深山の如く樹木生い茂る庭の一角で、対峙する人影が二つ。
遠くから見れば、それは人影とは見えなかったかもしれない。
その人影には、全く動きがなかった。
まるで、立ち並ぶ樹木の如くに。
吹き抜ける風にも揺らがず聳え、ただ地を這う影だけが陽に追い立てられ、
少しづつ形を変えてゆく。
人影は、刀を構えていた。
奇妙な構図とみえた。いや、奇妙というよりは不自然、
むしろ異常というべきかもしれなかった。
一人は二尺足らずの小太刀を片手に下げただけの格好で佇立していた。
そしてもう一人。
構えは青眼。だが、構えたその刀の長さが尋常ではなかった。
五尺に届こうという長刀。構えた人影の身長ほどもある。
小太刀に対し長刀。互角の業前であれば、圧倒的に長刀が有利である。
だが、追い詰められているのは長刀を構えている側だった。
対峙より数刻。
人影が初めて動いた。
長刀の剣尖が少しづつ上がってゆく。そのまま天を指した刀が、
顔の横に構えられる。八双の構え。
小太刀を構えた側は微動だにしない。
さらに、不動の数刻が続くと見えた刹那。
長刀が唸りを上げて振り下ろされる。振り下ろされた先には、
やや薄くなった銀髪の頭。だが、軌道上にあったはずの頭は
ゆらりとその位置を逃れていた。
間髪入れず長刀の軌道も変わる。垂直に振り下ろされていた刀身が
捻られるや、横薙ぎの一閃へと変化、胸元を狙う。
小太刀は下げられたまま動かず、躯だけが僅かに揺らぐ。
変化した剣尖は胸先一寸を掠めて流れた。
横に流れた長刀はさらに変化した。大きく弧を描いて足元を狙うと
見せつつ、さらに一歩。踏み込みと同時に、反された刀身が斜めに跳ね上がる。
脇腹から肩口へと抜ける逆袈裟。直撃すれば致命、渾身の一撃。
だが、その軌跡には、何も、なかった。
跳ね上げる直前、僅かに合わされた小太刀が、長刀の軌道を逸らしていた。
長刀が捉える筈だった躯が、小太刀と共に低い体勢で長刀の懐へと滑り込む。
振り抜いた長刀を反す暇もあらばこそ。
神速の小太刀が、喉元に突きつけられていた。
切り揃えられた銀髪が、揺れた。
またも不動の刻。だが、今度はあっさりと崩れた。
長刀が、ゆっくりと下ろされる。
併せて、喉元を狙っていた小太刀も引かれた。
双方ともに刀を納め、軽く礼。
稽古が終わった。
小太刀を手に、無言で背を向け去ってゆく老人を軽く会釈して見送りながら、
少女は溜息をついた。
銀髪の老人は、同じく銀髪の少女の師である。
老人は、自らの主家に、庭師と主人の護衛という、奇妙な二役で仕えていた。
少女は、その老人の弟子であった。いずれその二役を任されるためにも、
一刻も早く師の腕に追いつこうと、日夜修練を欠かさなかった。
だが。
――情けない。これほどの長刀を持ってなお、師匠と互角に撃ち合うことすらならぬ。
先ほどの対決を思い起こし、少女は暗澹たる思いだった。
奇妙な師と弟子であった。
傍目には老爺と孫娘にしか見えない二人に、交わされる言葉は驚くほど少なかった。
日々の剪定の仕事において、老人はほとんど無言であった。ただ、枝葉の切り落とされる
音だけが、広大な庭を移ろってゆく。
弟子の少女もまた、言葉を発することなく、師のそれを見て同じように仕事をこなす。
少女が行った仕事振りに対し、老人が何か言葉を掛けることもまた殆どなかった。
時折、黙って仕事の跡を見、そして少女を見た。ただそれだけが、少女には何より堪えた。
比べるべくもない師との仕事振りの差を突きつけられているようであった。
剣術の稽古においてもまた、同様であった。
否、より厳しいものであったと云える。
この二人の間に、所謂型稽古は存在しなかった。
全て仕合稽古、つまり実戦形式での撃ち合いである。
刃引きの剣を用いて行うそれは、既に稽古と呼べるものではない。
それは、常に二人の剣士の果し合いであった。
過酷極まるこの試練についてゆく、そのこと自体、少女の並々ならぬ力量を
物語るものではあったが、それを以ってしてもなお、師との差は覆いがたいものがあった。
その歴然たる差の表れが、両者の扱う刀である。
老人は、常に小太刀一本のみを帯び、立ち会った。
対する少女が遣うのは、定寸の刀。もとより、少女がそれを望んだわけではない。
ただ、師に渡される刀を以って仕合う。それだけであった。
だが、刀の長さなどまるで意に介さず、勝つのは常に老人の側であった。
そして、老人が少女に渡す刀は、次第に長くなっていった。
少女は内心忸怩たる思いであった。
この刀の長さが今のお前と儂の業前の差と、面罵されているに等しい。
だが、それも己の腕の至らぬ故と、黙ってそれを遣った。
そうして幾年月が過ぎ、少女は、己の躯ほどもある長刀を振るうようになっていた。
仕事を終え、就寝前の一時。庭先で一人稽古を行うのが少女の日課であった。
長刀が夜闇を裂いて唸る。恐るべき速度で振るわれ、そして中空にぴたりと静止する。
稽古に専心しているように見えて、しかし少女の心は千々に乱れていた。
――長刀を扱うことには慣れた。だが、それでどうなろう。
相も変わらず師の腕には届かず、そして自分はこのような無様な長刀を振るっている。
師は紛れもなく強い。とはいえ、小太刀対手にこれ程の長刀を振るってなお
互角にすら撃ち合えない自らの不甲斐無い腕に、落胆せずにはいられなかった。
そして、少女は唐突に思い至った。
――そも、師匠の業は小太刀業。このような刀を振るっている私がその業を
会得するなど、到底適わないではないか。
膝から力が抜ける思いだった。
時折師が見せる眼差しが思い出された。冷たく厳しい光を放つ瞳。
――私は師匠と呼んでいるが、師匠は私を弟子と認めて下さっているのか。
迷いを断とうと、一際気合を込めて振るった刀は、いつになく重かった。
翌日、普段どおり老人と少女が仕合った。
数合撃ち合ったのみで、少女は常にないほどあっさりと負けた。
迷いが表れているのは明白であった。
常ならば何も云わず去ってゆくの筈の老人が、今日は黙したまま少女を眇める。
腑抜けた剣を叱責されるのであろうと覚悟しながらも、少女は顔を上げられずにいた。
失意の浮かぶ師の瞳を、あの冷たく厳しい光を見るのが怖かった。
だが叱責はなく、ただ、ついて来なさい、とだけ老人は云って、歩き出した。
拍子抜けしつつも不安を拭えぬまま、少女は従った。
老人が足を止めたのは、庭でもひときわ大きな樹の前だった。
大の大人が数人でも囲みきれぬ、巨大な桜。
何やら曰くがある樹だと聞いたことがあったが、それ以上のことは知らなかった。
季節外れの桜を、しばし見上げた。
老人は唐突に、この樹が斬れるか、と問うた。
少女は考え、そして素直に、斬れません、と応えた。
刀で樹を斬る、その難しさはさておいても、之程の巨樹、
少女の長刀を以ってしても、届く道理がなかった。
では、と桜の傍に咲く花を指し、老人は云った。
――この花が斬れるか。
少女は訝しがりながらも、斬れます、と応えた。
手折るも容易い花一輪、斬れぬ道理がなかった。
老人はゆっくりと頭を振り、そして少女に向き直り、云った。
――斬れるか斬れないか、ではない。
――斬るか、斬らぬか、だ。
――この桜とて、斬ると決めたならば、斬れる。
――だが、斬らぬと決めたならば、たとえ刀を振ろうとこの花一輪斬れぬ。
――剣士とはそうあるべき。剣は理に働くとも、心は理に依ってはならぬ。
そう云うと老人は花の前に立ち、少女に、この花を斬ってみよ、と云った。
云われるままに長刀を抜き、構えた。師の足下に、僅かにのぞく花が揺れる。
容易く斬れるはずの花。
だが、剣尖が震えた。師を傷つけずに、刀を振るう自信はなかった。
動けずにいる少女をしばし見、老人は、もうよい、と声をかけた。
そのまま少女が持っていた刀を受け取り、今度は少女を花の前に立たせた。
小柄な少女のか細い足の傍に、揺れる花一輪。
長刀を遣う師を、少女は初めて見た。だが、その構えには些かの乱れもない。
刹那。
一陣の風が少女を吹き抜けた。
足下に一輪の花が斬られ落ちているのを見、初めて少女は師が長刀を
振るったことに気づいた。恐るべき太刀往きの迅さであった。
もとより、少女の身に毛一筋ほどの傷もない。
老人は少女に刀を返すと、少女の瞳を見据えて云った。
――精進せよ。己の剣に断てぬものなしと思えるまで。
――いつか、この桜を斬らねばならぬ日が来るやも知れぬ。
――だが、その日が来るまでは、この桜を護らねばならぬ。
――それが、我らの務め。
確信めいた物言いをする老人の瞳は、厳しかったが冷たくはなかった。
そして、仕事に戻れ、とだけ云って、少女に背を向けた。
去ってゆく師を見送りながら、少女は足下に転がる花を拾った。
師の言葉の真意は判らなかった。だが、我ら、と師が呼んでくれた、
そのことが少女の不安を僅かに拭い去ってくれた。
老人が白玉楼から姿を消したのは、数日後のことである。
寝所は綺麗に整頓されており、床の間の前に主家である西行寺家の主人に宛てた手紙と、
二振りの刀が残されていた。
手紙には「我魂魄が仕えし御役目は、我が弟子に任せて戴きたく候」とあった。
少女に対しては言葉は残されていなかった。
ただ、二振りの刀が何よりも雄弁に師の思いを語っていた。
一振りは、小太刀。師が常日頃帯びていたものとほぼ同じ寸法、拵え。
違うのは刀身に切られた「白楼」の銘。魂魄の家に伝わる宝刀であった。
そしてもう一振り。五尺近い尋常ならざる長刀。並みの遣い手では振るうことすら
適わぬ刀。黒鞘拵えのそれに切られた銘は「楼観」。もう一本の宝刀。
楼観を手にとる。少女は、自らが振るい続けた無様な長刀の意味を初めて知った。
一挙動で鞘を払う。鋭い鞘鳴りが室内に響いた。
冷たく厳しく光る刀身に、師の瞳を思い出す。頬が濡れた。
――判りました、師匠。この二振り、必ず遣いこなしてみせます。
以来、西行寺家の庭師兼護衛は小柄な少女となった。
少女は常に、その身に似合わぬ長刀を負っていた。
その身に合うはずの腰に帯びた小太刀は、滅多に抜かれることはなかった。
未だそれを振るうには未熟と、誰よりも少女自身が知っているから。
少女は今日も修行に余念がない。長大な鞘を事も無げに払い、長刀を一心に振るう。
いつの日か、師が帰ってきた時、今度こそ師と互角に撃ち合う為、いや、師に打ち勝つ為に。
そして、胸を張ってこう云うために。
――この楼観に 我が剣に 断てぬものなどない!
黒鞘の端に結わえた一輪の花。
厳しくも優しい風に吹かれ、かさり、と鳴った。
遠くから見れば、それは人影とは見えなかったかもしれない。
その人影には、全く動きがなかった。
まるで、立ち並ぶ樹木の如くに。
吹き抜ける風にも揺らがず聳え、ただ地を這う影だけが陽に追い立てられ、
少しづつ形を変えてゆく。
人影は、刀を構えていた。
奇妙な構図とみえた。いや、奇妙というよりは不自然、
むしろ異常というべきかもしれなかった。
一人は二尺足らずの小太刀を片手に下げただけの格好で佇立していた。
そしてもう一人。
構えは青眼。だが、構えたその刀の長さが尋常ではなかった。
五尺に届こうという長刀。構えた人影の身長ほどもある。
小太刀に対し長刀。互角の業前であれば、圧倒的に長刀が有利である。
だが、追い詰められているのは長刀を構えている側だった。
対峙より数刻。
人影が初めて動いた。
長刀の剣尖が少しづつ上がってゆく。そのまま天を指した刀が、
顔の横に構えられる。八双の構え。
小太刀を構えた側は微動だにしない。
さらに、不動の数刻が続くと見えた刹那。
長刀が唸りを上げて振り下ろされる。振り下ろされた先には、
やや薄くなった銀髪の頭。だが、軌道上にあったはずの頭は
ゆらりとその位置を逃れていた。
間髪入れず長刀の軌道も変わる。垂直に振り下ろされていた刀身が
捻られるや、横薙ぎの一閃へと変化、胸元を狙う。
小太刀は下げられたまま動かず、躯だけが僅かに揺らぐ。
変化した剣尖は胸先一寸を掠めて流れた。
横に流れた長刀はさらに変化した。大きく弧を描いて足元を狙うと
見せつつ、さらに一歩。踏み込みと同時に、反された刀身が斜めに跳ね上がる。
脇腹から肩口へと抜ける逆袈裟。直撃すれば致命、渾身の一撃。
だが、その軌跡には、何も、なかった。
跳ね上げる直前、僅かに合わされた小太刀が、長刀の軌道を逸らしていた。
長刀が捉える筈だった躯が、小太刀と共に低い体勢で長刀の懐へと滑り込む。
振り抜いた長刀を反す暇もあらばこそ。
神速の小太刀が、喉元に突きつけられていた。
切り揃えられた銀髪が、揺れた。
またも不動の刻。だが、今度はあっさりと崩れた。
長刀が、ゆっくりと下ろされる。
併せて、喉元を狙っていた小太刀も引かれた。
双方ともに刀を納め、軽く礼。
稽古が終わった。
小太刀を手に、無言で背を向け去ってゆく老人を軽く会釈して見送りながら、
少女は溜息をついた。
銀髪の老人は、同じく銀髪の少女の師である。
老人は、自らの主家に、庭師と主人の護衛という、奇妙な二役で仕えていた。
少女は、その老人の弟子であった。いずれその二役を任されるためにも、
一刻も早く師の腕に追いつこうと、日夜修練を欠かさなかった。
だが。
――情けない。これほどの長刀を持ってなお、師匠と互角に撃ち合うことすらならぬ。
先ほどの対決を思い起こし、少女は暗澹たる思いだった。
奇妙な師と弟子であった。
傍目には老爺と孫娘にしか見えない二人に、交わされる言葉は驚くほど少なかった。
日々の剪定の仕事において、老人はほとんど無言であった。ただ、枝葉の切り落とされる
音だけが、広大な庭を移ろってゆく。
弟子の少女もまた、言葉を発することなく、師のそれを見て同じように仕事をこなす。
少女が行った仕事振りに対し、老人が何か言葉を掛けることもまた殆どなかった。
時折、黙って仕事の跡を見、そして少女を見た。ただそれだけが、少女には何より堪えた。
比べるべくもない師との仕事振りの差を突きつけられているようであった。
剣術の稽古においてもまた、同様であった。
否、より厳しいものであったと云える。
この二人の間に、所謂型稽古は存在しなかった。
全て仕合稽古、つまり実戦形式での撃ち合いである。
刃引きの剣を用いて行うそれは、既に稽古と呼べるものではない。
それは、常に二人の剣士の果し合いであった。
過酷極まるこの試練についてゆく、そのこと自体、少女の並々ならぬ力量を
物語るものではあったが、それを以ってしてもなお、師との差は覆いがたいものがあった。
その歴然たる差の表れが、両者の扱う刀である。
老人は、常に小太刀一本のみを帯び、立ち会った。
対する少女が遣うのは、定寸の刀。もとより、少女がそれを望んだわけではない。
ただ、師に渡される刀を以って仕合う。それだけであった。
だが、刀の長さなどまるで意に介さず、勝つのは常に老人の側であった。
そして、老人が少女に渡す刀は、次第に長くなっていった。
少女は内心忸怩たる思いであった。
この刀の長さが今のお前と儂の業前の差と、面罵されているに等しい。
だが、それも己の腕の至らぬ故と、黙ってそれを遣った。
そうして幾年月が過ぎ、少女は、己の躯ほどもある長刀を振るうようになっていた。
仕事を終え、就寝前の一時。庭先で一人稽古を行うのが少女の日課であった。
長刀が夜闇を裂いて唸る。恐るべき速度で振るわれ、そして中空にぴたりと静止する。
稽古に専心しているように見えて、しかし少女の心は千々に乱れていた。
――長刀を扱うことには慣れた。だが、それでどうなろう。
相も変わらず師の腕には届かず、そして自分はこのような無様な長刀を振るっている。
師は紛れもなく強い。とはいえ、小太刀対手にこれ程の長刀を振るってなお
互角にすら撃ち合えない自らの不甲斐無い腕に、落胆せずにはいられなかった。
そして、少女は唐突に思い至った。
――そも、師匠の業は小太刀業。このような刀を振るっている私がその業を
会得するなど、到底適わないではないか。
膝から力が抜ける思いだった。
時折師が見せる眼差しが思い出された。冷たく厳しい光を放つ瞳。
――私は師匠と呼んでいるが、師匠は私を弟子と認めて下さっているのか。
迷いを断とうと、一際気合を込めて振るった刀は、いつになく重かった。
翌日、普段どおり老人と少女が仕合った。
数合撃ち合ったのみで、少女は常にないほどあっさりと負けた。
迷いが表れているのは明白であった。
常ならば何も云わず去ってゆくの筈の老人が、今日は黙したまま少女を眇める。
腑抜けた剣を叱責されるのであろうと覚悟しながらも、少女は顔を上げられずにいた。
失意の浮かぶ師の瞳を、あの冷たく厳しい光を見るのが怖かった。
だが叱責はなく、ただ、ついて来なさい、とだけ老人は云って、歩き出した。
拍子抜けしつつも不安を拭えぬまま、少女は従った。
老人が足を止めたのは、庭でもひときわ大きな樹の前だった。
大の大人が数人でも囲みきれぬ、巨大な桜。
何やら曰くがある樹だと聞いたことがあったが、それ以上のことは知らなかった。
季節外れの桜を、しばし見上げた。
老人は唐突に、この樹が斬れるか、と問うた。
少女は考え、そして素直に、斬れません、と応えた。
刀で樹を斬る、その難しさはさておいても、之程の巨樹、
少女の長刀を以ってしても、届く道理がなかった。
では、と桜の傍に咲く花を指し、老人は云った。
――この花が斬れるか。
少女は訝しがりながらも、斬れます、と応えた。
手折るも容易い花一輪、斬れぬ道理がなかった。
老人はゆっくりと頭を振り、そして少女に向き直り、云った。
――斬れるか斬れないか、ではない。
――斬るか、斬らぬか、だ。
――この桜とて、斬ると決めたならば、斬れる。
――だが、斬らぬと決めたならば、たとえ刀を振ろうとこの花一輪斬れぬ。
――剣士とはそうあるべき。剣は理に働くとも、心は理に依ってはならぬ。
そう云うと老人は花の前に立ち、少女に、この花を斬ってみよ、と云った。
云われるままに長刀を抜き、構えた。師の足下に、僅かにのぞく花が揺れる。
容易く斬れるはずの花。
だが、剣尖が震えた。師を傷つけずに、刀を振るう自信はなかった。
動けずにいる少女をしばし見、老人は、もうよい、と声をかけた。
そのまま少女が持っていた刀を受け取り、今度は少女を花の前に立たせた。
小柄な少女のか細い足の傍に、揺れる花一輪。
長刀を遣う師を、少女は初めて見た。だが、その構えには些かの乱れもない。
刹那。
一陣の風が少女を吹き抜けた。
足下に一輪の花が斬られ落ちているのを見、初めて少女は師が長刀を
振るったことに気づいた。恐るべき太刀往きの迅さであった。
もとより、少女の身に毛一筋ほどの傷もない。
老人は少女に刀を返すと、少女の瞳を見据えて云った。
――精進せよ。己の剣に断てぬものなしと思えるまで。
――いつか、この桜を斬らねばならぬ日が来るやも知れぬ。
――だが、その日が来るまでは、この桜を護らねばならぬ。
――それが、我らの務め。
確信めいた物言いをする老人の瞳は、厳しかったが冷たくはなかった。
そして、仕事に戻れ、とだけ云って、少女に背を向けた。
去ってゆく師を見送りながら、少女は足下に転がる花を拾った。
師の言葉の真意は判らなかった。だが、我ら、と師が呼んでくれた、
そのことが少女の不安を僅かに拭い去ってくれた。
老人が白玉楼から姿を消したのは、数日後のことである。
寝所は綺麗に整頓されており、床の間の前に主家である西行寺家の主人に宛てた手紙と、
二振りの刀が残されていた。
手紙には「我魂魄が仕えし御役目は、我が弟子に任せて戴きたく候」とあった。
少女に対しては言葉は残されていなかった。
ただ、二振りの刀が何よりも雄弁に師の思いを語っていた。
一振りは、小太刀。師が常日頃帯びていたものとほぼ同じ寸法、拵え。
違うのは刀身に切られた「白楼」の銘。魂魄の家に伝わる宝刀であった。
そしてもう一振り。五尺近い尋常ならざる長刀。並みの遣い手では振るうことすら
適わぬ刀。黒鞘拵えのそれに切られた銘は「楼観」。もう一本の宝刀。
楼観を手にとる。少女は、自らが振るい続けた無様な長刀の意味を初めて知った。
一挙動で鞘を払う。鋭い鞘鳴りが室内に響いた。
冷たく厳しく光る刀身に、師の瞳を思い出す。頬が濡れた。
――判りました、師匠。この二振り、必ず遣いこなしてみせます。
以来、西行寺家の庭師兼護衛は小柄な少女となった。
少女は常に、その身に似合わぬ長刀を負っていた。
その身に合うはずの腰に帯びた小太刀は、滅多に抜かれることはなかった。
未だそれを振るうには未熟と、誰よりも少女自身が知っているから。
少女は今日も修行に余念がない。長大な鞘を事も無げに払い、長刀を一心に振るう。
いつの日か、師が帰ってきた時、今度こそ師と互角に撃ち合う為、いや、師に打ち勝つ為に。
そして、胸を張ってこう云うために。
――この楼観に 我が剣に 断てぬものなどない!
黒鞘の端に結わえた一輪の花。
厳しくも優しい風に吹かれ、かさり、と鳴った。
これからゲームをやる時、妖夢を見る目が変わりそうです…はう