このお話は、作品集22から続く拙作『炎の料理人紅美鈴』シリーズ最終回となっております。
こちらを食される前に、この作品集『天より暗闇へ』を事前召し上がると、より一層、深みのある味になるかと思われます。
では、メインディッシュとデザートを兼ね備えた本作、どうぞご賞味あれ。
「やーっぱりでかでかと特集記事になってるわねー」
「それどころか、一面のみならず、二面三面四面五面六面……あいつ、ちゃんと新聞を作る気があるのか?」
「しかも何これ、『号外EX記事』って」
空を飛び回る幻想郷の新聞屋さん(仮)は今日も大忙しだった。定期購読なんて申し込んでないわよ、と神社の巫女は言ったのだが、「いいえ、霊夢さんはこれを読むべきです。読むべきですと言ったら読むべきなんです、わかりますか? つまり、読まざるもの、新聞の神の鉄槌を受けるべしなんです」と無理矢理に押し付けていった。一体何が言いたかったのか、勘の鋭い彼女であってもその言葉から意味を察することは出来なかったが、まぁ、ともあれ。
その新聞――『文々。新聞』の一面を飾った見出しがこれである。
『料理界の龍、敗れる!』
よくもまぁ、これだけセンセーショナルなように見えて微妙な見出しを考えつくものである。
「しかし、えらいことになったもんだぜ」
「そう?」
「ああ、そうだ。これで、料理界には大波乱が巻き起こるぞ。あの、今に至るまで正体不明と言われていた四天王の最後の一人が正体を現し、さらに、食神山すら制覇した『龍』が地に落ちた――これを見て、料理の王――料理神がどんな判断を下すか、見物だぜ……」
「……誰それ」
「何だ霊夢、知らないのか。いいか? まず、料理界というのはだな――」
と、何だかよくわからないことを延々語り始めた友人を尻目に。
彼女は一人、空の彼方を見やる。
「……まぁ、こんだけ取り上げられちゃったら、彼女も大変ねぇ」
とだけつぶやくと、「そこから、料理界は幻想郷の中で確固たる地位を抱くに至ったんだ。そして、私たち、料理の修羅達は、そんな開祖達の遺志を継いで、この世界をより発展させようと誓ったんだが、そこには色々と問題があった。つまり――」と語っている魔法使いを無視して、境内の掃き掃除を再開したのだった。
なお、彼女の語りが終わったのは、もうすでに夕暮れを遙かに過ぎた頃と付け加えておこう。
――さて。
「……」
「あの~……メイド長……?」
「あの天狗を殺した場合、温情はもらえるのかしら……?」
「わーっ! 誰か、メイド長を止めてー!」
「目が、目がマジよー!」
「お嬢様呼んできて、お嬢様!」
「我が身を呈して、この危機を乗り越えてこそ勇者! 勝負です、メイド長きゃぁぁぁぁぁっ!?」
「何か館の中が騒がしいわね」
「騒がしいわね」
「何があったのかしら」
「何があったのかしらね」
と、全く階下の騒ぎを気にすることもなく、ティータイムを楽しんでいるのは、紅の館の館主、レミリアとその友人であるパチュリーである。両者が手にしているティーカップには『お嬢様専用』だの『パチュリー様用』だのと文字が模様となって描かれている。
「それにしても、面白い見出しの新聞が出てしまったこと」
「どうするの? レミィ」
「何が?」
「これで、我がレストラン『紅魔館』は廃業の危機に追い込まれてしまったわよ?」
「……ねぇ、パチェ。わたしね、時々……っていうか、今になって気づいたんだけど、何か間違った道進んじゃったかしら?」
「何を今さら」
あっさりと即答されて、レミリアが沈黙する。
その微妙な沈黙を、こほん、と彼女は咳払いをして打ち破ると、手にした新聞の紙面をテーブルの上に広げる。
「しかし、まさか、あのぐーたら妖怪がこれほどまでに腕の立つ相手だとは思わなかったわ」
「完全に、美鈴は塞ぎ込んでるし。厨房に立てなくなった料理人は料理人とは言わない、とはよく言ったものね」
それは当たり前なんじゃなかろうか、とレミリアは思ったが、とりあえず口に出すことはやめたらしい。
「どうしたものかしら」
「まぁ、放っておいてもいい問題だとは思っているけれど」
「あら、珍しい。どうしてかしら? いつものレミィなら『この程度で塞ぎ込むような奴は紅魔館にいらない』って私のハートをブレイクさせそうなものなのに」
「人を分別のない破壊魔みたいに言わないでちょうだいな」
「違ったの?」
「…………」
再び、容赦ない沈黙。
今度はさすがに復帰に時間がかかったらしく、レミリアが忘我の淵から帰ってきた時には、手にした紅茶がすっかりと冷めてしまっていた。
「え、えっとね……」
こめかみ押さえつつ、何とか色々なものをこらえながら、
「その……料理人のプライドというのかしら。それはわかっているつもりよ。恐らく彼女のそれは、五百年を生き続けた吸血鬼たるこのわたしのそれよりも、遙かに気高く崇高だと言うことも」
「それはそれで何か問題があるような気がしないでもないけど」
「それはそうだけど……って、パチェ。何か冷めてない? ツッコミが厳しいわよ?」
「正直、どうでもいいもの」
ああ、もう、とため息を一つ。
この友人は、自分の興味の向くことに対してなら、どんなバカよりもバカになれるというのに、それ以外の事柄に関しては常にこれなのだ。浮き世じみているというか、単に世の中なめているというか。
ともかく、何とか彼女を話に乗ってこさせねば。
レミリアは一息ついて、口を開く。
「だからね、わたしが思うに、美鈴がこのままならこのままでもいいと思うの。第一、彼女の役目は、本来は門番。それなのに、その腕を見込んだから厨房に入れてあげただけで。これはある意味、本来の鞘に戻ったと考えるべきだわ」
「そうね」
「そこで彼女が復帰するも、このまま大地に倒れているも、それは彼女の自由。
何せ、わたしがそこまで気を遣わないといけないほどのものでもないもの。門番なんて、しょせん、一山いくらでそろえられる程度のものなのだからね」
「そうね」
「だから、ほったらかすことに決めたのよ。
……まぁ、それに、彼女なら、自分が何としてでも取り戻したいものがあるなら勝手に立ち直るでしょ」
「そうね」
「それで……」
「そうね」
「ねぇ、パチェ」
「そうね」
「あなた、本気でわたしの言うこと無視してるでしょ?」
「そうね」
「……………」
もうやめた。
レミリアは大きなため息をつくと、手にした魔法書に読みふけっている友人をその場に置いて、「フランの顔でも見に行こうかしら……」と部屋を後にしたのだった。
「隊長」
背中からかけられる声に振り返れば、そこには門番隊に所属するメンバーが一人。彼女は、心配そうな瞳を美鈴へと向けていた。
「大丈夫ですか? 気落ちしないでくださいね」
「うん……ありがとう。
大丈夫、私は元気だよ」
「でも、先日の魔理沙さんの襲撃の際、普段ならマスタースパーク一発十五秒で復活するのに、一分近くかかってましたし……」
「あれはその~……ちょっと、HPの回復が遅れただけだから」
「それでなくても、メイド長のナイフ投擲で医務室に担ぎ込まれる隊長なんて……」
そもそも、それはそれでしっかりと『当たり前だろ』とツッコミを入れたくなるのだが、事、美鈴に関してはその常識は当てはまらないらしい。
心配そうに自分を見てくる彼女に「大丈夫だから」と作り笑いを浮かべて、美鈴は一人、気丈に門の前に立つ。
「はぁ……」
そして、視界から彼女が消えれば、またため息が一つ。
――紅魔館の門の脇に出されている看板が一つ。
『しばらくの間、諸事情により、レストランサービスは休業致します』
それを見ていると、何だか情けなくて涙が出てきそうになる。
先日の紫との料理勝負で完膚無きまでに敗北して以来、どうしても包丁を握ることが出来ないのだ。鉄鍋を取ろうとすれば、そのあまりの重さにそれを取り落とし、フライパンを握れば躊躇し、上の食材を焦がしてしまう始末。
あれ以来、すっかり、彼女は意気消沈してしまっていた。
気を操る力を持った妖怪は、殊更、『気』に関しては敏感であるようだ。それ以来、すっかりと色々なものが抜け落ちてしまい、覇気を失ってしまった美鈴は、レミリアをして『かかしの方がまだマシ』と言わしめるぐらいに見る影もない。
彼女と咲夜を中核としてやってきたレストランサービスも、すっかり開店休業状態。それはそれでどうでもいいだろ、とツッコミをしたメイドは容赦なく咲夜にお仕置きされていたりするのだが、それもともあれ。
「何度も何度も、勝っては負けてを繰り返してきたけど、さすがにこの前のはこたえたなぁ……」
自分と全く同じ料理を作ってきて、それなのに、審査員達を虜にした紫の手際には見事と言わざるを得ない。彼女が抱えてきたプライドなど、全てを木っ端微塵に打ち砕かれたのだ。まだまだ紫に自分は届かず、それを彼女はいやというほど教えてくれた。
いちいち、一度や二度の敗北で落ち込んでいてはどうしようもないのが、彼女の知る料理界なのだが、今回のはそう言う問題ではない。たとえるなら、魔理沙がついに霊夢に人気投票一位の座を奪われたような、そんなダメージがあったのである。
「どうしよう……」
一人、うずくまって『の』の字を書く。すでにその数は百を超え、紅魔館の周りが『の』で埋め尽くされ、「あなた、紅魔館に恨みでもあるの?」とレミリアから蹴り食らったのだが、彼女はそれを忘れているらしかった。
「やっぱり……私は間違っていたのかなぁ……」
紫の料理からは、自分を叩きのめすという意思が鋭敏に伝わってきた。
美鈴が目指したのは、誰もが『美味しい』と笑って食べてくれる料理。みんなが笑顔になって、場の雰囲気を和ませるような、そんな食事を目指して頑張ってきたのだ。当然、料理勝負であろうとも、それは同じ。最後の最後には、自分の信念にかけて勝負に挑んできた。だから勝てたと言っても過言ではない。相手を叩きのめすのは料理ではない。それはただの戦いの道具だ。
美味しい食事もそんなことでは美味しくなくなってしまう。だから、彼女は戦いの場から身を引いていたというのに。
「……はぁ」
またため息を一つ。
「こんな時、皆さんならどうしていたんでしょうねぇ……」
これまでに打ち破ってきた料理人達は、皆、戦いが終わった後に自分のように落ち込んだりはしていなかった。きっと、それは、そこに何か学ぶものを感じ、より一層の向上心に燃えてしまったからなのだろう。
美鈴の場合は、それがない。
今までの人生全てが否定されたと言っても過言ではないのだ。さすがに、これほどまでのダメージを受けてしまえば立ち直ることは容易ではなかった。
「何かこの頃は魔理沙さんも気を遣って『図書館に用事がある』って言ってくるし……。ああ、私、どうしたら……」
――この頃の日課となったネガティブモードを発動させると、美鈴は一人、いじいじといじけ続けるのだった。
「それでは、第一回、めーりんねーちゃんを励まそうの会、作戦会議を始めまーす」
おー、とぱちぱちと拍手が上がる。
演壇代わりの石の上に上がって、氷の妖精、チルノが一同を一瞥する。
「で、誰かいい案、ない?」
「チルノ、そういうのは自分で考えておくもんじゃないの?」
なぜか強制的にその場に引っ張ってこられたリグルが肩をすくめてコメントすると、チルノは「何よー」となぜかほっぺた膨らませた。
「仕方ないじゃん! あたいが何かしても『ありがとう』ってしか言ってくれないんだもん!」
「いや、私に八つ当たりされても……」
「ルーミアだってそうだよね!?」
「うん。あんなお姉ちゃん、見ていたくないなー」
「ほらどうだ!」
「いや、どうだって……」
助けを求めるような視線を、自分の隣に座って「今月の屋台の営業……うあー、赤字だー……」と呻いているミスティアに向けるリグル。彼女のその視線に気づいたのか、ミスティアもぱっと視線を上げると、
「っていうかさ、そもそも、何で私たちが集められなきゃならないわけ? チルノちゃんや」
「だって、ここにいるみんなに頼るのがいいよ、って大妖精が言ったんだもん」
「その大妖精は?」
「何かよくわかんないけど、『料理界に伝わる文献を探しに行ってくる』とか何とか」
「……ねぇ、ミスティア。私ね、前々から気になってたんだけど……大妖精って何者?」
「さあ……。確か、料理界において八つの柱の一つに数えられている兵、と言う以外には……」
「……そーなのかー……」
「リグルー、それ私のセリフー」
横手からルーミアが文句を言う。
しかし、文句を言われても、という視線をリグルが向けると、ぷんすかとふてくされていたルーミアがチルノに視線を戻す。
「ねぇねぇ、チルノちゃん。みんなで集まったんだから、このままお姉ちゃんの所に行こうよ」
「んー……。
でもさぁ、今、あたい達が行っても何も出来ないと思うんだ。何かいいのがあれば、きっと、ねーちゃんも笑ってくれるんだろうけど……」
「難しいねー」
「うん」
「気が合うのね、この二人」
「っていうか、ちびっこだからね」
ちびっこは、無意識のうちに優しい人を感じて、その相手に懐くと言うが、なるほど、どうやらその言葉は間違っていなかったようである。
「しかし、美鈴さんねぇ……。あの人、そんなに凄い人だったのね」
「と言うか、料理界の人なら知らない人はいないんじゃない? いや、私は違うけど」
「正直、私はどうでもいいとは思ってるんだけど……」
「何だとリグルー!」
「そーだそーだー!」
「この二人にせっつかれたらどうしようもないからね」
どこか、疲れたような、それでいてどこか楽しそうな笑みを浮かべて、リグル。その気持ちわかる、とミスティアが首を縦に振って、「それじゃあさ」と指を立てる。
「ここは、幻想郷の知恵袋に、いい知恵を授けにもらいに行こうじゃないか」
「誰?」
「んー……慧音さん辺りがいいかも」
「あとは、あれ。誰だっけ。竹林の……」
「えーりんおば……」
その一言を口に仕掛けたルーミアが、びくっ、と背筋を震わせる。
「え、えーりんおねーちゃんだね!」
何か嫌な汗だらだら流しつつ、辺りをきょろきょろしながら自分の発言を訂正。と言うか、ルーミアの、その命知らずの一言が発せられた瞬間、その場にいた四人全てが背筋に刃物を押し当てられたかのような寒気に襲われていたりする。
「よ、よし! それじゃ、まずはけーねんところにいこう!」
その嫌なものを払拭するためか、顔を引きつらせたチルノが真っ先に飛んでいく。置いていかないでー、とルーミア。
「……何だったの、今の」
「き、気にしちゃダメ……なんじゃないかなぁ」
死の淵を覗いて生還しました、という雰囲気を漂わせながら、残り二人がそれに続く。
ともあれ、四人は空をふわふわと飛び、人間の里を目指す。それが目に入る距離に辿り着くと、「じゃ、私が呼んでくるよ」とミスティアがすたすたと歩いていった。これは風の噂なのだが、最近、彼女の屋台には人間も普通に訪れるようになっているらしい。真実は、未だ闇の中ではあるが。
里の近くの林に降りてしばらく待っていると、ミスティアに連れられて慧音がやってくる。
「よく、私がここにいることがわかったな」
「それはまぁ……チルノの勘?」
視線をやれば、絶対よくわかってない顔でチルノが首をかしげていた。
それはともあれ。
「それで? 私に用事とは何だ? お前達」
威風堂々、腕組みして見下ろしてくる彼女に、まず言葉を発したのは、やはりチルノだった。
「めーりんねーちゃんに元気を出してもらう方法を教えて!」
「……は?」
いきなりそんなことを言われても、と一同を見るのだが、「つまりね」とリグルが口を開くまでは、これと言った事情説明はなされなかった。
彼女の話を聞いて、なるほど、と慧音はうなずく。
「確かに。先の新聞のことなら、私も読んだよ。
それで、彼女が落ち込んでしまっているから何とかしてあげたい、か」
「そういうこと! 何か教えなさいよ!」
「まあ、待て。そんなに急に言われても、いきなり名案が浮かぶほど、私は徳を積んできているわけじゃない。
しかし、彼女は幸せだな。誰かに好かれているというのはいいことだ」
やれやれ、と肩をすくめて、慧音。
「さて、彼女に元気を出してもらう方法についてだが。
お前達、何か、それに関して心当たりはあるのか?」
「ないよ。だから聞きに来たんじゃん」
「そうだよー。何か教えてよ、けーねおb……おねーちゃん」
またもやよけいなことを口に仕掛けたルーミアが押し黙る。慧音も大人げない視線をちびっこに向けていたのだが、その一言で「そうだな」とつぶやきながら視線を逸らす。
「……ルーミアってさ、絶対、意識せずに敵を増やすタイプよね」
「純粋ちびっこ、恐るべし……」
敵も多いが味方も多い、というのはまさに彼女のためにある言葉なのかもしれなかった。
「せっかくだから、彼女に料理をごちそうになりにいくというのはどうだ?」
「あー、慧音さん。屋台の客から聞いたんだけど、彼女、今、包丁も持てない有様らしいのよ。それは難しいんじゃない?」
「それもそうか。しかし、彼女はお前達が自分を慕っているというのはわかっているのだろう?」
「……どうなんだろう。あたいが勝手に押しかけてるだけだし……」
「うん……」
「そういうのを『慕っている』と言うし『慕われている』と言うんだ。彼女も、そんな程度のことに気づかないほど、鈍感ではない」
「じゃ、どうすればいいのよー」
「そーだそーだー」
話をもったいぶった方向に持って行って、なかなか本題に入らない慧音に向かってちびっこ二人がぶーぶーと不満の声を上げる。その二人に、『まあまあ、落ち着け』と言わんばかりに、
「そこでだ。
お前達だって、彼女が好きなんだろう? それなら素直にそう言えばいい。お腹空いたからご飯を食べさせて、とな。
そうしたら、彼女だって鍋を手に取るだろう」
「どうしてそう言い切れるの?」
「そうだな……。腹を空かせた子供に頼まれたら、どんなものだろうとも、いかなる理由もなく食事を作ってやりたくなる」
「ぶー」
「あたい達を子ども扱いすんなー」
ほっぺたを膨らませて反論する彼女たちに、「それじゃ、私は里に戻るよ」と言い残して、慧音は踵を返した。その後ろ姿が見えなくなるまで、「子供っていうなー」と二人は文句を言っていたのだが、やがて慧音の姿が見えなくなると、ころっと掌を返してリグル達に振り返る。
「よしっ、じゃあ、ねーちゃんのところに行こう!」
「いこー!」
「慧音さんの言葉、信じるの?」
「そうそう。案外、口から出任せを言っただけかもよ?」
「ふーんだ。もしもそうだったとしても、あたいがねーちゃんを何とかするからいいんだもーん」
「そーだそーだー。私も頑張るからいいもんねー」
やれやれ。
結局、慧音に話を聞きに来る必要はなかったのではないだろうか。
これだから子供という奴は手がかかる。どんなにお膳立てをしようとも、大人の考えることと子供の考えることとは、そもそも根本部分からして違っているのだから。しかし、それ故に、子供は強いとも言える。
こうやって、何のしがらみもなく、真正面から相手にぶつかっていけるのは子供故の強みだな、と。
「仕方ない。じゃ、我々もお供しますか」
「右に同じく」
それなら、私たちも付き合わないとダメかな。
リグルとミスティアは顔を見合わせ、『お互い、苦労するね』という表情を浮かべたのだった。
さて、所変わって紅魔館。
今日も館は忙しい。『あの、レストランの予約の方は――』『すいません、出前サービスの方はやってないのでしょうか?』などなど。
そうした問いかけをしてくる客が山ほど、あれからやってくるのである。
彼らに『申し訳ございませんが』と断りを入れるのはメイドの役目。レミリア曰く、「彼らは大切なリピーターなのだから。しっかり確保しておきなさいな」ということらしい。この館は悪魔の館として恐れられていたんじゃなかったのか、と誰もがそれに対してツッコミを入れようとしたのは言うまでもない。無論、実行に移したらどんなお仕置きを食らうかわかったものじゃないのだが。
そんな中、一人、事の中心にいる人物はと言うと――。
「美鈴さま、お茶をお持ち致しました」
「あ、はーい」
門番隊の詰め所の一角にある彼女の部屋。そこで、今朝の仕事を終えて休憩をしていた美鈴の元にお茶を持ったメイドが現れる。
ただし、そのメイドはと言うと――。
「あ、さ、咲夜……さん」
「全く。軽く声音を変えてみたとはいえ、私だと言うことにすら気づかないとはね」
心外だわ、と言いたげな表情で佇む十六夜咲夜女史。片手にはお茶の入ったティーカップが載ったトレイがある。
彼女は、美鈴の返答も待たずに部屋の中に上がると、テーブルの上にティーカップを置く。中に入っているのは紅茶ではなくハーブティーだ。
「あ……どうもありがとうございます」
「別にいいのよ。こう言うのも、私たち、メイドの仕事。門番が館を守るのが仕事なら、そうしたもの達を気遣うのもまた、私たちがやるべき事だから」
「そうですか……。それじゃ、ありがたくちょうだいしますね」
「その前に」
カップの取っ手に指をかけた美鈴を制して。
「あなたは役目を果たしているの?」
「え?」
「あなたは、本当に、自分の役目を果たしていると、胸を張って言えるの?」
「い、言えますよ? ちゃんと、今日も侵入者は……」
「そういうことを言ってるんじゃないの。
いえ、本来ならそれでいいのだけど。でも……今は違うでしょ?」
「……それは……」
失礼するわね、と椅子を出してきて、彼女は美鈴の前に腰を下ろす。そして、テーブルの上に頬杖をつきながら、じっと相手の顔を見据え、口を開く。
「本当にいいの? このままで」
「……その……」
「確かに、私も、お嬢様の突飛な考えには閉口したし、何かよくわからない現実に触れて、色んな意味で幻想郷に恐れをなしたわ。それでも……それでも、私はあなたの料理、好きよ?」
「……」
「本当に、このまま終わってしまっていいの?
たった一回、負けただけじゃない。それなのに、どうして、あんなに好きだった料理を忘れてしまえるのかしら。私にはわからないわ」
皮肉めいたその一言に、美鈴が悔しそうに唇をかみしめる。そんな相手の様子をあえて確認しながら、咲夜は続ける。
「みんな言ってるじゃない。あなたの作った料理は美味しい、って。
私だって、そりゃ、自分のものに自信はあるけれど……正直、あなたにはかなわないって思う。それは、単純に味とか技術とかの問題だけじゃなくて……心構えって言うのかな。そういうのが。
何をバカなことを、って笑わないでね。私は本気でそう思ったんだから。
あなたのやろうとしている、『みんなが笑顔で食べてくれる料理を作る』ということは、決して悪い事じゃない――むしろ、それは正しい事よ。誰だって、美味しい料理を食べたら笑顔になる。どんな諍い事があっても忘れられる。作り手が真剣になって出してきたそれを、真剣に食べて、そして真剣に喜ぶのよ。
あなたはそういうのを目指していたんじゃなかったの? あなたの料理を待ってくれる人たちに、そんな風にして食べてもらいたいから……料理を、あなたの心の代弁者としたいから、一生懸命、それを学んできたんじゃなかったの?
何よ、たった一回負けた程度で。私は……、私は……その……あなたが何回負けようとも、あなたの料理がどれくらい否定されようとも、応援し続けてあげるから。
だから……しっかりしてよね」
最後には、言葉は徐々に消えそうなくらいに小さくなっていって、頬も赤く染まってくる。ぷいっと逸らした横顔が、どこか可愛らしく見えるくらいに。
うつむいていた美鈴が、そっと視線を上げて、そんな彼女の顔を見る。
「……あなたの技術、まだ教えてもらってないわよ、私。それに、お嬢様も、フランドール様も、パチュリー様も、またあなたの料理を食べたいって言ってるの。もちろん……私だって。
あなたが私のために作ってくれたケーキ……すごく美味しかったから。あれで太っちゃったのよ、責任取りなさいよね」
「……その……」
「あなたの作る、もっともっと美味しい料理、一番最初に食べるのは私なんだから。せっかく予約してあるんだから、せめて、その予約を消化してから包丁は置きなさい」
わかった? と、最後はほとんど逃げるようにして言い放つと、顔を完熟トマトより真っ赤にして席を立つ。逃げるようにして彼女の部屋を後にしようとする咲夜だったが、ドアに手をかける直前、それが思いっきり内側に開いてきた。間一髪のところで顔面への直撃は避けたが、勢い余ってしりもちをつく。
「いったたた……」
「……メイド長、ツンデレのみではなく、ドジっ娘属性までも完備するとは……恐ろしい子……!」
何かよくわからないセリフをつぶやくメイドがその前に立っていた。
そして、彼女が連れてきたもの達はと言えば。
「めーりんねーちゃん、おーっす」
「おねーちゃん、こんにちはー」
「チルノちゃん……ルーミアちゃん……」
「いや、どうもどうも。お邪魔しますよ」
「すいません、急に押しかけて」
チルノを筆頭とした『めーりんねーちゃんを励まそうの会』の面々だった。と言っても、実質的メンバーはチルノとルーミアだけだったりするのだが。
「ねー、ねーちゃん。あたい、お腹減ったー」
「私もー。おねーちゃん、お昼ご飯作ってー」
「え? あ、あのね、二人とも。私は……」
「まぁ、いいじゃないですか。美鈴さん。ちびっこがそろって『お腹減った』ってぴーちく鳴いてるんですから」
「作ってあげても罰は当たらないと思いますよ」
「ちびっこって言うなー!」
「そーだそーだー!」
事態が理解できず、目を白黒させる美鈴にミスティアとリグルが追い打ちを入れた。その二人のセリフに、『私の立場がないじゃない』とぶつくさ文句をつぶやく咲夜。ちなみに、ぺたんと床の上に座り込んだままだったりする。
「……でも……その……」
「めーりんねーちゃんの作ったご飯、すっごい美味しかったからさ」
「おねーちゃん、お腹空いたよー」
「……二人とも……」
美鈴の頬に、伝う涙が一筋。
その視線は、続けて、たまたまこちらを見ていた咲夜の方に向いた。両者の視線が重なり、咲夜はあっという間にそっぽを向いてしまう。
「……」
――己が目指したものがそこにあるというのなら。
「私は……」
――私の目指した『もの』がここにあるのなら。
「……私が……」
静かに、美鈴が立ち上がる。
「……私のご飯でいいの?」
「うん!」
「やったぁ!」
はしゃぐ二人を見て、ミスティア達も『やれやれ。これで肩の荷が下りたかな?』という表情で笑いあう。一方の咲夜は、『何か、立場がないわね』とちょっぴり寂しそうに肩を落としていた。そんな彼女に、「メイド長、恋の道は長く険しいものです」とよけいな励ましを入れたメイドの顔面に刃先を丸めたナイフが直撃したのだが、それはともかくとして。
「いいよ……じゃ、今から作るから。おいで」
「やったやった、ご飯だご飯♪」
「おねーちゃん、私、大盛りー」
「はいはい」
ちびっこ二人に急かされて、美鈴は苦笑しながら部屋を後にする。
その後ろ姿を見送って、さて、と、
「んじゃ、私たちは帰りましょうか」
「そうね」
「けど、うちの屋台、今月赤字なのよねー。リグル、協力してよ」
「無茶言わないで。私に出来ることと言ったら、せいぜい、虫たちの合奏くらいなものよ」
早々に退散するべく踵を返したりする。
そんな彼女たちに「待ちなさいよ」と咲夜が声をかけた。
「はい?」
「……正直、納得のいかない展開ではあるけれど、仕方ないわ」
ようやく立ち上がり、お尻をぱんぱんとほろいながら、こほんと一つ、咳払い。
「……ありがとう。美鈴がこれで立ち直ってくれるなら……私も、とっても嬉しいわ」
「いえいえ」
「私たちは何も」
「ミスティア、あなたの屋台に、今度、メイド達を連れて行くから。美味しいお酒をご期待するわね」
「そりゃどうも。ご予約、入れておきますよ」
「やったじゃない」
「まぁ、これで収支はプラマイゼロかな」
――本音を言えば、本気で納得のいかない展開ではあった。
ミスティア達を送り出すよう、倒れて痛みにのたうち回っていたメイドに命じて、咲夜も厨房へと足を向ける。
「……美鈴を元気づけるのは、私の役目だったはずなのに」
しかし、結局、彼女だけでは足りず、美鈴を慕うちびっこ達の後押しがあって、ようやく、美鈴は重い腰を上げたのだ。言い方を変えるなら、もう一度だけ、厨房に立ってみようと言う気になったのである。
思い人のことは、何があっても支えてあげたいと思う反面、まだまだ、私にはその辺りのイロハが足りないのかな、と思って。
少しだけ、咲夜は肩を落としたのだった。
「そう……私が目指すものは、ただ一つ……!」
厨房にこもる美鈴の瞳に炎が点る。
背中に浮かび上がる『龍』の姿。かつては地に落ち、土にまみれたそれが、今、再び昇竜となって天を貫かんと、雄々しく身を起こす。轟く雄叫び、響く雷鳴。そして、大いなる暗雲を貫き、金色に輝く龍が空を目指して突き進む。
「私が信じた、この道のみ!」
彼女の両手が真っ赤な炎を宿し、全ての料理器具の上で舞い踊る。
ありとあらゆる食材を選び抜く舌と経験と瞳が輝きを発し、それらを彩るべく、燃えさかる両手が残像すら描く。
その姿を見たレミリアは、後にこう述懐す。
「どうやら……このわたしの五百年の歴史は、そう大したものではなかったかもしれないわね……」
戦慄する紅の吸血鬼にすら気づかず、『龍』が猛々しく空を駆けめぐった。
自らに出来る全てを、今、ここに。
彼女の持てる技術と経験と、そして料理にかける『思い』の丈をぶつけるために。
「見ていてください、皆さん!」
そして、その両の眼が見つめるものが、また一つ。
大切な人の、小さな小さなリクエスト。それに応えるべく、荒々しくも繊細に指先が駆け抜けて。
そして、その叫びが、厨房にこだまする――。
「今回は、別に料理勝負とかじゃないのね」
「どうやらそのようだな」
その日。
紅魔館の食堂にはいつものメンバーの姿があった。
霊夢と魔理沙は当然として、レミリアにフランドール、普段は『どうでもいい』という立場を崩さないパチュリーまでがいる。ちなみに彼女、その後ろに控えている咲夜に『絶対来てください』と無理矢理図書館から引きずり出されてきたのだ。
――そして。
「ごきげんよう、皆様」
開いた不気味な空間の断裂から姿を現す女が一人。
かつて、『龍』を地に引きずり落とした、料理界四天王の一人、『全てを極めしもの』八雲紫である。なお、この二つ名は、その式神である八雲藍から告げられたものだったりする。
「本日は、何やら面白い余興に招いて頂けたようで。何よりですわね」
「まぁ、これも戯れの一つよ。
それよりも、紫。あなたの席はあそこ」
「あら、館の主を差し置いて上座とは。なかなか、畏れ多いものがあるかしら」
大きな観音開きのドアに最も近い席を勧められ、紫はにこやかにそこへ腰を下ろす。
一同、待つことしばし。
「おなかすいたー」
フランドールがいつも通り、羽をぱたぱた動かして催促を始めた頃。
ゆっくりと、ドアが開いた。
「おお……!」
「なっ……!」
魔理沙が、そして、霊夢が戦慄する。
「あ、あれが……あれが、あの、三面ボスの美鈴さんだというの……!?」
「何という気の充実……! まるで、あいつの姿が何倍にも大きくなって見えるような……! 今日の美鈴はひと味違うぜ……!」
完全に気圧される二人を尻目に、彼女は二人のメイドと一緒に、何かが乗ったワゴンを運んできた。
そのワゴンの上の物体には白い布がかけられ、中身が何であるか、窺い知ることが出来ない。多分、何かの料理だと思われるのだが、匂いも全くしないのが不気味だった。
ただいまの時刻、午後の三時。
「皆様、お待たせして申しわけありません。
咲夜さん、皆さんにティーを」
「かしこまりました」
ぺこりと一礼し、咲夜がメイド達と共に一同にお茶を配り始める。まさか、あの咲夜がレミリア以外の相手にかしずくことがあるとは、とまた戦慄する霊夢達。それほどまでに、今の美鈴には何かが充実している。
これが、あの、紫に敗北したことで己を見失っていた彼女だろうかと、誰もが己の目を疑う風景だった。
「さすがだぜ……。料理界の龍の名を頂く女……! やはり、一筋縄ではいかない相手……!」
「いや、そういうの関係なしに、普通にすごいと思う」
かつて、一度だけ、彼女が一同の前にその姿を見せた『龍』の衣装に身を包む美鈴は、全員にお茶が行き渡ったところで、ワゴンの上のものをテーブルの上に乗せた。
それは、高さは二メートルほどもあるだろうか。それを載せた皿がテーブルに置かれた時の音を考えると、重さもかなりのものであるだろう。
「美鈴、これは何かしら?」
「少々、お待ち下さい。お嬢様」
問いかけてくるレミリアにそう言って、彼女は紫に向く。紫はと言うと、いつも通り、手にした羽扇子で口許を覆い、どんな表情をしているかすら、一同には悟らせなかった。
「紫さん、ありがとうございます」
「あら?」
まず、いきなり、美鈴は彼女に向かって頭を下げた。その、いきなりの行動に、魔理沙と咲夜を覗く全員が首をかしげる。
「私に何か?」
「あなたは、私に足りないものを教えてくれました。そして、そのふがいない私を、徹底的に叩きのめしてくれました。確かに、私はそれで己を見失いかけた――しかし、おかげで気づくことも出来ました」
「ふぅん?」
「私が、本当にやらなければならないことを」
「へぇ……それはそれは」
「故に、私はこれを創りました。我が師匠から、『この料理を作るのは、お前の料理人生命をかけるに値するその瞬間のみ。これの完成をもって、お前が生きるも死ぬも、全てはお前次第。一世一代の、最後の一品だ』と」
嫌でも緊張感は高まっていく。
その場にあるのは、流れから察するに、ただの料理に過ぎないはずなのだが、それでも普段の弾幕勝負など相手にもならない静寂と緊張が世界を覆い尽くす。「おなかすいたー」と喚いていたフランドールも、今はぴたりと騒ぐのをやめて、静かに事の成り行きを見据えている。
「私の料理人としての全てをかけて、紫さん、私はあなたに最後の挑戦をします」
「そう」
「しかし、これは決して勝負ではありません。あなたが私のお客にふさわしいか、そして私は、あなたに料理を振る舞う料理人にふさわしいか、あなたにご判断頂くための余興に過ぎません」
「ええ」
「では――」
お披露目を。
彼女のその言葉に従って、メイド達が『せーの!』とその布をはぎ取った。
その瞬間。
「なっ……!?」
「何ぃぃぃぃぃっ!?」
「これはっ……!」
「バカな……!」
霊夢が、魔理沙が、レミリアが、そしてパチュリーが、ほぼ同時に驚愕する。フランドールなど「わー……」と声を上げるだけで、すでに驚きを通り越した世界へと行ってしまっている。
「私の、本来の得意料理は中華料理です。
しかし、私はあえてありとあらゆる、全ての料理を学ぶことを師匠に願い、師匠は私にいくつもの奥義を授けてくれた。これは、その一つです。ある方のリクエストにお応えして作らせて頂きました。
名付けて――」
現れる、光り輝くそれは。
ただの料理に過ぎないはずなのに、世界をまばゆく輝く光で覆い尽くすそれは。
「天に向かう龍……!」
「龍の形をした……ケーキ……!」
――そう。
「名称、『龍王』。どうぞ、ご賞味あれ」
それは、どのように表現するべきだろうか。
一番下の段のケーキが土台となり、その上に二段のケーキが乗せられている。ケーキ同士を支えるのは、その間に入れられた、骨組みとしてのバーだ。
一番下のケーキは淡い色のチーズケーキ。二段目は黒色のチョコレートケーキ。そして、その上に乗せられたのは、真っ白な美しさを持ったショートケーキ。トッピングもデコレーションも、まさに素晴らしく、いずれも、見事なまでに彩られた芸術品であるのだが、さらにそこにもう一つ。
最下段のチーズケーキから最上段のショートケーキに至るまで、螺旋を描くように、金色の龍が駆け上っている。恐らく、これすらもケーキで作られているのだろう。鱗の一枚一枚すら再現された龍がチョコレートケーキの暗雲を食い尽くし、その上の天――ショートケーキへと到達せんとする、その姿は。
「う……美しい……!」
「あの布一枚で、ケーキの風味全てを閉じこめ、解放と同時に、私たちの目を、鼻を、そして口すらも虜にする魅力と破壊力を発揮させるとは……! まさか、美鈴、これほどのものとは……!」
「おいしそー……。ねぇねぇ、おねーさま! 早く食べたい!」
「いいえ……待ちなさい、フラン。これは……これほどのものは……」
「ええ……そう簡単に、私たちには手がつけられない……」
そう。これに、最初に手をつけるのは決まっているのだ。
全員の視線が紫に注がれる。
彼女は、その、全員の期待に応えるかのように、殊更優雅に立ち上がると、そのケーキの中でも、特に力の込められた『龍』のオブジェへとフォークを入れた。
ふんわりと崩れ落ち、その内側をさらす『龍』の体を目で堪能した後、静かに口の中へと運ぶ。小さくて形のいい、彼女の唇が揺れる。全員の視線が、そこに注がれる。
そして、ゆっくりと、静かに彼女の喉がこくんと動く。しばしの静寂。紫はナプキンで口許をぬぐうと、手にしたフォークを皿の上に戻した。
「美鈴」
小さなつぶやきと共に、彼女は振り返り。
――そして。
「よく頑張ったわね」
満面の笑みを浮かべた。
「……それは……!」
「正直、あなたの話を聞いていたときは不安だったのよ。あなたはいずれ、戦いに敗北することは確実だった。本来、あなたが目指すものを目の前にしながら、しかし、あなたは道を違えていたから。
だから、あえて思い知らせる必要があった。あなたが本来――そして、かつて、料理界の修羅達を退けていた、あの頃のあなたを。
……もっとも、私の復讐も、本来的目的の中には入っていたのだけど……ね?」
その視線を、偉大なるケーキへと。
「これをあなたに授けた師匠というのは、さぞかし、立派な人物であり、偉大な料理人だったのでしょうね。私が負けるはずだわ」
「……はい……!」
「見事よ、美鈴。あなたの技術は、未だ成長途中にありながら、しかし、ある種、完成されている。あとは、あなた次第。この先、この八雲紫すら打ち破る力を身につけるか、もしくは――」
「……もしくは、私が信じた道を行く、ただ一人の料理人となるか」
「その通りね。
まぁ、あなたがどちらを選ぶかは、もはや言うまでもないことだけど。
美味しい料理をありがとう、美鈴」
その後は、もはや、美鈴にとっては声にならなかった。
あふれた涙が服を濡らす。駆けつけた咲夜が、声にならない言葉と共に彼女を抱きしめて、互いに喜びを分かち合う。
「んじゃ、私たちも頂くとするか」
「そうね……でも、どこから手をつけたものか……」
「あら、そんなもの、どこからでもいいじゃない。きっと、どこからでも美味しいわ」
「うん、これ、すっごくおいしー! 甘くておいしー!」
「……体重とか、ダイエットとか。この際、気にしなくてよさそうね。
……うん、美味しいわ」
その喜びが伝わったのか、いつの間にか、ドアの向こうには紅魔館で働くメイド達の姿もあった。彼女たちにレミリアが「あなた達も食べなさいな」と言ったことから、瞬く間に室内は人で埋まり、皆、美鈴のケーキに舌鼓を打つ。
「さて」
その、にぎやかな場に、紫は背を向けた。
「おめでとう、美鈴。
私の復讐はなされたことだし、敗者は潔く姿を消させてもらうわ。また、いつの日か」
そうして。
彼女は、何の気配も音も残さず、その場を立ち去った。それに気づくものはなく、その場にこだまするのは『美味しい』の言葉だけ。
泣き笑いの美鈴と、涙が止まらない咲夜の二人を中心に、その日、紅魔館は、これまでで最高のディナーへと、そのまま、流れていったのだった。
『本日から、レストランサービス、再開致します』
紅魔館の門前に、その告知が出たのが、それからすぐのこと。
いつにもまして、大勢の客が訪れ、たくさんの注文が入るようになった紅魔館へと、「取材したいのですがー」と天狗の記者が足を運んできた。
「やーやー、どうもすみません。お忙しい中」
「まぁ、別に構わないけれど。
それで、何? 今はランチのメニューをこなすので大忙しなの。手伝ってくれるのなら、より長く、詳細に、インタビューには答えてあげるわよ」
片手にフライパンを持って、咲夜がそれに返す。
その、なかなか痛烈な嫌味に、天狗の記者――文は、あっはっは、と笑いつつ、
「えーっとですねー。
出来ることでしたら、美鈴さんが、どうして料理を再開することになったのか。それから、彼女が料理人を目指した理由。その二つについて、お教え願えればと」
「どうして私なの。本人に聞けばいいじゃない」
「忙しそうですので」
燃えさかる中華鍋を片手に操りながら、「そっちの材料をこっちに回してくださーい」と、咲夜を上回る忙しさの美鈴を見て、文。なるほど、と咲夜はうなずいた。
「ええーっ!? 十七番の注文用にキープしておいたお皿がないー!?」
「ちょっと! 何でキャベツと大根が品切れになってるの!?」
「あ、ちょっと! 誰よ、このお肉買ってきたの! これ、傷んでるじゃない!」
「げげっ! しょうゆがないっ!?」
などなど。
いつも通り、トラブルも絶えない紅魔館の厨房は、今日も注文をこなすので大忙しだ。
「そうね……。
美鈴が料理を作ることを志した理由を知れば、自ずと、それには答えが出てくるのではないかしら」
「と、言いますと?」
「彼女はね、ただ、自分の料理で、みんなに『美味しい』って言ってもらいたいだけなの。それ以外に、どんなものもいらないのよ。名声も、地位も、何もかも。
それだから立ち直ることが出来たし、彼女を認める人たちがいたから料理人になることも出来た。過程に結果がついてきただけの話」
「なるほどー。含蓄深いお言葉です」
「それじゃ、手伝ってもらうわ。あなた、幻想郷最速なんでしょう? あっちにある、四番と九番の料理を配達してきてちょうだい」
「げっ。何で私が……」
「情報料よ。黙って行きなさい」
「……何か騙されたような気がしますね……」
しかし、取材に答えてもらったことは確かなので、渋々、文はそれに従った。「途中でこぼさないように」と咲夜に釘を刺されてから、彼女は幻想郷の空へと舞い上がる。
「美鈴」
「は、はい! 何ですか、咲夜さん! レシピでしたら、先日、考えた通り……」
「そうじゃなくて」
「ふえ?」
「これから、もっと、お客が増えるようにしてあげたわ。だから、もっと頑張りなさい」
「……へっ?」
その言葉にきょとんとなる美鈴に。
さあ、もっと注文は増えるわよ! と、咲夜は笑顔ではっぱをかけたのだった。
「ところでさ、紫」
「ん?」
「結局のところ、あんたは何しに出てきたわけ? 復讐だとか何だとか」
「たまには、藍が作る以外の料理も食べたかった――それだけよ」
「にしちゃ、何か含むところがあるんだよな。お前、結局、何がしたかったんだよ」
「さあ? 私はちゃんと、あの場で私の目的を全て語ったつもりよ」
博麗神社の縁側で。
いつも通り、巫女がお茶をたしなみ、魔法使いがそれのご相伴にあずかっていると、隙間から妖怪が現れた。そのまま会話は流れからあの日の事へとさかのぼり、その妖怪――紫は、何となく、という意味の答えでお茶を濁す。
「こんにちはー! 紅魔館レストランサービスでーす……って、ありゃ。九番って霊夢さんの注文だったんですね」
「おー、きたきた」
「んー? 何だ、ブン屋じゃないか。どうしたんだ、一体。ついに新聞屋は廃業か?」
「いえ、ちょっとありまして。
それじゃ、確かにお届けしましたのでー!」
「さんきゅー」
さーて、ご飯だご飯だ、とうきうき笑顔で霊夢が受け取ったのは特製チンジャオロース。肉が入ってなくてもチンジャオロースと言う代物である。
「あんたらにはあげないわよ」
「別にいらないぜ」
「そうね。それに、私、今夜、あそこに予約をしているから。楽しみだわ」
「うーわ、むかつくし」
「……そう。楽しみよ、今から」
「んー?」
「それじゃ、私は帰るわね。霊夢、わびしい食事に愛想が尽きたらうちにいらっしゃいな。一生、三食おやつつきで養ってあげるわよ」
「飼い殺しは結構」
「それは残念」
開かれた隙間の向こうへと、紫が姿を消して。「さて、私も昼飯にするか」と魔法使いが空の向こうへと去っていって。そして巫女は、「好きでわびしい食事してるんじゃないやい」と愚痴をつぶやく。
いつも通りの幻想郷の風景が、そこに戻ってきた。
少しだけ、それが今までと違うのは、幻想郷に、また新しい『何か』が加わっただけ。
そう。
この世界は、いつだって、その程度。
広い世界の中で、また何か、新しいことが起きて変わっていく――それだけの世界なのだから。
「おおーっ! 美鈴さん、ありがとー! お肉が入ってたー!」
だから、今回のお話は、これにて終幕。
また次の一幕を、どうか、そのままの姿でお楽しみに。
こちらを食される前に、この作品集『天より暗闇へ』を事前召し上がると、より一層、深みのある味になるかと思われます。
では、メインディッシュとデザートを兼ね備えた本作、どうぞご賞味あれ。
「やーっぱりでかでかと特集記事になってるわねー」
「それどころか、一面のみならず、二面三面四面五面六面……あいつ、ちゃんと新聞を作る気があるのか?」
「しかも何これ、『号外EX記事』って」
空を飛び回る幻想郷の新聞屋さん(仮)は今日も大忙しだった。定期購読なんて申し込んでないわよ、と神社の巫女は言ったのだが、「いいえ、霊夢さんはこれを読むべきです。読むべきですと言ったら読むべきなんです、わかりますか? つまり、読まざるもの、新聞の神の鉄槌を受けるべしなんです」と無理矢理に押し付けていった。一体何が言いたかったのか、勘の鋭い彼女であってもその言葉から意味を察することは出来なかったが、まぁ、ともあれ。
その新聞――『文々。新聞』の一面を飾った見出しがこれである。
『料理界の龍、敗れる!』
よくもまぁ、これだけセンセーショナルなように見えて微妙な見出しを考えつくものである。
「しかし、えらいことになったもんだぜ」
「そう?」
「ああ、そうだ。これで、料理界には大波乱が巻き起こるぞ。あの、今に至るまで正体不明と言われていた四天王の最後の一人が正体を現し、さらに、食神山すら制覇した『龍』が地に落ちた――これを見て、料理の王――料理神がどんな判断を下すか、見物だぜ……」
「……誰それ」
「何だ霊夢、知らないのか。いいか? まず、料理界というのはだな――」
と、何だかよくわからないことを延々語り始めた友人を尻目に。
彼女は一人、空の彼方を見やる。
「……まぁ、こんだけ取り上げられちゃったら、彼女も大変ねぇ」
とだけつぶやくと、「そこから、料理界は幻想郷の中で確固たる地位を抱くに至ったんだ。そして、私たち、料理の修羅達は、そんな開祖達の遺志を継いで、この世界をより発展させようと誓ったんだが、そこには色々と問題があった。つまり――」と語っている魔法使いを無視して、境内の掃き掃除を再開したのだった。
なお、彼女の語りが終わったのは、もうすでに夕暮れを遙かに過ぎた頃と付け加えておこう。
――さて。
「……」
「あの~……メイド長……?」
「あの天狗を殺した場合、温情はもらえるのかしら……?」
「わーっ! 誰か、メイド長を止めてー!」
「目が、目がマジよー!」
「お嬢様呼んできて、お嬢様!」
「我が身を呈して、この危機を乗り越えてこそ勇者! 勝負です、メイド長きゃぁぁぁぁぁっ!?」
「何か館の中が騒がしいわね」
「騒がしいわね」
「何があったのかしら」
「何があったのかしらね」
と、全く階下の騒ぎを気にすることもなく、ティータイムを楽しんでいるのは、紅の館の館主、レミリアとその友人であるパチュリーである。両者が手にしているティーカップには『お嬢様専用』だの『パチュリー様用』だのと文字が模様となって描かれている。
「それにしても、面白い見出しの新聞が出てしまったこと」
「どうするの? レミィ」
「何が?」
「これで、我がレストラン『紅魔館』は廃業の危機に追い込まれてしまったわよ?」
「……ねぇ、パチェ。わたしね、時々……っていうか、今になって気づいたんだけど、何か間違った道進んじゃったかしら?」
「何を今さら」
あっさりと即答されて、レミリアが沈黙する。
その微妙な沈黙を、こほん、と彼女は咳払いをして打ち破ると、手にした新聞の紙面をテーブルの上に広げる。
「しかし、まさか、あのぐーたら妖怪がこれほどまでに腕の立つ相手だとは思わなかったわ」
「完全に、美鈴は塞ぎ込んでるし。厨房に立てなくなった料理人は料理人とは言わない、とはよく言ったものね」
それは当たり前なんじゃなかろうか、とレミリアは思ったが、とりあえず口に出すことはやめたらしい。
「どうしたものかしら」
「まぁ、放っておいてもいい問題だとは思っているけれど」
「あら、珍しい。どうしてかしら? いつものレミィなら『この程度で塞ぎ込むような奴は紅魔館にいらない』って私のハートをブレイクさせそうなものなのに」
「人を分別のない破壊魔みたいに言わないでちょうだいな」
「違ったの?」
「…………」
再び、容赦ない沈黙。
今度はさすがに復帰に時間がかかったらしく、レミリアが忘我の淵から帰ってきた時には、手にした紅茶がすっかりと冷めてしまっていた。
「え、えっとね……」
こめかみ押さえつつ、何とか色々なものをこらえながら、
「その……料理人のプライドというのかしら。それはわかっているつもりよ。恐らく彼女のそれは、五百年を生き続けた吸血鬼たるこのわたしのそれよりも、遙かに気高く崇高だと言うことも」
「それはそれで何か問題があるような気がしないでもないけど」
「それはそうだけど……って、パチェ。何か冷めてない? ツッコミが厳しいわよ?」
「正直、どうでもいいもの」
ああ、もう、とため息を一つ。
この友人は、自分の興味の向くことに対してなら、どんなバカよりもバカになれるというのに、それ以外の事柄に関しては常にこれなのだ。浮き世じみているというか、単に世の中なめているというか。
ともかく、何とか彼女を話に乗ってこさせねば。
レミリアは一息ついて、口を開く。
「だからね、わたしが思うに、美鈴がこのままならこのままでもいいと思うの。第一、彼女の役目は、本来は門番。それなのに、その腕を見込んだから厨房に入れてあげただけで。これはある意味、本来の鞘に戻ったと考えるべきだわ」
「そうね」
「そこで彼女が復帰するも、このまま大地に倒れているも、それは彼女の自由。
何せ、わたしがそこまで気を遣わないといけないほどのものでもないもの。門番なんて、しょせん、一山いくらでそろえられる程度のものなのだからね」
「そうね」
「だから、ほったらかすことに決めたのよ。
……まぁ、それに、彼女なら、自分が何としてでも取り戻したいものがあるなら勝手に立ち直るでしょ」
「そうね」
「それで……」
「そうね」
「ねぇ、パチェ」
「そうね」
「あなた、本気でわたしの言うこと無視してるでしょ?」
「そうね」
「……………」
もうやめた。
レミリアは大きなため息をつくと、手にした魔法書に読みふけっている友人をその場に置いて、「フランの顔でも見に行こうかしら……」と部屋を後にしたのだった。
「隊長」
背中からかけられる声に振り返れば、そこには門番隊に所属するメンバーが一人。彼女は、心配そうな瞳を美鈴へと向けていた。
「大丈夫ですか? 気落ちしないでくださいね」
「うん……ありがとう。
大丈夫、私は元気だよ」
「でも、先日の魔理沙さんの襲撃の際、普段ならマスタースパーク一発十五秒で復活するのに、一分近くかかってましたし……」
「あれはその~……ちょっと、HPの回復が遅れただけだから」
「それでなくても、メイド長のナイフ投擲で医務室に担ぎ込まれる隊長なんて……」
そもそも、それはそれでしっかりと『当たり前だろ』とツッコミを入れたくなるのだが、事、美鈴に関してはその常識は当てはまらないらしい。
心配そうに自分を見てくる彼女に「大丈夫だから」と作り笑いを浮かべて、美鈴は一人、気丈に門の前に立つ。
「はぁ……」
そして、視界から彼女が消えれば、またため息が一つ。
――紅魔館の門の脇に出されている看板が一つ。
『しばらくの間、諸事情により、レストランサービスは休業致します』
それを見ていると、何だか情けなくて涙が出てきそうになる。
先日の紫との料理勝負で完膚無きまでに敗北して以来、どうしても包丁を握ることが出来ないのだ。鉄鍋を取ろうとすれば、そのあまりの重さにそれを取り落とし、フライパンを握れば躊躇し、上の食材を焦がしてしまう始末。
あれ以来、すっかり、彼女は意気消沈してしまっていた。
気を操る力を持った妖怪は、殊更、『気』に関しては敏感であるようだ。それ以来、すっかりと色々なものが抜け落ちてしまい、覇気を失ってしまった美鈴は、レミリアをして『かかしの方がまだマシ』と言わしめるぐらいに見る影もない。
彼女と咲夜を中核としてやってきたレストランサービスも、すっかり開店休業状態。それはそれでどうでもいいだろ、とツッコミをしたメイドは容赦なく咲夜にお仕置きされていたりするのだが、それもともあれ。
「何度も何度も、勝っては負けてを繰り返してきたけど、さすがにこの前のはこたえたなぁ……」
自分と全く同じ料理を作ってきて、それなのに、審査員達を虜にした紫の手際には見事と言わざるを得ない。彼女が抱えてきたプライドなど、全てを木っ端微塵に打ち砕かれたのだ。まだまだ紫に自分は届かず、それを彼女はいやというほど教えてくれた。
いちいち、一度や二度の敗北で落ち込んでいてはどうしようもないのが、彼女の知る料理界なのだが、今回のはそう言う問題ではない。たとえるなら、魔理沙がついに霊夢に人気投票一位の座を奪われたような、そんなダメージがあったのである。
「どうしよう……」
一人、うずくまって『の』の字を書く。すでにその数は百を超え、紅魔館の周りが『の』で埋め尽くされ、「あなた、紅魔館に恨みでもあるの?」とレミリアから蹴り食らったのだが、彼女はそれを忘れているらしかった。
「やっぱり……私は間違っていたのかなぁ……」
紫の料理からは、自分を叩きのめすという意思が鋭敏に伝わってきた。
美鈴が目指したのは、誰もが『美味しい』と笑って食べてくれる料理。みんなが笑顔になって、場の雰囲気を和ませるような、そんな食事を目指して頑張ってきたのだ。当然、料理勝負であろうとも、それは同じ。最後の最後には、自分の信念にかけて勝負に挑んできた。だから勝てたと言っても過言ではない。相手を叩きのめすのは料理ではない。それはただの戦いの道具だ。
美味しい食事もそんなことでは美味しくなくなってしまう。だから、彼女は戦いの場から身を引いていたというのに。
「……はぁ」
またため息を一つ。
「こんな時、皆さんならどうしていたんでしょうねぇ……」
これまでに打ち破ってきた料理人達は、皆、戦いが終わった後に自分のように落ち込んだりはしていなかった。きっと、それは、そこに何か学ぶものを感じ、より一層の向上心に燃えてしまったからなのだろう。
美鈴の場合は、それがない。
今までの人生全てが否定されたと言っても過言ではないのだ。さすがに、これほどまでのダメージを受けてしまえば立ち直ることは容易ではなかった。
「何かこの頃は魔理沙さんも気を遣って『図書館に用事がある』って言ってくるし……。ああ、私、どうしたら……」
――この頃の日課となったネガティブモードを発動させると、美鈴は一人、いじいじといじけ続けるのだった。
「それでは、第一回、めーりんねーちゃんを励まそうの会、作戦会議を始めまーす」
おー、とぱちぱちと拍手が上がる。
演壇代わりの石の上に上がって、氷の妖精、チルノが一同を一瞥する。
「で、誰かいい案、ない?」
「チルノ、そういうのは自分で考えておくもんじゃないの?」
なぜか強制的にその場に引っ張ってこられたリグルが肩をすくめてコメントすると、チルノは「何よー」となぜかほっぺた膨らませた。
「仕方ないじゃん! あたいが何かしても『ありがとう』ってしか言ってくれないんだもん!」
「いや、私に八つ当たりされても……」
「ルーミアだってそうだよね!?」
「うん。あんなお姉ちゃん、見ていたくないなー」
「ほらどうだ!」
「いや、どうだって……」
助けを求めるような視線を、自分の隣に座って「今月の屋台の営業……うあー、赤字だー……」と呻いているミスティアに向けるリグル。彼女のその視線に気づいたのか、ミスティアもぱっと視線を上げると、
「っていうかさ、そもそも、何で私たちが集められなきゃならないわけ? チルノちゃんや」
「だって、ここにいるみんなに頼るのがいいよ、って大妖精が言ったんだもん」
「その大妖精は?」
「何かよくわかんないけど、『料理界に伝わる文献を探しに行ってくる』とか何とか」
「……ねぇ、ミスティア。私ね、前々から気になってたんだけど……大妖精って何者?」
「さあ……。確か、料理界において八つの柱の一つに数えられている兵、と言う以外には……」
「……そーなのかー……」
「リグルー、それ私のセリフー」
横手からルーミアが文句を言う。
しかし、文句を言われても、という視線をリグルが向けると、ぷんすかとふてくされていたルーミアがチルノに視線を戻す。
「ねぇねぇ、チルノちゃん。みんなで集まったんだから、このままお姉ちゃんの所に行こうよ」
「んー……。
でもさぁ、今、あたい達が行っても何も出来ないと思うんだ。何かいいのがあれば、きっと、ねーちゃんも笑ってくれるんだろうけど……」
「難しいねー」
「うん」
「気が合うのね、この二人」
「っていうか、ちびっこだからね」
ちびっこは、無意識のうちに優しい人を感じて、その相手に懐くと言うが、なるほど、どうやらその言葉は間違っていなかったようである。
「しかし、美鈴さんねぇ……。あの人、そんなに凄い人だったのね」
「と言うか、料理界の人なら知らない人はいないんじゃない? いや、私は違うけど」
「正直、私はどうでもいいとは思ってるんだけど……」
「何だとリグルー!」
「そーだそーだー!」
「この二人にせっつかれたらどうしようもないからね」
どこか、疲れたような、それでいてどこか楽しそうな笑みを浮かべて、リグル。その気持ちわかる、とミスティアが首を縦に振って、「それじゃあさ」と指を立てる。
「ここは、幻想郷の知恵袋に、いい知恵を授けにもらいに行こうじゃないか」
「誰?」
「んー……慧音さん辺りがいいかも」
「あとは、あれ。誰だっけ。竹林の……」
「えーりんおば……」
その一言を口に仕掛けたルーミアが、びくっ、と背筋を震わせる。
「え、えーりんおねーちゃんだね!」
何か嫌な汗だらだら流しつつ、辺りをきょろきょろしながら自分の発言を訂正。と言うか、ルーミアの、その命知らずの一言が発せられた瞬間、その場にいた四人全てが背筋に刃物を押し当てられたかのような寒気に襲われていたりする。
「よ、よし! それじゃ、まずはけーねんところにいこう!」
その嫌なものを払拭するためか、顔を引きつらせたチルノが真っ先に飛んでいく。置いていかないでー、とルーミア。
「……何だったの、今の」
「き、気にしちゃダメ……なんじゃないかなぁ」
死の淵を覗いて生還しました、という雰囲気を漂わせながら、残り二人がそれに続く。
ともあれ、四人は空をふわふわと飛び、人間の里を目指す。それが目に入る距離に辿り着くと、「じゃ、私が呼んでくるよ」とミスティアがすたすたと歩いていった。これは風の噂なのだが、最近、彼女の屋台には人間も普通に訪れるようになっているらしい。真実は、未だ闇の中ではあるが。
里の近くの林に降りてしばらく待っていると、ミスティアに連れられて慧音がやってくる。
「よく、私がここにいることがわかったな」
「それはまぁ……チルノの勘?」
視線をやれば、絶対よくわかってない顔でチルノが首をかしげていた。
それはともあれ。
「それで? 私に用事とは何だ? お前達」
威風堂々、腕組みして見下ろしてくる彼女に、まず言葉を発したのは、やはりチルノだった。
「めーりんねーちゃんに元気を出してもらう方法を教えて!」
「……は?」
いきなりそんなことを言われても、と一同を見るのだが、「つまりね」とリグルが口を開くまでは、これと言った事情説明はなされなかった。
彼女の話を聞いて、なるほど、と慧音はうなずく。
「確かに。先の新聞のことなら、私も読んだよ。
それで、彼女が落ち込んでしまっているから何とかしてあげたい、か」
「そういうこと! 何か教えなさいよ!」
「まあ、待て。そんなに急に言われても、いきなり名案が浮かぶほど、私は徳を積んできているわけじゃない。
しかし、彼女は幸せだな。誰かに好かれているというのはいいことだ」
やれやれ、と肩をすくめて、慧音。
「さて、彼女に元気を出してもらう方法についてだが。
お前達、何か、それに関して心当たりはあるのか?」
「ないよ。だから聞きに来たんじゃん」
「そうだよー。何か教えてよ、けーねおb……おねーちゃん」
またもやよけいなことを口に仕掛けたルーミアが押し黙る。慧音も大人げない視線をちびっこに向けていたのだが、その一言で「そうだな」とつぶやきながら視線を逸らす。
「……ルーミアってさ、絶対、意識せずに敵を増やすタイプよね」
「純粋ちびっこ、恐るべし……」
敵も多いが味方も多い、というのはまさに彼女のためにある言葉なのかもしれなかった。
「せっかくだから、彼女に料理をごちそうになりにいくというのはどうだ?」
「あー、慧音さん。屋台の客から聞いたんだけど、彼女、今、包丁も持てない有様らしいのよ。それは難しいんじゃない?」
「それもそうか。しかし、彼女はお前達が自分を慕っているというのはわかっているのだろう?」
「……どうなんだろう。あたいが勝手に押しかけてるだけだし……」
「うん……」
「そういうのを『慕っている』と言うし『慕われている』と言うんだ。彼女も、そんな程度のことに気づかないほど、鈍感ではない」
「じゃ、どうすればいいのよー」
「そーだそーだー」
話をもったいぶった方向に持って行って、なかなか本題に入らない慧音に向かってちびっこ二人がぶーぶーと不満の声を上げる。その二人に、『まあまあ、落ち着け』と言わんばかりに、
「そこでだ。
お前達だって、彼女が好きなんだろう? それなら素直にそう言えばいい。お腹空いたからご飯を食べさせて、とな。
そうしたら、彼女だって鍋を手に取るだろう」
「どうしてそう言い切れるの?」
「そうだな……。腹を空かせた子供に頼まれたら、どんなものだろうとも、いかなる理由もなく食事を作ってやりたくなる」
「ぶー」
「あたい達を子ども扱いすんなー」
ほっぺたを膨らませて反論する彼女たちに、「それじゃ、私は里に戻るよ」と言い残して、慧音は踵を返した。その後ろ姿が見えなくなるまで、「子供っていうなー」と二人は文句を言っていたのだが、やがて慧音の姿が見えなくなると、ころっと掌を返してリグル達に振り返る。
「よしっ、じゃあ、ねーちゃんのところに行こう!」
「いこー!」
「慧音さんの言葉、信じるの?」
「そうそう。案外、口から出任せを言っただけかもよ?」
「ふーんだ。もしもそうだったとしても、あたいがねーちゃんを何とかするからいいんだもーん」
「そーだそーだー。私も頑張るからいいもんねー」
やれやれ。
結局、慧音に話を聞きに来る必要はなかったのではないだろうか。
これだから子供という奴は手がかかる。どんなにお膳立てをしようとも、大人の考えることと子供の考えることとは、そもそも根本部分からして違っているのだから。しかし、それ故に、子供は強いとも言える。
こうやって、何のしがらみもなく、真正面から相手にぶつかっていけるのは子供故の強みだな、と。
「仕方ない。じゃ、我々もお供しますか」
「右に同じく」
それなら、私たちも付き合わないとダメかな。
リグルとミスティアは顔を見合わせ、『お互い、苦労するね』という表情を浮かべたのだった。
さて、所変わって紅魔館。
今日も館は忙しい。『あの、レストランの予約の方は――』『すいません、出前サービスの方はやってないのでしょうか?』などなど。
そうした問いかけをしてくる客が山ほど、あれからやってくるのである。
彼らに『申し訳ございませんが』と断りを入れるのはメイドの役目。レミリア曰く、「彼らは大切なリピーターなのだから。しっかり確保しておきなさいな」ということらしい。この館は悪魔の館として恐れられていたんじゃなかったのか、と誰もがそれに対してツッコミを入れようとしたのは言うまでもない。無論、実行に移したらどんなお仕置きを食らうかわかったものじゃないのだが。
そんな中、一人、事の中心にいる人物はと言うと――。
「美鈴さま、お茶をお持ち致しました」
「あ、はーい」
門番隊の詰め所の一角にある彼女の部屋。そこで、今朝の仕事を終えて休憩をしていた美鈴の元にお茶を持ったメイドが現れる。
ただし、そのメイドはと言うと――。
「あ、さ、咲夜……さん」
「全く。軽く声音を変えてみたとはいえ、私だと言うことにすら気づかないとはね」
心外だわ、と言いたげな表情で佇む十六夜咲夜女史。片手にはお茶の入ったティーカップが載ったトレイがある。
彼女は、美鈴の返答も待たずに部屋の中に上がると、テーブルの上にティーカップを置く。中に入っているのは紅茶ではなくハーブティーだ。
「あ……どうもありがとうございます」
「別にいいのよ。こう言うのも、私たち、メイドの仕事。門番が館を守るのが仕事なら、そうしたもの達を気遣うのもまた、私たちがやるべき事だから」
「そうですか……。それじゃ、ありがたくちょうだいしますね」
「その前に」
カップの取っ手に指をかけた美鈴を制して。
「あなたは役目を果たしているの?」
「え?」
「あなたは、本当に、自分の役目を果たしていると、胸を張って言えるの?」
「い、言えますよ? ちゃんと、今日も侵入者は……」
「そういうことを言ってるんじゃないの。
いえ、本来ならそれでいいのだけど。でも……今は違うでしょ?」
「……それは……」
失礼するわね、と椅子を出してきて、彼女は美鈴の前に腰を下ろす。そして、テーブルの上に頬杖をつきながら、じっと相手の顔を見据え、口を開く。
「本当にいいの? このままで」
「……その……」
「確かに、私も、お嬢様の突飛な考えには閉口したし、何かよくわからない現実に触れて、色んな意味で幻想郷に恐れをなしたわ。それでも……それでも、私はあなたの料理、好きよ?」
「……」
「本当に、このまま終わってしまっていいの?
たった一回、負けただけじゃない。それなのに、どうして、あんなに好きだった料理を忘れてしまえるのかしら。私にはわからないわ」
皮肉めいたその一言に、美鈴が悔しそうに唇をかみしめる。そんな相手の様子をあえて確認しながら、咲夜は続ける。
「みんな言ってるじゃない。あなたの作った料理は美味しい、って。
私だって、そりゃ、自分のものに自信はあるけれど……正直、あなたにはかなわないって思う。それは、単純に味とか技術とかの問題だけじゃなくて……心構えって言うのかな。そういうのが。
何をバカなことを、って笑わないでね。私は本気でそう思ったんだから。
あなたのやろうとしている、『みんなが笑顔で食べてくれる料理を作る』ということは、決して悪い事じゃない――むしろ、それは正しい事よ。誰だって、美味しい料理を食べたら笑顔になる。どんな諍い事があっても忘れられる。作り手が真剣になって出してきたそれを、真剣に食べて、そして真剣に喜ぶのよ。
あなたはそういうのを目指していたんじゃなかったの? あなたの料理を待ってくれる人たちに、そんな風にして食べてもらいたいから……料理を、あなたの心の代弁者としたいから、一生懸命、それを学んできたんじゃなかったの?
何よ、たった一回負けた程度で。私は……、私は……その……あなたが何回負けようとも、あなたの料理がどれくらい否定されようとも、応援し続けてあげるから。
だから……しっかりしてよね」
最後には、言葉は徐々に消えそうなくらいに小さくなっていって、頬も赤く染まってくる。ぷいっと逸らした横顔が、どこか可愛らしく見えるくらいに。
うつむいていた美鈴が、そっと視線を上げて、そんな彼女の顔を見る。
「……あなたの技術、まだ教えてもらってないわよ、私。それに、お嬢様も、フランドール様も、パチュリー様も、またあなたの料理を食べたいって言ってるの。もちろん……私だって。
あなたが私のために作ってくれたケーキ……すごく美味しかったから。あれで太っちゃったのよ、責任取りなさいよね」
「……その……」
「あなたの作る、もっともっと美味しい料理、一番最初に食べるのは私なんだから。せっかく予約してあるんだから、せめて、その予約を消化してから包丁は置きなさい」
わかった? と、最後はほとんど逃げるようにして言い放つと、顔を完熟トマトより真っ赤にして席を立つ。逃げるようにして彼女の部屋を後にしようとする咲夜だったが、ドアに手をかける直前、それが思いっきり内側に開いてきた。間一髪のところで顔面への直撃は避けたが、勢い余ってしりもちをつく。
「いったたた……」
「……メイド長、ツンデレのみではなく、ドジっ娘属性までも完備するとは……恐ろしい子……!」
何かよくわからないセリフをつぶやくメイドがその前に立っていた。
そして、彼女が連れてきたもの達はと言えば。
「めーりんねーちゃん、おーっす」
「おねーちゃん、こんにちはー」
「チルノちゃん……ルーミアちゃん……」
「いや、どうもどうも。お邪魔しますよ」
「すいません、急に押しかけて」
チルノを筆頭とした『めーりんねーちゃんを励まそうの会』の面々だった。と言っても、実質的メンバーはチルノとルーミアだけだったりするのだが。
「ねー、ねーちゃん。あたい、お腹減ったー」
「私もー。おねーちゃん、お昼ご飯作ってー」
「え? あ、あのね、二人とも。私は……」
「まぁ、いいじゃないですか。美鈴さん。ちびっこがそろって『お腹減った』ってぴーちく鳴いてるんですから」
「作ってあげても罰は当たらないと思いますよ」
「ちびっこって言うなー!」
「そーだそーだー!」
事態が理解できず、目を白黒させる美鈴にミスティアとリグルが追い打ちを入れた。その二人のセリフに、『私の立場がないじゃない』とぶつくさ文句をつぶやく咲夜。ちなみに、ぺたんと床の上に座り込んだままだったりする。
「……でも……その……」
「めーりんねーちゃんの作ったご飯、すっごい美味しかったからさ」
「おねーちゃん、お腹空いたよー」
「……二人とも……」
美鈴の頬に、伝う涙が一筋。
その視線は、続けて、たまたまこちらを見ていた咲夜の方に向いた。両者の視線が重なり、咲夜はあっという間にそっぽを向いてしまう。
「……」
――己が目指したものがそこにあるというのなら。
「私は……」
――私の目指した『もの』がここにあるのなら。
「……私が……」
静かに、美鈴が立ち上がる。
「……私のご飯でいいの?」
「うん!」
「やったぁ!」
はしゃぐ二人を見て、ミスティア達も『やれやれ。これで肩の荷が下りたかな?』という表情で笑いあう。一方の咲夜は、『何か、立場がないわね』とちょっぴり寂しそうに肩を落としていた。そんな彼女に、「メイド長、恋の道は長く険しいものです」とよけいな励ましを入れたメイドの顔面に刃先を丸めたナイフが直撃したのだが、それはともかくとして。
「いいよ……じゃ、今から作るから。おいで」
「やったやった、ご飯だご飯♪」
「おねーちゃん、私、大盛りー」
「はいはい」
ちびっこ二人に急かされて、美鈴は苦笑しながら部屋を後にする。
その後ろ姿を見送って、さて、と、
「んじゃ、私たちは帰りましょうか」
「そうね」
「けど、うちの屋台、今月赤字なのよねー。リグル、協力してよ」
「無茶言わないで。私に出来ることと言ったら、せいぜい、虫たちの合奏くらいなものよ」
早々に退散するべく踵を返したりする。
そんな彼女たちに「待ちなさいよ」と咲夜が声をかけた。
「はい?」
「……正直、納得のいかない展開ではあるけれど、仕方ないわ」
ようやく立ち上がり、お尻をぱんぱんとほろいながら、こほんと一つ、咳払い。
「……ありがとう。美鈴がこれで立ち直ってくれるなら……私も、とっても嬉しいわ」
「いえいえ」
「私たちは何も」
「ミスティア、あなたの屋台に、今度、メイド達を連れて行くから。美味しいお酒をご期待するわね」
「そりゃどうも。ご予約、入れておきますよ」
「やったじゃない」
「まぁ、これで収支はプラマイゼロかな」
――本音を言えば、本気で納得のいかない展開ではあった。
ミスティア達を送り出すよう、倒れて痛みにのたうち回っていたメイドに命じて、咲夜も厨房へと足を向ける。
「……美鈴を元気づけるのは、私の役目だったはずなのに」
しかし、結局、彼女だけでは足りず、美鈴を慕うちびっこ達の後押しがあって、ようやく、美鈴は重い腰を上げたのだ。言い方を変えるなら、もう一度だけ、厨房に立ってみようと言う気になったのである。
思い人のことは、何があっても支えてあげたいと思う反面、まだまだ、私にはその辺りのイロハが足りないのかな、と思って。
少しだけ、咲夜は肩を落としたのだった。
「そう……私が目指すものは、ただ一つ……!」
厨房にこもる美鈴の瞳に炎が点る。
背中に浮かび上がる『龍』の姿。かつては地に落ち、土にまみれたそれが、今、再び昇竜となって天を貫かんと、雄々しく身を起こす。轟く雄叫び、響く雷鳴。そして、大いなる暗雲を貫き、金色に輝く龍が空を目指して突き進む。
「私が信じた、この道のみ!」
彼女の両手が真っ赤な炎を宿し、全ての料理器具の上で舞い踊る。
ありとあらゆる食材を選び抜く舌と経験と瞳が輝きを発し、それらを彩るべく、燃えさかる両手が残像すら描く。
その姿を見たレミリアは、後にこう述懐す。
「どうやら……このわたしの五百年の歴史は、そう大したものではなかったかもしれないわね……」
戦慄する紅の吸血鬼にすら気づかず、『龍』が猛々しく空を駆けめぐった。
自らに出来る全てを、今、ここに。
彼女の持てる技術と経験と、そして料理にかける『思い』の丈をぶつけるために。
「見ていてください、皆さん!」
そして、その両の眼が見つめるものが、また一つ。
大切な人の、小さな小さなリクエスト。それに応えるべく、荒々しくも繊細に指先が駆け抜けて。
そして、その叫びが、厨房にこだまする――。
「今回は、別に料理勝負とかじゃないのね」
「どうやらそのようだな」
その日。
紅魔館の食堂にはいつものメンバーの姿があった。
霊夢と魔理沙は当然として、レミリアにフランドール、普段は『どうでもいい』という立場を崩さないパチュリーまでがいる。ちなみに彼女、その後ろに控えている咲夜に『絶対来てください』と無理矢理図書館から引きずり出されてきたのだ。
――そして。
「ごきげんよう、皆様」
開いた不気味な空間の断裂から姿を現す女が一人。
かつて、『龍』を地に引きずり落とした、料理界四天王の一人、『全てを極めしもの』八雲紫である。なお、この二つ名は、その式神である八雲藍から告げられたものだったりする。
「本日は、何やら面白い余興に招いて頂けたようで。何よりですわね」
「まぁ、これも戯れの一つよ。
それよりも、紫。あなたの席はあそこ」
「あら、館の主を差し置いて上座とは。なかなか、畏れ多いものがあるかしら」
大きな観音開きのドアに最も近い席を勧められ、紫はにこやかにそこへ腰を下ろす。
一同、待つことしばし。
「おなかすいたー」
フランドールがいつも通り、羽をぱたぱた動かして催促を始めた頃。
ゆっくりと、ドアが開いた。
「おお……!」
「なっ……!」
魔理沙が、そして、霊夢が戦慄する。
「あ、あれが……あれが、あの、三面ボスの美鈴さんだというの……!?」
「何という気の充実……! まるで、あいつの姿が何倍にも大きくなって見えるような……! 今日の美鈴はひと味違うぜ……!」
完全に気圧される二人を尻目に、彼女は二人のメイドと一緒に、何かが乗ったワゴンを運んできた。
そのワゴンの上の物体には白い布がかけられ、中身が何であるか、窺い知ることが出来ない。多分、何かの料理だと思われるのだが、匂いも全くしないのが不気味だった。
ただいまの時刻、午後の三時。
「皆様、お待たせして申しわけありません。
咲夜さん、皆さんにティーを」
「かしこまりました」
ぺこりと一礼し、咲夜がメイド達と共に一同にお茶を配り始める。まさか、あの咲夜がレミリア以外の相手にかしずくことがあるとは、とまた戦慄する霊夢達。それほどまでに、今の美鈴には何かが充実している。
これが、あの、紫に敗北したことで己を見失っていた彼女だろうかと、誰もが己の目を疑う風景だった。
「さすがだぜ……。料理界の龍の名を頂く女……! やはり、一筋縄ではいかない相手……!」
「いや、そういうの関係なしに、普通にすごいと思う」
かつて、一度だけ、彼女が一同の前にその姿を見せた『龍』の衣装に身を包む美鈴は、全員にお茶が行き渡ったところで、ワゴンの上のものをテーブルの上に乗せた。
それは、高さは二メートルほどもあるだろうか。それを載せた皿がテーブルに置かれた時の音を考えると、重さもかなりのものであるだろう。
「美鈴、これは何かしら?」
「少々、お待ち下さい。お嬢様」
問いかけてくるレミリアにそう言って、彼女は紫に向く。紫はと言うと、いつも通り、手にした羽扇子で口許を覆い、どんな表情をしているかすら、一同には悟らせなかった。
「紫さん、ありがとうございます」
「あら?」
まず、いきなり、美鈴は彼女に向かって頭を下げた。その、いきなりの行動に、魔理沙と咲夜を覗く全員が首をかしげる。
「私に何か?」
「あなたは、私に足りないものを教えてくれました。そして、そのふがいない私を、徹底的に叩きのめしてくれました。確かに、私はそれで己を見失いかけた――しかし、おかげで気づくことも出来ました」
「ふぅん?」
「私が、本当にやらなければならないことを」
「へぇ……それはそれは」
「故に、私はこれを創りました。我が師匠から、『この料理を作るのは、お前の料理人生命をかけるに値するその瞬間のみ。これの完成をもって、お前が生きるも死ぬも、全てはお前次第。一世一代の、最後の一品だ』と」
嫌でも緊張感は高まっていく。
その場にあるのは、流れから察するに、ただの料理に過ぎないはずなのだが、それでも普段の弾幕勝負など相手にもならない静寂と緊張が世界を覆い尽くす。「おなかすいたー」と喚いていたフランドールも、今はぴたりと騒ぐのをやめて、静かに事の成り行きを見据えている。
「私の料理人としての全てをかけて、紫さん、私はあなたに最後の挑戦をします」
「そう」
「しかし、これは決して勝負ではありません。あなたが私のお客にふさわしいか、そして私は、あなたに料理を振る舞う料理人にふさわしいか、あなたにご判断頂くための余興に過ぎません」
「ええ」
「では――」
お披露目を。
彼女のその言葉に従って、メイド達が『せーの!』とその布をはぎ取った。
その瞬間。
「なっ……!?」
「何ぃぃぃぃぃっ!?」
「これはっ……!」
「バカな……!」
霊夢が、魔理沙が、レミリアが、そしてパチュリーが、ほぼ同時に驚愕する。フランドールなど「わー……」と声を上げるだけで、すでに驚きを通り越した世界へと行ってしまっている。
「私の、本来の得意料理は中華料理です。
しかし、私はあえてありとあらゆる、全ての料理を学ぶことを師匠に願い、師匠は私にいくつもの奥義を授けてくれた。これは、その一つです。ある方のリクエストにお応えして作らせて頂きました。
名付けて――」
現れる、光り輝くそれは。
ただの料理に過ぎないはずなのに、世界をまばゆく輝く光で覆い尽くすそれは。
「天に向かう龍……!」
「龍の形をした……ケーキ……!」
――そう。
「名称、『龍王』。どうぞ、ご賞味あれ」
それは、どのように表現するべきだろうか。
一番下の段のケーキが土台となり、その上に二段のケーキが乗せられている。ケーキ同士を支えるのは、その間に入れられた、骨組みとしてのバーだ。
一番下のケーキは淡い色のチーズケーキ。二段目は黒色のチョコレートケーキ。そして、その上に乗せられたのは、真っ白な美しさを持ったショートケーキ。トッピングもデコレーションも、まさに素晴らしく、いずれも、見事なまでに彩られた芸術品であるのだが、さらにそこにもう一つ。
最下段のチーズケーキから最上段のショートケーキに至るまで、螺旋を描くように、金色の龍が駆け上っている。恐らく、これすらもケーキで作られているのだろう。鱗の一枚一枚すら再現された龍がチョコレートケーキの暗雲を食い尽くし、その上の天――ショートケーキへと到達せんとする、その姿は。
「う……美しい……!」
「あの布一枚で、ケーキの風味全てを閉じこめ、解放と同時に、私たちの目を、鼻を、そして口すらも虜にする魅力と破壊力を発揮させるとは……! まさか、美鈴、これほどのものとは……!」
「おいしそー……。ねぇねぇ、おねーさま! 早く食べたい!」
「いいえ……待ちなさい、フラン。これは……これほどのものは……」
「ええ……そう簡単に、私たちには手がつけられない……」
そう。これに、最初に手をつけるのは決まっているのだ。
全員の視線が紫に注がれる。
彼女は、その、全員の期待に応えるかのように、殊更優雅に立ち上がると、そのケーキの中でも、特に力の込められた『龍』のオブジェへとフォークを入れた。
ふんわりと崩れ落ち、その内側をさらす『龍』の体を目で堪能した後、静かに口の中へと運ぶ。小さくて形のいい、彼女の唇が揺れる。全員の視線が、そこに注がれる。
そして、ゆっくりと、静かに彼女の喉がこくんと動く。しばしの静寂。紫はナプキンで口許をぬぐうと、手にしたフォークを皿の上に戻した。
「美鈴」
小さなつぶやきと共に、彼女は振り返り。
――そして。
「よく頑張ったわね」
満面の笑みを浮かべた。
「……それは……!」
「正直、あなたの話を聞いていたときは不安だったのよ。あなたはいずれ、戦いに敗北することは確実だった。本来、あなたが目指すものを目の前にしながら、しかし、あなたは道を違えていたから。
だから、あえて思い知らせる必要があった。あなたが本来――そして、かつて、料理界の修羅達を退けていた、あの頃のあなたを。
……もっとも、私の復讐も、本来的目的の中には入っていたのだけど……ね?」
その視線を、偉大なるケーキへと。
「これをあなたに授けた師匠というのは、さぞかし、立派な人物であり、偉大な料理人だったのでしょうね。私が負けるはずだわ」
「……はい……!」
「見事よ、美鈴。あなたの技術は、未だ成長途中にありながら、しかし、ある種、完成されている。あとは、あなた次第。この先、この八雲紫すら打ち破る力を身につけるか、もしくは――」
「……もしくは、私が信じた道を行く、ただ一人の料理人となるか」
「その通りね。
まぁ、あなたがどちらを選ぶかは、もはや言うまでもないことだけど。
美味しい料理をありがとう、美鈴」
その後は、もはや、美鈴にとっては声にならなかった。
あふれた涙が服を濡らす。駆けつけた咲夜が、声にならない言葉と共に彼女を抱きしめて、互いに喜びを分かち合う。
「んじゃ、私たちも頂くとするか」
「そうね……でも、どこから手をつけたものか……」
「あら、そんなもの、どこからでもいいじゃない。きっと、どこからでも美味しいわ」
「うん、これ、すっごくおいしー! 甘くておいしー!」
「……体重とか、ダイエットとか。この際、気にしなくてよさそうね。
……うん、美味しいわ」
その喜びが伝わったのか、いつの間にか、ドアの向こうには紅魔館で働くメイド達の姿もあった。彼女たちにレミリアが「あなた達も食べなさいな」と言ったことから、瞬く間に室内は人で埋まり、皆、美鈴のケーキに舌鼓を打つ。
「さて」
その、にぎやかな場に、紫は背を向けた。
「おめでとう、美鈴。
私の復讐はなされたことだし、敗者は潔く姿を消させてもらうわ。また、いつの日か」
そうして。
彼女は、何の気配も音も残さず、その場を立ち去った。それに気づくものはなく、その場にこだまするのは『美味しい』の言葉だけ。
泣き笑いの美鈴と、涙が止まらない咲夜の二人を中心に、その日、紅魔館は、これまでで最高のディナーへと、そのまま、流れていったのだった。
『本日から、レストランサービス、再開致します』
紅魔館の門前に、その告知が出たのが、それからすぐのこと。
いつにもまして、大勢の客が訪れ、たくさんの注文が入るようになった紅魔館へと、「取材したいのですがー」と天狗の記者が足を運んできた。
「やーやー、どうもすみません。お忙しい中」
「まぁ、別に構わないけれど。
それで、何? 今はランチのメニューをこなすので大忙しなの。手伝ってくれるのなら、より長く、詳細に、インタビューには答えてあげるわよ」
片手にフライパンを持って、咲夜がそれに返す。
その、なかなか痛烈な嫌味に、天狗の記者――文は、あっはっは、と笑いつつ、
「えーっとですねー。
出来ることでしたら、美鈴さんが、どうして料理を再開することになったのか。それから、彼女が料理人を目指した理由。その二つについて、お教え願えればと」
「どうして私なの。本人に聞けばいいじゃない」
「忙しそうですので」
燃えさかる中華鍋を片手に操りながら、「そっちの材料をこっちに回してくださーい」と、咲夜を上回る忙しさの美鈴を見て、文。なるほど、と咲夜はうなずいた。
「ええーっ!? 十七番の注文用にキープしておいたお皿がないー!?」
「ちょっと! 何でキャベツと大根が品切れになってるの!?」
「あ、ちょっと! 誰よ、このお肉買ってきたの! これ、傷んでるじゃない!」
「げげっ! しょうゆがないっ!?」
などなど。
いつも通り、トラブルも絶えない紅魔館の厨房は、今日も注文をこなすので大忙しだ。
「そうね……。
美鈴が料理を作ることを志した理由を知れば、自ずと、それには答えが出てくるのではないかしら」
「と、言いますと?」
「彼女はね、ただ、自分の料理で、みんなに『美味しい』って言ってもらいたいだけなの。それ以外に、どんなものもいらないのよ。名声も、地位も、何もかも。
それだから立ち直ることが出来たし、彼女を認める人たちがいたから料理人になることも出来た。過程に結果がついてきただけの話」
「なるほどー。含蓄深いお言葉です」
「それじゃ、手伝ってもらうわ。あなた、幻想郷最速なんでしょう? あっちにある、四番と九番の料理を配達してきてちょうだい」
「げっ。何で私が……」
「情報料よ。黙って行きなさい」
「……何か騙されたような気がしますね……」
しかし、取材に答えてもらったことは確かなので、渋々、文はそれに従った。「途中でこぼさないように」と咲夜に釘を刺されてから、彼女は幻想郷の空へと舞い上がる。
「美鈴」
「は、はい! 何ですか、咲夜さん! レシピでしたら、先日、考えた通り……」
「そうじゃなくて」
「ふえ?」
「これから、もっと、お客が増えるようにしてあげたわ。だから、もっと頑張りなさい」
「……へっ?」
その言葉にきょとんとなる美鈴に。
さあ、もっと注文は増えるわよ! と、咲夜は笑顔ではっぱをかけたのだった。
「ところでさ、紫」
「ん?」
「結局のところ、あんたは何しに出てきたわけ? 復讐だとか何だとか」
「たまには、藍が作る以外の料理も食べたかった――それだけよ」
「にしちゃ、何か含むところがあるんだよな。お前、結局、何がしたかったんだよ」
「さあ? 私はちゃんと、あの場で私の目的を全て語ったつもりよ」
博麗神社の縁側で。
いつも通り、巫女がお茶をたしなみ、魔法使いがそれのご相伴にあずかっていると、隙間から妖怪が現れた。そのまま会話は流れからあの日の事へとさかのぼり、その妖怪――紫は、何となく、という意味の答えでお茶を濁す。
「こんにちはー! 紅魔館レストランサービスでーす……って、ありゃ。九番って霊夢さんの注文だったんですね」
「おー、きたきた」
「んー? 何だ、ブン屋じゃないか。どうしたんだ、一体。ついに新聞屋は廃業か?」
「いえ、ちょっとありまして。
それじゃ、確かにお届けしましたのでー!」
「さんきゅー」
さーて、ご飯だご飯だ、とうきうき笑顔で霊夢が受け取ったのは特製チンジャオロース。肉が入ってなくてもチンジャオロースと言う代物である。
「あんたらにはあげないわよ」
「別にいらないぜ」
「そうね。それに、私、今夜、あそこに予約をしているから。楽しみだわ」
「うーわ、むかつくし」
「……そう。楽しみよ、今から」
「んー?」
「それじゃ、私は帰るわね。霊夢、わびしい食事に愛想が尽きたらうちにいらっしゃいな。一生、三食おやつつきで養ってあげるわよ」
「飼い殺しは結構」
「それは残念」
開かれた隙間の向こうへと、紫が姿を消して。「さて、私も昼飯にするか」と魔法使いが空の向こうへと去っていって。そして巫女は、「好きでわびしい食事してるんじゃないやい」と愚痴をつぶやく。
いつも通りの幻想郷の風景が、そこに戻ってきた。
少しだけ、それが今までと違うのは、幻想郷に、また新しい『何か』が加わっただけ。
そう。
この世界は、いつだって、その程度。
広い世界の中で、また何か、新しいことが起きて変わっていく――それだけの世界なのだから。
「おおーっ! 美鈴さん、ありがとー! お肉が入ってたー!」
だから、今回のお話は、これにて終幕。
また次の一幕を、どうか、そのままの姿でお楽しみに。
後書き見て安心しましたけどね。とりあえずてゐあたりが悪魔っぽそう。あと大穴こぁ。
ひとまずは、お疲れ様でございました。
チルノとルーミアのお子様コンビ、美味しゅうございました
そして炎の料理人紅美鈴シリーズ、とても美味しゅうございました
「典座教訓」という本には、贅沢な料理を作る時と質素な料理を作る時の気持ちに差を作ってはならないと書いてあります。勝負という枷から解き放たれ、料理人本来の気持ちを取り戻するED、とても美味しくいただきました。
この類稀なる美味な作品、堪能させて頂きましたです(礼
おかわり(・∀・っ/凵⌒☆チンチン
…ちびっこチームもおかわり。
このシリーズは子供達がいい味出していました。
シリーズが終わるの少し残念ですが完結おめでとうございます。
大変おいしゅうございました
めーりんさいこー!
ご馳走様でした。
また、美味しいお料理作ってね。