Coolier - 新生・東方創想話

『木陰の朗読会 ~read me ? ~』

2006/06/08 08:10:47
最終更新
サイズ
26.87KB
ページ数
1
閲覧数
804
評価数
2/40
POINT
1790
Rate
8.85





 よーし、レア物げっとだぜー!

 今日はツイていた。いつものようにいつもの如く幻想郷の外れにあるゴミ捨て場を漁っていたら、古びた本を二冊手に入れたのだ。
 赤い表紙の一冊目をぺらぺらページを捲ってみれば、見るからに小難しそうな文字の羅列。表題は掠れて読めないが、中身は多少染みがついているくらいで読むのに支障はなさそう。旧仮名字体で書いてあるので読むのは難しそうだが、今までにもそういう本を何冊か読んだ事がある。私くらいの本読みエキスパートになればこんなもんお茶の子さいさいってもんだ。
 そして青い表紙のもう一冊は、どうも外国人の手によるものらしい。同じく表題は読めないものの、中身は日本語で書いてあるので読むのに問題はない。挿絵代わりの写真も何枚か付いていて、どうやら何かの事件についてのドキュメンタリーのようだ。

「うふふーどんな事が書いてあるのかしらね?」

 私は本を読む時はお気に入りの場所で、と決めていた。
 森一番の大きな楠の木。この木陰だと晴れの日も雨の日も快適に過ごせる。気持ちの良い風が吹くから大好きなのだ。
 問題は其処があんまり気持ち良すぎるので、色んなものが集まってくるという事。虫や鳥や獣や……そして妖精や妖怪も。
 偉大なるこの私の力を持ってすれば、そんな有象無象なんてちょちょいのちょーいだが、美と智の化身であるこの私がそんな下品な事をする訳にはいかない。寛大な心でやつらの存在を許してやろう。
 それに中には私の持っている本に興味を持ってくれる者もいる。そんなやつらに本を読んで聞かせると、おおー! と賞賛を浴びるのだ。クールな私は沸き起こる拍手と賞賛を片手で制して続きを読んであげるのだけれど、正直悪い気はしない。なにしろあいつらときたら碌に文字も読めやしないのだ。そんなお馬鹿なやつらに本の面白さを伝えるには、読んでやるしかないじゃない。それに私が読んで聞かせる物語を心待ちにしているやつもいるし、その期待は裏切れないじゃない。
 だから今日もみんなの前で、手に入れたばかりのこの本を読んでやるのだ。

「うふ、うふふふふふふふふ」

 思わず顔がにやける。

 さーて、この本にはどんな物語が眠っているのかな?













                       『木陰の朗読会 ~read me ? ~』











 ここ最近雨ばっかりだったが、今日は抜けるような青空。風は軽く緑は眩しく、白い雲がほこほこ浮いている。
 私は翼で風を切り、頭の角で気流を読んで、風のように空を流れる。肩口までの髪が首筋をくすくすと撫でて少しくすぐったい。白い髪に蒼い房、色鮮やかな赤い羽と我ながら艶やかな色立ちだと思う。私の事を「朱鷺」と呼ぶ者もいるが、名前なんてどうでも良い。私は私。それで良い。
 だけどまぁ朱鷺という響きは好きだ。夕焼け空を鴇色で染め上げる朱鷺の群れは、とても綺麗。だから私の事を朱鷺と呼ぶという事は、私を綺麗だと言っているようなもの。褒められるのは良い事だ。褒められるのは嬉しい。

「お、見えてきた」

 森の真ん中に、遠くからでも目立つ一本の大きな木。
 森の主でもある樹齢数千年を超えた楠の木。正確な樹齢は解らないが、前に来た日傘を差した妖怪がそんな事を言っていた。そういえばあの妖怪は何の妖怪だったんだろう? 紫のドレスに金の緩やかな髪。赤く紅を引いた唇は艶かしく、とろんとした目元は茫洋としながら魅入られるような妖しさを醸し出していた。確かにあれも綺麗だった。私が本を読むのをにこにこしながら聞いていたっけ。うん、また来たら本を読んであげよう。にこにこ笑うだけであんまり頭良さそうじゃなかったから、きっと文字も読めないんだろうし。

 私は飛ぶ。
 足元の森がぐんぐんと流れていく。 
 私は飛ぶ。
 楠の木がどんどん近づいてくる。
 私は飛ぶ。
 風を切って空を切って鳥を追い越して影を置きさって――

「着いたーー!」

 最後に気合を入れて飛んだからちょっと息切れ。
 でも無様な姿は見せられないから、口じゃなく鼻でゆっくり大きく深呼吸してこっそり息を静める。さーて、今日のお客さんは、と。

「あれ?」

 今日はえらく大盛況。蟲や鳥や妖精たち、どっから紛れたのか幽霊までもがふよふよしてる。
 雨上がりで蟲が湧き、鳥たちがそれを食べる為に集い、妖精たちは生命の溢れるところで踊りまくり、幽霊も釣られて踊ってる。全く呑気なもんだ。でもこのざわざわした感じは嫌いじゃない。観客が多い方が舌も回るというものだ。
 私は蟲たちを踏み潰さぬよう注意して根元に向かい、根っこの節に腰掛けて手にした本を広げる。朗読する前にどんな感じの本なのか軽く目を通しておこう。前に拾った本は妙な記号ばっかりで読む事も出来なかったし。
 今回の本は拾う前に確かめてあるから大丈夫とは思うが、中身が面白いかどうかは別問題。
 面白い本は朗読するうちに自然に熱が篭る。そんな時は喝采もひとしおだ。

「くふふ、さーてと……ん?」
「あー! 何でアンタがいるのよっ!」

 いきなり掛けられた声に顔を上げれば、太陽を背にした黒い影。太陽を透かす透明の羽が、プリズムのようにキラキラと眩しい。眼を凝らせば水色の髪と服に小生意気そうな顔。あー……いつもの氷精だ。その横には、いつもにこにこ大妖精。この二人はいっつもセットだ。
 氷精は地面に降り立つとズカズカ歩いてきて、鼻と鼻がぶつからんばかりに顔を近づけて、ぎんっとガンを飛ばしてきた。その気迫と目付きより、むしろ鼻腔を擽る吐息がくすぐったくて思わず顔を背けそうになった。しかし喧嘩を売ってきているのが明白な以上、私だって引く訳にはいかない。両足を開き地面を踏み締めて、負けじと視線に力を込めて睨み返す。額がぶつかって火花が飛ぶが、絶っっっ対に視線は逸らさない。

「ここは私の縄張りだって言ったでしょー! あっちいけ!」
「はぁ……あ・の・ねー。何度も何度も言ったでしょ。縄張りも何もないっての! それにこないだあんた負けたじゃない。あっちいけはこっちの台詞だっての」
「な! ま、負けてないわよ! あれは、えーと、その……そう、戦略的撤退ってヤツよ!」
「泣きべそかいてた癖に何言ってんの」
「泣いてない!」

 私と氷精は額をぶつけて睨みあう。
 コイツときたらいっつもこんな感じだ。最初出会った時は、私の朗読会に大人しく座って聞いていたのに……目をキラキラさせて、次々と質問してくる様は少し鬱陶しかったけど、これだけ関心を持ってくれたというのは悪い気しなかった。殆どがトンチンカンな質問で答えるのに苦労させられたけど、時々はっとするように本質を捉えた質問をする事もある。こちらが気付かなかった主人公の心境や思考を、再発見させられた事もしばしば。勿論10あって1、いや100あって1の確立かもしれないが、それでもそれで価値あるものを切り捨てる程、私は偏狭ではない。この子に本を読んで聞かせるのは楽しみでもあったのに……

 今は顔を合わせれば喧嘩ばかり。どうやら私が本を読んで、皆の賞賛を浴びるのが悔しかったらしい。
 一度どっかから本を拾ってきて、私のように朗読会をしようとしたが、読めない漢字があって詰まってしまったらしい。後から聞いた話だけど、私がその場にいれば、ひょっとしたら助けてあげれたかもしれないのに。
 私も朗読中に読めない漢字があって、詰まってしまった事は何度もある。
 あの時の気持ち、あの居た堪れない気持ち、皆の心配そうな視線、僅かに伝わる失望感、自分を粉々に吹き飛ばしたくなるような恥ずかしさ……きっと氷精も同じだったんだろう。私には……私だけには良く解る。

「……大体、アンタの事前々から気に入らなかったのよ」
「……へぇ、奇遇ね。あんたと同意見ってのは屈辱だけれど」

 ぶつけ合った額から煙が出そうな程、お互い全身に力を込める。すでに弾丸は装填済み。視線は刃。吐息が交じり合う程に密着。踏み締めた右足が不退転の決意で大地に杭を穿つ。鳥も蟲も妖精も幽霊も、固唾を呑んで私達を注視している。握り締めた拳がごきりと鳴り、氷精の髪が帯電したかのように逆立つ。張り詰めていく空気。あと1gでも加重が掛かれば崩壊しそうな圧力。そして――

「らうんどわーん、ふぁいー」

 大妖精の気の抜けたような合図と共に拳が奔った。
 私の右拳、氷精の右拳。密着状態から同時に放たれたお互いの拳は着弾すらも同時。全体重を預けたJOLTの拳は、轟音を上げ互いの顔面を弾き飛ばす。吹き出る鼻血がお互いの顔を染め上げるも闘志に僅かも揺らぎなく、私達は再び音を立てて額をぶつけて睨みあう。

「……一応、お互い女の子なんだからぐーは止めない?」
「……おーけー弾幕で勝負よ。かちんこちんに凍らせたげるわ」

 鼻血をぼたぼた垂らしながら睨みあう様は絵面的に美しくない。その点に関しては紳士同盟を結び、一応の同意を得る。

「んじゃ、1,2の3で離れるわよ」
「ズルしないでよね。この鳥頭」
「あんたには言われたくないわね。この空気頭」
「ふふふ」
「ふふふ」

「1」
「2の……」

「「3!」」


 大地を蹴って空へと翔ける。
 急激に上昇し視界が一瞬暗転。一時的に血液が足りなくなった眼球が活動停止。心臓が急ピッチで救援物資を送り込み、ライフラインを無理矢理確保。回復した視界には真っ青な空。急激な気圧の変化で耳鳴りする。鼻を摘んで耳抜きし音を取り戻すと共に即座に索敵。いた、右45度。敵はすでに砲撃態勢へと入っている。ちっ馬鹿なだけに回復も早い!

「そうりゃ、ふっ飛べ!」

 氷精の放つ氷柱は5本。密度と速度は十分だがこの距離では避わすのも容易。私は敢えて引き付けてから身を捩り、最小の動きでそれを避わす。吹き付ける冷風は僅かに私の体力を奪うが熱く燃える我が身にそんなものは瑣末。牽制に適当に散弾をばら撒くと、私は敵の上位を取るべく上昇した。空中戦において上方を取る事は弾幕戦のセオリー。マニュアルに縛られる事は思考停止と決定的な敗北への地獄道ではあるが、有効であるが故にセオリーなのだ。氷精の放つ氷塊を円運動で避わしながら螺旋のように上昇していく。あの氷精は紛れもない馬鹿だがその力は侮れない。息継ぎなしで放たれる氷塊は尚もその数を増し、空を埋め尽くさんばかりにその密度を増していく。

「ちっ」

 弾幕の展開が予想以上に早い。出来るだけ最小の動きで避わし続けるが、私の思い描く戦術において必要な位置取りが出来ない。狙っているのか本能か、私の欲するルートを的確に潰すべく氷塊が唸りを上げて飛来する。牽制に弾幕を張ろうにも私の弾速は遅い。事実、氷精は余裕の笑みすら浮かべて私の放つ弾幕を避け、当てるどころか掠りもしない。
 ヤバい。このまま力押しの物量戦で来られたら……

「あはは、とどめよっ! 凍符『パーフェクトフリーズ』!」

 ――世界が凍る。

 氷精の『宣言』と共に、世界はひび割れたような音を立てて停止する。
 風も、空も、時間すらも停止させる圧倒的な凍気。空を埋め尽くさんばかりに展開された氷塊すらも物理法則に抗い停止する。私は驚愕に息を飲んだ。これ程の力、すでに妖精の枠を超越している。世界にすら干渉しうる力。それをあんな事も無げに。だけど――

「あんた馬鹿?」

 私は停止した氷塊の合間をひょいひょいと抜けて任意の位置を確保した。あんなに回避に苦労していたのに、脱力するくらいあっさりと。
 確かに凄い力だけど……自分の弾を止めて何の意味があんの?

 むぁー! と悔しそうに地団駄を踏む氷精。
 結局、どれ程力を持っていようと馬鹿は馬鹿か。
 
 私は氷精の真上に陣取った。そう、この位置。この位置こそが――

「これで詰み」

 私は両手を突き出し、5つの大玉を解き放つ。穏(おん)と鈍い唸りを上げて落下する魔力塊。進路上の氷塊を事もなく粉砕し、直下の氷精に迫る。しかし

「はん! そんな遅い弾。当たる訳ないでしょ!」

 そう。遅いのだ。
 氷塊を粉砕する様を見ても解るように、その破壊力は尋常じゃない。だがその威力の代償に非常に弾速が遅いのだ。遅い。亀が歩く速度より遅い。具体的にはふよふよ飛んでいる大玉に文が「はぁ、どっこいしょ。今日も良い天気ですねぇ」と言いながら腰掛けてお茶を飲めるくらいに遅い。しかも重過ぎるその弾は何の挙動もなく、ただ落下するだけ。その上狙いも甘かったのか、一つとして氷精に掠る事なく重い音を立てて地面に突き立つ。 

「へったくそーこんなの避けるまでもないわ! ふふふ、魅せてあげる。本当の弾幕というものを!」

 そう叫んで再び周囲に冷気を集め始める氷精。
 当然それは動きを止めるという事であり、そしてそれは――私の読み通り。

「んきゃう!」

 地面に刺さった大玉が一斉に破裂。
 爆風が、衝撃波が、内包していた無数の散弾が氷精の無防備な背中を強かに撃つ。
 へろへろぽてりと地面に落ちた氷精は、声も出せずうぐうぐともがいている。

『油断大敵~killed sight-read.』

 これが私のスペルカード。
 足の遅い弾幕に殆どの者は油断する。しかしそれは作戦。相手の行動を読み、効果的に配置した機雷を任意に炸裂させる事で死角から撃つ必殺の技。こないだ私から本を奪った紅白のお目出度いヤツは、初見から勘で避わし掠らせる事しか出来なかったがあんなの特例中の特例。流石に一度喰らった者は二度と喰らってくれないが、初撃は必ず当てる初見殺し(killed sight-read)。私の唯一にして必殺のスペルだ。

「くっ……! 後ろからとは卑怯な!」
「つか、アンタとはもう何十回も戦ってるんだから、いい加減学習しなさいよ……」

 地面にうつ伏せになり悔しそうに歯噛みする氷精。私も流石にもう通用しないだろうなーと思いながらの攻撃だっただけに、自分でもびっくりだ。過去の戦歴では喰らいながらも根性で吶喊してきた氷精に苦渋を舐めさせられた事もあるが、今回は当たり所が悪かったのか反撃する余力はなさそう。涙目で悔しそうにこっちを睨むだけである。ちょっと可哀想だなと思ったが、前回私が負けた時は倒れた私の頭に足を乗せ「ほーほっほっ! 少しは格の差ってもんが解ったかしら?」とか何とか言ってやがったのを思い出したので、とりあえず止めの大玉を喰らわせておく。氷精完全に沈黙。ふぅ、すっきりした。

「はい、そこまで~お疲れ様でした~」
「うえっ! いつの間に背後に!」

 慌てて振り向けばそこにはにこにこ笑顔の大妖精。ちょっとごめんなさいね~とか言いながら私の隣を警戒心もなく通り過ぎ、よっこらしょ~と言いながら目を回している氷精を担ぎ上げる。緑色の長い髪が爽やかに流れ、肩に担いだ氷精を見つめる瞳は母親のように優しい。
「……あんたの方がよっぱど手強そうだよね」
「ん? ん、ん、んふふ~いえいえ、私はしがない名もなき妖精ですよー」
「嘘ばっか」
「ほほほ、そんな事ありませんって」

 翼を広げ、氷精を抱えたまま空にふわりと浮く大妖精。
 その羽ばたきに込められた力強さは、それだけでただの妖精と一線を画す存在だと示している。

「それではまた~これからもチルノちゃんと仲良くしてやってくださいね~」

 そう言って西の空に消えていく大妖精。
 私はあの大妖精の笑った顔しか見た事がない。

「……読めないヤツ」

 読めないなんて、本読み妖怪である私の沽券に関わる。
 だけどどうしても、あいつに勝てる気がしなかった――











「さて、色々あったけど……やーっと落ち着いて読めるわね」

 戦いの最中も肌身離さず持っていた二冊の本。その中身については敢えて予想しようとしなかった。期待を裏切られるのが怖い、というより純粋に本を楽しめなくなる気がして勿体無かったのだ。
 一行読む毎に書き換えられていく私。
 私の中のイメージが、固定概念が、世界が、文字の流れによって作者の思惑通りに上書きされていく。

 それは心地よい翻弄。
 それは胸の躍る拘束。
 それは、そして本来の自分と溶け合ってまた新しい私を生み出していく。
 
 単なる文字の羅列に過ぎないものが、どうしてこうまで私を捉えるのか。
 胸躍る大冒険。悲しい愛。優しき母性。未知の存在。難解な哲学。不可思議な現象。夢と現。
 そしてそれら全てが折り合わさった心ときめく物語。

『面白いから』

 本の魅力を語るのに、きっとそれ以上の言葉は不要なのだろう。

 だから今日も飛び立とう。
 新しい世界に飛び立とう。 
 
「どれどれ……」

 まずは一冊目。
 ぱらぱらと捲ってざーっと目を通す。話の流れをある程度掴んでから朗読するつもりだった。
 そのつもりだったんだけど……

 ぱらぱらと捲るだけだった手が止まる。最初からきちんと読み直す。記憶に残った台詞や文を一切合財デリートして、真っ白なままに一行目から読み直す。周りの音が聞こえなくなり、硬い木の節に腰掛ける尻の痛みも消え、呼吸すら忘れた文字を追うだけの機械となる。それほどこの物語に引き込まれた。

 それは人間になれなかった男の話。
 嘘の笑顔、嘘の演技、嘘の生活。だがそれ故に数多の女性を惹き付け、それでもなお矮小で臆病な自分自身を晒す事の出来なかった惨めな男の話。世間という名の怪物に飲み込まれ、怯えたように酒と薬物に逃避し、それでも逃げ切る事が出来ず、もがき苦しんだ男の人生を綴った話。
 他人を欺くのに長けていた男は、でも結局最後まで自分自身を騙す事が出来なかった。
 普通の人間なら無意識に行っているそれを、その男はどうしても出来なかったのだ。

 読み終えた後、私はしばらく放心していたらしい。天空にあった太陽はすでに傾きかけている。
 朗読会を待っていた筈の様々なものは、気が付けば誰もいない。蟲は塒に帰り、鳥は餌を求めて飛び去り、妖精も幽霊も詰まらないものには用はないとばかりに飛び去っていた。

 気付けば独り。私独り。

 その事が微妙にこの男の在り方と重なり、とても哀しくなってしまった。

 この男には救いはない。
 なら私にも救いはない?

「違う違う!」

 私は頭を振って頭蓋にへばり付いた淀んだ膿を振り落とす。膿は根を伸ばし脳髄に染み込んでいて、振っても振っても拭い去れない。じくじくと胸が痛む。どよどよと重い。黒くて重いものが私の背中にへばり付いている。足元からぞわぞわと嫌なものが這い上がってくる。抵抗する気力も嫌悪感も根こそぎ落としてしまったような喪失感に襲われ、空っぽの心臓に代わって重い鉄塊が鎮座し、赤い血液は比重の重い水銀へと変質している。

「あぁ」

 空は――青い。

 悔しいくらいに、羨ましいくらいに。








 打ちのめされた私は、そのまま朽ち果てるかと思った。
 手にした本は零れ落ち、茶色の地面に転がっている。風がぱらぱらとページを捲り、私の鳥の目は瞬間的に捲られたページの文字を、嫌でも脳裏に焼き付ける。吐き気を催して目を逸らすと、そこには青い表紙のもう一冊の本。機械的に手を伸ばそうとして――手が止まる。
 怖い。
 本を読むのが怖い。だけど……
 私は残っていた気力を掻き集めて二冊目の本を手に取る。もう朗読する力はない。だけど、ひょっとしたらこの本は私に力をくれるかもしれない。このままじゃどうせ立ち上がれない。だから祈りすらこめて、淀んでいた脳髄をとりあえず隣に置いて、二冊目を開いた。思考を閉じて機械的に文字を追う。そして私の祈りは、願いは、僅かな希望は――本によって砕かれた。

 それはとある国の戦争の話。
 ある新聞記者が戦争の悲惨さを伝えるためにカメラ一つで戦場に向かい、だけれどどれ程言葉を綴っても、その恐怖を残酷さを哀しみを伝えられないと嘆く話。轟音に銃声に悲鳴に怯えるだけだった彼は、それが日常になるにつれその心が磨耗していく。爆風に吹き飛ばされぼろぼろになった子供に手を伸ばす事もせず、無心にシャッターを切る彼は正常なのか狂っているのか。もっと良い写真を撮りたいが為に死体を弄び、(都合の)良い被写体へと加工する彼は一体何がしたかったのか。飛び交う銃弾に、眠れぬ夜にあんなに怯えていた癖に、わざわざ賄賂を支払ってまで最前線に赴く彼は何を欲したのか。塹壕から身を乗り出してシャッターを切る彼を庇って、虎の子のウイスキーを分けてくれた軍曹が顔面を撃ち抜かれた時、彼は何を思ったのか。


 わからない分からない解らない。人間が――解らない。


 今まで読んだ本にも戦争の事は出てきた。
 でもそれは何処そこの将軍が画期的な作戦を用いて敵を撃破したり、ある兵士の勇猛果敢な姿だったり、戦場に咲いた甘く哀しいラブロマンスだったり……どれもこれも胸踊り、わくわくするような物語だった。

 だけど思い返せば、そんな英雄譚の裏には悲惨な現実が溢れかえっていて、美談の裏には千の不実が隠れていて、愛を語る者は何も残せぬまま戦場で真っ先に死んでいく。それが現実だと突き付けられた。ナイフのように尖った刃先で、だけど傷口は醜く歪み、即死に至らぬよう計算された角度で私の内腑をじくじくと掻き回す。吐き気を催す汚濁が私の心を腐らせていく。

 蟲は鳥を食べ、獣が鳥を食べ、人が獣を食べ、妖怪が人を喰らう。此処にだって死は当たり前のように隣にある。
 だけど何か違う。私の知る理とは何から何まで異なっている。

 これが人間なのか。
 これが人間だと言うのか。

 力なく項垂れた指先から本が零れる。
 だけど私にはもう……それを拾い上げる事は出来なかった。 

「……怖い」

 口から零れた言葉。その呟きは自分の口から零れたものとは思えない程、暗くて冷たくて。
 私は両足を抱え込むように蹲り、ぶるりと震えた。
 木陰に遮られていた太陽が赤い光で私を射抜く。気が付けばもう夕暮れ。空と大地の境界線に掛かる太陽が最後の残滓を燃やしている。

 私はこの時間が好きだった。綺麗だから。とても、とても綺麗だから。

 だけど今の私は、それからも目を伏せ逃げる。
 愚かで矮小な私は、それを見る資格もないように思えたから。
 だから膝に額を押し付けて、胎児のように丸まって、世界の全てに背を向ける。
 
 私は人間が好きだったんだ。
 私は人間が好きだったんだ。
 私は人間が好きだったんだ?

 もう……何も解らない。


 氷精と大妖精が仲良く笑っている姿が浮かぶ。
 氷精は怒ったり、泣いたり、笑ったり……くるくると本当に忙しない。
 だけど大妖精はそんな氷精を、にこにこ、にこにこと微笑みを浮かべて見守っている。いつでも……どんな時も……
 本ばかり読んでいた私には、こんな時隣にいてくれるものは何もない。
 独りでいる事を孤高と嘯き、誇りにすら思っていた。周りに集まる蟲や鳥や妖精たちを、本も読めぬ愚か者と蔑んでいた。


 だけど今は……

 独りでしかない自分が……耐え切れないほどに惨めだった。














「今日は朗読しないの?」

 突然掛けられた声にびくりと震えた。
 慌てて顔を上げたが姿は見えない。きょろきょろと辺りを見渡していると「こっちこっち」と上から声が掛かった。見上げれば木の枝に腰掛ける紫の人。前に見た時と同じく綺麗な金髪をゆらゆらと揺らし、日傘をくるくると回している。目と口元に優しげな微笑を湛え、体の半分を夕日にもう半分を宵闇に委ね、その境界線に何の怖れも不安もなく腰掛けている。

「今日は朗読しないの?」

 まるで痴呆のように同じ言葉を投げ掛ける。いや、痴呆と思われているのは私の方か。

「放っといてよ……」

 それが癇に障ったから、冷たい口調で拒絶した。今は誰とも話したくない。
 今は? いえ、ひょっとしたらこれからもずっと……もう誰とも関わりたくない。 

 紫の人は傘を開いてふわりと枝から飛び降りる。
 重力など存在しないかのようにふわふわと、ふわふわと。
 音も立てずに私の隣に降り立つと、屈み込んで二冊の本を手に取ってぱらぱらと捲る。
 その軽やかな音が、今の私にはとても癪に障る。あんなに、あんなに好きだった音なのに――  

「ねぇ、これ何て書いてあるの?」
「……自分で読めば?」
「私、字が読めないの」

 ふふっと笑う紫の人。その顔はとても無邪気で、穢れを知らぬ乙女のようで――だのに何故か。

「貴女の読んでくれるお話が好きなの。ねぇ、これには何て書いてあるの?」
「……」

 私は迷う。
 語るという事は思い出すという事。思い出したくはない、もう思い出したくない。
 だけどやっぱり私は歪んでいた。どうしようもないくらいに歪んでいた。呆れるほどに絶望するほどに。人間失格の烙印を押されたあの男のように。人の心を失くしてしまったあの新聞記者のように。
 この無邪気に微笑む美しい人を、自分と同じところまで引き摺り下ろしたいと。私と一緒に泥に塗れてしまえと。

 歪んでいる淀んでいる終わっている。私はもう――

 それが解っていながら、こと細かに本の中身を語る私。
 今までにない熱を込めて、本を朗読する私。
 夜が降りてくるまでの僅かな時間に、全てを燃やし尽くしてしまおうと、息継ぎすらも惜しんで朗読する私。

 観客はただ一人。
 隙間に佇む妖一人。

 それでも良い。たった一人でも良い。私と一緒に闇に堕ちてくれるのなら…… 

 夕日が山影に沈み、残るはただの残光。
 これを語り終えた時、世界が夜に沈んだ時、私は完全に闇に堕ちる。
 最後のページを語り終えた時、私の心を吹き抜けた風は、どんな色と匂いをしていたのか。

 私には解らなかった。 
 





 私が全てを語り終えると、彼女は「ふぅん」と呟いた。
 ちらりと覗けばその顔は、闇にも沈まず最初に会った時の無邪気な顔のまま。私は取り残された失望感に再び顔を伏せる。私の気持ちを、私の中の暗い淀みを伝える事が出来なかった。自嘲の歪んだ笑みが浮かぶ。どうやら私は語り部としても無能だったらしい。

「へぇ……成る程。面白いわね、人間って」
「……どこがよ」
「私達と違うところが」

 何を当たり前の事を。

「自身を愛せず、死を売り物にし、それに疑問を抱きつつも決して止めようとはしない。妖怪じゃ考えられないわね」
「……」
「やっぱり人間なんて、餌としての価値しかないわね。知ってる? 人間って美味しいのよ? 特に肝」
「……」
「どう、貴女も食べてみない? 奢るわよ? 里に行けば人間なんていくらでもいるし」
「……」
「初めてなら子供の方が良いわね。柔らかくって食べやす」
「煩いっ! あっちいけ!」


 殺意。
 混じりのない本物の。
 自分の中に渦巻いていた汚らしい何かを全て載せて、私は殺意を飛ばす。視線だけで射殺そうと、目の前の妖に向かって。
 だけど妖は涼しげに受け流して微笑んだ。

「何だ。元気じゃない」
「煩い……本当に殺すわよ」
「うふ、うふふ、あはははははははははは」
「な、何笑ってるのよ!」
「は、はは――っ だって、ははは、こんな面白い事なんて、ふふふ、久しぶりだもの」

 涙すら流して笑い転げる妖に、私は無言で右手に集めた魔力を――

「え?」

 世界が回った。
 大きな楠の木が、空が、夕日が、高速で通り過ぎて気が付けば目の前は赤茶けた大地。
 声すら出せず地面に叩き付けられ、背中の痛みに顔を顰め、何が起きたのかも解らず顔を上げれば、そこには閉じた傘をくるくると弄ぶ妖の姿。その顔に浮かぶは妖の笑み。無慈悲で、残酷で、それでいて全てを包み込むような菩薩の微笑。
 投げられた。
 それを理解するのに、どれだけの時間が必要だったか。今の私ではそれすらも把握出来ない。虫けらのように地べたに這い、崇めるように妖を見上げるこの位置関係が、そのまま彼我の力の差。足掻いても、もがいても、たとえ生命すら投げ出そうと勝てない。それだけは――解った。

「理解した? 認識した? 読み取れた? 貴女と私の差が。哀しい程に、哀れなほどに、絶望的なまでに隔たれた力の差が。
 解る……いえ『読める』筈よ。貴女なら」

 あぁ、嫌って程に理解した。
 彼女の右手が触れた瞬間に流れ込んだビジョン。それは――私では表現する言葉も持っていない。睨む事しか出来はしない。
 だからせめて、視線だけは逸らさずに。

「ふふっ、賢明ね貴女は。そう、力の差が解れば争う事もない。それが妖。人間とは違うわ」
「解ってるわよ、そんな事!」
「ふふっ、本当に解ってる?」
「……え?」
「貴女は……本当に人間と妖の違いを……違うと言い切れる程、人間の事を解ってる?」
「それは……でもっ!」
「そもそも『人間』って何だと思う?」

 轟と強い風が吹く。
 舞い散る木の葉が視界を隠し、強い草の香が嗅覚を閉ざし、でも吹き抜ける風鳴りは聴覚を奪わなかった。
 私は遥か遠雷を聞くように、揺れる山鳴りに貫かれるように、月の囁きに耳を傾けるように――言葉を待つ。

「誰だって仮面を被っている。その仮面の下にいるのは何かしらね? 
 貧相な悪魔? はらぺこの狼? 怯えた子羊? それとも綺麗な花?
 その中身はいつだってころころと変わる。ゆらゆらと。ふらふらと。
 右に左にぐらぐら揺れて、誰にも中身は解りはしない。例え自分自身でもね。
 じゃあ人間って何かしら? そんな曖昧なものが人間なのかしら? 貴女はどう思う?」
「……わかんないわよ」
「うふふ。中身を見ようとするから解らないのよ。
 人間というのはね。そんなどろどろの中身の事じゃない。卵は殻があってはじめて卵なの。仮面を被った『状態』を人間というのよ」
「……え?」
「仮面を被った状態。仮面を被りたいと望む在り方。或いは仮面そのものが人間なのよ」
「……良く解らない」
「それはまだ貴女が人間を知らないから。
 人は容易くその仮面を脱ぎ捨てる。人間であり続ける事が辛いから。
 それでも人は再び仮面を被る。やっぱり人間でいたいから。
 いつだってふらふらふわふわ、揺れて揺れて揺れ動いて、だから間(はざま)の人(そんざい)なのよ」
「……」
「貴女は人間に失望した。でもそれは人間の一面でしかない。貴女は何故人間に興味を……いえ、人間を好きになったの?」
「それは……でも……」
「それら全てを含め、もう一度考えてみなさいな。どうせ妖怪達(わたしたち)には時間は幾らでもあるんだから」
「……」
「さて、そろそろ行くわ。お腹も空いたしね。それではごきげんよう」
「――待って!」

 私は思わず声を上げる。すでに立ち上がった彼女は日傘をくるくる回して夕日の中に溶け込んでいて。
 だから私は、それでも私は……眩い夕日の中、宵闇に溶ける彼女の顔を見たいと目を見開いて。

「貴女は……人間が好き?」

 そして彼女は夕日の中に消えていく。昼と夜の狭間の中にとても優しげな笑みを残して。
 答えはなかった。だけどそれで十分だった。

 もう一度、夕日を見る。
 赤く赤く朱鷺色に染まる世界。それは昼と夜の狭間の世界。そしてそれは――

「あぁ、そうか」

 だから私は、人間が好きだったんだ。




  

 森の外れにある古ぼけた店。
 ドアを開けるとからんからんと鐘の音が響き、「いらっしゃいませ」と覇気のない声が響く。商売人としてその覇気のなさはどうだろうと思うが、まぁどうでもいいや。店先に並ぶ雑多なガラクタを掻き分けて店主の下に向かう。普通は店主の方が、客の方に手をすり合わせて寄ってくるもんだろうに。

「何だ、君か。残念だけどあの本はもうないよ。売り物ではなくなってしまったのでね」
「いいわよ、もう。それより欲しい物があるの」
「ふむ、お客さんなら大歓迎だが……何が欲しいんだい?」
「紙とペン」
「あるけど……何に使うんだい?」

 私は本が好き。
 紙に書かれた文字の羅列。ただそれだけのもの。だけどその中にはその人の思考、思想、哲学、生き様、そして――夢。その全てが詰まっている。自分の中の想い、それを誰かに伝えたいという声なき声が詰まっている。
 私は人間が好き。
 すぐに死んでしまう儚い存在。妖怪のような力もなく、肩を寄せ合い震えながら生きている脆弱なもの。言葉だけじゃ括りきれない様々な想いを抱え、不器用で自分勝手で臆病で残酷で、でも優しくて強くてとても輝いて。

 限られた短い時間を次の世代に託す事で、自分の証を永く残していく強くて儚いものたち。

 そんな人間の物語が――好き。

 だからもっと知りたい。もっと貴方(人間)の事を知りたい。色々な本を読んで、色々な人を見て、色々な事を知って。
 今はそうして知った人間の在り方を綴っておくだけ。忘れないように、好きな気持ちも嫌いな気持ちもそのまま形に残せるように。
 そしていつか、私の事も知って貰いたいから――























「私も――本を書くの!」











                                  《終》














知りたいな、貴方の事。
知って欲しいな、私の事。

えへへ。
床間たろひ
[email protected]
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.1620簡易評価
29.80東京狼削除
んふふ~‥‥大石さん=大妖精さん?
どうもこの処大妖精さんの底知れなさが上がっている様な気が‥‥‥人間に成れなかったテッドバンディ、人間が好きな朱鷺子、彼女はどの様な本を書くのでしょうか?
30.90とらねこ削除
 人間とは違う存在の妖怪も、もとは人間の幻想が生み出した存在。こんな彼女のような妖怪と共存してみたいです。あと大妖精、もろお母さん属性ですね。
33.無評価床間たろひ削除
読んで下さった皆様、本当にありがとうございましたw

東京狼さん……大石さんが解らず、しばし悩みましたがもしかしてクラウドさん? あんなお腹の出たおっさん大妖精は嫌だなぁw
朱鷺子の書く物語、どんな話でしょうね? 間違いなく言えるのは、きっと優しくて暖かい物語でしょう。

とらねこさん……いつも読んで下さりありがとうございますw 本当は本が好き=人が好きではないかもしれません。私の勝手な妄想に過ぎません。だけどそんな人間臭い妖怪がいても良いかなぁって。幻想郷の妖怪たちは、自分が妖怪である事を誇っている気がしますが、こんな人間に憧れる妖怪がいてもいいかなぁと思って書きました。
細かい設定がないのを良い事に好き勝手書きましたが、受け入れてくれて嬉しいですw

それでは改めて読んで下さり、ありがとうございましたw