あれは、焔だろうか。
ゆらゆらと近づいては遠ざかり、薄暗い暗闇を魅惑するかのようにぼんやりと照らし、延々と陳列する鬱蒼とした書棚の森の片隅を浮かび上がらせ、暗いその奥底から知識と記録という澱みが汚泥のように触手を伸ばす幻影が焔の向かうから浮かび上がり、醜悪で異形極まりない邪悪の窮極をあらわそうとする幻影と現実の不確かな存在を揺れ動かせる。
「止めなさい、小悪魔」
ぽそりと呟かれるその声に、焔はゆるりゆるりと輝きを押さえ、やがて代わりに燭台と古書を抱えた一匹の悪魔を浮かび上がらせた。
――余興ぞ、七曜の魔女パチュリー・ノーレッジ。
幾重にも響く無数の言葉が返した。七曜契約に縛られたデーモンは声を持たず名を持たず魔眼を持たない。その縛鎖された身の出自を示すものはてらりと濡れ返る血流の髪と二対四翼の黒い羽のみである。
――氷室の我が故郷が口を開く。契約は果たされよう、七曜の魔女パチュリー・ノーレッジ。
「貴方ほど整理の巧いものなど、そうそう居ないわ。あと千年は掃除係を頼むつもりなのに、休暇なんて出すと思う?」
――如何は問わぬ。七曜如きにて我輩を縛する未熟、今宵にて帳尻をつけようぞ、七曜の魔女パチュリー・ノーレッジ。
言うと、薄闇に溶け込むように悪魔は消え、焔もつられるように輝きを無くし、消えた。
魔女はちらりと悪魔の消えた空間を見やり、再び古書に没頭していった。
どこかで風洞のような笑い声が聞こえる。
* * *
『彩符』『光符』
「極彩颱風ッ!」
「アースライト・レイ・ゲットレディ!?」
水金地火木五行に陰陽、混ざり合い、相克しながら幾重にも煌びやかに移り変わる絢爛豪華な気弾の幕。極彩の渦を虹の龍達が気流の如く構成するその緻密華麗、それは一千一億の大軍を退ける不動の門戸、蓬莱山華の神鉄扉。
破城するは、星の輝鎚。
ぎゅるるると音を立てて魔法使いの周囲を周回していた宝玉六つが雷のように散り迅る。幾何学様の飛行線を残し、風陣を描く龍の隙間を潜り抜け、背後を取ってランダム機動を開始した。魔法使いは星屑の魔弾を狭域に弾幕と展開し、箒と一体になって、
「GOGOGO!」
飛んだ。同時に門の背後を機動する宝玉から幅広の光線が放出される。大華龍の大竜巻に穴を開け、煌くスターライトメーサーが檻のように華龍の鉄扉を拘束する。さらに光線は自らを従える魔法使いにも暴力的にその手を伸ばし、しかし魔法使いは出鱈目な戦闘機動で回避に次ぐ回避、相殺に次ぐ相殺。極彩色の龍たちを喰らい、すり抜け、アフターバーナーに点火し大竜巻の中心、鉄風彩光陣を展開する紅の仙道へ。
一声、
「速さが足りねぇ!!」
箒の舳先から射出された魔弾が、紅の人型を吹き飛ばした。
「わっはっは!」
「……高笑いしてないで、労わりなさい、私を」
「あー? ううん、さすが門番は頑丈だなぁ」
「それは褒め言葉だけど腹立つわねっ」
からからと魔理沙は笑う。紅魔一門の中でも最精鋭の正門衆をたった一騎で蹴散らし、完全無欠の従者長と双璧を成すとも言われる門番を打ち倒す剛の者にしては、いやになるほど軽快な魔法使いであった。
――それも当然なのではないかと、紅魔門番・紅美鈴は思う。紅魔館は真紅の魔神レミリア・スカーレットの居城であるが、夜を統べる吸血姫であろうとその威信及ぶ所は天地のみ。対するは魔砲使い。夜空を超え銀河を渡り星雲を寝床にする、恋の星。
広遠深慮なあの深き虚では、覇王の威厳、大陸四千の歴史など、丸呑みにしてなお塵とも感じぬであろう。であれば不動の鉄扉と言えどあの魔砲使いに砕かれるのは道理。
だが、道理だからと納得するのであれば、紅魔門番なぞ務まらぬ。
だからこそ紅美鈴と正門衆は気力を途して鉄壁の防陣を組み、それを魔砲使いは撃ち砕く。何度も何度もそれは繰り返され、やがて従者長があっさりと魔砲使いに客分扱いを許すまで計六十回続けられた。
その、少し前に決着の付いた攻防がなぜ今また行われているのは、単に普通の魔法使い・霧雨魔理沙の気まぐれであろう。言えば通すものをわざわざ挑発するように魔砲を撃ち込み、陣を組み終わったかどうかのところで再び強襲してきた。
『危機管理がなっちゃいないぜ、門番ども!』
余計なお世話だと言いたい。だが突破されたのは事実であり、だったら今度は突破されないように陣を敷かなくてはならない。
魔法使いの手を借りて立ち上がり、死屍累々の態を晒す部下を見やる。日ごろの鍛錬ゆえに昇華消滅のたぐいはしていないだろうが、無様な姿を晒してしまった事実は変わりない。
「そんじゃ、お邪魔するぜ?」
「貴方本当に意味解ってて使ってる?」
「客の疑問に疑問で返すとは、わはは、まだまだだな。じゃ、お邪魔するぜ」
魔理沙はひらひらと手を振りながら玄関の巨大な扉に消えて行く。美鈴はため息をついて正門衆の筆頭七騎を呼びつけ、負傷者の手当て、陣の最敷設等を指示した。
ぽつりと水滴が美鈴の鼻先に降りかかる。空を見上げれば、晴れ渡っていたはずの青空を、重苦しい雷雲が覆いつくそうとしていた。
今日のお天気八卦では雨の相は出て居ない。ならばどこぞの妖怪が嵐でも呼んだか。しかし五行溢れる幻想郷で天候操作のなにそれを行使するのはいかにも腑に落ちない――ならば魔女か。
妹様の癇癪を予言できるようになったのかしら、パチュリー様は、と美鈴はひとりごちた。最近は落ち着いてきてはいるが。いい傾向だ、と美鈴は思う。主君であるスカーレット姉妹とは長い付き合いだが、全てを壊す程度で監禁などしていては、いずれ紅の魔王の名も地に落ちるだろう。そういう意味では、まともに渡り合い、戯れることの出来る白黒の魔法使いは待ち望んだ存在と言える。誰に、と限定するのは、野暮なことだと美鈴は思った。
「ムフフ、パチェー様ったら、意外と魔理沙を帰さないためだったりして。あの黒いの、引っ張りだこねぇ」
暢気に呟きながら、美鈴は巨大な紅魔館を仰ぎ見た。
――どこかで火口のような笑い声が聞こえる。
* * *
「おや」
魔理沙は意外な遭遇に声を上げた。紅魔館はヴワル大図書館、あるのは本本本本本本本本本本本本本本本本また本。ありとあらゆる本が集うと言うこの図書館はその概念ゆえに無限の広さを持ち、時と夢の狭間をたゆとう知識の集合体ヴワルが図書館という体裁を取り浮上したり沈没したり知識を分け与えたりと行き当たりばったりに移動していたのを七曜の魔女パチュリー・ノーレッジが住み着き館長などをやっている場所である。紅魔館というところに繋ぎとめられているのは、七曜の魔女がどういう経緯か魔王スカーレットの盟友などをやっている性であった。
そんな所に態々やって来るのは魔法使いくらいなものだと思っていたが、なるほど、確かに彼女も魔法使いであった。図書館の入り口が開かずに右往左往しているアリス・マーガトロイドの背後に魔理沙は声をかける。
「奇遇だなぁ、アリス、お前もこそ泥か? ちなみに私は返却期限無しの借出しだ」
飄々と言う。アリスは面白いぐらいに飛び上がり、全力でそれ以上の醜態を晒さないように気をつけながらなるべく優雅に振り返った。
「あ、あら、魔理沙……そうね、奇遇ね、ふう……。
べつに本を借りに来たわけじゃないわよ。こそ泥呼ばわりは、一応聞き逃しといてあげるわ」
「見逃しといてやるぜ。で、入らないのか?」
「え!? ……入るわよ。今着いたところだったのよ」
「なるほど、なるほど。じゃ、ちょっと小悪魔呼んでくれないか? いやあ、私が呼んでもいいんだが、あいつは呼んだ奴ごとに対応を変える面白司書でな。お前にはいったいどんな爆笑挨拶をかましてくれるのか、私は驚くほど興味津々なんだ」
「へ、へぇっ。で、でも、そういうのって、当人だけの秘密にしておくのがあっちにとってもいいんじゃないっ? ほら、その、芸風が重なると気まずいから、とか」
「ははぁ……確かにその通りかもしれんなぁ。ううんむ、それじゃあ心優しいけど扉の開け方が解らずに半泣きになってたアリス君のために、やっこさんを呼び出してやろう」
「……ッ! ぐ、ぐう……」
再び真っ赤になったアリスを見て、魔理沙は遠慮無く爆笑した。これ以上笑うと本気でブチ切れるギリギリのところで笑い終えると、はねあがる横隔膜を押さえながら、普通に図書館の扉を開けた。
引き戸であった。
「……妙だ」
入るなり、魔理沙は片目を閉じて訝しげに呟いた。アリスは紛らわしい開け方の扉に向かって気合いの入った蹴りを入れている。
「小悪魔どこいった」
埃臭い空間がどっと彼女たちを包んでいく。静かな水面に投げ入れられた小石のように二人の存在は波紋を投げかけ、わずかな時間の後に浸透して静寂を取り戻す。
ヴワル魔法図書館の主であるパチュリーが使役する唯一無二が居ない。いつもならば朝だろうが夜だろうが扉を開ければそこにいる小悪魔が、今日に限っては影も形も見えなかった。
有り得ない事では無いのかもしれない。奴さんも忙しい時があるのかもしれないし、疲労が溜まって休憩でもしているのかもしれない。たとえ今までそうでなかったとしても、万に一回はそんなイベントが起きることもあるだろう、有るかもしれない、あり得るかも。
「だが、妙だぜ」
扉を開けば、悠然と立ち並ぶ本棚を背に、粛々と待っている小悪魔の、見る者を不安にさせる姿。あの邪気をこね合せて作ったような妖艶な人型がいないという事実が、これほどまでに心を乱すとは思いも寄らなかった。
なぜだろか。心の奥底で、恋の星がざわめいている。とても遠く深いところ、嵐の中心で真っ平らな静寂を過ごす自分自身が薄気味悪い哄笑をあげているような感覚とそれ自身が微睡みから起き出さない不安感を今初めて知ったような。
「アリス、行こうぜ。そのおもろい扉より愉快な事がありそうだ」
「これ以上愉快なことがあったら、わたしは胃潰瘍で倒れてるわよっ」
「そんときは私お手製の胃薬風味トリカブトを無料で進呈してやろう」
箒に腰掛け浮かび上がった。迷宮の如き体裁をなしている本棚の森を慣れた風に飛ぶ魔理沙を、アリスは慎重についていく。埃っぽい空気が淀み停滞している本の世界を彼女たちに知らせ、その奥でひっそりと過ごす魔女の存在を水面に張った油のように浮かび上がらせる。
静かすぎた。
魔女は化石のようについぞ変わらず本を読んでいる。閲覧用の大机がこの本の森においては場違いに思え、その上でゆらゆらと揺れる燭台の火が魔女の青白い顔をぼんやりと映していた。
魔理沙とアリスがやかましく着陸すると同時に、魔女は重たげな古書をぱらりとめくる。淀んだ泥のようで海のように深い両眼が薄く開いた瞼の奥から二人をみやる。
「おう、パチュリー、相変わらず機嫌悪そうで何より」
「機嫌がどうこうよりも状況がどうこう言ってほしいわね。三日前に強奪していった稀覯書、持っている風には見えないけど」
魔理沙は一秒ほど反応しなかった。
次いでゆっくりと首を捻り、
「……なんのことだ? そういえば妙に見覚えのない本が一冊二冊床の上にあったが」
「せめて机の上に、可能ならば頭の上にでも乗せときなさい」
ため息をつく。そしてゆるりと目線をすでに椅子に座っているアリスへ向け、いらっしゃい、と言った。
「まぁ、多分来るとは思ってたけど。あれだったら暫く呼んでも出てこないわよ」
「ごきげんよう、とは言っておきましょうか。それと単純な関連性で人妖関係を結びつけないでほしいわね。それで」
きょろきょろと辺りを見渡し、「紅茶はでないの?」
「言ったでしょ。淹れるのがいま居ないから、自分で持ってきてちょうだい」
「そのことなんだが」
魔理沙が割り込む。こちらは椅子の上で行儀悪く胡座をかき、大机の上に置かれた本を一冊スカートの下に突っ込むところだったが、さすがに丸分かりだということに気付いたのか、何事もなかったかのように元の位置に戻した。
「どういうこっちゃ」
「貴女の行動が、どういうこっちゃ、よ。端折って言うとね、今日で契約期限切れなの」
「ほう、クーリングオフは」
「そんな近代サービス知らないししかも逆でしょう時期が」
「まぁ気にすんな。で、帰省?」
「させないわよ。あれも大人しく帰る玉じゃないでしょうし。とりあえず契約更新は簡単なんだけど」
「何か、やむにやまれぬ状況か。迂闊だなぁ、わははは」
パチュリーは強烈な視線を魔理沙に向けた。魔理沙には効果がなかった。
「七曜契約は、悪魔を縛るには力不足よ」
アリスが口を開く。いつの間にか紅茶を傾けており、机の上に人形が給仕のように立っている。羨ましい。
「根元的に善悪を基準としている連中に、暦の道理は適当じゃないわ。適当というより、弱いわね。やるんだったら七日にすれば?」
「創世神話か? またぞろ鬱陶しいのを引き合いに出すなぁ。私、ソリがあわん」
「そりゃ天動説じゃ満足できないうわばみだものね」
「しかし、もう組成式は組んだんだろう、パチュリー」
魔理沙は逃げた。アリスとパチュリーはニヤリと笑った。
「ええ。ただ、どうあってもあれが自在になる時間ができるの、六時間ぐらい。別に放っておいてもいいけど、妹様の癇癪と被ったらさすがに怒られそうだし」
「お、おとつい暴れたばっかだろ」
「聞きに行きなさいな」
「ウウム、今日はガチなスペルカードをそんなに持ってきてないんだが……」
「その。妹様って、フランドール?」
「知ってるのかアリス」
「小耳に挟んだだけよ。ちなみに出所は貴女」
「笑ってごまかしておくぜ」
ことりことりと魔理沙とパチュリーの前にティーカップが置かれる。アリスの側にいた人形と首に縄をくくった人形が可愛らしい動作で一礼する。嬉しい。
「良くできた人形だ! 相変わらず。主人とは大違い」
「まったくね。このいじましさ、そうは出ないわ」
自分の人形を誉められて悪い気のするものは古今東西を見渡しても皆無で、アリスも例外ではなかった。何百回と無く聞いた評価だが、何千回聞いても心地よい。
わりとぐだぐだと取留めのない会話をする。最近の巫女は前にも増して怠けているとか、メイドが最近タネ有りマジックを身につけだしたとか、宇宙人が宙兎型電波望遠鏡を利用してオーブンの代理をさせ失敗したとか、茶飲み話が続いた。
そうして、黄昏時が近づいてきた。
* * *
昔、一人の神が居た。
『誰もが幸せになる、誰もが楽しくなる、誰もが笑顔で過ごせる、そんな世界を創ろう』と神は思った。
神の創った世界は争いが無く、諍いもなく、だれもが毎夜を宴で過ごし、神の願った通りの世界になった。
神の創った世界の外には、悲しみの溢れる世界があった。神は悲しみが入ってこないように、自分の世界を外の世界と隔絶した。
長らく神の世界は平穏だった。
もう、昔のことである。
郷愁……。記憶は鮮明にあの世界を覚えている。もはや還ることのないあの懐かしい故郷の臭いが目を閉じれば薫ってくる。
時間は、無意味。場所も、無意味。世界、それ自体が、無意味。
なぜ取り残されてしまったのか。なぜこの記憶だけが私にはあるのか。なぜ……皆消えてしまったのか……。
氷室が開く。境界の扉が開き私を迎え入れようとする。私の記憶にない偽りの故郷。おぞましくもほのめかすことしかできない場所への扉。そんなところへ私は還らねばならない。
――しかれども、役割は果たさねばならぬ。我が主上よ果て無き彼方より御照覧あれ、
『い
ざ
や
!』
七曜の呪縛が消えていく。一夜の自由に、名と声と魔眼を取り戻した一体のデーモンは、
哄笑した。
「……解放したわ」
竹林に湧いた温泉の話を遮り、パチュリーは呟いた。
同時に、図書館の入り口付近から、猛烈な邪気が溢れ出て魔法使い三人の正気に絡みつこうとする、それをあるいは箒で払いあるいは本の頁で膜を作りあるいは受け流した。
魔理沙はかるく箒を振り回して、残留する邪気を拡散させた。
「節操のない。矢っ張り憂さが溜まってたんじゃないのか?」
「……気がついたら休暇をあげることにするわ」
「労働基準違反ねぇ」
膨張した邪気は手繰られるように入り口付近へと戻って行き、高圧の魔素を形作ってやがて人型を模した異形となった事が解った。それが解るほどに濃密であり、また確固とした存在、居るだけで運気を奪い生者を巻き込み堕落させる渦動組成体、小悪魔という鎖から解き放たれたデーモンが降臨した瞬間であり、この解放現象により近隣にいた数十名のメイドは押し並べて発狂、あるいは昏倒した。堕落するものが居なかったのは紅魔館という特殊環境が悪運の殆どを引き受けたためである。
「こいつはいかん……余波が大きすぎる。下手を打たんでも紅魔館に孔が空くぞ」
深刻そうに魔理沙は言うが、その表情は呑気であった。解き放たれた小悪魔が如何に強大な力の持ち主であっても、この館にはそれを正面から小指で叩きのめすことの出来る化け物が一人、存在概念そのものを消し飛ばすことの出来る蕃神が一匹いる。たかが魔女の使い魔一体程度に壊滅する場所ではないということをこの場の誰もが知っていた。
だがそれはくだんのデーモンも認識しているはずであり、じゃあどうするつもりだ、興味有るなあ、と魔理沙は傍観する気満々であった。
アリスは奇妙に無表情で一言も発さない。
「多分……外に出るつもりだわ。湖に出られればミラーワールドの要領で比較的楽になるから……」
「いま適当なこと言わなかったか」
「ジャスティファイズ」
「ジャッジメントしたろか」
パチュリーは顰めっ面をして椅子に沈み込んだ。
同時、大地をひっくり返すような激震がきた。
「「……?!」」
* * *
「うん……ッ?!」
紅魔外苑食堂。美鈴はすすり上げていた蕎麦から注意を逸らし、本館の方へ意識を集中した。刹那の内にどんぶりの中身を胃の中にぶち込むと、
「対衝撃――!」
百器の銅鑼が一斉に鳴り響くような大音声で叫んだ。次の瞬間、横殴りの地震の如き衝撃波が本館から庭を突っ切って城壁へ至り、盤石の巨壁を撓ませながら激突する。
「……状況!」
大皿の牛の丸焼きを、恐ろしい速度で食い尽くしながら言う。明らかに緊急の状況であるのに呑気なものだと思うが、すでに状況を把握している美鈴にはもっとも重要なことである。すなわち先の馬鹿馬鹿しいまでに巨大な衝撃波は紅魔館の地下深くが発生源であり、そんなところにいてそんなことができるのは一人しか居ないからだ。それは全てのメイドが承知していることで、それゆえ腹ごしらえをする門番を誰も怒りはしなかった。
「脱落者無し、昏倒者無し、足の脛を打った者一名! 全隊に緊急出動をかけました!」
「参式九龍陣の敷設完了まで四半刻!」
がたんと机と骨まで食い尽くされた牛の残骸を飛び越えて本館入り口へ。蜂のように飛び回る正門衆が紅魔館の周囲を覆うように取り囲み、内側からの破壊に備えて陣を敷く。
筆頭七騎に任意対応を言いつけると、美鈴は重々しい扉を眼力一つで全開にさせ、紅の巨大な内蔵を飛びながら、
「従者長は――」
「此処にいるわ」
幻のように隣に現れた従者長に内心舌を巻く。相変わらずの神出鬼没ぶりだがこの事態に至ってはそれが実にありがたい。
毎度のこと、だが。
美鈴はため息をつきながら、
「しっかし、一昨日大騒ぎしたばっかよ? 妹様もタメ技覚えたのかしらねぇ」
「イメージ崩れるわね待ち状態のフラン様なんて」
「いっぺん見たらトラウマになりそう。にしてもパチュリー様ったら、癇癪起こすの解ってたんなら知らせてくれれば良かったのになぁ」
従者長、十六夜咲夜は怜悧な顔を僅かにしかめ、
「……どういうこと?」
「今朝がた怪しげな雷雲がでてきてね。ありゃあ誰かが低気圧を呼んだ証拠だわさ。この辺でんなことするのはパチュ子の字ぐらいだから」
「それはおかしいわ。今日、パチュリー様は身動きとれないはずだもの」
「は?」
言われたことが理解できないといった風に美鈴は咲夜へ振り返った。咲夜は顰めた顔を元に戻し、魔女が使い魔の処理に追われて他のことにかまかけるひまがないこと、その使い魔はすでに解放され紅魔館のどこかにいることを伝えた。美鈴は毛虫でも飲み込んだような顔をして、
「やっかいな!」
と叫んだ。
「どうするのよ? どっちも無視できるもんじゃないし、片一方は総力戦でなんとか互角っぽいなぁて相手よ。レミリア様をたたき起こす?」
「あーだめだめ、昨日神社でツキイチ状態の巫女に封印かまされてね。めそめそ泣いてて頼りにならないわ」
「うわぁえぐい。じゃあ本気でどうすんの。手詰まりもいいとこよ」
「大丈夫、おそろしく都合のいいことに」
一瞬咲夜がコマ落としのようにブれ、右手に黒白の物体を吊下げた状態で確定した。
「ほら、ねこじゃらし」
「そういえば来てたわね……」
「……。うおおッ、陰険で黴臭い図書館からいきなり目に悪い館の廊下に驚愕の瞬間転移!」
「35点。もうすこし修飾語を削りなさい」
はなせはなせと藻掻いているモノクロの魔法使い、霧雨魔理沙。恐るべき破壊のフランドール・スカーレットを唯一単独で殴り倒したただの人間、紅魔館御用達の便利人である。
咲夜は魔理沙を吊下げたまま、
「と、いうわけで。妹様は貴女に任せるわ」
「馬鹿な……今日は高みの見物の予定なんだが。お、おまえが気張れよっ」
「いやよ老けるじゃない」
「なんだその今考えました的言い訳」
『今更老けるもなにもねーだろ』と言って驚愕に打ちのめされるか爆笑して前後不覚に陥るか美鈴が迷っている内に、待避待避という叫び声が巨大な廊下の遙か先から響き始め、ついで、ドォン、ドォン、という愉快極まりない爆音が近付いてきた。咲夜と美鈴は顔を見合わせると即座に身を翻し、だらんとしていた魔法使いを爆音のする方へ投げつけた。
魔理沙は紅魔廊下を自由落下しながらやれやれと大業に肩をすくめ、
「ちぇっ……ま、しかたねぇ、目指せ体脂肪率10%オフだ!」
気合いを入れると箒に飛び乗り宝玉を展開させる。
させようとした。
妙な違和感に気付いてもう一度同じ動作を繰り返す。箒に飛び乗る。箒。箒。
あれ?
「箒どこいったぁぁぁぁ?!」
驚愕と危機感が魔理沙を襲い、叫ばせる。美鈴と咲夜はその声にあわてて振り向き、素晴らしい勢いでダイビングをしている小さな白黒を見つけ、叫び返す気力を得た。
「この迂闊!」
「お前だボケ性悪メイドッ」
浮遊の術を組んで落下を止める。墜落死という爆笑必死のニュースが幻想郷を駆けめぐらなかったことに心底安堵しながら、魔理沙は冷や汗を一筋垂らした。
「七代末まで晒し者にされるとこだったぜ……! しかし、くそ! こいつはマジやばい」
爆音はすでに聞こえない。深海の如き圧力がまともな聴覚を乱し視界を揺らし脳髄を破裂させようとする。刈り取られそうな意識をつなぎ止め、剥がれ飛んでいく恒常術式の上から防護式を組み合わせて津波のような魔力のそれを必死で受け流す。吹き付ける冗談のように巨大で強大で凶悪なそれ、魔力という名すら破壊し、純粋な力、破壊のための力、一切合切を無に返す狂気の蕃神は魔理沙の存在を知ってけたたましい嗤い声をあげながら空間をきしませやって来る。
恐るべき破壊のフランドール、運命殺しのスカーレット!
「あはははは」
笑い声。それは凶悪にゆがむ世界を突き砕き魔理沙に届く笑い声。
「あはははははははああ!」
空間をぶち抜き世界を砕き破壊の権化はやって来る。魔理沙の前に浮かぶその姿は可憐な童女そのものだが、魔法使いの目には空間に連続するビックバンにしか見えない。
だが、それを魔理沙は、可愛いもんだ、と思う。彼女は戯れているだけなのだ。
その証拠に、運命殺しには、満面の笑顔が。
「魔理沙――」
上気した声。紅玉の澄み切った瞳。
出鱈目に崩れる視界の中で、無邪気なもんだぜ、と呟く。
「あ・そ・ぼ」
視界がコマ落ちし、空間を切り裂く紅の波動を横にする。ふたたびコマ落ち。紅色の衝撃が遙か彼方にから追いつき、二人の身体を木の葉のように揺らす。
「ッッハァ! 久々に三途の川が見えた!」
完全なる従者に襟首を掴まれ、冷や汗を流しながら、魔理沙は萎縮する心を奮い立たせるように笑った。咲夜は再び美鈴と併走する。
非常に面倒なことになった、と、咲夜はため息を吐いた。
「しょうがないわ……美鈴、あなたは正門でパチュリー様の下僕の相手をして頂戴」
「出る幕無いかもしれないけど、そうするしかないわね! そっちは!?」
「魔理沙に箒を取ってこさせないと、毛玉の役にも立たないわ。だったらやることは決まっている」
従者は洒落た様子で片目を閉じ、
「――私がお相手仕るのよ」
荷物を投げ渡して再び身を翻し、麗しい動作で構えを取った。
美鈴と魔理沙は一瞬沈黙し、そして双方共に獰猛な笑みを浮かべながら、
「委細承知――!」
「任せてやるぜ」
駆け抜けた。
爆撃に似た空間飛翔などというでたらめな現実がやって来て、咲夜の前に止まった。
「咲夜、そう、さっきのは咲夜の仕業ね!」
フランドールは怒っていた。単純な怒りであり、言葉にすることも出来ない、拙い怒りだった。だが、その純粋な怒りの圧力はそれゆえに大地を割り天を裂く。
「ええ、はい、仰る通りでございますわ、妹様」
「非道いわ! せっかく魔理沙と遊べたのに! 魔理沙をどこにやったの!?」
「全くもってお答えできません妹様。ただ、そのうち現れると、それだけはお約束いたしましょう」
従者長は小首を傾げ、
「それまでの間――」
ちりん、ちりん……右手に挟んだナイフを鳴らす。銀の刀身が魔力をはじいて零れるように輝き、一鳴りごとにナイフを増やす。
その戯れ、手を抜けば即死。全力であっても即死。だが届かぬ即死に意味はなく、ならば決して届かせない。それを行うのはまさしく彼女、完全無欠の絡繰幻霧。
完結する紅魔の狗は、しなやかにほほえんだ。
「タネ無し奇術など、如何でしょう?」
* * *
「ひとつ、聞きたいことがあったわ」
激震で頭を打ち、さらに忽然と消えた黒白の事を気にした様子もなく、魔女は人形遣いを睨む。
「貴女とあれの波長……極めて相似した純粋魔力の螺旋型波動状態……私も知らないあの悪魔の故郷を、貴女は知っているのね」
アリス・マーガトロイドは奇妙な無表情を崩さない。ただし、しこたまぶつけた小さな鼻は赤かった。
「推測よ。あれが硫黄の湖の番をする赤ら顔の悪魔の一体であるのならば私の考えは意味を無くす。それは喜ばしいことなのかしら。あるいは」
魔女はカップの縁を指で弾いた。底をのぞき込み、もとから陰気な表情をさらに顰めた。紅茶占いの結果が気に入らなかったらしい。
上海人形が、くるくるとその場で回って、二人を和ませようとする。パチュリーはそれをみて陰気に笑った。
「幻想郷は真の幻想なのよ」
ぽつりとアリスは言う。問の答えではなかったが、それだけで魔女は満足せざるを得なかった。結局の所、自らが踏み込んでよい範囲かどうか見当がつかなかったからだ。
「そろそろ行きましょ……助けがいるだろうし」
「そうね。魔理沙、きっと泡を吹いてるわ」
くすりと二人で笑う。視線の先には、箒が横たわっている。
* * *
足の裏に気力を込め、駆け出すと同時に爆発させる。すなわち韋駄天を可能とするそれによって美鈴は空中を駆ける。左手には魔理沙の襟首。浮遊術はその名の通り浮かぶだけであり、こちらのほうがよほど速い。
「だが、やっこさんは今どこにいる!? 場合によっちゃ私と鉢合わせだぜ!」
その疑問は正しい。フランドールの出現によって紅魔館の魔力がかき乱され、デーモンの居場所を完全に見失っている。パチュリー・ノーレッジの言うことが当たれば確かに外へ出ようとするだろうが、はたして正門から堂々と出てくるだろうか。何としても箒、引いては図書館へたどり着かねばならない魔理沙にとって賭博といえた。
だが――もっとも重大なのは、十六夜咲夜であろう。いかな従者長とはいえあのフランドールを相手取っていては死んだも同然だ。時を操る程度では、あの破壊からは逃れられない。
相性が悪い……いや、破壊に相性も何も有りはしない。あの手のものをうち倒すには破壊を破壊するか破壊されないかそもそも破壊をさせないかのどれかしかない。そんなことが出来るのは巫女か剣士か魔法使いぐらいだ。メイドではない。
急いていた。咲夜がどうなろうと大して重要なことではないが、彼女は時間稼ぎのために相対しているのだ。自分を待ってやられてしまう、という情景を、魔理沙は見たくない。自分より先に行ってしまうなど、魔理沙は許容できない。
信じられるだろうか? 誰より速い自分が、後れを取るなど!
歯噛みする思いをつぶすように、その悪魔は現れた。
紅魔館の影……言い知れぬ角から邪気が間欠線のように噴出し美鈴を襲う。水銀のような密度を持ったそれを美鈴は喝一言で弾き、剣指を形作って撃ち払った。
ずる……ずる……濃密な黒の渦が魂を揺さぶる奇妙な金切り声を上げて渦動する。やがて一点に収束しだしたそれは瞬く間に人型を取る。同時に渦動はその方向を外側に向け、運気生気を貪欲に吸収しながら、
『く、か、か、か、か、か、か!』
哄笑した。
「ええい、いらん予想ばっかり当たりやがる……門番、あとは頼んだっ」
「合点承知いッ」
美鈴の手を放れ、浮遊術を恒常展開させながら大気圧縮術を口頭詠唱。連続的に行われるそれに適量の魔力を注ぎ後方に爆発させることによって強力な運動力を生じ、飛翔体としての条件を満たす。繊細な動作は望むべくもないが、速度だけならばそれなりに満足の出来る代物である。
空間が連続的に圧縮爆発を繰り返す轟音を置き去りにして、魔理沙は弾丸の速度で飛翔する。
『何処へ往くか、霧雨魔理沙――!』
雷鳴のように轟くデーモンの声は渦動を強め力となって魔理沙を襲う。単純推進する魔理沙に追従する宝玉が自動対抗措置としてレーザーを展開するがまさしく焼け石に水。だが、この場にいるのは魔理沙とデーモンだけではない。
「――破ッ!」
二人の間に割って入った紅の人影が破邪を唱え、デーモンの邪気を相殺した。その間に魔理沙は視界の端へと逃げ出している。
デーモンは蠱惑的な口唇を耳元まで上げ、
『よくぞ邪魔をした、門番!』
と気勢を上げた。同時に全方位に向かっていた渦動の一部が指向性を持って美鈴に向かう。それをふたたび気迫で弾き、左手を前に、右手を奇妙に持ち上げた構えを取る。
「どうも、上手いこといかないもんね。貴女も私も」
『かかかッ……解って居るではないか。だが、一介の仙道如きが我輩の前に立つなど』
デーモンの右手が悪意の水銀となり、
『片腹痛し!』
巨大な怨霊の群体となって展開し、周囲にある唯一の生気、気力満ちる紅美鈴を喰おうと殺到する。
「ふん……! そうさねあんた風に言うならば、妖怪仙人なめんじゃないわよッ」
伸ばされた左手が鞭のようにしなり、腕に沿って放たれた飛ヒョウが、一振りに一本、秒間にして十本、巨大な怨霊に飛翔した。邪気退散の意気を込められたそれは衝突と同時に怨霊の一部を吹き飛ばし、連続する銀糸の群れはあまたの怨霊弾を完全に昇華させる。
美鈴は左腕をしゅるりと真横に開き、今度は剣指で五星を描く。奇妙に持ち上げられた右腕が余人には理解不能な法則に従って形を変えた。
帰命退散甲乙丙丁、
「縛導」
『遅し!』
大波のような威圧感をもってデーモンが近接する。とっさに身体を引こうとするが一歩遅く、出し抜けに伸縮した悪魔の腕に顔面を捕らえられた。
『他愛のない……!?』
違う。掴んだはずの仙道の姿は霞の如く消え去りあとには残り香のような気が漂っているだけである。気付くと同時、右手を再生させ両手を触手のように背後に回し十字に組む。その交差部分に縮地によって遁甲した美鈴の掌底が入った。
「は、受け止めたわね?!」
『如何にも』
「ならば驚愕せよ――」
続いて手刀、そして両掌底が来て、
「十殺連環」
虹拳、
「彩虹風鈴!」
吹き荒れる嵐のように拳が降り注ぐ。極彩弾幕が一つ『彩虹の風鈴』、その原型となった多段拳。弾幕と違い一撃ごとに良く練られた火気が巨石を打ち砕くほどの威力を持つ。火は古来より魔を滅する浄化であれば、最初の掌底を当てた位置を中心に完殺の嵐が吹き荒れ、連環するそれは百度滅してなお足りぬ。殴打の音は風切り音にかき消され、まるで一輪の風鈴が鳴り続けているようだった。
だが――
『カ、カ、カ、カ、カ!』
デーモンの哄笑は止まない。どころか自らの身体が弾け飛ぶごとに声は大きくなっているようだった。だがそれは当然のことであり、さきほどから美鈴には手応えというものが皆目無い。まるで、巨大な滝に向かって拳を振るっているような思いがして、僅かに修業時代のことを思い浮かべた。
デーモンの実体は渦動……美鈴の気は悪魔を形作る邪気の組成式に届く前に、全て吸収、転換されてしまっていた。デーモンの組成式が美鈴の火気を組み込み、力を増す。
だが今はそれでいい。そもそもここで滅しては魔女が切れる。
「勘違いするんじゃないわ……これは、準備体操ってものよ」
竜巻のように後退する。そして両腕を弓のように後ろへ引き、
「――出ろ! ここは、狭すぎる!」
コウ、というかけ声とともに双掌拳を放つ。壁のような気力の塊に邪気ごとデーモンは押し流され、紅い廊下を弾け飛ぶように通り過ぎ、それを美鈴は追う。再び十殺連環。気力の壁を散弾のように利用して波紋手甲とし、更に勢いを増した拳がデーモンを打しだく。
『……効かぬと解らぬか、門番!』
「そんなことを気にしていいのかしら!? そうら、もう既に――」
美鈴の拳が方向を変えた。打ち下ろすようになった気力の甲壁拳はデーモンの身体を大地に叩きつける。
大地――大地である。
デーモンは唸り、頭を巡らせた。悠然と佇む巨大な紅魔本館を背後にする、そこはつまり正門の守備範囲。強い圧迫感が渦動を収縮させ、それで幾重にも張り巡らされた陣の上に居ることに気付いた。
三式九龍陣……紅美鈴と正門衆が阿吽の呼吸で発動した捕縛・緩衝型の大型陣は、いま本来の目的を違えてデーモンを捕らえていた。陣を張り、陣そのものでもある正門衆千騎がデーモンに各々の得物を向ける。だが、デーモンの意識は十把一絡の雑兵に割り振られもしない。
紅美鈴、紅魔大正門番は、守るべき門を背後に降り立った。視線が合わさり、その間に火花が文字通り散る。
ざざざ、と、美鈴の背後に七つの影が現れた。筆頭七騎と呼ばれる、正門衆の中でも特に強力な者達であり、門番紅美鈴の手足でもある剛力無双の兵達である。
頭を垂れた七騎は口々に報告した。
「三式九龍陣、完成いたしました!」
「然れども彼奴との相性悪く、捕縛には至りませぬ」
「壱式滅殺陣の展開許可を嘆願いたしたく候」
「どーしましょーか!?」
美鈴は胸を反らし、必要無し、と一言叫んだ。了、と七騎からの返答。
『……見事なものだ、紅美鈴! だが、足りぬ!』
哄笑を上げたデーモンは翼を広げる。頭部と背部のそれぞれ一対、黒々とした蝙蝠のような翼は見る間に巨大化していき、ばっさと花開く。ひとうち試すように羽ばたくと、巻き起こる風の乱れが邪気によって汚染され、デーモンの周囲を外界から分離させる。一気に高密度となった対象に九龍陣が負荷を訴え、最近隣で展開していた三十余名が達磨落としに昏倒した。
『カカカカカッ!』
「――陣の相互連結を軟化して維持耐久に努めい! 崩壊させては成らん!」
筆頭七騎の一人が指示を出す。正門衆千騎が一斉に諾と答え、陣の敷設範囲を広げ、密度を下げた。すでに陣の最外周は紅魔館を越えて湖の外にまで及んでいる。
どうすればいい――と美鈴は考える。館の内部にはまだフランドールが居る。彼女が地下室から出ている限り、紅魔館の周囲は常に警戒しておかなくてはならない。パチュリー・ノーレッジが雨を降らさないいま、その行為は重要度を増している。しかしこの空模様は明らかにおかしい。いや、それよりも十六夜咲夜の事がある。霧雨魔理沙がどれだけ速やかに流れ星になるか、それがここからでは分からないと言うことが如何にも拙い。
さらにまずいことに――
深淵から昇り立つような嗤いが響き、その余波だけで精鋭千騎が次々と昏倒していく。陣を下げたことにより消耗の度合いは確かに減ったが、強壮な胆力を持つ正門衆がこうも易々と脱落していくなど、美鈴には信じがたかった。なによりデーモンは翼を広げてからこちら、未だに攻勢らしき行いをする素振りも見せていない。唯の嗤い声だけで意識を刈り取られるほどの瘴気……その邪悪さは如何ほどのものか。
倒してはならぬ。その条件は単純に滅するよりも数段難い。紅美鈴が居なくばその邪悪は九龍陣を食い破り正門衆を堕落へ追いやるだろう。それは永劫の苦しみの奴隷……。デーモンという傲慢かつ貪欲な渦動存在に対抗することの出来る彼女が中心に居ることで初めて、倒さぬ、という選択肢が選べるのだ。
ふん……小賢しい……つまるところそれこそがやるべき事。門番には門番としての行いがあり、それを逸脱するのは理に合わない。確かに妖怪・紅美鈴という立場であれば如何様にも対処できよう。翻っていま彼女は一介の門番であった。自らを偽るなら、気力は彼女に通じない。
十六夜咲夜に気遣いなぞ無用だ。紅魔の狗という蔑称は伊達ではない。同時に、霧雨魔理沙も同じく。
そう言ったことを性根で理解しているからこその門番であり、紅美鈴もその齢と相対的に見ると成り立てであるが、そのことを肝に銘じていた。つまり、どうすればいいか、という考えは、無駄である。結局やることなど決まっている。
主人を守るは咲夜の役目、館を守るは美鈴の役目……。門番衆に機微など無用。
精鋭七騎に散を命じた。諾と返事があり、七騎は一斉に各々の位置する九龍陣に戻っていく。
デーモンの表情がきりきりと釣り上がった。笑い顔に見えなくもないが、もっと邪悪な何かが内側から膨張しているような、そんな印象である。
『ようやっと腹を決めたか、紅美鈴――』
もはやデーモンは本来の目的を忘却している。強大に立ちふさがる堅牢な門壁を破壊せしめんと、デーモンの存在渦動の主軸が紅美鈴ひとりに合わさる。その理由、内からわき上がる衝動の意味など、自身も知る由無し。
どろろろ……どろろろ……太鼓の地響きのような音……じゃあん、じゃあん、という銅鑼の音……筆頭七騎がひとりの指揮する正門衆奏楽隊の重厚な音色が周囲一帯に鳴り響く。勇壮に九龍陣を鼓舞し、デーモンのおぞましく侵略する邪悪をはじき飛ばす。音色は美鈴の腹にも響き、新たな気力を生み出した。
紅魔門番においては。
一つ、生かして帰す必要なし。
二つ、内において境界たれ。
三つ、紅魔一門無敵也。
「私の決意なんてどうでもいいの。曲りなりにも紅魔門番、頭が無くても身体が迅る。なぁに、ちょっとした余裕よ」
『余裕とな――』
紅い唇を舐めるように持ち上げ、紅美鈴は一歩、高々と踏み込んだ。震脚一発、足裏から伝わる金気が地に広がり、金気の象徴、武具の針山を噴出させる。剣、槍、矛、青龍刀、鉄鞭、日本刀、鉄扇、ケンコ圏その他諸々、武具の叢を造り出すその陣形、金剛武陣の中から一本の剣を掴んで引き抜き、試すように宙を切り、
「タイマン張ってやろうって、そういってンのよ!」
切っ先をびしりとデーモンに向けた。剣柄にたなびく黄色の房が、その名剣の唯一の装飾。龍のように舞い、虎のように盤石、君子のごとき天命。その銘、碧命剣――
「こいやぁ!」
『カカカカカカカアッ!』
哄笑を大きく響かせながら、デーモンが翼を打ち鳴らした。空間を引き裂く邪悪の球体が大地を砕き空気を汚し、魔獣の如き正体が九龍陣の捕縛を引きずりながら邁進する。自らを極大にして極圧の悪魔弾とばかりにデーモンは切っ先を向ける紅美鈴に襲いかかる。九龍陣の負荷はもはや限界を超えんばかりだが、精鋭七騎の優れた力が豪壮かつ柔軟に陣を束ねて負荷の大半を還元した。本来の対象であるフランドールとデーモンの相違による齟齬は正門衆の疲労を何十倍にも跳ね上げるが、それを感じさせぬ重厚にして壮大な陣容である。それを美鈴は雰囲気で察し、心地よさそうに唸りを発した。そしてその唸り声ののまま剣を矢に、躯を弓にと引き絞り、
「うるああああ!」
迫り来る邪気の球を貫徹する。切っ先は邪気の位相面を貫き、重なり合った渦動を貫き、デーモンの組成式そのものを串刺しにした。破邪の気力を針のように剣にのせて二重の防壁を破り、剣の切れ味のみによるそれで論理存在である組成式を斬りつける、魔女が見たら顎が外れるに違いないそれを美鈴は何の出し惜しみもなく幾度と無く繰り出す。狂ったようにデーモンが吼えたけり、爛々と輝く憎悪の魔眼が紅美鈴を睨め付ける。
途端、美鈴は強烈な目眩を感じて剣を引いた。視界が万華鏡のように入り乱れ、躯の支配が崩される。
魔眼!
迂闊、という思いが美鈴に浮かぶ。悪魔の視線はそれだけで強烈な魔術である。吸血鬼が魅了の眼を、月兎が狂気の眼を持っているのと同じように。すると兎は悪魔なのか?
『 戯
め
け
が!』
「小癪ッ……!」
一喝して乱れた気脈を整理した。たかだか魔眼ごときで紅美鈴を支配するなどできはしない。できはしないが、動きを止めることは出来た。それで十分、デーモンの用は足りる。
邪気の球体が美鈴の全身を囲い込む。美鈴はとっさに碧命剣を眼前に立て、刃に親指を走らせたが、次の瞬間には圧倒的な魔導嵐にふき晒された。そこは渦動の内側……無防備状態の門番に次元的なヴォルテックスが襲いかかり、遠慮呵責無しに喰い荒らす。美鈴の気脈が致命的に乱れ、もはや唯の肉のつながりになった彼女の四肢を引き裂き、磨り潰し、紅美鈴を構成していた全ての素粒子は渦動の根元であるデーモンに吸収された。
渦動にはじき飛ばされた碧命剣が、美鈴の展開した武具の叢に再び突き刺さった。
『美味! ――我が偉大なる血肉の一片となる栄光、まずは汝にくれてやろうぞ!』
* * *
――FUUUUUUURRRYYYYYYYYYAAAAAAHHHHHHHAAAAAA!!!
音響……自らの力それ自身で崩壊する程の激烈最強凶悪な破壊の概念、その中心で少女は笑う。笑い、嗤い、瘧に掛かったように。キュビズムの如く捻れ曲がった少女の笑顔が連続する空間の規律を掻き混ぜる。
陽炎のような揺らめきが幾度か現れて消え、十六夜咲夜の姿が忽然と確定した。
「ああ、もう! あの黒白、寝てるんじゃ無いでしょうね……!?」
間髪入れずに襲いかかる破壊の衝撃。十六夜咲夜に隙という現象は起きようがないが、フランドールの破壊は時空を軋ませ咲夜の時間停止能力を阻害する。空間が断裂し時間が連続性を失うという事、それほどの破壊。紅の衝動。
「咲夜ったらぁあアアアAA、よおおおけてないでぇぇエエエ、あ・た・り・な・さぁぁぁあイイEEER!!」
空間が紅に炸裂した。時を止めて移動する咲夜はその空間を渡ることが出来ず、やむなく現実時間に同調した。すぐさま客観視点ではコマ落ちのように姿を消し、修復された空間を渡る。
先ほどからこんなことを繰り返してばかりだ。絡繰糸代わりのナイフは投げたそばから消滅し、フランドールの身体をかすめることもしない。アサッシンは人を殺すのが役割で、竜を倒すことは役割ではない。非力、非力、唯ひたすらに非力! こうやって逃げ回っているのがせいぜいだが、これはまさに綱渡り。フランドールが癇癪を起こして禁忌剣を抜けば、それで自分は消滅する。フランドールが飽きて禁忌弾を放てば、それで自分は崩壊する。
しかしながら、いまのところ時間稼ぎという目的は果たせていた。フランドールは時間を渡る咲夜を捕らえることが出来ず、闇雲に破壊の衝撃をまき散らしているだけであり、外に出ていこうとはしない。
だが咲夜は気付いていない。絶え間ない空間の破壊は紅魔館の容積を削り、すでに彼女たちの位置は正門庭に近接していることを。咲夜の迂闊と言えるだろうか? 決してそうとはいえない、フランドールがあまりに出鱈目であったが故に。
「ヒィィィイイイRYYAAAAAAAはああああああ!!!」
この世の物とは思えない笑い声とともに、フランドールの針金のように繊細で凶悪な左腕が振るわれた。ある程度の方向性をもって解き放たれた紅の破壊衝撃が種々様々な要素を破壊しつつ驀進する。
紙一重という余裕で回避した咲夜は見た。紅魔館の巨大な壁面が紙切れのように崩れ、消滅し、その先にある邪悪な渦動存在を。
――正門、小悪魔、美鈴は!?
瞬間的に状況を理解。まずいと思ったときにはもう遅い。フランドールが咲夜から興味を外し、猛烈に邪悪に渦動するその魔導組成体に目を向けた。
「ああ、あれは何かしら、何かしら、何かしら」「大きな邪悪、邪悪、邪悪!」「魔理沙、魔理沙、魔理沙に似てて」
「ああ、とっても―― 見 て み た い ! 」
幼く無邪気な声が四重に響く。幻聴でも空気震動の異常でもない。それはまさに四つの口から紡がれる、四つの身体の破壊の化身。フォー・オブ・アカイント……自らを破壊する異次元同律存在の召還……なぜこの瞬間に!
「筆頭七騎、状況は!?」
「美鈴様が――」
最も近隣で九龍陣の一端を束ねていた七騎のひとりが、震える声で答える。震えている? あの不敵な正門衆が?
「美鈴がどうしたのっ」
「く――『喰われ』ました!」
咲夜はデーモンに目をやった。うねる瘴気の球体が暗黒的な渦でもって周囲の位相を断絶し、膨張する、その瞬間、渦動の切れ目から垣間見えるデーモンの組成式。朱く燃え上がる血流の髪と虚の魔眼、悪辣に引き吊ったあでやかな口唇。だが、その顔は。その表情は。その仕草は。
――それは紅美鈴の顔だ!
四重の破壊が紅魔館を飛び出て、デーモンに近付いていく。重苦しい雨雲が日光を遮っていなければ、フランドールは一握の灰になってしまうところだった。
デーモンとフランドールが相見える。ふと思う。これで今日一日を穏便に終わらせる目論見は潰えた。警告灯のように自身の存在を主張するデーモンを、猫のような好奇心を持つフランドールが見過ごすはずがない。自分が行うであろう後始末を考えて、十六夜咲夜は場違いに諦観のため息を吐いた。
『カカカ……出おったな、スカーレットの忌み子めが! 汝の血肉は甘露に相違ない!』
「あら? こいつ」「あら? 魔理沙じゃないわ」「あら? でもこのおかしなかんじ」「あら? とっても面白そう!」
ワルツを踊るようにフランドール達は舞う。あまりに凄惨な光景は、それが何の意図がなくとも見る物にある種の芸術を感じさせる。フランドールはそれすらも破壊する。無垢な意志を持った全否定存在が一体のデーモンと戯れようと渦動球体を撫で上げた。
「「「「あら?」」」」
破壊の腕は宙を切る。変わってフランドールの破壊の象徴、紅の衝撃が暗黒渦動を凌駕する勢いで吹き荒れた。デーモンとは規模からして違うそれは、紅美鈴という起点を失った九龍陣をいともたやすく吹き散らす。
オーロラのように、紅い幕が広がっていく。
――気脈に乗った? 美鈴の能力を吸収したのか。
バルコニーに立つ咲夜はひとり紅の衝撃をやりすごし、デーモンの突如の消失を推測した。渦動吸収……それこそがデーモンの真の恐ろしさ。紅美鈴の宿っていた肉体を喰ったデーモンはぎここちないながらも縮地遁甲をやってのけた。ではそんな渦動存在が次に狙うのは。
デーモンが中空に現れた。二対四翼羽ばたかせ、紅の衝撃を位相球体と渦動と紅美鈴の気繰力によって受け流しながらフランドールの一体に覆い被さる。球体内部に取り込んだところで、全ての渦動をフランドールに向けた。
……十全の力を現界したとはいえ、スカーレット姉妹を相手取ってはいかなデーモンとはいえ抗しがたい。ならば対抗できるだけの力を吸収すればよい……フランドール・スカーレットの巨大すぎる存在はデーモンの許容範囲を超えていたが、紅美鈴の身体を吸収することによって、それを飲込むことが出来るだけの存在限界を獲得した。当初デーモンは正門衆全騎を渦動吸収するつもりだったが、門番の意外に強大な潜在能力がそれを不要とした。
デーモンは目的を見失っては居ない。強引で場当たり的だが、確かにその目的は一つの方向性を持っていた。
その目的とは――
『“汝や、関せず”!』
強制言語。バビロン塔を打ち砕いた悪魔起源音声。
かっとデーモンの魔眼が開放された。のぞき込んだフランドールの視線――それすら破壊の放射である――に減衰されながらも、魔眼は禍々しい効果を発揮する。
あ、という可愛らしい声を上げて、フランドールの幼い身体が硬直した。デーモンの強制音声と魔眼の二つに加え、新たに獲得した気繰力による封殺の属性が三重にフランドールを絡め取る。これだけでも十分とは言えないが、上空の雨雲から垂れ下がる水気が吸血鬼の力を減退させているうえ、四つに分裂したフランドールはその規定外な能力ゆえにある意味で自分達自身を食い荒らそうとするウロボロスであり、若干の力を自身に振り分けなければならなかった。
それだけのお膳立てをしなければ、紅美鈴を喰らったデーモンといえども吸収しきれないのだ。
紅美鈴の情景が再現された。一挙にフランドールの一体を絡め取ったデーモンは一瞬で渦動吸収を完了し、フランドールの一部、破壊の概念を獲得した。
デーモンの組成式がまた組み変わる。魔眼が黄金に輝き、釣り上がった口元から長大な犬歯が唇を突き破って飛び出した。背面の翼が身悶えするように変態する。極彩色の羽根を備えた虹色の翼、紅美鈴とフランドールの特性を誇張する魔獣の証。
デーモンが、ごうごうと哄笑する。我は成れり、我は成れり。紅に染まった渦動が端々に虹色を垣間見せながらうねり狂う。
フランドールがそれを見て無邪気に笑う。自らを食い尽くされながらもその笑顔に曇りはない。むしろ狂喜。
「すてき! あなた、名前はなあに?」
『我が名を問うか、スカーレットの忌み子! 貴様に知らせる名など無いわ! ――下がれい!』
紅の渦動が回転速度を上げた。それぞれが自身の渦によって崩壊、再生、また崩壊――と循環、それに付随して発生する八卦相克による調和現象が、フランドール本人を撃ち落とさんと猛襲する。
三つのフランドールは歓声を上げて紅の衝撃を撃ち付けた。あらゆる何かを破壊する力が八卦渦動に内包された紅の力、同属性である破壊の力と拮抗し、……否、競り勝ち、デーモンの組成式が大地を削って後退する。かああっ、とデーモンが唸り、極彩の翼をはばめかす。
『うぬれ、これでもまだ劣るか!? 何という出鱈目、何という非常! ……然れども!』
八卦渦動を紅美鈴の技巧で巧みに操り、紅の衝撃を受け流す。その反動でもってデーモンは上昇。両腕を悪意の大玉と変じさせ、悪意弾を分裂、倍加、さらに極彩の気圧を付与、猛烈な勢いで三体のフランドールに叩きつける。
忌虹――とでも言うべきそれは、紅美鈴とフランドールの一部を吸収したその結晶である。破壊の衝撃を気繰力にて纏めた大玉は雨のように大地へ激突し、弾け、その内容が更に種種の気力を内包した華弾へ転じ、上下からフランドールへ襲う。
いかな運命殺しとは言え、これだけの猛攻はかわしきれぬ。カカカカッ、とデーモンの哄笑が響き、フランドールを嘲笑った。
十六夜咲夜はそこに割り込む。
「目標全域、威力極大、閃光千切白銀浄化」
精密照準、全体照準、一挙両得完全照準、重なり響く銀の鈴鳴りご覧あそばせメイド秘技――
殺と言う意気、
人と言う前提、
人と言う絡繰、
形と言う手習、
加速する時、停止する刃、
紅魔犬術・嗜み其の壱。
「――殺人ドール」
囁きと同時、デーモンの忌虹が破裂する。十六夜咲夜のナイフは物理的に認知不能の空間に折り畳まれ、開放の一言と共に予め予定された軌跡でもって時を駆ける。接触の瞬間に三次元空間へと復帰したナイフは言ってしまえばただの速い銀板であるが、果たして如何なる奇術を駆使したのか、破壊と気繰の忌虹大玉は紙風船のように散り散り、豪雨のようなその勢いを完全に停止させる。だが忌虹の本領はここから。破裂したそれぞれの切片が無数の色彩を取り、再び降り注ぎ出す。それはまさに虹の滝と呼ぶに相応しい。咲夜は今一度ナイフの刀身を鈴鳴らせながら構えを取り、
「さ」「く」「やぁぁ!」「まぁぁた」「そうやって」「じゃあまを!?」
コマ落ちのように消え去る。刹那も間を置かずに、
禁忌!
莫大な質量を持つ破壊の衝撃がとうとう個性を確立して放出された。スペルカード宣言と言うルールを破壊し、クランベリートラップと言う極悪の甘みで強制的に誘う破壊の中の禁忌が現象化する。紅の衝撃は凝縮され、先鋭的な破壊弾と化し、馬鹿馬鹿しいまでの密度と重圧を兼ね備えた重力井戸の罠が忌虹の滝に激突する。
相殺等という生やさしいものではない。二つの破壊はお互いを食い荒らして破滅的な相乗破壊を起こし、八卦相克法を消し飛ばし、虹色の気力を巻き込み、さらに衝撃を大膨張させる。連鎖反応的に巨大化する破壊衝撃はもはや紅魔館の限度を超え、九龍陣の抵抗も無い外壁の向こうまでその余波を広げる勢いで拡大、精根尽き果て待避の間に合わぬ正門衆達が無念の形相でそれを見上げ、
「天球の召還。水銀をして煌々。七十二の柱、また秘されし天則に従って。汝は七曜が一つ」
さぁ――と、雨雲に穴が開く。宵闇を過ぎて夜にふみいった空に、青白い輝きが訪れ、
「静寂。さらに神々しく。月符に従い我が理に通れ――発現せよ、サイレントセレナ」
ぃん、
と可聴帯域ぎりぎりの高音が紅魔館と湖に広がり、青白い月光が厳かな輝きを一帯に注いだ。連鎖破壊は一瞬の身悶えとともに消滅し、変わって怖気を催す静寂が、紅魔館一帯を支配する。
睥睨する青白い月。
軋みもなく開いた窓のバルコニー。月光にぼんやりと姿を浮かび上がらせながら、うっそりと魔女は姿を現す。常と同じように硬直した陰気な表情が、身動きすることも煩わしいと言わんばかりに擦り動く。
囁き、呪言。七曜の魔女は文で術を紡ぐ。故に動かぬ大図書館。ヴワル。
『カ』
カ、カ、カ――
デーモンが嗤う。剥取られた位相球面が復活、八卦渦動が再生し、暴風の悪意がデーモンを中心に渦を巻く。
『……よくぞ、よくぞ臆せず出てきおった、パチュリー・ノーレッジ!
我輩の口上、よもや忘れては居らぬだろうなあ!』
どう、と位相球面が強まり、周囲を圧迫する。魔女は興味なさげにデーモンを見下ろし、泥のような目線を十六夜咲夜に移す。ナイフを回収してバルコニーに確定した咲夜は含みのある笑みを目尻に浮かべ、ちりん、と刀身を鳴らした。
属性付与の術は銀の刀身に破魔を宿らせ、悪意の極みを貫くことを可能とする。それが奇術のタネである。
「レミィの慰み程度には、厄介なことになったわね。門番と妹様を概念吸収して組成式そのものを変質させるとは、わが下僕ながら奇天烈極まりない。――属性付与、いまいち安定しないわね。人形遣い、その箒をとっとと放しなさい」
魔女の後ろから優雅な足取りで横に並んだアリス・マーガトロイドは、眼下の八卦破壊渦動を理解しがたい視線でながめ、右肩の上海人形をそっとなでた。口元が薄く震えている。撫でる指先が、上海人形の指先に包まれる。
――何をそんなに?
「あのデーモンのせいで、魔理沙の魔力が手繰れない……いま自律飛行させても、彼女に合流してくれないわ。魔理沙がマーカーを打ってくれないと」
「……魔理沙の魔力はともかく、属性はかなり特徴的なものだと認識していたのだけれども。あれにそれほどの影響力があるとは思えない」
「貴女にはないわ。魔理沙にあるの。魔理沙の内側にね」
人形遣いは言葉を切り、天頂を見上げた。満月に輝く青白い月光を縁取るように厚く重く雨雲が広がり、紅魔館を月明かりという境界で切り取って隔絶した舞台を完成させる。深紅の居城が蒼白に染め上げられる。アリス・マーガトロイドのドレスの色だと、魔女は脳髄の片隅で思考した。
「悠長にしてないで、手伝ってくださいよ、二人とも」
「私はオチ担当。人形遣いに言って頂戴」
「私も箒担当だから、とりあえずこの出鱈目に錯綜した魔力図を、どうにかしろ、とは言わないわ、何とかして」
「……どうにか。何とか。ですか」
表現不可能の紅音が嗤うデーモンに激突する。魔女に注意を向けていたデーモンは八卦渦動を剥かれてよろけ、忌々しそうに極彩色の翼を打ちはらった。流転する破壊の渦動が空間を撹拌しながら三体のフランドールに激突し、破壊の権化は拳の乱打でそれを打破する。無垢なる狂乱が三重の紅撃を繰り出すその場は六道の調律を失い、異界のごとき場へと流転させていく。
その混沌を正しく体現した場所で、ただ一箇所、揺らぐことのない金行がある。紅美鈴の金剛武陣。
……出来ないことを無理にやるより、出来る奴を呼び戻すのが、スマァトな遣り方である。
咲夜は雨雲を見上げる。いまにも重力に従い落下しそうな水気を、ではなく、そこで顕れようとうねり踊るものを。
「……詰めの甘い。いや、つまり、タイミングを任されたってことなのかしら」
ぴくりと眉を上げ、
「とっとと仕事なさい」
数十、数百、数千の銀糸が荒れ狂う空間を貫いて蜘蛛糸の如く飛翔。幾何学的な図形を描きながら金剛武陣に突き立った。無数のナイフは針の如く、天を突く剣のように。付与された破魔の属性が金剛武陣の武具と共鳴、拡大する。
紅魔館の紅を火行と見立て、スカーレット姉妹の土行、金剛武陣の金行、湖の水行が、咲夜のナイフに反応して相生起動。気脈が増幅しながら四行を巡り、しかし欠如した相生は増幅した端から周囲にまき散らし、自身を狂的に自傷するような勢いでその回転増幅速度を増す。そこへ、龍が逆落ちる。雨雲の中で身もだえていた電磁輻射が導かれるように金剛武陣の銀糸の避雷針へ落下する。木行を相克にて発生させた五行が完全な形で相生を高速回転、増幅が増幅を呼び気脈が気脈を呼び一千一億の龍が集結する煌々と絢爛にそして五行器は彼女を喚ぶ。
紅美鈴。
神鳴りの震撃とともに復活した美鈴は銀糸の避雷針を断ちながらふたたび金剛武陣へと降り立った。丹田の五行器が過不足なく作用しているのを確認した美鈴は咲夜へ力強い笑みを向け、
「――!」
分裂した。紅の美鈴、碧の美鈴、蒼の美鈴、黄の美鈴、橙の美鈴、白の美鈴、黒の美鈴、日の美鈴、月の美鈴、陽の美鈴、隠の美鈴、生の美鈴、死の美鈴。金剛武陣の武具をそれぞれに引っ提げた美鈴達が、龍と化して飄と舞う。
『なんとうっ!? 何故ゆえいまふたたび貴様が現れる!? 変わり身にあらずんば、よもや肢体を捨ておったのか!』
デーモンの驚愕に打ち震えた言葉を証明するように、数千、さらに数を増した美鈴達は、デーモンとフランドールを中心に半球をなぞり、己が身を織り込むように舞う。色という軌道を残す。
紅美鈴にとって肉体はひとつの端末に過ぎず、大地と天空を支配する気力とそれに連なるあらゆる力、物質的、精神的、超自然的問わず、それらに美鈴は乗る。気を使う程度の能力というのは、そういう事である。何よりも通じ理解し同調する。それは操るのでなく、まさに自分のものとして使う。
己自身なのだから、当然ではある。
碧命剣を携えた美鈴が、紅の軌跡を描きながら咲夜の隣に降り立った。
「で――ご注文は?」
「整理しろ、だそうよ」
「諾」
一言。再び舞い上がった美鈴は碧命剣に紅の気力を流し、直下に投擲した。音を割って剣は大地へ鉛直に突き立つ。あまたの美鈴がそれにならい、デーモンとフランドールを囲む境界が見立てられる。
調整を司る大地に金を縫い止め、宙に織り込んだ呪が封殺結界を形作る。
いざ応龍より勅命なれば迅く来たれ、
『オ――――――ム!』
瞬間。大地から循環の龍脈が上空に流れ、視覚的には白光としか形容できない封殺の術が発現した。魔女の視界では十二段階の次元的積層構造が、狗の視界では瞬間ごとに移り変わる万華鏡の如き天球図が円という基準で連続し、吸血鬼の視界では小癪に戯れかかる神獣の群れとしてその現象は観える。
デーモンと人形遣いには、なにも見えない。
効果は劇的であった。正確に言うならば、副次的におきた現象が激しかった。封殺は神々しい威光を夜の魔神が居城に浴びせ、力場的混乱を一瞬で調整、収束させる。幽棲道士の粋を極めた美鈴は奥義封殺術を通常のように破魔封印として使うだけでなく、柔軟に用法することであらゆる事態に対応する。数万の美鈴が練り合わせて行うそれは魔神ですら昇華させるであろうが、元々を気脈調整として行ったうえ、なんであろう、相手取るは紅のもとに破壊を天命――否、己が命とする紅魔蕃神、スカーレットの忌み子である。門番という役割に縛られた美鈴では相手になろうはずもなかった。
――だが、デーモンが減衰しないのは何故だ。
悪魔は四翼と渦動で身を包み、封殺を凌ぎきった。醜悪な唸りと悪辣なうねりを肌とする負の化身は軋むように翼を広げ、おおう、とうめきを発した。苦痛の声ではなく、驚愕の声である。
虚が。
おおう!
『来おる……この波長……!』
人形遣いの持つ箒が、不意に音高く鳴った。
「! 探針(ピン)が――」
ど、どく、どくん、と箒が脈動する。ざわざわと枝が開きだし、青白い輝きがうっすらとまたたいてみえた。探針がマーキングした場所に収束ビームで送られた魔力が枝という受容装置に着弾、全体へ木脈を通じて流れ、再び枝元に集った魔力が変換器を通して青白く力を蓄える。
鼓動する。
――よう相棒、ダンスの相手をお探しかい?
どくんどくんどくん。
どくんどくんどくん!
「――いきなさいっ」
ばっと人形遣いが箒を投げる。
どくん!
放たれた矢は一直線に空へと目指す。白い推進炎と青白い軌跡を残し、天を射る矢は空を駆ける。
――その先に。
ああ愛しき哉ほむらの宴、添い遂げる情愛に、私は幾夜も踊り明かす、降り注ぐ美酒を掲げ、歌う、歌う、歌う、歌う、歓喜の歌を、輝く虚空を、灼熱の!
たたかいの戦歌を!
「Get rider THE BLAZING STAR! Set up N/D/L SYSTEM!」
歌え!
「恋符! ノンディレクショナル・レェェェザァァァ!」
霧雨魔理沙は天隕石とばかり、恒星の言い訳無用な収束熱線が殴りつけるように夜を貫き踊るように大地を裂く。大いなる天空のブレイズ、太陽の息吹、三条の熱線が全視界を踊る龍となり、乾坤一擲にして御意見無用の魔砲使いはデーモンも吸血鬼も門番も従者も魔女も人形遣いも知るかどいてろいや当たれとばかりに蹂躙する。太陽は誰の上にも等しく降り注ぐ。
「本日のスペルカードはこれにて打ち止め! ――どうら、いっちょ気前よく踊らされてやるぜ!
業魔が夜に誘われて、運ぶ爪先鮮やかに、調子に乗るのさ心地よく、ってな!」
青白い飛行雲を背後に、戦闘力を回復した魔砲使いは直下へと落下する。荒れ狂うノンディレクショナルレーザーを一条に束ね照射、プラズマジェットと化した超熱量の光線が天を震わせ地を揺るがす。熱量が衝撃を共としながら同心円上に広がり、紅魔正門広場に孔が空く。
危機と感じたあまたの美鈴が衝撃の波動と全く同じ振幅の波動拳を放った。相殺が生まれ熱波が拡散を中止、圧縮が爆発を生み紅蓮の華が天に咲く。
「まっ」
「魔理沙のアホッ」
あやうく難を逃れた魔女二人はぎっくり腰をさすったり擦りむいた膝小僧を押さえたりしながらぜいぜいと毒突いた。二人を抱えて逃げていた咲夜はなんて使えない知識人だと頭で思い、顔に出して肩をすくめた。口に出さなければ良いのである。
「AAAAHAAAHAHAHAHAHA!? 魔理沙、ようやく来てくれたのねぇぇえええ」
自らの異次元同律存在を消去し再び最強の一体となったフランドールは笑う。破壊衝撃が生まれ爆炎が紅に破壊される。月! 月が出ている! そして太陽が! わたしと魔理沙が! 今夜はワルツを踊るのね!
――それ見や、懐かしき。
かわらぬ存在がかわった意識で自分の前に再び立つ。
突如襲いかかる猛烈な郷愁と寂寞を、咆吼で引き放す。
気付いていない。彼女は気付いていない。彼女が誰なのか気付いていない。
だがそれでいいのだ。もはや幻想は潰え乖離した自分達は地に足をつけられない。
『――カカカカカカカァ!!』
咆吼は哄笑となり、八卦破壊渦動と変じて暴走する。今再びよみがえった異界のデーモンは大音声で哄笑する。我が言霊よ永久に響け我が物言いよ地の果てへ走れ。
「さあ! さあ手前等! ――己が歌を響かせろ!」
高速落下しながら、魔砲使いは絶叫する。軽やかに笑顔、華やかに。自らをほむらに変じ、うねり踊る姿はただ愉快。
「今宵は下僕の宴なれば、奏でてやるのが此度の条理! いざやひととき激情の、炎と化して踵を鳴らす、八紘天地に迅く響け、さあ!
捧げよ! 月の慰みいざしらず、踊る影を水面に映せ!
唱えよ!」
声はもはや歌となり、深夜の紅魔館に響く、吸血鬼の居城は共振する。
歌え気高くわが住人。
踊り狂いて歓喜せよ。
ひとときの開放に――
門番が快活に笑い、従者がやれやれと片目を閉じ、魔女が口元を尖らせる、人形遣いが僅かに微笑み、吸血鬼が狂乱と狂態、デーモンが答える。
「彩色採光極彩至りて四方八卦の道理と成す! 彩符!」
「幻葬――」
「日符に従い我が理に通れ」
「上海/スペル/宣言/魔繰/展開」
「禁忌ィ!」
『 忌 虹 ! 』
さあ解き放て。
紅の骸に響かせろ。
「極彩颱風!」と一千一億の龍が舞う。
「――夜霧の幻影殺人鬼」と影の刀身が無限と迸る。
「発現せよ、ロイヤルフレア」と核融合の超小型恒星がプラズマを全周囲放射する。
「発動/リターンイナニメトネス」と上海人形から発光する魔糸が繰られ衝撃を操る。
「LEEEEEEEAVATEINNNN!」と魔杖が獄炎の正体を現し振るわれる。
いざ、渦巻く環状の因果を紡ぐ、喰い争え。
『虹霓の、顎!』
――そして、弾幕渦動は出現する。
紅美鈴の封殺術が成したのは単純な気脈調整ではない。それは乱れた気脈を単純に元の通りに戻すのではなく、混乱する力場を局地的な一央二極四象八卦に括り、荒れる力そのものを以て主観的平静に導くというもので、つまりリセットではなく改変、力は何処に消えるのではなくその場にとどまり新たな気脈の一つとされるのだ。つまりこの場合、破壊の属性は生きたまま調整の道理に組み込まれている。
そのうえで、さらに常態を遙かに逸脱した大規模な力場的作用を行使すれば如何なる事態に陥るか――
「……ははは……!」
人型を保ち、極彩環龍陣を中核にて維持する紅の美鈴はおのが失策を悟り、しかしそれがどこか作為的なまでに予想されていたことに思わず笑いを零した。破壊の秩序が相互矛盾的性質を渦動という逆説的な均衡のなかで一瞬毎に相殺と融合さらに発展また収束、秩序という名の破壊が、破壊という名の秩序が、巻き込んだ諸々の弾幕を位相幾何学的に織り込み展開し消滅と再生の輪廻という渦になり、その渦はより大きな渦の一部、さらに巨大な渦が、またより巨大な渦が発生し、紅魔館正門を中心とした大渦動は幻想的に発生する。
それでもまだ終わりではない。
「美鈴! パチュリー様!」
「”孔”が空くぞ! 残存のものは必死で逃げよ!」
僅かに弾幕渦動の内部に踏みとどまっていた正門衆に向かって美鈴は叫び、瞬時に筆頭七騎は兵を集めて渦動を離脱。龍として渦を舞う種々の美鈴が紅き美鈴に一つとなり、踊る美鈴は正門番へと復帰する。
フランドールの嬌声が響きだした。この常気を逸した弾幕渦動のなか、一瞬の停滞のみで常態にもどったのはさすがにフランドールといえよう。それにつられるように、いや、最初からどこかの安全装置を吹き飛ばしたような魔理沙が呼応して高速機動を開始する。空間を伝播する衝撃波と一対の宝玉を供として、守ることも避けることも考えず、ただひたすらに魔弾を放つその態勢は、フランドール・スカーレットと渡り合える一つの構え。守るための回避機動ではなく、射撃するための戦術機動、すなわち完全なる圧倒の心意気が、針の穴を通す乾坤の一筋の如く破壊の向こう側へとたどり着く。だから魔理沙は留まらない。恐るべき破壊のフランドールを突き抜けるため、灼熱する恋の魔砲は弾幕渦動を意識の外に、ただフランドールだけを捕捉する。
「ああいたかったわ私の右手の恋煩い!」
「ハ、そんなに夜泣きが激しかったか!? だったら話は早え、泣いて謝るほどに慰めてやるぜ!」
「そうよ一日たりとも満足できないこの想い! 今日こそ狂って喚いてぶっ壊して抱きしめてあげる!」
「言うじゃねえかチンケな小娘の分際で! 安心しやがれ、今夜も私の愛情で跪かしてやらあ!?」
二人の世界へ突入した魔理沙とフランは渦動を舞台に熱烈な弾幕格闘を展開する。求愛行為にも似たそれを、普段から見れば天文学的な勢いで動き回る魔女は顰めっ面をさらに堅くして睨み付けた。異次元を行き来する弾幕渦動の一つが頭上すれすれを切り裂くように飛翔してきて、あわててしゃがみ込んで避ける。
もともとパチュリーは空戦機動の得意な方ではない。魔砲使いと違って力ではなく知識を主とする魔女は知という多量の情報存在が発する副次的な魔力を自身の攻撃リソースに振り分けているだけであり、基本的に内側への方向性を持ったそれは他の体系と比して幾分劣る。それを補ってあまりある七曜の魔力を効果的に発揮するためには煩雑な機動を要する戦術体系よりも静止状態からの力的発露、すなわち砲台として徹するのがもっとも上手であり、完璧な理論家である彼女の弾幕形式はそれに則って肉付けされている。という建前で面倒くさがっていたので、ひいこら動き回る状況は彼女の埒外であった。喘息の発作が起きないのは幸運に過ぎる。
「ああもう……とっとと、この、乱痴気騒ぎを、終わらして! ゆっくり、本を、読みたたたゲフェヒャビュ!ボヒャ! ブルファー! ギャヘラー!」
無慈悲にも発作が起きた。尺取り虫のように床を跳ね出した魔女は弾幕渦動を絶妙に避け、踊りながら懐から呼吸器を取り出して、ある種の薬物依存症を彷彿とさせる姿で落ち着いた。一連の動きを視界の端で捕らえているはずの人形遣いは空の一点を凝視していたため気付くことはない。人形遣いの視線を追って、魔女は困惑にしゃっくりをあげた。
「ごひょ……う、ど、どういうこと。まだ猶予はあったはずなのに……」
噎せながら魔女は空を見上げる。不動の大図書館も思わず動く苛烈さの大渦動は曇天を散らし蒼月を目指す巨大な塔として成長する。その中央に、ぽつりと黒点が穿たれる。
「出てくるわよ、地獄の門が……ああもう」
ぐっと下唇を突き出し、
「やんなっちゃうわ」
人形遣いの足が踏み出された。
始まりは、中空に現れた黒点であった。
それは空間から生まれ落ちるように膨張しだし、ある一定の大きさになったところで膨張の方向性を変えた。
水平方向に広がりだした黒い亀裂は弾幕渦動を眼下に見ながら粛々とその幅を広げていき、やがてしみ出すようにその周囲へ亀裂の触手を伸ばしていく。
蒼月を隠す虚無の帳。
それは複雑怪奇にして精緻な模様――扉の装飾。
湖面によりドッペル現象を引き起こされた地獄の門は、まったく唐突に悪意無き暗黒の渦動をまき散らしながら、幻想郷に接続した。
地獄の渦動が弾幕渦動と繋がっていく。
十六夜咲夜は弾幕の間隙を縫う程度に動きを留め、右に、左に貌を動かし、さらに上下と動きを追加した。防護結界で身を固めているだろう魔女を放っておいて、弾幕の渦の流れに従い、単純化された動体美をみせながら紅剣の余波をやり過ごし、忌虹を撃ち落とし、また龍の咆吼を受け流しながら、視界を漫然と全体に行き渡らせた。
そして、アリス・マーガトロイドが、弾幕渦動の中心へ往くのを目にする。
咲夜は無言で紅魔館を仰ぎ見、渦動も門も注視することなくその場から消えた。
「魔理沙!」
全域に響く轟音のなか、霧雨魔理沙は奇妙にはっきりとアリス・マーガトロイドの声を聞いた。完全に高速戦闘機動体勢に入ってフランドールと打々発止の熱愛を繰り広げていた魔砲使いは魔弾を絶え間なく射出させながら伏せた姿勢で、
「ああ!?」
「終わらすわ。あなた、天儀球を持ってきてるわね」
戸惑いと驚きの感情が、遠くアリスにも伝わってきた。
「その馬鹿みたいに珍妙な導具に、気付かないとんまが居て!? いいから、早くしないとあの子が行ってしまう!」
孔、門は、弾幕渦動の中に開いた。よって門の影響は渦動内にのみ限定される。つまり本来拡散されるべき向こう側の影響が一挙にこの閉鎖空間へ押し込められることになり、それは速やかなる現象の完了を意味する。
即ち、デーモンの帰還。
「門と幻想郷との位相をずらすのよ。注意すべき事は二つ、紅茶を入れるときよりも繊細に、空を飛ぶように日常の延長で」
「気軽に言ってくれるなよ! よっく私の状況を見て見ろ、いまそんな状況じゃ――」
だああ、という叫声と、KAA、という嬌声が弾幕を越えて響き合い、紅剣が弾幕渦動の側面を撫で上げ、門番が上昇するのが見える。
気繰衝撃。
「――ねえこともなくなった! ブレイクタイムだぜフランドール! パチュリー、門番、あと頼んだっ」
空白地帯である渦動中心軸を一直線に降下して、魔理沙は一瞬の元、アリスの目の前に降り立った。エプロンドレスの端が千切れて荒んだ衣装になっているが、脳内に麻薬物質を巡らした頭では些細な事にすぎないのだろう。紅潮させた頬と輝く瞳がむしろ気高い一匹の獣を連想される。
それがあまりに独立的すぎて、アリスは一瞬だけ、猛烈にみじめな想いをした。
魔理沙はふっと微笑み、箒をぐるりと半回転、脇に手挟む。
「さあて、しかしこいつを使うのは伊吹鬼の騒ぎ時以来だから……しかしおまえ、良くこいつの性質が判ったよな。今日相談するつもりだったんだぜ」
「今一番手っ取り早く発動できるのはそれしかないわ。気張りなさい」
「妙に煽るなぁ。なんだ、そんなにパチェと意気投合? もしくはあれか、小悪魔と小指の運命とか」
アリスは一つ息を呑み、瞬きをした。常と違ったのはそれだけで、すでに精神集中に入っていた魔理沙は気付かなかった。
人形遣いは見上げる。中心軸の最上空で渦動弾幕の一端を担いながら上昇する一体のデーモンに、アリスは胸の締め付けられる想いがして、焦りに口元を引き締める。戻るべくして戻る場所はすでに無い、それを拒否するようにデーモンは声の限りに哄笑していた。
――「星よ」「星よ」「恋の星よ」「いまだ果たせぬ焦がれを胸に」「乙女はその手を掲げよう」
「汝ら深淵」「汝ら宿縁」「永久に廻る光輝の意志よ」「抱く無垢なる少女を胸に」「いざや」「乙女と手と手を繋ぐべし」――
詠唱は朗々としかし轟音のなかで消え去るが、それは周囲に威を圧す通常詠唱とは根本から違う。魔理沙の呼びかけは魔理沙の内側に発せられ、彼女自身を励起させる。
それは、夜の螺鈿を見上げるように。
それは、嘆きの虚空に抱かれるように。
魔理沙の内部に響く呼びかけは彼女の往くべき道を示し、しっかりとそれを捕らえて魔砲少女は手を伸ばす。天に突き出された左手は見せつけるように伸ばし開かれ一つの陣を放出する。
ウルムル・タウイル・セファレンヌ、ナイアス・ナイアル・アザ・アザトー……
向こう側への呼びかけは七つの名。満を持してスカートから飛び出る色とりどりの五つの宝玉・天儀球は彼方からの名を刻み魔理沙の周囲を高速で廻り航跡によって彼女と外界を遮蔽する。
隔絶した。
「天儀……!?」
ゆるりと粘度の高い液体が密室を静かに浸食するような感触に、魔理沙は違和感を感じる。膨張する世界に押し広げられる世界が反発し、霧雨魔理沙という因子が外圧に押しつぶされようとしている感覚であった。はしたなく歯を食いしばり、術式の等級を一つ下げ、魔理沙は自身の底から抵抗する。自らを世界に押し入れるという図々しい行為を認めさせる。
儀符。
「……オーレリーズ、サン!」
その能力は魔理沙を形作る形象を抽象化して世界に割り込む、身体によって引かれた境界の内側にある自己を外部へと広げること、であるが、完成度の低い術式であるため多大な負担を魔理沙にもたらす。それでも天儀球に指示を出して上空の門の空間断面に配置し、幻想郷と門の渦動的次元結合を確率的に否定する。
地獄という悪魔の住む場所は六道のそれとは反する。循環の一段階であることを課せられるのが閻魔の地獄ならば、悪魔の地獄は閉鎖的な上位異次元精神世界、ある種のパワーが無限に同じ動作を繰り返す重力場的な、というほか認識のしようがない、立ち位置を完全に別にする世界で、そこに発生している魔、三次元時空においては渦動の形で顕れるものを、たった一個人でしかない魔砲使いが阻むことの出来るのか、という疑問は、天儀球と呼ばれるデバイスとそれ専用に組まれた術式によって答えを見いだせる。
天儀球に連なる一連の術式は霧雨魔理沙のオリジナルではない。自己を世界の一端となすというのは時間を止める能力、その時点でのすべての事象を凍結し、それを自分勝手に操作することに発想を得、さらに魂魄の剣界を模倣した自己固有の結界と言える。事象を操作する、と言うのはしかし並たいていの方法では真似できない。それゆえ天儀球は限りなく魔理沙に近しい要素で形作られており、その外部デバイスを用いて、ようやく、魔理沙の世界は顕れる。
「さあさあさあさあ、遠慮しやがれ少女が往くぜっ」
往った。
もはや魔理沙の肌となった天儀球が弾幕渦動を押し上げて、魔女を、人形遣いを、運命殺しを、門番を、そしてデーモンを飲み込んで、暗黒渦動に激突した。汚染しようとする暗黒渦動を心で拒否し、断層の空白境界を生成する。しかし、弱い。フランドールの右手が出鱈目に開閉を繰り返し破壊が創造され、それに対抗して紅美鈴の気操弾幕陣が展開し、魔理沙の世界に虫食いを作る。そこから弾幕渦動の断片が押し寄せてオーレリーズサンの許容を超えようとする。
まだ足りない。もっともっと自分を引きずり出さなくてはならない。心を強く。魂を燃やし。夜空への想いを激烈に。自らを裏返して、爆発させ、そして魔法に込めるのだ……!
音が消えていく。視界が閉じ、触覚が失われ、霧雨魔理沙は自身のうちへ没入していく。
人形遣いがそれに乗った。
デーモンの、居る場所へ。
* * *
久しゅう御座います、御嬢。
「ええ……懐かしいわ」
御嬢は、懐かしい香りがします。
「そうでしょう? あなたもそうなのよ?」
在りませぬ。私めの如き下賎な者に、そのようなものは。
「ならば私にも無い」
御嬢
「なぜ……あなたはこんなことを」
私めはこの世界のものではありませぬ。なれば、此処より消えるが道理
「消えて、どうするの? 消えた先だって、故郷ではない」
ですが御嬢、違うのです。ここには誰も居ない。私たちを知るものは居ない。私たちの故郷を知るものが居ない。
「私が…私が、居る。私が知っている」
御嬢、貴女様はそれでよろしいのか。本当にそれでよろしいのか。我らが世界は、あの美しく優しい世界は、忘れられる世界だったのでございますか。それでいいのでございますか。
我々は忘れられたのです。亡くなってしまったのです。もう帰ることはできないのです。あの香りをもう嗅ぐ事はできないのです。あの場所は全てから消えてしまった。私を、私と貴女を残して、私たちは置いていかれたのです! あんなにあの場所を愛していたのにそれなのに私は置いていかれた! 私も一緒に消えたかった! 私は今でもそうしたいのです、御嬢! 私はどうすればいいのですか……
「あなたはあの場所の思い出を抱いている。わたしもそれを抱いている」
然り。しかしわが身は七曜に縛されておりまする。
「そう、みんな居なくなった。神綺様も、夢子も。
霊夢たちですら居なくなったのよ。この世界は、もう彼女たちの舞台ではないかのように」
我が氷室は私の中に開きます。我らと彼奴等は薄闇の境界とともに、交わることは無くなりました。
「でもね、私は皆が好きなの。霊夢の横顔が、魔理沙の笑顔が好きで好きでしょうがない。彼女たちは違う存在だけど、でもやっぱり彼女たちなのよ。けれど私たちはあちらにいけない。それが、あなたは苦しいのね」
私はどうすればよいのですか、御嬢……。
「それは八雲の妖も弄れぬ境。魂魄二刀も断てぬ壁。永久に繋がらぬ闇。時の向こうに敷かれた運命。灰色の彼岸。決して貫けぬ想い、決して捕らえられぬ結界。私たちを動かすその何か、その徴がこの私。
それを解こうと言うならば、あなたは故郷に別れを告げ、この世界に降りればいい」
それは……それは、私めには。
「思い出なのよ、なにもかも。そしてあなたはここにいる」
しかれども!
「あなたは、ここにいる。幻想郷にいる。いつかはこころを旅立たせなくてはならない。それが、私たちがあの世界で生きた証。
いつか少女は巣立って往き、そこで本当に少女になるの。私たちは魔界の少女。そして、幻想郷が、生きる場所。
思い出を抱いて、生きるのが、私たちに出来る恩返しなの」
おつらくはないのですか、御嬢。
「つらいのではないの、私は」
もういい、貴女は十分に役目を果たしました、ですから
「だめよ、私はまだ行けない。この夢に、もうすこしまどろんでいたいの」
わたしは……
「ええ」
わたしは、行きます。七曜の元に返ります。
行ってきます、アリス……
* * *
――心の嵐に魔理沙は居た。
暗闇と灰雲の渦巻く気流を魔理沙は流れていく。雷が細く煌くたびに渦巻く雲はその陰鬱な正体をおぼろげに現し、切り裂くような風は魔理沙を運びつつもその体を蝕んでいく。黒と灰色の世界の中で、魔理沙はただ吹き流されるだけの存在だった。
心を、強く、
あ、あ、あ、と喘ぎが漏れた。それは風のうなりにかき消されて失われる。はためくスカートの端が彼女の動きを追わず風に従い、彼女は自らからも翻弄されていた。
魂を、燃やし、
飛んでいく。うつろな瞳に映るのは壁のような黒雲だけで、その両手は開いたまま、弛緩した身体が嵐にもてあそばれて、壊れた人形のように無抵抗に。
想いを、激烈に、
その心はしかし、心のうちにありながら、魔理沙の心は燃えている。
夜空へ、爆発させ、
ならば、人形は魔理沙になれる。燃え盛るこころの情熱を輝かせて、魔理沙は魔理沙へ立ち戻れる。
そして、魔法に込めるのだ
そして、魔砲に込めるのだ……!
それで十分だった。霧雨魔理沙は今再び全力を獲得した。
嵐に切れ目が出来る。暗黒を切り裂いて魔理沙を映し出すその奥、嵐の中心を視界に入れて、そして魔理沙は見た。
それが何を意味するのかはわからない。
それはたぶん、分からなくてもいいのだろう。
その、嵐の中心で、微笑みながらまどろむ白い自分を見て、霧雨魔理沙はそう思った。
* * *
「喧しい跪け」
ごんと魔理沙は頭を大地に打ち付けた。
アリスもデーモンも何の抵抗も無く大地に頭を打ち付けた。
門番とフランドールは頭から落下して地面に埋まり、魔女もバルコニーに額を打った。
同時刻、各所で。
「ま、ま、二人で晩酌もええんでない? ええんでない?」
「まぁいいけど……おっとっとっとう」
「うへへ、それじゃかんぱーい」
「はいはい、かんぱーうどべふぁっ」「げりゃぼっ」ばちゃっ
「よーおーむぅ」
「はいはい、おまちしましたぁ。今夜はすき焼きです」
「わあい! 妖夢、今日は一緒に食べましょ? 鍋なんだから」
「え? そ、それじゃお言葉に甘えて」
「はい、いただきまーじゃばりゃ」「いただきまきょみょ」ぼちょん「あつぁぁぁううううううっ」
「ほら、口あけて」
「だ、だいじょうぶですってば虫歯じゃありませんって」
「そういうのは私が決めるの。ほら口あけてあけて。ほっぺたの上からドリるわよ」
「ひいいわかりましたわかりましたから」
「よしよしそれじゃいくわよほじゃべりゅ」
ぎゅいーんばちゃばちゃ
「こーまぁーちぃー」
「きゃあqwせdrftgいえいえサボってませんよ寝てませんよまして昼寝なんて! 目ぇつぶってただけですってば」
「問答無用」
「きゃああだめだめ映姫様ヤマザナドゥライバーは禁止喰らってたでしょあぎゃぎゃぎゃ」
「問答無用といったはずです! 今日はこの体勢で説教してやりますから覚悟なさ、くゃびょ」
ぼきっぶちっ
「……な、なんだ……?」
前のめりに頭を大地に突っ込ませたまま、魔理沙は呆然とつぶやいた。内面世界に居た自意識が強制的に引き戻されたのに、何の反動も無く、ただ、跪く、という行為をさせられた。アリスやデーモンも不意打ち状態で目を白黒させている。破壊も弾幕陣、弾幕渦動、暗黒渦動までもがその言葉にひれ伏し、瞬間的に消滅した。
明らかに人為的な……しかし自然な現象だった。
まるで、そう、運命に定められたように。
紅魔館の時計塔に、月光を背負って影が立つ。それは蒼い月影のなかを赤く染めるように紅で、それ自体が真の赤の原色だと月光が教えているようだった。
「……八つ当たりもほどほどに、御嬢様」
いけしゃあしゃあと斜め後ろに居るメイドに、
「咲夜」
「はい?」
「貴女もよ」
「……マジっすがごっ」
* * *
「はっ
あー……」
実年齢に見合ったため息をついて、パチュリーは定位置に腰を落ち着けた。
のっそりとした動作で積み上げた本の塔から一冊を取り出し、見るほうが寝てしまいそうな速度で頁をひく。
けっきょく、騒ぎは喧しさにブチ切れたレミリア・スカーレットの一言ですべて地に伏せられてしまった。そのままレミリアは寝てしまったので平伏したままの一同は日が昇るまで体勢を崩せず、それが解けてからも館の修理やけがの手当てなど、めんどうな雑事に借り出されたことでなにもかもうやむやになってしまった。なんで私が……と言ってもメイド長と門番が許さず、しぶしぶ、いままで手伝っていたのだ。
やってられないわ、ほんと。
「パチュリー・ノーレッジ」
呼ばれた声にまだ何かあるのかいい加減怒るわよという顔で振り向くと、デーモンが表情を隠して陰気に突っ立っていた。
「……なによ」
「いや……」
とデーモンは歯切れ悪く口をつぐむ。
しばらく彼女を見てから、
「あ」
パチュリーは気付いた。
そういえば契約の更新がまだだった。急がしかったので忘れていたが、はやく済ませねばならない。力を出し切って弱体化したデーモンはしばらく休息を必要とするだろうが、そのうちまた暴れだすだろう。
しかし素直に従うだろうか。指パッチンひとつで済むならそうするが、そういうわけにもいかず、それなりに時間がかかるのは当然で、それを昨晩行おうとしたのだが、それどころではなかった。
デーモンは酷い目つきをさらに険しくして魔女を見る。
「呑気なものよ。弱きとはいえこの場を落とす程度、我輩にとっては造作も無いぞ」
「だからどうした。自慢? 穴掘って言いなさい。
しかし……どうしたものかしらね」
んー、と唸って頁をめくる。
「パチュリー・ノーレッジ、貴様は……
貴様は何時から此処にいるのだ」
「はあ? あー、まぁ、そうねぇ、百年ぐらいかしら」
「その前は」
「前。前ねぇ……漁師の娘だったかな」
「その頃のことを覚えてはいるか」
「? 絡むわね。覚えてないわよそんなこと。私にとって重要なことでもなし」
デーモンは再び頭をたれて、なにか考えているようだった。じっとしているだけで小規模な悪運の渦が彼女の周りを渦巻いているが、その勢いも若干弱くなったように見え、しかしパチュリーはそれを見ていない。わざわざ見る程度のことでもなかった。
パチュリー・ノーレッジにとって、自分がどれほど重要なのか……すでに彼女の下に返ることを決心していたデーモンは、この一晩でそんなことを考えるようになっていた。無駄な時間があれば、無駄な考えも生まれる。魔女やメイドがてんやわんやしている間図書館で蹲っていたデーモンにもそれが当てはまった。
アリス・マーガトロイドは思い出を抱いて別離しなければならない、と言った。たぶん、はるか時空の虚空に消えた魔界の故郷の思い出は、胸の宝石箱にしっかり抱いていられるだろう。しかし自分はどこに行けばいいんだろうか。パチュリー・ノーレッジのもとに帰ったとしても、そこがほんとうに自分の居場所になるのだろうか。
そんなことは考えたこともなかった。そういう繊細さを自分が持ち合わせていたことに、むしろデーモンは驚いた。
そう気付くと、こちらから素直に再契約しろとは言い出しにくい。いままで自分とは関係の無いものだと思っていた感情、気恥ずかしさだとか、気後れだとか、そういうものが押し寄せてきて、一晩をその気持ちが押しつぶしてしまう。その中で、デーモンは延々と思考の堂々巡りに陥っていた。まるで自らの渦動のように、埒も無く、仕様も無いことだとは分かっていたが、しかしとめられなかった。
まるで恋する少女ではないか……まるで自分が恋しているようではないか……少女? 自分は……アリスは少女と言ったから……
「少女、とは」
独り言にも似たつぶやきはほとんど聞いていない魔女の耳にも届いた。頁をめくる手を止めずに、ぼうっと自分にひたっているデーモンにちらりと一瞥をくれる。
が、デーモンは言葉を続けることが出来なかった。胸の奥にある煙のようなものをまとめようとしても、綿菓子が口に入れれば溶けてしまうように、形の無いものは強い方向性を与えなければ霧散してしまう。デーモンにそれをする力は無い。そういうものは何かきっかけが無ければ持つことは出来ず、そのきっかけとは、パチュリー・ノーレッジの言葉に他ならないだろうが、しかし魔女は何かいうそぶりもなければ言うつもりも無かった。
そのまま半日が過ぎた。
延々と本を読んでいた魔女は出し抜けにページを閉じ、むにゃむにゃと呪文を唱える。するとデーモンの周囲に怪しげな図形が浮かび上がり、
「ぬあ!?」
紙を割るような鋭い音がデーモンに吸い込まれた。契約完了。
「終わり。お茶」
「な、待て、なんだそれは!」
うっとうしそうに魔女は口を変な形に変え、もう一度、お茶、といったが、デーモンは食い下がる。
「なによ……やることやっただけよ。あなたが突っ立ってただけじゃない。面倒がなくてよかった。あー楽だった。えびせんべいと珈琲、ちょうだい」
「どっちだ!?」
わからなかったので、緑茶に紅茶に珈琲にういろうと海老煎餅をつけて魔女の前に置く。デーモンはその間腹ただしそうな表情で、しかし馴れた手つきで図書館備え付けの炊事場を往復した。
魔女は用意されてから数時間もしてようやくカップに手を伸ばす。冷めているのはわかりきっているが、そうでまっても味の落ちぬ葉と豆と淹れ方をしていたので、まったく問題はない。
そういうこと、魔女の気まぐれにあわせて嗜好品を提供できるのは、デーモンぐらいしかいなかった。
そういうことが、自分の必要とされている意味なのだろか、と思う。必要のある能力ではないような気もするが、重要度は関係がなく、デーモンは自らがそこにいる理由を無理やりにでも見出したかった。
魔女は何も言わない。なにも言う必要はない、お前の内心など知ったことか、という態度をとっていた。デーモンがどう思おうとも、すでに七曜の契約は完了している。だから魔女の態度は理解できる。できるが、納得することは無理だった。もう、デーモンは故郷への憧憬を黒炭のように胸に燃やす存在ではなくなっている。それは、その故郷を表す少女に諌められた。振り返るのはもうやめて、前へ、終わりのない銀砂の荒野へ歩き出さなくてはならない。渦動という堂々巡りではなく、星空を乱して一心に虚空を往くほうき星のように、向こう見ずで、恐れ知らずに、こわごわとしながらも自らの重心を前に移動させるのだ。その一歩目をなんの心構えもなく踏み出すには、デーモンは臆病すぎた。ただ生きることそれ自体で歩を進めている種類ではないのだ。前へ進む一歩に種族も存在も関係がない。それは腰が抜けるほど至高で、夏に食べる西瓜のように日常であった。
魔女は、関係がない。これは自らの、気持ちの問題なのだ。
黄金の平原に踏み出す少女とはなんなのか。
それはただの至高や日常ではありえない。少女は、それだけではふるさとの繭でまどろむだけだ。
「そう、か」
少女、なのだ。たいそうな理由など必要ない。それこそ、紅茶の入れ方がうまいというだけでもいい。少女である、ということだけでもいい。自覚しなくてもいい。ただそうあることに前を向いていればいい。それを発生させる原動力とは。
「恋だ……」
少女ではない何かが少女へと変わるのは、恋をするからだ。だから、少女たちは自らの歩を刻むことができる。
ならばもうデーモンは一歩を踏み出していたことになる。
意識の砂浜で至高の海原を眺めていたデーモンは黴臭い薄闇の図書館に立ち戻った。
「パチュリー・ノーレッジ」
「……ん?」
「汝を我が主と認めよう。我が眼と声と名を汝に委ね、契約はここに交わされた」
「そう」
呼吸と間違えるような返事が来て、デーモンは――小悪魔は七曜の下僕になった。
小悪魔の周囲に渦巻いていた悪運の渦動は力場作用を失って消滅し、力あれと輝いていた瞳は深海の底へ沈殿し無力な硝子に退化する。そこにはもうただの司書しかいない。
小悪魔は故郷に恋していて、今日、それは失恋に変わった。熱を失った恋はどういうことになるのだろう。風化した本のページが風に飛ばされるように消えていくのだろうか。
そうではないのだろう。失恋という名に変じたそれは大きなアルバムのなかにひっそりと収められ、時折思い返すたび胸に寂しさを去来させる。それはずっと心に残る。色あせた色彩で、いつもそこにある。
手のひらから逃げていった思いに傷つく心を癒すにはもうしばらく時間が必要だろう。思いの傷は、時間だけがどうにかできる。その間をこの魔女と過ごすのは悪くないと思った。少なくとも、小悪魔はそう思うことにした。自らも気づくことの無いところでその場所を望んでいるのに言い訳をして、ようやく彼女は自分に納得した。複雑な少女の胸のうちを理で道筋立てることは不可能であり、それであるから小悪魔はいつか幻想郷になじむだろう。自らの過ごす場所として、魔女の従僕という立場で。
――我輩はしかし、まだ汝を主として認めるわけにはいかぬ、七曜の魔女パチュリー・ノーレッジ。
「貴女、声と名と眼を返してあげるわ」
「なんだと……ぬ!?」
魔女の手際は最高にいい。気づいたときにはすでに自らを縛る三つのくびきは引き抜かれていた。
声があれば操れる。瞳があれば魅入れる。名があれば力は十全に発揮できる。この三つを返すことは事実上放任といっても言い。
「……阿呆、め。莫迦め。頓馬。貧弱が。何を考えている!」
「労働条件が厳しいって査察が入ったのよ。なにか文句?」
自らが魔女の元にいる理由が無くなる。
「我輩を縛れ! それこそが七曜の契約、貴様が我輩を従するよりどころであろう!」
「必要ない」
「なに……」
「そうさせるには行かなくなった。この状態ならば、貴女はどこへなりともいける。だが、行かないだろう」
「何を根拠に」
「そう人形遣いが言った。私にしてはどちらでもいい。こう言うのだから」
ようやく、魔女が顔を上げた。重い目線が小悪魔へと方向を定める。
「お願いするわ。手伝いなさい。――こういえば、貴女は逃げ出さないでしょう?」
魔女は面倒なのだ。ふたたび七曜契約の更新を行うのが。そうさせないために小悪魔自身が、魔女に従う、という事実を望んだ。魔女からの契約ではなく、小悪魔からの契約を、である。
「わかった」
と反射的に小悪魔は答え、答えてしまった自分に仰天し、そして魔女がなんと言ったのか理解した。
魔女は利己的な理由で小悪魔に契約を結ばせたのだろうが、それは小悪魔には関係が無かった。小悪魔の立場は彼女自らが決めねばならず、それが図らずも達成されてしまい、
「あ……」
とんと憑き物が落ちていく。小悪魔の強情ともいえる態度を魔女は一言で解いてしまった。魔女がそれを意図していたわけでないのは確かだが、魔女の意図など今の小悪魔にはどうでもよかった。噛み合わない両名だが、しかし事実として契約はより強固に結ばれる。
それが小悪魔には重要だった。事実こそが彼女に必要なものだった。
少女は前のめりに一歩を踏み出した。
ああ……と感慨深いため息を小悪魔は吐き、
「……やってしまったか。まあよかろう」
「納得いかない? 馬鹿馬鹿しい、貴女が望んだことよ」
「言っておるがよいわ」
言い捨て、くるりと反転し、小悪魔は本棚の闇へと溶け込んでいった。
魔女はその闇をじっと見つめ、しかめっ面をより険しくして、
「……うーん、なんであいつはあんなに嬉しそうなのかしらねぇ」
まあいいか、とふたたび本のなかに没頭していった。
――どこかで、清流のような笑い声が聞こえた。
* * *
「場面は変わる――場所は向日葵の乱華が絨毯となる花畑。私は一匹の妖怪に会うために歩いている。
時刻は正午。人形が運ぶバスケットにはハムサンドを、水筒には紅茶を。そして魔道書を抱えて。
アリス・マーガトロイドは幻樂団を知るゆいいつの存在だけれども、そんな私がこうして花畑を進み妖怪に会うのはわけがある。おそらく、あなた方は気づいている。歴史の向こうに消失した幻想郷はしかし、博麗の神主の指さばき一つでふたたび現出するのを。小悪魔という名でこちらに転生を果たしたあの子も遠からず気づくだろう、またもしそうでなくとも関係が無く、私にはむろん無視できない。白黒はっきりつけなくてはならないということよ。
なんでって? それはもちろん」
風見幽香、日傘に風を受け、登場。
「恐らく、彼女が怪綺の談を覚えているから。理由はそれで十分よ、ということでどうかしらん」
「なぜ、の部分が抜けているわね魔界の小娘。いつぞや以来」
「ほうら私の考えに間違いは無い」
「メタな話はご法度と、つまり私は何もわからない。ただ私が繋がっていたそれだけよ?」
「そういうものよ」
「そういうものなの」
「ならばそれで私は十全。目くるめく華の生涯に、再びみたび酔うがいい」
「そうよ、きっとたぶんおそらくは、私のことなど小さなこと。だからそう高々死神のサボリ程度で向き合う場ではなく、ゆえに時をあわせて貴女に向かいました、風見と付け足す華の幽花。
七色の魔法は愛らしいレギオン達を従えて、再びみたび圧倒するのよ古く懐かしいあの時のように」
風見幽香、日傘をくるりと手元で一回転。花はざわざわと彼女の指示に伸び育ち、いざ。
アリス・マーガトロイド、指先を複雑にうごめかしパチンと快音、浮かび上がる人形たちは花畑より立ち上がりたり空一面の大レギオン軍、いざ。
小悪魔という少女は一歩を踏み出した。アリスはまだ一歩を踏み出せない。踏み出せない少女たちの、なんと実に多いことか。それはしかし何時か起きうる、幻想郷の住人は、そこに安直に留まるようなことはしない。それが博麗の意思だとしても、いまはまだまどろんでいるだけだ。まどろみこそが幻想なのか? そうだとしても、星空に恋焦がれる少女だけは。二度と目を覚ますことの無い彼女たちの胸の中の彼女たちが本当の眠りにつける日が。
いつか、来る……。
「さあ、華麗に見事に麗しく」
「一気呵成に千日手」
「袖振り合うも他生の縁」
「鎧袖一触」
「呉越同舟」
「花も盛り、レコードの針が飛ばぬうちに」
「少女たちが踊るグレイズ・ゲームの盤上で」
「幻想のように!」
「さあ踊りましょう!」
「「弾幕戦よ!!」」
――どこかで、はるか異次元の空かなたで、喜びの笑い声があがった。
明日も仕事だってゆーのに読むのが止まらねぇ。でもいいです。おるおっけーの無問題です。それだけの甲斐がありました。
何て粋な少女達。目の正月でしたぜw
何と言うかもう脱帽ですよ。
旧作の見事な解釈と昇華に感服しました。
また、膨大な文字数ながらもスピード感を失わない文章力など、もはや言葉がありません。
咲夜とレミリアが個人的にかなりツボに来ましたw
ただ、理学部な僕には読みづらい所が多々あったのが残念です。言葉にリズムがありそうなのに掴めなかったのも。
とりあえず、語る言葉も思いつかんので繰り返します。凄い。
貴方の頭の中には、一体どんな幻想が宿っているのか。
色々言いたいのに出てくるのはこの言葉だけだった……脱帽です(礼
これが幻想卿に生きる少女たちか
それはさておき、あなたの書くフランは実に凶悪で可愛らしいwww
陣の再敷設等を指示した
>パチェー様ったら
パチュリー様ったら
他にもパチュリーとパチェが混ざってパチェリーとか。
>アリス・マーガロイド
アリス・マーガトロイド
>子悪魔
小悪魔
>ブワル大図書館
ヴワル魔法図書館
>爪の甘い
詰めの甘い?
も何カ所か。
パチェー様は愛称みたいなものなので間違いではないかも。
今回なんだかえらい誤字がおおく……申し訳ない。
今日も格好の良い紅 美鈴が見られました。
眼福、眼福。
あいや梟首の覚悟はいかがか!ああ!世は中世か!
なかなか美味しいものを頂きました。
では、また
長い文章でしたが時間を忘れて読みふけってしまいました
すごく良かったです。
戦闘描写、各々の切れっぷりなど、全てがかっこいいのですが、一言で場の全てをねじ伏せたレミリアお嬢様が格別でした。最初の泣き寝入りとのギャップがなんともはやです。
脳裏で映像がありありと浮かんで鳥肌たった。
しかも剣がグリーンディスティニーっすか!
大陸武侠系最高!ちょっと強すぎ感もあるけど。
駄目だもっかい読み直す!!!
圧倒されました。なんてカッコイイ。