その人は、私の中で強さと云うものの具現だった。
象徴であり、終着点だった。
その人のようになりたくて、でもきっとなれる事はないのだろうと――そう幼心にも理解してしまえるほど、その人は遥か高みにあった。
今でも不思議に思うことがある。何故その人はそんなに強いのだろう、と。
単純な霊力の大きさで云えば、私の仕えているお嬢様の方が遥かに上である。
剣の腕前は確かに飛び抜けていたが、今の私ならばそう引けを取る事はあるまい――と思う。
だがそれでも。
私は勿論お嬢様でもその人には決して敵わないだろうと――確信出来た。
霊力でも剣術でもなく、技や力などでもない。
そのもっと前提にある『何か』。
その何かがその人の強さの根源であると、私はそう考えた。
でもその何かが何なのか私には解らない。今でもだ。
それを教えてくれる前に、その人はある日突然居なくなってしまったから。
別れの言葉も再会の約束もなく、それは本当に唐突に――その人は私たちの前から姿を消した。
――そう。その人は、居なくなってしまったのだ。
だから――これはきっと夢だ。
はらはらと花びらの舞う中、その人が居て、幼い頃の私が居て、お嬢様が居る。
笑ってしまう程古く、暖かで桜の匂いがする――最も幸せだった頃の夢。
ならば――今はただ揺蕩おう。
少しでも長く、この幸せな夢を見続けて居られるよう。
少しでもゆっくりと、この暖かな世界に留まって居られるよう。
桜の花びらと共に揺ら揺らと春の風に揺られながら、
幼い頃の私が吹ッ飛ばされて行くのを眺め――私は小さく苦笑いした。
悲鳴を上げる間さえなく、いっそ鮮やかに少女は宙を舞った。
地面に当たり二転、三転、ごろごろと転がり――遂には動かなくなった少女を見ても、その男は小さく眉をしかめただけだった。ぽつりと一言、感想を洩らす。
「―――よく飛んだもんだ」
「ちょっと――今のは酷いんじゃない? 妖忌」
傍らの庭石に腰掛け、楽しそうに戦況を見守っていた桜色の髪をした少女が、非難めいた眼を妖忌と呼んだ男に向ける。
妖忌はちらりとその少女に眼を向け、小さく肩を竦めた。
「酷い事ァないですよ、幽々子お嬢様。あれは半分あいつが自分で飛んだんです。飛び退きが遅かったのと足りなかった分、派手に吹ッ飛びはしましたけどね。それでも見た目ほど被害は被っちゃいない筈だ」
「あら、本当」
幽々子と呼ばれた少女がそう呟くのと同時、妖忌は半歩体を後ろにずらした。その鼻先の空間を銀閃が切り裂いて行く。
続けて二閃、三閃。
休む間もなく繰り出される剣戟の悉くを、妖忌は最小限の動きで躱し続ける。刀を繰り出す銀髪の髪をした少女に容赦は一切無いが、妖忌の表情には余裕で満ちている。
それが、少女には気に食わない。
切り傷の一つくらい作ってやろうと、意固地になって刀を振り回し続ける。それが余分な力を産み、剣速を鈍らせているのだと――幼い少女にはまだ気付く事が出来ない。
にこにことそれを見守っていた幽々子が、ふと上を見上げた。あら、と呟く。
「もうお昼ね。そろそろ食事にしない? 今日は天気が良いから、庭で桜でも見ながら食べましょうよ」
「あーもうそんな時間ですか。それじゃ、ちょいと待ってて下さい。直ぐ終わりますから」
妖忌は飄々と、幽々子に顔を向けてそう云った。
あからさまな挑発に少女の顔が怒りに歪む。だがそれでも、顔を背けていても妖忌には自分の剣は当たるまいと――冷静に分析している部分もあった。
だから。少女は妖忌が視線を戻す前に、大きく後ろへ飛んだ。
今度は文字通り宙を舞い、そして宙に静止する。
妖忌に向けて刀を正眼に構え、少女は眼を閉じた。力を練る。限界まで練り上げた力を、全て刀に集中させ――振り上げる。
少女は眼を見開いた。にやにや笑いの標的は先程と同じ位置に居る。鋭く呼気を吐き、刀を振り下ろす。
視界を赤と青の弾幕が埋め尽くした。
その数と大きさに妖忌はほう、と感心したような吐息を洩らす。そしてそのまま――散歩にでも行くような軽い足取りで、弾幕の中へ一歩踏み込んだ。
傍目からはただゆっくり歩いているだけに見えた。その歩みを――降り注ぐ弾幕は止められない。当たらない。掠りもしない。
それはさながら柳の様に。揺らり揺らりと弾幕の海を漂いながら――一歩一歩妖忌は少女に近づいて行く。
少女は妖忌を凝視する。ただの弾幕ではその男には通用しないと云う事は解っていた。だから、ただその時を待った。
薄く笑い、妖忌は弾幕の空白地帯へ足を踏み入れた。
――予め用意されていた逃げ易い逃げ道へと足を踏み入れた。
そこに向けて。
少女は気合と共に刀を振り上げ、振り下ろした。
赤と青の蛇が宙を滑った。
否。それは細長い氷柱状に固められた霊力を幾つも連ねた――まるで蛇の様な弾だ。少女の残ったほぼ全ての力を練り上げて作られたそれは、喰らえば幾ら妖忌と云えど只では済まない。
だが、妖忌は避けられない。避ける場所が無い。周囲には未だ少女の放った弾幕が降り注いでいる。下手に動けば――そちらに当たる。
「これで詰みよ――!」
少女が叫んだ。赤と青の蛇はうねりながら妖忌に突き進んでいく。初めて妖忌の歩みが止まった。その表情もゆっくりと変わった。
面白がる様な笑みから――見る者を戦慄させる様な笑みへ。少女の肌がぞわり、と粟立つ。
す、と妖忌は腰の長刀の柄に手を当てる。少女には視認する事すら適わぬ程の速度で、刀は横一文字に振るわれた。
妖忌の前方の空間が音を立てて軋み――そこから、白い蛇が出でた。
少女の放ったものとは比べ物にならぬ程巨大なそれは、激しくうねりながら周囲の弾幕を巻き込み赤と青の蛇へと向かって行く。
拮抗は一瞬。
ぱりん、と硝子細工の様な音を立てて赤と青の蛇は破壊された。白い蛇はそのまま――呆然と宙に浮んだままの少女へとその牙を向く。
「ひ―――」
少女の身体を動かしたのは、純粋な恐怖だった。生物の本能とも云える死への忌避。ただ死に物狂いで白い蛇の射線から身を避ける。
だから気付かなかった。蛇のその巨大な体に隠れて――小さな光弾が少女に向かって正確に放たれている事に。
そして、気付いた時には既に遅かった。少女の顔に驚愕が浮ぶ。
ハイ詰み、と笑いを含んだ妖忌の声が囁くのと同時。
ぴぎゃ、と可愛い悲鳴が青天に響き渡った。
「――うー……」
目尻に涙を浮かべて正座する少女を、妖忌はどうしたものかと云う様な顔で見下ろした。頭を掻きながら溜め息を一つ吐き、そう泣く事ァねえだろ――と呟く。
「少なくとも最後の攻撃に関しちゃ悪かなかったぞ。その後気ィ抜いたのは、まあ、何つーか、莫迦だが」
慰めにもフォローにもなっていない言葉に、少女はただ泣いてません、と返し鼻をすすった。
視線を地面に固定したまま顔を歪めているその姿は、どう見ても泣くのを我慢しているようにしか見えない。
妖忌は心底困ったと云った風に額に手を当て――助けを求めるように幽々子の方へ眼を向けた。
幽々子はその視線を受けて――ただにこりと微笑んだ。その手には隣に置かれたバスケットから出たと思しき、特大のおにぎりが摘まれている。
ひくり、と妖忌の頬が引き攣るように痙攣した。
まあ、その、なんだ――如何にも無理矢理に視線を少女に戻し、妖忌は再度語りかける。
「お前が俺に勝てないのは、単に実力とか経験とか体格とか年季とかその他諸々に差があり過ぎるだけで、そんなもんは今から積み重ねていきゃ善い話だろ。お前みたいな餓鬼の頃からそれだけやれりゃ十分だと思うぞ。多分」
「―――れば、」
「あん?」
「積み重ねれば、師匠に勝てるようになりますか」
「いや無理」
即座に否定して――妖忌はしまったと云う様な顔をした。
うー、と少女は呻く。その瞳からは今にも涙が零れそうである。
どうしようもなくなり――妖忌は天を仰いだ。
「まあまあ。そんなのその時になってみないと解らないでしょ? 妖夢は強くなるわよ。私が保証する」
やれやれ、と云った風に幽々子は立ち上がった。傍らのバスケットを持ち、妖夢と呼んだ少女の隣に腰を下ろす。
でもね――優しく妖夢の頭を撫でながら幽々子は云う。
「今のままじゃ貴女は絶対に妖忌には勝てない。それは実力や経験以前の問題よ。どうしてか解る?」
「――解り、ません」
「貴女はどうして妖忌に勝ちたいの?」
「え?」
妖夢は顔を上げて、幽々子を見る。幽々子は面白がるように笑った。
「負けるのが悔しいから? 勝って優越感に浸りたいからかしら?」
「そんなのじゃ――」
「悪い事じゃないのよ、それは。誰かのために戦うのも、自分のために戦うのも同じ事。重要なのは意思の強さ」
妖忌はね――ちらりと幽々子は妖忌に視線を向けた。妖忌はただしかめっ面でそっぽを向いている。
「本ッ当に負けず嫌いなのよ。妖夢よりも、ずっと。負けるくらいなら――躊躇なく相手を殺すくらいはするでしょうね。仮令、その相手が貴女だとしても。でも――貴女はどう? 勝つために妖忌を殺す事が出切る?」
出来ないでしょう――幽々子は確信を込めて云う。妖夢は、ただ顔を伏せた。その様を幽々子は愛おしそうに眺める。
「意思の時点で貴女は妖忌に負けてる。だから――本当に妖忌に勝ちたいのなら、その理由を考えなさい。貴方なりの負けられない意思と云うのを見付けなさい。そればっかりは、私も妖忌も教える事は出来ない。貴女が自分で考えて、見つけるしかないの」
妖夢はじっと黙してその話を聞いていた。その頭をぽんぽんと幽々子は優しく叩く。
堅苦しい話はこれで終わり――と幽々子はバスケットからおにぎりを取り出した。
「とりあえずお昼にしましょう。少し休んだら貴女達には庭の掃除を頼まなくちゃいけないし。食べなくちゃ辛いわよ?」
はい、と幽々子は妖夢におにぎりを差し出す。
「ありがとう、ございます。ゆーこ嬢様」
舌足らずな口調でそう云い、妖夢はおにぎりを受け取る。一口食べて――堪えていた涙が溢れた。
柔らかく微笑み、幽々子はその様を見守る。
「ゆっくり考えて、成長なさいな。時間はたっぷりあるんだから」
うー、と呻きぽろぽろと涙を流しながら、妖夢は口一杯におにぎりを頬張った。
喉に詰まらせるわよ――と幽々子はくすくす笑う。
溜め息を吐いて、妖忌は空を見上げた。
雲一つない、善い天気だった。
ぐるり、と世界が回った。風景がコマ送りのように映し出されては流れて行く。春が終わり夏が廻り秋が過ぎ冬が去る。それが何度も何度も繰り返される。
渦巻く世界に翻弄され、私はきりきりと宙を舞った。
気付けば視界には巨大な桜の木。
ああ――と吐息をつく。
花一つ付けない妖怪桜。
それは、別れの場面だ。
その桜の木は、広大な西行寺家の庭に最も相応しい巨木であった。
また同時に花一つ付いていないその姿は、全てが目覚める春と云う季節には最も似つかわしくないものでもあった。
咲かない桜。それは何処か死を連想させられる。
なればこそ――西行寺家には相応しいのかもしれない。
その桜を――妖忌は見上げていた。何をする訳でもなく、ただ見ていた。
表情は無く、何を考えているのか読み取る事も出来ない。喜怒哀楽をはっきり顔に出すその青年には珍しい――およそ似合っているとは云い難い表情である。
その雰囲気に呑まれ――驚かすタイミングを外した少女は、青年の背後でぽつりと呟いた。
「変な――桜ですよね」
そうかね――と振り向きもせず妖忌は答える。何となくムキになって妖夢は云い返す。
「見れば解るじゃないですか。他の桜はもう満開になって散ろうと云う時期なのに――その桜は咲くどころか花も付けてないでしょう。これを変じゃなくて何だって云うんですか」
「別に変じゃねェよ。単にこの桜が咲かない――咲けないのには理由があるってだけだ。変じゃねェだろ」
「桜が理由を持って咲かないなんて、変以外の何でもないと思います」
そうかもな――そう云って、妖忌は小さく笑い声を上げた。酷く乾いた笑いだった。
妖夢は妖忌の隣に並ぶ。ちらりとその横顔に眼を向ける。
「師匠は――」
「ん?」
「知ってるんですか? この桜が咲かない理由を」
妖忌は答えず、考え込むように顔を伏せた。何故か重ねて問う事は憚られ、妖夢はゆっくりとその桜を見上げる。桜の名は――西行妖と云う。
我侭だよ――暫く沈黙が続いた後、妖忌は小さくそう云った。
「え?」
「お前は――俺が負けず嫌いだって事知ってるよな」
「は? はあ、そりゃまあ、痛いほど思い知らされてますけど」
「俺はな、一度だけ負けた事があるんだよ。ぐうの音も出ないほど、完膚無きにな。その時この桜――西行妖は満開だった。そりゃあ凄ェ桜だったぜ。西行寺家目玉の妖怪桜って肩書きにも頷けるほど、圧倒的に美しく――圧倒的な妖気を放ってた」
「いや、話が見えないんですけど」
「俺は、負けた事を認めたくなかった。否――あんな結末を、認める事なんて出来やしなかった」
困惑して、妖夢は妖忌を見る。
だから――気にした風もなく妖忌は後を続けた。
「悪足掻きをしたのさ。西行妖の妖力を利用して、な。この桜の下には――」
俺の悪足掻きの結果が埋まってるんだよ――そう云って、妖忌は初めて妖夢を見た。まるで能面のような――表情も感情も何も無い顔だった。
射竦められ、妖夢は言葉を失った。
まあ詰まり――ふい、と妖忌は妖夢から視線を反らし、いつもの軽い調子に戻る。
「この桜が咲かないのは七割方俺の我侭の所為だな。残り三割はどこぞの寝ぼすけ妖怪の所為だ。実際封印施したのはあいつだしな。あいつはあいつで訳解らん奴だが――結界に関しては専門家だ。先ず誰にも封印を解く事は出来ねェだろう。だから――この桜はもう二度と咲かねェんだよ」
それで善いのか悪ィのかは俺にも解らねェけどな――そう結び、妖忌は苦笑した。自嘲のようにも見えた。
妖夢はただむー、と唸った。何が何やら解らぬうちに話が終わったのが悔しいのだろう。だから兎に角云い返した。
「師匠は、その封印が解かれたら嫌なんですか」
「ん? まあ、そうだな」
「でも、私はゆーこ嬢様に命じられたら、解きますよ。どんな固い結界でも封印でも関係ないです」
挑戦するようにそう云って――妖夢はどうだとばかりに胸を張った。
妖忌は呆気に取られたように妖夢を見て――くっくと体を震わして、笑った。妖夢は顔を真っ赤にしてうー、と唸る。
「莫迦にしてるんですか? 師匠」
「いいや――お前はそれでいいよ。そうだな、お嬢様が望んだなら――出切る限り手を貸してやれ。お前にそれが出切るなら、な」
「やっぱり莫迦にしてるんですね? 云われなくたって私はゆーこ嬢様の命に従います」
ああ、そうしろ――と云って、妖忌は踵を返した。そのまま背越しに話し掛ける。
「お前は――まだ餓鬼で未熟で弱ッちいが」
「莫迦にしてると云うかそれはもう喧嘩売ってると見ていいんですね?」
「まあ聞け。そんなお前でも――お嬢様に対する忠誠は本物だ。それも盲信じゃねェ。お前はお前なりに考え、お前の意思でお嬢様について行こうと思ってる。そうだな?」
「当然です。――どうしたんですか師匠」
訝しげに妖夢は妖忌の背を眺める。何故か酷く――不安になった。
妖忌は頷く。
「幽々子お嬢様の事は任せる。仲良くやれ」
「だから――何を云っているんですか師匠」
「後はまあ、庭掃除もな。少なくとも夕飯までに今日の分は終わらしとけ」
「――って師匠はどうする気ですか。ちゃんと師匠も掃除して下さいよ!」
「頑張れ。これも修行だ」
「何云ってるんですか! あとどれだけあると――!」
はっはっは――と高らかに笑い、妖夢の静止の声も聞かず妖忌は屋敷へ戻っていく。
成す術もなくその背を見送り、桜の花びらで埋め尽くされた庭を眺め――妖夢は大仰に溜め息を吐いた。
それが、魂魄妖夢が見た魂魄妖忌の最後の姿であった。
――そして、世界はぐるりと回る。庭園から屋敷へ。屋敷から玄関へ。
それは私の知っている過去ではない。ならば泡沫の夢の創る幻か。
それでも善い、と思った。だから私はその光景を見る。息を詰めて、じっと見守る。
――視界には。
赤い夕焼けに包まれて屋敷を出る彼の姿があった。
ゆっくりと、妖忌は歩いて行く。小さな袋に詰めた少ない荷物を持ち、西行寺家の門に向かって一直線に庭を横切る。
誰にも気付かせるつもりはないのか――足音も気配も完全に消していた。
その眉がふ、としかめられた。巨大な西行寺家の外門。その脇に、人影があった。
それが誰か直ぐに解ったのか――妖忌は困ったように笑った。足は止めず、門に近づいて行く。
「――行くの?」
妖忌の簡素な旅衣装に驚く事もなく――幽々子はそう訊いた。
ええ――と妖忌は頷き、苦笑した。
「よく、解りましたね。気配は殺しておいた筈なんですが」
「なんとなく、ね」
もう結構な付き合いだし――そう云って、幽々子も小さく笑った。
「止めても無駄なんでしょうね」
「はい」
「それじゃ一応、訊いとくわ。何故此処を出て行くの?」
妖忌は、赤い黄昏の空を見上げる。そして云った。
「此処は居心地が良過ぎるんです。これ以上長居すると――本当に出れなくなる」
「私は――それでも全然構わないんだけれど、ね」
「俺は――それじゃ、駄目なんです。止まってしまえば、それで終わってしまうから。それだけはどうしても厭だ」
「私も厭よ。貴方が行ってしまうのは」
「なら――止めてみますか?」
一瞬で空気が張り詰めた。
睨み合い――と呼べるほど、互いの眼は鋭くは無い。ただ、真剣ではあった。
ふ――と幽々子が微笑んだ。一瞬で張り詰めた空気は、やはり一瞬で霧散する。
「やめとくわ。最初に云ったでしょう? 止めても無駄だって。私は貴方に勝てる気がしないもの」
「俺も、お嬢様とは戦いたくありません」
「本当に自分勝手ね、妖忌は」
まあかなり昔から解っていた事だけれど――そう云って幽々子はくすくすと笑った。ばつが悪そうに妖忌は頭を掻いた。
寂しくなるわね――一頻り笑って、幽々子はぽつりと云った。
「妖夢が――居るでしょう」
「誰かが居るから誰かが居なくなってもいいなんて、莫迦な考えとしか云い様がないわよ」
「――それを云われると辛い」
「少しくらい辛いのは我慢なさいな。貴方は私とあの子を捨てて行くんだから」
幽々子に容赦はない。妖忌は反論せず――ただ真剣な顔で幽々子を見た。
ふう、と幽々子は溜め息を吐いた。本ッ当に頑固なんだから、と愚痴るように呟く。
「あの子に何も云わないの? 突然貴方が居なくなったらあの子は、どうしたらいいか解らなくなるんじゃなくて? 言伝くらいなら――頼まれてあげるわよ」
「あいつに必要な事はもう全て教えましたよ。活かせるか如何かはあいつ次第ですが。でも――そうだな。それじゃ、一つ頼まれてくれますか」
そう云って、妖忌は腰に挿した長刀を外した。あいつに渡してください――と幽々子に差し出す。
「――いいの?」
「ええ。この楼観剣はそもそも、あいつにくれてやった短刀――白楼剣と対になってるもんです。離れ離れじゃ――こいつも寂しいでしょうからね」
まあ、今のあいつにゃ過ぎた代物ではありますが――と妖忌は小さく苦笑する。
「一振りで幽霊十匹を殺し得る刀、ね。切れないものなんてないのかしら?」
「いいえ。その刀にも切れないものはありますよ。ほんの、ちょっとだけですけどね。だから――あいつには丁度いい」
なるほどね――何かに納得したように、幽々子は頷いた。
「貴方は――何でも切れる刀が欲しいのね。いいえ、貴方自身が――何でも切れる刀になりたいのかしら?」
はい、と妖忌は躊躇なく頷く。
「切れすぎる刀は――扱う者さえ傷付けかねない、か。貴方は、それが怖いの?」
はい、と妖忌は再び頷く。哀れむように幽々子はその顔を見詰めた。
「でも扱う者の居ない刀など――どれだけ切れてもただの鉄屑でしかないわ。いずれ錆びて、朽ちるだけ。貴方は――それでいいの? 妖忌」
「それが――俺の本望ですよ。幽々子お嬢様」
そう云って、妖忌は門に手をかけた。ぎい、と金属の擦れ合う音が響き――門が開く。
幽々子は――止めなかった。ただ俯いて首を振る。
「勘違いよ」
「は?」
「私は、貴方を扱えると思った事はないわ。いいえ、貴方みたいな物騒な凶器を扱える者などこの屋敷には居ない。だから、」
貴方は何も怖がる必要なんてないの――そう云って――幽々子は微笑んだ。
胸が締め付けられるような、そんな哀しい微笑みだった。
「私たちは――私や、妖夢や、西行寺家は――貴方を納める鞘よ。貴方が朽ちてしまわないよう、貴方が誰かを傷付けて――自分さえも傷付いてしまわないように、貴方を守る、鞘」
だから。
「いつでも戻っていらっしゃいな。貴方の帰る場所は此処なんだから」
妖忌は――ゆっくりと空を見上げた。赤い空には雲一つない。その光景は、いつか見た日を連想させる。
ただ、一言ぽつりと、
「――いつか、必ず」
呟いて、妖忌は一歩門の外へ出た。歩き出す。
その言葉だけで十分だったのか――幽々子は本当に嬉しそうに笑った。遠ざかって行く妖忌を見送る。
その背が夜の闇に消えて。
つう、と微笑んだままの幽々子の頬に一粒雫が落ちた。
その闇は酷く濃かった。西行寺家の明かりも今や届かず、周りは全て闇である。歩いている道さえ黒い。
その闇の中――妖忌は一歩一歩進んで行く。その眼はこの闇さえ見通せるのか――それとも単に見えなくても気にならないだけか――歩の進め方に危うげはない。
その歩みがふと止まる。はあ、と吐息とも溜め息ともつかぬ息を吐き――恐らく、私に向けて彼は云った。
「強さってものにもな――」
その声は闇の中善く響く。私は――ゆっくりと、妖忌――師匠の後ろへ降りた。
「色々ある。俺の強さは、こう云う事だ。弱さを捨てた強さ。己の弱み足り得るものを常に捨て続けて――俺は強くなってきた」
お前は如何だ――緩々と師匠はこちらを振り向いた。幾度か見た事のある能面の様な無表情。
「俺に勝つには、俺のようになるしか無い。お前は俺に勝つために――強くなるために――お嬢様を捨てる事が出切るか?」
いいえ、と私は首を振る。いいのか、と試す様に師匠は云う。
「それじゃあお前は俺には絶対に勝てねェぜ。お前は――俺に勝つために強くなりたいんじゃなかったのか?」
「昔は――そうでした。でも今は、私はお嬢様を守るために強くなりたいんです。その私が――どうしてお嬢様を捨てられるでしょう」
「俺が――お嬢様を殺すと云ったら、如何する? 俺に勝てないお前が、お嬢様を守りきれるのか? 妖夢」
「勝てなくても――止める事は出切るでしょう。私が欲しいのは、そう云う強さですよ。師匠」
それでいい――そう云って、師匠は能面の様な表情を崩す。嬉しそうに、笑った。
「お前は俺みたいにはなれねェだろうけどな、それでも――お前なら俺と同じ場所には立てるかもしれねェ。だからよ――」
お前はお前のやりたいようにやれ――そう、師匠は云った。私は――苦笑した。今更何を云っているのか、と思う。
そうするようにずっと私を育ててくれたのは――彼だと云うのに。
私は真っ直ぐに師匠を見る。ずっと、彼に会ったら云おうと思っていた事があった。
「師匠――」
「ん?」
「云いたい事があるんです」
「何だよ?」
「あ――――」
ありがとう。
「あ?」
訝しげに師匠は私を見る。私は――首を振った。やっぱり駄目だ、と思った。こんな、夢の中で云えるような――そんな軽い言葉ではないから。
だから云った。
「――やっぱりいいです」
「何だそりゃ」
「次に――実際に師匠と会える時まで、取って置きますよ。だから――さっさと戻って来て下さい。私も、幽々子お嬢様も、ずっと待ってますから」
師匠は困ったように頭を掻き、そしてふと真顔になった。
「もし俺に帰ってくる気がないとしたら――如何する?」
「殴ります」
「そうじゃなくても、俺はどっかで野垂れ死んでるかもしれねェ。帰り道が解らなくなって、諦めてるかもしれねェ」
「殴ります」
「――もうちょっと真剣に考えろって。あってもおかしかねェだろ、そう云うこと」
「真剣ですよ」
真顔で返す。この上なく、真剣だった。
「もし――本当に師匠がそんなことになっていたら、探し出して殴り付けます。お嬢様と一緒に。何処に居ようと関係ありません。絶対に、探し出してみせますよ。謝っても――許しませんから」
だから――私は茶化すように笑った。
「そうなりたくなかったら帰ってきて下さい。私は兎も角――お嬢様を怒らせると怖いですよ?」
「ああ、知ってるさ――」
そう云って、師匠は大きく溜め息を吐いた。仕方ねェなァ、と呟き、私の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「帰るさ。いつか、必ずな。だから――その時までは頼んだ」
「云われなくても、です。でも――あんまり遅いと探しに行きますからね」
「ああ。肝に命じとくよ」
それじゃあな、と片手を挙げて師匠は踵を返した。
はい、お元気で、と私はその背を見送った。
深い闇の中へ、彼は躊躇なく踏み込んで行った。
――そうして漸く私は、昔出来なかった別れを果す事が出来た。
覚めればまた忘れてしまうのかもしれないけれど――今はただ、満足だった。
彼が帰って来ると云ってくれた事が。彼の背を見送ることが出来た事が。
それは私が創り出した都合の善い夢なのかもしれないけれど。
それでも――私は嬉しかったのだ。
闇が胎動した。ゆっくりと世界が収束していく。
夢が終わるのだと――私は何となくそう解った。
願わくば――この幸せな気分だけは、目覚めても忘れずに――。
しゃッ、と何処かでそんな音がした。
ぱちん、と世界が弾けた。
「―――まぶ、し」
「――あ、起こしちゃったかしら?」
眼を開けると、真っ向から光が見えた。光に徐々に眼が慣れると、それが窓から射すものだと解った。
その窓の傍で、少女が微笑んでいる。ぼんやりと少女の名を口に出した。
「――ゆーこ、じょう、様」
少女は眼を丸くして、くすりと笑った。何かおかしかっただろうか、と思い――急速に意識が覚醒した。がばりと――慌てて体を起こす。
「久しぶりに聞いたわね、その呼び方。昔の夢でも見てたの?」
「え、あ、お、おはよう御座います、幽々子お嬢様」
「ええ。おはよう、妖夢」
「ど、ど、どうしたんですか。も、もしかして寝坊しましたか私」
まあまあ、落ち着きなさいな――と云って、幽々子お嬢様は可笑しそうに笑った。
「私が早く起きちゃったのよ。だからついでに妖夢を起こしに来たのだけれど――何だか幸せそうに寝てたわね」
「あう、ええと、その、申し訳御座いません」
「怒ってなんてないわよ。むしろ可愛い寝顔を見せてくれて、お礼を云いたいくらい」
うう、と呻く。恥ずかしさに顔が真っ赤になるのが解った。
それで――とお嬢様は楽しそうに笑いながら云った。
「どんな夢を見てたの? 昔の夢?」
「ええと――」
私は首を傾げた。夢を見ていた事は思い出せる。何となく、昔の夢だったような気もする。だが、その夢がどのような夢だったかまでは――思い出せなかった。
「解りません。その、申し訳ないんですが」
「あら、そう。残念。まあ――夢と云うのは大抵そんなものよね」
「でも――」
でも? とお嬢様は興味深そうに聞き返す。なんとなく――なんですが、と前置きして、私は云った。
「幸せな――夢だったような気がします」
あまり質問の答えになっていないようで、私は申し訳なくて首を竦めた。
そんな私を見て、お嬢様は微笑み――云った。
「そう。よかったわね、妖夢」
それは皮肉でも何でもなく、本当に喜んでくれている――そんな優しい微笑みだった。
だから――私も微笑んだ。
「はい。有り難う御座います、幽々子お嬢様」
象徴であり、終着点だった。
その人のようになりたくて、でもきっとなれる事はないのだろうと――そう幼心にも理解してしまえるほど、その人は遥か高みにあった。
今でも不思議に思うことがある。何故その人はそんなに強いのだろう、と。
単純な霊力の大きさで云えば、私の仕えているお嬢様の方が遥かに上である。
剣の腕前は確かに飛び抜けていたが、今の私ならばそう引けを取る事はあるまい――と思う。
だがそれでも。
私は勿論お嬢様でもその人には決して敵わないだろうと――確信出来た。
霊力でも剣術でもなく、技や力などでもない。
そのもっと前提にある『何か』。
その何かがその人の強さの根源であると、私はそう考えた。
でもその何かが何なのか私には解らない。今でもだ。
それを教えてくれる前に、その人はある日突然居なくなってしまったから。
別れの言葉も再会の約束もなく、それは本当に唐突に――その人は私たちの前から姿を消した。
――そう。その人は、居なくなってしまったのだ。
だから――これはきっと夢だ。
はらはらと花びらの舞う中、その人が居て、幼い頃の私が居て、お嬢様が居る。
笑ってしまう程古く、暖かで桜の匂いがする――最も幸せだった頃の夢。
ならば――今はただ揺蕩おう。
少しでも長く、この幸せな夢を見続けて居られるよう。
少しでもゆっくりと、この暖かな世界に留まって居られるよう。
桜の花びらと共に揺ら揺らと春の風に揺られながら、
幼い頃の私が吹ッ飛ばされて行くのを眺め――私は小さく苦笑いした。
悲鳴を上げる間さえなく、いっそ鮮やかに少女は宙を舞った。
地面に当たり二転、三転、ごろごろと転がり――遂には動かなくなった少女を見ても、その男は小さく眉をしかめただけだった。ぽつりと一言、感想を洩らす。
「―――よく飛んだもんだ」
「ちょっと――今のは酷いんじゃない? 妖忌」
傍らの庭石に腰掛け、楽しそうに戦況を見守っていた桜色の髪をした少女が、非難めいた眼を妖忌と呼んだ男に向ける。
妖忌はちらりとその少女に眼を向け、小さく肩を竦めた。
「酷い事ァないですよ、幽々子お嬢様。あれは半分あいつが自分で飛んだんです。飛び退きが遅かったのと足りなかった分、派手に吹ッ飛びはしましたけどね。それでも見た目ほど被害は被っちゃいない筈だ」
「あら、本当」
幽々子と呼ばれた少女がそう呟くのと同時、妖忌は半歩体を後ろにずらした。その鼻先の空間を銀閃が切り裂いて行く。
続けて二閃、三閃。
休む間もなく繰り出される剣戟の悉くを、妖忌は最小限の動きで躱し続ける。刀を繰り出す銀髪の髪をした少女に容赦は一切無いが、妖忌の表情には余裕で満ちている。
それが、少女には気に食わない。
切り傷の一つくらい作ってやろうと、意固地になって刀を振り回し続ける。それが余分な力を産み、剣速を鈍らせているのだと――幼い少女にはまだ気付く事が出来ない。
にこにことそれを見守っていた幽々子が、ふと上を見上げた。あら、と呟く。
「もうお昼ね。そろそろ食事にしない? 今日は天気が良いから、庭で桜でも見ながら食べましょうよ」
「あーもうそんな時間ですか。それじゃ、ちょいと待ってて下さい。直ぐ終わりますから」
妖忌は飄々と、幽々子に顔を向けてそう云った。
あからさまな挑発に少女の顔が怒りに歪む。だがそれでも、顔を背けていても妖忌には自分の剣は当たるまいと――冷静に分析している部分もあった。
だから。少女は妖忌が視線を戻す前に、大きく後ろへ飛んだ。
今度は文字通り宙を舞い、そして宙に静止する。
妖忌に向けて刀を正眼に構え、少女は眼を閉じた。力を練る。限界まで練り上げた力を、全て刀に集中させ――振り上げる。
少女は眼を見開いた。にやにや笑いの標的は先程と同じ位置に居る。鋭く呼気を吐き、刀を振り下ろす。
視界を赤と青の弾幕が埋め尽くした。
その数と大きさに妖忌はほう、と感心したような吐息を洩らす。そしてそのまま――散歩にでも行くような軽い足取りで、弾幕の中へ一歩踏み込んだ。
傍目からはただゆっくり歩いているだけに見えた。その歩みを――降り注ぐ弾幕は止められない。当たらない。掠りもしない。
それはさながら柳の様に。揺らり揺らりと弾幕の海を漂いながら――一歩一歩妖忌は少女に近づいて行く。
少女は妖忌を凝視する。ただの弾幕ではその男には通用しないと云う事は解っていた。だから、ただその時を待った。
薄く笑い、妖忌は弾幕の空白地帯へ足を踏み入れた。
――予め用意されていた逃げ易い逃げ道へと足を踏み入れた。
そこに向けて。
少女は気合と共に刀を振り上げ、振り下ろした。
赤と青の蛇が宙を滑った。
否。それは細長い氷柱状に固められた霊力を幾つも連ねた――まるで蛇の様な弾だ。少女の残ったほぼ全ての力を練り上げて作られたそれは、喰らえば幾ら妖忌と云えど只では済まない。
だが、妖忌は避けられない。避ける場所が無い。周囲には未だ少女の放った弾幕が降り注いでいる。下手に動けば――そちらに当たる。
「これで詰みよ――!」
少女が叫んだ。赤と青の蛇はうねりながら妖忌に突き進んでいく。初めて妖忌の歩みが止まった。その表情もゆっくりと変わった。
面白がる様な笑みから――見る者を戦慄させる様な笑みへ。少女の肌がぞわり、と粟立つ。
す、と妖忌は腰の長刀の柄に手を当てる。少女には視認する事すら適わぬ程の速度で、刀は横一文字に振るわれた。
妖忌の前方の空間が音を立てて軋み――そこから、白い蛇が出でた。
少女の放ったものとは比べ物にならぬ程巨大なそれは、激しくうねりながら周囲の弾幕を巻き込み赤と青の蛇へと向かって行く。
拮抗は一瞬。
ぱりん、と硝子細工の様な音を立てて赤と青の蛇は破壊された。白い蛇はそのまま――呆然と宙に浮んだままの少女へとその牙を向く。
「ひ―――」
少女の身体を動かしたのは、純粋な恐怖だった。生物の本能とも云える死への忌避。ただ死に物狂いで白い蛇の射線から身を避ける。
だから気付かなかった。蛇のその巨大な体に隠れて――小さな光弾が少女に向かって正確に放たれている事に。
そして、気付いた時には既に遅かった。少女の顔に驚愕が浮ぶ。
ハイ詰み、と笑いを含んだ妖忌の声が囁くのと同時。
ぴぎゃ、と可愛い悲鳴が青天に響き渡った。
「――うー……」
目尻に涙を浮かべて正座する少女を、妖忌はどうしたものかと云う様な顔で見下ろした。頭を掻きながら溜め息を一つ吐き、そう泣く事ァねえだろ――と呟く。
「少なくとも最後の攻撃に関しちゃ悪かなかったぞ。その後気ィ抜いたのは、まあ、何つーか、莫迦だが」
慰めにもフォローにもなっていない言葉に、少女はただ泣いてません、と返し鼻をすすった。
視線を地面に固定したまま顔を歪めているその姿は、どう見ても泣くのを我慢しているようにしか見えない。
妖忌は心底困ったと云った風に額に手を当て――助けを求めるように幽々子の方へ眼を向けた。
幽々子はその視線を受けて――ただにこりと微笑んだ。その手には隣に置かれたバスケットから出たと思しき、特大のおにぎりが摘まれている。
ひくり、と妖忌の頬が引き攣るように痙攣した。
まあ、その、なんだ――如何にも無理矢理に視線を少女に戻し、妖忌は再度語りかける。
「お前が俺に勝てないのは、単に実力とか経験とか体格とか年季とかその他諸々に差があり過ぎるだけで、そんなもんは今から積み重ねていきゃ善い話だろ。お前みたいな餓鬼の頃からそれだけやれりゃ十分だと思うぞ。多分」
「―――れば、」
「あん?」
「積み重ねれば、師匠に勝てるようになりますか」
「いや無理」
即座に否定して――妖忌はしまったと云う様な顔をした。
うー、と少女は呻く。その瞳からは今にも涙が零れそうである。
どうしようもなくなり――妖忌は天を仰いだ。
「まあまあ。そんなのその時になってみないと解らないでしょ? 妖夢は強くなるわよ。私が保証する」
やれやれ、と云った風に幽々子は立ち上がった。傍らのバスケットを持ち、妖夢と呼んだ少女の隣に腰を下ろす。
でもね――優しく妖夢の頭を撫でながら幽々子は云う。
「今のままじゃ貴女は絶対に妖忌には勝てない。それは実力や経験以前の問題よ。どうしてか解る?」
「――解り、ません」
「貴女はどうして妖忌に勝ちたいの?」
「え?」
妖夢は顔を上げて、幽々子を見る。幽々子は面白がるように笑った。
「負けるのが悔しいから? 勝って優越感に浸りたいからかしら?」
「そんなのじゃ――」
「悪い事じゃないのよ、それは。誰かのために戦うのも、自分のために戦うのも同じ事。重要なのは意思の強さ」
妖忌はね――ちらりと幽々子は妖忌に視線を向けた。妖忌はただしかめっ面でそっぽを向いている。
「本ッ当に負けず嫌いなのよ。妖夢よりも、ずっと。負けるくらいなら――躊躇なく相手を殺すくらいはするでしょうね。仮令、その相手が貴女だとしても。でも――貴女はどう? 勝つために妖忌を殺す事が出切る?」
出来ないでしょう――幽々子は確信を込めて云う。妖夢は、ただ顔を伏せた。その様を幽々子は愛おしそうに眺める。
「意思の時点で貴女は妖忌に負けてる。だから――本当に妖忌に勝ちたいのなら、その理由を考えなさい。貴方なりの負けられない意思と云うのを見付けなさい。そればっかりは、私も妖忌も教える事は出来ない。貴女が自分で考えて、見つけるしかないの」
妖夢はじっと黙してその話を聞いていた。その頭をぽんぽんと幽々子は優しく叩く。
堅苦しい話はこれで終わり――と幽々子はバスケットからおにぎりを取り出した。
「とりあえずお昼にしましょう。少し休んだら貴女達には庭の掃除を頼まなくちゃいけないし。食べなくちゃ辛いわよ?」
はい、と幽々子は妖夢におにぎりを差し出す。
「ありがとう、ございます。ゆーこ嬢様」
舌足らずな口調でそう云い、妖夢はおにぎりを受け取る。一口食べて――堪えていた涙が溢れた。
柔らかく微笑み、幽々子はその様を見守る。
「ゆっくり考えて、成長なさいな。時間はたっぷりあるんだから」
うー、と呻きぽろぽろと涙を流しながら、妖夢は口一杯におにぎりを頬張った。
喉に詰まらせるわよ――と幽々子はくすくす笑う。
溜め息を吐いて、妖忌は空を見上げた。
雲一つない、善い天気だった。
ぐるり、と世界が回った。風景がコマ送りのように映し出されては流れて行く。春が終わり夏が廻り秋が過ぎ冬が去る。それが何度も何度も繰り返される。
渦巻く世界に翻弄され、私はきりきりと宙を舞った。
気付けば視界には巨大な桜の木。
ああ――と吐息をつく。
花一つ付けない妖怪桜。
それは、別れの場面だ。
その桜の木は、広大な西行寺家の庭に最も相応しい巨木であった。
また同時に花一つ付いていないその姿は、全てが目覚める春と云う季節には最も似つかわしくないものでもあった。
咲かない桜。それは何処か死を連想させられる。
なればこそ――西行寺家には相応しいのかもしれない。
その桜を――妖忌は見上げていた。何をする訳でもなく、ただ見ていた。
表情は無く、何を考えているのか読み取る事も出来ない。喜怒哀楽をはっきり顔に出すその青年には珍しい――およそ似合っているとは云い難い表情である。
その雰囲気に呑まれ――驚かすタイミングを外した少女は、青年の背後でぽつりと呟いた。
「変な――桜ですよね」
そうかね――と振り向きもせず妖忌は答える。何となくムキになって妖夢は云い返す。
「見れば解るじゃないですか。他の桜はもう満開になって散ろうと云う時期なのに――その桜は咲くどころか花も付けてないでしょう。これを変じゃなくて何だって云うんですか」
「別に変じゃねェよ。単にこの桜が咲かない――咲けないのには理由があるってだけだ。変じゃねェだろ」
「桜が理由を持って咲かないなんて、変以外の何でもないと思います」
そうかもな――そう云って、妖忌は小さく笑い声を上げた。酷く乾いた笑いだった。
妖夢は妖忌の隣に並ぶ。ちらりとその横顔に眼を向ける。
「師匠は――」
「ん?」
「知ってるんですか? この桜が咲かない理由を」
妖忌は答えず、考え込むように顔を伏せた。何故か重ねて問う事は憚られ、妖夢はゆっくりとその桜を見上げる。桜の名は――西行妖と云う。
我侭だよ――暫く沈黙が続いた後、妖忌は小さくそう云った。
「え?」
「お前は――俺が負けず嫌いだって事知ってるよな」
「は? はあ、そりゃまあ、痛いほど思い知らされてますけど」
「俺はな、一度だけ負けた事があるんだよ。ぐうの音も出ないほど、完膚無きにな。その時この桜――西行妖は満開だった。そりゃあ凄ェ桜だったぜ。西行寺家目玉の妖怪桜って肩書きにも頷けるほど、圧倒的に美しく――圧倒的な妖気を放ってた」
「いや、話が見えないんですけど」
「俺は、負けた事を認めたくなかった。否――あんな結末を、認める事なんて出来やしなかった」
困惑して、妖夢は妖忌を見る。
だから――気にした風もなく妖忌は後を続けた。
「悪足掻きをしたのさ。西行妖の妖力を利用して、な。この桜の下には――」
俺の悪足掻きの結果が埋まってるんだよ――そう云って、妖忌は初めて妖夢を見た。まるで能面のような――表情も感情も何も無い顔だった。
射竦められ、妖夢は言葉を失った。
まあ詰まり――ふい、と妖忌は妖夢から視線を反らし、いつもの軽い調子に戻る。
「この桜が咲かないのは七割方俺の我侭の所為だな。残り三割はどこぞの寝ぼすけ妖怪の所為だ。実際封印施したのはあいつだしな。あいつはあいつで訳解らん奴だが――結界に関しては専門家だ。先ず誰にも封印を解く事は出来ねェだろう。だから――この桜はもう二度と咲かねェんだよ」
それで善いのか悪ィのかは俺にも解らねェけどな――そう結び、妖忌は苦笑した。自嘲のようにも見えた。
妖夢はただむー、と唸った。何が何やら解らぬうちに話が終わったのが悔しいのだろう。だから兎に角云い返した。
「師匠は、その封印が解かれたら嫌なんですか」
「ん? まあ、そうだな」
「でも、私はゆーこ嬢様に命じられたら、解きますよ。どんな固い結界でも封印でも関係ないです」
挑戦するようにそう云って――妖夢はどうだとばかりに胸を張った。
妖忌は呆気に取られたように妖夢を見て――くっくと体を震わして、笑った。妖夢は顔を真っ赤にしてうー、と唸る。
「莫迦にしてるんですか? 師匠」
「いいや――お前はそれでいいよ。そうだな、お嬢様が望んだなら――出切る限り手を貸してやれ。お前にそれが出切るなら、な」
「やっぱり莫迦にしてるんですね? 云われなくたって私はゆーこ嬢様の命に従います」
ああ、そうしろ――と云って、妖忌は踵を返した。そのまま背越しに話し掛ける。
「お前は――まだ餓鬼で未熟で弱ッちいが」
「莫迦にしてると云うかそれはもう喧嘩売ってると見ていいんですね?」
「まあ聞け。そんなお前でも――お嬢様に対する忠誠は本物だ。それも盲信じゃねェ。お前はお前なりに考え、お前の意思でお嬢様について行こうと思ってる。そうだな?」
「当然です。――どうしたんですか師匠」
訝しげに妖夢は妖忌の背を眺める。何故か酷く――不安になった。
妖忌は頷く。
「幽々子お嬢様の事は任せる。仲良くやれ」
「だから――何を云っているんですか師匠」
「後はまあ、庭掃除もな。少なくとも夕飯までに今日の分は終わらしとけ」
「――って師匠はどうする気ですか。ちゃんと師匠も掃除して下さいよ!」
「頑張れ。これも修行だ」
「何云ってるんですか! あとどれだけあると――!」
はっはっは――と高らかに笑い、妖夢の静止の声も聞かず妖忌は屋敷へ戻っていく。
成す術もなくその背を見送り、桜の花びらで埋め尽くされた庭を眺め――妖夢は大仰に溜め息を吐いた。
それが、魂魄妖夢が見た魂魄妖忌の最後の姿であった。
――そして、世界はぐるりと回る。庭園から屋敷へ。屋敷から玄関へ。
それは私の知っている過去ではない。ならば泡沫の夢の創る幻か。
それでも善い、と思った。だから私はその光景を見る。息を詰めて、じっと見守る。
――視界には。
赤い夕焼けに包まれて屋敷を出る彼の姿があった。
ゆっくりと、妖忌は歩いて行く。小さな袋に詰めた少ない荷物を持ち、西行寺家の門に向かって一直線に庭を横切る。
誰にも気付かせるつもりはないのか――足音も気配も完全に消していた。
その眉がふ、としかめられた。巨大な西行寺家の外門。その脇に、人影があった。
それが誰か直ぐに解ったのか――妖忌は困ったように笑った。足は止めず、門に近づいて行く。
「――行くの?」
妖忌の簡素な旅衣装に驚く事もなく――幽々子はそう訊いた。
ええ――と妖忌は頷き、苦笑した。
「よく、解りましたね。気配は殺しておいた筈なんですが」
「なんとなく、ね」
もう結構な付き合いだし――そう云って、幽々子も小さく笑った。
「止めても無駄なんでしょうね」
「はい」
「それじゃ一応、訊いとくわ。何故此処を出て行くの?」
妖忌は、赤い黄昏の空を見上げる。そして云った。
「此処は居心地が良過ぎるんです。これ以上長居すると――本当に出れなくなる」
「私は――それでも全然構わないんだけれど、ね」
「俺は――それじゃ、駄目なんです。止まってしまえば、それで終わってしまうから。それだけはどうしても厭だ」
「私も厭よ。貴方が行ってしまうのは」
「なら――止めてみますか?」
一瞬で空気が張り詰めた。
睨み合い――と呼べるほど、互いの眼は鋭くは無い。ただ、真剣ではあった。
ふ――と幽々子が微笑んだ。一瞬で張り詰めた空気は、やはり一瞬で霧散する。
「やめとくわ。最初に云ったでしょう? 止めても無駄だって。私は貴方に勝てる気がしないもの」
「俺も、お嬢様とは戦いたくありません」
「本当に自分勝手ね、妖忌は」
まあかなり昔から解っていた事だけれど――そう云って幽々子はくすくすと笑った。ばつが悪そうに妖忌は頭を掻いた。
寂しくなるわね――一頻り笑って、幽々子はぽつりと云った。
「妖夢が――居るでしょう」
「誰かが居るから誰かが居なくなってもいいなんて、莫迦な考えとしか云い様がないわよ」
「――それを云われると辛い」
「少しくらい辛いのは我慢なさいな。貴方は私とあの子を捨てて行くんだから」
幽々子に容赦はない。妖忌は反論せず――ただ真剣な顔で幽々子を見た。
ふう、と幽々子は溜め息を吐いた。本ッ当に頑固なんだから、と愚痴るように呟く。
「あの子に何も云わないの? 突然貴方が居なくなったらあの子は、どうしたらいいか解らなくなるんじゃなくて? 言伝くらいなら――頼まれてあげるわよ」
「あいつに必要な事はもう全て教えましたよ。活かせるか如何かはあいつ次第ですが。でも――そうだな。それじゃ、一つ頼まれてくれますか」
そう云って、妖忌は腰に挿した長刀を外した。あいつに渡してください――と幽々子に差し出す。
「――いいの?」
「ええ。この楼観剣はそもそも、あいつにくれてやった短刀――白楼剣と対になってるもんです。離れ離れじゃ――こいつも寂しいでしょうからね」
まあ、今のあいつにゃ過ぎた代物ではありますが――と妖忌は小さく苦笑する。
「一振りで幽霊十匹を殺し得る刀、ね。切れないものなんてないのかしら?」
「いいえ。その刀にも切れないものはありますよ。ほんの、ちょっとだけですけどね。だから――あいつには丁度いい」
なるほどね――何かに納得したように、幽々子は頷いた。
「貴方は――何でも切れる刀が欲しいのね。いいえ、貴方自身が――何でも切れる刀になりたいのかしら?」
はい、と妖忌は躊躇なく頷く。
「切れすぎる刀は――扱う者さえ傷付けかねない、か。貴方は、それが怖いの?」
はい、と妖忌は再び頷く。哀れむように幽々子はその顔を見詰めた。
「でも扱う者の居ない刀など――どれだけ切れてもただの鉄屑でしかないわ。いずれ錆びて、朽ちるだけ。貴方は――それでいいの? 妖忌」
「それが――俺の本望ですよ。幽々子お嬢様」
そう云って、妖忌は門に手をかけた。ぎい、と金属の擦れ合う音が響き――門が開く。
幽々子は――止めなかった。ただ俯いて首を振る。
「勘違いよ」
「は?」
「私は、貴方を扱えると思った事はないわ。いいえ、貴方みたいな物騒な凶器を扱える者などこの屋敷には居ない。だから、」
貴方は何も怖がる必要なんてないの――そう云って――幽々子は微笑んだ。
胸が締め付けられるような、そんな哀しい微笑みだった。
「私たちは――私や、妖夢や、西行寺家は――貴方を納める鞘よ。貴方が朽ちてしまわないよう、貴方が誰かを傷付けて――自分さえも傷付いてしまわないように、貴方を守る、鞘」
だから。
「いつでも戻っていらっしゃいな。貴方の帰る場所は此処なんだから」
妖忌は――ゆっくりと空を見上げた。赤い空には雲一つない。その光景は、いつか見た日を連想させる。
ただ、一言ぽつりと、
「――いつか、必ず」
呟いて、妖忌は一歩門の外へ出た。歩き出す。
その言葉だけで十分だったのか――幽々子は本当に嬉しそうに笑った。遠ざかって行く妖忌を見送る。
その背が夜の闇に消えて。
つう、と微笑んだままの幽々子の頬に一粒雫が落ちた。
その闇は酷く濃かった。西行寺家の明かりも今や届かず、周りは全て闇である。歩いている道さえ黒い。
その闇の中――妖忌は一歩一歩進んで行く。その眼はこの闇さえ見通せるのか――それとも単に見えなくても気にならないだけか――歩の進め方に危うげはない。
その歩みがふと止まる。はあ、と吐息とも溜め息ともつかぬ息を吐き――恐らく、私に向けて彼は云った。
「強さってものにもな――」
その声は闇の中善く響く。私は――ゆっくりと、妖忌――師匠の後ろへ降りた。
「色々ある。俺の強さは、こう云う事だ。弱さを捨てた強さ。己の弱み足り得るものを常に捨て続けて――俺は強くなってきた」
お前は如何だ――緩々と師匠はこちらを振り向いた。幾度か見た事のある能面の様な無表情。
「俺に勝つには、俺のようになるしか無い。お前は俺に勝つために――強くなるために――お嬢様を捨てる事が出切るか?」
いいえ、と私は首を振る。いいのか、と試す様に師匠は云う。
「それじゃあお前は俺には絶対に勝てねェぜ。お前は――俺に勝つために強くなりたいんじゃなかったのか?」
「昔は――そうでした。でも今は、私はお嬢様を守るために強くなりたいんです。その私が――どうしてお嬢様を捨てられるでしょう」
「俺が――お嬢様を殺すと云ったら、如何する? 俺に勝てないお前が、お嬢様を守りきれるのか? 妖夢」
「勝てなくても――止める事は出切るでしょう。私が欲しいのは、そう云う強さですよ。師匠」
それでいい――そう云って、師匠は能面の様な表情を崩す。嬉しそうに、笑った。
「お前は俺みたいにはなれねェだろうけどな、それでも――お前なら俺と同じ場所には立てるかもしれねェ。だからよ――」
お前はお前のやりたいようにやれ――そう、師匠は云った。私は――苦笑した。今更何を云っているのか、と思う。
そうするようにずっと私を育ててくれたのは――彼だと云うのに。
私は真っ直ぐに師匠を見る。ずっと、彼に会ったら云おうと思っていた事があった。
「師匠――」
「ん?」
「云いたい事があるんです」
「何だよ?」
「あ――――」
ありがとう。
「あ?」
訝しげに師匠は私を見る。私は――首を振った。やっぱり駄目だ、と思った。こんな、夢の中で云えるような――そんな軽い言葉ではないから。
だから云った。
「――やっぱりいいです」
「何だそりゃ」
「次に――実際に師匠と会える時まで、取って置きますよ。だから――さっさと戻って来て下さい。私も、幽々子お嬢様も、ずっと待ってますから」
師匠は困ったように頭を掻き、そしてふと真顔になった。
「もし俺に帰ってくる気がないとしたら――如何する?」
「殴ります」
「そうじゃなくても、俺はどっかで野垂れ死んでるかもしれねェ。帰り道が解らなくなって、諦めてるかもしれねェ」
「殴ります」
「――もうちょっと真剣に考えろって。あってもおかしかねェだろ、そう云うこと」
「真剣ですよ」
真顔で返す。この上なく、真剣だった。
「もし――本当に師匠がそんなことになっていたら、探し出して殴り付けます。お嬢様と一緒に。何処に居ようと関係ありません。絶対に、探し出してみせますよ。謝っても――許しませんから」
だから――私は茶化すように笑った。
「そうなりたくなかったら帰ってきて下さい。私は兎も角――お嬢様を怒らせると怖いですよ?」
「ああ、知ってるさ――」
そう云って、師匠は大きく溜め息を吐いた。仕方ねェなァ、と呟き、私の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「帰るさ。いつか、必ずな。だから――その時までは頼んだ」
「云われなくても、です。でも――あんまり遅いと探しに行きますからね」
「ああ。肝に命じとくよ」
それじゃあな、と片手を挙げて師匠は踵を返した。
はい、お元気で、と私はその背を見送った。
深い闇の中へ、彼は躊躇なく踏み込んで行った。
――そうして漸く私は、昔出来なかった別れを果す事が出来た。
覚めればまた忘れてしまうのかもしれないけれど――今はただ、満足だった。
彼が帰って来ると云ってくれた事が。彼の背を見送ることが出来た事が。
それは私が創り出した都合の善い夢なのかもしれないけれど。
それでも――私は嬉しかったのだ。
闇が胎動した。ゆっくりと世界が収束していく。
夢が終わるのだと――私は何となくそう解った。
願わくば――この幸せな気分だけは、目覚めても忘れずに――。
しゃッ、と何処かでそんな音がした。
ぱちん、と世界が弾けた。
「―――まぶ、し」
「――あ、起こしちゃったかしら?」
眼を開けると、真っ向から光が見えた。光に徐々に眼が慣れると、それが窓から射すものだと解った。
その窓の傍で、少女が微笑んでいる。ぼんやりと少女の名を口に出した。
「――ゆーこ、じょう、様」
少女は眼を丸くして、くすりと笑った。何かおかしかっただろうか、と思い――急速に意識が覚醒した。がばりと――慌てて体を起こす。
「久しぶりに聞いたわね、その呼び方。昔の夢でも見てたの?」
「え、あ、お、おはよう御座います、幽々子お嬢様」
「ええ。おはよう、妖夢」
「ど、ど、どうしたんですか。も、もしかして寝坊しましたか私」
まあまあ、落ち着きなさいな――と云って、幽々子お嬢様は可笑しそうに笑った。
「私が早く起きちゃったのよ。だからついでに妖夢を起こしに来たのだけれど――何だか幸せそうに寝てたわね」
「あう、ええと、その、申し訳御座いません」
「怒ってなんてないわよ。むしろ可愛い寝顔を見せてくれて、お礼を云いたいくらい」
うう、と呻く。恥ずかしさに顔が真っ赤になるのが解った。
それで――とお嬢様は楽しそうに笑いながら云った。
「どんな夢を見てたの? 昔の夢?」
「ええと――」
私は首を傾げた。夢を見ていた事は思い出せる。何となく、昔の夢だったような気もする。だが、その夢がどのような夢だったかまでは――思い出せなかった。
「解りません。その、申し訳ないんですが」
「あら、そう。残念。まあ――夢と云うのは大抵そんなものよね」
「でも――」
でも? とお嬢様は興味深そうに聞き返す。なんとなく――なんですが、と前置きして、私は云った。
「幸せな――夢だったような気がします」
あまり質問の答えになっていないようで、私は申し訳なくて首を竦めた。
そんな私を見て、お嬢様は微笑み――云った。
「そう。よかったわね、妖夢」
それは皮肉でも何でもなく、本当に喜んでくれている――そんな優しい微笑みだった。
だから――私も微笑んだ。
「はい。有り難う御座います、幽々子お嬢様」
これを読ませて頂いて固まりました。 格好良すぎです。
妖忌のかっこよさについては他の方々の指摘されている通り、
個人的に舌っ足らずな妖夢がかなりツボだったり…かわいいよ!