真の博徒とは、どのような局面であろうとも、決して取り乱したりはしないものだ。
ましてや、当人に届きもしない声を張り上げるなど、愚の骨頂である。
「粘れっ! 粘れ先生! 意地を見せろ! 府中はお前の庭だろう! ああああああああああ!!」
どうやら私、八雲藍は、真の博徒ではなかったらしい。
むしろ浪漫派に近いものがあったようだ。
まあ、こうして叫んでいる最中でも、冷静に思考が出来ている辺りは、自分らしいとも思うが。
「……首差か……果てしなく遠い首差だな……」
そして、熱い戦いは幕を下ろした。
私は厳かに馬券を握り潰すと、足の指を使ってテレビの電源を落とす。
実際の所、尻尾でリモコン操作するほうが楽なのだが、あえて怠惰っぽい行動を取ってみたかったのだ。
だが、行為を咎めるものは誰もいない。
大体にして、誰かがいるのであれば、このような無為な時間を過ごす必要も無いのだ。
珍しい事に、紫様は今朝早くに一人で出かけていった。
しかも、何を思ったのか徒歩でだ。
紫様曰く、祭りの日にスキマ超特急も無粋でしょ。という事らしいが、
いかにも寝てませんといった様子の重たい瞼の癖に、その奥の瞳はやたらと危険な光を宿していたし、
所持した荷物は、大量の小銭と、段ボールを載せたカート。
果たしていったいどのような祭りなのだろう。
面倒だから聞かずに置いたが。
そしてまた、橙も紫様に続き、我が家から出て行った。
……と表現すると、まるで愛想を着かされて逃げられたみたいだが、それは有り得ない。
私と橙との絆は、テリーマンの靴紐の512倍は強固なのだ。
単に虫だの鳥だのカキ氷だのといった連中の所へ遊びに行っただけである。
無論、本心では引き止めたかったのだが、橙の自立心の成長を阻害するのは褒められた行為ではない。
と無理やりに自分を納得させて、ハンカチ片手に見送った次第だ。
大丈夫、橙は一回り大きくなって帰ってくるさ。
もっとも、面子が面子だけに、感化されて一回りアホの子になる可能性も否定できないのだが、
その辺りは、あちらの保護者に期待するしかあるまい。
頑張れ黒幕。
……つーか、もう晩春なのに、どうしてあいつは健在なんだろう。
ま、まぁ、そういった理由から、私は一人お留守番となっていた訳だ。
そして、今日すべき仕事は殆ど終わらせてしまっている。
強いて言うなら夕食の準備があるが、二人とも遅くなるという事なので、別段慌ててやる必要も無い。
要するに、暇だったのだ。
……が、この暇というものは、私にとってはそれほど苦痛と感じられるものではなかった。
常日頃から仕事とスキンシップに追われるのが当たり前になっていたせいだろうか、
だらしなく畳に横たわりつつ、当たっても何の得にもならない外界の賭博にうつつを抜かすという、
非生産的極まりない時間の過ごし方が、中々に心地良かったのだ。
いや、まあ馬券は外れたんだけど、それは別の話だ。
だが、残念な事に、私は知っていた。
こういう状況では、必ず何かしらの異変が起こるものだと。
それは大袈裟に言うなら運命やら因果やらの類かもしれないし、
もっと一般的に表現するならお約束というものだろう。
何れにせよ確定事項ではある。
そして我が知識を証明するかのごとく、何者かが着実に背後へと忍び寄っていると、第六感が知らせてくれた。
しかし、その気配は極めて希薄。
意図的に断っているのならば、相当な手繰だろう。
これは心してかかる必要があるかも知れない。
紫様が不在の今、マヨヒガの未来は私の双肩に託されているのだから……!
「おいーっす」
気配の主は、とても長さんだった。
が、かような賢人がここを訪れる筈もない。
そもそもにして、マヨヒガの存在を知っており、なおかつ辿り着ける心当たりなど極僅か。
声の主を特定するくらいは容易いものだ。
もっとも、その相手を歓迎するかどうかは別問題であり、
今の私にとってはお帰り願いたい人物のベスト3にノミネートされる人物だった。
だが、立場上放置する訳にも行かないのが厄介な所。
止むを得ず、起き上がって佇まいを改めると、慇懃に頭を下げる。
内心は押し殺して、だ。
「これはこれは、幽々子様ではありませんか」
「おいーっす」
「ご足労頂き、真に申し訳ないのですが、本日紫様は外出しております」
「おいーっす」
「何か伝言があるなら承りますが」
「おいーっす」
「……」
「おいーーーっす」
「……おいーっす」
「宜しい。挨拶はきちんとしなければね」
果たしてこれはきちんとした挨拶の部類に加えて良いものなんだろうか。
岩波書店も大変だな。
「……ええと、そういう訳ですので、どうぞお引取りを」
「あらあらまあまあ、まるで私が邪魔みたいな言い方ね」
事実として邪魔なのだと気付いて欲しかった。
いや、気付いている上で言っている可能性が高いな。
西行寺幽々子とはそういう奴だ。
「いえ、決してそのような事は御座いません。
ですが、私のような堅物を相手にされるほど、幽々子様もお暇では無いでしょう」
「んもぅ、その格式ばった物言い止めてってば」
よし、許可は得た。
対お客様モード、解除。
「……だから紫様はおらんと言っているだろうが。お前には耳が無いのか?」
「あるわよー。ほら、四つ」
「ならその耳をかっぽじって良く……四つ?」
「ええ、ほら」
成る程、確かに四つだ。
正確に言うなら、猫耳ヘアバンドを装着しているだけだが。
猫耳……。
「……何のつもりだ?」
「猫っぽく見えない? うにゃにゃーん」
「そうか、よし、殺す!」
「え、ここは喜ぶ場面じゃないの?」
「残念だが私には喧嘩を売りに来たとしか解釈できないな」
「むぅ、短気な藍ちゃんの為を思って癒し系で勝負に出たのだけど……。
思い通りにいかないのが世の中なんて割り切りたくないものね」
「そんな戦術っぽい台詞で誤魔化せると……って何だ、私に用があるのか?」
「最初から言ってるじゃないの」
「言ってない」
「まあ、立ち話も何だし、お茶でもどう?」
「それは客が言う台詞じゃないからな……」
相変わらず、幽々子との会話は異常に疲れる。
少しでも気を抜くと魂ごとあちらの世界に持っていかれそうだ。
もっとも、提案そのものに異論は無かった。
これ以上邪険にしても、余計に時間を取られるだけだ。
それなら、適当に流しつつ、自発的にお帰り頂くのを願うのが得策というものだろう。
用というのが何かは気になるが、
居間に幽々子を招き入れ、一応の礼儀として茶を振舞う。
いっそぶぶ漬けを勧めたかったところだが、
何事も無かったかのようにお替りを要求される図が目に浮かぶので止めておいた。
もっとも、今だって茶請けに出した饅頭を、上品かつ亜光速で平らげてくれたんだが。
「ふう……相変わらず藍ちゃんの淹れるお茶は美味しいわね」
「まあ何百年もやってる事だからな……」
「そうかしら。私は一向に安定しないんだけど」
「お前は記憶力に問題がありすぎるんだ」
そう、明らかに問題がある。
先程からそのせいで私の気分は悪化の一途だった。
ストレスを溜めるのは健康に良くないと何処かの兎も言っていたことだし、
ここは一つ、指摘してやるのがお互いの為だろう。
「ところで……少し気になっている事があるんだが」
「ん、なーに?」
「お前、臭いぞ」
びしり、と凍りつく音が聞こえた気がした。
かと思うと、幽々子は突如として、はらはらと涙を流し始める。
「ひっく……私ね、亡霊になってから数百年は経つけど、
ここまで酷い言葉を投げつけられたのは初めての経験よ……」
演技かと思いきやマジ泣きっぽかった。
本当に自覚してなかったのか。
「いや、そんなに衝撃を受けるようなものじゃないだろう。
そも、この場に置かれた者ならば、私以外の誰であろうと同じ台詞を吐くと断言出来るぞ」
「うー……」
「というか、その臭気の元を早く下ろせ。見ているこっちの肩まで凝りそうだ」
「へ? ……ああ、そうそう。すっかり忘れていたわ。最近物忘れが激しくて……」
幽々子は、ぽん、と手を叩くと、一転して曇りの欠片もない笑顔を見せつつ、襷の結び目を解き始めた。
というか、己の体長程もある巨大な桶を担いでいるという現実を、そう簡単に忘却しても良いのだろうか。
物忘れ云々以前の問題である気がしてならない。
「よっこい、しょっと」
どすん、という豪快な地響きと共に、桶が私の眼前へと置かれる。
見た目通り、相当な重量のようだ。
常々こいつは、私は箸より重い物は持てないの。等という妄言を抜かしていたが、
どうやらそれは箸ではなく橋の間違いだったらしい。
幽霊ハイメイジは最高でも腕力は9までの筈なのに、恐るべしはいかさまだ。
「はい、どうぞ」
「いや、どうぞと言われても……というか、何だこれは」
「私と妖夢の愛の結晶よ」
「ぶ!!」
丁度口にしていた茶が、ものの見事に大気中へと噴出された。
位置的に直撃コースだったのだが、幽々子はまるでそうなる事が読めていたかの如く、
扇子での防御に成功していた。
しかも、自分のものではなく、紫様の予備を使うという念の入りようだ。
要するに、私のリアクションはそれ程までに分かりやすかったという訳だな。
……少し鬱だ。
「駄目ねぇ。そんな使い古された反応では、とてもじゃないけどグランプリは狙えないわよ?」
「誰も狙ってない! ……じゃなくて、今、何と言った?」
「だから、幻想郷リアクション大王の座を狙うのは難しいと……」
「その前だ!」
「え? ああ、この子の事?」
猛る私を尻目に、慈悲深き笑みを湛えた幽々子が、愛しげに桶を撫でる。
どうやら、聞き間違いではなかったらしい。
しかし……一体どういう事だ?
人がすっぽりと入れる程に巨大な桶。
幽々子と妖夢の愛の結晶と称している中身。
そして、今だ発される臭気。
これらのキーワードから導き出される解答は……。
「……幽々子。私はお前を、紫様の友人という事を置いても、
それなりに敬意を抱いても良いんじゃないか的存在だと多少は認識していた気がする」
「あら、初耳かつ光栄ね。みょんに修飾語が多いのが気になるけど」
「が、それも過去の話になってしまったようだな……。
さあ、私と一緒に無縁塚に行こう。そして閻魔様に裁きを下して貰うんだ」
「やーよ。そんなの面倒だわ。というか閻魔様って誰?」
「ええい、惚けるのも大概にしろ!
お前が妖夢の貞操を奪い、なおかつどんな方法かもどちらがかも知らんが子を宿し、
更に何を思ったかその子を死に誘い込んでおきながら処理に困り、
ついには放り込んだ桶ごと隙間に投げ捨てて無かった事にしようと画策しているのは分かってる!
だが、私の目の黒い内は、そのような悪逆非道な行為は許さんぞ!」
「一息でそれだけの啖呵を切るだなんて、大した肺活量ね。
貴方、海女さんになったほうが良いんじゃないかしら?」
「話を逸らすな!」
「少しは落ち着きなさい。それなら貴方じゃなくて紫に頼むのが普通でしょう」
「む……」
「まったく、どうしてそこまで明後日の方向に考えが飛ぶのかしらね」
「……」
流石に少し恥ずかしかった。
論理的に出した結論のつもりだったが……どうも最近の私は抜けているようだ。
と、そんな私を尻目に、幽々子が呆れ顔で桶の蓋を取り外す。
途端、更に強まる臭気。
が、改めて考えずとも、これが死体の類の臭気では無い事くらいは分かった。
というか、かなり覚えのある匂いだ。
「……ぬかみそ?」
「せいかーい。ライフラインは必要なかったようね」
なんだそりゃ。
「いや、正解は良いんだが、その糠味噌と愛の結晶とやらが結びつかんぞ」
「……聞きたい?」
「そりゃ、まあ」
聞きたくないが、一応頷いておく。
そうしないと拗ねるのが目に見えているからだ。
「そう……流石は天下に名高い九尾の狐。中々の胆力の持ち主のようね」
「あー、もう前振りは結構だから、さっさと言ってくれ」
「んもう、雅さというものを解さない子ね」
私の知る限り、雅とは決してこのようなコントを指す言葉ではない。
あと、子って呼ぶな。
「昨年だったかしら、ちょっとした大事件があってね、その際に私は天啓っぽい何かを受けたのよ。
幽々子よ、お前は漬物を始めるべきだ。と」
「……」
とても突っ込みたいが、我慢する。
切りが無いから。
「まあ実のところそれは大嘘なんだけど、ともかく私は漬物職人として死人道を歩むと心に誓ったわ。
でも残念なことに、私と漬物の中の人との相性は最悪だった……というか飽きたの」
「……」
我慢、我慢。
「仕方ないから後事を妖夢に任せたのだけど、悲しいかなそれが仇となってしまったわ。
魂の還る所であるはずの白玉楼は、いつしか白玉堂漬物本舗へと屋号を変更せざるを得なくなった次第よ」
「……」
我慢……我慢……。
「というわけで、藍ちゃん。たっけて」
……。
もう、ゴールしてもいいよね?
「だああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
「わ、びっくり」
「聞かされたこっちがびっくりだ! お前、絶対わざとやってるだろう!?
死ぬか? いや、むしろ生き返るか? どっちだ? 料理ショー?」
「まあまあ、落ち着いて。今の貴方に足りないのはきっと糖分よ。
お饅頭でも食べて、いつもの冷静な藍ちゃんに戻りなさい」
「お前が全部平らげたんだろうが! 困るでしかし!」
「それは……大変ね……」
「突然シリアス顔を作るな!!」
「ならどうしろって言うのよ! このノーパン狐!」
「お前だって履いてないだろうがあ!!」
「ふっ、いくら私を非難したところで、貴方の性癖を否定する事にはならないわよ?」
「……」
正論だが、もうアッサムでもダージリンでもトマトと紅茶のスープでも何でもいい。
ヒラメが舌の上でシャッキリポンと踊ろうと気にしない。
私はさっさと、この無間地獄から抜け出したいんだ。
「あら、どうしたの? そんな艶々とした顔しちゃって」
「……いや、ね。もう私が悪かったって事で良いですから、普通に話しては頂けませんか?」
「他人行儀ねぇ。私と藍ちゃんの仲じゃないの」
「……」
どんな仲なんだろう。
天狗記者に一緒にストーキングされた仲、くらいしか思い浮かばないんだが。
そういえば第四回レトロスペクティブ京都は誰のテーマ曲か会議がそろそろだったか。
まあ、吸血鬼に閻魔様に月の姫と順に暴れてはお開きになってるから、今回は幽々子が暴れて終了なんだろう。
心の底からどうでも良いが。
「分かりやすく言うと、妖夢が漬物を作りすぎちゃったんで、お裾分けに上がったって所かしら」
「……最初からそう言ってくれ……」
たかだか、それだけの事を伝えるのに、こうも拗れさせられる辺り、大した才能だとは思う。
恐らくは紫様をも越える逸材ではなかろうか。
くそう、私に少しでも天然属性があれば対抗も出来たものを……。
……ん?
「それで、何故わざわざお前が自ら届けに来たんだ?」
「変かしら?」
「とてもな。お前ならそういう雑事は全部妖夢に任せるだろうし、
そうでなくとも、紫様が訪れる機会を待てば済む事だろう」
「……まあ、それには訳があるんだけど」
「この際だ、言え」
毒も喰らわば皿までだ。
こいつの場合、その奥に予備が百枚単位で用意されてそうだが。
「うちの今朝の献立ね」
「は?」
「胡瓜の古漬け、茄子の浅漬け、瓜のぬか漬け、べったら漬け……以上よ」
OH、ジャパニーズベジタリアン。
……じゃなくて、生憎として白玉楼が仏門の道に入ったという話は聞いたことが無い。
究極の仏教徒なるスペルカードを持つ私が言うのだから間違いないだろう。
すると、妖夢が意図的にそういう献立を選んだという事になるが、
あいつは和食ならばバリエーションはそれなりに多いし、
そも、食事の支度の手を抜けるような器用な奴じゃない。
となると……。
「……ふむ。何となく掴めたぞ」
「ほほぅ、では回答をお願いするわ」
「偉そうに言うな。
大方、妖夢が企んだ、ささやかなる復讐だろう。
今朝に限らず、朝昼晩と漬物三昧の日々を送らされているといった所か」
「だいせいかーい、ぱちぱち」
言葉とは裏腹に、まったく嬉しそうじゃなかった。
まあ、無理も無いか。
こいつから食事を取ったら、日々の喜びの八割は消滅するとの噂があるからな。
「しかしそれなら、もう漬物尽くしは勘弁してくれ、とでも言えば済むんじゃないのか」
「良いところに目を付けたわね。でも、まだ浅いわ」
何がだ。
「では今から、分かりやすく証明して挙げましょう。
……というわけで、藍ちゃんが私の役ね。で、私が妖夢役。OK?」
「あ? ……あ、ああ」
要するに、再現してやるからお前も手伝えという意味だろう。
しかし同じ音を四回続けて出すと字面的に実に間抜けだな。
「幽々子様。朝食の支度が整いました」
「ってもう始まってるのか……ああ、今行くぞ」
「こんダラズがっ!」
「へぷっ!」
途端、ものごっつい勢いでハタかれた。
別段痛くはなかったので、多分いつも持っている扇子で武器出し攻撃でもしたのだろう。
まったく、センスの宜しい事だ。
「って、何さらすんじゃいコラ! 浮かすぞ!? 美脚で64ヒットされたいか!?」
「私はそんな粗野な言葉遣いはしません! やり直しを要求します!」
「……貴方様はたった今、私めをダラズと呼びませんでしたか」
「いちいち下らない事を気にするんじゃないの。さあシーン1、テイク2。スタートっ」
「……」
明らかな上昇気流に乗った殺意を、鋼の錬金術……もとい、忍耐力でなんとか圧し止める。
大丈夫、私はまだギリギリ大丈夫だ。
「幽々子様。朝食の支度が整いました」
「おほん……ええ、分かったわ。ところで妖夢、今日の献立は何かしら?」
自分の口から出たとは思えないような調子の台詞に、頭痛と眩暈と吐き気が同時に襲い来る。
明らかな精神的疾患の一種だな。
「はい、豪州産牛皿にデミたまハンバーグと葱塩豚カルビに御座います」
「まあ、とても松屋テイストね。……って、待てやコラ」
「ズンダレっ!」
またしても何処の方言とも知れない罵声と共に突っ込みが来た。
今度は、素手によるアッパーカットという、お嬢様らしからぬ突っ込みだが、
二度目ともなれば私とて予測済みだ。
がつん、と鈍い衝撃が両手に走る。
問題無い。ガード成功だ。
が、あろう事か幽々子は、二発目のアッパーを繰り出すという暴挙に出た。
もしやこいつ、単に私を殴りたいだけなんじゃないだろうか。
もっとも、私とて大人しく脳を揺らされる気は無い。
この二発目をガードしたら、三発目にカウンターの右を合わせてやろう。
先に手を出したお前が悪い……。
「アウチ!」
私の思惑は、脳髄を奔った電流により無と化した。
紛うことなきジョーへの直撃である。
不可解だ。
ガードは固めていた筈なのに……。
……まさか?
「……そうか、燕は二羽いたという事だな」
「ありゃ、今度は意外と冷静ね」
「怒りがループしてゼロに戻ったんだ。……というか、今のは私が悪いのか?」
「何が?」
「……」
「あ、そうそう。これは三百十五日前の献立だったわね」
「ははは、このうっかりさんめ」
もはや突っ込む気も起きなかった。
二周目が溜まるのも時間の問題だな。
この不毛な対面が終わったら、亡霊を効率的に成仏させる方法の研究にでも入ろう。
誰であろうと、私を止める権利など無い筈だ。
……ひっく。
「それじゃ改めて、シーン1、テイク3。すたーとっ」
「……」
「幽々子様、朝食の準備が整いました」
「ええ、分かったわ。ところで妖夢、今朝の献立は何かしら」
「はい、胡瓜の古漬け、茄子の浅漬け、瓜のぬか漬け、べったら漬け、卵の味噌漬け、鰆の西京漬けです」
さり気なく増えているし、そもそもそれは漬物ではないのだが、断固として突っ込まない。
私にはもう、野生の精神を抑えられる自信が無いのだ。
「……ねぇ、妖夢」
「何でしょうか」
「別に漬物は嫌いでは無いわ。……でも、こうも毎日漬物尽くしでは私も飽きるのよ」
「ですが……」
「ですもザラキも無いの。妖夢、献立を再考なさい」
「……」
突っ込みが来ないということは、上手い具合に再現できているのだろう。
何故にこんな猿芝居に神経を使わないといけないのか、激しく疑問ではあるが。
「妖夢? 聞こえなかったの?」
「幽々子様は……」
「え?」
「幽々子様は……私に任せると仰いました」
幽々子……が演じる妖夢が、下方斜め21度から、雨に濡れた仔猫のような視線で見つめて来た。
その見事なまでの演技力に、私は不覚にも動揺を覚えてしまう。
しかも、これを現実に行動に起こしたのは、あの妖夢なのだ。
いかなお昼寝亡霊とて、これでは対応にも困るだろう。
「で、でもね、物には限度というものがあるでしょう?」
「……幽々子様は私に任せると仰いました……」
「命令というものは、状況に応じて変更が加えられるものなのよ。理解して頂戴」
「……幽々子様は私に任せると仰いました……」
「……だ、だからね、もう少し柔軟性を持って欲しいと」
「……幽々子様は私に任せると仰いました……」
「……あー、うー……」
「……幽々子様は私に任せると仰いました……」
「……」
お前は壊れたレコーダーか。
……って、違う。妖夢が、か。
まあ多分、あいつなりに考えた苦肉の策なんだろう。
そして今の状況を鑑みるに、その策は見事なまでに成功していると見えた。
「……という訳よ、分かった?」
「……ああ、十分に」
そのとばっちりを受けるのは私なんだがな。
「私はあの子に教訓として学び取ってもらいたいと思っただけなのに……」
「って、ただの思いつきじゃなかったのか?」
「コロンブスの卵というものよ」
「明らかに使い方を間違えているからな。……ともかく、その思惑は無駄だ。
どんな教訓かは知らんが、あいつにお前の難解な謎掛けなんて読み取れる訳が無いだろう」
「少しだけ後悔してるわ」
「大きく後悔しろ……まあ、話は大体分かった。
妖夢に聞き入れる様子は無い。しかし、これ以上漬物攻めに合うのも勘弁願いたい。
となると、全ての元凶である漬物を物理的に無くしてしまうしか道は無い……そう判断したんだな?」
「ええ、その通りよ」
それで、お裾分けか。
別にそんな事をしなくても、きちんと言い聞かせれば、妖夢だってヘソを曲げ続けはしないと思うんだが……。
……まあ恐らくは、諸悪の根源が自分だと幽々子も自覚しているから、きつく言えないんだろう。
だが、それは別としても、気になる所が多い話だ。
「解せんな」
「何が?」
「その桶は糠漬け用のものだろう。
だが、今の話から察するに、妖夢はありとあらゆる漬物に手を染めたんじゃないのか?
それ一つが無くなったところで解決とはならない気がするんだが」
「ああ、この桶は特別製なのよ。糠漬けなのは表層部分だけで、
味噌漬けに梅干しにピクルス、果てはキムチやザワークラウトまで製作可能という稀少な品よ」
稀少というか、キショい代物だな。
通りで匂うわけだ。
「……参考までに聞くが、その桶の出元は何処だ? というか誰だ?」
「紫に決まってるじゃない」
やっぱりか。
非常識の或る所、紫様あり。
まったく困ったスキマだ。
というか、そんな便利なものがあるなら、何故私に下さらないのだろうか。
いやがらせか? 殺すか?
……いや、私が殺されるな。20秒で。
「どうしたの? 突然死兆星なんて見つめ始めちゃって」
「いや、流石にそれは見えたら困る。じゃなくて、もう一つ疑問がある」
「何かしら」
「それならお裾分けなど面倒な事をしなくても、捨ててしまえば良いだ……」
失言と自覚した時には、もう遅い。
「藍 ち ゃ ん ?」
久々にびびった。
こういう凄みを時折見せていたのが昔の幽々子なんだよな。
今の幽々子は食いしん坊万歳だから困る。
……いかん、ノイズだ。
「ねぇ、今、何て言ったのかしら。お姉さんにもう一度教えてはくれない?」
「あ、いや、その、あの」
「まさか、妖夢が丹精込めてこさえた漬物を『捨てろ』だなんて寝言は抜かしていないわよね?
藍ちゃんがそんな、世界に存在してはいけない、外道に堕ちた畜生だなんて信じたくは無いのだけど」
「す、すまん、失言だ。忘れてくれ」
「あら……失言ということは、言ったと認めてしまったのね。これは残念無念。
ところで、藍ちゃんは関東風と関西風どちらが好みかしら?」
拙い、幽々子は本気だ。
こういうマイナスKな笑顔が最も始末に終えないものだとは、紫様から十分に学習している。
濃口で丸のまま食われるのも、薄口で短冊にされて食われるのも、遠からぬ未来予測図だろう。
ついでに何故か、あの宇宙兎も巻き添えにされるに違いない。
というか、何故にこいつは、ここまで激しくブチ切れるのだろう。
確かに食べ物を粗末にするのは良くない事だが、死刑宣告に値する程の罪でも無いだろう。
ここは一つ、自分に例えて考えてみるか。
えーと、橙が頑張って作った初めての料理を卓袱台返ししろ、と言われたようなものか?
……。
ふむ。
「味噌で煮込む!! 食われるのは貴様の方だ!!」
「くっ、本性を現したわねモリゾー!」
「そんな微妙なものは知らん! 私が知るのは、橙の泣き顔を幻視させた貴様の罪の重さだ!」
「逆切れの逆切れ!?」
って、やっぱり自覚してやっていたのか。
ますますをもって許しがたい。
私は懐に隠し持っていた切り札を、迷う事なく抜き放つ。
「……どうやら最終兵器の封印を解く時が来たようだな」
「あらあら、随分と曰くのありそうな刀ね。というか、物理的に懐に入らない気がするんだけど」
ふ、橙の為ならば物理法則くらい軽く曲げて見せよう。
いかな亡霊姫とて、この驚愕のダイスを持つ妖刀ならば一刀両断に……。
「……」
「……切らないの?」
「聞いて驚け。力が一つ上昇した……気がする」
「へぇ、装備せずに使ってしまったのね」
「……」
「……」
とても酷い目に遭いました。
「……」
「あむあむ……紅白饅頭ってどう見ても桃白饅頭よね。白玉楼名物として売り出そうかしら」
幽々子は先程とはうって変わった、花の咲いたような笑顔で、饅頭を頬張っていた。
敗者は黙って貢物を捧げるのみ。
悲しいが、これが世紀末覇者の法則なのだ。
くそう、私の分のおやつだったのに……。
「……やめておけ、これ以上妖夢の負担を増やすな」
「……ん、そうね。今日のもそれが原因だったものね」
「ん、珍しく素直だな。糖分が効いたか?」
「失礼ね。私はいつも素直です」
「その真偽は別として、愛の結晶と称していた理由は分かった気がしたよ」
「……何よ。いいじゃない別に」
「いや、別に揶揄してる訳じゃないさ」
「むぅ……ともかく、この漬物の里親は信用できる相手にしか任せられないの。
そうでなければ、妖夢に合わせる顔が無いわ」
ったく、困った奴だな。
幽々子が妖夢を溺愛しているのは、傍目に見ても間違いのない所だろう。
だが、それならば、普段からもう少しまともに接してやれば良かったのだ。
そう、例えば私と橙のように……。
「いや、そのりくつはおかしい」
「まだ口にしてないにも関わらず……!?」
というか、何故平仮名なんだ。
猫耳装着済みだからか……?
心底どうでもいいが。
「で、どうかしら。引き受けて貰える?」
「んー、まあ、そういう理由でうちを選んだのなら悪い気はしないし、
有難く頂いておく……と言いたい所なんだが」
「なんだが?」
「知っての通り、我が家は別段住人が多い訳でも無いし、
何より私だって漬物くらい漬けてる。正直な話、貰っても扱いに困るんだ」
それだけ大事に思ってる漬物なら、こちらとしてもいい加減に対応するには行かない。
現状における我が家の消費状況と貯蔵量を天秤に掛けてみるに、新たに漬物を消費するような余地は皆無だ。
倉庫の隅に眠らされるような状況は、幽々子にとっても妖夢にとっても好ましいものではないだろう。
「よって我が家では引き受けかねるというのが結論だ。悪く思うなよ」
「……そう、分かったわ。無理強いするような事でも無いですものね」
思いの他、幽々子はあっさりと引き下がった。
流石にここでゴネても、お互い得が無いというのは分かっていたか。
「ああ、力になれず済まない」
「気にしないで。……とはいえ、どうしようかしら」
こうなると逆に、罪悪感のようなものを覚えるから不思議だ。
別に私には何の非も無いんだが……まあ、共に考えてやるくらいは良いだろう。
「他の心当たりは無いのか?」
「そうねぇ、紅魔館なんて住人が多そうだけど」
「いや、駄目だろう。あのいかにも西洋風のお屋敷に、漬物の需要があるとは思えんぞ」
「……まあ、ね。確かに好意的に受け取ってくれる図が浮かばないわ」
そもそも、こいつが桶なんぞ背負って紅魔館を訪れようものなら、
爆弾テロリストと認識される気がしてならない。
何しろ、この作者の話においては、幽々子と吸血鬼のお嬢様は不倶戴天の敵同士だからな。
……作者って誰だ。
どうも今日はノイズが多いな。
「後は……永遠亭かしら」
「ああ、良いんじゃないか? あそこの連中なら喜んで受け取るに違いない」
何しろ、住人の大半を化け兎の類が占めているような所だ。
野菜分はいくら増えても困る事はあるまい。
「ただ、今からあそこまでコレを背負っていくのはねぇ」
「む……」
確かに、ここから永遠亭までは些か遠すぎるか。
おまけに、竹林の奥の更に奥のそのまた奥という最悪の立地条件もある。
途中で枝に引っ掛かりでもしたなら、間違いなく竹の肥しだ。
漬物としては後ろから数えて二番目くらい尊厳に満ちた末路に違いない。
紫様さえいらっしゃれば、何処に届けるのも問題では無いんだが……。
「紫は駄目よ」
「って、まだ何も言ってないぞ」
「聞かずとも分かるわよ。だからあえて貴方に相談したんじゃないの」
そういえば、そんな事を言っていたか。
何時もは紫様に頼りきりなのに、一体何を考えているのやら。
まあ、悪い傾向でも無いとは思うが。
「しかし、他に漬物を心の底から歓迎するような場所なぁ……む?」
そこで、唐突に私は閃いた。
というか、何故今まで思い浮かばなかったんだろう。
食糧難と常にイコールで結ばれるという、素敵に悲惨な場所だというのに。
「何処かあった?」
「ああ、博麗神社だ。あの赤貧巫女なら、五体倒置で迎えてくれる気がするぞ」
むしろ栄養失調で倒れると言うほうが正しいか。
そんな所なら、まず受け入れ態勢は問題無いだろうし、
ここからも比較的近い場所にあるから、今から向かってもさして苦も無い筈。
……が、何故か幽々子は、私の提案を浮かない顔で受け止めていた。
「うーん……」
「どうした。何か問題があるのか?」
「私のほうは問題無いんだけど……もうあそこには不要なんじゃないかしら」
「はあ?」
何を言ってるんだこいつは。
あの万年空室有り、新規入居者募集中の賽銭箱に好景気の波が訪れたとでも言うのか?
まさか、有り得ない。
妄想……もとい、想像力に自信のある私とて、到底幻視出来る光景ではない。
「って、貴方、気付いて無いの?」
「分からん。何のことだかさっぱりだ」
「ふぅん……ま、良いけど」
……出た。
幽々子は時折、こういう思わせぶりな発言を残したがる。
こうなると、私のほうからいくら聞いた所で、はぐらかされるだけで解答には辿り着けないだろう。
好意的に解釈するなら、そう易々と話せるようなものではないという事なんだろうが。
「ねぇ、藍ちゃん」
「ん?」
「貴方、最近紫と話してる?」
「何だ突然……まあ、普通だと思うが」
「もしかしたら、そう思っているだけかも知れないわね。
橙ちゃんばかり構ってないで、少しはご主人様との交流も深めたほうが良いわよ」
「……」
何を突然、知った風な事を言うんだこいつは。
紫様との交流は、それこそ私の日常だと言うのに。
昨日だって……。
ええと、昨日は会ってなかったな。
なら一昨日、一昨日だ。
そう、確か協会の会報をお渡しする際に会話を交わしたはずだ。
『例のが来ましたよ』
『ほい』
見ろ、占めて十文字という大盤振る舞いだ。
隼人じゃないぞ。
大体にして、今朝だって二言も会話を交わしているのだ。
これほどまでに密接な主従が他の何処に……。
「……」
「顔色が悪くなって来たわよ」
「……少し風邪気味なんだ」
「真冬に平気で全裸疾走を行える貴方が、風邪に縁があるとは思えないんだけど」
「いやいや待て待て、それは射命丸の捏造だ」
「そうなの? でも、今貴方が考えている事は捏造なんかじゃないわよね」
「……」
無言とは肯定の意だと理解していても、返すべき言葉が見当たらない。
何時も通りの挨拶、何時も通りの命令、何時も通りの報告。
それらのやり取りは、形骸化してしまったものに過ぎないのだ。
ならば、紫様と素の交流をしたのは、いつが最後だったろう。
正直、思い出せない。
「んー……実は半分は冗談だったんだけど、どうも図星を突いちゃったみたいね」
「……」
相変わらずの軽口にも対応する余裕が生まれない。
自覚してないだけで、心の何処かでは懸念していたという事なのか。
思えば、今朝方だって、面倒がらずに何処に行くのか聞くべきだったんだろうな。
例え面倒がられようとも、無味乾燥であるよりは余程ましだ。
……もしや、いずれは橙にも愛想を突かされるんじゃないだろうか。
そうだ。主人を大切に思えない奴を慕う式が居るはずも無い。
嗚呼、愚かな私をを許してくれ……。
「でも、安心して良いんじゃないかしら」
「は?」
我ながら、シリアスなのか脱線してるのか良く分からない思考を、
これまた良く分からない幽々子の一言が圧し止めた。
「だから、別に深刻に考えなくても大丈夫って言ってるのよ。
……ねぇ、貴方達の事を、皆がどう呼んでいるか知ってる?」
「皆とは誰を指しての言葉だ」
「誰でも良いわよ。私でも、妖夢でも、霊夢でも、魔理沙でも」
「さあな、考えたこともない」
「八雲一家、よ」
「……またおかしな話だな。神出鬼没のスキマ妖怪と、その式と、そのまた式だぞ。
家族なんて形態からは遠いにも程があるだろうに」
「そうね」
「って、否定しないのか」
「でもね、私達は誰に命ぜられるでもなく、誰の言を鵜呑みにするでもなく、
ごく当たり前に、八雲一家という総称を使っているのよ。その意味が分かるかしら?」
「……自信を持って良いという事かな」
「貴方がそう呼ばれる事を是としているのならば、かしら」
本来ならば、非とするべきなのだろう。
式という存在の役割を考えれば、それが当然なのだ。
だが、今求められているのは、一般的な認識ではなく、私自身の考えだ。
ならば、答えは決まっている。
「さほど悪い気はしない、という所だな。今更言って回るのも変な話だし、呼ばせるがままにしておくさ」
我ながら捻くれた回答だとは思う。
だが、仕方ないだろう。
『そうか! 口にせずとも心は通じ合っていたのだ! 八雲一家よ永劫なれ!!』
等と叫び出す程に、私は吹っ切れた存在ではない。
……が、どうやら幽々子には見え見えだったらしい。
「なーるほど、勉強になったわ。これが世間を賑わすツンデレという存在なのね」
「うるさい」
「照れない照れない」
「照れてない。
大体、さっきからお前の言ってる事は滅茶苦茶だ。
人の不安を煽り立てておいて、それを無為とするような発言を重ねるんだからな」
「そうね」
「って、やっぱり否定しないのか」
「当たり前じゃないの。私は藍ちゃんの可愛い反応が見たかっただけだもの」
「……ぐぐ……」
「ま、頑張りなさい、苦労人」
懊悩する私を余所に、幽々子は厳かに席を立つ。
「帰るのか?」
「ええ、お邪魔したわね」
「本当に邪魔だったんだ。自覚しろ」
「はいはい」
私の子供染みた言葉を軽く受け流し、幽々子は夕焼けに染まり始めた空へと消える。
普段の鈍重さが嘘のような身のこなしだった。
「……ったく、何だったんだあいつは……」
形ばかりの見送りを終えると、屋内へと踵を返す。
我が家の人口は、再び一人となった訳だ。
……まあ、私だって分かってるさ。
あいつが言い出さなければ、何時まで経っても気が付かなかったって事くらいな。
ともあれ……。
「明日は紫様のリクエストでも伺ってみるかな」
流石に、漬物と言い出す事は無いだろうしな。
……。
……。
……漬物?
「あの馬鹿は……言いたいことだけ言って、愛の結晶を置き忘れるか?」
背負った桶は、大変に重く、かつ匂う。
あのお嬢様がよくもまあ、こんな代物を自力で運び込んで来たものだ。
愛の力は偉大と言えば聞こえは良いが、痴話喧嘩の産物と思うと、呆れるより他に無い。
さて、何故に私が漬物桶を背負って夕刻の空を高速飛行しているのか、だ。
それは勿論、秘密裏に事を収める為に決まっている。
実際、幽々子が取りに来るまで放っておくのが一番楽だったのだが、
紫様には知られないように、という前提の存在が厄介だった。
いかな紫様とて、こんな図体の大きい代物が鎮座ましましていれば気付くだろう。
……いや、もしかしたら気付かないかもしれないが、それも所詮は願望に過ぎない。
結局のところ、こうして私自らが届けてやる以外に、確実な手段が無かったという次第である。
我ながらお人好しだとは思うが、性分故に仕方ないのだ。
別に、幽々子の言葉に僅かながらの感謝を覚えたからではないので間違えないように。
そもそも、奴の手によって受けた精神的苦痛からすれば、軽くチャラだろう。
って、誰に言い訳してるんだ私は。
「……ふぅ」
効果的とは程遠い桜花結界も、嫌がらせの如く長い階段も、全て乗り越えた。
私の視界には、見事に整えられた白玉楼の庭が広がっている。
どうやら反抗期の妖夢も、庭師としての本分を忘れてはいなかったようだ。
うんうん、お姉さんは嬉しいぞ。
『……から』
『……すが』
参考までに言うと、カラスではない。
単に、二人の会話らしきものが微かに耳に届いた、という表現を失敗しただけだ。
「妖夢が一緒か……どうしたものかな」
言葉の調子からして、修羅場真っ最中という訳では無いらしい。
が、流石に堂々と入っていくのも拙かろう。
となれば、狐の自慢である聴覚と視覚をフル活用して、諜報活動に勤しむ以外に道はあるまい。
端的に言うと、覗きだ。
明らかな犯罪行為ではあるが、冥界に法が適用されるとも思えないので、問題は無かろう。
何よりも、普段から紫様も幽々子もやっている事だしな。
そして、およそ二分後。
私は、これまでにない後悔を覚える羽目に陥っていた。
『はい、あーん』
『ゆ、幽々子様、恥ずかしいですよ……』
『気にしない気にしない、誰も見ちゃいないわよ。あーん』
『あ、あーん……』
前方、およそ二十間ほど先にて展開される、極めてバカップルな光景。
私の記憶が確かならば、こいつらは半冷戦状態にあった筈なのだが、これはどういう事だろう。
嫌がらせか? 殺すか?
でも残念、もう死んでます。
というかね、少なからず私は親切心と感謝の心を大事にして訪れた訳ですよ。
でなきゃ、こんな樽爆弾……じゃなくて漬物桶なんて担いで夜空を飛んできませんがな。
勢い余り過ぎて、いつもみたいに回転しかかって、危うく大地に漬物散布するところだったですよ。
心は原始に戻っても、野菜が地面に戻ったらあきまへんわ。
ハァー……フゥー……!。
……そうだ、こういう時は素数を数えるんだ。
3.1415926535……。
よし、落ち着いた。ような気がする。
『今、何か聞こえませんでした?』
『そう? 盛りのついた狐の霊でも闇に潜んでるじゃないかしら』
『怖い事言わないで下さいよぅ』
『もう、相変わらず怖がりなのね。なら、今夜は一緒に寝ましょうか』
『え、あの、その……』
……。
こいつら、絶対に漬物の事なんて忘れてる。
何故ならば、肉眼で確認可能な程のピンク色のオーラが、二人を包み込んでいるからだ。
命名するなら、YYフィールドと言った所か。
ともあれ、こうなれば私の取るべき行動など一つしかない。
いざという時の為に帽子の中に隠しておいた、手の平大サイズの缶のような固まり。
中央部分に記されたるは、小さなN2の文字。
私はそれを取り出すと、マサカリ投法で前方の屋敷へと投げ放った。
「……少し花火の時間には早いがな」
大気を揺るがす炸裂音をBGMに、私は帰路へと急ぐ。
今は成果を確認するよりも、家族の帰宅に間に合わせるのを優先すべきだからだ。
これから当分の間、献立に漬物が多くなってしまうが、仕方ない。
霊を憎んで食料を憎まず、だ。
なお、後日耳にした話によれば、中の二人はまったくの無傷だったそうな。
絶対領域の名は伊達ではなかったという事か。
……ちっ。
そこに織り交ぜられたちょっとしたいい話は
相変わらずの手さばき(?)で見事の一言。
されどひとつだけ物申したい。
ゆゆ様は狐みm<裁かれました>
箸休め的に読める良作だったと思います。
こういう軽く読めるお話も良いですよね。
ところで、吸血鬼の人は
どちらもレトロでスペクティブな京都は背負ってなかったような。
八雲~西行寺ラインはガチでしょう。
もともとトップ同士が親友なんだから、シャッフルされてても不思議ではない。という訳で-10点。
蘭さまご乱心
素敵な藍様の日常(嘘)、堪能させて頂きました(礼
YDS様はつくづくオッサン臭いネタが上手いなあ(褒め言葉
たしかに藍と幽々子の絡みを想像するとこうなっても無理ないですなw
確かに文花帖Lv8ではコンビでしたが・・・・・・、ん?
と言う事は、次は妖夢と橙のお話を期待していいんですかね(わくわく
私にその漬物を食せというのか。
完売を祈っております。
と、いうか藍様。あの帽子にN2入れることが出来るんですか?更にいざというときって何時よ?
ああ、アレね。
そして紫の行方がひどく気になります……行き先は外の世界の「あそこ」でしょうか?w