まえがき。
生死に関わる話が苦手な人は避けた方がいいかも知れません。多分そういう話ですので・・・
でも誰も死にませんのでそこら辺は大丈夫です(・∀・)
あと、やたら長いので一気に読もうと思わず休み休み読む事をお勧めします。
目が悪くなってからじゃ音速が遅いですよ?
それではこの下からどうぞ。
「鬼神『飛翔毘沙門天』!」
春を迎えたあの世に元気な声がよく響く。
妖怪の式の式、橙は自分の主人である藍と共にここ白玉楼に来ていた。
藍がここに来た目的は、自分の式である橙をいじめたという人間に仕返しをするため。
だがその相手の人相がわからず、とりあえず暴れていれば何事かと思って来るだろうという無茶な理由から好き勝手に暴れ、
案の定なのか奇跡的なのかとりあえず人間たちはやって来た。
橙が『私も行く』と言い出したのはちょうどその時だ。
『藍さま、私も行く』
『お前はここにいろ。何者かは知らないが、相手が誰だろうと私がやっつけてやるから』
『だけど、イジメられたのは私だもん。仕返しするなら私がしたい』
『・・・私の近くにいて力が強くなっているとはいえ、それでもその人間たちに勝てるという保証はあるのか?』
『・・・・・・毘沙門天』
『何・・・!?』
『これならあの人間たちにも勝てるから。お願い!』
『お前にはまだ無理だ・・・あれを憑けるにはお前の器はまだ小さすぎる、下手をすれば力が暴走しかねないぞ』
『でも、憑ければ勝てる』
『・・・・・・・・・絶対に無茶はするな。絶対だぞ』
『うん、ありがとう藍さま・・・・』
白玉楼のずっと奥に控えながら、藍は橙の事をずっと心配していた。
橙の使う『飛翔毘沙門天』は、藍が使う『憑依荼吉尼天』を真似て作ったものだ。
高位の神の力を借り、その一部を憑ける術で術者への負担は当然大きい。
その『飛翔毘沙門天』、藍が試しに憑けてみた時でさえ使用後は強い脱力感を覚えたほどだ。
まだ未熟な橙にはこの力を憑ける事さえできないはずである。
だが、それでも藍は心配だった。万が一あの力を憑けてしまったら・・・そして力の制御ができなかったら・・・
「無茶はするなよ・・・橙・・・・・」
下手に手助けをすれば橙のプライドが傷つく、だからといって見捨てる事もできない。
今の藍には橙の無事を祈るくらいしかできなかった。
「ナウマク、サマンダボダナン、ベイシラマンダヤ、ソワカ!・・・・さあ、いくよっ!」
戦勝の功徳があるという毘沙門天の真言を唱え、橙が勢いよく回りだす。
白玉楼を狭しと渦を巻いて飛び回るその姿は、この世のあらゆる邪鬼を滅殺せんと奮闘する軍神・毘沙門天の姿そのものだった。
人間たちは慌てない。渦を巻く橙の動きに惑わされる事なく、弾と弾のすき間をかいくぐり、橙の動きを止めようとありったけの得物を叩き込む。
巫女の格好をした少女は大小のお札を。
魔女の格好をした少女は砲弾のような『何か』を。
メイドの格好をした少女は青と赤のナイフを。
それぞれがそれぞれの撃ちたいように撃っていく。橙の体がそれに長く耐えられるはずもない。
(何でっ・・・何で当たらないのっ・・・・・!!?)
『飛翔毘沙門天』の動きは、橙の身体能力を大きく上回るものだった。
それが短時間なら耐えられるが、肉体の限界を超えた動きをずっと続け、しかも弾幕を張る。
激しい体力の消耗と攻撃のダメージによる痛みから、橙の中から余裕があっという間に消え去ってしまう。
「うぐっ・・・・ああぁぁぁぁぁぁっ・・・・・・!!!!」
決め手となったのは顎に直撃した力あるお札か、腹に何度も叩き込まれた緑色の魔弾か、肩を射抜いた一本のナイフか。
ともあれ、それらを同時に受けた橙は弾を撃つ事も飛ぶ事さえもできなくなり、石段へまっ逆さまに落ちていった。
「さて、どの辺がほやほやだったのかしらね」
「長居は無用だぜ、死んだ猫が化けて出てくる」
「非常識なくらい広い庭だからね、こんな所で油を売ってる暇はないわ」
朦朧とする意識の中で、橙は三人の人間が余裕たっぷりに話しているのを聞いた。
自分が命を削る思いで本気の勝負を挑んだのに、三人がかりとはいえ軽くあしらわれた・・・橙には屈辱以外の何者でもない。
同じ相手に2度も敗れた(しかも相手は本気を出していない)橙は、体の痛みよりも悔しさばかりが先に募りただひたすら泣いた。
「うっ・・・・うぐっ・・・うっ・・・・うぇぇぇぇ・・・・・藍さまぁ・・・・・」
悔しさの後には藍の事が頭に浮かんできた。
あの時藍に甘えていれば自分は痛い目を見なかったし、こんな悔しい思いをしなくて済んだ。
だが自分の心の中の問題は藍に頼らず自分で解決したかった。
二律背反・・・矛盾する二つの思いの中で橙は大いに苦しみ、一番甘えられる藍の事を何となく思い出し、やはり泣いた。
「藍さまぁ・・・・・ごめんなさい、ごめん・・・なさい・・・・」
泣きはらした後は全身の痛みとの格闘だった。
全身のあらゆる所を撃たれて服も体もボロボロ、酷使しすぎた体が悲鳴を上げ立つ事すらできない。
人間たちを追う事も傷を癒す事もできず、うずくまってひたすら痛みに耐えるしかない。
無茶しちゃったな、と後悔しても遅すぎた。
「うぅぅ・・・・痛いよ、痛いよ、藍さま・・・・・助けて・・・・」
指一本動かしても痛みが走る。いっそ意識を失った方がずっと楽だろう。
そんな事をぼんやりと考えながら藍が来るのを待つ。長いのか短いのよく分からない時間をずっと待ち続け、
それでも藍は来なかった。
藍も、三人の人間を相手に苦戦していた。
自分の主である紫の弾幕を真似た攻撃をいくつも繰り出したが止められない。
橙ではどうあがいても勝ち目がないだろうと悟ったのが『十二神将の宴』を破られた頃、
自分の力だけでは勝ち目がないと悟ったのが『ユーニラタルコンタクト』を破られた頃だった。
「信じられない・・・ここまで強い人間がいるなんて」
幻想郷に住む人間が皆その辺の普通の妖怪に負けない程度の強い力を持っているのは知っている。
だが、藍も自分の力が妖怪の中ではかなり上位にあると自負しているし実際それだけの実力を持っているのだ。
そんな自分をここまで追い詰めている・・・藍は、もしかしたら自分は人妖の境界すらも越えた化け物と戦っているのではないかと考え始めていた。
「だけどね・・・私はまだ終わっちゃいない!急々如律令、式神『橙』!」
護符に妖力を込める。本来なら橙本人を呼び寄せて二人がかりの弾幕を張るのだが、
人間たちがここまで来たという事は橙も倒してきたという事になる。
戦いに敗れてボロボロであろう橙をもう一度呼び寄せるわけはいかない。
だから、橙の姿と動きを真似た全く別の式を橙のコピーとして召喚する。
『橙の姿をした式』はまるで本物のようによく動き弾をばら撒いていく。だが、何かが違う。
コンビネーションのコの字もない・・・・・・藍にはそれがすぐに分かった。
藍と橙は以心伝心、戦いの最中は言葉を使わなくても自分が次に何をすべきか、パートナーが次に何をするかが分かる。
だが、このコピーは橙の『姿と動き』だけを真似たもの。橙の心までは真似できない。だから式は勝手気ままに飛び回る。
それを少しでもサポートしようと藍も弾を撃つが、やはり人間たちを止める事はできない。
「くあっ!」
藍の集中力が途切れ、橙が元の護符の形に戻る。
断末魔の形相を浮かべ、声無き叫びを上げながら消え行く橙のコピー・・・
本物とは無関係の式が消えただけなのに、最期の表情があまりにもリアルすぎた。
(アイツも・・・橙も、きっとこんな顔で苦しんでいるんだ・・・・急がないと・・・)
はらりはらりと舞い落ちていく護符を見て、藍の表情が引き締まる。
もはや一刻の猶予もないはずだ。何としてでも目の前の人間を倒し、今すぐにでも橙の元へ駆けつけなければならない。
「・・・・あんた達はやり過ぎた。こうなったら、この身に神を憑けてでもあんた達を潰す!幻神、『飯綱権現降臨』ッ!」
烏天狗の力を憑け、全ての力を弾幕に込めて叩き込む。
神の力を憑ける術はどれも体力と妖力の消耗が激しく、たいてい追い込まれた時の切り札として使う。
『飯綱権現降臨』は神の力を借りた術の中でも最強クラスで、これを破られればもう後はない。
だからこそ藍は最後の術に全てを賭けた。
「藍さま、早く来て・・・寂しいよぉ・・・・・」
橙は待っていた。
藍が来る事を信じて、ずっと待っていた。
体の痛みは未だに引かない。激しい痛みのあまり痛覚が麻痺するという話をよく聞くが、
少なくとも未だに正気を保っている橙には全く当てはまらない。
「寒いよ・・・怖いよ・・・・怖いよ・・・・・・・藍さまぁ・・・・・」
寒いのは白玉楼がはるか上空にあるからではない。橙の体に血が足りないのだ。
ボロボロの服も、肌も、全て血で紅く染まり、しかし顔だけは青白くなっている。
「藍さま・・・嫌だよ・・・・こんなの、やだよ・・・・・・」
もう動く気力も残っていない。橙に残された道は、誰かに助けられるかこのまま死んでしまうかのどちらかだ。
もちろん、こんな所で死を望むような橙ではない。生と死の境界で誰よりも強く生を望んだ。
「藍さま、もう一度会いたいよ・・・・藍さまの所へ帰りたいよぉ・・・・・」
ドクン。
橙の体が大きく跳ねた。指一本動かせないほど激しく消耗しているはずの橙の体が、だ。
そのタイミングは全くの偶然か、橙の言葉に呼応してのものか。とにかく橙の体に『何か』が起こりつつあった。
「な・・何・・・・?」
ドクン。
再び、体が跳ね上がる。
今度は跳ね上がった体が地に降りる事はなく、ふわふわと宙を漂っている。
だが橙は体を動かせない。腕も脚もだらりと垂れ下がり、糸に吊るされただけのマリオネットのような格好だ。
「いや・・・何これっ・・・・・!」
ドクン。
動かせないはずの腕が動く。いや、動くというより動かされている。
右腕がまっすぐ水平まで持ち上げられ、掌が大きく広げられる。いつも弾幕を張る時の手の構えに近い。
だが無理に体が動いたわけだから、当然その反動は橙に返ってくる。
「痛ッ・・・・」
ドクン。
体の中を何か熱いものが痛みと共に走る。
頭のてっぺんから足の先まで痛みと熱を感じ、右手に向かっていくのを感じる。
この熱い感じを橙は知っていた。
「これ・・・・私の妖気・・・・・?」
妖気とは妖怪にとっての生命エネルギー。エネルギーだから凝縮すれば熱にも物理的な力にもなりうる。
『飛翔毘沙門天』でほとんど妖気を使い果たしたはずなのに、それがどんどん集まってくる。
自分にまだこんな力が残っていたのか、と感心したい所だが、痛みと恐怖が抜けてくれない。
パァ・・・・・・ン
破裂音と共に、強い衝撃が橙の体を後ろへ突き飛ばした。限界まで集束した妖気が掌から放たれたのだ。
色、形、発射方向に何の規則性もない無数の弾がばら撒かれ、着弾点に大小の穴を開ける。
普段の橙ではいくら頑張ってもこれほど殺傷力のある攻撃はできない。
「す、すごい・・けど・・・・・くっ!痛・・・・」
全身に痛みが走る。だが地に降りる事もできない。
そして今度は、左腕が後ろの方へ引っ張られた。
「きゃっ!ヤダ、痛い痛い痛い!!」
声を大にして叫んでも、いくら涙を流しても、後ろに構えられた腕は自分の思い通りに動いてくれない。
そしてまたしても全身を走る熱と痛み。今度は左手に妖気が集まる。
二度目の集束、そして力の解放。首も動かないので後ろの様子が分からないが、爆発音だけははっきりと聞こえる。
またどこかを蜂の巣にしてしまったのだろう・・・数秒遅れて砂煙が舞ってきた。
「やめて・・・・もう動けない・・・動きたくないよ・・・痛いよ・・・・」
それでも容赦なく妖気が搾り取られる。
橙の意志に関係なく体が動き、虚空を彷徨いながら無差別に弾幕を張りまくる。
この弾幕も、妖気の消耗も、体の痛みも、どれも橙にはどうする事もできない。
「藍さま・・・助けて・・・・・・・・・・あ・・・・・いやああああああああああああああっ!!!!」
爆音と砂煙を切り裂くように、橙の悲鳴が響き渡った。
地面に大の字になりながら、藍は橙の悲鳴を聞いた。
彼女もまた、切り札である『飯綱権現降臨』を破られ体力と妖気を消耗していたのだ。
神の力を憑ける術に慣れている事、橙のはるか上を行く実力を持つ事が藍にとっては救いで、辛い事に変わりはないが何とか動く事はできる。
どうにか体を起こし、悲鳴の聞こえた方へゆっくりと飛び立つ。
「橙、待ってろ・・・すぐ行くから・・・・」
橙の周りは既に元の地形を全くとどめていなかった。
無数の弾があらゆる物を貫き、削り、砕き、砂煙を上げ、際限なく荒野を作り出す。
藍が橙の元へ辿り着いた頃には、橙を中心とした巨大なクレーターができているほどだった。
「ぐっ・・・・・・な、なんて妖気・・・本当に橙なのか・・・・!?」
流れ弾、というには弾の密度が高すぎる。全方位に弾幕を展開しているようなものだ。
とにかく自分めがけて飛んでくる大量の弾を捌きながら、藍は橙に少しずつ近づく。
少しずつというのは、藍が消耗していて動きが鈍っているから、というだけではない。
橙から発せられる妖気が半端ではないのだ。消耗しているとはいえ藍の歩みを鈍らせるほど濃密な妖気が漂っている。
並の妖怪、普通の人間では蛇に睨まれた蛙のごとく全身金縛りになってしまいそうなほどのプレッシャーだ。
橙には藍を凌駕するほどの非凡な潜在能力があったのでは・・・とも考えられる。だが、それは違うと藍はすぐに気づいた。
「橙!大丈夫か!」
「あ・・あぁ・・・・藍さま・・・・助け・・・・・て・・・・・・」
「・・・橙・・・・・・!?」
「痛いよ・・・苦しいよ・・・らん、さまぁ・・・・・」
橙の姿は、藍にはとても禍々しく映った。
全身から莫大な妖気が立ち昇り、橙の血を巻き込んで紅い霧を漂わせている。
紅い霧・・・いや妖気は橙の背後で時に鳥か悪魔の翼を思わせる形を取り、時に鬼神の顔のような形に変わる。
だが、藍が最も禍々しいと感じたのは橙の顔だった。
既に生気はなく、瞳は焦点が定まっていない。
口はだらしなく半開きになり、涙と涎が流れた跡がうっすら見える。
まるで死んでいるようにも見えるその顔は間違いなく橙であり、しかし藍の知る橙ではなかった。
「藍さま・・・・・たす・・・けて・・・・」
(あれは・・・まさか、鬼神の力の暴走・・・・橙の体を乗っ取ってる・・・・・!?)
「私の中に・・・誰かいる・・・・・私の中で暴れてるぅっ・・・・・・」
「橙、しっかりしろ!気をしっかり保つんだ!」
「いや・・・ダメ・・・もうやめっ・・・・・・・うわあああああああああああああっ!!!」
またもや爆発的に弾幕が放たれた。
弾が何発か藍の体を掠め、残りの弾は足元のクレーターを一回り大きくしていく。
「くうっ・・・・・!」
「あぅ・・・・も、もう・・・やだぁ・・・・」
(まずいぞ・・・・あれはもう橙の妖気じゃない、橙の『命』そのものを削った弾幕・・・・・何とかしないと本当に橙が・・・)
橙の死という像が藍の脳裏をよぎった。
だがそれは絶対に考えてはならない、避けなくてはならない最悪の事態。
元はといえば、藍が橙に『飛翔毘沙門天』の使用を許した事が始まりだった。
あの時藍が強く出ていたら、橙は『飛翔毘沙門天』を使う事なく戦っていたかも知れない。
仕返しができないと橙は不満がったかも知れないが、少なくとも現状は回避できたはずだ。
命を削られ、涙を流し、苦痛に悶え、それでも必死で藍の名を呼ぶ橙。
後悔だけは次から次へと溢れ出るのに、橙を助ける手立てが思い浮かばない。
(すまん、橙・・・私が愚かなばかりにこんな事に・・・・でも私はどうしたら・・・・)
「・・・・ごめ、んね・・・藍さま・・・・」
橙がつぶやいた。あまりに小さな声だったので、藍も危うく聞き逃してしまうほどだった。
「藍さま・・・私・・・こんな・・・・バカで・・・・ごめんね・・・・・」
「橙・・・・・?」
「私が・・・藍さまの言う事・・・・聞いてれば・・・藍さまを・・・・・困らせなかった・・・・・悲しませなかった・・・・よね・・・・・・・」
「おい、橙・・・何言って・・・・・」
「サヨナラ・・・・・・らん・・・・・さ・・・・ま・・・・・・・・・・」
「・・・・橙・・・・・・!?」
それっきり橙は何も言わなくなった。悲鳴も呻き声も上げなくなったし、涙も流さなくなった。
だが弾幕は止まらない。感情を表す余裕などないくらい橙の命は極限まで削られていたのだ。
「橙・・・・・・謝るのは私の方だ・・・・馬鹿は私の方だ・・・・だけど、だけど・・・・・」
拳を硬く握り締める。爪が皮膚に食い込み、血が流れても構わず握り締めた。
今後悔していたら、これからずっと後悔することになる。だが、今自分にはできる事がある。するべき事がある。
橙の体を乗っ取っている鬼神を祓い、橙を助ける事。今度はそれに全てを賭ける。今ならまだ間に合う。
「・・・・・だけど、お前を護るのは私だ、お前を助けるのも私だ。橙、今行く・・・・・・!!」
橙のそばに近づくのは困難を極めた。
近づけば近づくほど当然弾幕の密度が高くなり、辺りを漂う妖気も濃くなっていく。
見えない壁に阻まれているような感じでなかなか前に進めない上、雨のように弾が降り注ぐ。
一体何発の弾が藍の体を掠め、皮膚を切り裂き、体を叩いたか分からない。
だがそれでも藍は進んだ。歯を食いしばり、まっすぐ橙を目指した。
「ぐぅっ・・・・!・・・・これくらいの痛み、何だっ・・・・・!!」
藍も、あっという間に橙と同じボロボロの体になってしまった。
自慢の九尾はあちこちが焼け焦げ、服も穴だらけ。帽子はいつの間にか吹き飛んでいた。
もはや、藍に暴走した橙の弾幕をまとも防ぐだけの力は残っていない。
だが全身に無数の弾を浴びながらも、橙を護るという強い想いが彼女を奮い立たせ体を動かす。
「橙は・・・橙は・・・・もっと辛いんだ・・・・私がこれくらいで挫けてどうするッ・・・・・・・!」
もはや、藍に暴走した橙の妖気と弾幕は意味を成さなかった。
濃密な妖気の壁に阻まれても黙々と進み、無数の弾に体を打たれても意に介さない。
そしてみるみるうちに二人の距離は縮まり、藍と橙はついに対峙した。
「うぐっ・・・・ち、橙・・・・・・」
呼びかけても橙は応えない。瞳からは光が消え、まるで死んだように白い顔をしている。
だが相変わらず弾幕の嵐が吹き荒れている。まだ橙は死んでいないという事だ。
一安心する藍だが、本当に安心するにはまだ早い。マリオネットのようにぐったりしている橙を藍は優しく抱きしめた。
「うぅっ・・・うああああああああっ・・・・・・!!!」
今の橙を抱きしめるという事は、全ての弾を受け止めるという事になる。苦痛はそれまでの比ではなく、自殺行為にも見えてしまう。
それでも藍は抱き続けた。橙の苦しみを自分も知るため、橙を救うため・・・
「うぐぅぅぅっ・・・・・ち・・橙・・・・聞こえるか・・・・・?」
「・・・・・ぁ・・・・・・・・らん・・・・・・さま・・・・・・・?」
「・・・よかった・・・・・気づいてくれた・・・・」
「やめて・・・・・・・らんさまも・・・・・・・・しんじゃう・・・・・・」
橙の瞳に光が宿った。すぐに消えそうなほど頼りないが、彼女の『生』を示す何よりも確かな光。
そして自分が死の淵に立たされているというのに、橙はまだ藍の事を心配している。
そんな健気な姿を見て、藍はますます橙を強く抱きしめる。
「・・・あっ・・・・・・」
「大丈夫だ、橙・・・・私も・・・お前も・・・死なない・・・・私がお前を護る・・・・・・私がお前を・・・・助ける・・・・・・
信じるんだ・・・お前は死にはしない・・・・お前はここにいる・・・・大丈夫、私もここにいる・・・・・・」
「・・・・・・信じる・・・・・・・・・?」
「そう・・・・私が、そばに・・・いるよ・・・・・・・・」
「藍・・・・さま・・・・・・」
そっと唇と唇を重ね合わせる。
妖怪同士、式を使う者同士、肌と肌を触れ合わせる事で妖気を直に送り込む事ができる。
攻撃のためではなく回復のためで、橙がちょっと無茶をして怪我をした時などは藍が添い寝をして治癒を促したりしたものだ。
そして今。藍がなけなしの妖気を橙に送っている。
どうかこれで目覚めてほしい。生きて二人で帰りたい。私たちは負けない・・・・・・
言葉では言い表せない、万感の思いのこもった口付けだった。
一つの奇跡が起きた。
今まで指一本動かす事もできなかった橙が、両腕を藍の体に回し抱きついたのだ。
それをきっかけに橙の瞳の光が大きく、強くなる。力の抜けた顔がわずかだが引き締まり、歯を食いしばって死に抵抗する。
橙の中の最後の命が、激しく燃え出したのだ。
「くっ・・・・うぅ~~~~っ・・・・・・!!」
「橙・・・・・!?」
「藍さま・・・私、死にたくない・・・・・・・・藍さまと・・・一緒に・・・・いたいよぉっ・・・・」
「がんばれ、橙・・・・自分はここにいる・・・・・そう強く信じるんだ・・・・・・・!」
「強く・・・・信じる・・・・・・・強く・・・・・!」
橙を取り囲む妖気が少し薄れたような気がした。
いや、気のせいではない。橙の背中から生えた紅い悪魔のような翼が、少しずつしぼんでいくのが見えた。
それに合わせて橙から放たれる弾幕も薄れていき、終には全て消え去ってしまう。
藍と橙、二人の強い想いが暴走する鬼神を祓ったのだ。
「・・・橙、大丈夫か・・・・・?」
「藍さま・・・・うん、私・・・もう大丈夫・・・・・ありがとう、藍さま・・・」
「よかった・・・・本当によかった・・・・・・」
「・・・・ごめんなさい、藍さまごめんなさい・・・・・」
「『ごめんなさい』なら後でいくらでも聞いてやる。さあ、帰ろう・・・・・」
「・・・ねえ、藍さま泣いてるの・・・・?」
「馬鹿・・・・これが泣かずにいられるかっ・・・・・」
「あ・・・・・ご、ごめんなさい・・・」
「お前が私の元に帰って来てくれて・・・・それで嬉しいんだ・・・これは嬉し涙なんだからな!」
「・・・・うん・・・・・私も、藍さまの所に帰って来れて嬉しい・・・・・」
「よし・・・・・じゃあ、帰ろう」
「うん・・・」
藍が橙を支え、橙が藍を支えながら白玉楼を後にする。
すっかり春になったあの世の暖かい風が、傷ついた二人にはとても心地よく感じられた。
それから一週間ほど過ぎた。
二人とも完全とは言えないがかなり回復し、いつも通りの日々を送っている。
それこそ橙は今までと全く変わらない調子だが、藍はそんな橙を見て色々心配をする時がある。
気がついたらまた虚ろな瞳でいきなり暴走してしまうのではないか、ちょっと目を離した隙にどこかへ消えてしまうのではないか・・・
(馬鹿馬鹿しい・・・何考えてるんだ私は)
それは杞憂であると信じたかった。
あの一件以来、自分の考えが少し悲観的になってしまっているだけだと考えたかった。
そして実際、橙の屈託のない笑顔を見るたび藍はそんな悲観的な考えを吹き飛ばしてきた。
「ねえ、藍さま」
「・・・・・・」
「藍さまってば!」
「・・・・ん?ああ、何だ?」
「こんなにいいお天気だし、お散歩に行こうよ」
「そうだな・・・裏の山にでも行ってみようか」
今もそうだ。橙の笑顔を見ていると藍の顔も自然に綻んでくる。
橙は藍に多くを教わって育ってきている。だが、実は藍も橙にかなり救われている所がある。
藍の気持ちが後ろ向きになった時、手を差し伸べているのはいつも橙なのだ。
橙に元気付けられるたび、藍は思う。『橙がいてくれてよかった』と。
「ねえ藍さま、早く行こうよ!」
「ははは、分かった分かった」
先に走っていく橙の背中を見ながら、藍は安堵のため息をついた。
マヨヒガの裏山には桜が咲き乱れている所があったりする。
その、桜のトンネルの中を二人は歩いていた。
さすがに白玉楼の桜には負けるが、このピンク色のアーチは見る者全ての心を掴んで放さない。
「・・・・ふわ~」
「いつ見ても素晴らしいな・・・なあ橙?」
「うん、すごい・・・・・」
トンネルの中を歩いていると、ひらひらと桜の花びらが舞い落ちる。空を見上げれば青とピンクのコントラスト、その中を舞う小さな花びら。
いわゆる桜吹雪だが、この儚げな光景は『桜の粉雪』とでも呼んだ方がいいだろうか。
とにかく、この春の名物を見た二人は自然の偉大さに圧倒されっぱなしだった。
「幸せだな・・・・」
「え、何が?」
「こんなに綺麗な桜を橙と二人っきりで見る事ができてさ」
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
「・・・・・・藍さま」
「何だ・・・・・・?」
「・・・・お腹空いた」
「・・・・・・はぁ・・・・・・・・・・」
思い切り深いため息をつく。だがこれが藍と橙の普段の日々、特に気にするほどではない。
「しょうがない、ずいぶん歩いたことだしそろそろ引き返すとするか」
「うん、もうクタクタだよ~」
「帰り道もあるんだぞ?あと半分頑張れ」
「う~」
まだまだ余裕の藍と息が上がりつつある橙。これもまた二人にとってはよくある光景、やはり気にするほどではない。
帰り道は行きの時より少しだけペースが落ちる。ゆっくりでしか歩けない橙の横には、やはり当然のように藍がいた。
「そうだ、橙。ご飯は何が・・・・」
何気なく横を見ると、いるはずの橙がいない。
「・・・あれ、橙?」
辺りを見回しても気配を感じない。
木の陰に隠れているようではなく、そもそも藍が目を離した一瞬の隙に隠れられるはずがない。
物音ひとつ立てず、藍に気配さえも感じさせず、橙は忽然と姿を消してしまったのだ。
「・・・どういう事?・・・・・・・・これじゃまるで神隠しじゃないか・・・・」
その瞬間、藍は閃いた。だがそれは閃きたくない考えだった。
神隠しの名を持つ術の使い手を一人だけ藍は知っている。身近で、しかしなかなか会う機会のない神隠しの主犯。
藍の主人にしてあらゆるすき間を司るすき間妖怪、紫だ。彼女の顔が真っ先に思い浮かんだ。
「まさか紫様が・・・?だけど、なぜ・・・・なぜ橙を・・・・・・?」
なぜ橙が神隠しにあわなければならないのか。橙はどこに行ってしまったのか。神隠しの主犯はどこにいるのか。
何も分からず、何をしたらいいかも分からず、藍はただ途方にくれるしかなかった。
「ん・・・・・・・」
夢とも現ともつかぬ中、橙は目覚めた。
眠っていたのか気を失っていたのか、記憶が曖昧になっている。
あの時自分に起こった出来事を思い出してみる。
藍と一緒に桜のトンネルを歩いていて、藍の視線が自分から離れた瞬間、まるで水の中に引き込まれるように自分の体が『沈んでいった』。
そこから先の事は何も覚えていない。
「・・・・・えーーっと」
周りを見渡してみる。床も、壁も、天井も、あるようなないような不思議な空間。自分が立っているという実感がなく、
そもそも立っているのか逆さまになっているのかも分からない。
そして見える色は赤と黒。見渡す限りこの二色しか見えない。
何の法則もなく混じり合っている赤と黒と、その中で浮かんでは消える何かの目玉。
不気味以外の何者でもないのに、しかし好奇心も湧いてくる。だから橙はパニックになる事も震える事もなく、
ありのままに思いついた疑問をつぶやいていた。
「ここ・・・・どこだろ?」
『知りたい?』
声が聞こえてきた・・・と言うより、橙の頭の中に響いてきた。
とても落ち着いた、しかしどこか威圧感を感じさせる少女の小さな声。
かすかに聞き覚えがあるように思え、しかし声がくぐもった感じで正体はよく分からない。
「誰!?」
『そんなに身構えてくれなくてもいいわよ。お互い知らない仲じゃないんだし』
「・・・・私の事を知ってるの?ねえ、誰なの?」
『そうね・・・あなたの主人の主人・・・・・・とでも言えば分かってもらえるかしら』
「・・・藍さまのご主人さま・・・・・紫・・・・さま・・・・・?」
返事はない。その代わり、橙の目の前の赤と黒が渦を巻くようにねじれ、その中心から少女が飛び出してきた。
二色だけの世界であまりにも場違いな日傘をさし、幼い顔つきに似つかわしくない紫色の服を着た少女。
これが藍の主人などとは誰も思わないだろう。だが、彼女こそが藍の主人にしてあらゆるすき間を司るすき間妖怪、八雲 紫なのだ。
「ようこそ橙、私の世界へ」
「・・・え、いや、ようこそって言われても・・・・・」
「ここは藍も連れてきた事のない、誰も入る事のできない、私だけの世界。いわば八雲 紫の結界なの」
「・・・・・あの、紫さま?何で藍さまも連れてきた事がないような所に私なんかがいるの・・・?」
「・・・・・・知りたい・・・?」
「ひ・・・・・!!?」
それまで静かな笑みを浮かべていた紫の目つきが鋭くなる。
ちょっと睨みつけた程度だが、それだけで橙の背筋に寒気が走り冷や汗が流れる。
橙と紫の妖怪としての力の差、威圧感の差はこれほどもあったのだ。
「藍とあなたを引き離したかったからよ」
「えっ・・・・・・・!?」
「・・・・とは言っても、永遠に会えなくなるわけじゃないわ。ほんの少しの間だけ」
「・・・紫さま・・・・・・まさか、私に・・・・何かするの・・・・・?」
「なかなか勘がいいわね、その『まさか』よ。その前にまずこれだけはハッキリ言っておきたいんだけど・・・・・」
また、紫の眼光が鋭くなる。今度は橙が声を上げる事すらできない程度に。
そして充分過ぎるほどの沈黙を待ってから、紫は静かに続けた。
「橙、あなたは式として失格よ」
「え?今何て・・・・・?」
「あなたは、式として、失格。そう言ったのよ」
自らを否定された。橙にとっては屈辱どころではなく、むしろ死刑宣告に近い。
そして自分だけではない、藍すらも否定されたように聞こえた。
橙の表情は絶望にとらわれている。橙にとって自分が藍の式であるという事は誇りであり、
藍が自分の主人であるという事も誇りである。それを否定される事はすなわち自らの全てを否定されたようなものだ。
「そん、な・・・・・・」
「あなたの力が弱いのはまだ式として、妖怪として未成熟だから責めるつもりはない。だけど、主人の言いつけを守れないのは見逃せないわ」
紫が橙に向かって手をかざす。白い光が霞のように広がり、辺りに干渉する。
すると橙の両手両足が赤と黒の中に飲み込まれ、大の字になるよう引っ張られていく。
文字通り、橙は磔にされてしまったのだ。
「やあっ!?」
「言いつけを聞けないあなたも悪いけど、藍はそんなあなたにずいぶん甘いみたいね・・・」
「いや、紫さま・・・・」
「藍に代わって私が『教育』するわ」
動けない橙の額に掌を当てる。何をするのか知らないが、それは自分にとってすさまじい苦痛(肉体的にも精神的にも)をもたらすかも知れない。
そう野生の勘が働いたか、橙は何とか手足を引き抜いて逃げようと頑張るが、頑張れば頑張るほど手足は深く飲み込まれていく。
何度も抵抗して肘と膝までが飲み込まれた辺りで、紫の掌が再び輝きだした。
橙の額で放たれた光は火花と音と閃光を発し、彼女の体ではなく心に働きかける。
「あっ・・ああああああああああああああああああああああっ!!!!」
それは、もはや『教育』ではなく『洗脳』に近かった。
「藍の言う事をよく聞く立派な式になれるようにしてあげる。その為にはこの記憶と性格が邪魔なのよ」
「いやだっ・・・・許し・・・て・・・・・・・」
「我慢しなさい。これが終わった時、あなたは藍の思いのままに動く優秀な式として生まれ変わる」
「い・・や・・・・・ぁぁぁ・・・・・・・・・」
「・・・・・・あら?私を探して狐が一匹」
「え・・・らん・・・・さま・・・・?」
「まあ、どうせあなたを連れ戻しに来たんでしょう。せっかくだから別れの挨拶くらいはさせてあげましょうか。
それとも新しい橙の誕生祝いの方がいいかしら?」
「あっ、ゆか・・・・・・」
橙の言葉から逃げるように、紫は空間に穴を開けて『出て行った』。
そして『別れの挨拶』という紫の言葉が残された橙に重くのしかかる。
紫は何気なく言っていたが、記憶を消され性格を変えられるという事は自分が自分ではなくなるという事。
ゆえに死ななくても、一緒にいたとしても、それは『別れ』なのだ。それも永遠の。
「藍さま・・・私、消えちゃうよぉ・・・・消えちゃうの嫌だよぉ・・・・・・」
消え行く空間の穴を見つめ、橙は藍に決して届く事のない泣き声をあげた。
「紫様・・・・」
藍がいるのはまたしても白玉楼の石段の上。ただし、以前に来た時とは違いだいぶ夜の闇が濃くなってきている。
夜にならなければ紫は目覚めない、藍はそれを承知でこの闇の時間を選んだ。
程なく、陽炎のように空間が歪み裂け目ができる。
そして赤と黒の世界の中から、まるで狭い穴から出てくるように紫が窮屈そうに出てきた。
「ふぅ・・・・・あら藍、こんな所で会うなんて奇遇ね」
「・・・・・・紫様はここに来る・・・何となく、そう思ってました」
「そう、じゃあ私に何か用でも?」
紫は余裕の表情を崩さない。藍の出方を見て試そうとしているのだ。
もっとも、藍の出方など紫はたった一つしか予想していなかったしそれ以外はありえないと考えているのだが。
「はい・・・・紫様、橙を見ませんでしたか?」
「(まあ、ほぼ予想通りの答えね)・・・なぜ私に聞くの?」
「橙は・・・私が一緒にいながら一瞬の隙に姿を消してしまいました。それで、こんな事を言うのは失礼だと承知していますが、
こんな神隠しができるのは私の知る限り紫様しかいませんので」
「・・・橙なら私が預かってるわ」
この一言に、藍がすかさず食いついてきた。
「やはり紫様が・・・・・・連れ去った理由は聞きません、橙を帰して下さい」
「すぐには帰せないわ。今ちょっと立て込んでるの、ほら」
自分が出てきた所の空間を再び歪め、大きな裂け目を作って中を見せる。
磔にされ、虚ろな瞳で涙を流す橙の姿が藍の目に飛び込んできた。
これを見た藍が冷静でいられるはずがない(橙がいなくなった時から彼女は気が気じゃあなかったが)、
駆け寄ろうとするがそれを紫が阻んだ。
「紫様!?」
「まあ、これには色々理由があるんだけど・・・」
「理由は聞かないと言いました!さあ、早く橙を解放して下さい!」
「・・・藍・・・・・・未熟な式を持って苦労した事はない?」
「え・・・いきなり何を・・・・?」
「あなたが甘いからかしら、橙はあなたの言いつけも守れない。自分の力を大きく超える鬼神を憑けてみたりね」
「そ・・・それは・・・私が許可を出してしまったからで・・・・」
「とにかく。橙があなたの言いつけをちゃんと守れるようにあなたに代わって私が橙を『教育』してあげようと思ってるの」
だが、目の前の光景は『教育』とは程遠い。少なくとも藍の目には拷問か何かに見えた。
これを『教育』と言うなら、それが終わった後の橙は一体どうなってしまうのか?少なくとも彼女の知る橙ではなくなってしまうかも知れない。
ついこの前橙に死ぬほど辛い思いをさせてしまったばかりだというのに、また同じ辛い思いをさせるわけにはいかない。
だから、主人である紫に対して藍は初めて牙をむいた。
「やめて下さい、紫様・・・たとえ紫様でも、そんな事はさせない」
「・・・こんな事をさせたくない?じゃあ、力ずくで何とかしてみる?」
「紫様が橙を解放しないと言うのなら・・・それも仕方ないと思ってます・・・・・・橙は、私の大切な式です・・・・・」
「藍・・・・・・」
紫の瞳が怪しく輝く。橙を睨んだ時と同じ目だ。
「あなたの妖怪としての力は認めてる。私の式としても今までよくやってくれたと思ってる。
だけど、自由意志を持たせたのは間違いだったのかも知れないわね。
私の冬眠中にも自分で考え働けるように、と考えたんだけど・・・」
「・・・・・・・・・」
「私の式として生まれたあなたは、私の弾幕を真似して自らの武器とした。それで私に勝てる、と?」
瞬間、紫の妖気が禍々しいほどに膨れ上がった。
橙なら本能的に恐怖を感じ腰を抜かすか逃げるかしているだろう。藍ですらこの圧倒的なプレッシャーを前に思わず一歩引いていた。
しかし逃げるわけにも腰を抜かすわけにもいかない。固い決意が藍を踏みとどまらせていた。
「・・・千年の時を生きてどれほどの力をつけようとも、私の模倣をしている限り私は超えられない。違うかしら?」
「なら今この瞬間だけでもいい・・・・私は、あなたを超えます・・・・・・・」
「やってご覧なさい。できるものなら」
罔両『八雲紫の神隠し』
「その昔・・・あなたと出会う前だからそれは千年以上も昔の事。私は、いわゆる神隠しにあった。
そしてそれは私の原点でもある」
結界『生と死の境界』
『人間と妖怪の境界』
「神隠しにあった私は生死の境を彷徨った。永く彷徨い続けた末、ついに私は私を飲み込んだ闇を
取り込む事で生き延びた。同時に、私は人間をやめた・・・」
式神『八雲藍』
「ちょうど千年前、あなたと出会った。死にかけだった名もない九尾の狐を拾い、名前を与えたのは私。
そんな私に一生ついていくと言ったのはあなた。口約束だけど、契約はまだ効力を失っていない」
罔両『禅寺に棲む妖蝶』
魍魎『二重黒死蝶』
「私はこの世界で誰よりも孤独で、誰よりも離れていると思ってた。だけどそんな私にも友ができた。
いや、友は昔からいた。私は神隠しにあって妖怪になり、幽々子は生死の境を越えて死の世界にやって来ただけの事。
生死の境を見た者同士、お互い下界を離れても再び出会う運命だったのかも知れない・・・」
結界『動と静の均衡』
「あなたも式を使役できるようになったと聞いて、私は驚いた。式を使役する式など、今まで見た事も聞いた事もなかったから。
そして、あなたの式を見て私はまた驚いた。驚いたというより、物静かなあなたとの落差に笑った。
私とあなたと橙を見て、幽々子は『家族みたい』と言ってくれた。もう私は孤独じゃない・・・その時確かに実感した」
「・・・・私はあなたより永く生きている。あなたより多くの物を見て、あなたより多くの事を知っている。
だから、これもあなたの為と思ってやったのに・・・・・・思いがすれ違ってるみたいね」
「・・・私と紫様では、橙に対する想いが違う。だからすれ違う」
「だけどもう遅い・・・・・・弾幕の結界は既に四方八方に張られているから」
紫の言葉通り、藍を取り囲むように僅かなすき間もないほど無数の弾が配置されている。
紫が何か合図を出せば、その全てが藍に向かって殺到するだろう。
そして藍には、それらの弾全てを防ぐ力も避ける力も残っていなかった。紫の結界の数々をくぐり、
その身は橙が暴走した時以上に消耗していたのだ。
もっとも、消耗しているのは次々に結界を繰り出す紫も同じだったが。
「紫様・・・そんなに何重も結界を張って・・・・一体その先に何を護っているというのですか・・・・・・・?」
「・・・・・・護っているのは、私の全て。弾幕結界は私を護る最後の砦。だからこれは『結界』ではなく『奥義』と呼ぶ。
あなたが命を賭けてここまで踏み込んだのなら、私も全てを賭ける他ないのよ・・・・・」
「紫様・・・・・・」
「藍・・・・・・」
「その結界・・・・破らせてもらいます」
「この結界で、私は全てを護る・・・・」
「紫奥義『弾幕結界』・・・・・・」
白玉楼に一際大きなクレーターができた。
紫の最後の力を振り絞った弾幕結界、真ん中にいる藍めがけて全ての弾が飛んできたのだからたまらない。
破壊が破壊の連鎖を生み、流れ星が落ちた跡のようないびつな半球形を作り出す。
そしてその上空には紫が佇んでいた。
ピシッ。
「藍、色々と聞きたい事があるわ」
ピシッ。
「私と本気の勝負をして、本当にどうにかなるとでも思っていたの?」
ピシッ。
「どうにかなると思っても、その程度の自信じゃ普通私には挑まないわ。相討ちする危険なんかも考えて」
ピシッ。
「なのになぜ挑むの・・・?そして・・・・・・・」
ピシリ。
「・・・・・そして、なぜこの奥義を破れたの・・・・・・・・・?」
クレーターの外周を回っている幾つもの魔法陣が、ガラスのように粉々に砕け散る。
弾幕結界が破られた(紫が力を使い果たした)という事だ。
そして、クレーターの中心にいる藍は辛うじて立っていた。いや、立っていると言うより『脚が曲がっていないだけ』なのかも知れない。
誰か指で突付いただけでも倒れてしまいそうな、危ういバランスを保ちながらも藍は倒れずにいた。
「・・・なぜ、と聞かれても・・・・・自分でもよく分かりません・・・・」
「分からないか・・・・運が味方したのかしら・・・・」
「そうかも知れません・・・ただ、私は橙を助けたかった・・・・・・それだけなんです・・・・・自信とか予想とかじゃないんです・・・・」
「・・・・・よく分かったわ」
紫の背後に空間の裂け目ができる。人が通れる程度の大きさになると、中から橙が出てきた。
彼女の手足を縛る物は何もない。力なくうなだれているが、安らかな顔で眠っているようにも見える。
・・・と言うより、橙は確かに眠っていた。
「橙・・・・・!?」
「あなたの思い・・・いや強い想い、よく分かったわ。橙は帰します」
「紫様・・・・」
「ただし」
橙と入れ替わり、紫が空間の裂け目に入る。
彼女も藍と同様に消耗しきっているのだがその表情は穏やかで、しかし藍の主人としての貫禄は保ったままだった。
「あなたの気持ちが本物なら、あなたが本当に橙の為を想うなら、甘やかし過ぎはよくないわ。
これは命令じゃない、八雲 紫からのアドバイスです」
「はい・・・・ありがとうございます・・・・・」
「じゃあ私はこれで。二人とも、幸せにね・・・・・・」
まるで結婚する男女を祝福するような台詞を最後に残して、紫は世界のすき間に入って行った。
波紋のような物が空間に一度広がり、後にはもう何も残っていない。夜の静寂が辺りを支配する。
誰もいない死の世界で、二人は二人っきりになった。
「ん・・・・・・」
橙の、この日二度目の夢と現だった。
うっすら目を開け、頭をボンヤリさせたまま眠い目をこする。
その目に最初に映ったのは、満天夜空に浮かぶ大小の星々と丸い月だった。
「あれ・・・・え・・・?」
自分が最後に見たのは赤と黒に支配された世界と恐ろしい目つきで睨みつけてきた紫。
最後の記憶は耐え難い頭痛と恐怖、悲しみ。
そして今見ているのは夜空と星、頭痛はないしなぜか恐怖も悲しみもない。
柔らかい感触が後ろから伝わってくる。とても柔らかくて、暖かくて、懐かしい感触。
そして、見覚えのある顔が満天の夜空を塞いだ。
「橙、目が覚めた・・・・・・?」
月明かりの逆光で顔が見えないが、その声と喋り方は忘れるはずがない。
「ら・・・藍さま・・・・?」
「よく頑張ったな、橙。もう大丈夫だ」
橙は藍の膝枕に頭を預けて眠っていた。
安らかな顔で眠る橙とそれを安心して見つめる藍。その姿は、姿形がどんなに似ていなくとも親子のように映る事だろう。
「紫様は悪気があってあんな事をしたわけじゃないんだ・・・許してやってくれ」
「・・・うぐっ、らんさま・・・・・」
橙の顔が歪む。次に何をするか、藍には考えるまでもなく分かる。
だから、橙を起こし優しく抱いてやった。
我慢ができなくなったか、あるいは藍の抱擁を待っていたかのように、橙は藍の胸の中で感情を爆発させる。
「らん・・さまぁ・・・・・・うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!怖かったよ、こわかったよぉぉぉぉぉぉっ!!」
「もう大丈夫だ・・・私がついてるから」
「ちっ・・・・違うよ・・・私が怖かったのは紫さまじゃあなくって・・・・・」
「ん?」
「あの時・・・私が私じゃなくなるような気がしたの・・・・
私が私じゃなくなったら、もう一生藍さまに会えなくなるような気がして・・・・・」
「・・・・そうか・・・・・・・」
「藍さまに会えなくなるのが一番怖かったんだよぉ・・・・・・」
それっきり、橙は静かに泣いていた。
一瞬で感情を全て爆発させたからかも知れないし、逆に藍がいるという安心感が橙の心を落ち着かせているのかも知れない。
藍はすすり泣きを続ける橙の頬にそっと唇を落とし、耳元でささやいた。
「私もな・・・お前がいなくなると思うと恐ろしくて気が気じゃなくなっちゃうんだ・・・・お前と同じさ」
「藍さま・・・・・」
「橙、お前はずっと私の式だ。誰にも、紫様にも渡さない。私がいつも一緒にいるよ」
「はい・・・私・・・・・・これからもずっとずっと藍さまの式です!」
「ありがとう・・・・・・」
静かに抱き合う二人の姿は、傍目から見れば愛し合う男女にしか見えなかった。
紫が去り際に『幸せにね』と言ったのは、自分たちのこの姿を予想していたからなのかも知れない・・・
藍はそう考え、橙と抱き合いながら自嘲気味に微笑んだ。
(これじゃ本当に結婚するみたいだな・・・・でも、ずっと一緒に暮らすんだから大して変わらないか)
橙の小さな背に腕を回しながら藍は祈った。
いつまでも、この幸せが続きますように・・・・・・
ちょうどその頃。
藍たちのはるか上空で空間の裂け目が再び開いていた。
境を越えて出てきたのは言うまでもなく、紫。
「うふふふふ・・・・・」
眼下の光景を目にして、紫は思わず笑みを漏らす。
それは馬鹿馬鹿しいからでもなければ面白いからでもなく、微笑ましさと自嘲が半分ずつ混じったものだった。
「藍のあの甘さ・・・一体誰に似たのかしら」
ペットは飼い主に似る。犬や猫にはよく当てはまる事だ。
藍は紫のペットではないが、主従関係という点では人間と犬猫の関係に通じるものがあるのかも知れない。
だからこその自嘲なのだ。
「・・・・まあ、一分の隙もなく厳しすぎるのよりはだいぶマシだけど」
紫が藍をあんな風に抱きしめた事は、この千年でたった一度もなかった。
紫の冬眠中に、彼女の手足となって働ける存在として生まれた藍。紫は、基本的に藍を放ったらかしにしていた。
自由意志を持つ藍はそれ故に押し潰されそうなほどの孤独感に苛まれ、それを少しでも紛らわそうと橙を生み出した。
自分の助手がほしかったからと紫にはそう説明したが、無論そんなものは建前でしかなかった。
自分が味わった孤独を橙には味わってほしくない・・・・・・それが、藍の橙に対する想いの原点だ。
そして、藍と同じ孤独を知っている紫も無意識のうちに今の藍と同じ想いを秘めていた。紫はそれに気づいていなかったが。
だから紫は藍の前にあえて姿を現し、本気の勝負をして藍の気持ちを確かめた。彼女もまた、藍の事を想っていたのだ。
「『想いが、力になる。想いを、力にする。』か・・・・誰が言ったか知らないけど、全くその通りね・・・・・」
弾幕結界の時の事を思い出す。
あの時、藍は紫の奥義を破ったのを指して『運が味方したのかも知れない』と言った。
それは半分正解で半分間違いだと紫はその時知っていたが、とりあえず言わない事にしておいた。
弾幕結界は運だけで乗り切れるものではない。運の良し悪しなど関係ないほどに弾を敷き詰めるのだ、適当に動いて助かるはずがない。
それに紫は見ていた。藍は弾幕結界を『避けた』のではなく『防いで』いたのだ。それも無意識のうちに。
生死の境を前にして彼女の持つ潜在能力が一時的に目覚めた・・・そう結論付けるしかない。
藍の神憑り的な想いの強さが潜在能力の発現という強運を引き込み、弾幕結界を防ぎきるという奇跡を起こした。
『病は気から』などという言葉もあるが、想いは確かに力になったのだ。
「・・・あれだけの想いがあれば、もう私がとやかく言う必要はないか・・・・・頑張りなさいな。
あなた達は夢を現にする呪(まじない)を知っている。それがあれば、どんな事も二人で乗り越えていける・・・・
いえ、私もいるから三人ね。どんな事も三人で乗り越えていけるわ・・・・・・」
季節は春、時間は真夜中。紫が活動するのにこれほど都合のいい時はない。
だがやる事など別に何もなかったので、ゆっくりと石段を降りる二人の式をいつまでも見送っていた。
「・・・・・・・・ん?」
「どうかしたの、藍さま」
「いや・・・誰かに見られてたような感じが・・・・・」
「きっと幽霊さんだよ。ほら、ここってあの世だし」
「・・・・そうだな、幽霊だな」
(紫様か、ありがとう・・・・・・・)
「そうだ橙、これを聞くのを忘れてた・・・・とても大事な事なんだ」
橙の肩をしっかり掴み、瞳をまっすぐ見つめる。
こんな事は藍は今まで一度もした事がない。橙は心臓が飛び出そうなほど緊張し、顔を真っ赤にした。
「橙・・・・・」
「な、何・・・・・・?」
「お腹・・・・空いてるだろ?」
「・・・・・・・え?」
「言ってたじゃないか、『お腹空いた』って。こんな時間だけど、食べたいもの作ってやるよ」
「・・・・あ・・・そ、そうだっけ・・・・・・・・じゃあ・・・・・ご飯とお味噌汁とお魚」
「よし、腕によりをかけて美味しいのを作ってやる!」
今宵は満月。だが、その月よりさらに眩い光がここに三つもある。
橙は孤独な藍の心に射し込んだ星の光だった。
藍はいつでも橙を明るく照らす太陽の光だった。
紫はそんな二人の足元を照らす月の光だった。
紫の祝福を受けた藍と橙。二人は、今までにも増して綺麗に輝こうとしていた。
(end)
生死に関わる話が苦手な人は避けた方がいいかも知れません。多分そういう話ですので・・・
でも誰も死にませんのでそこら辺は大丈夫です(・∀・)
あと、やたら長いので一気に読もうと思わず休み休み読む事をお勧めします。
目が悪くなってからじゃ音速が遅いですよ?
それではこの下からどうぞ。
「鬼神『飛翔毘沙門天』!」
春を迎えたあの世に元気な声がよく響く。
妖怪の式の式、橙は自分の主人である藍と共にここ白玉楼に来ていた。
藍がここに来た目的は、自分の式である橙をいじめたという人間に仕返しをするため。
だがその相手の人相がわからず、とりあえず暴れていれば何事かと思って来るだろうという無茶な理由から好き勝手に暴れ、
案の定なのか奇跡的なのかとりあえず人間たちはやって来た。
橙が『私も行く』と言い出したのはちょうどその時だ。
『藍さま、私も行く』
『お前はここにいろ。何者かは知らないが、相手が誰だろうと私がやっつけてやるから』
『だけど、イジメられたのは私だもん。仕返しするなら私がしたい』
『・・・私の近くにいて力が強くなっているとはいえ、それでもその人間たちに勝てるという保証はあるのか?』
『・・・・・・毘沙門天』
『何・・・!?』
『これならあの人間たちにも勝てるから。お願い!』
『お前にはまだ無理だ・・・あれを憑けるにはお前の器はまだ小さすぎる、下手をすれば力が暴走しかねないぞ』
『でも、憑ければ勝てる』
『・・・・・・・・・絶対に無茶はするな。絶対だぞ』
『うん、ありがとう藍さま・・・・』
白玉楼のずっと奥に控えながら、藍は橙の事をずっと心配していた。
橙の使う『飛翔毘沙門天』は、藍が使う『憑依荼吉尼天』を真似て作ったものだ。
高位の神の力を借り、その一部を憑ける術で術者への負担は当然大きい。
その『飛翔毘沙門天』、藍が試しに憑けてみた時でさえ使用後は強い脱力感を覚えたほどだ。
まだ未熟な橙にはこの力を憑ける事さえできないはずである。
だが、それでも藍は心配だった。万が一あの力を憑けてしまったら・・・そして力の制御ができなかったら・・・
「無茶はするなよ・・・橙・・・・・」
下手に手助けをすれば橙のプライドが傷つく、だからといって見捨てる事もできない。
今の藍には橙の無事を祈るくらいしかできなかった。
「ナウマク、サマンダボダナン、ベイシラマンダヤ、ソワカ!・・・・さあ、いくよっ!」
戦勝の功徳があるという毘沙門天の真言を唱え、橙が勢いよく回りだす。
白玉楼を狭しと渦を巻いて飛び回るその姿は、この世のあらゆる邪鬼を滅殺せんと奮闘する軍神・毘沙門天の姿そのものだった。
人間たちは慌てない。渦を巻く橙の動きに惑わされる事なく、弾と弾のすき間をかいくぐり、橙の動きを止めようとありったけの得物を叩き込む。
巫女の格好をした少女は大小のお札を。
魔女の格好をした少女は砲弾のような『何か』を。
メイドの格好をした少女は青と赤のナイフを。
それぞれがそれぞれの撃ちたいように撃っていく。橙の体がそれに長く耐えられるはずもない。
(何でっ・・・何で当たらないのっ・・・・・!!?)
『飛翔毘沙門天』の動きは、橙の身体能力を大きく上回るものだった。
それが短時間なら耐えられるが、肉体の限界を超えた動きをずっと続け、しかも弾幕を張る。
激しい体力の消耗と攻撃のダメージによる痛みから、橙の中から余裕があっという間に消え去ってしまう。
「うぐっ・・・・ああぁぁぁぁぁぁっ・・・・・・!!!!」
決め手となったのは顎に直撃した力あるお札か、腹に何度も叩き込まれた緑色の魔弾か、肩を射抜いた一本のナイフか。
ともあれ、それらを同時に受けた橙は弾を撃つ事も飛ぶ事さえもできなくなり、石段へまっ逆さまに落ちていった。
「さて、どの辺がほやほやだったのかしらね」
「長居は無用だぜ、死んだ猫が化けて出てくる」
「非常識なくらい広い庭だからね、こんな所で油を売ってる暇はないわ」
朦朧とする意識の中で、橙は三人の人間が余裕たっぷりに話しているのを聞いた。
自分が命を削る思いで本気の勝負を挑んだのに、三人がかりとはいえ軽くあしらわれた・・・橙には屈辱以外の何者でもない。
同じ相手に2度も敗れた(しかも相手は本気を出していない)橙は、体の痛みよりも悔しさばかりが先に募りただひたすら泣いた。
「うっ・・・・うぐっ・・・うっ・・・・うぇぇぇぇ・・・・・藍さまぁ・・・・・」
悔しさの後には藍の事が頭に浮かんできた。
あの時藍に甘えていれば自分は痛い目を見なかったし、こんな悔しい思いをしなくて済んだ。
だが自分の心の中の問題は藍に頼らず自分で解決したかった。
二律背反・・・矛盾する二つの思いの中で橙は大いに苦しみ、一番甘えられる藍の事を何となく思い出し、やはり泣いた。
「藍さまぁ・・・・・ごめんなさい、ごめん・・・なさい・・・・」
泣きはらした後は全身の痛みとの格闘だった。
全身のあらゆる所を撃たれて服も体もボロボロ、酷使しすぎた体が悲鳴を上げ立つ事すらできない。
人間たちを追う事も傷を癒す事もできず、うずくまってひたすら痛みに耐えるしかない。
無茶しちゃったな、と後悔しても遅すぎた。
「うぅぅ・・・・痛いよ、痛いよ、藍さま・・・・・助けて・・・・」
指一本動かしても痛みが走る。いっそ意識を失った方がずっと楽だろう。
そんな事をぼんやりと考えながら藍が来るのを待つ。長いのか短いのよく分からない時間をずっと待ち続け、
それでも藍は来なかった。
藍も、三人の人間を相手に苦戦していた。
自分の主である紫の弾幕を真似た攻撃をいくつも繰り出したが止められない。
橙ではどうあがいても勝ち目がないだろうと悟ったのが『十二神将の宴』を破られた頃、
自分の力だけでは勝ち目がないと悟ったのが『ユーニラタルコンタクト』を破られた頃だった。
「信じられない・・・ここまで強い人間がいるなんて」
幻想郷に住む人間が皆その辺の普通の妖怪に負けない程度の強い力を持っているのは知っている。
だが、藍も自分の力が妖怪の中ではかなり上位にあると自負しているし実際それだけの実力を持っているのだ。
そんな自分をここまで追い詰めている・・・藍は、もしかしたら自分は人妖の境界すらも越えた化け物と戦っているのではないかと考え始めていた。
「だけどね・・・私はまだ終わっちゃいない!急々如律令、式神『橙』!」
護符に妖力を込める。本来なら橙本人を呼び寄せて二人がかりの弾幕を張るのだが、
人間たちがここまで来たという事は橙も倒してきたという事になる。
戦いに敗れてボロボロであろう橙をもう一度呼び寄せるわけはいかない。
だから、橙の姿と動きを真似た全く別の式を橙のコピーとして召喚する。
『橙の姿をした式』はまるで本物のようによく動き弾をばら撒いていく。だが、何かが違う。
コンビネーションのコの字もない・・・・・・藍にはそれがすぐに分かった。
藍と橙は以心伝心、戦いの最中は言葉を使わなくても自分が次に何をすべきか、パートナーが次に何をするかが分かる。
だが、このコピーは橙の『姿と動き』だけを真似たもの。橙の心までは真似できない。だから式は勝手気ままに飛び回る。
それを少しでもサポートしようと藍も弾を撃つが、やはり人間たちを止める事はできない。
「くあっ!」
藍の集中力が途切れ、橙が元の護符の形に戻る。
断末魔の形相を浮かべ、声無き叫びを上げながら消え行く橙のコピー・・・
本物とは無関係の式が消えただけなのに、最期の表情があまりにもリアルすぎた。
(アイツも・・・橙も、きっとこんな顔で苦しんでいるんだ・・・・急がないと・・・)
はらりはらりと舞い落ちていく護符を見て、藍の表情が引き締まる。
もはや一刻の猶予もないはずだ。何としてでも目の前の人間を倒し、今すぐにでも橙の元へ駆けつけなければならない。
「・・・・あんた達はやり過ぎた。こうなったら、この身に神を憑けてでもあんた達を潰す!幻神、『飯綱権現降臨』ッ!」
烏天狗の力を憑け、全ての力を弾幕に込めて叩き込む。
神の力を憑ける術はどれも体力と妖力の消耗が激しく、たいてい追い込まれた時の切り札として使う。
『飯綱権現降臨』は神の力を借りた術の中でも最強クラスで、これを破られればもう後はない。
だからこそ藍は最後の術に全てを賭けた。
「藍さま、早く来て・・・寂しいよぉ・・・・・」
橙は待っていた。
藍が来る事を信じて、ずっと待っていた。
体の痛みは未だに引かない。激しい痛みのあまり痛覚が麻痺するという話をよく聞くが、
少なくとも未だに正気を保っている橙には全く当てはまらない。
「寒いよ・・・怖いよ・・・・怖いよ・・・・・・・藍さまぁ・・・・・」
寒いのは白玉楼がはるか上空にあるからではない。橙の体に血が足りないのだ。
ボロボロの服も、肌も、全て血で紅く染まり、しかし顔だけは青白くなっている。
「藍さま・・・嫌だよ・・・・こんなの、やだよ・・・・・・」
もう動く気力も残っていない。橙に残された道は、誰かに助けられるかこのまま死んでしまうかのどちらかだ。
もちろん、こんな所で死を望むような橙ではない。生と死の境界で誰よりも強く生を望んだ。
「藍さま、もう一度会いたいよ・・・・藍さまの所へ帰りたいよぉ・・・・・」
ドクン。
橙の体が大きく跳ねた。指一本動かせないほど激しく消耗しているはずの橙の体が、だ。
そのタイミングは全くの偶然か、橙の言葉に呼応してのものか。とにかく橙の体に『何か』が起こりつつあった。
「な・・何・・・・?」
ドクン。
再び、体が跳ね上がる。
今度は跳ね上がった体が地に降りる事はなく、ふわふわと宙を漂っている。
だが橙は体を動かせない。腕も脚もだらりと垂れ下がり、糸に吊るされただけのマリオネットのような格好だ。
「いや・・・何これっ・・・・・!」
ドクン。
動かせないはずの腕が動く。いや、動くというより動かされている。
右腕がまっすぐ水平まで持ち上げられ、掌が大きく広げられる。いつも弾幕を張る時の手の構えに近い。
だが無理に体が動いたわけだから、当然その反動は橙に返ってくる。
「痛ッ・・・・」
ドクン。
体の中を何か熱いものが痛みと共に走る。
頭のてっぺんから足の先まで痛みと熱を感じ、右手に向かっていくのを感じる。
この熱い感じを橙は知っていた。
「これ・・・・私の妖気・・・・・?」
妖気とは妖怪にとっての生命エネルギー。エネルギーだから凝縮すれば熱にも物理的な力にもなりうる。
『飛翔毘沙門天』でほとんど妖気を使い果たしたはずなのに、それがどんどん集まってくる。
自分にまだこんな力が残っていたのか、と感心したい所だが、痛みと恐怖が抜けてくれない。
パァ・・・・・・ン
破裂音と共に、強い衝撃が橙の体を後ろへ突き飛ばした。限界まで集束した妖気が掌から放たれたのだ。
色、形、発射方向に何の規則性もない無数の弾がばら撒かれ、着弾点に大小の穴を開ける。
普段の橙ではいくら頑張ってもこれほど殺傷力のある攻撃はできない。
「す、すごい・・けど・・・・・くっ!痛・・・・」
全身に痛みが走る。だが地に降りる事もできない。
そして今度は、左腕が後ろの方へ引っ張られた。
「きゃっ!ヤダ、痛い痛い痛い!!」
声を大にして叫んでも、いくら涙を流しても、後ろに構えられた腕は自分の思い通りに動いてくれない。
そしてまたしても全身を走る熱と痛み。今度は左手に妖気が集まる。
二度目の集束、そして力の解放。首も動かないので後ろの様子が分からないが、爆発音だけははっきりと聞こえる。
またどこかを蜂の巣にしてしまったのだろう・・・数秒遅れて砂煙が舞ってきた。
「やめて・・・・もう動けない・・・動きたくないよ・・・痛いよ・・・・」
それでも容赦なく妖気が搾り取られる。
橙の意志に関係なく体が動き、虚空を彷徨いながら無差別に弾幕を張りまくる。
この弾幕も、妖気の消耗も、体の痛みも、どれも橙にはどうする事もできない。
「藍さま・・・助けて・・・・・・・・・・あ・・・・・いやああああああああああああああっ!!!!」
爆音と砂煙を切り裂くように、橙の悲鳴が響き渡った。
地面に大の字になりながら、藍は橙の悲鳴を聞いた。
彼女もまた、切り札である『飯綱権現降臨』を破られ体力と妖気を消耗していたのだ。
神の力を憑ける術に慣れている事、橙のはるか上を行く実力を持つ事が藍にとっては救いで、辛い事に変わりはないが何とか動く事はできる。
どうにか体を起こし、悲鳴の聞こえた方へゆっくりと飛び立つ。
「橙、待ってろ・・・すぐ行くから・・・・」
橙の周りは既に元の地形を全くとどめていなかった。
無数の弾があらゆる物を貫き、削り、砕き、砂煙を上げ、際限なく荒野を作り出す。
藍が橙の元へ辿り着いた頃には、橙を中心とした巨大なクレーターができているほどだった。
「ぐっ・・・・・・な、なんて妖気・・・本当に橙なのか・・・・!?」
流れ弾、というには弾の密度が高すぎる。全方位に弾幕を展開しているようなものだ。
とにかく自分めがけて飛んでくる大量の弾を捌きながら、藍は橙に少しずつ近づく。
少しずつというのは、藍が消耗していて動きが鈍っているから、というだけではない。
橙から発せられる妖気が半端ではないのだ。消耗しているとはいえ藍の歩みを鈍らせるほど濃密な妖気が漂っている。
並の妖怪、普通の人間では蛇に睨まれた蛙のごとく全身金縛りになってしまいそうなほどのプレッシャーだ。
橙には藍を凌駕するほどの非凡な潜在能力があったのでは・・・とも考えられる。だが、それは違うと藍はすぐに気づいた。
「橙!大丈夫か!」
「あ・・あぁ・・・・藍さま・・・・助け・・・・・て・・・・・・」
「・・・橙・・・・・・!?」
「痛いよ・・・苦しいよ・・・らん、さまぁ・・・・・」
橙の姿は、藍にはとても禍々しく映った。
全身から莫大な妖気が立ち昇り、橙の血を巻き込んで紅い霧を漂わせている。
紅い霧・・・いや妖気は橙の背後で時に鳥か悪魔の翼を思わせる形を取り、時に鬼神の顔のような形に変わる。
だが、藍が最も禍々しいと感じたのは橙の顔だった。
既に生気はなく、瞳は焦点が定まっていない。
口はだらしなく半開きになり、涙と涎が流れた跡がうっすら見える。
まるで死んでいるようにも見えるその顔は間違いなく橙であり、しかし藍の知る橙ではなかった。
「藍さま・・・・・たす・・・けて・・・・」
(あれは・・・まさか、鬼神の力の暴走・・・・橙の体を乗っ取ってる・・・・・!?)
「私の中に・・・誰かいる・・・・・私の中で暴れてるぅっ・・・・・・」
「橙、しっかりしろ!気をしっかり保つんだ!」
「いや・・・ダメ・・・もうやめっ・・・・・・・うわあああああああああああああっ!!!」
またもや爆発的に弾幕が放たれた。
弾が何発か藍の体を掠め、残りの弾は足元のクレーターを一回り大きくしていく。
「くうっ・・・・・!」
「あぅ・・・・も、もう・・・やだぁ・・・・」
(まずいぞ・・・・あれはもう橙の妖気じゃない、橙の『命』そのものを削った弾幕・・・・・何とかしないと本当に橙が・・・)
橙の死という像が藍の脳裏をよぎった。
だがそれは絶対に考えてはならない、避けなくてはならない最悪の事態。
元はといえば、藍が橙に『飛翔毘沙門天』の使用を許した事が始まりだった。
あの時藍が強く出ていたら、橙は『飛翔毘沙門天』を使う事なく戦っていたかも知れない。
仕返しができないと橙は不満がったかも知れないが、少なくとも現状は回避できたはずだ。
命を削られ、涙を流し、苦痛に悶え、それでも必死で藍の名を呼ぶ橙。
後悔だけは次から次へと溢れ出るのに、橙を助ける手立てが思い浮かばない。
(すまん、橙・・・私が愚かなばかりにこんな事に・・・・でも私はどうしたら・・・・)
「・・・・ごめ、んね・・・藍さま・・・・」
橙がつぶやいた。あまりに小さな声だったので、藍も危うく聞き逃してしまうほどだった。
「藍さま・・・私・・・こんな・・・・バカで・・・・ごめんね・・・・・」
「橙・・・・・?」
「私が・・・藍さまの言う事・・・・聞いてれば・・・藍さまを・・・・・困らせなかった・・・・・悲しませなかった・・・・よね・・・・・・・」
「おい、橙・・・何言って・・・・・」
「サヨナラ・・・・・・らん・・・・・さ・・・・ま・・・・・・・・・・」
「・・・・橙・・・・・・!?」
それっきり橙は何も言わなくなった。悲鳴も呻き声も上げなくなったし、涙も流さなくなった。
だが弾幕は止まらない。感情を表す余裕などないくらい橙の命は極限まで削られていたのだ。
「橙・・・・・・謝るのは私の方だ・・・・馬鹿は私の方だ・・・・だけど、だけど・・・・・」
拳を硬く握り締める。爪が皮膚に食い込み、血が流れても構わず握り締めた。
今後悔していたら、これからずっと後悔することになる。だが、今自分にはできる事がある。するべき事がある。
橙の体を乗っ取っている鬼神を祓い、橙を助ける事。今度はそれに全てを賭ける。今ならまだ間に合う。
「・・・・・だけど、お前を護るのは私だ、お前を助けるのも私だ。橙、今行く・・・・・・!!」
橙のそばに近づくのは困難を極めた。
近づけば近づくほど当然弾幕の密度が高くなり、辺りを漂う妖気も濃くなっていく。
見えない壁に阻まれているような感じでなかなか前に進めない上、雨のように弾が降り注ぐ。
一体何発の弾が藍の体を掠め、皮膚を切り裂き、体を叩いたか分からない。
だがそれでも藍は進んだ。歯を食いしばり、まっすぐ橙を目指した。
「ぐぅっ・・・・!・・・・これくらいの痛み、何だっ・・・・・!!」
藍も、あっという間に橙と同じボロボロの体になってしまった。
自慢の九尾はあちこちが焼け焦げ、服も穴だらけ。帽子はいつの間にか吹き飛んでいた。
もはや、藍に暴走した橙の弾幕をまとも防ぐだけの力は残っていない。
だが全身に無数の弾を浴びながらも、橙を護るという強い想いが彼女を奮い立たせ体を動かす。
「橙は・・・橙は・・・・もっと辛いんだ・・・・私がこれくらいで挫けてどうするッ・・・・・・・!」
もはや、藍に暴走した橙の妖気と弾幕は意味を成さなかった。
濃密な妖気の壁に阻まれても黙々と進み、無数の弾に体を打たれても意に介さない。
そしてみるみるうちに二人の距離は縮まり、藍と橙はついに対峙した。
「うぐっ・・・・ち、橙・・・・・・」
呼びかけても橙は応えない。瞳からは光が消え、まるで死んだように白い顔をしている。
だが相変わらず弾幕の嵐が吹き荒れている。まだ橙は死んでいないという事だ。
一安心する藍だが、本当に安心するにはまだ早い。マリオネットのようにぐったりしている橙を藍は優しく抱きしめた。
「うぅっ・・・うああああああああっ・・・・・・!!!」
今の橙を抱きしめるという事は、全ての弾を受け止めるという事になる。苦痛はそれまでの比ではなく、自殺行為にも見えてしまう。
それでも藍は抱き続けた。橙の苦しみを自分も知るため、橙を救うため・・・
「うぐぅぅぅっ・・・・・ち・・橙・・・・聞こえるか・・・・・?」
「・・・・・ぁ・・・・・・・・らん・・・・・・さま・・・・・・・?」
「・・・よかった・・・・・気づいてくれた・・・・」
「やめて・・・・・・・らんさまも・・・・・・・・しんじゃう・・・・・・」
橙の瞳に光が宿った。すぐに消えそうなほど頼りないが、彼女の『生』を示す何よりも確かな光。
そして自分が死の淵に立たされているというのに、橙はまだ藍の事を心配している。
そんな健気な姿を見て、藍はますます橙を強く抱きしめる。
「・・・あっ・・・・・・」
「大丈夫だ、橙・・・・私も・・・お前も・・・死なない・・・・私がお前を護る・・・・・・私がお前を・・・・助ける・・・・・・
信じるんだ・・・お前は死にはしない・・・・お前はここにいる・・・・大丈夫、私もここにいる・・・・・・」
「・・・・・・信じる・・・・・・・・・?」
「そう・・・・私が、そばに・・・いるよ・・・・・・・・」
「藍・・・・さま・・・・・・」
そっと唇と唇を重ね合わせる。
妖怪同士、式を使う者同士、肌と肌を触れ合わせる事で妖気を直に送り込む事ができる。
攻撃のためではなく回復のためで、橙がちょっと無茶をして怪我をした時などは藍が添い寝をして治癒を促したりしたものだ。
そして今。藍がなけなしの妖気を橙に送っている。
どうかこれで目覚めてほしい。生きて二人で帰りたい。私たちは負けない・・・・・・
言葉では言い表せない、万感の思いのこもった口付けだった。
一つの奇跡が起きた。
今まで指一本動かす事もできなかった橙が、両腕を藍の体に回し抱きついたのだ。
それをきっかけに橙の瞳の光が大きく、強くなる。力の抜けた顔がわずかだが引き締まり、歯を食いしばって死に抵抗する。
橙の中の最後の命が、激しく燃え出したのだ。
「くっ・・・・うぅ~~~~っ・・・・・・!!」
「橙・・・・・!?」
「藍さま・・・私、死にたくない・・・・・・・・藍さまと・・・一緒に・・・・いたいよぉっ・・・・」
「がんばれ、橙・・・・自分はここにいる・・・・・そう強く信じるんだ・・・・・・・!」
「強く・・・・信じる・・・・・・・強く・・・・・!」
橙を取り囲む妖気が少し薄れたような気がした。
いや、気のせいではない。橙の背中から生えた紅い悪魔のような翼が、少しずつしぼんでいくのが見えた。
それに合わせて橙から放たれる弾幕も薄れていき、終には全て消え去ってしまう。
藍と橙、二人の強い想いが暴走する鬼神を祓ったのだ。
「・・・橙、大丈夫か・・・・・?」
「藍さま・・・・うん、私・・・もう大丈夫・・・・・ありがとう、藍さま・・・」
「よかった・・・・本当によかった・・・・・・」
「・・・・ごめんなさい、藍さまごめんなさい・・・・・」
「『ごめんなさい』なら後でいくらでも聞いてやる。さあ、帰ろう・・・・・」
「・・・ねえ、藍さま泣いてるの・・・・?」
「馬鹿・・・・これが泣かずにいられるかっ・・・・・」
「あ・・・・・ご、ごめんなさい・・・」
「お前が私の元に帰って来てくれて・・・・それで嬉しいんだ・・・これは嬉し涙なんだからな!」
「・・・・うん・・・・・私も、藍さまの所に帰って来れて嬉しい・・・・・」
「よし・・・・・じゃあ、帰ろう」
「うん・・・」
藍が橙を支え、橙が藍を支えながら白玉楼を後にする。
すっかり春になったあの世の暖かい風が、傷ついた二人にはとても心地よく感じられた。
それから一週間ほど過ぎた。
二人とも完全とは言えないがかなり回復し、いつも通りの日々を送っている。
それこそ橙は今までと全く変わらない調子だが、藍はそんな橙を見て色々心配をする時がある。
気がついたらまた虚ろな瞳でいきなり暴走してしまうのではないか、ちょっと目を離した隙にどこかへ消えてしまうのではないか・・・
(馬鹿馬鹿しい・・・何考えてるんだ私は)
それは杞憂であると信じたかった。
あの一件以来、自分の考えが少し悲観的になってしまっているだけだと考えたかった。
そして実際、橙の屈託のない笑顔を見るたび藍はそんな悲観的な考えを吹き飛ばしてきた。
「ねえ、藍さま」
「・・・・・・」
「藍さまってば!」
「・・・・ん?ああ、何だ?」
「こんなにいいお天気だし、お散歩に行こうよ」
「そうだな・・・裏の山にでも行ってみようか」
今もそうだ。橙の笑顔を見ていると藍の顔も自然に綻んでくる。
橙は藍に多くを教わって育ってきている。だが、実は藍も橙にかなり救われている所がある。
藍の気持ちが後ろ向きになった時、手を差し伸べているのはいつも橙なのだ。
橙に元気付けられるたび、藍は思う。『橙がいてくれてよかった』と。
「ねえ藍さま、早く行こうよ!」
「ははは、分かった分かった」
先に走っていく橙の背中を見ながら、藍は安堵のため息をついた。
マヨヒガの裏山には桜が咲き乱れている所があったりする。
その、桜のトンネルの中を二人は歩いていた。
さすがに白玉楼の桜には負けるが、このピンク色のアーチは見る者全ての心を掴んで放さない。
「・・・・ふわ~」
「いつ見ても素晴らしいな・・・なあ橙?」
「うん、すごい・・・・・」
トンネルの中を歩いていると、ひらひらと桜の花びらが舞い落ちる。空を見上げれば青とピンクのコントラスト、その中を舞う小さな花びら。
いわゆる桜吹雪だが、この儚げな光景は『桜の粉雪』とでも呼んだ方がいいだろうか。
とにかく、この春の名物を見た二人は自然の偉大さに圧倒されっぱなしだった。
「幸せだな・・・・」
「え、何が?」
「こんなに綺麗な桜を橙と二人っきりで見る事ができてさ」
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
「・・・・・・藍さま」
「何だ・・・・・・?」
「・・・・お腹空いた」
「・・・・・・はぁ・・・・・・・・・・」
思い切り深いため息をつく。だがこれが藍と橙の普段の日々、特に気にするほどではない。
「しょうがない、ずいぶん歩いたことだしそろそろ引き返すとするか」
「うん、もうクタクタだよ~」
「帰り道もあるんだぞ?あと半分頑張れ」
「う~」
まだまだ余裕の藍と息が上がりつつある橙。これもまた二人にとってはよくある光景、やはり気にするほどではない。
帰り道は行きの時より少しだけペースが落ちる。ゆっくりでしか歩けない橙の横には、やはり当然のように藍がいた。
「そうだ、橙。ご飯は何が・・・・」
何気なく横を見ると、いるはずの橙がいない。
「・・・あれ、橙?」
辺りを見回しても気配を感じない。
木の陰に隠れているようではなく、そもそも藍が目を離した一瞬の隙に隠れられるはずがない。
物音ひとつ立てず、藍に気配さえも感じさせず、橙は忽然と姿を消してしまったのだ。
「・・・どういう事?・・・・・・・・これじゃまるで神隠しじゃないか・・・・」
その瞬間、藍は閃いた。だがそれは閃きたくない考えだった。
神隠しの名を持つ術の使い手を一人だけ藍は知っている。身近で、しかしなかなか会う機会のない神隠しの主犯。
藍の主人にしてあらゆるすき間を司るすき間妖怪、紫だ。彼女の顔が真っ先に思い浮かんだ。
「まさか紫様が・・・?だけど、なぜ・・・・なぜ橙を・・・・・・?」
なぜ橙が神隠しにあわなければならないのか。橙はどこに行ってしまったのか。神隠しの主犯はどこにいるのか。
何も分からず、何をしたらいいかも分からず、藍はただ途方にくれるしかなかった。
「ん・・・・・・・」
夢とも現ともつかぬ中、橙は目覚めた。
眠っていたのか気を失っていたのか、記憶が曖昧になっている。
あの時自分に起こった出来事を思い出してみる。
藍と一緒に桜のトンネルを歩いていて、藍の視線が自分から離れた瞬間、まるで水の中に引き込まれるように自分の体が『沈んでいった』。
そこから先の事は何も覚えていない。
「・・・・・えーーっと」
周りを見渡してみる。床も、壁も、天井も、あるようなないような不思議な空間。自分が立っているという実感がなく、
そもそも立っているのか逆さまになっているのかも分からない。
そして見える色は赤と黒。見渡す限りこの二色しか見えない。
何の法則もなく混じり合っている赤と黒と、その中で浮かんでは消える何かの目玉。
不気味以外の何者でもないのに、しかし好奇心も湧いてくる。だから橙はパニックになる事も震える事もなく、
ありのままに思いついた疑問をつぶやいていた。
「ここ・・・・どこだろ?」
『知りたい?』
声が聞こえてきた・・・と言うより、橙の頭の中に響いてきた。
とても落ち着いた、しかしどこか威圧感を感じさせる少女の小さな声。
かすかに聞き覚えがあるように思え、しかし声がくぐもった感じで正体はよく分からない。
「誰!?」
『そんなに身構えてくれなくてもいいわよ。お互い知らない仲じゃないんだし』
「・・・・私の事を知ってるの?ねえ、誰なの?」
『そうね・・・あなたの主人の主人・・・・・・とでも言えば分かってもらえるかしら』
「・・・藍さまのご主人さま・・・・・紫・・・・さま・・・・・?」
返事はない。その代わり、橙の目の前の赤と黒が渦を巻くようにねじれ、その中心から少女が飛び出してきた。
二色だけの世界であまりにも場違いな日傘をさし、幼い顔つきに似つかわしくない紫色の服を着た少女。
これが藍の主人などとは誰も思わないだろう。だが、彼女こそが藍の主人にしてあらゆるすき間を司るすき間妖怪、八雲 紫なのだ。
「ようこそ橙、私の世界へ」
「・・・え、いや、ようこそって言われても・・・・・」
「ここは藍も連れてきた事のない、誰も入る事のできない、私だけの世界。いわば八雲 紫の結界なの」
「・・・・・あの、紫さま?何で藍さまも連れてきた事がないような所に私なんかがいるの・・・?」
「・・・・・・知りたい・・・?」
「ひ・・・・・!!?」
それまで静かな笑みを浮かべていた紫の目つきが鋭くなる。
ちょっと睨みつけた程度だが、それだけで橙の背筋に寒気が走り冷や汗が流れる。
橙と紫の妖怪としての力の差、威圧感の差はこれほどもあったのだ。
「藍とあなたを引き離したかったからよ」
「えっ・・・・・・・!?」
「・・・・とは言っても、永遠に会えなくなるわけじゃないわ。ほんの少しの間だけ」
「・・・紫さま・・・・・・まさか、私に・・・・何かするの・・・・・?」
「なかなか勘がいいわね、その『まさか』よ。その前にまずこれだけはハッキリ言っておきたいんだけど・・・・・」
また、紫の眼光が鋭くなる。今度は橙が声を上げる事すらできない程度に。
そして充分過ぎるほどの沈黙を待ってから、紫は静かに続けた。
「橙、あなたは式として失格よ」
「え?今何て・・・・・?」
「あなたは、式として、失格。そう言ったのよ」
自らを否定された。橙にとっては屈辱どころではなく、むしろ死刑宣告に近い。
そして自分だけではない、藍すらも否定されたように聞こえた。
橙の表情は絶望にとらわれている。橙にとって自分が藍の式であるという事は誇りであり、
藍が自分の主人であるという事も誇りである。それを否定される事はすなわち自らの全てを否定されたようなものだ。
「そん、な・・・・・・」
「あなたの力が弱いのはまだ式として、妖怪として未成熟だから責めるつもりはない。だけど、主人の言いつけを守れないのは見逃せないわ」
紫が橙に向かって手をかざす。白い光が霞のように広がり、辺りに干渉する。
すると橙の両手両足が赤と黒の中に飲み込まれ、大の字になるよう引っ張られていく。
文字通り、橙は磔にされてしまったのだ。
「やあっ!?」
「言いつけを聞けないあなたも悪いけど、藍はそんなあなたにずいぶん甘いみたいね・・・」
「いや、紫さま・・・・」
「藍に代わって私が『教育』するわ」
動けない橙の額に掌を当てる。何をするのか知らないが、それは自分にとってすさまじい苦痛(肉体的にも精神的にも)をもたらすかも知れない。
そう野生の勘が働いたか、橙は何とか手足を引き抜いて逃げようと頑張るが、頑張れば頑張るほど手足は深く飲み込まれていく。
何度も抵抗して肘と膝までが飲み込まれた辺りで、紫の掌が再び輝きだした。
橙の額で放たれた光は火花と音と閃光を発し、彼女の体ではなく心に働きかける。
「あっ・・ああああああああああああああああああああああっ!!!!」
それは、もはや『教育』ではなく『洗脳』に近かった。
「藍の言う事をよく聞く立派な式になれるようにしてあげる。その為にはこの記憶と性格が邪魔なのよ」
「いやだっ・・・・許し・・・て・・・・・・・」
「我慢しなさい。これが終わった時、あなたは藍の思いのままに動く優秀な式として生まれ変わる」
「い・・や・・・・・ぁぁぁ・・・・・・・・・」
「・・・・・・あら?私を探して狐が一匹」
「え・・・らん・・・・さま・・・・?」
「まあ、どうせあなたを連れ戻しに来たんでしょう。せっかくだから別れの挨拶くらいはさせてあげましょうか。
それとも新しい橙の誕生祝いの方がいいかしら?」
「あっ、ゆか・・・・・・」
橙の言葉から逃げるように、紫は空間に穴を開けて『出て行った』。
そして『別れの挨拶』という紫の言葉が残された橙に重くのしかかる。
紫は何気なく言っていたが、記憶を消され性格を変えられるという事は自分が自分ではなくなるという事。
ゆえに死ななくても、一緒にいたとしても、それは『別れ』なのだ。それも永遠の。
「藍さま・・・私、消えちゃうよぉ・・・・消えちゃうの嫌だよぉ・・・・・・」
消え行く空間の穴を見つめ、橙は藍に決して届く事のない泣き声をあげた。
「紫様・・・・」
藍がいるのはまたしても白玉楼の石段の上。ただし、以前に来た時とは違いだいぶ夜の闇が濃くなってきている。
夜にならなければ紫は目覚めない、藍はそれを承知でこの闇の時間を選んだ。
程なく、陽炎のように空間が歪み裂け目ができる。
そして赤と黒の世界の中から、まるで狭い穴から出てくるように紫が窮屈そうに出てきた。
「ふぅ・・・・・あら藍、こんな所で会うなんて奇遇ね」
「・・・・・・紫様はここに来る・・・何となく、そう思ってました」
「そう、じゃあ私に何か用でも?」
紫は余裕の表情を崩さない。藍の出方を見て試そうとしているのだ。
もっとも、藍の出方など紫はたった一つしか予想していなかったしそれ以外はありえないと考えているのだが。
「はい・・・・紫様、橙を見ませんでしたか?」
「(まあ、ほぼ予想通りの答えね)・・・なぜ私に聞くの?」
「橙は・・・私が一緒にいながら一瞬の隙に姿を消してしまいました。それで、こんな事を言うのは失礼だと承知していますが、
こんな神隠しができるのは私の知る限り紫様しかいませんので」
「・・・橙なら私が預かってるわ」
この一言に、藍がすかさず食いついてきた。
「やはり紫様が・・・・・・連れ去った理由は聞きません、橙を帰して下さい」
「すぐには帰せないわ。今ちょっと立て込んでるの、ほら」
自分が出てきた所の空間を再び歪め、大きな裂け目を作って中を見せる。
磔にされ、虚ろな瞳で涙を流す橙の姿が藍の目に飛び込んできた。
これを見た藍が冷静でいられるはずがない(橙がいなくなった時から彼女は気が気じゃあなかったが)、
駆け寄ろうとするがそれを紫が阻んだ。
「紫様!?」
「まあ、これには色々理由があるんだけど・・・」
「理由は聞かないと言いました!さあ、早く橙を解放して下さい!」
「・・・藍・・・・・・未熟な式を持って苦労した事はない?」
「え・・・いきなり何を・・・・?」
「あなたが甘いからかしら、橙はあなたの言いつけも守れない。自分の力を大きく超える鬼神を憑けてみたりね」
「そ・・・それは・・・私が許可を出してしまったからで・・・・」
「とにかく。橙があなたの言いつけをちゃんと守れるようにあなたに代わって私が橙を『教育』してあげようと思ってるの」
だが、目の前の光景は『教育』とは程遠い。少なくとも藍の目には拷問か何かに見えた。
これを『教育』と言うなら、それが終わった後の橙は一体どうなってしまうのか?少なくとも彼女の知る橙ではなくなってしまうかも知れない。
ついこの前橙に死ぬほど辛い思いをさせてしまったばかりだというのに、また同じ辛い思いをさせるわけにはいかない。
だから、主人である紫に対して藍は初めて牙をむいた。
「やめて下さい、紫様・・・たとえ紫様でも、そんな事はさせない」
「・・・こんな事をさせたくない?じゃあ、力ずくで何とかしてみる?」
「紫様が橙を解放しないと言うのなら・・・それも仕方ないと思ってます・・・・・・橙は、私の大切な式です・・・・・」
「藍・・・・・・」
紫の瞳が怪しく輝く。橙を睨んだ時と同じ目だ。
「あなたの妖怪としての力は認めてる。私の式としても今までよくやってくれたと思ってる。
だけど、自由意志を持たせたのは間違いだったのかも知れないわね。
私の冬眠中にも自分で考え働けるように、と考えたんだけど・・・」
「・・・・・・・・・」
「私の式として生まれたあなたは、私の弾幕を真似して自らの武器とした。それで私に勝てる、と?」
瞬間、紫の妖気が禍々しいほどに膨れ上がった。
橙なら本能的に恐怖を感じ腰を抜かすか逃げるかしているだろう。藍ですらこの圧倒的なプレッシャーを前に思わず一歩引いていた。
しかし逃げるわけにも腰を抜かすわけにもいかない。固い決意が藍を踏みとどまらせていた。
「・・・千年の時を生きてどれほどの力をつけようとも、私の模倣をしている限り私は超えられない。違うかしら?」
「なら今この瞬間だけでもいい・・・・私は、あなたを超えます・・・・・・・」
「やってご覧なさい。できるものなら」
罔両『八雲紫の神隠し』
「その昔・・・あなたと出会う前だからそれは千年以上も昔の事。私は、いわゆる神隠しにあった。
そしてそれは私の原点でもある」
結界『生と死の境界』
『人間と妖怪の境界』
「神隠しにあった私は生死の境を彷徨った。永く彷徨い続けた末、ついに私は私を飲み込んだ闇を
取り込む事で生き延びた。同時に、私は人間をやめた・・・」
式神『八雲藍』
「ちょうど千年前、あなたと出会った。死にかけだった名もない九尾の狐を拾い、名前を与えたのは私。
そんな私に一生ついていくと言ったのはあなた。口約束だけど、契約はまだ効力を失っていない」
罔両『禅寺に棲む妖蝶』
魍魎『二重黒死蝶』
「私はこの世界で誰よりも孤独で、誰よりも離れていると思ってた。だけどそんな私にも友ができた。
いや、友は昔からいた。私は神隠しにあって妖怪になり、幽々子は生死の境を越えて死の世界にやって来ただけの事。
生死の境を見た者同士、お互い下界を離れても再び出会う運命だったのかも知れない・・・」
結界『動と静の均衡』
「あなたも式を使役できるようになったと聞いて、私は驚いた。式を使役する式など、今まで見た事も聞いた事もなかったから。
そして、あなたの式を見て私はまた驚いた。驚いたというより、物静かなあなたとの落差に笑った。
私とあなたと橙を見て、幽々子は『家族みたい』と言ってくれた。もう私は孤独じゃない・・・その時確かに実感した」
「・・・・私はあなたより永く生きている。あなたより多くの物を見て、あなたより多くの事を知っている。
だから、これもあなたの為と思ってやったのに・・・・・・思いがすれ違ってるみたいね」
「・・・私と紫様では、橙に対する想いが違う。だからすれ違う」
「だけどもう遅い・・・・・・弾幕の結界は既に四方八方に張られているから」
紫の言葉通り、藍を取り囲むように僅かなすき間もないほど無数の弾が配置されている。
紫が何か合図を出せば、その全てが藍に向かって殺到するだろう。
そして藍には、それらの弾全てを防ぐ力も避ける力も残っていなかった。紫の結界の数々をくぐり、
その身は橙が暴走した時以上に消耗していたのだ。
もっとも、消耗しているのは次々に結界を繰り出す紫も同じだったが。
「紫様・・・そんなに何重も結界を張って・・・・一体その先に何を護っているというのですか・・・・・・・?」
「・・・・・・護っているのは、私の全て。弾幕結界は私を護る最後の砦。だからこれは『結界』ではなく『奥義』と呼ぶ。
あなたが命を賭けてここまで踏み込んだのなら、私も全てを賭ける他ないのよ・・・・・」
「紫様・・・・・・」
「藍・・・・・・」
「その結界・・・・破らせてもらいます」
「この結界で、私は全てを護る・・・・」
「紫奥義『弾幕結界』・・・・・・」
白玉楼に一際大きなクレーターができた。
紫の最後の力を振り絞った弾幕結界、真ん中にいる藍めがけて全ての弾が飛んできたのだからたまらない。
破壊が破壊の連鎖を生み、流れ星が落ちた跡のようないびつな半球形を作り出す。
そしてその上空には紫が佇んでいた。
ピシッ。
「藍、色々と聞きたい事があるわ」
ピシッ。
「私と本気の勝負をして、本当にどうにかなるとでも思っていたの?」
ピシッ。
「どうにかなると思っても、その程度の自信じゃ普通私には挑まないわ。相討ちする危険なんかも考えて」
ピシッ。
「なのになぜ挑むの・・・?そして・・・・・・・」
ピシリ。
「・・・・・そして、なぜこの奥義を破れたの・・・・・・・・・?」
クレーターの外周を回っている幾つもの魔法陣が、ガラスのように粉々に砕け散る。
弾幕結界が破られた(紫が力を使い果たした)という事だ。
そして、クレーターの中心にいる藍は辛うじて立っていた。いや、立っていると言うより『脚が曲がっていないだけ』なのかも知れない。
誰か指で突付いただけでも倒れてしまいそうな、危ういバランスを保ちながらも藍は倒れずにいた。
「・・・なぜ、と聞かれても・・・・・自分でもよく分かりません・・・・」
「分からないか・・・・運が味方したのかしら・・・・」
「そうかも知れません・・・ただ、私は橙を助けたかった・・・・・・それだけなんです・・・・・自信とか予想とかじゃないんです・・・・」
「・・・・・よく分かったわ」
紫の背後に空間の裂け目ができる。人が通れる程度の大きさになると、中から橙が出てきた。
彼女の手足を縛る物は何もない。力なくうなだれているが、安らかな顔で眠っているようにも見える。
・・・と言うより、橙は確かに眠っていた。
「橙・・・・・!?」
「あなたの思い・・・いや強い想い、よく分かったわ。橙は帰します」
「紫様・・・・」
「ただし」
橙と入れ替わり、紫が空間の裂け目に入る。
彼女も藍と同様に消耗しきっているのだがその表情は穏やかで、しかし藍の主人としての貫禄は保ったままだった。
「あなたの気持ちが本物なら、あなたが本当に橙の為を想うなら、甘やかし過ぎはよくないわ。
これは命令じゃない、八雲 紫からのアドバイスです」
「はい・・・・ありがとうございます・・・・・」
「じゃあ私はこれで。二人とも、幸せにね・・・・・・」
まるで結婚する男女を祝福するような台詞を最後に残して、紫は世界のすき間に入って行った。
波紋のような物が空間に一度広がり、後にはもう何も残っていない。夜の静寂が辺りを支配する。
誰もいない死の世界で、二人は二人っきりになった。
「ん・・・・・・」
橙の、この日二度目の夢と現だった。
うっすら目を開け、頭をボンヤリさせたまま眠い目をこする。
その目に最初に映ったのは、満天夜空に浮かぶ大小の星々と丸い月だった。
「あれ・・・・え・・・?」
自分が最後に見たのは赤と黒に支配された世界と恐ろしい目つきで睨みつけてきた紫。
最後の記憶は耐え難い頭痛と恐怖、悲しみ。
そして今見ているのは夜空と星、頭痛はないしなぜか恐怖も悲しみもない。
柔らかい感触が後ろから伝わってくる。とても柔らかくて、暖かくて、懐かしい感触。
そして、見覚えのある顔が満天の夜空を塞いだ。
「橙、目が覚めた・・・・・・?」
月明かりの逆光で顔が見えないが、その声と喋り方は忘れるはずがない。
「ら・・・藍さま・・・・?」
「よく頑張ったな、橙。もう大丈夫だ」
橙は藍の膝枕に頭を預けて眠っていた。
安らかな顔で眠る橙とそれを安心して見つめる藍。その姿は、姿形がどんなに似ていなくとも親子のように映る事だろう。
「紫様は悪気があってあんな事をしたわけじゃないんだ・・・許してやってくれ」
「・・・うぐっ、らんさま・・・・・」
橙の顔が歪む。次に何をするか、藍には考えるまでもなく分かる。
だから、橙を起こし優しく抱いてやった。
我慢ができなくなったか、あるいは藍の抱擁を待っていたかのように、橙は藍の胸の中で感情を爆発させる。
「らん・・さまぁ・・・・・・うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!怖かったよ、こわかったよぉぉぉぉぉぉっ!!」
「もう大丈夫だ・・・私がついてるから」
「ちっ・・・・違うよ・・・私が怖かったのは紫さまじゃあなくって・・・・・」
「ん?」
「あの時・・・私が私じゃなくなるような気がしたの・・・・
私が私じゃなくなったら、もう一生藍さまに会えなくなるような気がして・・・・・」
「・・・・そうか・・・・・・・」
「藍さまに会えなくなるのが一番怖かったんだよぉ・・・・・・」
それっきり、橙は静かに泣いていた。
一瞬で感情を全て爆発させたからかも知れないし、逆に藍がいるという安心感が橙の心を落ち着かせているのかも知れない。
藍はすすり泣きを続ける橙の頬にそっと唇を落とし、耳元でささやいた。
「私もな・・・お前がいなくなると思うと恐ろしくて気が気じゃなくなっちゃうんだ・・・・お前と同じさ」
「藍さま・・・・・」
「橙、お前はずっと私の式だ。誰にも、紫様にも渡さない。私がいつも一緒にいるよ」
「はい・・・私・・・・・・これからもずっとずっと藍さまの式です!」
「ありがとう・・・・・・」
静かに抱き合う二人の姿は、傍目から見れば愛し合う男女にしか見えなかった。
紫が去り際に『幸せにね』と言ったのは、自分たちのこの姿を予想していたからなのかも知れない・・・
藍はそう考え、橙と抱き合いながら自嘲気味に微笑んだ。
(これじゃ本当に結婚するみたいだな・・・・でも、ずっと一緒に暮らすんだから大して変わらないか)
橙の小さな背に腕を回しながら藍は祈った。
いつまでも、この幸せが続きますように・・・・・・
ちょうどその頃。
藍たちのはるか上空で空間の裂け目が再び開いていた。
境を越えて出てきたのは言うまでもなく、紫。
「うふふふふ・・・・・」
眼下の光景を目にして、紫は思わず笑みを漏らす。
それは馬鹿馬鹿しいからでもなければ面白いからでもなく、微笑ましさと自嘲が半分ずつ混じったものだった。
「藍のあの甘さ・・・一体誰に似たのかしら」
ペットは飼い主に似る。犬や猫にはよく当てはまる事だ。
藍は紫のペットではないが、主従関係という点では人間と犬猫の関係に通じるものがあるのかも知れない。
だからこその自嘲なのだ。
「・・・・まあ、一分の隙もなく厳しすぎるのよりはだいぶマシだけど」
紫が藍をあんな風に抱きしめた事は、この千年でたった一度もなかった。
紫の冬眠中に、彼女の手足となって働ける存在として生まれた藍。紫は、基本的に藍を放ったらかしにしていた。
自由意志を持つ藍はそれ故に押し潰されそうなほどの孤独感に苛まれ、それを少しでも紛らわそうと橙を生み出した。
自分の助手がほしかったからと紫にはそう説明したが、無論そんなものは建前でしかなかった。
自分が味わった孤独を橙には味わってほしくない・・・・・・それが、藍の橙に対する想いの原点だ。
そして、藍と同じ孤独を知っている紫も無意識のうちに今の藍と同じ想いを秘めていた。紫はそれに気づいていなかったが。
だから紫は藍の前にあえて姿を現し、本気の勝負をして藍の気持ちを確かめた。彼女もまた、藍の事を想っていたのだ。
「『想いが、力になる。想いを、力にする。』か・・・・誰が言ったか知らないけど、全くその通りね・・・・・」
弾幕結界の時の事を思い出す。
あの時、藍は紫の奥義を破ったのを指して『運が味方したのかも知れない』と言った。
それは半分正解で半分間違いだと紫はその時知っていたが、とりあえず言わない事にしておいた。
弾幕結界は運だけで乗り切れるものではない。運の良し悪しなど関係ないほどに弾を敷き詰めるのだ、適当に動いて助かるはずがない。
それに紫は見ていた。藍は弾幕結界を『避けた』のではなく『防いで』いたのだ。それも無意識のうちに。
生死の境を前にして彼女の持つ潜在能力が一時的に目覚めた・・・そう結論付けるしかない。
藍の神憑り的な想いの強さが潜在能力の発現という強運を引き込み、弾幕結界を防ぎきるという奇跡を起こした。
『病は気から』などという言葉もあるが、想いは確かに力になったのだ。
「・・・あれだけの想いがあれば、もう私がとやかく言う必要はないか・・・・・頑張りなさいな。
あなた達は夢を現にする呪(まじない)を知っている。それがあれば、どんな事も二人で乗り越えていける・・・・
いえ、私もいるから三人ね。どんな事も三人で乗り越えていけるわ・・・・・・」
季節は春、時間は真夜中。紫が活動するのにこれほど都合のいい時はない。
だがやる事など別に何もなかったので、ゆっくりと石段を降りる二人の式をいつまでも見送っていた。
「・・・・・・・・ん?」
「どうかしたの、藍さま」
「いや・・・誰かに見られてたような感じが・・・・・」
「きっと幽霊さんだよ。ほら、ここってあの世だし」
「・・・・そうだな、幽霊だな」
(紫様か、ありがとう・・・・・・・)
「そうだ橙、これを聞くのを忘れてた・・・・とても大事な事なんだ」
橙の肩をしっかり掴み、瞳をまっすぐ見つめる。
こんな事は藍は今まで一度もした事がない。橙は心臓が飛び出そうなほど緊張し、顔を真っ赤にした。
「橙・・・・・」
「な、何・・・・・・?」
「お腹・・・・空いてるだろ?」
「・・・・・・・え?」
「言ってたじゃないか、『お腹空いた』って。こんな時間だけど、食べたいもの作ってやるよ」
「・・・・あ・・・そ、そうだっけ・・・・・・・・じゃあ・・・・・ご飯とお味噌汁とお魚」
「よし、腕によりをかけて美味しいのを作ってやる!」
今宵は満月。だが、その月よりさらに眩い光がここに三つもある。
橙は孤独な藍の心に射し込んだ星の光だった。
藍はいつでも橙を明るく照らす太陽の光だった。
紫はそんな二人の足元を照らす月の光だった。
紫の祝福を受けた藍と橙。二人は、今までにも増して綺麗に輝こうとしていた。
(end)
敢えて言うなら、結末の意外性、もしくは書き方に特徴を持たせると尚良いかなと。
序盤の藍と橙のやり取り。ずっと涙目になりながら読み続けていました。
EX、PHステージを見事に補完した素晴らしい作品だと思います。
このSSをきっかけに、その後私の八雲一家の見方ががらりと変わる程