無駄に茂る竹に識別能力などなく、容赦なく笹の葉はウドンゲの肌に傷をつけた。飛ぶことはできない。無駄に識別能力を有したてゐの対空トラップが胸を躍らせながら獲物を待っているのだ。
本人は時折略奪にやってくる黒い魔法使い対策だと言っていたが、その攻撃対象は黒い服を着た奴という漠然としたもの。侵入者を排除しつつもウドンゲ弄りもやめない、一つで二度美味しいトラップだった。もっとも、
「やだなぁ、そんなわけないじゃないですか、クスッ」
てゐは薄ら笑いを浮かべながらウドンゲの疑問を否定していた。信憑性はゼロ。むしろ最後の微笑で評価はマイナスに達した。
ウドンゲは即刻外しなさいと言ったものの、この手の要請が可及的速やかに行われた試しはない。
「わかりました、明日にでも全部の罠を外しておきますね」
そう言ってから早二日。
竹林の遙か上空から爆音が降ってきた。
霞む霧の隙間を見れば、黒い魔女が焼け焦げ更に黒くなりながら自由落下に身を任せている。てゐとの付き合いの長さや己の勘に感謝しながら、ウドンゲは帰ってからもっと厳しく注意をしなければと決心する。
そんな心構えとは関係なく、別れ道に差し掛かった。右か左か、地図を思い出そうとするが霞がかかったように思い出せない。仕方なく、ウドンゲは地図を取り出そうとポケットをまさぐる。
だが、手応えはない。必死に、賢明に、果ては脱いで逆さにしようかというぐらい本気で捜したが地図の書かれたメモは見つからなかった。
そこでようやく、ウドンゲは自分のおかれている現状に気づいた。
「まずい、迷った」
弟子は師匠の命令に絶対従わなければならない。たとえ、それがどんなに理不尽な命令だとしても。
永琳とウドンゲの関係は、まさしくその通りであった。永琳が烏は白いといえば、ウドンゲも白いと言わなくてはならない。
もっとも、永琳が白いと評した烏は正確には烏天狗であり、よく見れば黒いというよりも白い。幸いにもウドンゲの師には正常な判断が備わっているので、ほいほいと理不尽な命令を出すことはないのだ。
「ウドンゲ、借りていた本を慧音に返してきて頂戴。あ、それとコッチの本を読みたがっていたようだからついでに渡しておいて」
本来なら貸し借りをしていた永琳自身が言ってしかるべしなのだが、いかんせん慧音の周りには輝夜の天敵がいる。輝夜の従者である永琳も目標のうちに入っており、慧音の家に行くことができない。
そのため、こうしてウドンゲが使いを担当することになったのだ。ただ、妹紅が攻撃してこない保証はどこにもない。
「師匠、大丈夫でしょうか」
「大丈夫よ、特製の耐熱紙でくるめば燃えないから。ただし水に濡らしちゃ駄目よ」
ウドンゲが心配していたのは己の身の安全であったが、どうやら永琳には伝わらなかった様子。手渡された耐熱紙には『予定調和!! 紅魔館の下克上失敗』と扇情的な見出しが踊っていた。あの烏天狗も、よもや自分の新聞がこんな末路を辿ろうとは夢にも思うまい。 一瞬の悲哀を天に捧げ、新聞を包み紙へと変えた。
「道程はこの紙に書いてあるから。迷うことはないはずよ」
地図と正確さを競うほど精密に書かれたメモを受け取り、スカートのポケットにしまい込む。
「それじゃあ後はお願いね」
師匠からの使いを失敗に終わらせるつもりもなく、ウドンゲは頑張ろうと意気込み永遠亭を飛び出した。
釣りに凝っていたてゐが、その筋の達人もかくやという腕前でポケットから地図を抜き取ったことに気づかずに。
迷いに迷ってはや数時間。おてんばでも、恋娘でもない月の兎の冒険はようやく終わりを迎えようとしていた。目的の集落を発見したのだ。
とはいえ、喜び勇んで迂闊に集落に入るわけにはいかない。慧音の他に住まう人が、いきなり訪れたスーツの兎をどう思うか、想像するだけで身が震える。妖怪は帰れと石を投げつけられるならまだしも、わぁい今夜は兎鍋だと食卓に彩りを添える可能性も無きにしもあらず。
人を喜ばすのは好きだが、故事の鹿ほど献身的になるつもりなどない。命は惜しい。
石橋を叩いておきながら別の橋を渡る臆病さでもって、遠目ながらに集落を観察する。ちらほらと人の姿は見えるものの、それらしい牛娘の姿は見えない。
考えてみれば今は真っ昼間。牛の要素はゼロパーセント、探すべきは人の慧音だった。
仄かな反省をしつつ、西から東へ集落を見やる。
「ん?」
集落から少し離れた小高い崖の上に、ぽつねんと小さな小屋が建っていた。とりわけウドンゲの目をひいたのは、不動産屋が隠しそうな立地条件ではなく小屋に張りつけられた表札だった。歪な文字で『かみしらさわけいね』と彫ってある。何故にひらがな。
表札の文字を信じるならば、あれこそが目的の家である。疑うならばキリがない。思い切ってウドンゲはその小屋へと向かうことにした。
「願わくばあれが慧音の家でありますように」
いつのまにか口から零れた願いは心の底からのものである。握った拳をより握り、スカートのはためき具合もよりチラリズムになっていく。
名誉のために店名は伏せるが、某店舗の某店主なら鼻息も荒く「れーせん、れーせん」と地面をスタンピングしただろう。それほどまでに完成されたチラリズムだった。
人間に姿を見られないように、慎重に慎重を期してなんとか問題の家への接近に成功した。
スペルカードが使えるなら自分の姿を見えなくして堂々と道を歩くこともできたのだが、いかんせん上白沢慧音は人間にスペルカードを使うことを嫌う。危害を加えているわけではないので攻撃こそしてこないがいい顔はしない。
今後も(本の貸し借りだけは)友好的な関係にしたい永琳から人間へスペルカードは使うなと言われていたのだ。師の教えを破るつもりなど毛頭ない。
「うーん、それにしても見れば見るほど下手な表札だな。慧音が作った……ようには見えないし。あの蓬莱人が作ったのか?」
それにしたって下手すぎる。姫ならばあるいは似たようなものを作られるかもしれないが、そんな面倒なことを進んでするはずがない。おそらくは慧音の知り合いが作ったものではないか。
色々と悩んではみたものの、あくまでこの小屋に慧音が住んでいればの話だ。これで全く別の人間が住んでいれば思考に要した数十秒は全くの無駄になる。
輝夜や永琳のように無限の命があるわけでもない。時と命は有限なのだ。大切に使っていかないと。
「いかんいかん、また思考が逸れた」
恐る恐る、障子の戸を叩く。小屋の中で誰かが動く気配がした。少なくとも人はいるようだ。
「何用だ?」
白と藍色の混じった特徴的な髪に、重要文化財みたいな特徴的な帽子。何から何まで特徴的な姿は、紛れもなく上白沢慧音であることを示していた。
「む、お前は永琳のところの。なにか用事か?」
「はい。師匠が借りていた本を返しにきました」
「ほぉ、随分と早いな。どこぞの黒一色の魔法使いとは大違いだ」
書物やレアなアイテムを持っている連中の常套句である。永遠亭も多少ながら被害を受けているので、慧音の台詞もわからないでもない。
「それと、こっちが慧音さんへの本です」
「あぉ、ありがとう。『悲観六考』に『改宗疑似の報い』……『ひらとみ源歌』まで。随分と律儀な奴だな」
喜色満面で本を受け取る。読書を趣味や生業にしないウドンゲには、どうしてそこまで喜べるのかわからなかった。だが、趣味とはそういうもの。えてして他人には理解できないのだ。
「永琳には私が謝辞を述べていたと言ってくれ。わざわざすまなかったな」
「いえいえ、これぐらいのことなんでもありません。それじゃあ私はこれで」
渡すべきものは渡したし、役目は全て終えた。小さく礼ををして、慧音の小屋から立ち去ろうとする。
「慧音、遊びに来たぞ」
障子が開き、誰かが入ってくる。それは、最も慧音に近しい蓬莱人であり、ウドンゲがいま最も会いたくない蓬莱人だった。
勝手知ったる人の小屋。ノックもなしに入ってきた妹紅がまず目を向けてきたのは、恐怖からか兎耳を縮こませてしまうウドンゲの姿だった。自然と妹紅の眉間に皺がよる。
「お前……」
一瞬で誰か思い出せなかったのだろう。視線を外し、考え込むように板張りの床を凝視していている。
永遠亭には何度も訪れ……もとい襲撃していたが、やはり目に入っていたのは輝夜と永琳ぐらいのものだったのか。自分の実力を認められていないよう気がしたが、この場においてはむしろ喜ばしい。
「誰だったかは忘れたが、その耳。お前、輝夜のところの兎だろ」
しまった、と慌てて耳を隠すがもう遅い。妹紅はウドンゲを永遠亭の一員だと認識してしまった。事実だが、まずい。
とはいえ、妹紅の攻撃対象は決まって輝夜である。永琳に矛先が向くのも輝夜を庇おうとした場合のみだ。
だったら、本を返しにきただけの自分に攻撃なんてするはずがない。
「なにしに慧音の家へきた。返答しだいじゃ、炎熱地獄も生ぬるい業火に焼かれて死ぬことになるぞ」
妹紅の右手に轟々と唸る炎がまとわりつく。焼かれたら一溜まりもないだろう。
なにやらよからぬ誤解をしている可能性があった。ひょっとしたら、妹紅はウドンゲを輝夜の送り込んだ刺客か何かと勘違いしているのではないだろうか。
妹紅を倒すために慧音を使う。いわゆる人質作戦だが、間違っても輝夜はそんなことを命じたりしない。
ナマケモノより歩かない輝夜だが、こと妹紅のことに関しては他者の手を借りることを拒む。人質なんてもっての外だ。
妹紅の頸骨を折ることが、内蔵をかき回すことが、頭部を打ち抜くことが何よりの楽しみなのだ。その志向には恐怖すら覚える。
某店舗から買ってきたゲームで三日間貫徹してクリアした人物とは思えない。動けば嗜虐、動かなきゃ堕落。どちらに転んでも面倒な人種であることだけは再確認できた。
「よせ妹紅、彼女は客人だ」
「……そうなのか?」
慧音の冷静な言葉に、妹紅は訝しげな視線を向ける。それでも慧音が動じないところをみて、ようやく妹紅は納得したのか右手の炎を引っ込めた。と同時に、妹紅はすまなそうな顔で頬を掻く。
「悪い、ちょっと燃やしてしまった」
「えっ!?」
いつのまにと驚く暇もなく、ウドンゲは自身の背中に感じた熱を払おうとする。だが、いかんせん背中である。手は届かないし、なかなか消えない。
ならばと、地面と背中をすりあわせて鎮火する。何も知らないルーミアが見たら「つけてるのは天ぷら粉?」と兎的に好ましくない質問をしてきそうな行動だったが背に腹は代えられない。
そのかいあってか、今度は効果覿面で火はなんとか消えたようだ。
しかし、それがわかるのは実際に背中に熱を感じられるウドンゲのみ。慧音にはわかるはずもなく、瓶からくみ出した水をぶっかけられても文句は言えない。
善意の誤解にいちゃもんをつけるほど、ウドンゲは傲慢ではなかった。
「す、すまなかった。慌てていたので気がつかなかったんだ」
そんなウドンゲだから、必死に謝る慧音に構いませんよと返すのだ。こういう扱いに慣れていたから、という可能性もあるが。
「へくちっ!」
「大丈夫か? いま何か着るものを持ってくる」
土間からあがり、部屋の奥へと走る慧音。
徐々に春の気配を見せ始めた幻想郷だが、寒いものはやっぱり寒い。濡れた髪を撫でながら、ウドンゲは二度目のくしゃみをした。
「悪かったな」
独り言なのか他人に対しての言葉なのか、境界がはっきりしない言い方で妹紅が謝る。
ウドンゲは姫のやっていたゲームを思い出した。そして、口からゲームをプレイしながら姫が力説していた単語が漏れ出す。
「これがツンデレ……」
「なに?」
妹紅は不思議そうな顔をしていた。
当然の如く、服には穴が空いていた。しかし、幸いにも裁縫が得意だという慧音が縫ってくれることとなった。
ウドンゲは遠慮したのだが、このまま返すのは礼儀に反すると半ば無理矢理に服を剥ぎ取られたのだ。そちらの方が礼儀に反している気がした。
いまのウドンゲは慧音の服を纏っている。サイズはまったく合っていないが、全裸でいるよりは遙かにマシだ。ただ、胸部の辺りのサイズの違いには何故か多少のショックを受ける。
「…………………………」
「…………………………」
慧音が奥に引っ込んだことにより、自然と客間にはウドンゲと妹紅の二人が取り残される。
囲炉裏を囲み、向かい合うように腰を下ろしていた。
「…………………………」
「…………………………」
非常に気まずかった。これほど気まずいのは、てゐの部屋から自分の笑ったところの写真が出てきたとき以来だ。
だが、あの時の気まずさには何処か照れや恥ずかしさがあった。少なくとも今のような緊張感はない。
謝ってもらったものの、妹紅が敵側勢力であることに変わりはない。妹紅の輝夜に対する執着は異常を通り越した常識であり、ウドンゲの言葉一つでどうにかなるわけがない。
そうなると、この緊張感は慧音が現れるまで続くことになる。それは精神衛生上よろしくない。
なんとか緊張感を解そうと、ウドンゲは恐る恐る妹紅に話しかけた。
「あの……表の表札は誰が書いたんですか?」
もしも妹紅が書いたのならば、そこら辺から話を広げられないだろうか。ウドンゲの考えは僅か数秒で崩れ去る。
「知るか」
「そ、そうですか」
そっけない答えにより、再び静寂がもたらされる。
「…………………………」
「…………………………」
もはや、ちょっとした拷問だった。
だから、慧音が姿を現したときにウドンゲは心から感謝した。
「服はわからないように縫っておいた。謝礼と言ってはなんだが、むすびを握ってみた。帰りしなに食べてくれ」
そう言って、慧音から筍の皮の塊を渡される。大きさからみて、中身はむすびが二個ほど入っているのだろう。
外出の多いてゐの為に似たようなものを作っているウドンゲは一目でそれを見抜いた。だからどうしたというわけではないが。
「ありがとうございました。それじゃあ、私はこれで失礼します」
「ああ、読み終えたら今度はこちらから返しに行くと伝えてくれ」
「わかりました」
むすびを小脇に抱え、ウドンゲは入り口を潜った。背後に足音。振り向く。
「…………………………」
無言の妹紅がいた。
「あ、あの……?」
何か用かと訊いてみるが返答はない。もしかしたらこのまま永遠亭にまでついてくる気なのかとウドンゲが疑い始めたころ、小屋から慧音が飛び出してきた。
「妹紅! まさかこれから永遠亭に行くつもりか!?」
「いいだろ、兎を見てたらそういう気分になったんだ」
「兎を見るたびに気まぐれを起こしていたら、おちおち食事もできないだろ。行くな」
「終わったら戻ってくるさ。行く」
袖の中から古びた一振りの剣を取り出す慧音。
右手に炎を宿す妹紅。
「最後の忠告だ、家に戻れ」
「戻るって言ってるだろ、輝夜をぶっ殺したら」
その言葉を境に、二人は激突した。古剣と鳳翼がぶつかり合う。
激しい戦闘になる予感がした。
なのでウドンゲは走り出した。巻き込まれないように、全速力で。
帰りも迷った。
それから数日後、永遠亭に訪れた慧音からあの喧嘩はいつものことだと教えてもらった。
あれだけ激しい戦闘をしておきながら、いまだに二人の関係は友好であるらしい。それがウドンゲには不思議だった。
だが、友好関係というのは一種類ではない。人と妖怪の数だけあるのだ。
慧音と妹紅の関係は、ウドンゲとてゐの関係とは違う。ウドンゲと慧音の関係は、ウドンゲと妹紅の関係と違う。
そんなことを思いながら、ウドンゲは永琳に提案するのだ。
「今度から使いは別の兎にやらしてください」
この関係は、できれば断ちたい。
本人は時折略奪にやってくる黒い魔法使い対策だと言っていたが、その攻撃対象は黒い服を着た奴という漠然としたもの。侵入者を排除しつつもウドンゲ弄りもやめない、一つで二度美味しいトラップだった。もっとも、
「やだなぁ、そんなわけないじゃないですか、クスッ」
てゐは薄ら笑いを浮かべながらウドンゲの疑問を否定していた。信憑性はゼロ。むしろ最後の微笑で評価はマイナスに達した。
ウドンゲは即刻外しなさいと言ったものの、この手の要請が可及的速やかに行われた試しはない。
「わかりました、明日にでも全部の罠を外しておきますね」
そう言ってから早二日。
竹林の遙か上空から爆音が降ってきた。
霞む霧の隙間を見れば、黒い魔女が焼け焦げ更に黒くなりながら自由落下に身を任せている。てゐとの付き合いの長さや己の勘に感謝しながら、ウドンゲは帰ってからもっと厳しく注意をしなければと決心する。
そんな心構えとは関係なく、別れ道に差し掛かった。右か左か、地図を思い出そうとするが霞がかかったように思い出せない。仕方なく、ウドンゲは地図を取り出そうとポケットをまさぐる。
だが、手応えはない。必死に、賢明に、果ては脱いで逆さにしようかというぐらい本気で捜したが地図の書かれたメモは見つからなかった。
そこでようやく、ウドンゲは自分のおかれている現状に気づいた。
「まずい、迷った」
弟子は師匠の命令に絶対従わなければならない。たとえ、それがどんなに理不尽な命令だとしても。
永琳とウドンゲの関係は、まさしくその通りであった。永琳が烏は白いといえば、ウドンゲも白いと言わなくてはならない。
もっとも、永琳が白いと評した烏は正確には烏天狗であり、よく見れば黒いというよりも白い。幸いにもウドンゲの師には正常な判断が備わっているので、ほいほいと理不尽な命令を出すことはないのだ。
「ウドンゲ、借りていた本を慧音に返してきて頂戴。あ、それとコッチの本を読みたがっていたようだからついでに渡しておいて」
本来なら貸し借りをしていた永琳自身が言ってしかるべしなのだが、いかんせん慧音の周りには輝夜の天敵がいる。輝夜の従者である永琳も目標のうちに入っており、慧音の家に行くことができない。
そのため、こうしてウドンゲが使いを担当することになったのだ。ただ、妹紅が攻撃してこない保証はどこにもない。
「師匠、大丈夫でしょうか」
「大丈夫よ、特製の耐熱紙でくるめば燃えないから。ただし水に濡らしちゃ駄目よ」
ウドンゲが心配していたのは己の身の安全であったが、どうやら永琳には伝わらなかった様子。手渡された耐熱紙には『予定調和!! 紅魔館の下克上失敗』と扇情的な見出しが踊っていた。あの烏天狗も、よもや自分の新聞がこんな末路を辿ろうとは夢にも思うまい。 一瞬の悲哀を天に捧げ、新聞を包み紙へと変えた。
「道程はこの紙に書いてあるから。迷うことはないはずよ」
地図と正確さを競うほど精密に書かれたメモを受け取り、スカートのポケットにしまい込む。
「それじゃあ後はお願いね」
師匠からの使いを失敗に終わらせるつもりもなく、ウドンゲは頑張ろうと意気込み永遠亭を飛び出した。
釣りに凝っていたてゐが、その筋の達人もかくやという腕前でポケットから地図を抜き取ったことに気づかずに。
迷いに迷ってはや数時間。おてんばでも、恋娘でもない月の兎の冒険はようやく終わりを迎えようとしていた。目的の集落を発見したのだ。
とはいえ、喜び勇んで迂闊に集落に入るわけにはいかない。慧音の他に住まう人が、いきなり訪れたスーツの兎をどう思うか、想像するだけで身が震える。妖怪は帰れと石を投げつけられるならまだしも、わぁい今夜は兎鍋だと食卓に彩りを添える可能性も無きにしもあらず。
人を喜ばすのは好きだが、故事の鹿ほど献身的になるつもりなどない。命は惜しい。
石橋を叩いておきながら別の橋を渡る臆病さでもって、遠目ながらに集落を観察する。ちらほらと人の姿は見えるものの、それらしい牛娘の姿は見えない。
考えてみれば今は真っ昼間。牛の要素はゼロパーセント、探すべきは人の慧音だった。
仄かな反省をしつつ、西から東へ集落を見やる。
「ん?」
集落から少し離れた小高い崖の上に、ぽつねんと小さな小屋が建っていた。とりわけウドンゲの目をひいたのは、不動産屋が隠しそうな立地条件ではなく小屋に張りつけられた表札だった。歪な文字で『かみしらさわけいね』と彫ってある。何故にひらがな。
表札の文字を信じるならば、あれこそが目的の家である。疑うならばキリがない。思い切ってウドンゲはその小屋へと向かうことにした。
「願わくばあれが慧音の家でありますように」
いつのまにか口から零れた願いは心の底からのものである。握った拳をより握り、スカートのはためき具合もよりチラリズムになっていく。
名誉のために店名は伏せるが、某店舗の某店主なら鼻息も荒く「れーせん、れーせん」と地面をスタンピングしただろう。それほどまでに完成されたチラリズムだった。
人間に姿を見られないように、慎重に慎重を期してなんとか問題の家への接近に成功した。
スペルカードが使えるなら自分の姿を見えなくして堂々と道を歩くこともできたのだが、いかんせん上白沢慧音は人間にスペルカードを使うことを嫌う。危害を加えているわけではないので攻撃こそしてこないがいい顔はしない。
今後も(本の貸し借りだけは)友好的な関係にしたい永琳から人間へスペルカードは使うなと言われていたのだ。師の教えを破るつもりなど毛頭ない。
「うーん、それにしても見れば見るほど下手な表札だな。慧音が作った……ようには見えないし。あの蓬莱人が作ったのか?」
それにしたって下手すぎる。姫ならばあるいは似たようなものを作られるかもしれないが、そんな面倒なことを進んでするはずがない。おそらくは慧音の知り合いが作ったものではないか。
色々と悩んではみたものの、あくまでこの小屋に慧音が住んでいればの話だ。これで全く別の人間が住んでいれば思考に要した数十秒は全くの無駄になる。
輝夜や永琳のように無限の命があるわけでもない。時と命は有限なのだ。大切に使っていかないと。
「いかんいかん、また思考が逸れた」
恐る恐る、障子の戸を叩く。小屋の中で誰かが動く気配がした。少なくとも人はいるようだ。
「何用だ?」
白と藍色の混じった特徴的な髪に、重要文化財みたいな特徴的な帽子。何から何まで特徴的な姿は、紛れもなく上白沢慧音であることを示していた。
「む、お前は永琳のところの。なにか用事か?」
「はい。師匠が借りていた本を返しにきました」
「ほぉ、随分と早いな。どこぞの黒一色の魔法使いとは大違いだ」
書物やレアなアイテムを持っている連中の常套句である。永遠亭も多少ながら被害を受けているので、慧音の台詞もわからないでもない。
「それと、こっちが慧音さんへの本です」
「あぉ、ありがとう。『悲観六考』に『改宗疑似の報い』……『ひらとみ源歌』まで。随分と律儀な奴だな」
喜色満面で本を受け取る。読書を趣味や生業にしないウドンゲには、どうしてそこまで喜べるのかわからなかった。だが、趣味とはそういうもの。えてして他人には理解できないのだ。
「永琳には私が謝辞を述べていたと言ってくれ。わざわざすまなかったな」
「いえいえ、これぐらいのことなんでもありません。それじゃあ私はこれで」
渡すべきものは渡したし、役目は全て終えた。小さく礼ををして、慧音の小屋から立ち去ろうとする。
「慧音、遊びに来たぞ」
障子が開き、誰かが入ってくる。それは、最も慧音に近しい蓬莱人であり、ウドンゲがいま最も会いたくない蓬莱人だった。
勝手知ったる人の小屋。ノックもなしに入ってきた妹紅がまず目を向けてきたのは、恐怖からか兎耳を縮こませてしまうウドンゲの姿だった。自然と妹紅の眉間に皺がよる。
「お前……」
一瞬で誰か思い出せなかったのだろう。視線を外し、考え込むように板張りの床を凝視していている。
永遠亭には何度も訪れ……もとい襲撃していたが、やはり目に入っていたのは輝夜と永琳ぐらいのものだったのか。自分の実力を認められていないよう気がしたが、この場においてはむしろ喜ばしい。
「誰だったかは忘れたが、その耳。お前、輝夜のところの兎だろ」
しまった、と慌てて耳を隠すがもう遅い。妹紅はウドンゲを永遠亭の一員だと認識してしまった。事実だが、まずい。
とはいえ、妹紅の攻撃対象は決まって輝夜である。永琳に矛先が向くのも輝夜を庇おうとした場合のみだ。
だったら、本を返しにきただけの自分に攻撃なんてするはずがない。
「なにしに慧音の家へきた。返答しだいじゃ、炎熱地獄も生ぬるい業火に焼かれて死ぬことになるぞ」
妹紅の右手に轟々と唸る炎がまとわりつく。焼かれたら一溜まりもないだろう。
なにやらよからぬ誤解をしている可能性があった。ひょっとしたら、妹紅はウドンゲを輝夜の送り込んだ刺客か何かと勘違いしているのではないだろうか。
妹紅を倒すために慧音を使う。いわゆる人質作戦だが、間違っても輝夜はそんなことを命じたりしない。
ナマケモノより歩かない輝夜だが、こと妹紅のことに関しては他者の手を借りることを拒む。人質なんてもっての外だ。
妹紅の頸骨を折ることが、内蔵をかき回すことが、頭部を打ち抜くことが何よりの楽しみなのだ。その志向には恐怖すら覚える。
某店舗から買ってきたゲームで三日間貫徹してクリアした人物とは思えない。動けば嗜虐、動かなきゃ堕落。どちらに転んでも面倒な人種であることだけは再確認できた。
「よせ妹紅、彼女は客人だ」
「……そうなのか?」
慧音の冷静な言葉に、妹紅は訝しげな視線を向ける。それでも慧音が動じないところをみて、ようやく妹紅は納得したのか右手の炎を引っ込めた。と同時に、妹紅はすまなそうな顔で頬を掻く。
「悪い、ちょっと燃やしてしまった」
「えっ!?」
いつのまにと驚く暇もなく、ウドンゲは自身の背中に感じた熱を払おうとする。だが、いかんせん背中である。手は届かないし、なかなか消えない。
ならばと、地面と背中をすりあわせて鎮火する。何も知らないルーミアが見たら「つけてるのは天ぷら粉?」と兎的に好ましくない質問をしてきそうな行動だったが背に腹は代えられない。
そのかいあってか、今度は効果覿面で火はなんとか消えたようだ。
しかし、それがわかるのは実際に背中に熱を感じられるウドンゲのみ。慧音にはわかるはずもなく、瓶からくみ出した水をぶっかけられても文句は言えない。
善意の誤解にいちゃもんをつけるほど、ウドンゲは傲慢ではなかった。
「す、すまなかった。慌てていたので気がつかなかったんだ」
そんなウドンゲだから、必死に謝る慧音に構いませんよと返すのだ。こういう扱いに慣れていたから、という可能性もあるが。
「へくちっ!」
「大丈夫か? いま何か着るものを持ってくる」
土間からあがり、部屋の奥へと走る慧音。
徐々に春の気配を見せ始めた幻想郷だが、寒いものはやっぱり寒い。濡れた髪を撫でながら、ウドンゲは二度目のくしゃみをした。
「悪かったな」
独り言なのか他人に対しての言葉なのか、境界がはっきりしない言い方で妹紅が謝る。
ウドンゲは姫のやっていたゲームを思い出した。そして、口からゲームをプレイしながら姫が力説していた単語が漏れ出す。
「これがツンデレ……」
「なに?」
妹紅は不思議そうな顔をしていた。
当然の如く、服には穴が空いていた。しかし、幸いにも裁縫が得意だという慧音が縫ってくれることとなった。
ウドンゲは遠慮したのだが、このまま返すのは礼儀に反すると半ば無理矢理に服を剥ぎ取られたのだ。そちらの方が礼儀に反している気がした。
いまのウドンゲは慧音の服を纏っている。サイズはまったく合っていないが、全裸でいるよりは遙かにマシだ。ただ、胸部の辺りのサイズの違いには何故か多少のショックを受ける。
「…………………………」
「…………………………」
慧音が奥に引っ込んだことにより、自然と客間にはウドンゲと妹紅の二人が取り残される。
囲炉裏を囲み、向かい合うように腰を下ろしていた。
「…………………………」
「…………………………」
非常に気まずかった。これほど気まずいのは、てゐの部屋から自分の笑ったところの写真が出てきたとき以来だ。
だが、あの時の気まずさには何処か照れや恥ずかしさがあった。少なくとも今のような緊張感はない。
謝ってもらったものの、妹紅が敵側勢力であることに変わりはない。妹紅の輝夜に対する執着は異常を通り越した常識であり、ウドンゲの言葉一つでどうにかなるわけがない。
そうなると、この緊張感は慧音が現れるまで続くことになる。それは精神衛生上よろしくない。
なんとか緊張感を解そうと、ウドンゲは恐る恐る妹紅に話しかけた。
「あの……表の表札は誰が書いたんですか?」
もしも妹紅が書いたのならば、そこら辺から話を広げられないだろうか。ウドンゲの考えは僅か数秒で崩れ去る。
「知るか」
「そ、そうですか」
そっけない答えにより、再び静寂がもたらされる。
「…………………………」
「…………………………」
もはや、ちょっとした拷問だった。
だから、慧音が姿を現したときにウドンゲは心から感謝した。
「服はわからないように縫っておいた。謝礼と言ってはなんだが、むすびを握ってみた。帰りしなに食べてくれ」
そう言って、慧音から筍の皮の塊を渡される。大きさからみて、中身はむすびが二個ほど入っているのだろう。
外出の多いてゐの為に似たようなものを作っているウドンゲは一目でそれを見抜いた。だからどうしたというわけではないが。
「ありがとうございました。それじゃあ、私はこれで失礼します」
「ああ、読み終えたら今度はこちらから返しに行くと伝えてくれ」
「わかりました」
むすびを小脇に抱え、ウドンゲは入り口を潜った。背後に足音。振り向く。
「…………………………」
無言の妹紅がいた。
「あ、あの……?」
何か用かと訊いてみるが返答はない。もしかしたらこのまま永遠亭にまでついてくる気なのかとウドンゲが疑い始めたころ、小屋から慧音が飛び出してきた。
「妹紅! まさかこれから永遠亭に行くつもりか!?」
「いいだろ、兎を見てたらそういう気分になったんだ」
「兎を見るたびに気まぐれを起こしていたら、おちおち食事もできないだろ。行くな」
「終わったら戻ってくるさ。行く」
袖の中から古びた一振りの剣を取り出す慧音。
右手に炎を宿す妹紅。
「最後の忠告だ、家に戻れ」
「戻るって言ってるだろ、輝夜をぶっ殺したら」
その言葉を境に、二人は激突した。古剣と鳳翼がぶつかり合う。
激しい戦闘になる予感がした。
なのでウドンゲは走り出した。巻き込まれないように、全速力で。
帰りも迷った。
それから数日後、永遠亭に訪れた慧音からあの喧嘩はいつものことだと教えてもらった。
あれだけ激しい戦闘をしておきながら、いまだに二人の関係は友好であるらしい。それがウドンゲには不思議だった。
だが、友好関係というのは一種類ではない。人と妖怪の数だけあるのだ。
慧音と妹紅の関係は、ウドンゲとてゐの関係とは違う。ウドンゲと慧音の関係は、ウドンゲと妹紅の関係と違う。
そんなことを思いながら、ウドンゲは永琳に提案するのだ。
「今度から使いは別の兎にやらしてください」
この関係は、できれば断ちたい。
あと、『重要建築物』と言う言葉に違和感を感じたのですが……もしかして『重要文化財』?
ご指摘ありがとうございます。
でも良いお話しでした
てゐとの気まずいシーンを詳しく
これの威力が凄すぎる。
読み手まで気まずくなったよ