Coolier - 新生・東方創想話

雨の滴る軒先で

2006/06/04 09:39:02
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※この話には一名のオリキャラが登場します。アレルギー反応が起こる方はお戻りください。
 作品集29『弔いの雫』作品集30『螺旋の絆』を読んでいると、わだかまりなく読み進められるかと。
 読んでなくても大丈夫ですが。

 ↓これより本編スタートでござい。




 これは、ある梅雨の日のほんの些細なすれ違い。


 ☆


 日が昇っても薄暗く、見上げれば灰色の天鵞絨。
 じっとりと肌にへばりつくような重い空気は、吸い込むのも苦労する気がする。
 そう、梅雨の到来だ。
 森山に恵みの雨が降り、恩恵を受けた木々は夏に向けてその葉を茂らせる。


 しかし多くの妖怪にとって雨は恵みどころではなく、むしろ力を限定される枷のようなものでしかない。
 それは紅魔館の吸血鬼等を筆頭に、力の強い者からそこそこの者にまで、雨による限定は平等に存在する。
 ただし雨にまつわる妖怪や妖精などは力をつけるし、
 もしくは雨に影響されない妖怪もいるので、一概には妖怪は雨に弱いとは言えない。



「たぁーいぃーくぅーつぅーっ!!」
 ごろんごろんと畳の上で寝転がる少女。
 その行為が容姿に見合うものだとしても、やはり女の子としての自覚が足りないと思われる。
 自覚したところで喜ぶ対象は一人しかいない気もするが。
 その一人は少女のそんな姿に嘆息した。
「橙、退屈なのはよくわかったから、それはやめなさい」
 猫だけに寝転がる少女――失礼――、橙は言われたとおりに転がる行為をやめるが、
 どこか不服そうな表情を崩そうとしない。
 彼女を咎めた九尾の女性は、やれやれと心中で呟いた。
「だけど藍さまぁ、もう三日も外で遊べないんですよ?」


 橙の不満の理由は藍にもわかっていた。
 梅雨という季節柄、ここ最近はずっと雨が降り続いている。
 猫又という種族であり、また式神である橙にとって雨、つまり水は最大の弱点なのだ。
 その為に家から一歩も出してもらえないでいた。
 遊び盛りの橙にとって、三日も家に閉じこもりきりというのは、不満をためるのに充分な時間だ。
 それは育ての親である藍にもよくわかっている。
 しかしだからといって、遊び相手を務められるほど暇でないのも事実だ。
 だから我慢させるしかないのだが――
「もう聞き飽きましたーっ」
 思いの外橙の聞き分けがよくなく、藍はほとほと困り果てていた。
 一日目はなんなく我慢させられた。
 二日目は大好物の魚肉中華まんで気を逸らせられた。
 そして今日、三日目はもう打つ手がない。
「そ、そうは言ってもだな。お前はどうあっても雨には弱いんだから」
「ぶ~」
 それは橙も重々承知の事実だ。
 しかし、理解はできても納得はできない、というやつで橙の不服が消えることはない。
 朝からずっとこの調子なので、藍が参るのも分かる。
 たしかにここのところずっと雨で、洗濯物も室内にしか干すことができないし、
 雨ばかりというのも少々気が滅入るのは確かなことだ。
 橙の気持ちも分からないでもないのだが、それでも駄目なときは駄目だと言わなければならない。
 それが教育というものだ。
 その為には心を鬼にも変える必要があるのである。


「あ、雨止んだっ」
 橙の嬉しそうな声に、藍も空を見上げた。
 確かに止んではいる。
 しかし、雨雲が流れて、その切れ間から久しぶりの青空が顔を出――しているわけではない。
 一言で言えば曇り。
 そんなに厚く黒い雲がかかっているわけでもない微妙な天候だ。
「遊びに行ってもいいっ?」
 やはりそうきたか、と藍は肩を落とす。
 そうしてやりたいのは山々なのだが……。
「橙、この雲じゃいつ雨が降るとも限らない。もう少し様子を見て――」
「藍さまのバカぁっ!」
 藍の言葉を遮り、部屋に響いた橙の大声。
 反論するのは目に見えていたが、まさかバカ呼ばわりまでされるとは、藍も思ってはいなかった。
「いいもん、勝手に行くもんっ」
 藍が止めるよりも早く、橙は庭先へと飛び出していった。
 橙の肩を掴もうと伸ばした手が、空しく虚空を彷徨う。
 その手の平を見つめて、藍はため息をついた。


 ☆


 橙は久しぶりの山を堪能していた。
 雨に濡れた土が、いっそう自然のにおいを強く感じさせる。
 ぬれた木々が生き生きと輝いているように見える。
 三日しか経っていないのに、すべてが新鮮に感じられ、橙の気分も昂揚する。
 枝から枝へと身軽に飛び移り、土を蹴り駆け回る。
 しかし突如としてその顔に難色が浮かぶ。
「うーん……何して遊ぼうかなあ」
 勢いに任せて飛び出してきたのは良いのだが、何をしようかまでは考えていなかった。
 そもそも今日は外で遊べないと思っていたのだ。
 しばらく腕を組んで、これからの時間を有意義に過ごせる方法を模索する。
「そうだっ」
 橙は行き先を決定し、再び地を蹴った。



「いーっちゃん。あーそーぼーっ」
 とある人里。
 幻想郷に生きる人間の集落の一つに、橙はやってきていた。
 村の中を猫耳の少女が闊歩していても、誰一人驚かないのは幻想郷らしいといえる。
 橙はその郷の一角にある住居の前で、最近できた友達の名を呼んだ。
 先程まで雨が降っていたから、きっと家にいるはずだ。
「どなたですかぁ……あ、橙ちゃん」
 扉を開けて出てきたのは、橙よりも少し小柄な少女。
 橙の顔を見るや、その顔に笑顔が浮かぶ。
 妖怪小娘に、人間の友達がいるのは普通おかしいと思われるかもしれないが、
 それが幻想郷というものだ。
 ときには戦いもするし、ときには遊びもする。
 幻想郷を見守る博麗神社の巫女が最も顕著な例だろう。
「雨が止んだからさっ。遊びに行こうっ」
 橙の申し出に、少女も嬉しそうに頷いた。
「うん、いいよっ。お婆ちゃんに伝えてくるねっ」
 いったん中へ戻り、家族に遊びに行く旨を伝える少女。
 ようやく楽しくなってきた橙は満足そうに尻尾を揺らしていた。


 しかし、彼女の頭上の雲行きは、出かける前よりもその暗さを増していた。


 ☆


 二人は鬼ごっこをしたり、隠れん坊をしたりして楽しく時を過ごした。
 その楽しさ故に、自分たちが村から離れた場所まで来ていることに気がつかなかったのだ。
 気づいたときにはすでに遅く、空から雨粒が降り始めていた。
 慌てて近くにあった廃屋の軒先へと駆け込む二人。
「はぁ、はぁ……降り始めで良かったね」
 少女が息を切らしながら橙に話しかける。
「うん……でもごめんね」
 自分が誘ったばかりに、二人して雨に降られてしまった。
 しかも村の中で遊んでいれば良かったものを、こんなところまで来てしまうなんて。
「大丈夫だよ。橙ちゃんが悪いんじゃなくて、お天道様のご機嫌が悪いのよ。
 それに、村から離れたのは私も同じだから」
「いっちゃん……」
 この少女は自分よりも遙かに年下のはずだ。
 なのに時々自分よりも大人らしい振る舞いを見せるときがある。
 そんな姿を見るたびに、自分の未熟さを思い知るのも事実であった。
「それにしても止まないね」
 軒先から少し身を乗り出して、灰色の空を見上げる少女。
 細い線のような雨が止め処なく降り続く。
 二人はどちらがそう決めたでもなく、口を噤んだ。


 ☆


 さぁぁぁ、さぁぁぁ――
 耳を澄ませば雨の奏でる静かな音色。
 しかしそれすら今は、橙にとってはあまり心地よくは聞こえない。
 やっぱり何か話していよう。
 そう思ったとき、突然誰もいないはずの家の中から物音が聞こえた。
 二人はびくりと肩を振るわせて、背を向けていた壁に向き直る。
 この廃屋はもうずいぶん前から無人となっている。
 村から遠いこの場所は、人が住むには何分不便なのだ。
 かといってこのような住まいを必要とする知恵を持った妖怪はこの近辺には住んでいない。
「橙ちゃん……」
 ぎゅっと裾を掴んでくる少女。
 時折大人びた言動を見せても、やはり見目相応ということだ。
 ここは自分がしっかりしなければならない、と橙は意気込んだ。
「じゃあ……開けるよ」
「う、うん」
 そぅっと扉に手をかけ、少しだけずらして中を探る。
 灯りは点いておらず、外も明るくないため中の様子はあまり見えない。
 だが何者かがいる気配は確実にあった。
(誰だろう……結構強い力の持ち主みたいだけど。でも危険な感じはしない)
 微妙な暗さ故に、せっかくの猫目でもはっきりと探ることができないでいた。
 もう少し中に入る必要があるだろう。
 橙は怖いのを我慢して、ゆっくりと足を踏み入れた。
 しかし立て付けが悪くなっていたのか、扉が敷居から外れ、
 とんでもなく大きな音を立てて倒れてしまったではないか。
「うわあぁぁっ」
「にゃああああっ」
「きゃああああっ」
 その音に驚いて、中にいた何者かが突然叫び、反射的に橙と少女も悲鳴を上げる。
 こういう状況下での突然の悲鳴というものは、普通に聞くよりも数倍の驚愕と恐怖をもたらすものだ。


「――って、誰だいっ」
 最初に叫び声を上げた何者かが近づいてきた。
 先程の吃驚で足がすくんでしまった二人は動くことができないでいる。
「なんだ……子供二人か。驚かさないでおくれよ」
 二人の前に現れたのは、二十歳前後の容姿をした女性だった。
 紅い髪を結い上げ、藍色の着物にフリルのエプロンを着けている。
 たゆんと揺れる二つの丘陵は、彼女の長身と相成って魅力を倍増させる要素。
 器量も悪くはないが、その背中にある異質なものが、彼女の非人間性を如実に示していた。
 それは鈍色の輝きを放つ巨大な鎌。
 その日常生活に必要のないものに注がれる奇異の視線を気にもとめず、女性は話しかけてくる。
「おや、そっちの猫娘は見覚えがあるね。神社の花見の時に見かけたよ」
「え? 神社の花見?」
 この辺りで神社と言えば博麗神社しかない。
 そこで行われる花見には、人間の参加者は五本の指で足りるほどしか来なく、
 残りは人外の類ばかりが集まるという有様だ。
 橙も何度か紫と藍に付き添い参加しているが、この女性には見覚えがなかった。
 顔見知りばかりの宴会なので、知らない顔がいるとは考えにくい。
「あぁ、たったの一刻しかいられなかったからね。それにあたいは今年からの参加さ」
 成る程、と橙は納得した。
 それならば顔を覚えていなくても当然だ。
「あたいは小野塚小町。無縁塚で三途の川の渡し守をしている死神だよ」
 死神という肩書きを、まったく躊躇いもなく告げる小町。
 そんな自己紹介だったからだろうか。
 それともそのような存在にはもはや慣れてしまっているのか、二人は驚かない。
「私は橙。こっちはいっちゃん」
 紹介された少女は礼儀正しくお辞儀する。
「それであんた達は何をしていたのさ」
 お互いの自己紹介が終われば、自然と話はそのよう向く。
 橙は小町に、遊んでいて雨に降られ帰れなくなったことを話した。
 それを聞いた小町は、馬鹿だねぇと大声で笑い始めた。
 だが不思議と怒る気は怒らず、むしろ二人の心は軽くなった気がした。
 いっそ清々しいまでに笑い飛ばしてくれた方が楽になることもある。


 ひとしきり笑われた後、今度は二人が小町に尋ねた。
「じゃあ小町は何をしていたの?」
 こんな無人の荒ら屋で、いったい何をしていたというのか。
 雨止みにしては、少し様子が変だったし。
 小町は罰の悪そうな笑みを浮かべる。
 あま良い理由ではないらしい。
「実はさ……昼ご飯食べに来たついでに、昼寝を……」
 きょとんと同じ方向に首を傾げる二人。
 別にそれは疚しいことではない内容のように思える。
 しかし小町が次に発した一言で、二人は小町の言わんとしていることに察しがついた。
「あー……本当は仕事しなきゃいけないんだけどね」
 要するにサボっていたということだ。
 橙は藍から頼まれておつかいに出たりするが、道草を食って帰りが遅くなると叱られる。


 任された仕事をサボったり、途中で投げ出したりするは良くないことだ。
 仕事を任されるということは、同時にその者から信頼されるということ。
 それを裏切るということは、信頼を自ら断つということになる。
 人間は兎に角“約束事”を重視するが、それはなにも人間に限ったことではない。
 妖怪でも一度交わした約束は守らないといけないよ。
 紫様はあれでなかなかそういったことをきちんと守られるお方。
 普段の生活態度は見習わなくても良いけれど、橙も紫様の良いところは見習いなさい。


 藍はそう話していた気がする。
 紫は胡散臭さの固まりのような妖怪なのに、約束事は重視するという。
 どこか可笑しさを覚えるが、一番の従者たる藍がそう言うのだから間違いないだろう。
 閑話休題。
 とにかく小町は仕事をさぼってここで居眠りをしていたということだ。
 それはけして褒められるべきことではない。
「だめだよ。怒られるよ?」
 隣で話を聞いていた少女もうんうんと頷く。
 しかし小町は悪びれる様子も見せず、困ったように笑うだけだ。
「まぁ、怒られるのはわかっててやってるんだけどね」
 尚のことたちが悪い。
 どうやら分かっていてもやめられないまでに、サボり癖が体に染みついているらしい。
 まるで霊夢みたいだな、と橙はいつも縁側で茶をすする巫女の姿を思い出した。
「それよりもさ、あんた達は雨がやむまでここにいるつもりなのかい?」
 これ以上この話を続けたくなかったのか、小町話題を切り替えてきた。
 橙も少女も、別に小町の揚げ足を取るつもりはないので素直に会話を続けた。
「うん。私は雨に弱いから」
「私は一人じゃ帰れないから……」
 そっか、と小町は呟く。


 そこで突然会話か途切れた。
 別に示し合わせたわけでも、特に話題がなくなったわけでもない。
 不意に訪れる、ふとした静寂。
 再びさぁぁぁ、さぁぁぁ……という雨音だけが周囲を支配する。
 雨はいっこうに止む気配を見せない。

 突如、刹那の閃光。

 次いで体中に響き渡る轟音。

「きゃああああああっ」
 橙と少女は同時に悲鳴を上げてしがみつき合う。
 この感覚が好きという奇特な者も世の中にはいるようだが、外で聞くとなると
 相当の度量が必要となり、そういう輩の数もぐっと減る。
 それでも平気というならば、それはそれだけの度量の持ち主か、
 もしくはよほど無神経であるか、はたまた図太い神経の持ち主かの三つに一つだろう。
「あっはっは! 雷さんが怖いなんて、ちゃんと女の子だねぇ」
 かんらかんら笑い飛ばす小町は、先程の三者で言えば後ろ二つのどちらかと考えられる。
 別に羨まくもなんともない。
 そして再び空が光った。
 しばらくすれば恐怖を呼び起こす轟音が聞こえてくるだろう。


「いったい……何をやってるんですか?」


 しかし轟音の代わりに聞こえてきたのは、そんなものよりもずっと体に響く女性の声。
 ゴゴゴゴ……という擬音が聞こえてきそうな威圧感に満ちあふれた声だった。

 そして再度閃く稲光。
 照らし出される黒い影。

「ぎゃああああああっ」
 間近の雷にも驚かなかった小町が、この世の終わりを迎えたような悲鳴を上げる。
 女性らしからぬ大声は、それだけ彼女が恐怖心によって我を失っていることを示していた。
「今日という今日は……許しませんよ?」
 一見穏やかに聞こえなくもない声だが、得体の知れない威圧感が含まれている
 その影の正体がゆっくりと近づいてきた。
 小町は依然としてガタガタとふるえている。
 口からは小さく微かな声で、
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
 と、謝罪の言葉を連呼している。
 そんな彼女の頭に鉄槌が下された。
「きゃんっ」
 小町の頭に容赦ない一撃を加えた人物の顔がようやくはっきりと見えるようになった。
 しかし、その容姿はあまりに意外。
 背丈は橙や少女よりも少し高いくらい。
 胸板薄く、どこからどう見ても子供にしか見えない。
 小町がここまで畏れる理由が今ひとつ理解できないでいると、
 現れた少女は二人と向き合うように立ち位置を変えた。
「うちの小町がご迷惑をおかけしました。上司として謝ります」
「えと……何がなにやら。……妹?」
 二人の見た目から考えれば一番妥当な答えだろう。
 しかし先程の上司という単語からして、その可能性は限りなく低いと思われる。
「これは失礼しましたね。私は四季映姫・ヤマザナドゥ。幻想郷の彼岸で
 閻魔の職を勤めている者です。以後お見知りおきを」
「え、閻魔様ぁっ!?」
 素っ頓狂な声を上げて驚く二人。
 その理由は、何も閻魔大王が実在するということではない。
 閻魔大王がこのような少女であること、
 そしてこんな風に現れたということに対しての驚きだ。
「あなたは人の集落に住む市巴ですね。そしてあなたはスキマ妖怪の式の式、橙」
 閻魔はなんでもお見通し。
 名など名乗らなくても、幻想郷の住人のことなら全員知っているのだ。
 二人はもう映姫を閻魔だと信じて疑わなかった。
 実は小町が死神だと名乗ったときには、正直少し疑ったのだが。
「まったく……子供達の前だというのに恥ずかしくないんですか」
 映姫の冷ややかな視線を、小町は横目でそらす。
「いや映姫様がこんな所で説教をするのも子供には悪影響じゃあ……」
「そうですね。私もいささか気を急ぎすぎました」
 ほっと胸をなで下ろす小町。
 きっと心中では橙達の存在に有り難がっていることだろう。
 しかし映姫はそんな小町の心境を予想していたように、追い打ちをかけた。
「だったらすぐに無縁塚へ帰って、続きはその後にしましょう。
 そうそう、今の口答えの分も追加しておかなければなりませんね」
 げ、と小町の顔に焦りの色が浮かぶ。
 もはやご愁傷様です、としか言いようのない状況。
 橙も少女も小町と映姫のやり取りをただ呆然と見守ることしかできないでいる。
「さぁ、帰りますよっ」
 小町の首根っこを掴もうとするが、届かないため服の裾を引っ張って、
 帰るように促す――この場合は命令か――映姫。
「いや、でも雨が……」
 この期に及んでまだ難を逃れようとする小町に、映姫は泣く子も黙らせる
 無敵の閻魔スマイルを浮かべながら、小町に詰め寄った。
「な・に・か?」
「いえ、なんでもありません……」
 ようやく観念した小町を引っ張って、映姫はその場を立ち去ろうとする。
 しかし、何か思い立ったように向き直ると、橙の前までやってきた。
 先程までのやり取りから、自然と橙の体に緊張が走る。
「あなたは後悔していますね」
 突然告げられた言葉に、橙は目をぱちくりさせる。
「後悔、私が?」
「えぇ、とても大切なことを。まだ気づいてはいないようですが」
 なんだろう、と橙は思い当たることをいろいろ考えてみた。


 確かに後悔していないと言えば嘘になる。
 こんな天気になるなら遊びに出なければ良かった。
 村の外まで人間の友達を連れてくるんじゃなかった。
 そのことを言っているのだろうか。


「この答えは自分で見つけなさい。それがあなたがあなた自身にできる、唯一の善行です」
 そう言うと映姫は雨が降りしきる中を、泣く小町を連れて飛び去っていった。


 ☆


 再び二人きりになった橙と少女。
 先程まで雨音も聞こえないくらい騒がしかった軒先が、また静けさを取り戻した。
 雷が鳴ってからさらに強さを増す雨足。
 これでは余計に帰れない。
 そのうえ雲を通して地上を照らす太陽の光も随分暗くなってきた。
「もうすぐ日が暮れそうだね」
 少女が呟く。
 日が暮れるまでは帰らなければならない。
「おなか空いたね……」
「うん」
「少し寒いね……」
「うん……」
 言葉少なに、ただ雨が止むのを待つ。
 雨粒が軒を伝って、リズミカルにこぼれ落ちていく。
 その軌跡をただじっと見つめながら、時だけが過ぎていった。

 じゃり、と。

 雨音に紛れつつも誰かの足音が聞こえ、橙と少女は同時に顔を上げた。
 そこには一張りの傘を指した、長髪の少女がいた。
 白いブラウスにピンクのスカート。
 その頭には、橙の猫耳のような人外の耳、ウサ耳が生えている。
「市巴っ」
「お姉ちゃんっ」
 互いの姿が見える位置まで来ると両者は同時に呼んだ。
 そのとき橙は瞬間的に理解した。

 あぁ、そうか。

「もぅ、おばあさんが心配していたわよ」
「ごめんなさい……」
「さぁ、早く帰りましょ……あら、あなたは」
 ウサ耳の少女は橙の存在に気づき、話しかけてきた。
 その顔には橙も見覚えがあった。
 いろんな宴会場で見かけたことがある、確か永遠亭に住んでいるウサギだったか。
 名前がやたら長いので、印象深く覚えている。
 ただその名前までは覚えていなかったが。
「鈴仙よ。あなたは橙……だったかしら」
「うん……」
 それにしても、と鈴仙は橙と少女を交互に見比べる。
「あなた達が友達だったなんてね。少し驚いたわ」
「最近友達になったばかりだよ」
 藍につれられて、あまり来ない人里で紹介された人間の少女。
 最初はお互いに戸惑いもしたが、しばらく一緒にいる内に仲良くなった。
「まあ二人で遊ぶのは良いけどね。この天気でこんな所まで来るのは感心しないわ」
 今日は彼女を弄る者達がいないので、年上らしい物言いができているらしい。
 もしこの場に永琳やてゐがいたならば、何をされていたかわかったものではない。
「とりあえず帰りましょう。もう一刻もすれば日も沈んで真っ暗になるわ」
 手を伸ばして帰りを促す鈴仙。
 その申し出を拒否する理由はない。
 しかし、
「どうしたの?」
 少女はすぐに鈴仙の手を握ったのに、橙はそうしようとはしなかった。
「私は良いよ」
「何を言っているの!」
 橙はわかっていたのだ。
 鈴仙が迎えに来たのは市巴であって、自分ではない。
 だから傘も一張り、つまり二人で帰れる数でしかない。
「みんなで寄り合えば入れるわ。村までなら送ってあげられるから、一緒に――」
「いいのっ……それよりいっちゃんを早くお家に送ってあげて。
 私は妖怪だから、一人でも大丈夫」
 嘘だ。
 大丈夫なわけがない。
 妖怪といっても、橙自身には式が憑いていなければ大した力はない。
 その上で橙は断った。
 そこは自分がいるべき場所ではない、とそう思ってしまったから。
「橙ちゃん……」
 少女も心配そうに橙を見る。
 その顔を見るのが躊躇われて、橙は顔をそらした。
 何も彼女が憎いのではない。
 言うなれば……そう、羨ましいのだ。
「わかったわ……あなたの言うとおり市巴はきちんと送る」
「うん、お願い」


 ☆


 鈴仙と少女は橙を残してその場を後にした。
 二人とも、何度も後ろを振り向いては橙を心配そうに見る。
 橙は笑顔で手を振りそれを見送った。
 だがそれは本当の笑顔ではない。
 二人の姿が闇の中に消えたとき、橙の顔から笑顔が消えた。
「あーぁ……」
 ぽつりと呟く言葉が雨音にかき消される。
 さっきまでは何か言えば返してくれる人がいた。
 それだけでどれだけ自分が安心していたかを、今更ながらに痛感する。
 ずっと平気だった雨音が、今はとても耳障りだ。
「迎えに来てくれて良かったね」
 少女は鈴仙に連れられて、きっともう家に着いているだろう。
 それで少しは安堵したのだが、代わりにもやもやとした妙な感情が橙の心に渦巻いていた。
 それがなんなのかわからない。

 それがなんなのかわからないと言えばもう一つ。
 映姫が言っていた言葉だ。


「あなたは後悔していますね」
「えぇ、とても大切なことを。まだ気づいてはいないようですが」


 後悔、大切なこと、気づいていない……。


「あらあら、橙にしては難しい顔ね」
「にゃあっ!?」
 目の前の空間がぱっくりと裂け、そこから女性の生首が飛び出してくる。
 これは橙でなくとも、規定内の神経の持ち主なら誰しもがビビるはずだ。
 しかし、その正体に気づけばなんということはない。
「ゆ、紫様ぁ……」
 知った者だとわかって、橙は大きく安堵の息をつく。
 主の主である八雲紫は境界を操る程度の力を持つため、
 しばしばこのようにスキマを通って移動するのだ。
 紫はスキマから降り立つと、にっこりと微笑んで橙の頭に手を乗せた。
「まったく……こんな時間になっても帰ってきてないから、迎えに来たのよ」
 どうやら鈴仙が伝えてくれたらしい。
 しかし紫が直々に来てくれるとは橙も想像していなかった。
 迎えに来てくれてとても嬉しい。
 とても嬉しいはずなのだが……。
「藍さまは?」
 紫がいるなら藍も来ているのでは――。
 そう考えたのだが、藍の姿はどこにもいない。
「あの子なら来ていないわよ」
 そっか、と橙は自嘲した。
 藍の言い付けを破って、勝手に飛び出して、勝手に帰られなくなった。
 それで迎えに来て欲しいなど烏滸がましいにも程がある。
「場所はわかってるから、あなたが行きなさいって何度も言ったんだけどねぇ。
 私はまだ起きたばかりで寝たりないし、何より自分の式なのに」
 ほら、自分では行きたくないんだ。
 我が侭な自分にほとほと怒り呆れて、迎えに行く気すら起こしていない。


 こんなことなら、ちゃんと言うこと聞くんだった。


 橙は映姫の言葉の意味をようやく理解した。
 後悔しているのは、自分が藍の言うことを聞かなかったこと。
 藍との約束を破ってしまったこと。
 藍に迷惑をかけてしまったこと。
 藍に酷い言葉をぶつけてしまったこと。
「ごめ…なさぃ」
 ぽたぽたと橙の涙が頬を伝ってこぼれ落ちる。
 雨が降り込まない軒先の地面は乾いているため、橙の涙の跡が幾つも残った。
「もぅ……だから言ったじゃない」
「ふぇ?」
 紫は橙とは別の方向を向いて、物を言っている。
 いったい誰に対して話をしているのか、とそっちを見てみれば、
「藍……さま?」
 木陰からこちらを伺うようにして除いていたのは、紛れもなく藍だった。
 こちらが見ていることに気づくと、身を隠してしまう。
 しかし金色の九尾は隠しきれていない。
「ここまで来て往生際が悪いわね」
 紫はにまりと笑うと、突然その九尾が消えた。
 同時にまた目の前の空間が裂け、そこから藍が転がり落ちてきた。
 派手に尻餅をついて着地する。
 腰を押さえながらも何とか立ち上がると、ちょうど橙と向かい合う形になる。
「ら、藍さま……」
「橙……」
 どちらも互いの顔を見つめるが、すぐに顔を逸らしてしまう。
「二人とも、黙っていたら話が進まないでしょう。言いたいことがあるなら、
 さっさと言っちゃいなさい。藍はその為にここまで来たんでしょう」
「それは……そうですが」
 俯く藍。
「橙も、さっき言っていた言葉をそのまま藍に言えばいいの。
 それが今一番言いたいことなんじゃないの?」
 橙も同じように俯いた。
 まったく、と紫は肩をすくめる。
「自分の式、とその式ながら見ちゃいられないわね」
 左右にスキマを作り出し、そこに両手を突っ込む。
 その両手が橙と藍の背後に現れ、その背を押す。
 何の気構えもしていなかった二人は、突然の行為にバランスを崩す。
「わっ」
「にゃっ」
 前のめりに倒れると、そこにあるのは互いの体。
 図らずも支え合うように抱き合うことになる二人。
 橙の体の方が小さいため、藍の胸元に顔を埋める形となる。
 柔らかな体が、雨に冷やされた冷たい体に温もりを与えてくれた。
 その温もりが堰き止めていた感情を一気に押し出す。
「ら、藍さまぁぁ……」
 己の胸で泣きじゃくる橙を見て、藍も口を開いた。
「橙、すまなかったな……」
「うぅ……うぅっ」
 藍の胸に顔を埋めて嗚咽を漏らす橙。
 ごめんなさい、と言おうとしても声が出ない。
 代わりに出るのは嗚咽と涙。
「あなたが心配していた程、この子はあなたを信用していないわけじゃなかったのよ。
 これでようやく分かったかしら」
「はい……」
 恥じるように目を閉じる藍。
 橙は自分をそこまで信用していないのではないかと心配していた。
 彼女はずっと自分が行っても意味がないと思っていたのだ。
 しかし橙は藍が来てくれるのをずっと待っていた。
 その姿に安心しつつも、自分が橙を信じていなかったのだと反省する。
「来ていない、なんて嘘までつかせて。帰ったらうんとサービスしてもらわなきゃね」
「はい……」
「もぅ、そんな暗い顔しないの。早く橙の涙を拭ってあげて、みんなで帰るわよ」
 紫は自分の傘を差すと歩き出した。
 それは言わずもがな、ついてこいという意思表示。
「橙……私がお前の事をもっと構ってやれていたらな。すまん」
「そんなこと……ないです。私が我が侭だったから……ごめんなさい」
 お互いに謝罪の言葉を口にする二人。
 そのやり取りが不思議と可笑しく思えてくる。
 ずっとすれ違っていたまま、時間を過ごしていたのだ。
 ずっと悩んでいたのが、気づいてしまえばなんということはない。
「お互いに謝りたかったんだな」
「そう、ですね」
 二人の口元が自然と綻ぶ。
「二人とも~、何をしているの~」
 先を行く紫に急かされ、藍は持ってきた傘を開いた。
 二人で入れる少し大きめの傘だ。
「さぁ、橙。帰るよ」
 目の前に差し出される温かな手。
 橙は躊躇うことなくその手を取った。


 冷たい雨が降りしきる中、小さな背中とそれより大きな背中が並んで歩く。
 その先を歩く背中を追いかけて。
 三つの背中が雨の中を歩いていく。

 
~終幕~
テーマ:雨降って地固まる。

以前の投稿から少し間が開きましたが、七作目をお送りします。

縁側から眺める雨降る景色に憧れる、とか考えながらベランダからいつも眺めています。
雨音や雨が降った後のアスファルトの臭いが好きですね。
雨に降られるのは勘弁願いたいですが。

次は少し長めの作品を考えているので、また前後編に分かれるかと。
ちなみにこの話とも多少のつながりを考えています。直接ではありませんが。
というか私の作品はすべて同一空間上の話だと思ってくださると読みやすくなります。
雨虎
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