かれた。
激怒するのか。それとも絶望の虚(うろ)を見せてくれるのか。
この子ならどちらかと云えば後者かしら――等と考えながら、紫は口を開いた。
「申し訳ないのだけれど――お断りさせて頂けるかしら」
云いながら――紫はじっくりと友彦の表情を眺める。
その答えに少年の顔は一瞬泣きそうなほどに歪み、
「そう――ですか」
そしてゆっくりと――微笑んだ。
それは悲しみも苦しみも絶望も無理矢理に押し込めたような――そんな微笑み。
「お時間取らせてしまって――すいませんでした。でも、僕の話を真面目に聞いて答えを出してくれたのは、紫さんが初めてでした。本当に、嬉しかったです」
有り難うございます、と友彦は頭を下げ、立ち上がった。そのまま紫に背を向けて、戸口へ向かう。
紫は動かない。今見せたこの少年の少年らしくない表情が何故か酷く――癇に障った。
「――待ちなさい」
気がつけば、紫は友彦を呼び止めていた。
友彦は振り返る。その顔は矢張り微笑んでいる。それが、気に喰わない。
己でもよく解らぬ衝動に突き動かされ、紫は言葉を紡ぐ。
「結婚の事は確かにお断りしましたが――それは当然でしょう。私は初めて出会った貴方の事など何も知らないし、興味もありません。そんな方と結婚出切る訳がない。だから――」
紫はそこで一旦言葉を切る。至極真面目な表情で友彦と視線を合わせた。
「私はこの時間――夜が更けた頃ならば、大抵ここに居ます」
「―――え?」
「私に興味を持たせて御覧なさいな。貴方が本当に、私と結婚したいのならば。努力次第では――考えを改めない事もありません。友彦さん――で宜しかったかしら?」
友彦は驚いたように紫を凝視し――顔をくしゃりと歪めて本当に嬉しそうにはい、と笑った。
とりあえず上体を起こす。途端、頭がずきりと痛んだ。
ああ、そうか、とその痛みで思い出した。自分は確か、山に登っていて――それで、足を滑らしたのだ。
幸いそれほど急斜面ではなかったが、それでも転がって、頭を何か硬いものにぶつけて――そこで記憶は途切れている。
2/
「紫様! ご婚約おめでとーございま―――ふぎゃッ」
諸手を挙げて開口一番、寝惚けた事を云い出した橙を紫はぽかりと殴りつけた。それほど力を込めた訳ではなかったのだが、橙は頭を抱えて床に蹲(うずくま)る。
やれやれと云った風に藍は額に手を当て、いいのですか、と紫に問うた。
「あの子を帰してしまったこと?」
「はい。もう冬も近いですし――僭越(せんえつ)ながら食料の貯蓄は多いに越した事はないかと」
「まあ――あの調子ならあの子は遠からずまたここに来るでしょうしね。食料にするかどう如何かはその時に決めるわ」
「御意」
「駄目ですッ」
蹲りながらも二人の会話は聞いていたのか、橙は勢いよくがばりと起き上がる。呆気に取られた紫と藍ににじり寄り、指を一本立てて口早に捲くし立て始めた。
「いいですか! これは千載一遇のチャンスです。紫様に彼氏、ないし夫ができるんですよ! 女の幸せ、これ、結婚です! しかも中々人間にしておくには勿体無いほどいい子だったじゃないですか。だから紫様もあの子を見逃したんでしょう? 流石は紫様、お目が高いです! あれはきっと尽くすタイプですよー!」
本格的に頭が痛くなったのか、藍はこみかめを指で抑えながら深々と溜め息を吐いた。
「――落ち着け、橙。今お前が云ったように、あの少年は人間だ。対して我々――紫様は妖怪だぞ? 婚姻など出きる訳がなかろう。大体、あれが『いい子』か? 私にはどちらかと云えば――少し足りない子に見えたが」
そんなことはないですッ――と橙は更にずずいと詰め寄る。
「愛があれば年の差も種族も妖怪も人間も関係ありません! それにあの子はいい子です! 今時『愛』だの『結婚』だの『一目惚れ』だの、そんな小っ恥ずかしい単語を臆面もなく云える面の皮! 紫様のためなら何でも出切ると云い切る電波――もとい従順さ! これがいい子でなくて何だって云うんですかッ!!」
「いや――お前も十分愛だの何だの云ってないか? と云うかそれ、実はお前馬鹿にしてるだろう」
「違いますッ! 藍様は解ってません! 全然、ぜーんぜんわかってませ―――ふぎょッ」
「―――いいから、貴女は少し黙ってなさい」
鉄拳制裁。今度こそ昏倒した橙を尻目に、紫は疲れたように溜め息を吐いた。
隣で同じ様に溜め息を吐いていた藍は、何故か心配そうに紫を見つめる。
「? どうしたの?」
「いえ――」
困ったように藍は顔を曇らせ、
「――橙の云い分ではありませんが、何故あの少年を見逃したのですか?」
そう云って探るように紫の顔を見た。
何故だろう、と紫は考える。見逃す意味は、確かになかった。友彦はまた来るとは云っていたが、それとて確実ではない。殺して夕飯――ないし冬への食料に取っておくのが最良であっただろう。なのに、
――あの顔。
苛々した。あれは、あんな表情は子供のする顔ではない。
「――紫様?」
藍が首を傾げる。紫は思考を打ち切った。
「戯れよ」
「戯れ――ですか」
「ええ。冬にはまだ遠い。暇つぶしのままごと程度にはなるでしょうから、ね」
そう云って、紫は嗤った。とりあえずの理由はそれで善い。
そうですか、と藍は安堵したように息を吐く。
「ふふ。私が本気で人との結婚を考えているとでも思った?」
「いえ、そうは思いませんでしたが――ただ、古今人と妖怪との婚姻が上手くいったと云う話は聞きませんから」
「そうなの?」
「はい。昨今では人と人の婚姻でさえ上手くいく例は少ないようです」
ふうん――と紫は興味があるのかないのか微妙な声を上げ、思案深げに俯いた。
「私はそもそもその――結婚と云う事自体がよく解らないのだけれど。藍は解るかしら?」
は――と藍は首を捻る。
「私もそう詳しいと云う訳ではないのですが――確か、夫婦となることを互いに誓う儀式だったかと。ここで云う夫婦とは、交尾――失礼、まぐわう事を主目的とした、男女の間柄でしょうか」
「ふむ。じゃああの子は私と夫婦になりたい――つまり、私とまぐわいたい、と云っているの?」
「はあ。確かに人間は年中発情期だと云いますが、それにしては少々幼すぎたような感もします。まあ――最近の人間はまぐわう事をしない夫婦も居る、と云う話もある事にはありますが」
「それでは本末転倒じゃないのかしら?」
まぐわう、と云う事は、子を成す、と云う意味だろう。その行為は別に間違った事ではない。と云うより、生物としては当然の行為である。
つまり人の結婚――夫婦とは、動物の番(つが)いと同じ様なものなのだろう――と紫は解釈したのだが、番いであるのに子を成さぬのなら、それは番いである意味がない。子を成さぬ動物の番いなど聞いた事がない。
ならば――前提から間違っているのか。
ううん――と藍は混乱したように呻く。
「私が人間の結婚――夫婦の意味を履き違えているのかもしれません。どうにも、彼らは複雑怪奇ですから」
「つまり、解らないって事ね」
「申し訳ございません」
藍は頭を下げる。
「まあいいわ。機会があれば、あの子に聞いてみるのも面白いかもしれない」
そう云って紫は微笑む。
冬までの暇つぶし。面白い事は多いほうが善い。
御意、と藍は頷いた。
橙はまだ床で伸びていた。
それから――友彦は毎日毎夜紫の家に押しかけて来た。
来る度に何かしらの贈り物。
お菓子。花束。綺麗な小石。玩具。学校で作ったとか云う奇妙な工作物。本。ゲエム。
閑散としていた部屋が贈り物で埋まっていく。
紫は元来不要なものは身近に置かない主義だったが、不思議と悪い気はしなかった。
人界の物は皆目新しく、面白かった。
いつの間にやら――友彦は橙と藍とも打ち解けていた。
特に橙は友彦の事をかなり気に入っているようで、共に夜の森へ散歩に繰り出す事もしばしばである。
まるでそれは親友のように。家族のように。
仮令それがままごと遊びだとしても。
友彦は違和感なく八雲紫家に溶け込んでいた。
だから紫も――冬が来るまでは友彦をどうこうするつもりはなかった。
冬が来た時のことは考えていなかった。冬が来た時に考えれば善い、と思った。
愉しい時間は疾く過ぎ去る。
冬はもう、すぐそこまで来ていた。
――だと云うのに。
終わりは冬を待たずしてやってきた。
ぼんやりと薄汚れたそれを眺める。眺めながらはて、と思った。
一体此処は何処だろう。
1/
例えばその少年が怯えていたのなら、その恐怖をゆっくり味わってから食べたであろう。
例えばその少年の瞳に嫌悪が浮んでいたのなら、さっさと殺して食べたであろう。
例えばその少年が殺意を向けてきたのなら、存分に愉しませてもらってから食べたであろう。
――だが。
この場合は一体どうすればいいのか。
八雲紫は困惑していた。
目の前の少年の瞳には怯えも嫌悪も殺意も浮んでいない。只々(ただただ)真剣な表情で紫を見ている。
紫はゆっくりと首を振った。
どうすれば善いのか思いつかぬ。この状況は紫の理解の範疇(はんちゅう)を超えている。
だから、もう一度確認のため――と云うより聞き間違えであってくれと云う願いを込めて――聞き返した。
「御免なさい、もう一度云ってくれるかしら」
はいッ――と少年は妙に気合の入った声を上げ、
「僕と、結婚してください!」
高々とそう宣言した。
いとも簡単に願いは砕かれ、紫は頭を抱えた。
発端はついさっきの事である。
ここ、妖怪や鬼、そして僅かばかりの人間が共存する幻想郷と、人間が治める人間界との間には結界がある。結界は博麗大結界と呼ばれ、古くは妖怪を人間界に出さぬよう、今では逆に幻想郷へ人間を招かぬようにと張られている。
紫の趣味はその結界に揺らぎを作り、迷い込んだ人間の反応を見て愉しむ事だ。
そして先程。
紫の式神である藍が揺らぎから迷い込み気絶していた人間の少年を発見、捕獲し、紫の家に連れ帰って来たのだが――何をとち狂ったのか、目覚めた少年は紫に惚れてしまったらしい。
そして少年は今、紫の目の前で正座している。その顔は何度見ても大真面目である。
――まるで鴨の子供。
何となくそう思った。鴨の子供は卵から生まれて最初に見た者を親と認識すると云うが――人にもそうした特性があったのだろうか。
等とかなり本気で紫が考えていると、少年がおずおずと云った風に声を上げた。
「あの――お返事はその、いかがでしょうか?」
「お返事、と云われましても――」
紫は困惑して少年を見ることしか出来ない。どう見ても――残念ながら――冗談を云っているようには見えぬ。ならば矢張り本気なのだろう。
紫は小さく溜め息を吐いた。
「――理由を聞かせて貰えませんか? 何故、私とその――結婚したいと?」
「愛に理由が必要でしょうか?」
そう云い切られてしまうと、紫としてはどうしようもない。恋愛と云う事柄自体、紫には理解し難いのだ。
ですが――と少年は紫の眼を真っ直ぐ見ながら言葉を紡ぐ。
「敢えて云うならば、僕は――ええと、お名前を聞いて宜しいですか?」
「八雲紫です」
「紫さん――善い名前です。僕は木国友彦と云います」
どうぞ宜しくお願いします、と少年はぺこりと頭を下げた。はあ、と釣られて紫も頭を下げる。
会話が止まった。
「―――その、それで?」
「それで? ああ、はい、それでですね。僕は――紫さんに一目惚れしてしまったのです」
「一目惚れ、ですか」
紫は首を傾げる。一目惚れ、とは矢張り一目見て惚れると云うことなのだろうが――初めて会った人物に対して好意を通り越し愛情を抱く、等と云う事が在り得るのだろうか。
はい、と友彦は照れたように頷く。
「紫さんの笑顔が、僕の胸をドキュンと貫いたのです」
「どきゅん?」
「その瞬間僕は悟ったのです。この人こそが、僕の人生を賭ける人だと!」
友彦は熱く語る。何故か胸の前に握り拳まで作っている。
「貴女が望むならば、僕はこの身を粉にする事すら厭いません。貴女が呼べば、僕は何処へなりとも直ぐに馳せ参じましょう。貴女が喜ぶのであれば、僕はどんな苦行をも成し遂げましょう。ああ、貴女への愛の力があれば、僕に出来ない事はないのです――!」
紫は――矢張り理解出来なかった。呆然と熱に浮かされたような少年の顔を眺める。
さっぱりである。少年の言葉は最早異世界の言語の様でさえあった。
紫が何も云えずに居ると、友彦は熱から冷めたようにはっと握り拳を下げた。
「あ――その、すいません!」
頭を床に打ち付けるような勢いで、少年はがばッと頭を下げる。びくり、と紫は面食らって身を硬直させた。完全に少年の雰囲気に呑まれている。
「その、僕、ちょっと調子に乗り過ぎる嫌いがありまして、そうなっちゃうと自分でも訳の判らない事を口走ってしまうんです。友達にはデンパとか云われてて、僕も治そうとは思ってるんですけど――あのお気に触ったならどうか、その、申し訳ありませんです」
平身低頭して詫びる友彦に、紫はどうしたものかと額に手を当てた。
もう何だか面倒になってきた。少年が何故謝っているのかもよく解らないし、愛やら結婚やら本当に意味不明だ。
――さっさと殺して、食べちゃおうかしら。
それが一番手っ取り早いように思える。ふう、と溜め息を吐いて紫は心を決めた。
「――怒ってはいませんから、面を上げて貰えませんか?」
おずおずと友彦は顔を上げる。こうして『食べ物』として見ると、この少年は中々に美味しそうである。少々肉付きは少ないが、可愛らしい顔立ちは気に入った。さて、どう料理しようか―――。
それで、その――紫の考えは露とも知らず、友彦はきりりと表情を引き締める。
「お返事を――頂けるでしょうか?」
「返事――?」
調理方法に没頭していた紫は、一瞬会話の流れを見失った。直ぐにどう云った『返事』かを思い出す。
「――ああ、はい。そうね―――」
――断ってみたら、この少年はどんな顔をするのだろうか。
その考えに、紫は少し興味を惹かれた。
激怒するのか。それとも絶望の虚(うろ)を見せてくれるのか。
この子ならどちらかと云えば後者かしら――等と考えながら、紫は口を開いた。
「申し訳ないのだけれど――お断りさせて頂けるかしら」
云いながら――紫はじっくりと友彦の表情を眺める。
その答えに少年の顔は一瞬泣きそうなほどに歪み、
「そう――ですか」
そしてゆっくりと――微笑んだ。
それは悲しみも苦しみも絶望も無理矢理に押し込めたような――そんな微笑み。
「お時間取らせてしまって――すいませんでした。でも、僕の話を真面目に聞いて答えを出してくれたのは、紫さんが初めてでした。本当に、嬉しかったです」
有り難うございます、と友彦は頭を下げ、立ち上がった。そのまま紫に背を向けて、戸口へ向かう。
紫は動かない。今見せたこの少年の少年らしくない表情が何故か酷く――癇に障った。
「――待ちなさい」
気がつけば、紫は友彦を呼び止めていた。
友彦は振り返る。その顔は矢張り微笑んでいる。それが、気に喰わない。
己でもよく解らぬ衝動に突き動かされ、紫は言葉を紡ぐ。
「結婚の事は確かにお断りしましたが――それは当然でしょう。私は初めて出会った貴方の事など何も知らないし、興味もありません。そんな方と結婚出切る訳がない。だから――」
紫はそこで一旦言葉を切る。至極真面目な表情で友彦と視線を合わせた。
「私はこの時間――夜が更けた頃ならば、大抵ここに居ます」
「―――え?」
「私に興味を持たせて御覧なさいな。貴方が本当に、私と結婚したいのならば。努力次第では――考えを改めない事もありません。友彦さん――で宜しかったかしら?」
友彦は驚いたように紫を凝視し――顔をくしゃりと歪めて本当に嬉しそうにはい、と笑った。
とりあえず上体を起こす。途端、頭がずきりと痛んだ。
ああ、そうか、とその痛みで思い出した。自分は確か、山に登っていて――それで、足を滑らしたのだ。
幸いそれほど急斜面ではなかったが、それでも転がって、頭を何か硬いものにぶつけて――そこで記憶は途切れている。
2/
「紫様! ご婚約おめでとーございま―――ふぎゃッ」
諸手を挙げて開口一番、寝惚けた事を云い出した橙を紫はぽかりと殴りつけた。それほど力を込めた訳ではなかったのだが、橙は頭を抱えて床に蹲(うずくま)る。
やれやれと云った風に藍は額に手を当て、いいのですか、と紫に問うた。
「あの子を帰してしまったこと?」
「はい。もう冬も近いですし――僭越(せんえつ)ながら食料の貯蓄は多いに越した事はないかと」
「まあ――あの調子ならあの子は遠からずまたここに来るでしょうしね。食料にするかどう如何かはその時に決めるわ」
「御意」
「駄目ですッ」
蹲りながらも二人の会話は聞いていたのか、橙は勢いよくがばりと起き上がる。呆気に取られた紫と藍ににじり寄り、指を一本立てて口早に捲くし立て始めた。
「いいですか! これは千載一遇のチャンスです。紫様に彼氏、ないし夫ができるんですよ! 女の幸せ、これ、結婚です! しかも中々人間にしておくには勿体無いほどいい子だったじゃないですか。だから紫様もあの子を見逃したんでしょう? 流石は紫様、お目が高いです! あれはきっと尽くすタイプですよー!」
本格的に頭が痛くなったのか、藍はこみかめを指で抑えながら深々と溜め息を吐いた。
「――落ち着け、橙。今お前が云ったように、あの少年は人間だ。対して我々――紫様は妖怪だぞ? 婚姻など出きる訳がなかろう。大体、あれが『いい子』か? 私にはどちらかと云えば――少し足りない子に見えたが」
そんなことはないですッ――と橙は更にずずいと詰め寄る。
「愛があれば年の差も種族も妖怪も人間も関係ありません! それにあの子はいい子です! 今時『愛』だの『結婚』だの『一目惚れ』だの、そんな小っ恥ずかしい単語を臆面もなく云える面の皮! 紫様のためなら何でも出切ると云い切る電波――もとい従順さ! これがいい子でなくて何だって云うんですかッ!!」
「いや――お前も十分愛だの何だの云ってないか? と云うかそれ、実はお前馬鹿にしてるだろう」
「違いますッ! 藍様は解ってません! 全然、ぜーんぜんわかってませ―――ふぎょッ」
「―――いいから、貴女は少し黙ってなさい」
鉄拳制裁。今度こそ昏倒した橙を尻目に、紫は疲れたように溜め息を吐いた。
隣で同じ様に溜め息を吐いていた藍は、何故か心配そうに紫を見つめる。
「? どうしたの?」
「いえ――」
困ったように藍は顔を曇らせ、
「――橙の云い分ではありませんが、何故あの少年を見逃したのですか?」
そう云って探るように紫の顔を見た。
何故だろう、と紫は考える。見逃す意味は、確かになかった。友彦はまた来るとは云っていたが、それとて確実ではない。殺して夕飯――ないし冬への食料に取っておくのが最良であっただろう。なのに、
――あの顔。
苛々した。あれは、あんな表情は子供のする顔ではない。
「――紫様?」
藍が首を傾げる。紫は思考を打ち切った。
「戯れよ」
「戯れ――ですか」
「ええ。冬にはまだ遠い。暇つぶしのままごと程度にはなるでしょうから、ね」
そう云って、紫は嗤った。とりあえずの理由はそれで善い。
そうですか、と藍は安堵したように息を吐く。
「ふふ。私が本気で人との結婚を考えているとでも思った?」
「いえ、そうは思いませんでしたが――ただ、古今人と妖怪との婚姻が上手くいったと云う話は聞きませんから」
「そうなの?」
「はい。昨今では人と人の婚姻でさえ上手くいく例は少ないようです」
ふうん――と紫は興味があるのかないのか微妙な声を上げ、思案深げに俯いた。
「私はそもそもその――結婚と云う事自体がよく解らないのだけれど。藍は解るかしら?」
は――と藍は首を捻る。
「私もそう詳しいと云う訳ではないのですが――確か、夫婦となることを互いに誓う儀式だったかと。ここで云う夫婦とは、交尾――失礼、まぐわう事を主目的とした、男女の間柄でしょうか」
「ふむ。じゃああの子は私と夫婦になりたい――つまり、私とまぐわいたい、と云っているの?」
「はあ。確かに人間は年中発情期だと云いますが、それにしては少々幼すぎたような感もします。まあ――最近の人間はまぐわう事をしない夫婦も居る、と云う話もある事にはありますが」
「それでは本末転倒じゃないのかしら?」
まぐわう、と云う事は、子を成す、と云う意味だろう。その行為は別に間違った事ではない。と云うより、生物としては当然の行為である。
つまり人の結婚――夫婦とは、動物の番(つが)いと同じ様なものなのだろう――と紫は解釈したのだが、番いであるのに子を成さぬのなら、それは番いである意味がない。子を成さぬ動物の番いなど聞いた事がない。
ならば――前提から間違っているのか。
ううん――と藍は混乱したように呻く。
「私が人間の結婚――夫婦の意味を履き違えているのかもしれません。どうにも、彼らは複雑怪奇ですから」
「つまり、解らないって事ね」
「申し訳ございません」
藍は頭を下げる。
「まあいいわ。機会があれば、あの子に聞いてみるのも面白いかもしれない」
そう云って紫は微笑む。
冬までの暇つぶし。面白い事は多いほうが善い。
御意、と藍は頷いた。
橙はまだ床で伸びていた。
それから――友彦は毎日毎夜紫の家に押しかけて来た。
来る度に何かしらの贈り物。
お菓子。花束。綺麗な小石。玩具。学校で作ったとか云う奇妙な工作物。本。ゲエム。
閑散としていた部屋が贈り物で埋まっていく。
紫は元来不要なものは身近に置かない主義だったが、不思議と悪い気はしなかった。
人界の物は皆目新しく、面白かった。
いつの間にやら――友彦は橙と藍とも打ち解けていた。
特に橙は友彦の事をかなり気に入っているようで、共に夜の森へ散歩に繰り出す事もしばしばである。
まるでそれは親友のように。家族のように。
仮令それがままごと遊びだとしても。
友彦は違和感なく八雲紫家に溶け込んでいた。
だから紫も――冬が来るまでは友彦をどうこうするつもりはなかった。
冬が来た時のことは考えていなかった。冬が来た時に考えれば善い、と思った。
愉しい時間は疾く過ぎ去る。
冬はもう、すぐそこまで来ていた。
――だと云うのに。
終わりは冬を待たずしてやってきた。