女がいる。
幻想郷の何処かに存在する、深く暗い山の中。
月明かりだけを頼りに、女は山の中を歩いている。
その足取りは、ひどく重い。女は履物も履かず、素足で山を登っていた。
石や土が足の裏に食い込む。それでも女は足を止めない。
止めれば、後ろにいるモノに、食われてしまう。
そのことを、村に住む女は、山の傍で暮らす女は、嫌というほどに知っていた。
麻服に覆われた腹を押さえつつ、女は歩く。
腹が痛かった。
足も痛かった。
適うことならば、女は足を止め、休みたかったのだ。
後ろから追い立てる何者かが、女を、休ませようとはしなかった。
付かず離れず、笑いながら、女の後を追う。
楽しんでいるのだ、と女には判った。
いつでも殺せるのだ。それをしないのは、拙い獲物を追いかける、狩りという名の遊びだ。
女は歩く。腹を押さえて。もはや走る気力はない。傷だらけの足で、前へ前へと歩くだけだ。
よろけそうになり、身体を支えるために右足を出す。
ふたたびよろけ、今度は左足を出す。
その繰り返し。
単純な反復作業で、女は歩きつづける。
山の闇に紛れるもの達は、笑いながら彼女を追う。
彼女の行く先に、人里がないことを、彼らは知っていた。
だからこそ、一思いに止めを刺さなかったのだ。
女は傷ついている。
服のあちこちは破れ、肌には赤い線が走っている。闇の中にいる者たちが、指の先で、ほんの少しずつ削り取っていったのだ。
身体のあちらこちらから血をにじませて、それでも女は歩く。
女は歩いて、歩き続けて――
「――あ」
当然のように、限界がきた。
小さな呟きとともに、女はよろけ、倒れた。固い土の地面に、女は顔から突っ伏してしまう。そのことを痛い、と思える余裕は、もはやない。
ぐらぐらと揺れる視界の中、女は腹に手を当てたまま、這いずるように逃げようとした。
凄まじき生への執念。
その執念をあざ笑うかのように、闇に潜む者たちは、一斉に女へと襲い掛かった。
倒れて、動けない女へと。
その爪で、その足で、その牙で、その口で。
女をばらばらにし、食べようと襲いかかる。
女には、もはや彼らを止めることはできない。腹を押さえたまま、じっと、自らの最後を待つだけだ。
闇の中に潜むものたち――妖怪たちに襲われながらも、女は、最後まで逃げようとした。
ずりずりと、片腕で、土の上を這う。
「――わた、私の――」
それが、女の最後の言葉となった。
それ以上、女は言葉を紡ぐことはできなかった。妖怪の鋭き爪が、女の喉に食い込んだからだ。
女の意識が薄れていく。
鋭い痛みが、遠くへと去っていく。女の命と共に。
もはや声も出せず、女は、瞳から滝の如き雫を流していた。
――ごめんね。
それが、女の最後の思考になった。
……その様を、『彼』は、最初から最後まで見ていた。
開かぬ瞳で、じっと見ていた。
女が襲われる様を。
女が食われる様を。
何もせず、何も出来ぬままに、まだ存在し得ない瞳で、じっと見ていた。
やがて、女が死に絶え、妖怪たちは去っていく。
わずかな喰い残しだけが、そこに在る。
その骨を、彼は、しばらくの間見つめ続けていた。
物言わぬ女を、飽きることなく、見ていた。
月が一つ分傾く間、彼はそうしていた。
やがて、彼はその場を去る。
拙く身体を動かしながら、彼は歩み始める。
本人にすらわからない何処かへ。
本能に衝き動かされ、彼は歩み進む――
東方project二次創作 上白沢 慧音SS
――『ありがとうを君に』――
◆First days◆
夜半。陽が沈んでまもない頃、木造の戸が叩かれた。
とん、とん。力任せではない、軽い音が、そう大きくない家の中に響く。
炊事に取り掛かろうとしていた慧音は、すぐにその音に気付いた。
着ようとしていた割烹着を丸机に置き、慧音は戸口へと向かう。向かう間にも、とんとん、とんとん、と小さく戸は打ち鳴らされた。
「はい、どちら様でしょうか――」
言いながらも、慧音には来客者が誰なのか見当がついていた。
この時間に訊ねてくる相手など、一人しかいなかった。
頭の中に、見知った少女の顔を思い浮かべながら、慧音は戸を開けた。
「今晩は、だな」
からりと音を立てて、横に開いた引き戸の先。
扉を開けた先には、予想通りの人物がいた。
淡香色の開襟シャツと、サイズが大きいのか紐で吊られた臙脂色のもんぺ。所々に、模様のように札が貼り付けてある。
足元まで伸びる煌びやかな銀髪も、札をリボン代わりにして結ばれていた。
赤い瞳は、楽しそうに、それでいてどこか恥かしそうに笑っている。戸を叩いていた手で頬をかき、挨拶でもするかのように軽く手をあげた。もう一方の手はもんぺに突っ込まれている。
いつも通りの、斜に構えたような、楽しそうな立ち振る舞い。
藤原 妹紅がそこにいた。
よく来たな――と言おうとして慧音が開けた口は途中で止まり、
「……どうしたんだ、その格好」
口からもれ出た声は、頭の中で用意していた言葉とは別のものだった。
慧音が、挨拶より先にそう訊いてしまったのも無理はない。
妹紅の姿はボロボロだった。
身体に傷はない。代わりに、服は所々が破け、全体的に汚れていた。服だけでない。髪や肌まで、泥や土に塗れていた。汚れていないところを捜す方が難しかった。
妹紅でなければ、汚れの倍は怪我を負っていただろう。
ポケットに手を入れて、微妙に視線をそらしながら、妹紅は答えた。
「あん畜生、人が死なないからって思い切りやりやがって」
あん畜生、が誰かなのか、慧音はすぐに分かった。
妹紅がそんな風に毒づく相手など、この幻想郷には一人しかいないからだ。
古くからの怨敵、千年も続く因縁の相手。殺しても別れることのない深い仲。永遠亭に住む月から堕ちた姫。
「また輝夜殿とやったのか」
「言っとくけど負けてないからな」
ぶす、と妹紅は呟く。勝った、とも言わないのは、彼女なりのプライドだろう。妹紅と輝夜の争いは常に引き分けなのだから。
決着などつけようもないし――輝夜も妹紅も、決着をつけようなどとは思っていなかった。
彼女たちにとっては、今が楽しかったのだ。今の刺激ある関係が好ましかったのだ。それを無理に終わらせようとは、どちらも思わなかった。
というわけで、いつものように弾幕遊びをし、いつものようにぼろぼろになって、妹紅は慧音の家へと来た。村のはずれ、山の近くに位置する小さな家に。
慧音がそこに住まうのは、自らが人と妖怪の境目に存在する者だと理解しているからだ。山の麓、人里との境界線。人を守るだけではなく、妖怪を滅ぼすだけでなく、間を取り持つかのように、慧音はそこにいた。
昼間ならば兎も角、夜にもなれば人は寄り付かない。少し奥に行けば、人の恐るべき山がそこにあるからだ。夜の山に、夜の森に、人は近寄らない。慧音とて、不用意に踏み入ろうとはしなかった。
したがって、慧音は夜の大半を、一人で過ごしている。
今日のように――ふらりと妹紅が遊びにきたとき以外は。
そういう意味では、慧音にとって妹紅は嬉しい来客と言えた。いつもと変わらぬ、少しずつ変わりながらゆっくりと進む日々の刺激となったし、自分以外の誰かと飯を食べるのは楽しいことだった。
戸を開けたまま、慧音は家の内を指差して言う。
「とにかく中へ入れ。丁度晩飯の支度をしていたところだ」
「ありがと。――おじゃまします」
律儀に家へと挨拶をして、妹紅は慧音の家にあがった。石畳の玄関に靴を脱ぎ捨て、勝手知ったる我が家、といった感じで奥へと消えていった。
慧音は一応、他にも来客が――例えば、竹林の向こう側に住んでいるウサギが――いないか、扉の外を見て確かめる。
外は暗い。雲が出ている星で、月明かりが頼りなかった。遠くの村からは生活の灯が見えた。
――私も、晩飯を作ろう。
慧音は戸をしめ、脱ぎ散らかった妹紅の靴を揃え、自身の下駄も脱いで隣に並べた。
「妹紅。何か食べたいものはあるか――」
問いかけながら、慧音は居間へと戻る。そう広くない、丸机と桐箪笥くらいしかない、閑散とした居間。
畳の上に、妹紅が大の字になって転がっていた。
「そんなに疲れてたのか?」
側に立つ慧音の顔を見上げて、妹紅はへらっと笑う。
「ほっと一息ついたら、急に疲れた」
笑ったまま、妹紅は視線を天井へと移す。
樫の木の模様が、瞳のように見えた。
古びた井草の良い匂いが、妹紅を優しく包み込んでいる。
「やっぱり『家』はいいな、あったかい」
天井を見つめて言う妹紅に、慧音は無駄だと知りつつも、言った。
「なんなら、住んでも構わないんだぞ」
妹紅は笑って即答した。
「止めとく。この家は、臼に放り込むにはもったいないしな」
永遠亭のウサギに攻撃されるかもしれないぞ、と妹紅は暗に言っているのだ。
勿論、それだけが断る理由ではないだろう。妹紅自身が、必要以上に近づいてこようとしない。
千年を生き――出会いと別れ、生と死を、星の数ほど繰り返してきた妹紅は、深い関係をつくろうとはしない。炎のように儚く強く燃え上がる関係を作ることはあっても、炎のように消え去り、長く続けることもない。
その生き方を批難するつもりは慧音にはない。それは妹紅が選んだ道だからだ。自分に口を出す権利はないし、口を出す気もないと、長く付き合いを続ける慧音は思っていた。
少しだけ寂しくはあったけれど。
それに――慧音は、何も無い竹林でくらす妹紅の姿を見るたびに思うのだ。
彼女の本当の家族も家も、もうどこにもないのだと。
それが解っているからこそ、慧音は「そうか」と答えただけで、それ以上は何も追求しようとはしなかった。
代わりに、
「先に風呂だな」
「え――」
妹紅の反応は、色よいものではなかった。
むしろ、心の底から嫌そうな、心外そうな声だった。
その理由を慧音は知っていた。再生の象徴である火の鳥を使う妹紅は、五行で言うならば火の属性にあたる。当然ながら水とは相性が悪い。水に弱い、とまでは行かないものの、『なんとなく嫌』なのだろう。お風呂に使ってはあびばのんのと鼻歌を歌う趣味は妹紅には無いらしい。
それは慧音にも分かっていた。
分かっていたが、だからといって『じゃあお風呂はまた今度ね』というわけはいかなかった。妹紅の服はあちこちが破れて汚れ、妹紅自身も汚れている。身体についた土と砂が、妹紅から剥がれ落ちて畳を少し汚していた。このまま放っておけば畳は汚れ続けるだろうし、いくら死なないとはいえ汚れたまま食事をするのは衛生上に悪い。
見過ごすわけにはいかなかった。
最悪、首根っこを掴んで湯船に沈めるくらいの気構えが慧音にはあった。
「そういうとき、普通はお風呂が先か、ご飯が先かって聞くものじゃないのか?」
妹紅のむなしい抗議に、慧音は黙って首を横に振った。
「風呂は古来より身体の汚れだけでなく、心も浄めるものだからな。弾幕遊びのあとには丁度いいだろう」
言って、慧音はふと思い出す。
風呂桶に水を貼って、焚かすのを忘れていたことに。今風呂に入っても、川で水浴びをするのと対して変わりなかった。
その旨を妹紅へ伝えると、妹紅は苦笑して、
「汚れついでだ、折角だから沸かしてくるよ」
よ、と勢いづけて身を起こし、慧音の後ろを通って、勝手口から外へと向かう。台所の簀の子が、妹紅が歩くたびにきしきしと鳴った。
薪の場所も風呂の場所も、長い付き合いで知っていた。何を聞くまでもなく、草履をつっかけて妹紅は板戸を開けた。
外に出ようとする妹紅に声を掛ける。
「なら、私は料理の準備をしておくことにするよ」
ひらひら、と後ろ手で手を振って、妹紅は外へと出て行った。開けたままの板戸から、かすかに風が入り込んできた。
さて、作ろう。
慧音は内心でそう呟き、置いた割烹着をもう一度着なおす。
そして台所へ向き直り、桶についだ水で手を洗い、包丁を握り、
「沸いたよ」
開いたままの板戸から妹紅が戻ってきた。
時間にして、五分とかかっていない。
妹紅は内へと入り、板戸を閉め、草履を脱いで簀の子の上に上がった。その手には微かに煤がついている。
「……妹紅?」
「なに?」
ぎぎぎ、と音のしそうな動きで慧音は振り返る。包丁を持ったまま不自然な動きで振り返る慧音を見て、妹紅は「う、」と唸って一歩後ずさる。
慧音は包丁を握ったまま、さらに一歩妹紅へと近づく。
妹紅はもう後ろへと下がれない。閉まった板戸に背中がどんとぶつかった。
ゆらりとした動きで近寄ってくる慧音が怖くて、妹紅は逃げることも視線を逸らすこともできず、蛇に睨まれた蛙のような目で慧音を見詰める。
包丁を右手に持ち、割烹着を着た慧音は、まっすぐに妹紅を見据えて言った。
「手で沸かしたな?」
う゛、と妹紅が唸る。
図星だと言っているようなものだった。
慧音は、つい先ほど外で起きたであろう光景を想像する。
五分で風呂が沸く理屈は簡単である。手を薪の中に突っ込む。炎を出す。面白いくらいに炎が出る。薪が必要ないくらいに燃え盛る。鋳鉄製の風呂釜は、加えた熱量の分だけ熱くなって、当然その中にある水もあっという間にお湯に変わる。エネルギー保存の法則万歳、炎の弾幕万歳、お風呂はほぼ一瞬で沸いて、時間も短縮でき、薪も節約でき、万歳万歳。
ぶっちゃけて言えばただの手抜きである。
意図せずため息が出た。
「……まあ、悪いとは言わんが、何でもかんでも能力でかたをつけようというのはどうかと思うぞ、私は」
諭すような慧音の言葉に、まぁまぁ、と妹紅は苦笑いを浮かべ、
「慧音のご飯を早く食べたかったしさ。早く沸いて早く風呂入ってくるよ」
そう言われれば悪い気はしない。
叱っても栓のないことでもあった。わざわざ言うまでも無く、妹紅はきちんと分かっているだろう。それでもつい小言を言ってしまうのは、ほとんど癖のようなものだ。一時期先生をやっていたせいかもしれない。
台所へと踵を返し、包丁をまな板の上において、慧音は風呂のある方を指差す。
「速いのはいいがな、烏の行水も駄目だぞ。風呂は首までつかって百数えるものだ」
「はーい」
元気のいい返事を返して、妹紅は風呂場へと足を運んだ。歩くたびに銀の髪が揺れる。
家の構造上、風呂桶と洗い場は台所の隣にある。したがって、妹紅が服を脱ぐ衣擦れの音も、踏み板の鳴る音も、全て慧音の耳に届く。
「服は編籠の中に入れておいてくれ――明日にでも洗って修繕しよう」
「ありがと。助かる助かる」
微かに遠くから響くような返事に混じって、かけ湯の流れる音。次いで、どぼんと勢いよく風呂桶に飛び込んだかのような音が聞こえた。
風呂桶に跳びこむ妹紅の姿を思い浮かべて、慧音はくすりと笑った。
「いいお湯だぞー。五臓六腑に響き渡るー」
「五臓六腑は違うぞ」
「……七転八倒ー?」
「全然違う」
語尾が伸びた妹紅の声を聞きながら、慧音は調理に戻る。
土間の床下から野菜を取り出し、水洗いしてから切り始める。せっかく妹紅が来たのだ、二人で鍋をつつこう。頭の中で、残っている野菜と肉の量を計算する。野菜が多いなべになるのは仕方がなかった。
とんとんとん、と、小気味よく野菜を切る音が台所に響く。
その音に混じって、洗い場から「いーち、にーい、さーん」と声が響いた。
風呂桶につかった妹紅が、律儀に数を数えているのだ。
数字は、時計の針の正確さではなく、夜のおだやかさを以って数えられた。
「しーい、ごーお、ろーくー」
声にあわせたように、野菜を切り分ける音がすこしだけゆっくりとなる。
とん、とん、しーち。
とん、とん、はーち。
とん、とん、きゅー。
楽しそうな声と音は、人里から離れた家に、そして近くに広がる森へと小さく響く。
どこまでも楽しそうな声。
どこまでも楽しそうな音。
穏やかな夜が、静かに更けていく。
† † †
『彼』は蠢く。
蠢く以外の方法を、彼はまだ知らない。
出来たばかりの肉を動かし、地面を這うように、不恰好ながらに彼は進む。
枝葉の向こうに見える空は、陽が沈み、昏さが深くなりつつあった。
動く時間だ、と彼は知っていた。
彼の本能ではなく、彼の肉体は、自分のそれが夜に蠢くものだと知っていた。陽の光の中よりも、月光の元で活発に動けることを知っていた。
だからこそ、昼間は、彼は陽の届かない森の奥でひっそりと寝ていた。
できることならば、ずっと寝ていたかった。
寝ているわけにはいかなかった。夜にもなれば腹は減るし、何よりも彼にはやるべきことがあった。
彼は探していた。
彼は求めていた。
それが何かも分からぬままに、彼は衝動に衝き動かされるように、蠢き歩んでいた。
道はない。
彼の前には道はなく、彼の後にも道はない。
前にある植物や樹木をなぎ倒し、食べ、取り込みながら彼は進む。
彼の進んだ後には、かすかに粘質を含んだ水がずるずると続いていた。彼の重みでへこんだ地面に、黒ずんだ水が溜まっている。
かすかに濡れた肉の表面から滴り落ちる水が、彼の歩む跡を残していた。
彼は進む。
目的地も、目的も分からぬままに。
大木も岩も彼を阻むことはできない。肉と触手で押しつぶし擦り切り彼はひたすらに直進する。
妖怪も妖精も彼を阻むことはできない。運悪く遭遇してしまった者たちを、彼はひたすら無感動に捕食した。
放たれる弾幕も泣き叫ぶ悲鳴も気にせずに、条件反射のような正確さで、彼は食べていく。
何者も、彼の障害にはなり得なかった。
† † †
夜が更けるのは速い。
一人ではなく、二人ならば尚更だった。風呂、夕食、片付け。その他諸々のことをこなしていれば、夜はあっという間もなく深くなっていく。
太陽は完全に眠りにつき、地平の彼方でまどろんでいたはずの月は、今では元気よく空の彼方で笑っていた。
暗く、灯火の消え果てた山を、村を、そして慧音の家を、星と月は静かに照らし出している。
村は完全に寝静まっている。人の声は絶え、虫や夜鳥の声が静かに響く。
慧音の家も例外ではない。
生活の音は全て無くなり、夜の静かさが家の中には満ちていた。
唯一、寝所にて灯っている蝋燭だけが、彼女たちが眠っていないことを静かに主張している。
蝋燭の穏やかな炎に照らし出された寝所。居間とふすま一枚で隔てられたそこには、二組の布団が敷いてある。
片方は慧音の布団。敷布団の上に四つんばいになって、布団の四隅を綺麗に整えている。
片方は来客用の予備布団。その上には、妹紅があぐらをかいて座っており、丁寧な慧音の作業をのんびりと見詰めていた。
蝋燭の炎と、窓から差し込む月明かりは、そう広くない寝所を照らしている。炎が明るいせいで、物陰に出来る影が濃く深く見えた。
「――よし」
満足がいったのか、慧音は布団の端から手を離し、布団の上で女の子座りをして妹紅へと向き直った。
妹紅も慧音も、いつもの服ではない。
古くなった着物を流用した寝間着。慧音の着るそれは藍色。妹紅は薄紅色の寝間着だが、慧音の借り物のせいでサイズが大きくゆったりとしているせいで、着ている妹紅がいつもよりも幼く見えた。いつも結んでいる髪がほどけているせいもあるのかもしれない。
その妹紅の姿を上から下まで見て、慧音は微笑んで言った。
「妹紅、よく似合ってる」
「慧音もね」
そう答える妹紅の視線は、慧音の胸元へと注がれている。
寝間着の他には何も身に着けてないせいではっきりと形が分かった。
妹紅は複雑な顔をして視線を外し、次いで自分の胸元を見て、それから何かから逃避するかのように窓の外を見た。何か、色々と思うところがあるらしい。
窓の外。
星のよく見える空。
細い三日月が見えた。
「蝋燭、消していいか?」
慧音の問いに、妹紅は空を見たままうん、と頷いた。
ふ、と息を吹きかける声。
魔法のように明かりが消えた。あれだけ照らし出されていた寝所は、慧音のひと息で、再び夜の闇を取り戻した。
窓から入り込んでくる月光だけが全てだった。
薄暗い部屋の中、妹紅はもぞもぞと布団にもぐりこむ。
首から下まですっぽりと布団を被り、頭を枕に乗せて、妹紅は横になったまま振り返る。
すぐそこに、慧音の顔があった。
布団一枚分。
手を伸ばせば届く距離に、同じように妹紅を見る、慧音の顔があった。
いつもの奇抜な帽子はない。丸く小さな頭を枕に乗せて、横を向いて妹紅の顔を見ていた。
月明かりの中、視線が絡み合う。
先に笑い出したのは、どちらだったのだろう。
どちらともなく、顔を見合わせて、くすくすと笑った。何がおかしいのか分からなかったけれど、それとも楽しかったのだ。
二人の笑い声は、狭い部屋に響くことなく、夜の空へと消えていく。
妹紅は、布団から右手だけを出し、慧音の布団との境目に置く。
慧音もまた、布団から右手だけを出し、妹紅との布団の境目に置く。
月明かりの中、指先が絡み合う。
二人の少女は、布団に横たわり、手を緩やかに繋ぐ。
手を繋いだまま、妹紅は言う。
「おやすみ、慧音」
手を繋いだまま、慧音は答える。
「おやすみ、妹紅」
そして、二人は目蓋を閉じ、眠りにつく。
外では微かに風がふき、窓を揺らした。
遠くでは獣が鳴いていた。夜は妖怪の時間だ、誰かが弾幕遊びをしている音も聞こえた。
が、それは遠い遠い場所でのことだ。
今、暖かな布団の中で、手を繋いで眠る二人の少女には関係ないことだ。
ふすまと壁で周りから切り離された小さな部屋。外で起きていることは、全て遠い世界の出来事だった。今、妹紅にも慧音にも、この布団と、繋いだ手の暖かさだけが全てだった。
妹紅と慧音は手を繋いで眠る。
夢さえも見ない、穏やかな眠りだった。
† † †
その家は、三分と二十五秒後に破壊される。
夜は、眠りについていた。
厚い雲が、月と星を隠してしまうくらい夜。村には光がない。便利な街灯などという代物は、田と山と共に暮らす村人には必要のないものだ。
日の出と共に起き、日の入りと共に眠る。
太陽ともに過ごすのが、彼ら農民の生活だった。
山のふもとのその村では、特にその傾向が顕著だった。
夜の森ほど、恐ろしいものはない。
昼間ならばまだいい。獣を獲りに山を分け入ることもあるし、山向こうの村と交易するために山越えすることもある。
昼間の山は、彼らにとって、生活の場だった。
夜は違う。
夜の山は、彼らの居場所ではない。
彼ら以外の――人間以外の居場所だ。
獣たちすら出歩かない。夜の王者は獣でも人でもない。鉄砲を持った猟師でさえ、夜の山に決して入ろうとはしない。子供たちは言葉を覚えるよりも早く、あそこに行ってはいけないと教えられる。
なぜか?
そこは、夜の山は、人の入っていい場所ではないからだ。
入れば間違いなく命を失う。闇の奥、月の光すら通さない暗い場所から現れる、何者かの手によって!
事実――夜の森に入って、無事に帰ってこられる人など、存在しなかった。
万に一の可能性で帰ってきた者は、身体か、精神に、必ず異変を来たしていた。頬はこけ、髪は白く染まり、言葉を喋れなくなって、廃人同然になって帰って来る。そして、数日後には、呪われたかのように死ぬのだ。
だからこそ人は山へと入らなかったし――彼らもまた、山から降りてこなかった。
均衡を守るために。
山に住む彼らは知っていたのだ。もし山から降り、村へ攻め込むようなことをしたらどうなるかを。一時的に腹は満たされるだろう。村に住む人を、全て食い尽くすこともできるだろう。
そして、自分たちよりも強い何者かが、山へと逆に踏み入ってくるのだ。
全てが均衡に基づいていると、彼らは本能で知っている。自らが人を食うように、自らを殺すものが、この幻想郷には確かにいるのだと。
だから、彼らは山から降りようとはしない。
普通ならば。
今――村へと降りる『彼』は、普通ではなかった。
本能が鳴らす警鐘を、彼は持っていなかった。
妖怪の持つ本能を、彼は持っていなかった。
後に滅ぼされることも考えず――彼は、山を降りた。
村へと、降りた。
夜の村は、完全に寝静まっている。暖炉の灯火すら存在しない。完全な夜闇。
彼のおぞましい姿を見る者は、誰一人としていない。
見る者がいれば、その姿のおぞましさに、悲鳴をあげていただろう。
巨大な肉の固まりが、足もなく、うぞうぞと蠢きながら、村へと迫っていたのだから。肉で出来た橙色の触手が絡まりあい、一つの固まりとなっていた。彼が通る地面には、やけに水気を帯びた土と、枯れてしまった草木だけが残された。
後に何も残さず、彼は進み続ける。
村へ、村へと。
村の中に入り込んでも、気付く者は誰もいない。何か異変があるときならばともかく、平時から見張りを立ててなどいない。誰もが生きるので忙しく、余計なことに手を回している暇はない。
だからこそ、彼が入り込んできたことに、誰も気付かない。
誰も、彼の歩みを止められない。
木で作られたその家には、男が寝ていた。働き盛りの、筋肉質の男。狩りに出れば、さぞかし勇猛に働いたであろう男。
寝ていては、どうしようもなかった。
彼は木の壁を取り込み、壊し、喰い、男が目を覚ますよりも先に、男の上へと覆いかぶさった。
肉が、男の骨を潰す音が、半壊した家に響く。
身体全体で食われる痛みに、男はようやく目を覚ました。
その時には、もう全てが遅い。
男はもう身体を半分ほど食われ、残る半分にも触手は迫っていた。
男は、恥も外聞もなく――悲鳴をあげた。
悲鳴は途中で遮られる。彼の触手で。のたうちまわる両手も、痛みと恐怖に涙する顔も、彼はゆっくりと呑み込んでいく。
それでも、彼は満たされない。
彼は空腹で村に下りたのではなく。
ある種の本能に衝き動かされて、村へと来たのだから。
その本能が何か、彼自身にも分かってはいない。彼には脳ミソなどほとんどなく、最低限の思考しかできない、知能無しだったのだから。だからこそ、本能に忠実に、彼は動いていた。
心の声が何か理解せずとも、心の叫びの通りに、彼は動いた。
心は、男を殺し、食べ、こう叫んだ。
――チガウ。チガウ。コレジャナイ。チガウ!
叫びのままに彼は動く。狭い家の中で身体を反転させ、壊した場所から外に出る。
外には、わずかに明かりが目を覚ましていた。
太陽が昇ってきたのではない。
彼が壁を壊す音と、男のわずかな悲鳴。
それを耳にした者たちが、不審を感じて、松明を灯したのだ。
壊れた家へと人間達が近寄ってくる。手に手に松明を持って。
彼の、グロテスクな身体が、炎に照らし出された。
悲鳴が、響いた――
その悲鳴から逃げるように、彼は山へと向かった。
夜が終わり始めていた。
もうしばらくすれば、陽が戻ってくるだろう。
それを、彼は本能で感じていた。
また、夜に。村へと、『捜しに』こよう――
彼は、本能とともに、そう思った。
◆Second days◆
幻想郷の朝は早い。
陽が昇ると同時に村は動き出す。電気よりも陽の光、自然と共に生きる生活だからだ。陽光が山間から顔を覗かせる頃、村人たちは目を覚まし、それぞれの生活を始める。
ある者は家族のための食事を作り。
ある者は朝一の農作業へと赴き。
ある者は庭の裏で薪を割り始める。
村の外れに住む慧音も例外ではなかった。
窓越しに入る光を感じながら身体を起こす。目はとうに醒めていたが、布団の中でまどろんでいたのだ。
遠くから鶏の鳴き声が聞こえてきた。
布団の上に立ち、大きく背伸びをする。口を思い切りあけて深呼吸をすれば、朝霧を孕んだ心地良い空気の匂いがした。
朝の匂い。
いつも変わらぬこの冷たい空気が、慧音は好きだった。
再び深呼吸。伸びをして、肺の中の空気を全て吐き出す。
微かに残っていた眠気は、一緒に外へと出て行った。
窓の外を見る。少しずつ強くなりつつある斜陽が飛び込んでくる。
――今日も暑くなりそうだ。
心中で気合を入れ、慧音は微かに乱れた襟元を正す。
遠くで、再び鶏が鳴いた。
「……むぁ、む……」
足元で、うめき声が聞こえた。
見るまでもなく、慧音にはそれが誰のものか分かっていた。それでも声の主を見たのは、彼女が起きたのかと思ったからだ。
が、予想に反して、妹紅はまだ寝たままだった。
薄い掛け布団を足元へと蹴りのけ、寝間着を豪快に乱し、それでも幸せそうに寝入っていた。寝間着は腰紐でかろうじて留まっているだけで、半分脱いでいるも同然だった。今が冬だったら、とうに風邪を引いていたことだろう。
「……まったく」
慧音はしゃがみ、白い腿を綺麗に揃え、寝間着の乱れを簡単に直してやる。直しても寝間着はどこか歪だったが、それは仕方がないと諦めた。これ以上どうにかしたかったら、妹紅をたたき起こして着付けしなおすしかない。
最後に毛布をかけなおし――そ、と頭を一度撫でる。
妹紅は一度だけむ、と呟き、それから再び眠りに戻った。頭を乗せるはずの枕は、今は彼女の手の中に収まっていた。子供のような仕草だった。
慧音はその様を見て微笑み、静かに腰をあげる。
――すぐそばに妹紅がいる。
その事実が、慧音の心をいつも以上に穏やかにさせていた。
普段は一人しかいない家。朝、起きたときに誰かがいるというのは、どこかくすぐったいような、新鮮で心地良い感覚だった。
もう少しだけ寝かせておいてやろう―慧音はそう思い、足音を殺してふすまを開け、居間を通り抜け、裏口へと向かう。
妹紅の、小さな寝息を聞きながら、静かに。
草履をつっかけ、裏口から外へ出る。戸の近くの棚に仕舞ってある手拭いを持っていくのを忘れない。
引き戸はから、と小さな音を立てて開いた。日常的に使い、定期的に掃除をしているおかげで大きな音はならなかった。
裏口の戸には鍵はかかっていない。無用心なのではなく、用心をする必要がないからだ。村人全員顔見知り、という閉鎖的で協力的な環境で泥棒は起きない。起きるとすれば、戸を破壊して入ってくるような強盗くらいである。
もし強盗が入ってくるようなことがあれば――今まで、そんなことは一度もなかったけれども――慧音は、すぐさま弾幕の嵐と共に叩きだすだろう。
それ以外の来客ならば、快く迎え入れるだけの優しさは慧音にあった。
「いい天気になりそうだな……」
戸口から外に出て、空を見上げて慧音は一人呟く。
空の端では、刻一刻と太陽が昇りつつあった。昇る速度に比例して、辺りはあっという間に明るくなっていく。
空は青く、空気は澄んでいる。
今日も暑く、良い天気になるだろう。これならば洗濯する妹紅の服も、綺麗に乾くに違いない。
気持ち足取りも軽く、慧音は裏手にある井戸へと向かった。常備してある桶を使い、地下深くから湧き出る井戸水を汲み上げる。桶に手を入れると、水はひんやりとして心地良かった。
袖を肩まで捲くり、桶に汲んだ水で顔を洗う。
ひんやりとした井戸水が、身体の端に残った眠気を外へと追い出していった。
手拭いで顔を拭き、立ち上がって家へと戻ろうとする。
ふと、村が視界に入った。
慧音の住む家よりも、低いところに広がる村。普段ならば、ゆっくりと朝の準備が始まっているであろう村が、いつもよりも賑わっていた。
朝からお祭り、といった雰囲気ではない。むしろ、何か予想外の事態が起きて、慌しくなり始めた、といった感じだった。
慧音は首を傾げる。何かが起きている様子はない。弾幕が飛び交ったり、里に妖怪がせめてきたり、夜が終わらなくなったりもしてない。
ごく普通の、朝の村。
「……後で顔を出してみるか」
呟き、慧音は家の中へと戻った。特に急いで動く必要はないだろう、と思ったのだ。よほどの緊急事態ならば、村の方から誰かが慌てて訪れるだろうし、緊急事態を通り越した異常事態ならば気づかないはずもない。
今考えなければいけないのは、朝食のことだ。
裏口でサンダルを脱ぎ揃え、居間へと戻る。
と、
「……おはよう」
開け放したふすまの向こう。寝所では妹紅が眼を覚ましていた。布団の上に胡坐をかき、眠そうな眼をこすりながら慧音を見ている。
着崩れた寝間着から、微かに胸元が見えた。
顔も声も寝ぼけていた。視線がふらふらと定まらず、どこを見ているのかまったく分からなかった。
「すまん。起こしたか?」
言って、慧音は妹紅の前を横切り、台所に立つ。ゆっくりとしたその歩みを、妹紅は首を動かして視線で追う。
妹紅の見る中、慧音は台所にかけてある臙脂色の割烹着を手に取った。
「いや――」
妹紅は、二度、三度と頭を振り、それでも眠気は消えず、寝ぼけた声で、
「今起きた……。うん、今起きる」
「眠いなら寝ててもいいぞ。朝食は今から作る」
手に取った割烹着を着て、腰の後ろでリボンを結んだ。見ないでも蝶々結びが出来るのは日々の成果だ。妹紅はその結び目を、眠そうな半眼で見つめている。
「いや、折角出し手伝う――ふぁぁぁぁっ」
大きなあくびを一つ吐き、妹紅は立ち上がった。帯がほどけかけているせいで、寝間着はほとんど役目を果たしていなかった。白い肌が斜陽に照らされて輝いているように見えた。
頭をぽりぽりと掻きながら、妹紅は寝所を後にして慧音の元へと歩みだす。足に絡みついた毛布が、ずるずると畳の上を引きずられていく。
「何すればいい?」
寝間着の前が完全に開けた妹紅は、毛布を足に絡めたまま慧音の側に立って言う。
「妹紅、」
眠たそうな顔の妹紅を見つめて、裏口を指差して慧音は言う。
「――顔洗ってきなさい」
† † †
村人が慧音の家を訪れたのは、朝霧の匂いが消え去り、暑くなり始めた時間だった。
とん、とん、という遠慮がちな軽い音が、朝食が終わったばかりの慧音の家に響いた。
音は入り口の戸から聞こえてきた。
妹紅と慧音は同時に戸へと振り向いた。寝間着の上から慧音の割烹着を着て、朝食の皿を洗っていた妹紅が「誰だろ」と呟いた。慧音は私がやるよ、と言ったが妹紅はいやいや私だって食っちゃ寝ているわけにもいかないと自ら仕事を請け負ったのである。
おかげで、朝食を食べ終わった後、慧音はいつもの服に着替え、特に何もせずにのんびりと茶を飲んでいた。何をすることもなく、鼻歌と共に皿を洗う妹紅の後ろ姿を見ながら、惚けたようにお茶を飲んでいた。
来客が来たのは、そんなときだった。
戸の向こうにいるのが村人だと、慧音にはすぐに検討がついた。夜中に来るのが妹紅くらいしかいないように、遠慮などという行為をするのは村人くらいだった。慧音はいつも「様をつけなくていい、遠慮もしなくていい」と言ってはいるが、村人たちは「そんな慧音様に恐れ多い」と言って聞きはしない。
そういうものだと諦めてはいるが、村人と半人間である自分との隔たりを感じて、少しだけやるせない部分もある。
戸を叩く音は二度で止み、続いて、
「慧音様は居られますか」
という、歳を経た男性の声が、戸の向こうから聞こえてきた。
声には聞き覚えがあった。村に住む長の声だ。その声を聞いて、慧音は少しだけ眉根をひそめる。
――慧音の家に、村長自身が足を運んでくるとき。
それは、村や村の周辺で何かがあったときだ。常人ならざる慧音に何かを頼みに来たときだ。
朝、やはり何かが起きていたのかもしれない。慧音はそう思いつつ、戸口へと向かった。
「はい」
短く答え、慧音は戸を開ける。
声の主は、昨晩妹紅が立っていた場所と同じところに立っていた。頭に編み笠を被った壮年の男性。着ている和服は長い間使い込んだのか、色は褪せ所々に修繕の跡が見えた。
男性は慧音の顔を見るなり、編み笠を脱ぎ、小さく頭を下げた。それもいつものことなので、慧音は特に気にしない。
皿を洗う手を止め、濡れた手を割烹着の裾で拭いて、妹紅は慧音と来客者を見つめる。来客を見ると『輝夜の刺客か』と思ってしまうのは、それが妹紅の『いつものこと』だからだ。
が、どう見ても男性は刺客には見えなかった。農作業を繰り返して引き締まった体つきではあるものの、空を飛んだり時を止めたり弾幕を出したりできるようには見えなかった。あくまでも、普通の村人。
それでも妹紅は一応警戒を止めず、壁に背中を預けて、いつでも男に跳びかかれるようにした。
そんな妹紅の心中を知ってから知らずか、男は顔をあげ、ほがらかな笑みを浮かべた。
「お変わりありませんな」
「そう言う貴方も。この前は、スイカを持ってきてくれてありがとう」
「いえ――『ありがとう』などともったいないお言葉です。家内も喜ぶでしょう」
男は玄関先で、もう一度頭を下げた。全身を使った、深々とした礼だった。
顔を上げた村長は、まっすぐに慧音の瞳を見つめている。その瞳にははっきりと『深刻な事態になりました』と書いてあった。
妹紅が居なければ居間にあげて茶を出し、世間話の一つもするところだったが、そうはいきそうにもになかった。慧音にも村長にも、雑談をする理由は一つとして存在しなかった。
慧音は、はっきりと本題に切り込んだ。
「今日は、何の御用ですか? 村で何かがあったのでしょうか」
その言葉に、村長は「いやはや」と答えて頭をかいた。
困ったように笑う村長。その目は、まったく笑っていない。
言い出しにくいことをそれでも言わなくてはならないのだ、という雰囲気を作ってから、村長は言った。
「率直に申しますと、出ました」
慧音の表情が険しくなる。妹紅の眉が、ぴくりと動いた。
低く落ち着いた――妹紅と話すときとは、まったく違う声で、慧音は答える。
「妖怪が、ですか」
「えぇ」村長はもう一度頭をかき、「妖怪が出るのはいつものことですが、村まで降りてきました。山の妖怪は下りてきませんから、余所モノかも知れません」
村長の言うとおり、この山の妖怪は村へと降りてこない。
慧音の家があるあたりを線引きに、そこから下へと降りてこようとはしないのだ。長い間村と慧音に携わってきた彼らは、自分たちの縄張りをきちんとわきまえていて、そこから踏み込んでこようとはしない。
来るとしたら、そういう暗黙の了解から脱した、強力な妖怪か――あるいは、それを知らない余所の山から流れてきた妖怪だ。
たまにそういうことがある。縄張り争いに負けたり、急に人を襲いたくなったり、若く血気盛な妖怪が村へと降りてくることが。
そのたびに慧音は彼らを追い返し、追い払い、それでもなお諦めない場合には滅ぼした。
村を守るために。そして何より、妖怪と人間のバランスを保つために。
「村の被害は?」
慧音の問いに、村長は顔を少しだけ伏せて答える。
「外れの与平が殺られました。家ごとでず」
す、の音が濁っていて、「ず」に聞こえた。言って、村長は鼻を小さくすする。彼の死を悼んで、かすかに泣いたのかもしれない。
慧音は沈黙する。黙って、死んでしまった男の顔を思い浮かべる。狩猟が得意で活発な男。明快に話し、おかしくもないのに大笑いをする男だった。がさつではあったが粗野ではなかった。彼が獲ってきた獲物が食卓に並んだこともあった。
その彼は、もう、どこにもいない。
死んでしまっては、会うことはできない。
彼が獲ってきた獲物を食べることも、彼の快活な笑い顔を見ることも、もうできない。
二度と、できないのだ。
瞳を閉じ、もう一度慧音は与平の顔を思い浮かべた。今はもういない与平の顔。
――彼の魂がどうか、永久の平穏を得られますように。
心の中で、そう願って。
慧音は瞳を開けて、村長を見た。与平が死んだことは悲しい。いずれ墓へ参ろうとも思う。
が、それは全てが終わってからの話だ。
まだ何も終わってはいない。
与平を殺した妖怪は、今もなお、山に潜んでいるのだから。
明確な意思の光を瞳に灯して、慧音は村長に言う。
「他に犠牲になった方はいますか?」
「いんや、与作だけです。妖怪は、わしらが駆けつけると、すぐに山に逃げました」
凶暴な妖怪ではないのか、と慧音は内心で思う。
凶暴かつ凶悪な妖怪ならば、駆けつけた村人たちを皆殺しにするくらいはやったはずだ。そのまま暴れ、人を食い、殺せば、その騒ぎは慧音のいる所まで届き、その日のうちに事件は終わっただろう。
そうはならなかった。妖怪は、村長たちから逃げ出すかのように、山へと逃げ戻った。
臆病な妖怪なのかもしれない。寝込みを襲うだけしかできないような。あるいは何かの間違い、事故に近いものなのかもしれない。
が、その妖怪がどんな妖怪であれ、村へと降り、人を殺したことには変わりない。
その理由が分からない限り、妖怪が降りてくる可能性はある。人間の味を憶えたり、何かの目的がある場合は――今夜にでも、その妖怪は再び襲ってくるはずだ。
「分かりました」
慧音の返事に、村長は顔を上げる。
その顔には、期待の色が込められていた。
やってくれるのですか、と村長は呟く。
小さく慧音は頷く。村長の顔は、露骨に破顔した。良かった、これで助かった――表情は如実にそう語っている。
笑ったまま、村長は慧音に問う。
「今から向かわれますか」
「いえ――」慧音は首を横に振る。「夜になってから出向きましょう」
慧音の言葉に、男は不安げな表情を浮かべた。彼の考えていることは、不安に思っていることは、慧音にはありありと分かった。夜が来るまでの間に――昼のうちに妖怪が攻めてきたらどうしよう、と思っているのだ。
男の不安を解すために、慧音はわざと明るい声で言った。
「大丈夫です、昼の間は、妖怪は山の奥でぐっすりと寝ているはずです」
夜に食事を取ったのだから、とは言わなかった。
言っても仕方の無いことだったからだ。余計な不安をあおる必要はない。
代わりに、にっこりと笑みを浮かべて、慧音は言う。
「ですから、活発に動き出す夜――その前、夕方には、私が山へと向かいましょう」
男は、あからさまにほっと息を吐き、安堵の表情を浮かべた。その顔を見て、慧音は内心で夕方早いうちには出向こう、と心に決める。不安に思うということは、実際に被害が出ているということだ。家一つに人一人。けっしてそれは軽いものではない。
妖怪が起きると思しき夕暮れ時。その頃、起きたばかりを狙って行こう。
頭の中で今日の予定を組み立て、慧音は妹紅の方を振り返る。
「妹紅はどうする?」
壁にもたれかかり、妹紅は小さくあくびをしていた。来客者は穏便で、自分の出る幕ではないと感じていたからだ。
皿洗いに戻ろうか――と考え込もうとしたまさにその瞬間だったので、慧音の言葉に、すぐには反応できなかった。
瞳が焦点をあわせるような速度で慧音と村長を見て、頭を掻き、少し悩みこむふりをした。
本当は、悩みこむまでもなく、予定など存在しなかった。そもそも予定を立てたことなど記憶の中にはなかった。
即答しなかったのは、単に男に暇人だと思われたくなかったからだ。
「折角だから手伝うかな。一宿一食の恩さ」
「む。恩を売った覚えはないぞ」
「じゃあ付き添いの見送りだな。それくらいならいいだろ?」
慧音は少しだけ悩みこむ。もし子供や村民が妖怪退治についていきたい、と言ったのならば、慧音は迷わず首を横に振っただろう。妖怪退治は危ない、巻き込まれて死ぬかもしれない、そうでなくとも夜の森は危険に満ちている。怪我だけではすまないかもしれない、死んだら悲しむ人がいるんだぞ。そう言って説得するだろう。
そのどれもが、妹紅には当てはまらない。
妹紅自身が慧音を越える実力者であり、おまけに不老不死ときている。
足手まといどころか、頼りになることこの上なかった。
何かあったときに二人ならば対処しやすいし――何よりも、妹紅が付いてきてくれるという事それ自体が嬉しかった。
結局、慧音は首を縦に振った。
よっしゃ、と妹紅が嬉しそうに手を合わせる。
その二人のやりとりを黙ってみていた村長が、恐る恐る尋ねた。
「慧音様……そちらの方は?」
村長の方を振り返り、慧音は即答した。
「私の友人だよ。頼りになる」
慧音は気づかない。
村長の方を向いている慧音は気づかない。
頼りになる、といわれた妹紅が、嬉しそうに、照れくさそうに笑ったことに、慧音は気づかない。
「そうですか――」
村長は、それ以上尋ねようとはしなかった。深く尋ねない方がいい、と何となく感じ取ったのだろう。そうでなくとも、『慧音様』の私生活に立ち入る気はなかった。
そろそろ潮時だと感じたのか、用件は伝え終わったと思ったのか。村長は一歩後ろへ下がり、頭を下げた。
「――それでは、お願いします」
村長は顔をあげて、編み笠を被りなおす。最後にもう一度小さく頭を下げて、村長は踵を返した。
農作業に関わってきた男の後ろ姿が見える。
その背中に、慧音は、最後の質問をした。
「聞き忘れていた。その妖怪は、どんな妖怪だった?」
村長の足が止まる。
村長は振り返らない。村の方を向いたまま、慧音の方を見ようとしない。
その顔が、どんな表情を浮かべているのか、慧音にはわからない。
振り向かぬままに、村長は答えた。
「――腐った肉の塊のような、おぞましい妖怪でした」
答える声は、微かに、恐怖で震えていた。
(ありがとうを君に・後編へ続く)