*作品前の注意*
当作品の主人公は森近 霖之助です。
また、当作品にはオリジナルキャラクターが登場し、若干の性的表現を含んでいます。
18禁ではありませんが、苦手なかたはご注意ください。
雨の強い日だった。
雲が厚過ぎて、太陽の光が微塵も見えなかった。もとより魔法の森は暗いが、今日はその暗さを一層増していた。
生い茂る枝葉のおかげで雨が優しいが、代わりに微かな光すら届かない。濡れて不安定になった地面が頼りなかった。
どこかで土砂崩れが起きなければいいが、と霖之助は思う。
山の麓ではないので、土砂崩れで店が埋まる心配はない。
問題は普段慣れた場所の地形が変わったり、最悪、住処を無くした獣や妖怪が森へと降りてくるかもしれない。
平和に暮らす霖之助としては、それは避けたい事態だった。
紅色の番傘を掲げて、霖之助は雨の森を歩く。
歯の長い下駄を履いているのは、長靴の代わりのようなものだ。草履や靴を履くと、泥土ですぐに汚れてしまう。下駄ならばそうはならない。バランス感覚さえあれば、泥土の上でも平然と歩くことができる。からん、という独特の音が鳴らないという欠点もあるが、それさえ気にしなければ便利なものだった。
森の中は静かだ。
雨の中出歩くような奇特な人間は――妖怪も含めて――そういない。
森の中は基本的に賑やかなものだが、今ばかりは静かだった。雨の音が、すべての音を吸い込んで地へと堕ちていくからだ。
遠くで、蟲の囁く声が聞こえた。
それが本当に蟲なのか、あるいは蟲の声をした何か別のものなのかは、誰にも分からない。
香霖堂を出て、魔法の森を一周する、目的のない散歩。
否、目的はあるのだ。
香霖堂――古道具屋で取り扱えるような、貴重なものか珍しいものが落ちていないか探索するという目的が。
ただ、そんなことは滅多にないし、そもそも霖之助自身も期待はしていなかった。
矢張り、雨の散歩と云うのが一番正しいのかもしれない。
あるいは暇つぶしだ。長い長い暇を潰すための気まぐれ。
霖之助は、見た目の数倍も年を経ている。その大半を魔法の森で過ごしているが、此処は変化に乏しい場所だ。毎日に変化がなさすぎて――あるいは、変化すらも森に呑みこまれて、変わったように見えない。
外界よりも時の流れがゆるやかな、二重結界の如き森。
その森を、霖之助は独り歩く。
雨が傘を叩く音が、やけに耳についた。こんな日には魔に惑わされやすい。
鬱蒼とした森の奥、厚い雨垂れに覆われて見ることの叶わないそこから、何者かが這い出てくる様を霖之助は幻視した。
「――もし」
だからだろうか。
意識の外から投げかけられた少女の声を、まるで魔物の声のように感じてしまったのは。
漏れ出てくる動揺を押し殺し、霖之助は声のした方を、ゆっくりと振り向いた。
「何か?」
云う声に、動揺の色は混ざらなかったと思う。
振り返った先、声のした方には、幼い少女がひと際太い樹木の幹にもたれかかるようにして立っていた。
手に傘を持っていなかったが、厚い枝葉が少女を雨から守っていた。
腰まで伸びた艶のある黒髪と、黒く細長の瞳――そして、眼も覚めるような、紅い着物を纏っていた。
人工的ではない、自然の落ち着いた紅。
良い着物だ、と霖之助は思った。仮にも古道具屋を営む身、着物の良し悪し程度は傍目に見た程度でも分かる。
「傘を――」明瞭とした、澄んだ声で少女は云う。「忘れてしまいました」
「立ち往生、ですか」
「ええ、お恥ずかしながら」
少女は口元を微かに綻ばせた。
傘を叩く雨は、その激しさを弱めようとはしなかった。気のせいかもしれないが、強まっているようにさえ感じた。
「夜の森は――危険ですよ」
「存じております。いざともなれば」
言葉を切り、少女は己の着物を見遣った。いざとなったら、着物を駄目にしてでも帰る。そう云っているのだ。
「勿体のない。良き着物でしょうに」
「命には――」
代えられません、と云って、少女は瞼を閉じた。長く細い睫が一つに合わさる。
少女から視線を外し、森を見る。
雨は強く、止む気配を見せなかった。もう半刻もすれば、陽が落ちてしまう時間。そうなれば、森の中には魑魅魍魎が跋扈し始める。
視線を少女へと戻す。
何かに祈りを捧げているようにも見えた。
少女は瞼を閉じたまま、霖之助の言葉を待っていた。
彼女が何を望んでいるのか、霖之助にも分かっていた。
「良かったら」
その言葉を云うのに、さして迷いはしなかった。
やることも、やりたいことも、やらなければならないこともない。古道具屋とは気楽で気ままな職業であり、道草もまた仕事のうちである。
「お送りしましょうか」
どこかで蟲が鳴いた。
雨を避ける、小さな蟲の鳴き声だった。
その声が雨の中へと消えてから、少女は静かに云った。
「感謝致します」
云って、少女は深々と頭を垂れた。長い黒髪が音もなく流れる。人のものとは思えない、絹か何かのような、美しい黒髪だった。
少女が顔をあげるのを待ってから、霖之助は云った。
「もっとも、僕は狼かもしれませんが」
霖之助の冗談に、少女は口元に手をあて、くすくすと笑った。
「どう見ても――貴方は少年の方でしょう」
「生憎と、嘘をつけぬ性分でして」
「と、法螺を吹くのでしょう?」
再び、少女はくすくすと笑う。この昏く恐ろしい魔法の森から逃れられるという事実が、彼女の緊張を解したのだろう。
笑みには、確かに安堵の色が混じっていた。
霖之助もつられたかのように、かすかに笑った。
「参りましょうか」
樹の幹へと――少女へと一歩、二歩と近づき、霖之助は云う。赤い番傘の端が少女の髪先に掛かる。
枝葉が広いのか、雨が傘を叩く音が止まった。
「ええ」
す、と少女は一歩を踏み出し。
「あ――」
長い時間樹にもたれかかっていたせいだろうか。
足を踏み外し、よろめいたのだ。
少女が危ない――着物が汚れる。二つの懸念を同時に思い浮かべるより先に、霖之助は動いていた。更にもう一歩を踏み出し、傘を持たぬ方の手で、倒れかけた少女を抱きとめたのだ。
小さな少女の身体が、霖之助の胸に収まる。
少女の身体は、想像していたよりも――ずっと軽かった。衝撃はほとんどなく、柔らかな肉の感触が服越しにした。
少女の背は、霖之助の胸元までしかなかった。顎よりも下にある少女の頭頂部からは、雨露を孕んだ髪の匂いがした。
熟れた果実のような――甘い匂いが、微かに鼻腔をくすぐった。その匂いが、少女の匂いなのだと、すぐには分からなかった。
「大丈夫ですか」
一時だけ、そのまま少女を抱きとめていたい衝動にかられる。
きっと、甘い匂いのせいだ。霖之助は己の感情をそう決め、少女を抱きとめていた手を離した。
名残惜しく感じたのは雨の所為だろう。
「申し訳ありません――」
顔を伏せて、少女は云う。
「お恥かしいところを見せてしまいましたね」
「いえ――この雨ですから。倒れずに済んだのならば幸いです」
地面もぬかるんでいますからね、と言葉を締める。
少女は小声でええ、と頷き、霖之助の手を取った。
傘を持つ手に、少女の細く、白い指先が重ねられた。
「どちらまで?」
「雨のあがる処まで――」
くすくすと笑う。少女らしい仕草だと、霖之助は思った。
そう思ってしまったのは、笑わぬ時の雰囲気が、あまりに少女らしさとかけ離れた――儚げな、幻想すら纏いそうな雰囲気だったからだ。
髪の伸びる和人形の方が、まだ生気があっただろう。
重ねられた細い指も、掴んだだけで、硝子の如く割れてしまいそうだった。
「森の外れに家があります」
「足元に気をつけて。また転んでしまうかもしれません」
「その時は――貴方に抱きとめて貰いましょう」
云って、少女は顔をあげた。
斜め上にある霖之助の顔を見上げ、首を傾げる。
「――何か?」
「いえ――私、貴方の名前を訊いていませんでした」
「僕も、貴方の名前を存じません」
霖之助の言葉に、少女はあら、と口端を半月型に歪めた。
紅色の唇が笑みを模るのを、霖之助は横目で見た。
「浄蓮、と申します」
再び、蟲がちち、と鳴いた。
雨脚が強くなった。二人を守る番傘に、雨が力強く降り注ぐ。
番傘の下は、まるで別世界のようだった。
雨の世界からくっきりと切り取られた、二人だけの世界。そこには弾幕も訓示も陰謀も軽快なやり取りもない。静かな、一人の男と一人の少女が語り合う世界があるだけだった。
「綺麗な名前ですね。善き名だ」
「有難う御座います」
「名前は特別なものですからね――己の在り方を決める指針ともなる。子供は生まれた瞬間から人なのではなく、名前をつけられた時に人に成るのだという考えもあります。名前がないものは存在しないとも――ああ、失礼。こんな話は、退屈でしたね」
「いえ――面白いお話です」
「有難う。それで、何の話を――ああ、名前でしたね」
霖之助は一度言葉を切り、傘の外を見た。
雨の向こう。森の向こうにある、香霖堂の方向を。
「香霖堂と。そうお呼びください」
† † †
家は、確かにそこにあった。
古い古い、時間が積もり重なって壊れてしまいそうな日本家屋。あばら家――と呼ぶのは、失礼なのだろう。
そこには、一人の少女が住んでいるのだから。
屋根は傾いていた――文字通りの意味で。斜めに歪んだ屋根は、雨避けのためではなく、純然な時の重さで傾いでいた。
戸板も同様に傾いでいる。家全体が歪んでいる証拠だった。
本当に戸が開くのだろうか。
そう危惧する霖之助の前で、浄蓮は大した力も込めず、あっさりと戸を開けてみせた。
からら、という軽い音。戸板と家がこすれ、戸が開く音だ。
横に開いた戸の向こうには、闇が続いていた。
陽の光もなく、中に灯火もないせいで、家の中は薄暗い闇に包まれていた。
「どうぞ。お入りください」
と、云われても困る。
霖之助が云いあぐね、立ち惚けている間に、浄蓮は内へと入っていった。何にも見えないだろうに、導でもあるかのような正確な足取りだった。
成る程、『住む』というのはこういうことか、と霖之助は内心で納得した。
確かに己が店――香霖堂ならば、目を瞑っていても、どこに何があるのかくらいは把握している。視線をやらずに物を取るなど日常茶飯事だ。
それは蜘蛛の巣に似ている。中央にいる蜘蛛は、見らずとも糸の先に何があるのか知っている。
蜘蛛に限ったことではない。住処を作る――巣を作るというのは、そういうことだ。
「どうなされたのですか」
戸口に立ち尽くし、思考に埋没しかけていた霖之助を、浄蓮の不安げな声が引き戻した。
意識を現実へと戻すと、戸の向こうは浄蓮のつけた行灯によって明るくなっていた。
眉尻を下げた浄蓮の顔が明瞭と見える。
「いえ――お暇しようかと思いまして」
本心ではなかった。
何を云うか迷い、その末に口から漏れた言葉だった。
けれども浄蓮は、その言葉を聞き泣きそうな顔をした。困ったような、泣き出しそうな、悲しんでいるような、曖昧な表情だった。
小さな紅色の唇が、横一文字に結ばれた。
浄蓮は畳の上へと座り、霖之助を見上げて口を開いた。
「雨が――強くなってきました」
その言葉に嘘はない。
事実、開いた戸の向こう側。霖之助が背にした森の中にまで雨は深く染み込んでいる。多い茂る葉ですら雨を止めることはできない。
たとえ傘を持っていても、濡れてしまうような雨だ。
全ての雨音が連なって、一つの音に聞こえた。
「濡れれば風邪もひきましょう。そうなれば、私も胸が痛みます」
送ってもらった帰りに、風邪をひかれては申し訳ない。
浄蓮はそう云う。
どうか、ここで休んでいってください、と。
家の中には誰もいない。
古い家の中には浄蓮しかいない。
齢若い少女がただ一人いる家。周りは雨で、誰からも覗かれはしない。
そして浄蓮は、まるで誘うような、濡れた瞳で霖之助を見つめてくる。
仕方ない、と呟く声を、霖之助は己の脳内で確かに聞いた。
「それでは、お邪魔するよ」
霖之助は一歩内へと入り、後ろ手で戸を閉めた。
雨の音が、わずかに遠くなる。
世界から隔離されたような幻想を抱いた。
雨の一軒屋は古び、現世のものとは思えなかった。
そして、その中心で、現世のものとは思えない妖しさを持つ少女は微笑んでいる。
「どうぞ、こちらへ――」
浄蓮は手招きをする。
下駄を脱ぎ、行灯にのみ照らされた屋内を霖之助は歩む。一つ足を踏み出すたびに、足元の畳が小さく鳴る。
狭い家の中。霖之助は、明かりを求めるかのように、行灯と浄蓮の傍に座った。
照らされた家の中には、影が色濃く残っている。
座った霖之助を見て、浄蓮は口元を押さえ、小さなくしゃみをした。
失礼、と云う浄蓮を見据えて、霖之助は問う。
「寒いのですか?」
身を案じる霖之助の暖かな言葉。
それを聞いて、浄蓮は、じっと、真摯な瞳で霖之助を見返した。
二つの瞳が、行灯の光の中で絡み合う。
紅色の唇が、ゆっくりと動き、言葉を紡ぐ。
「暖めてくださいまし」
霖之助は答えない。
その意味は分かっており、そもそも、家へと着た時点で予想はしていた。
家へと呼ぶのはそういう意味であり――何よりも、浄蓮は全身からかもし出す雰囲気で、霖之助を妖しく誘っていた。
誘蛾灯のような、妖艶な浄蓮の微笑み。
その微笑みから、霖之助は目を離すことができない。
「せめて、雨が止むまで――」
浄蓮は云い、さらに霖之助へと擦り寄った。
細く、色のない手が、霖之助の着物の下へと伸びる。
襟元から忍び込んだ手は、肉のない霖之助の肌を、静かに這い回る。
木の元で嗅いだ、甘い、熟れた果実のような、毒のように甘い臭いが、霖之助の鼻腔を強くくすぐる。
少女特有の甘い体臭。微かに雨の混じった臭い。
脳が痺れるような臭いだった。
「雨が止むまで、ですね――」
霖之助は云い、己の身体をまさぐる少女の、細い手を取る。
握れば折れてしまいそうな、儚く細い腕だった
細い腕を手元に寄せ、浄蓮の小さな身体を床へと押し倒す。
板の間の冷たい感触が、手の先から伝わった。
代わりに頭は熱を持ったように熱い。
はだけた和服の襟元から、少女の白いうなじが見えた。
すぐそこに、整った浄蓮の顔がある。
浄蓮は、口を端を三日月状に歪め、嬉しそうに云う。
「ええ――雨が止むまで――」
その唇に、霖之助は、己の唇を重ねた。
重ねた唇の向こう。
浄蓮の瞳が、妖しく、愉しげに笑っていた。
† † †
白い肌。
白いうなじ。
壊れてしまいそうなほどに――細く、白い肢体。
「あ――」
力を込めれば、反応がある。
込めれば、込めるほど。
少女は喘ぐ。
切れ切れな吐息が、雨音に混じる。
白。
肌の白さが――行灯に照らされる。
てらてらと、汗が光る。
己の汗が。
少女の汗なのか、己の汗なのか、霖之助には判別がつかない。
ただ、その肌の白さだけが、脳に焼きつく。
「香霖堂様――」
嬌声に混じる名前。
見知らぬ少女から呼ばれる、己の名前。
途切れ途切れの屋号。
それが自らを指し示す記号なのだと、霖之助は、ぼんやりとしか分からない。
白――白。白い。
肌は白い。
唇は、紅い。
紅い唇が蠢く。蟲のように。
蠢き、言葉を放つ。
「――――」
何と云ったのか。
それすらも分からぬままに、霖之助は少女を貪り食う。
否。
あるいは、少女が霖之助を貪り食う。
輪になった蛇のように。
互いが、互いの身体の隅から隅までを貪っていく。
一つになってしまいそうな錯覚。
少女に食われてしまう幻視。
幻視。幻想。白。紅。雨。雨音。
すべてが溶けていくような幻。
窓の外。
季節外れの牡丹の花が、雨の重みで、はらりと落ちた。
――雨は、夜明けまで止むことはなかった。
† † †
森近 霖之助が、己が店、香霖堂へと戻る頃には、既に日が高く昇っていた。
雨は止んでいる。が、高く昇っているはずの陽は、厚い雲に遮られて見えない。
どんよりとした曇り空。今にも雨が降りそうな、湿気を孕んだ空気の中、霖之助は畳んだ傘を手に、残る手で戸を開けた。
からりと軽い音を立て戸は開く。
施錠も何もしていないのだから当然だ。そもそも、魔法の森にあるこの店まで来る泥棒などいない。
戸の向こうにある光景は見慣れたものだ。
用途と名しか分からない品物の数々が山と詰まれ、それ以上の数の本がやはり積まれている。生活のための道具は皆無。あくまでも古道具屋として扱う品だけが一面に広がっている。見慣れた店内。
そして、
「――遅いぜ香霖」
居るはずのない、されど見慣れた少女の姿がそこにあった。
黒い三角帽子に黒白の服。無彩色の姿の中で、髪だけが黄金に輝いている。
見慣れた魔法使いの少女、霧雨 魔理沙が、主が座るべき椅子に腰をかけていた。
その頬は膨れ、声は低い。
含まれる感情は、明確な怒りだ。
「まだ昼が始まったばかりじゃないか」
霖之助は云い、手に持った傘を置いて、戸を閉める。
下駄を脱ぎ、どこに座ろうかと悩み、結局、適当な隙間に腰をかけた。
「昨日からずっといないだろ? 散歩にしては遅すぎるぜ」
魔理沙の言葉に、霖之助は悟る。
恐る恐る、言葉を選んで問う。
「魔理沙。君はいつからここにいるんだい」
「昨晩から。台所にあった食い物は、好き勝手使わせてもらったぜ。今じゃ何も残ってないな」
台所の惨状を思い浮かべ、霖之助は小さく嘆息した。
夢想する。昨晩、居ない間に店で起こった出来事を。
霧雨 魔理沙はいつものように店を訪れ、いつものように夕食を作ったに違いない。
そして、いつまでも帰ってこない主に腹を立て、怒りのままに食材を捨てることもできず、一人で全て食い尽くしたに違いなかった。
恐らくはその晩から、一度として家には帰っていないのだろう。
主の帰りを待ちながら、うたた寝をしつつも、そこに座って待っていたに違いない。
そのことを思うと、仄かに、胸に暖かなものが宿った。
「それはすまなかったね」
霖之助が素直に頭を下げると、魔理沙の膨れていた頬が、常日頃のものに戻った。
が。
それも僅かな間だった。すぐに魔理沙の顔は、何かに気づいたかのように、きつく鋭いものになった。
座る霖之助を見据えて、魔理沙はすん、と鼻を嗅ぐ。
魔理沙の中にあった懸念が、確信へと変わった。
もはや睨みつけるような目で霖之助を見て、魔理沙は云う。
「香霖」
「何だい」
「――女の臭いがするぜ」
魔理沙はそれだけを云って立ち上がる。
壁に立てかけてあった箒を掴み、戸へと向かう。
云われた霖之助は、己の袖を嗅ぎ、そこに熟れた果実のような、甘い臭いがすることに気づいた。
昨晩、絡み合い、一つになった少女の臭いだ。
当人からする臭いが鮮烈すぎて――叉、一晩に渡って臭いの中にいたせいで、もはや違和感を感じることがなかったのだ。
初めて嗅いだ魔理沙にとっては、さぞかし鼻を突く、鮮明な臭いだったに違いない。
霖之助は悟る。
魔理沙に、昨晩、何をしていたのか気づかれたことを。
遠ざかる魔理沙の背に、霖之助は言葉を投げる。
「魔理沙。どこに行くんだい」
霖之助の問いに、魔理沙は振り返ることも、足を止めることもない。
戸を開け、そこでようやく立ち止まり、魔理沙は答えた。
「――帰って寝る」
云って、魔理沙は戸の向こうへと消えていった。
戸を閉めることもなく、箒にまたがり、一目散に空へと跳んで行く。
事情が分からず、霖之助は、惚けたように開いた戸の向こうを見つめる。
ぽたり、と。
霖之助の見る前で、止んだはずの雨が、再び静かに降り始めた。
† † †
夜半。
朝に止み、昼頃から降り始めた雨は、再びその強さを取り戻していた。
昨晩と何ら変わらぬ強い雨。
降りしきる雨は全てを覆い隠し、連なる雨音は他の音を掻き消していく。
雨しか見えず、雨音しか聞こえない。
霖之助は窓から雨を見ながら、惚けていた。
頭の中にあるは、一人の少女の姿である。
風呂に入り、着替えた霖之助からは、もはや甘い臭いはしない。
けれども霖之助は、確かに感じていた。
鼻の奥、脳の奥に残った、微かな甘い臭いを。
甘い臭いは脳を痺れさせ、霖之助に、少女のこと以外を考えさせない。
白い肌が脳裏に浮かぶ。
甘い臭いを脳裏で嗅ぐ。
触れれば壊れてしまいそうな身体を、艶のある長い黒髪を、甘い吐息と鈴のなるような嬌声を、霖之助は思い返す。
店の中にあって尚、霖之助の意識は、あの古い家と、幻想的な少女の所へと向いていた。
ふらり、と。
脳裏に浮かぶ肖像を消せぬままに、霖之助は立ち上がった。
何かに引きずられるかのように、何かに惹き付けられるかのように、何者かに魅入られたかのように、霖之助は立ち上がる。
昨日と同じ下駄を履き、昨日と同じ番傘を手に取る。
戸を開ければ、外は雨。
一寸先すら見えないような豪雨。
その只中へと、霖之助は傘を広げ、迷うことなく足を踏み出した。
雨が傘を叩く音が響く。
濡れた地面を踏む感触が、下駄の歯ごしに伝わってくる。
夜の森は暗い。
薄暗い、などと生易しいものではない。完全な闇である。
ただでさえ森は枝葉のせいで月明かりが届きにくいと云うのに、厚い雨雲が完全に月を遮っている。水滴と雲が、月と星を覆い隠している。
闇夜の森。
妖怪すら眠りにつくような豪雨の中、霖之助は記憶だけを頼りに歩く。
昨晩と変わらない道を。
一歩足を踏み出すたびに、予感は強まっていく。
一歩足を踏み出すうちに、甘い臭いが強くなる気がした。
周りは雨で、水の臭いしかしないというのに。
雨の中を霖之助は歩み、森の中へとひと際太い樹木があるところへと辿り着く。
雨の中。
予感は、外れることなく、実現した。
「香霖堂様――」
降りしきる豪雨に遮られることなく、少女の声は霖之助の耳に届いた。
高く明瞭とした声。
昨夜の嬌声が消えやらぬ霖之助の頭を貫くように、声は、耳の奥から脳へと届いた。
浄蓮の声だった。
「いらして、くださったのですね」
「どうして」
霖之助は云い、声の主を見る。
昨日と変わらぬ場所に浄蓮は立っていた。
傘も持たず、雨に濡れぬよう大木の影に入り、じっと、霖之助を見ていた。
目も覚めるような、紅い紅い着物。艶のある黒髪が、雨露に濡れて輝いている。
闇よりもなお黒い髪が、かすかに揺れた。
「どうして、いるのです」
約束をしていたわけではない。
明日同じように会おうとも、何も言わなかった。
情事の後、まどろむ時間を過ごしてから、霖之助は浄蓮の家を去った。
別れの言葉に、再会の言葉は含まれていたなかった。
なのに――浄蓮は、そこに居た。
霖之助の言葉に、浄蓮は口元に手を当てて、くすくすと笑う。
「香霖堂様こそ――どうして、いらしたのです」
その問いに、霖之助は悩み、正直に答える。
「貴方がいるような気がしたからです」
手を当てたままくすくすと笑って、浄蓮は云う。
「私も――」
――貴方が来てくださるような気がしたからです。
浄蓮は言葉をそう結び、抑えた手の下で、微笑みを形作った。
魅惑的な笑みだった。紅色の唇が、半月円状に歪む。
食べてしまいたいと、霖之助はふと思った。
あの唇は、さぞかし美味いに違いない。それこそ、血のように。
まるで吸血鬼のように思いながら、霖之助は一歩を踏み出す。
浄蓮の元へと。
そして、踏み出された霖之助に、浄蓮もまた一歩を踏み出した。
樹木の傘から。
霖之助の持つ番傘の下へと、浄蓮は入る。
間近に迫って黒い髪から、触れそうな少女の身体から、熟れた果実のような甘い臭いがする。
「宜しければ、雨があがる処まで参りましょうか?」
昨日のことを思い出しながら、霖之助は云う。
傘を持つ手にそっと指を絡めて、浄蓮は答える。
「雨がやんでしまえば――貴方は、帰ってしまうのでしょう?」
その言葉は、道化た子供のような、恋人の帰りを待つ女のような、不思議な響きを伴っていた。
楽しんでいるようにも聞こえれば、寂しがっているようにも聞こえる。
少女の真意を汲み取れぬままに、霖之助は云う。
「雨が止むまでは、そばにいましょう」
浄蓮はくすくすと笑い、霖之助に身を寄せる。
雨に囲まれた森の中。
傘の下、浄蓮は身体を密着させ、霖之助の耳元へ、吐息と共に言ノ葉を運ぶ。
「雨が止むまで、暖めてください――」
云って、二人は歩みだす。
愛の巣の如きに使われる、浄蓮の家へと。
雨の中、暗い夜の中。
紅の番傘の下で重なった二人は、ゆるりと去っていく。
雨を避けていた蟲が、その背を見ながら小さく鳴いた。
† † †
肌は白い。
帯びは緩み、はだけた着物の下に覗く肌は白い。
白いうなじを、霖之助は舌でなぞる。
「あ、ぅあ――」
組み伏せた身体の下で、浄蓮が呻く。
壊れそうな声。
壊したくなる嬌声。
声は、雨音にかき消され、外には届かない。
甘い声を聞くのは、重なり合う霖之助だけだ。
白い肌の上を、紅色の舌が這う。
蛞蝓のように跡をつけながら、舌は這い回る。
背から腹へと。
うなじから、首周りを通り、舌は浮き出た鎖骨をなぞる。
硬い骨の感触を舌で味わう。
そのたびに少女は喘ぐ。
嬉しそうに、喘ぐ。
白。
肌は白い。壊れてしまいそうな陶芸品のように。
割れて、砕けて。
粉々にしたくなる肌。
新雪を汚すような、背徳的な快感がある。
舌はさらに降り、起伏の少ない少女の胸元へと辿り着く。
小さな丘を舌は昇り、子供のように吸い付いて話さない。
「あ――は、あ、こう、――りんどうさま――」
組み伏せた体の下。
喘ぎながら、少女は嬉しそうに名を呼ぶ。
霖之助もまた、舌を僅かに離して云う。
「浄蓮――」
吐いた声が、響きとなって、少女の肌を揺らす。
かすかに震える肌へと、再び舌が伸びる。
丘を降り、微かにくぼんだ臍へと舌は降りる。
ぬらぬらと、行灯の中で輝くものは、唾液か汗か。
「こう、香霖堂さま――」
浄蓮は熱に浮かされたかのように霖之助の名を呼ぶ。
その手は、己を食べるかのように舌を這わせる霖之助の頭に置かれてる。
母が子にそうするように。
浄蓮の手は、霖之助の銀の髪を撫でている。
身体を貪り食う霖之助は、浄蓮がどんな貌をしているのか分からない。
喘ぎながら。
快楽に身を委ねながらも、浄蓮の瞳は、妖しく輝いている。
己の身体をむさぼる男を見ながら、浄蓮は笑っている。
妖しく笑い続けている。
霖之助はそのことに気づかない。少女の身体を貪り食うのに夢中で、浄蓮の表情にまで気など回らない。
少女の味が全てであり。
甘い臭いが、全てだった。
果てして。
食われているのは、どちらなのか。
そんなことも分からないままに。
霖之助は溺れていく。
怠惰な情欲の中へ。
少女の身体に、霖之助は溺れてゆく。
その様を、妖しく笑いながら、浄蓮は見つめていた。
雨は、止む気配を見せない。
† † †
香霖堂の戸の前まで来て、霖之助はようやく、己の手に傘がないことに気づいた。
愛用している紅色の番傘がない。
雨は降っていない。夜通し降り続いた雨は、朝方には止んでいた。
今はただ、厚い雨雲が、空を覆っているだけだ。今すぐにでも雨が降り始めそうな空。
こうまでも雨が降り続くと普通気が滅入るものだ。
けれども、今の霖之助の心は、滅入るどころか、空へと昇りそうなほどに軽かった。
薄紅色の甘い靄が、頭の中にかかっているような気すらした。
傘を浄蓮の家に忘れたのはそのせいだろう――と霖之助は思う。
二日連続で情事に耽っていれば、そういうこともあるだろう。
帰りに道に雨が降らなかったことが幸いした。
もし帰る途中に雨が降っていれば、雨は躊躇うことなく霖之助の身体を濡らしただろう。
そして、名残惜しくすら感じる、服から香る甘い臭いを、流しさってしまったに違いない。
服から漂うのは甘い香り。少女の香りの残り香だ。
熟れた果実のような、甘い甘い臭いを感じながら、霖之助は己が店の戸を開けた。
「夜遊びは――感心できないぜ」
開口一番、それだった。
戸を開けるなり、昨日と寸分変わる場所に座った魔理沙が、低い声でそう云った。
戸を開けたまま立ち尽くす霖之助を、魔理沙は鋭く睨む。
その瞳には明瞭とした怒りが込められている。
魔理沙が香霖堂へ来るのは、ひとえに好意である。
古くからの馴染みであり、生活能力が皆無である霖之助を心配し、稀に魔理沙は来る。
その稀な好意を、二夜連続で踏みにじられれば、怒るのも当然だった。
霖之助としても、好意からの行動を踏みにじる気はなかった。
「今日も来てくれていたのかい」
出来うる限り感謝の意を込めて霖之助は云った。
魔理沙はハ、と鼻で笑って、
「来たのは朝過ぎだぜ。誰もいないから、ついに店を畳んだとばかり思ったぜ」
そう云って、魔理沙はもう一度ため息を吐いた。
怒りに満ちてはいるが、正面切って怒る気力すらないらしい。
霖之助は「すまないね」と頭を下げて、店の中へと踏み入った。
下駄を脱ぎ、板間へと上がり、
「あ、」
そこでよろめいた。
足がうまく動かなかった。
満足に寝ていないせいか、一晩中情事を続けていたせいか。
霖之助は足を踏み外し、床の上へと倒れた。
板床に肉のぶつかる音が香霖堂に響く。
「――香霖!?」
魔理沙の心配する驚きの声。
その声を、霖之助は倒れたまま聞いていた。
意識は明瞭としている。ただ単に足がもつれただけだ。
糸がもつれるかのように、転んでしまっただけだ。
「いや――」霖之助は起き上がり、魔理沙を見て、「――心配いらない。少し眩暈がしただけだよ」
「……香霖、大丈夫か?」
適当な場所へ座る霖之助の元に、魔理沙が詰め寄る。
間近に迫った魔理沙の顔が、別の少女と重なり、霖之助は思わず目を逸らした。
魔理沙は目を逸らさない。息が触れそうな間近から霖之助の顔を覗きこむ。
「香霖――顔色悪いぜ」
間近にいる魔理沙は、甘い臭いを感じていた。
けれどもそんなことよりも、霖之助の顔色の方が気になったのだ。
霖之助自身には見えないが、その顔色は、蒼を通り越して白くすらあった。
意識は明瞭としている。
明瞭としているからこそ、霖之助は、その言葉を実感できなかった。
すぐそこにある黄金色の髪を撫で、あえて明るい声で云う。
「そういえば、昨日から何も食べてないな」
「なんだ――」
その言葉に、魔理沙は呆れたように――どこか安心したようにため息を吐いた。
「それなら、私が作ってやるよ」
云って、魔理沙は霖之助の傍から離れる。
座ることなく、奥にある台所へと魔理沙は行く。
慣れたもので、霖之助が何を云うまでもなく、棚から割烹着を取り出して着る。
その姿を、霖之助は座ったまま、ぼんやりと見つめている。
後ろで蝶々結びを作ってから、魔理沙はくるりと回る。黒いスカートが円を描く。
座ったままの霖之助を見て、魔理沙は腰に両手を当てて云う。
「その間に風呂でも入ってろよ。香霖、かなり臭うぜ」
「そんなに臭うかい」
自らの袖元を霖之助は嗅ぐ。
確かに、微かに甘い臭いが残っている。残ってはいるが、そこまで気になるものとも思えなかった。
甘い甘い、蠱惑的な少女の臭い。
よく熟れた果実のような臭い。
熟れすぎて――腐り落ちていく果実の甘い臭いだ。
「ああ、臭うぜ。その臭いは――」
その臭いを、台所に立つ魔理沙は、ひと言で表現した。
「――毒花の臭いだぜ」
† † †
結局、魔理沙はその日、食事を作るだけでなく、香霖堂に泊まった。
彼女なりに心配だったのだろう。
顔色の悪い霖之助のことを。
尤も、その顔色は、食事をして休んだ頃にはいつもと変わらない健康さを取り戻していた。
若干影はあったものの、寝たりないせいだろうと魔理沙は解釈した。
霖之助と魔理沙は布団を並べて寝た。
森の奥、雨の中でそうしたように――魔理沙に手を出すことはなかった。
外では雨も降らない。
久方ぶりに、静かな夜だった。
情欲に耽ることもなく、霖之助は死んだように眠った。
魔理沙はその姿を見て、微かに安堵していた。
――こうしていれば。
と魔理沙は思うのだ。
――こうしていれば、勝手に出歩くこともないだろ。
その考えは、正しかった。
霖之助は外に出ることもなく、静かな夜を、眠ったまま過ごした。
静かに夜が更け、静かなまま夜が明けて朝が来た。
朝が来る頃には、霖之助の顔色も元に戻っていた。
魔理沙は朝食を二人分作り、雨が降る前に帰っていった。
そして、今。
霖之助は一人、窓の外から見える雨を見ている。
豪雨だった。
今までで一番酷い雨かもしれない。
魔理沙が出ていってすぐに雨は降り始め、何を思う間もなく豪雨となった。
バケツどころか、空をひっくり返したような雨だった。
雨以外には何も見えず、雨以外には何も聞こえない。
その雨を、霖之助は何をするでもなく見つめている。
外は雨。
傘はないから、外に出かけることもできない。
ただし、予感があった。
霖之助の頭を占めるのは、甘い香りのする予感だ。
その予感を裏付けたのは、小さな、ともすれば雨音にかき消されてしまいそうな戸を叩く音だった。
とん、とん。
静かに、二回。
律儀に戸を叩く人間を、霖之助は殆ど知らない。
ただ、予感に従うままに、霖之助は云う。
「どうぞ――お入り下さい」
その言葉を聞いて、戸が開いた。
からんと音を立てて戸が開く。
開いた戸の向こうに、紅色が見えた。
紅色の着物と、黒く長い髪が、戸の向こうにはあった。
戸の向こうに立つ少女は、紅色の番傘を手に持ち、恥かしそうに云った。
「来て――しまいました」
恥かしそうに、浄蓮は微笑む。
微笑む浄蓮を見つめて、霖之助もまた、微笑み返した。
「そんな気がしました」
霖之助の言葉に、嬉しいことですわ、と笑みを深くする。
畳んだ番傘を戸の横に置き、浄蓮は店内へと入った。
礼儀正しく後ろを振り向き、丁寧に戸を閉めた。
雨音が遠くなる。戸に遮られて、雨音は小さくなる。
代わりに、少女の明瞭とした声が響いた。
「傘を――返しに参りました」
云って、一歩踏み出す。
雨の臭いに混じる、甘い甘い臭いが、香霖堂の中へと充満していく。
その臭いを嗅ぎながら、霖之助は問う。
「わざわざ店を探してくださったのですか」
ええ、と浄蓮は頷く。紅色の唇が笑んでいる。
さらに一歩、霖之助へと近づく。
艶のある黒髪が揺れた。歩くたびに臭いが強く、近くなっていく。
少女の甘い臭い。
その臭いは、霖之助の脳を惑わし、肉欲へと溺れさせる甘い罠だ。
罠だと知っていても、逆らうには、臭いは甘すぎた。
「なにか――お礼をしなければなりませんね」
「いいえ、」浄蓮は首を横に振る。「お礼のために着たのではありません」
浄蓮は云いながら、履物を脱ぎ、また一歩霖之助の元へとゆく。
甘い臭いが――近づいてくる。
息の触れる距離。
這うようにして霖之助に擦り寄って、浄蓮は云う。
その言葉と共に吐き出される息もまた――甘い。
「それでもお礼を下さるとしたら――」
細い手が、座る霖之助の手に重ねられる。
霖之助は残る片方の手を、浄蓮へと伸ばす。
黒く艶のある黒髪の中へと手を入れる。
上質な絹を触るような感触があった。
髪をすすかれるだけで悦楽を感じるような――誘惑的な笑みを浮かべて、浄蓮は云う。
「――暖めてくださいな」
言葉と共に唇が近づく。
紅色の唇が、霖之助のものと重なる。
蛞蝓のようにぬらぬらと光る舌が、口内で絡み合った。
――そして、情欲へと溺れていく。
外は雨。物音は全て雨音に遮られてしまう。
吐息と嬌声。互いのたてる音しか聞こえない。
場所も、時間も関係なかった。
甘い香りだけが、白い肌だけが、快楽だけが全てだった。
何も考える必要もなく、互いの肌の温もりだけを感じあう。
真昼間から、香霖堂の中で、二人は肌を重ねあう。
はだけた着物の向こうに見える白い肌。
重ねた唇は炎のように熱い。
意志を持った舌は、貪欲に相手の舌を求めてさ迷い蠢く。
口端から垂れた唾液が、板床に小さな水溜りを作った。
もはや、そんなことを気に止めている余裕はない。
むさぼるように舌を重ね、はだけた浴衣の奥、臍よりも下へと霖之助は手を伸ばし、
「――こう、りん?」
声がした。
聞き慣れた、黒と白の魔法使いの声が。
霖之助はその声で正気を取り戻し、取り戻すと同時に硬直した。
ぬるり、と唾液の糸を引いて、浄蓮から舌を離す。
黒い髪の向こう。
いつの間にか、戸は開いていた。
雨音と熱狂のせいで、まったく気づかなかった。
そして、開いた戸の向こうには、金色の髪を持つ少女がいた。
霧雨 魔理沙が、戸に手をかけたまま、呆然と立ち尽くしていた。
昼間から、店の中で情事に耽る二人を、呆然と見詰めている。
「……え、あれ?」
魔理沙は、半裸で絡み合う二人を見て、惚けたように云う。
浄蓮は、霖之助にしなだれかかったまま、顔だけで振り向いて魔理沙を見た。
見知らぬ少女同士の、目が合う。
霖之助に寄り添ったまま、浄蓮は、甘い声で云う。
「――どなた?」
魔理沙は、霖之助と、見知らぬ少女を交互に見てから、
「――うおぁ、ごめん!?」
混乱していたのだろう。
半ば情事を覗き見てしまったようなものだ。
魔理沙は顔を赤く染め、慌てたように急いで踵を返した。
止める間も、何を云う間もなかった。
魔理沙は箒にまたがり、豪雨の中、濡れることも構わずに跳び去った。
小さくなっていく黒い後ろ姿を、雨の中に消えていく魔理沙を、霖之助は惚けたように見つめていた。
甘い空気は、開いたままの戸から、外へと流れ出ていく。
先までの空気は、闖入者のせいで、もはや残ってはいなかった。
妙に気まずい沈黙が、香霖堂の中に満ちる。
先に動いたのは、浄蓮だった。
霖之助から身を離し、視線を逸らして云う。
「気が――殺がれましたわ」
固まる霖之助が何を云うよりも先に、浄蓮は立ち上がった。
はだけた着物を手早く直し、霖之助の傍を離れる。
「今日は、失礼致します――」
それだけを云いおいて。
浄蓮は霖之助の返事を聞かずに、開いたままの戸から外へと出て行く。
最後に振り返り、一礼してから、浄蓮は戸を閉めた。
霖之助は何も云えない。
閉まった戸。その向こうに、消えていった少女の後ろ姿が見えるかのように、いつまでも戸を見ている。
霖之助は気づかない。
戸の傍に、紅色の番傘が置かれたままだということに、霖之助は気づかない。
浄蓮が無手で去っていったことに――霖之助は、終ぞ気づかなかった。
† † †
雨が降っている。
昼間だというのに森の中は薄暗い。陽光を全て雨雲が遮っているからだ。
光のない、暗い森。豪雨は全ての音と姿を遮ってしまう。
その中で、魔理沙はひと際樹の葉の下へと入り、小さなため息を吐いた。
無計画に雨の中へと飛び出したせいで、髪も服も濡れていた。
肌を濡らす感触が心地悪い。
が、それ以上に、心が重かった。
香霖堂で見た光景のせいだ。
霖之助が、『そういう行為』をしているに違いない、と魔理沙は漠然と思っていた。
けれど、まさか本当に『そういう行為』をしていて、しかも目の前でそれを見るなどとは思っていなかった。
香霖堂の中は、甘い臭いで充満していた。
甘い女の臭いがした。いつか霖之助の服から嗅いだ臭いを濃くしたような臭い。
甘い臭いではあったが――嫌なにおいだと、魔理沙は思った。
その臭いが残っているような気がして、魔理沙は顔をしかめた。
黒い髪で、紅色の着物を着た女だった。
魔理沙の知っている誰でもなかった。
一度として見たことがなかった。
――やつれていく霖之助。見知らぬ少女。毒のように甘い臭い。
妙に、嫌な予感がした。
嫌な予感を信じて、魔理沙は踵を返し、
「――もし」
踵を返そうとした魔理沙に、声がかかった。
弾かれたように魔理沙は声の主を見る。
雨の中。
豪雨の中に、少女がいた。
黒く長い髪を持つ、紅色の着物を着た浄蓮が、雨の中に立っている。
一寸先も見えない雨の中なのに――明瞭とその姿は見えた。
浄蓮は雨の中に、傘も立たずに立っている。
髪も服も、余すことなく濡れている。
だと、いうのに。
雨は、浄蓮の持つ妖しげな雰囲気をかき消すことが出来ない。
濡れているのに、艶のある髪。
より一層、生気に満ちたかのような紅色の唇が、薄く笑っている。
歳に似合わぬ、妖艶な笑み。
今、その笑みは、悪意すらも含んでいた。
邪魔者である、霧雨 魔理沙に対する悪意を。
「傘をお忘れですよ」
そう云う浄蓮も、傘を持っていない。
雨の中で妖しく笑い、魔理沙を見据えている。
魔理沙もまた、浄蓮を見据えて――否。
鋭い瞳で、浄蓮を睨みつけて、云う。
「あんたこそ、傘を忘れてるぜ」
もはや、目の前の相手が、ただの少女だとは思っていなかった。
ただの人間だとも思っていなかった。
その言葉を聞いて、浄蓮は手で口元を押さえて、くすくすと笑う。
「私は、香霖堂様に暖めてもらいますから――」
云って、浄蓮は両手を広げる。
両手を広げた浄蓮に、不可思議なことが起こる。
相変わらず豪雨が降っている。
風はない。ただ音をかき消すように、風すらもかき消すように雨が降っている。
そのはずなのに。
まるで、風に揺られたかのように、浄蓮の髪が広がった。
何か糸にでも吊られたかのように。八方へと、魔理沙を威嚇するかのように、髪が広がる。
それを見て、魔理沙は構えた。
右手には箒。左手には八卦炉。
話し合う構えではない。
弾幕を打つ構えだ。
「残念だぜ。あいつは、便利な道具屋さんなんだ。あんたには渡せないね」
不敵に笑い、魔理沙は云う。
その言葉に、浄蓮は笑う。
「ならば力づくででも」笑いながら、浄蓮は云う。「あの方に残る臭いの元を――貴方を消してみせましょう」
宣戦布告の言葉と同時に。
雨に濡れて艶めいた黒髪から、不思議なものが飛び出す。
夜闇を固めたような、黒い球状のもの。
黒い弾幕が、浄蓮を守るかのように、八つ生まれでた。
生まれ出た黒い弾幕は、浄蓮の髪の先を絡め取りながら、ふわふわと浮いて待つ。
主の号令と共に、一斉に飛び出す瞬間を。
八卦炉を構える魔理沙を見据えて、浄蓮は、最後まで笑っていた。
「雨が止むまでに――」
終わらせましょう、と浄蓮は云い。
放たれた言葉と共に、黒色の弾幕が魔理沙へと放たれた――
† † †
魔理沙と浄蓮が立ち去ってから、しばらくの時間が過ぎた。
夜を迎えても尚、森の中は暗く、雨は止む気配を見せない。
それどころか、これが最後だとばかりに、一層強くなっていった。
霖之助はふと思う。
今日が最も雨が強い夜であり――夜を越えれば、晴れの日が来るのだと。
なぜか、そんな気がした。
雨降り止まぬ外を見ていると、少しだけ寂しくなる。
雨が止んでしまえば――浄蓮と会えなくなる気がしたからだ。
結局、会っていたのは、雨の間くらいだったのだから。
甘い臭いは、もはや、かすかにしか残らない。
紅色の美しい着物が、霖之助の脳裏に浮かぶ。
外は、雨。
豪雨が続いている。
ふぅ、と霖之助は、小さくため息を吐いた。
ため息を力として、霖之助は立ち上がる。
下駄を履き、紅色の番傘を手に取り、戸を開ける。
開いたとの向こうから、凄まじい雨音が聞こえてくる。
こんな雨の中出て行った浄蓮は、さぞかし濡れて困っているに違いない。
そんなことを、思った。
そして、霖之助は。
誰に誘われるでもなく、自分の意志で。
豪雨の中、夜の森へと足を踏み出した。
――歩く。
雨の中、番傘を叩く雨音を聞きながら、霖之助は歩きつづける。
いつかの散歩した道を。
ひと際大きな樹がある場所を目指して歩く。
浄蓮の家に行こうとは思わなかった。
不思議なことに――なぜか、そこに浄蓮はいない気がしたからだ。
もし、居るとすれば。
樹の下にいるだろうと、霖之助は感じていた。
そして、さしたる時間もかけずに、霖之助は樹の元へと辿り着く。
あの雨の日。浄蓮と出会った場所へと。
「――もし」
だからだろう。
意識の内、あの日と変わらぬ場所に立ち、変わらぬ言葉をかけてきた少女を見て。
どうしようもないほど既知感を感じてしまったのは。
「どうしました」
云う声に、動揺の色は、微塵も混ざらなかった。
霖之助の視線の先。声のした方には、幼い少女がひと際太い樹の幹にもたれかかるようにして立っている。
手に傘は持っていなかったが、厚い枝葉が少女を雨から守っていた。
腰まで伸びた艶のある黒髪と、長く細長の瞳――そして、眼も覚めるような、紅い着物を纏っていた。
人工的ではない、自然の落ち着いた紅。
その着物はいまや雨に濡れていたが――それでも色褪せることなく、美しいと霖之助は思った。
「傘を――」明瞭としない、弱々しい声だった。「忘れてしまいました」
「立ち往生、ですね」
「ええ――」
呟く黒髪の少女――浄蓮の声には、力がない。
それもそうだろう。
あの日と違う点が一つだけある。
浄蓮は幹にもたれかかっている。
けれどそれは、雨を避けるためだけではない。
一人で立てるだけの力が、もはや浄蓮には残されていないだけだった。
もたれて立つ浄蓮の身体は、所々が傷と泥に塗れていた。美しい紅色の着物にまで汚れは跳んでいた。
何よりも、弱っていた。
大きな傷こそないものの――浄蓮は、明らかに衰弱していた。
力を使いすぎたかのように。
何か、強い誰かと戦ったかのように。
弱りきった浄蓮は、立つ力すら残されず、樹の幹にもたれている。
「お送りしましょうか」
弱る浄蓮を見つめて、目を逸らすことなく霖之助は云う。
浄蓮は――霖之助を見返す。
その瞳に、妖しい色はない。
ただの、弱々しい少女のそれだった。泣きそうに緩んだ子供の瞳だった。
霖之助がここにいることを、心から喜ぶ瞳だった。
情欲でも肉欲でもない。
情愛の色の瞳で、浄蓮は、霖之助を見る。
「いえ――」小さく首を振り、浄蓮は云う。「――それよりも、寒いですわ」
「ならば、」
暖めましょうか、と霖之助は云う。
浄蓮の顔に刹那笑みが浮かび、しかし浮かんだ笑みはすぐに消えた。
もの悲しげな、寂しげな表情と共にで、浄蓮は云う。
「もはや――私には、その資格はありません」
「何故ですか」
視線を逸らさずに問う霖之助。
浄蓮は、その視線から顔を逸らし、悲痛げに云う。
「私は、人では――」
ありませんから。
そう、云おうとしたのだ。
人間である魔理沙に追い払われた時点で、浄蓮は諦めていた。
霖之助から生気を啜ることを。
そして――その腕の温かみを知ることを。
けれど、霖之助は、浄蓮の言葉を遮って云う。
「――知っていましたよ」
え、と。
浄蓮が、声を漏らす。
驚きに見開かれた瞳が、霖之助を見やる。
霖之助は、先までと何ら変わりのない表情で、浄蓮を見ていた。
妖怪だと告白する浄蓮に怯えることも、憎むこともなく。
いつかと変わらない瞳で、浄蓮を見ている。
「それが――何だと云うのです?」
純粋で単純な霖之助の言葉。
その言葉を聞いて――浄蓮は小さく笑った。
おかしかった。
笑いをこらえきれなかったのだ。
笑うたびに身体はひきつれ痛かったけれども、浄蓮はくすくすと笑う。
生気を啜るために、男を巣へと引き込んだ。
しかしその男は、それを知っていて尚、そこへ来たと云うのだ。
――ああ、それなら。
浄蓮は思う。
確かに、生気を啜るためだった。
けれども。
抱かれたその胸の心地良さは。触れる肌のぬくもりは。
それだけは嘘ではないと、浄蓮は思うのだ。
人に恋し、恋するからこそ生気を啜るのだ。
だからこそ、霖之助の温もりを浄蓮は心地良いと思った。
――初めから、そう云えば良かったのですね。
浄蓮はくすくすと笑い、霖之助を見る。
その瞳にあるのは、情愛の色だ。
悲しみと寂しさをいり混ぜた、悲恋の色だ。
揺れ濡れる瞳で霖之助を見つめて、浄蓮は云う。
「――暖めて、くださいますか」
ええ、と霖之助は応えて、一歩を踏み出す。
浄蓮も、最後の力を振り絞って、幹を離れた。
半ば倒れるようにして、霖之助の胸の中へ飛び込む。
立つ力は、もう残っていない。
けれども、問題はなかった。
一人では立てずとも、霖之助が支えてくれたのだから。
浄蓮の小柄な身体が、霖之助の胸元に収まる。
傘を持つ手と反対の手で、霖之助は、浄蓮の身体を抱いた。
服越しに伝わる温もりを――浄蓮は、心地良いと感じた。
いつまでも、こうしていたいと思った。
それが叶わぬと知っていながらも、浄蓮は、そう願った。
だから、せめて――と思い。
「香霖堂様、抱きしめてください。暖めてください。せめて――」
霖之助の温もりを感じながら。
浄蓮は、快楽でも悦楽でもない。
歳相応の少女のような、幸せそうな笑みを浮かべて、云った。
「――――雨が止むまで」
豪雨は、辺りの景色を塗り潰していく。
豪雨の中。
霖之助と浄蓮は、いつまでも抱き合っている。
雨音の中で、互いの体温だけを感じている。
お互いの吐息以外には何も聞こえず。
お互いの姿以外には何も見えず。
お互いの体温以外には何も感じない。
雨は、降り止む気配を見せなかった。
(了)
当作品の主人公は森近 霖之助です。
また、当作品にはオリジナルキャラクターが登場し、若干の性的表現を含んでいます。
18禁ではありませんが、苦手なかたはご注意ください。
雨の強い日だった。
雲が厚過ぎて、太陽の光が微塵も見えなかった。もとより魔法の森は暗いが、今日はその暗さを一層増していた。
生い茂る枝葉のおかげで雨が優しいが、代わりに微かな光すら届かない。濡れて不安定になった地面が頼りなかった。
どこかで土砂崩れが起きなければいいが、と霖之助は思う。
山の麓ではないので、土砂崩れで店が埋まる心配はない。
問題は普段慣れた場所の地形が変わったり、最悪、住処を無くした獣や妖怪が森へと降りてくるかもしれない。
平和に暮らす霖之助としては、それは避けたい事態だった。
紅色の番傘を掲げて、霖之助は雨の森を歩く。
歯の長い下駄を履いているのは、長靴の代わりのようなものだ。草履や靴を履くと、泥土ですぐに汚れてしまう。下駄ならばそうはならない。バランス感覚さえあれば、泥土の上でも平然と歩くことができる。からん、という独特の音が鳴らないという欠点もあるが、それさえ気にしなければ便利なものだった。
森の中は静かだ。
雨の中出歩くような奇特な人間は――妖怪も含めて――そういない。
森の中は基本的に賑やかなものだが、今ばかりは静かだった。雨の音が、すべての音を吸い込んで地へと堕ちていくからだ。
遠くで、蟲の囁く声が聞こえた。
それが本当に蟲なのか、あるいは蟲の声をした何か別のものなのかは、誰にも分からない。
香霖堂を出て、魔法の森を一周する、目的のない散歩。
否、目的はあるのだ。
香霖堂――古道具屋で取り扱えるような、貴重なものか珍しいものが落ちていないか探索するという目的が。
ただ、そんなことは滅多にないし、そもそも霖之助自身も期待はしていなかった。
矢張り、雨の散歩と云うのが一番正しいのかもしれない。
あるいは暇つぶしだ。長い長い暇を潰すための気まぐれ。
霖之助は、見た目の数倍も年を経ている。その大半を魔法の森で過ごしているが、此処は変化に乏しい場所だ。毎日に変化がなさすぎて――あるいは、変化すらも森に呑みこまれて、変わったように見えない。
外界よりも時の流れがゆるやかな、二重結界の如き森。
その森を、霖之助は独り歩く。
雨が傘を叩く音が、やけに耳についた。こんな日には魔に惑わされやすい。
鬱蒼とした森の奥、厚い雨垂れに覆われて見ることの叶わないそこから、何者かが這い出てくる様を霖之助は幻視した。
「――もし」
だからだろうか。
意識の外から投げかけられた少女の声を、まるで魔物の声のように感じてしまったのは。
漏れ出てくる動揺を押し殺し、霖之助は声のした方を、ゆっくりと振り向いた。
「何か?」
云う声に、動揺の色は混ざらなかったと思う。
振り返った先、声のした方には、幼い少女がひと際太い樹木の幹にもたれかかるようにして立っていた。
手に傘を持っていなかったが、厚い枝葉が少女を雨から守っていた。
腰まで伸びた艶のある黒髪と、黒く細長の瞳――そして、眼も覚めるような、紅い着物を纏っていた。
人工的ではない、自然の落ち着いた紅。
良い着物だ、と霖之助は思った。仮にも古道具屋を営む身、着物の良し悪し程度は傍目に見た程度でも分かる。
「傘を――」明瞭とした、澄んだ声で少女は云う。「忘れてしまいました」
「立ち往生、ですか」
「ええ、お恥ずかしながら」
少女は口元を微かに綻ばせた。
傘を叩く雨は、その激しさを弱めようとはしなかった。気のせいかもしれないが、強まっているようにさえ感じた。
「夜の森は――危険ですよ」
「存じております。いざともなれば」
言葉を切り、少女は己の着物を見遣った。いざとなったら、着物を駄目にしてでも帰る。そう云っているのだ。
「勿体のない。良き着物でしょうに」
「命には――」
代えられません、と云って、少女は瞼を閉じた。長く細い睫が一つに合わさる。
少女から視線を外し、森を見る。
雨は強く、止む気配を見せなかった。もう半刻もすれば、陽が落ちてしまう時間。そうなれば、森の中には魑魅魍魎が跋扈し始める。
視線を少女へと戻す。
何かに祈りを捧げているようにも見えた。
少女は瞼を閉じたまま、霖之助の言葉を待っていた。
彼女が何を望んでいるのか、霖之助にも分かっていた。
「良かったら」
その言葉を云うのに、さして迷いはしなかった。
やることも、やりたいことも、やらなければならないこともない。古道具屋とは気楽で気ままな職業であり、道草もまた仕事のうちである。
「お送りしましょうか」
どこかで蟲が鳴いた。
雨を避ける、小さな蟲の鳴き声だった。
その声が雨の中へと消えてから、少女は静かに云った。
「感謝致します」
云って、少女は深々と頭を垂れた。長い黒髪が音もなく流れる。人のものとは思えない、絹か何かのような、美しい黒髪だった。
少女が顔をあげるのを待ってから、霖之助は云った。
「もっとも、僕は狼かもしれませんが」
霖之助の冗談に、少女は口元に手をあて、くすくすと笑った。
「どう見ても――貴方は少年の方でしょう」
「生憎と、嘘をつけぬ性分でして」
「と、法螺を吹くのでしょう?」
再び、少女はくすくすと笑う。この昏く恐ろしい魔法の森から逃れられるという事実が、彼女の緊張を解したのだろう。
笑みには、確かに安堵の色が混じっていた。
霖之助もつられたかのように、かすかに笑った。
「参りましょうか」
樹の幹へと――少女へと一歩、二歩と近づき、霖之助は云う。赤い番傘の端が少女の髪先に掛かる。
枝葉が広いのか、雨が傘を叩く音が止まった。
「ええ」
す、と少女は一歩を踏み出し。
「あ――」
長い時間樹にもたれかかっていたせいだろうか。
足を踏み外し、よろめいたのだ。
少女が危ない――着物が汚れる。二つの懸念を同時に思い浮かべるより先に、霖之助は動いていた。更にもう一歩を踏み出し、傘を持たぬ方の手で、倒れかけた少女を抱きとめたのだ。
小さな少女の身体が、霖之助の胸に収まる。
少女の身体は、想像していたよりも――ずっと軽かった。衝撃はほとんどなく、柔らかな肉の感触が服越しにした。
少女の背は、霖之助の胸元までしかなかった。顎よりも下にある少女の頭頂部からは、雨露を孕んだ髪の匂いがした。
熟れた果実のような――甘い匂いが、微かに鼻腔をくすぐった。その匂いが、少女の匂いなのだと、すぐには分からなかった。
「大丈夫ですか」
一時だけ、そのまま少女を抱きとめていたい衝動にかられる。
きっと、甘い匂いのせいだ。霖之助は己の感情をそう決め、少女を抱きとめていた手を離した。
名残惜しく感じたのは雨の所為だろう。
「申し訳ありません――」
顔を伏せて、少女は云う。
「お恥かしいところを見せてしまいましたね」
「いえ――この雨ですから。倒れずに済んだのならば幸いです」
地面もぬかるんでいますからね、と言葉を締める。
少女は小声でええ、と頷き、霖之助の手を取った。
傘を持つ手に、少女の細く、白い指先が重ねられた。
「どちらまで?」
「雨のあがる処まで――」
くすくすと笑う。少女らしい仕草だと、霖之助は思った。
そう思ってしまったのは、笑わぬ時の雰囲気が、あまりに少女らしさとかけ離れた――儚げな、幻想すら纏いそうな雰囲気だったからだ。
髪の伸びる和人形の方が、まだ生気があっただろう。
重ねられた細い指も、掴んだだけで、硝子の如く割れてしまいそうだった。
「森の外れに家があります」
「足元に気をつけて。また転んでしまうかもしれません」
「その時は――貴方に抱きとめて貰いましょう」
云って、少女は顔をあげた。
斜め上にある霖之助の顔を見上げ、首を傾げる。
「――何か?」
「いえ――私、貴方の名前を訊いていませんでした」
「僕も、貴方の名前を存じません」
霖之助の言葉に、少女はあら、と口端を半月型に歪めた。
紅色の唇が笑みを模るのを、霖之助は横目で見た。
「浄蓮、と申します」
再び、蟲がちち、と鳴いた。
雨脚が強くなった。二人を守る番傘に、雨が力強く降り注ぐ。
番傘の下は、まるで別世界のようだった。
雨の世界からくっきりと切り取られた、二人だけの世界。そこには弾幕も訓示も陰謀も軽快なやり取りもない。静かな、一人の男と一人の少女が語り合う世界があるだけだった。
「綺麗な名前ですね。善き名だ」
「有難う御座います」
「名前は特別なものですからね――己の在り方を決める指針ともなる。子供は生まれた瞬間から人なのではなく、名前をつけられた時に人に成るのだという考えもあります。名前がないものは存在しないとも――ああ、失礼。こんな話は、退屈でしたね」
「いえ――面白いお話です」
「有難う。それで、何の話を――ああ、名前でしたね」
霖之助は一度言葉を切り、傘の外を見た。
雨の向こう。森の向こうにある、香霖堂の方向を。
「香霖堂と。そうお呼びください」
† † †
家は、確かにそこにあった。
古い古い、時間が積もり重なって壊れてしまいそうな日本家屋。あばら家――と呼ぶのは、失礼なのだろう。
そこには、一人の少女が住んでいるのだから。
屋根は傾いていた――文字通りの意味で。斜めに歪んだ屋根は、雨避けのためではなく、純然な時の重さで傾いでいた。
戸板も同様に傾いでいる。家全体が歪んでいる証拠だった。
本当に戸が開くのだろうか。
そう危惧する霖之助の前で、浄蓮は大した力も込めず、あっさりと戸を開けてみせた。
からら、という軽い音。戸板と家がこすれ、戸が開く音だ。
横に開いた戸の向こうには、闇が続いていた。
陽の光もなく、中に灯火もないせいで、家の中は薄暗い闇に包まれていた。
「どうぞ。お入りください」
と、云われても困る。
霖之助が云いあぐね、立ち惚けている間に、浄蓮は内へと入っていった。何にも見えないだろうに、導でもあるかのような正確な足取りだった。
成る程、『住む』というのはこういうことか、と霖之助は内心で納得した。
確かに己が店――香霖堂ならば、目を瞑っていても、どこに何があるのかくらいは把握している。視線をやらずに物を取るなど日常茶飯事だ。
それは蜘蛛の巣に似ている。中央にいる蜘蛛は、見らずとも糸の先に何があるのか知っている。
蜘蛛に限ったことではない。住処を作る――巣を作るというのは、そういうことだ。
「どうなされたのですか」
戸口に立ち尽くし、思考に埋没しかけていた霖之助を、浄蓮の不安げな声が引き戻した。
意識を現実へと戻すと、戸の向こうは浄蓮のつけた行灯によって明るくなっていた。
眉尻を下げた浄蓮の顔が明瞭と見える。
「いえ――お暇しようかと思いまして」
本心ではなかった。
何を云うか迷い、その末に口から漏れた言葉だった。
けれども浄蓮は、その言葉を聞き泣きそうな顔をした。困ったような、泣き出しそうな、悲しんでいるような、曖昧な表情だった。
小さな紅色の唇が、横一文字に結ばれた。
浄蓮は畳の上へと座り、霖之助を見上げて口を開いた。
「雨が――強くなってきました」
その言葉に嘘はない。
事実、開いた戸の向こう側。霖之助が背にした森の中にまで雨は深く染み込んでいる。多い茂る葉ですら雨を止めることはできない。
たとえ傘を持っていても、濡れてしまうような雨だ。
全ての雨音が連なって、一つの音に聞こえた。
「濡れれば風邪もひきましょう。そうなれば、私も胸が痛みます」
送ってもらった帰りに、風邪をひかれては申し訳ない。
浄蓮はそう云う。
どうか、ここで休んでいってください、と。
家の中には誰もいない。
古い家の中には浄蓮しかいない。
齢若い少女がただ一人いる家。周りは雨で、誰からも覗かれはしない。
そして浄蓮は、まるで誘うような、濡れた瞳で霖之助を見つめてくる。
仕方ない、と呟く声を、霖之助は己の脳内で確かに聞いた。
「それでは、お邪魔するよ」
霖之助は一歩内へと入り、後ろ手で戸を閉めた。
雨の音が、わずかに遠くなる。
世界から隔離されたような幻想を抱いた。
雨の一軒屋は古び、現世のものとは思えなかった。
そして、その中心で、現世のものとは思えない妖しさを持つ少女は微笑んでいる。
「どうぞ、こちらへ――」
浄蓮は手招きをする。
下駄を脱ぎ、行灯にのみ照らされた屋内を霖之助は歩む。一つ足を踏み出すたびに、足元の畳が小さく鳴る。
狭い家の中。霖之助は、明かりを求めるかのように、行灯と浄蓮の傍に座った。
照らされた家の中には、影が色濃く残っている。
座った霖之助を見て、浄蓮は口元を押さえ、小さなくしゃみをした。
失礼、と云う浄蓮を見据えて、霖之助は問う。
「寒いのですか?」
身を案じる霖之助の暖かな言葉。
それを聞いて、浄蓮は、じっと、真摯な瞳で霖之助を見返した。
二つの瞳が、行灯の光の中で絡み合う。
紅色の唇が、ゆっくりと動き、言葉を紡ぐ。
「暖めてくださいまし」
霖之助は答えない。
その意味は分かっており、そもそも、家へと着た時点で予想はしていた。
家へと呼ぶのはそういう意味であり――何よりも、浄蓮は全身からかもし出す雰囲気で、霖之助を妖しく誘っていた。
誘蛾灯のような、妖艶な浄蓮の微笑み。
その微笑みから、霖之助は目を離すことができない。
「せめて、雨が止むまで――」
浄蓮は云い、さらに霖之助へと擦り寄った。
細く、色のない手が、霖之助の着物の下へと伸びる。
襟元から忍び込んだ手は、肉のない霖之助の肌を、静かに這い回る。
木の元で嗅いだ、甘い、熟れた果実のような、毒のように甘い臭いが、霖之助の鼻腔を強くくすぐる。
少女特有の甘い体臭。微かに雨の混じった臭い。
脳が痺れるような臭いだった。
「雨が止むまで、ですね――」
霖之助は云い、己の身体をまさぐる少女の、細い手を取る。
握れば折れてしまいそうな、儚く細い腕だった
細い腕を手元に寄せ、浄蓮の小さな身体を床へと押し倒す。
板の間の冷たい感触が、手の先から伝わった。
代わりに頭は熱を持ったように熱い。
はだけた和服の襟元から、少女の白いうなじが見えた。
すぐそこに、整った浄蓮の顔がある。
浄蓮は、口を端を三日月状に歪め、嬉しそうに云う。
「ええ――雨が止むまで――」
その唇に、霖之助は、己の唇を重ねた。
重ねた唇の向こう。
浄蓮の瞳が、妖しく、愉しげに笑っていた。
† † †
白い肌。
白いうなじ。
壊れてしまいそうなほどに――細く、白い肢体。
「あ――」
力を込めれば、反応がある。
込めれば、込めるほど。
少女は喘ぐ。
切れ切れな吐息が、雨音に混じる。
白。
肌の白さが――行灯に照らされる。
てらてらと、汗が光る。
己の汗が。
少女の汗なのか、己の汗なのか、霖之助には判別がつかない。
ただ、その肌の白さだけが、脳に焼きつく。
「香霖堂様――」
嬌声に混じる名前。
見知らぬ少女から呼ばれる、己の名前。
途切れ途切れの屋号。
それが自らを指し示す記号なのだと、霖之助は、ぼんやりとしか分からない。
白――白。白い。
肌は白い。
唇は、紅い。
紅い唇が蠢く。蟲のように。
蠢き、言葉を放つ。
「――――」
何と云ったのか。
それすらも分からぬままに、霖之助は少女を貪り食う。
否。
あるいは、少女が霖之助を貪り食う。
輪になった蛇のように。
互いが、互いの身体の隅から隅までを貪っていく。
一つになってしまいそうな錯覚。
少女に食われてしまう幻視。
幻視。幻想。白。紅。雨。雨音。
すべてが溶けていくような幻。
窓の外。
季節外れの牡丹の花が、雨の重みで、はらりと落ちた。
――雨は、夜明けまで止むことはなかった。
† † †
森近 霖之助が、己が店、香霖堂へと戻る頃には、既に日が高く昇っていた。
雨は止んでいる。が、高く昇っているはずの陽は、厚い雲に遮られて見えない。
どんよりとした曇り空。今にも雨が降りそうな、湿気を孕んだ空気の中、霖之助は畳んだ傘を手に、残る手で戸を開けた。
からりと軽い音を立て戸は開く。
施錠も何もしていないのだから当然だ。そもそも、魔法の森にあるこの店まで来る泥棒などいない。
戸の向こうにある光景は見慣れたものだ。
用途と名しか分からない品物の数々が山と詰まれ、それ以上の数の本がやはり積まれている。生活のための道具は皆無。あくまでも古道具屋として扱う品だけが一面に広がっている。見慣れた店内。
そして、
「――遅いぜ香霖」
居るはずのない、されど見慣れた少女の姿がそこにあった。
黒い三角帽子に黒白の服。無彩色の姿の中で、髪だけが黄金に輝いている。
見慣れた魔法使いの少女、霧雨 魔理沙が、主が座るべき椅子に腰をかけていた。
その頬は膨れ、声は低い。
含まれる感情は、明確な怒りだ。
「まだ昼が始まったばかりじゃないか」
霖之助は云い、手に持った傘を置いて、戸を閉める。
下駄を脱ぎ、どこに座ろうかと悩み、結局、適当な隙間に腰をかけた。
「昨日からずっといないだろ? 散歩にしては遅すぎるぜ」
魔理沙の言葉に、霖之助は悟る。
恐る恐る、言葉を選んで問う。
「魔理沙。君はいつからここにいるんだい」
「昨晩から。台所にあった食い物は、好き勝手使わせてもらったぜ。今じゃ何も残ってないな」
台所の惨状を思い浮かべ、霖之助は小さく嘆息した。
夢想する。昨晩、居ない間に店で起こった出来事を。
霧雨 魔理沙はいつものように店を訪れ、いつものように夕食を作ったに違いない。
そして、いつまでも帰ってこない主に腹を立て、怒りのままに食材を捨てることもできず、一人で全て食い尽くしたに違いなかった。
恐らくはその晩から、一度として家には帰っていないのだろう。
主の帰りを待ちながら、うたた寝をしつつも、そこに座って待っていたに違いない。
そのことを思うと、仄かに、胸に暖かなものが宿った。
「それはすまなかったね」
霖之助が素直に頭を下げると、魔理沙の膨れていた頬が、常日頃のものに戻った。
が。
それも僅かな間だった。すぐに魔理沙の顔は、何かに気づいたかのように、きつく鋭いものになった。
座る霖之助を見据えて、魔理沙はすん、と鼻を嗅ぐ。
魔理沙の中にあった懸念が、確信へと変わった。
もはや睨みつけるような目で霖之助を見て、魔理沙は云う。
「香霖」
「何だい」
「――女の臭いがするぜ」
魔理沙はそれだけを云って立ち上がる。
壁に立てかけてあった箒を掴み、戸へと向かう。
云われた霖之助は、己の袖を嗅ぎ、そこに熟れた果実のような、甘い臭いがすることに気づいた。
昨晩、絡み合い、一つになった少女の臭いだ。
当人からする臭いが鮮烈すぎて――叉、一晩に渡って臭いの中にいたせいで、もはや違和感を感じることがなかったのだ。
初めて嗅いだ魔理沙にとっては、さぞかし鼻を突く、鮮明な臭いだったに違いない。
霖之助は悟る。
魔理沙に、昨晩、何をしていたのか気づかれたことを。
遠ざかる魔理沙の背に、霖之助は言葉を投げる。
「魔理沙。どこに行くんだい」
霖之助の問いに、魔理沙は振り返ることも、足を止めることもない。
戸を開け、そこでようやく立ち止まり、魔理沙は答えた。
「――帰って寝る」
云って、魔理沙は戸の向こうへと消えていった。
戸を閉めることもなく、箒にまたがり、一目散に空へと跳んで行く。
事情が分からず、霖之助は、惚けたように開いた戸の向こうを見つめる。
ぽたり、と。
霖之助の見る前で、止んだはずの雨が、再び静かに降り始めた。
† † †
夜半。
朝に止み、昼頃から降り始めた雨は、再びその強さを取り戻していた。
昨晩と何ら変わらぬ強い雨。
降りしきる雨は全てを覆い隠し、連なる雨音は他の音を掻き消していく。
雨しか見えず、雨音しか聞こえない。
霖之助は窓から雨を見ながら、惚けていた。
頭の中にあるは、一人の少女の姿である。
風呂に入り、着替えた霖之助からは、もはや甘い臭いはしない。
けれども霖之助は、確かに感じていた。
鼻の奥、脳の奥に残った、微かな甘い臭いを。
甘い臭いは脳を痺れさせ、霖之助に、少女のこと以外を考えさせない。
白い肌が脳裏に浮かぶ。
甘い臭いを脳裏で嗅ぐ。
触れれば壊れてしまいそうな身体を、艶のある長い黒髪を、甘い吐息と鈴のなるような嬌声を、霖之助は思い返す。
店の中にあって尚、霖之助の意識は、あの古い家と、幻想的な少女の所へと向いていた。
ふらり、と。
脳裏に浮かぶ肖像を消せぬままに、霖之助は立ち上がった。
何かに引きずられるかのように、何かに惹き付けられるかのように、何者かに魅入られたかのように、霖之助は立ち上がる。
昨日と同じ下駄を履き、昨日と同じ番傘を手に取る。
戸を開ければ、外は雨。
一寸先すら見えないような豪雨。
その只中へと、霖之助は傘を広げ、迷うことなく足を踏み出した。
雨が傘を叩く音が響く。
濡れた地面を踏む感触が、下駄の歯ごしに伝わってくる。
夜の森は暗い。
薄暗い、などと生易しいものではない。完全な闇である。
ただでさえ森は枝葉のせいで月明かりが届きにくいと云うのに、厚い雨雲が完全に月を遮っている。水滴と雲が、月と星を覆い隠している。
闇夜の森。
妖怪すら眠りにつくような豪雨の中、霖之助は記憶だけを頼りに歩く。
昨晩と変わらない道を。
一歩足を踏み出すたびに、予感は強まっていく。
一歩足を踏み出すうちに、甘い臭いが強くなる気がした。
周りは雨で、水の臭いしかしないというのに。
雨の中を霖之助は歩み、森の中へとひと際太い樹木があるところへと辿り着く。
雨の中。
予感は、外れることなく、実現した。
「香霖堂様――」
降りしきる豪雨に遮られることなく、少女の声は霖之助の耳に届いた。
高く明瞭とした声。
昨夜の嬌声が消えやらぬ霖之助の頭を貫くように、声は、耳の奥から脳へと届いた。
浄蓮の声だった。
「いらして、くださったのですね」
「どうして」
霖之助は云い、声の主を見る。
昨日と変わらぬ場所に浄蓮は立っていた。
傘も持たず、雨に濡れぬよう大木の影に入り、じっと、霖之助を見ていた。
目も覚めるような、紅い紅い着物。艶のある黒髪が、雨露に濡れて輝いている。
闇よりもなお黒い髪が、かすかに揺れた。
「どうして、いるのです」
約束をしていたわけではない。
明日同じように会おうとも、何も言わなかった。
情事の後、まどろむ時間を過ごしてから、霖之助は浄蓮の家を去った。
別れの言葉に、再会の言葉は含まれていたなかった。
なのに――浄蓮は、そこに居た。
霖之助の言葉に、浄蓮は口元に手を当てて、くすくすと笑う。
「香霖堂様こそ――どうして、いらしたのです」
その問いに、霖之助は悩み、正直に答える。
「貴方がいるような気がしたからです」
手を当てたままくすくすと笑って、浄蓮は云う。
「私も――」
――貴方が来てくださるような気がしたからです。
浄蓮は言葉をそう結び、抑えた手の下で、微笑みを形作った。
魅惑的な笑みだった。紅色の唇が、半月円状に歪む。
食べてしまいたいと、霖之助はふと思った。
あの唇は、さぞかし美味いに違いない。それこそ、血のように。
まるで吸血鬼のように思いながら、霖之助は一歩を踏み出す。
浄蓮の元へと。
そして、踏み出された霖之助に、浄蓮もまた一歩を踏み出した。
樹木の傘から。
霖之助の持つ番傘の下へと、浄蓮は入る。
間近に迫って黒い髪から、触れそうな少女の身体から、熟れた果実のような甘い臭いがする。
「宜しければ、雨があがる処まで参りましょうか?」
昨日のことを思い出しながら、霖之助は云う。
傘を持つ手にそっと指を絡めて、浄蓮は答える。
「雨がやんでしまえば――貴方は、帰ってしまうのでしょう?」
その言葉は、道化た子供のような、恋人の帰りを待つ女のような、不思議な響きを伴っていた。
楽しんでいるようにも聞こえれば、寂しがっているようにも聞こえる。
少女の真意を汲み取れぬままに、霖之助は云う。
「雨が止むまでは、そばにいましょう」
浄蓮はくすくすと笑い、霖之助に身を寄せる。
雨に囲まれた森の中。
傘の下、浄蓮は身体を密着させ、霖之助の耳元へ、吐息と共に言ノ葉を運ぶ。
「雨が止むまで、暖めてください――」
云って、二人は歩みだす。
愛の巣の如きに使われる、浄蓮の家へと。
雨の中、暗い夜の中。
紅の番傘の下で重なった二人は、ゆるりと去っていく。
雨を避けていた蟲が、その背を見ながら小さく鳴いた。
† † †
肌は白い。
帯びは緩み、はだけた着物の下に覗く肌は白い。
白いうなじを、霖之助は舌でなぞる。
「あ、ぅあ――」
組み伏せた身体の下で、浄蓮が呻く。
壊れそうな声。
壊したくなる嬌声。
声は、雨音にかき消され、外には届かない。
甘い声を聞くのは、重なり合う霖之助だけだ。
白い肌の上を、紅色の舌が這う。
蛞蝓のように跡をつけながら、舌は這い回る。
背から腹へと。
うなじから、首周りを通り、舌は浮き出た鎖骨をなぞる。
硬い骨の感触を舌で味わう。
そのたびに少女は喘ぐ。
嬉しそうに、喘ぐ。
白。
肌は白い。壊れてしまいそうな陶芸品のように。
割れて、砕けて。
粉々にしたくなる肌。
新雪を汚すような、背徳的な快感がある。
舌はさらに降り、起伏の少ない少女の胸元へと辿り着く。
小さな丘を舌は昇り、子供のように吸い付いて話さない。
「あ――は、あ、こう、――りんどうさま――」
組み伏せた体の下。
喘ぎながら、少女は嬉しそうに名を呼ぶ。
霖之助もまた、舌を僅かに離して云う。
「浄蓮――」
吐いた声が、響きとなって、少女の肌を揺らす。
かすかに震える肌へと、再び舌が伸びる。
丘を降り、微かにくぼんだ臍へと舌は降りる。
ぬらぬらと、行灯の中で輝くものは、唾液か汗か。
「こう、香霖堂さま――」
浄蓮は熱に浮かされたかのように霖之助の名を呼ぶ。
その手は、己を食べるかのように舌を這わせる霖之助の頭に置かれてる。
母が子にそうするように。
浄蓮の手は、霖之助の銀の髪を撫でている。
身体を貪り食う霖之助は、浄蓮がどんな貌をしているのか分からない。
喘ぎながら。
快楽に身を委ねながらも、浄蓮の瞳は、妖しく輝いている。
己の身体をむさぼる男を見ながら、浄蓮は笑っている。
妖しく笑い続けている。
霖之助はそのことに気づかない。少女の身体を貪り食うのに夢中で、浄蓮の表情にまで気など回らない。
少女の味が全てであり。
甘い臭いが、全てだった。
果てして。
食われているのは、どちらなのか。
そんなことも分からないままに。
霖之助は溺れていく。
怠惰な情欲の中へ。
少女の身体に、霖之助は溺れてゆく。
その様を、妖しく笑いながら、浄蓮は見つめていた。
雨は、止む気配を見せない。
† † †
香霖堂の戸の前まで来て、霖之助はようやく、己の手に傘がないことに気づいた。
愛用している紅色の番傘がない。
雨は降っていない。夜通し降り続いた雨は、朝方には止んでいた。
今はただ、厚い雨雲が、空を覆っているだけだ。今すぐにでも雨が降り始めそうな空。
こうまでも雨が降り続くと普通気が滅入るものだ。
けれども、今の霖之助の心は、滅入るどころか、空へと昇りそうなほどに軽かった。
薄紅色の甘い靄が、頭の中にかかっているような気すらした。
傘を浄蓮の家に忘れたのはそのせいだろう――と霖之助は思う。
二日連続で情事に耽っていれば、そういうこともあるだろう。
帰りに道に雨が降らなかったことが幸いした。
もし帰る途中に雨が降っていれば、雨は躊躇うことなく霖之助の身体を濡らしただろう。
そして、名残惜しくすら感じる、服から香る甘い臭いを、流しさってしまったに違いない。
服から漂うのは甘い香り。少女の香りの残り香だ。
熟れた果実のような、甘い甘い臭いを感じながら、霖之助は己が店の戸を開けた。
「夜遊びは――感心できないぜ」
開口一番、それだった。
戸を開けるなり、昨日と寸分変わる場所に座った魔理沙が、低い声でそう云った。
戸を開けたまま立ち尽くす霖之助を、魔理沙は鋭く睨む。
その瞳には明瞭とした怒りが込められている。
魔理沙が香霖堂へ来るのは、ひとえに好意である。
古くからの馴染みであり、生活能力が皆無である霖之助を心配し、稀に魔理沙は来る。
その稀な好意を、二夜連続で踏みにじられれば、怒るのも当然だった。
霖之助としても、好意からの行動を踏みにじる気はなかった。
「今日も来てくれていたのかい」
出来うる限り感謝の意を込めて霖之助は云った。
魔理沙はハ、と鼻で笑って、
「来たのは朝過ぎだぜ。誰もいないから、ついに店を畳んだとばかり思ったぜ」
そう云って、魔理沙はもう一度ため息を吐いた。
怒りに満ちてはいるが、正面切って怒る気力すらないらしい。
霖之助は「すまないね」と頭を下げて、店の中へと踏み入った。
下駄を脱ぎ、板間へと上がり、
「あ、」
そこでよろめいた。
足がうまく動かなかった。
満足に寝ていないせいか、一晩中情事を続けていたせいか。
霖之助は足を踏み外し、床の上へと倒れた。
板床に肉のぶつかる音が香霖堂に響く。
「――香霖!?」
魔理沙の心配する驚きの声。
その声を、霖之助は倒れたまま聞いていた。
意識は明瞭としている。ただ単に足がもつれただけだ。
糸がもつれるかのように、転んでしまっただけだ。
「いや――」霖之助は起き上がり、魔理沙を見て、「――心配いらない。少し眩暈がしただけだよ」
「……香霖、大丈夫か?」
適当な場所へ座る霖之助の元に、魔理沙が詰め寄る。
間近に迫った魔理沙の顔が、別の少女と重なり、霖之助は思わず目を逸らした。
魔理沙は目を逸らさない。息が触れそうな間近から霖之助の顔を覗きこむ。
「香霖――顔色悪いぜ」
間近にいる魔理沙は、甘い臭いを感じていた。
けれどもそんなことよりも、霖之助の顔色の方が気になったのだ。
霖之助自身には見えないが、その顔色は、蒼を通り越して白くすらあった。
意識は明瞭としている。
明瞭としているからこそ、霖之助は、その言葉を実感できなかった。
すぐそこにある黄金色の髪を撫で、あえて明るい声で云う。
「そういえば、昨日から何も食べてないな」
「なんだ――」
その言葉に、魔理沙は呆れたように――どこか安心したようにため息を吐いた。
「それなら、私が作ってやるよ」
云って、魔理沙は霖之助の傍から離れる。
座ることなく、奥にある台所へと魔理沙は行く。
慣れたもので、霖之助が何を云うまでもなく、棚から割烹着を取り出して着る。
その姿を、霖之助は座ったまま、ぼんやりと見つめている。
後ろで蝶々結びを作ってから、魔理沙はくるりと回る。黒いスカートが円を描く。
座ったままの霖之助を見て、魔理沙は腰に両手を当てて云う。
「その間に風呂でも入ってろよ。香霖、かなり臭うぜ」
「そんなに臭うかい」
自らの袖元を霖之助は嗅ぐ。
確かに、微かに甘い臭いが残っている。残ってはいるが、そこまで気になるものとも思えなかった。
甘い甘い、蠱惑的な少女の臭い。
よく熟れた果実のような臭い。
熟れすぎて――腐り落ちていく果実の甘い臭いだ。
「ああ、臭うぜ。その臭いは――」
その臭いを、台所に立つ魔理沙は、ひと言で表現した。
「――毒花の臭いだぜ」
† † †
結局、魔理沙はその日、食事を作るだけでなく、香霖堂に泊まった。
彼女なりに心配だったのだろう。
顔色の悪い霖之助のことを。
尤も、その顔色は、食事をして休んだ頃にはいつもと変わらない健康さを取り戻していた。
若干影はあったものの、寝たりないせいだろうと魔理沙は解釈した。
霖之助と魔理沙は布団を並べて寝た。
森の奥、雨の中でそうしたように――魔理沙に手を出すことはなかった。
外では雨も降らない。
久方ぶりに、静かな夜だった。
情欲に耽ることもなく、霖之助は死んだように眠った。
魔理沙はその姿を見て、微かに安堵していた。
――こうしていれば。
と魔理沙は思うのだ。
――こうしていれば、勝手に出歩くこともないだろ。
その考えは、正しかった。
霖之助は外に出ることもなく、静かな夜を、眠ったまま過ごした。
静かに夜が更け、静かなまま夜が明けて朝が来た。
朝が来る頃には、霖之助の顔色も元に戻っていた。
魔理沙は朝食を二人分作り、雨が降る前に帰っていった。
そして、今。
霖之助は一人、窓の外から見える雨を見ている。
豪雨だった。
今までで一番酷い雨かもしれない。
魔理沙が出ていってすぐに雨は降り始め、何を思う間もなく豪雨となった。
バケツどころか、空をひっくり返したような雨だった。
雨以外には何も見えず、雨以外には何も聞こえない。
その雨を、霖之助は何をするでもなく見つめている。
外は雨。
傘はないから、外に出かけることもできない。
ただし、予感があった。
霖之助の頭を占めるのは、甘い香りのする予感だ。
その予感を裏付けたのは、小さな、ともすれば雨音にかき消されてしまいそうな戸を叩く音だった。
とん、とん。
静かに、二回。
律儀に戸を叩く人間を、霖之助は殆ど知らない。
ただ、予感に従うままに、霖之助は云う。
「どうぞ――お入り下さい」
その言葉を聞いて、戸が開いた。
からんと音を立てて戸が開く。
開いた戸の向こうに、紅色が見えた。
紅色の着物と、黒く長い髪が、戸の向こうにはあった。
戸の向こうに立つ少女は、紅色の番傘を手に持ち、恥かしそうに云った。
「来て――しまいました」
恥かしそうに、浄蓮は微笑む。
微笑む浄蓮を見つめて、霖之助もまた、微笑み返した。
「そんな気がしました」
霖之助の言葉に、嬉しいことですわ、と笑みを深くする。
畳んだ番傘を戸の横に置き、浄蓮は店内へと入った。
礼儀正しく後ろを振り向き、丁寧に戸を閉めた。
雨音が遠くなる。戸に遮られて、雨音は小さくなる。
代わりに、少女の明瞭とした声が響いた。
「傘を――返しに参りました」
云って、一歩踏み出す。
雨の臭いに混じる、甘い甘い臭いが、香霖堂の中へと充満していく。
その臭いを嗅ぎながら、霖之助は問う。
「わざわざ店を探してくださったのですか」
ええ、と浄蓮は頷く。紅色の唇が笑んでいる。
さらに一歩、霖之助へと近づく。
艶のある黒髪が揺れた。歩くたびに臭いが強く、近くなっていく。
少女の甘い臭い。
その臭いは、霖之助の脳を惑わし、肉欲へと溺れさせる甘い罠だ。
罠だと知っていても、逆らうには、臭いは甘すぎた。
「なにか――お礼をしなければなりませんね」
「いいえ、」浄蓮は首を横に振る。「お礼のために着たのではありません」
浄蓮は云いながら、履物を脱ぎ、また一歩霖之助の元へとゆく。
甘い臭いが――近づいてくる。
息の触れる距離。
這うようにして霖之助に擦り寄って、浄蓮は云う。
その言葉と共に吐き出される息もまた――甘い。
「それでもお礼を下さるとしたら――」
細い手が、座る霖之助の手に重ねられる。
霖之助は残る片方の手を、浄蓮へと伸ばす。
黒く艶のある黒髪の中へと手を入れる。
上質な絹を触るような感触があった。
髪をすすかれるだけで悦楽を感じるような――誘惑的な笑みを浮かべて、浄蓮は云う。
「――暖めてくださいな」
言葉と共に唇が近づく。
紅色の唇が、霖之助のものと重なる。
蛞蝓のようにぬらぬらと光る舌が、口内で絡み合った。
――そして、情欲へと溺れていく。
外は雨。物音は全て雨音に遮られてしまう。
吐息と嬌声。互いのたてる音しか聞こえない。
場所も、時間も関係なかった。
甘い香りだけが、白い肌だけが、快楽だけが全てだった。
何も考える必要もなく、互いの肌の温もりだけを感じあう。
真昼間から、香霖堂の中で、二人は肌を重ねあう。
はだけた着物の向こうに見える白い肌。
重ねた唇は炎のように熱い。
意志を持った舌は、貪欲に相手の舌を求めてさ迷い蠢く。
口端から垂れた唾液が、板床に小さな水溜りを作った。
もはや、そんなことを気に止めている余裕はない。
むさぼるように舌を重ね、はだけた浴衣の奥、臍よりも下へと霖之助は手を伸ばし、
「――こう、りん?」
声がした。
聞き慣れた、黒と白の魔法使いの声が。
霖之助はその声で正気を取り戻し、取り戻すと同時に硬直した。
ぬるり、と唾液の糸を引いて、浄蓮から舌を離す。
黒い髪の向こう。
いつの間にか、戸は開いていた。
雨音と熱狂のせいで、まったく気づかなかった。
そして、開いた戸の向こうには、金色の髪を持つ少女がいた。
霧雨 魔理沙が、戸に手をかけたまま、呆然と立ち尽くしていた。
昼間から、店の中で情事に耽る二人を、呆然と見詰めている。
「……え、あれ?」
魔理沙は、半裸で絡み合う二人を見て、惚けたように云う。
浄蓮は、霖之助にしなだれかかったまま、顔だけで振り向いて魔理沙を見た。
見知らぬ少女同士の、目が合う。
霖之助に寄り添ったまま、浄蓮は、甘い声で云う。
「――どなた?」
魔理沙は、霖之助と、見知らぬ少女を交互に見てから、
「――うおぁ、ごめん!?」
混乱していたのだろう。
半ば情事を覗き見てしまったようなものだ。
魔理沙は顔を赤く染め、慌てたように急いで踵を返した。
止める間も、何を云う間もなかった。
魔理沙は箒にまたがり、豪雨の中、濡れることも構わずに跳び去った。
小さくなっていく黒い後ろ姿を、雨の中に消えていく魔理沙を、霖之助は惚けたように見つめていた。
甘い空気は、開いたままの戸から、外へと流れ出ていく。
先までの空気は、闖入者のせいで、もはや残ってはいなかった。
妙に気まずい沈黙が、香霖堂の中に満ちる。
先に動いたのは、浄蓮だった。
霖之助から身を離し、視線を逸らして云う。
「気が――殺がれましたわ」
固まる霖之助が何を云うよりも先に、浄蓮は立ち上がった。
はだけた着物を手早く直し、霖之助の傍を離れる。
「今日は、失礼致します――」
それだけを云いおいて。
浄蓮は霖之助の返事を聞かずに、開いたままの戸から外へと出て行く。
最後に振り返り、一礼してから、浄蓮は戸を閉めた。
霖之助は何も云えない。
閉まった戸。その向こうに、消えていった少女の後ろ姿が見えるかのように、いつまでも戸を見ている。
霖之助は気づかない。
戸の傍に、紅色の番傘が置かれたままだということに、霖之助は気づかない。
浄蓮が無手で去っていったことに――霖之助は、終ぞ気づかなかった。
† † †
雨が降っている。
昼間だというのに森の中は薄暗い。陽光を全て雨雲が遮っているからだ。
光のない、暗い森。豪雨は全ての音と姿を遮ってしまう。
その中で、魔理沙はひと際樹の葉の下へと入り、小さなため息を吐いた。
無計画に雨の中へと飛び出したせいで、髪も服も濡れていた。
肌を濡らす感触が心地悪い。
が、それ以上に、心が重かった。
香霖堂で見た光景のせいだ。
霖之助が、『そういう行為』をしているに違いない、と魔理沙は漠然と思っていた。
けれど、まさか本当に『そういう行為』をしていて、しかも目の前でそれを見るなどとは思っていなかった。
香霖堂の中は、甘い臭いで充満していた。
甘い女の臭いがした。いつか霖之助の服から嗅いだ臭いを濃くしたような臭い。
甘い臭いではあったが――嫌なにおいだと、魔理沙は思った。
その臭いが残っているような気がして、魔理沙は顔をしかめた。
黒い髪で、紅色の着物を着た女だった。
魔理沙の知っている誰でもなかった。
一度として見たことがなかった。
――やつれていく霖之助。見知らぬ少女。毒のように甘い臭い。
妙に、嫌な予感がした。
嫌な予感を信じて、魔理沙は踵を返し、
「――もし」
踵を返そうとした魔理沙に、声がかかった。
弾かれたように魔理沙は声の主を見る。
雨の中。
豪雨の中に、少女がいた。
黒く長い髪を持つ、紅色の着物を着た浄蓮が、雨の中に立っている。
一寸先も見えない雨の中なのに――明瞭とその姿は見えた。
浄蓮は雨の中に、傘も立たずに立っている。
髪も服も、余すことなく濡れている。
だと、いうのに。
雨は、浄蓮の持つ妖しげな雰囲気をかき消すことが出来ない。
濡れているのに、艶のある髪。
より一層、生気に満ちたかのような紅色の唇が、薄く笑っている。
歳に似合わぬ、妖艶な笑み。
今、その笑みは、悪意すらも含んでいた。
邪魔者である、霧雨 魔理沙に対する悪意を。
「傘をお忘れですよ」
そう云う浄蓮も、傘を持っていない。
雨の中で妖しく笑い、魔理沙を見据えている。
魔理沙もまた、浄蓮を見据えて――否。
鋭い瞳で、浄蓮を睨みつけて、云う。
「あんたこそ、傘を忘れてるぜ」
もはや、目の前の相手が、ただの少女だとは思っていなかった。
ただの人間だとも思っていなかった。
その言葉を聞いて、浄蓮は手で口元を押さえて、くすくすと笑う。
「私は、香霖堂様に暖めてもらいますから――」
云って、浄蓮は両手を広げる。
両手を広げた浄蓮に、不可思議なことが起こる。
相変わらず豪雨が降っている。
風はない。ただ音をかき消すように、風すらもかき消すように雨が降っている。
そのはずなのに。
まるで、風に揺られたかのように、浄蓮の髪が広がった。
何か糸にでも吊られたかのように。八方へと、魔理沙を威嚇するかのように、髪が広がる。
それを見て、魔理沙は構えた。
右手には箒。左手には八卦炉。
話し合う構えではない。
弾幕を打つ構えだ。
「残念だぜ。あいつは、便利な道具屋さんなんだ。あんたには渡せないね」
不敵に笑い、魔理沙は云う。
その言葉に、浄蓮は笑う。
「ならば力づくででも」笑いながら、浄蓮は云う。「あの方に残る臭いの元を――貴方を消してみせましょう」
宣戦布告の言葉と同時に。
雨に濡れて艶めいた黒髪から、不思議なものが飛び出す。
夜闇を固めたような、黒い球状のもの。
黒い弾幕が、浄蓮を守るかのように、八つ生まれでた。
生まれ出た黒い弾幕は、浄蓮の髪の先を絡め取りながら、ふわふわと浮いて待つ。
主の号令と共に、一斉に飛び出す瞬間を。
八卦炉を構える魔理沙を見据えて、浄蓮は、最後まで笑っていた。
「雨が止むまでに――」
終わらせましょう、と浄蓮は云い。
放たれた言葉と共に、黒色の弾幕が魔理沙へと放たれた――
† † †
魔理沙と浄蓮が立ち去ってから、しばらくの時間が過ぎた。
夜を迎えても尚、森の中は暗く、雨は止む気配を見せない。
それどころか、これが最後だとばかりに、一層強くなっていった。
霖之助はふと思う。
今日が最も雨が強い夜であり――夜を越えれば、晴れの日が来るのだと。
なぜか、そんな気がした。
雨降り止まぬ外を見ていると、少しだけ寂しくなる。
雨が止んでしまえば――浄蓮と会えなくなる気がしたからだ。
結局、会っていたのは、雨の間くらいだったのだから。
甘い臭いは、もはや、かすかにしか残らない。
紅色の美しい着物が、霖之助の脳裏に浮かぶ。
外は、雨。
豪雨が続いている。
ふぅ、と霖之助は、小さくため息を吐いた。
ため息を力として、霖之助は立ち上がる。
下駄を履き、紅色の番傘を手に取り、戸を開ける。
開いたとの向こうから、凄まじい雨音が聞こえてくる。
こんな雨の中出て行った浄蓮は、さぞかし濡れて困っているに違いない。
そんなことを、思った。
そして、霖之助は。
誰に誘われるでもなく、自分の意志で。
豪雨の中、夜の森へと足を踏み出した。
――歩く。
雨の中、番傘を叩く雨音を聞きながら、霖之助は歩きつづける。
いつかの散歩した道を。
ひと際大きな樹がある場所を目指して歩く。
浄蓮の家に行こうとは思わなかった。
不思議なことに――なぜか、そこに浄蓮はいない気がしたからだ。
もし、居るとすれば。
樹の下にいるだろうと、霖之助は感じていた。
そして、さしたる時間もかけずに、霖之助は樹の元へと辿り着く。
あの雨の日。浄蓮と出会った場所へと。
「――もし」
だからだろう。
意識の内、あの日と変わらぬ場所に立ち、変わらぬ言葉をかけてきた少女を見て。
どうしようもないほど既知感を感じてしまったのは。
「どうしました」
云う声に、動揺の色は、微塵も混ざらなかった。
霖之助の視線の先。声のした方には、幼い少女がひと際太い樹の幹にもたれかかるようにして立っている。
手に傘は持っていなかったが、厚い枝葉が少女を雨から守っていた。
腰まで伸びた艶のある黒髪と、長く細長の瞳――そして、眼も覚めるような、紅い着物を纏っていた。
人工的ではない、自然の落ち着いた紅。
その着物はいまや雨に濡れていたが――それでも色褪せることなく、美しいと霖之助は思った。
「傘を――」明瞭としない、弱々しい声だった。「忘れてしまいました」
「立ち往生、ですね」
「ええ――」
呟く黒髪の少女――浄蓮の声には、力がない。
それもそうだろう。
あの日と違う点が一つだけある。
浄蓮は幹にもたれかかっている。
けれどそれは、雨を避けるためだけではない。
一人で立てるだけの力が、もはや浄蓮には残されていないだけだった。
もたれて立つ浄蓮の身体は、所々が傷と泥に塗れていた。美しい紅色の着物にまで汚れは跳んでいた。
何よりも、弱っていた。
大きな傷こそないものの――浄蓮は、明らかに衰弱していた。
力を使いすぎたかのように。
何か、強い誰かと戦ったかのように。
弱りきった浄蓮は、立つ力すら残されず、樹の幹にもたれている。
「お送りしましょうか」
弱る浄蓮を見つめて、目を逸らすことなく霖之助は云う。
浄蓮は――霖之助を見返す。
その瞳に、妖しい色はない。
ただの、弱々しい少女のそれだった。泣きそうに緩んだ子供の瞳だった。
霖之助がここにいることを、心から喜ぶ瞳だった。
情欲でも肉欲でもない。
情愛の色の瞳で、浄蓮は、霖之助を見る。
「いえ――」小さく首を振り、浄蓮は云う。「――それよりも、寒いですわ」
「ならば、」
暖めましょうか、と霖之助は云う。
浄蓮の顔に刹那笑みが浮かび、しかし浮かんだ笑みはすぐに消えた。
もの悲しげな、寂しげな表情と共にで、浄蓮は云う。
「もはや――私には、その資格はありません」
「何故ですか」
視線を逸らさずに問う霖之助。
浄蓮は、その視線から顔を逸らし、悲痛げに云う。
「私は、人では――」
ありませんから。
そう、云おうとしたのだ。
人間である魔理沙に追い払われた時点で、浄蓮は諦めていた。
霖之助から生気を啜ることを。
そして――その腕の温かみを知ることを。
けれど、霖之助は、浄蓮の言葉を遮って云う。
「――知っていましたよ」
え、と。
浄蓮が、声を漏らす。
驚きに見開かれた瞳が、霖之助を見やる。
霖之助は、先までと何ら変わりのない表情で、浄蓮を見ていた。
妖怪だと告白する浄蓮に怯えることも、憎むこともなく。
いつかと変わらない瞳で、浄蓮を見ている。
「それが――何だと云うのです?」
純粋で単純な霖之助の言葉。
その言葉を聞いて――浄蓮は小さく笑った。
おかしかった。
笑いをこらえきれなかったのだ。
笑うたびに身体はひきつれ痛かったけれども、浄蓮はくすくすと笑う。
生気を啜るために、男を巣へと引き込んだ。
しかしその男は、それを知っていて尚、そこへ来たと云うのだ。
――ああ、それなら。
浄蓮は思う。
確かに、生気を啜るためだった。
けれども。
抱かれたその胸の心地良さは。触れる肌のぬくもりは。
それだけは嘘ではないと、浄蓮は思うのだ。
人に恋し、恋するからこそ生気を啜るのだ。
だからこそ、霖之助の温もりを浄蓮は心地良いと思った。
――初めから、そう云えば良かったのですね。
浄蓮はくすくすと笑い、霖之助を見る。
その瞳にあるのは、情愛の色だ。
悲しみと寂しさをいり混ぜた、悲恋の色だ。
揺れ濡れる瞳で霖之助を見つめて、浄蓮は云う。
「――暖めて、くださいますか」
ええ、と霖之助は応えて、一歩を踏み出す。
浄蓮も、最後の力を振り絞って、幹を離れた。
半ば倒れるようにして、霖之助の胸の中へ飛び込む。
立つ力は、もう残っていない。
けれども、問題はなかった。
一人では立てずとも、霖之助が支えてくれたのだから。
浄蓮の小柄な身体が、霖之助の胸元に収まる。
傘を持つ手と反対の手で、霖之助は、浄蓮の身体を抱いた。
服越しに伝わる温もりを――浄蓮は、心地良いと感じた。
いつまでも、こうしていたいと思った。
それが叶わぬと知っていながらも、浄蓮は、そう願った。
だから、せめて――と思い。
「香霖堂様、抱きしめてください。暖めてください。せめて――」
霖之助の温もりを感じながら。
浄蓮は、快楽でも悦楽でもない。
歳相応の少女のような、幸せそうな笑みを浮かべて、云った。
「――――雨が止むまで」
豪雨は、辺りの景色を塗り潰していく。
豪雨の中。
霖之助と浄蓮は、いつまでも抱き合っている。
雨音の中で、互いの体温だけを感じている。
お互いの吐息以外には何も聞こえず。
お互いの姿以外には何も見えず。
お互いの体温以外には何も感じない。
雨は、降り止む気配を見せなかった。
(了)
人間は一人しかいませんけどもね。
落ち着いた文章で読んでいて心地よかったです。
いいお話でした。
しかしこーりんなかなかやりおる
モニターの前で雨音の幻聴が聞こえました。
浄蓮と魔理沙の対比も良い感じです。
雨に包まれた幻想郷の御伽草子、堪能させてもらいました(礼
静かで、美しかった物語ですね・・・
オリジナルキャラは好かれない。このキャラは生きている。
心がほわほわしてきましたよ
『問題があるとすればこーりんがかっこよすぎるぜ』と、幻視した魔理沙が言う。そんなこたぁない
それでもいつもの幻想郷という感じでとても良かったです。
雨も、いいものですね。
あとがきが良い味出してますね
弾幕合戦の裏ではこんなことがあるんだなぁと色々と妄想させてもらいました
そして一言、美しい・・・