紅魔館は洋館である。
館の主であるレミリアが欧州の血を感じさせる吸血鬼であることからか、紅魔館の基本的な生活習慣は幻想郷では珍しい西洋風の生活習慣だ。
室内でも靴は履いたまま。
主食はパン。
お酒はワイン。
眠るときにはベッドで。
ナイトガウンは香水の香りなのだ。
……全員が完全に実現できているいるかどうかは別として。
小悪魔も例に漏れず、西洋風の生活習慣を持っている一人だ。
今日も自室のベッドで目を覚ます。
むくりと身を起こして、
「うー……ん」
伸びをしながら首を回す。
花も恥らう乙女としては、あんまり嬉しくない音が全身の関節から聞こえてきた。昨日もどこぞの白黒鼠が人形師を連れて襲撃してきたので、必要以上に忙しかったのだ。汗だけは流したものの、髪を乾かす気力もなくてそのままベッドに倒れこんでしまった。そのせいでおかしな癖がついてしまっている髪を撫で付けながら、シーツを身にまとってベッドを降りると窓に近づく。
カーテンを開けると眩しい朝日。今日もいい天気だ。
起床後、身支度を整えた小悪魔がメイド用大食堂に足を踏み入れると、朝の爽やかな空気と共にパンの柔らかな匂いがいっぱいに立ち込めていた。
「あ、おはようございますー」
朝の大食堂はそれこそ戦争である。果物ジュースが切れただの、目玉焼きが足りないだの、私の分のサラダが少ないだの、ジャムつけすぎだそれじゃ太るぞあんた人のこと言えたもんじゃないでしょやんのかコラだの、色々と騒々しい。
そんな中、周囲の喧騒を5割増しした空間で美鈴と咲夜が食事を取っていた。
「あ、おはよー。
小悪魔ちゃん、今日は朝食?」
「はい。昨夜は魔理沙さんの相手でお疲れだったのか、
パチュリーさまも早めに就寝されたので
今日は他の人の朝食と一緒に夕食を食べるハメにならなくてすみました」
「あら、珍しい。ってこら、それは私の目玉焼きでしょーが!」
「油断大敵ですよー……いや、隊長、食事中にスペルカードはあんまりで」
どがぎゃ。
「咲夜さんもおはようございます。
それにしても、よくこの空間で食事していられますね」
「おはよう、小悪魔。
慣れよ、慣れ」
門番隊の食事風景は野生動物のとあんまり変わらないなぁ、というのが小悪魔の正直な感想である。とは言え「堅気の人に手を出しちゃいけねぇ」という薫陶が行き届いているのか、美鈴の横で食事をしている咲夜や近くにいる他部署のメイドたちにまで類が及ぶことはないのだが。
小悪魔が失礼な感想を抱きながら朝食を乗せたトレーを咲夜の隣の席に置くと、それを見ていた咲夜がふと漏らした。
「貴方も結構食べるのね」
香ばしい匂いのするクロワッサンとロールパンが2つずつ。半熟の黄身が震える蒸し焼きの目玉焼き2つ。茹でた紅魔館自家製ソーセージが3本。それにサラダとヨーグルト。飲み物は牛乳だ。
「……司書って、言葉の響きからは縁遠い肉体労働なんですよ」
ちょっと遠い目をしてみる小悪魔。
パチュリー様に召喚されてから、ついたといえば腰や腕の筋肉かなぁ。ああ、里帰りしたら魔界のおっかさんになんて言われるだろう。
「得意技は本を片付けるときに身に付けた、本棚ブックウェーブです!
とか言って大量の本がなだれ落ちるような
本棚最上段からの雪崩式フランケンシュタイナーでも披露したらいいかな……
うふ、うふふふ……」
暗い目で笑う図書館司書。本人が認識していないところで余計な知識もついているらしい。とりあえず「魔界のおっかさんと聞いて歩いて来ました」というフレーズと共に脳裏をよぎった前髪に特徴のある女性を本棚ブックウェーブで沈めておいて、小悪魔はパンをちぎる。
実は小悪魔も元々は咲夜や人間のメイドたちには言えないようなものを食べていた口だ。しかし、最近ではそれらを食べることはなくなっている。こんなに美味しいものがあるのに、わざわざ隣人に対して気が引けるようなものを食べようとは思わない。館にいる他の妖怪メイドたちも、多分同じようなものだろうと小悪魔は思っている。
「食べる量について含むものがあったわけじゃないのよ?」
あまり表情は変わらないものの、ちょっと慌てているのを感じ取れるようになった。
そんな彼女に、微妙な顔はされたくない。
「いいですよー。
どうせ私なんて食べれば食べるほど、ついて欲しい部分以外にお肉がつくだけですしー」
拗ねたフリをして咲夜から視線を外すと、何故か全員が殴り合いを始めている門番隊が目に入った。門番隊は、隊長を筆頭に全員が「ついて欲しい部分に肉がつく」タイプだ。
小悪魔は無言で牛乳を飲み干した。
「小悪魔?」
「うん、まあ、なんと言いますか……世の中って不条理ですよね」
咲夜がわかったようなわかっていないような妙な表情になったところで、美鈴が戻ってきた。
「はー、やれやれ」
「お疲れ様です。
何か随分な騒ぎになっていましたけど?」
「そうだ!
ちょっと聞いてよ小悪魔ちゃん!
目玉焼きには塩コショウよね!?」
「……はい?」
「ソースやお醤油、ましてケチャップやマヨネーズなんてもってのほかよね!?」
「……乱闘の理由を教えてください」
「半熟、塩コショウは譲れないのよー!」
どうも目玉焼きをどうやって食べるかで意見の相違があったらしい。普段は美鈴一人VS門番隊になるのにバトルロイヤルになってしまったところを見ると、それぞれに譲れない主張があったようだ。
「最初は盗られた目玉焼きを奪い返すための戦いじゃなかったんでしたっけ?」
「あれ、そういえば私の目玉焼きどうなったんだろう」
「……そんな貴方にソーセージ一本ぷれぜんと」
「いいの? ありがとー」
気楽な門番隊長の横で、メイド長が笑っている。
咲夜は美鈴の横で紅茶を飲んでいた。食事自体はもう済んでいるらしい。
今でこそ紅魔館で人間のメイドは少なくはなく、食事に困ることはないのだが、咲夜がメイドとして紅魔館に入った直後は彼女以外に人間はこの館にいなかった。
最初から随分と人間離れした能力を持っていた彼女だが、それでも彼女は人間だ。まさか小悪魔が以前口にしていたようなものを食べさせるわけにはいかない。
そこで動き出したのが、妙に食事にこだわりを見せていた美鈴だ。人里での物々交換や紅魔湖での釣り、森での採集など、どこからでも食料を手に入れてくると、上手に調理してみせた。
当時、すでにメイド部隊には料理部門があったのだが、それを見て「人間の食べる料理のほうが工夫や創作の余地が多いじゃないか」と気付いたらしい。どういうわけだか料理部門のメイドたちは無駄に熱い職人根性丸出しの連中であったため、今ではすさまじい数のメニューを誇る。厨房設備もそれに見合ったものになり、食堂横にとんでもない大きさの厨房とパン焼き窯が完成していた。
厨房拡張工事の際の、資材仕入れや工事担当のメイドたちと料理部門のメイドたちの大喧嘩を懐かしく思い出しながら、ふと小悪魔は首をかしげた。
小悪魔がパチュリーに召喚されたとき、美鈴はすでに門番隊長だった。
その当時から、美鈴の食事に対するこだわりは結構有名だったのだが、そこに咲夜を……というよりも人間を結びつけてみると、食事に対するこだわりというよりも、食材に対するこだわりではないかという気がしたのだ。
召喚された直後から美鈴とは親しくしてもらっているが、思い返してみれば美鈴が「気の引ける食材」を口にしているところを見たことは一度もない。
もしかして、やたらと食事にうるさいのは「気の引ける食材」を避けるためではないのか?
横で紅茶を飲んでいるメイド長や紅白巫女、白黒魔法使いよりも人間臭い彼女だが、それでも彼女は妖怪だ。どうして妖怪である彼女が、わざわざそれらを避けるのか。
小悪魔はサラダを口に運びながら、そっと美鈴を盗み見た。
さらりと流れるくせのない紅い髪。僅かに目じりの上がったぱっちりとした青の瞳という、どちらかといえば西洋風の容貌でありながら、幻想郷でも珍しい大陸系の生活習慣。本人の能力や武術もそれに近い。
召喚された直後には頻繁に疑問に思っていたことが、久しぶりに頭をもたげてくる。
この人、いったいナニモノなんだろう……。
「確か、今日だったわよね?」
「ええ。お昼過ぎだったと思います」
小悪魔がふと我に返ると、咲夜と食事を終えた美鈴のそんな会話が耳に入る。
「そうだったよね、小悪魔ちゃん」
「えーっと……」
突然会話を振られたことに慌てながらも脳内のスケジュール帳を必死にめくって、今日に該当する項目を見つけ出した。
「そうですね。
パチュリーさまがいつ起きてらっしゃるかわかりませんから、
少し遅い時間においでいただくようお願いしてあります」
客人のところに使いに出されたのは小悪魔だったのだが、パチュリーから話を聞いたときには天変地異の前触れかと思ったものである。
パチュリーが自ら客を招く。
その内容が紅魔館に行き渡ったときに、一番派手なリアクションを見せてくれたのがその親友であるはずの館主だったというのは小悪魔だけの秘密だ。
「出迎えはどうします?」
「パチュリーさまのお客様ですから、私が応対しますよ」
「でも、同時に紅魔館のお客様でもあるわけだから、私にも声をかけてくれるかしら」
「了解しました。
それじゃ、小悪魔ちゃんと咲夜さんの両方に取り次ぎますね」
美鈴は飲み終えて空になっていた咲夜のカップに紅茶を注ぎ足すと、「お先に」と言い残して姿を消した。門番隊の交代時間にはまだ少し時間がある。おそらく準備運動をしておくつもりなのだろう。
完璧にタイミングを盗まれて礼すら口に出せなかった咲夜は、美鈴の背中を見送ってから苦笑いして紅茶に口をつけた。
「もしかして、それって美鈴さんの紅茶ですか?」
「そうよ。あなたも飲んでみる?」
紅魔館でお茶、というと紅茶だが、実はこれもすさまじい数の種類がある。というよりも、メイド一人一人がオリジナルブレンドを持っているのでメイドの数=紅茶の種類だ。
咲夜の淹れる紅茶を頂点に、それぞれのメイドが工夫を凝らした紅茶。
その中でも謎に包まれているのが美鈴の淹れる紅茶だ。中国茶ではなく、きちんと紅茶のオリジナルブレンドを持っているのだが、何をどう混ぜているのか味から判別がつかない。本人に聞いても今ひとつ要領を得ないこともあって、謎に包まれている。
「わ、いいんですか」
「どうぞ。
時間が経ってしまっているから、ちょっと渋いかもしれないけど」
咲夜は美鈴が置いていったティーポットからいつの間にか用意していたカップにお茶を注ぐと、カップを小悪魔に押しやった。咲夜の手元には砂糖もミルクも用意されていない。小悪魔はストレートで飲むのがいいのかな、などと考えながら何気なくカップに口をつけて、一口。
味も香りもあまり主張しない、ともすれば薄いと表現されてしまいそうな紅茶だったが、一度飲んでから息をすると口の中に残る後味が爽やかな香りになって抜ける。
「……なんだか、美鈴さんみたいな紅茶ですね」
「そうかもしれないわね」
小悪魔の感想を聞いた咲夜はくすりと笑ってカップの紅茶を口にすると、ほっと息をつく。小悪魔は手元のカップに目を落として、頭の中にある紅茶レシピと照らし合わせてみた。
図書館司書である小悪魔。魔術分野以外にはあまり興味を見せない彼女の主の代わりに、それ以外の部分でヴワル魔法図書館を管理、活用しているのは彼女だ。メイドたちから寄せられる、高価な美術品のお手入れ方法や一風変わった食材の調理方法、果ては暇つぶしのゲームまで、あらゆる質問に対応するための知識を整理し、蓄えている。紅茶に関する知識もそのひとつだ。メイドたちのオリジナルブレンド作りの支援のために、古今東西のいろんな紅茶の知識を持っている。
「ああ、なるほど……」
その知識の中から味と香りが良く似たブレンドの、薬効を思い出した小悪魔は思わず呟いた。咲夜の不思議そうな視線になんでもありませんと首を振って見せながらも、こらえきれない笑みがこぼれる。
もう一度カップに目を落とす。これは咲夜のための紅茶だ。
でなければ、オリジナルブレンドとは言え美鈴が朝に飲む紅茶にリラックス効果のあるものを選択するはずがない。
どう考えても、普段から張り詰め気味の咲夜のためだけの紅茶だろう。
小悪魔はにやけないように気をつけながらカップの紅茶を飲み干すと、咲夜に向かって言った。
「ご馳走様です」
食堂出口で咲夜と別れた小悪魔は、廊下を歩き始めた。
小悪魔の身長を2倍しても天井にはまるで手が届かない廊下に、赤い絨毯が敷き詰められている。吸血鬼の館でありながら窓は大きく取られており、そこには一つ一つ精巧なレリーフが施され、それだけで美術品にもなりそうだ。差し込む柔らかな陽光で絨毯の上に描かれる影絵と赤一色になりがちな紅魔館で要所要所に活けられている花々が、ただ廊下を歩くだけでも客人をもてなしてくれる。
窓の外に目を向ければ、紅魔館の手入れが行き届いた庭が目に入る。廊下の花は全てその庭で摘まれたものだ。全ての木や花が、朝露できらめいている。
小悪魔がゆっくりと歩いている間に、廊下の隅を掃除用具を手にしたメイドたちや剪定用具を抱えたメイドたちの行き交う数が増え始めた。
紅魔館の目覚めの時間だ。
小悪魔に気付いたメイドたちが挨拶してくれるのに応じながら、小悪魔は外へ出て行くメイドたちに逆行して、館の奥へ奥へと足を進めていく。
扉をくぐる。
窓から入り込んできていた日の光が遮られ、暗い場所になる。
扉をくぐる。
メイドたちが行き交う音や話し声が遮られ、静かな場所になる。
扉をくぐる。
呼吸が、鼓動が。生き物の気配が遠くなり、冷たい場所になる。
扉をくぐる。
そこがヴワル魔法図書館だ。
小悪魔はぐるりと本棚の森を見回して、普段通り図書館内にある司書席に足を向けた。そこはパチュリーが普段本を読むテーブルから近い一角で、積み上げられた本でうずもれたテーブルが一つ置いてある場所だ。小悪魔は誰が見てもうんざりするようなその席に座り、自分がいるべき場所に帰ってきたことを実感した。
それは正しい場所に、図書が戻された瞬間の安堵感。
小悪魔はテーブルの引き出しを開けるとそこにあった片眼鏡をかけ、白手袋を取り出して手に嵌めた。
そして積み上がった本の山から一冊を手に取ると、テーブルに固定して慎重にページをめくる。読めなくなっている部分はないか。破れているページはないか。蟲が繁殖していないか。翻訳の魔法が込められたパチュリーお手製の片眼鏡で意味と文字の両方を確認しながら慎重に慎重を重ねてページをめくり、最後まで問題なく読めることを確認して、小悪魔は背もたれに体重をかけて大きく息をついた。
別の引き出しから一覧表を取り出して本の題名を確認しながら問題なしとチェックを入れると、別の本を手にとってまた同じようにチェックを始める。
今度の本は7割ほどページをめくったところで、ページの癒着が見つかった。片眼鏡と手袋の入っていた引き出しから、今度は小さなルーペを取り出して癒着している部分を詳しく見てみる。
特に粘着物は見つからない。恐らく水がついたまま本を閉じてしまったために、くっついてしまったのだろう。
軽く引っ張ってみると嫌な音がして、ページの表面が破れてしまいそうだ。小悪魔は同じ引き出しからピンセットを取り出すと癒着部分の紙と紙の間にそれを差し込み、表面を傷つけてしまわないように気をつけながら、剥がしていく。
ピンセットの先が引っかかるたびに、本ではなく自分が動いて力を入れる方向を変えたりしながら、少しずつ少しずつ剥がしていく。
最後に小さくパリ、と音がしてページが開けた。
小悪魔はすぐさま癒着していた部分の文字を調べ、別の紙に同じものを書き写した。書き写した後で、軽く文字の表面を手袋を外して指でなぞってみて、状態をチェックする。
ほっと息を吐いた。
いつの間にかじっとりと額に浮いていた汗を拭ってから手袋を付け直すと、更に慎重にページをめくっていき、最後まで到達した時点で一覧表に題名を書き写して問題なしとチェックを入れる。
緊張から開放されて、また大きく息をつきながら時計を見ると、作業を始めてから随分と時間が経っていた。
本を片付けて片眼鏡と手袋を外し、図書館を出てパチュリーの居室に向かう。
図書館に近いその部屋の前に着くと、軽く身だしなみを整えてからドアをノックする。
「パチュリー様。
起きてらっしゃいますか?」
返事はなかった。
2度ほど同じことを繰り返してから、失礼しますと声をかけてドアを開けると存外に本が少ないその部屋に入り、天蓋付きのベッドに近づく。
予想通り主はまだ眠っていた。
仰向け眠る主の白い顔を覗き込む。
小悪魔はいつもこの瞬間に不安を感じる。生命を停止しているような印象を受けるその寝姿。二度と目を覚ましてくれないのではないのかと考えてしまう。
「パチュリー様、
今日はお客様がいらっしゃるんですよ!
自分で呼んでおいて寝てましたじゃあんまりでしょう!」
それをごまかすために、できるだけ景気のいい声を出すのだ。
「ほら、起きてください!
もうすぐお昼ですよ!」
「んー……本を読むには日の光は強すぎるのよ」
「だからって月の光だけじゃ明るさが足りないでしょう。
早く起きてください。
ムーンサルト押し花プレス食らわしますよ」
起き出して来たパチュリーに安堵からくる軽口を叩いておいて、小悪魔はクロゼットを開けた。偶の来客なのだから、今日くらいは着飾ってもらおうと前々から計画していたのだ。
しかし。
「やられた……っ!!」
前日までに今日の着替え候補の心算でクロゼットに納めておいた服は、全て普段のものに置き換えられていた。
「昨日は早くお休みだったのに妙に起きるのが遅いと思ったら、
夜更かししてんなことやってたんですかー!」
小悪魔が視線を向けると、眠たげな目つきと会心の笑みを浮かべる口元。
「まさか封印魔法まで使って普段着を隠されているとは思わなかったけどね。
逆にその封印のために使った魔力が、私の捜査の網にかかったわ」
「なんで探索魔法と感知魔法の同時発動なんて
高等技術まで使って正装を拒否しますか」
うんざりしながらクロゼットから服を取り出していると、パチュリーが口元に手をやって笑って見せた。
「貴方の見立てなんだから似合わないなんてことはないでしょうけど。
らしくないでしょう?」
「そりゃそうなんですけど……。
ああ、見てみたかったなぁ……パチュリー様の魔法使いとしての正装姿……」
「本当かしらね。
随分とドレスもあったけど?」
「あ、あはは……
さあ、髪を梳かしますので鏡台の前にどうぞー」
小悪魔が櫛を片手に鏡の前に立つと、パチュリーはその前の椅子に腰を下ろした。
失礼します、と一声かけてその菫色の髪を手に取る。
しっとりとした光沢を持つしなやかなそれに、小悪魔はゆっくりと櫛を通す。少しだけ内側に巻き込む癖があるその髪に櫛を通してやると、自然といつも通りの形になっていく。髪から仄かに香るパチュリーの匂いを感じながら小悪魔は一房手にして、
「たまには結い上げてみますか?」
「そうしたら合う服が変わってくるでしょう。
いつも通りで結構よ」
目を閉じて髪をゆだねてくれていたパチュリーに一声かけてみたが、予想通りの応え。
少しだけ残念に思いつつ、小悪魔は櫛を置いて用意してあった着替えを確認する。
「では、お召し物を」
するりと立ち上がったパチュリーの後ろから、胸のボタンに手をかけた。
パチュリーの着替えが終わったところで派手に腹時計がなって、随分とパチュリーにからかわれてしまった。そのパチュリーが笑いながら休憩を許可してくれたので、小悪魔は昼食をとることにした。
念のため来客者が来たときに取り次ぎが遅れないようにと司書席にその旨の書置きを残してから、メイド用大食堂に移動してきた。
すでにメイドたち休憩時間に入っていたのでかなり混雑している。とは言っても、それぞれに休憩時間をずらしたりしているためか、朝ほどの喧騒はない。
「ちょっとそのエビフライ私が狙ってたのよ!」
「ふふん。先に手を出したものの勝ちよ!」
「他人の皿にあるものの所有権を主張しあうな!!」
まあ、どこにでも例外はある。
何故これで皿がひっくり返らないのか不思議なほどの大騒ぎをしながら食事しているのは例によって門番隊だ。他部門のメイドたちは生暖かくそれを観戦している。
ちなみに、厨房も「門番隊がここにいる」というだけで戦争状態だ。
「次、牛肉行きます!
48の捌き技! 牛肉バスター!」
「おっけー、ピラフにするわね!
メイド一〇二芸! 烈火太陽鍋!」
「サラダは引き受けました!
52のかんせ……じゃなくて包丁技! 桂剥きクラッチ!」
物理法則はノーセンキュー。
出来立てのほやほやだよ! と主張する牛肉入りピラフと大根サラダが美味しそうだったので、せっかくだからとそれを貰った小悪魔が空いている座席を探していると、
「あ、司書さーん。
ここ空いてますよー」
「あ、ありがとうございます」
門番隊の一人から声をかけられた。
素直にそちらに腰を下ろすと、何故かわらわらと門番隊が集まってくる。
「ど、どうしたんですか?」
「いえね、次の計画はまだかなーと」
「ああ……」
以前、退屈していたフランドールと一緒に美鈴と咲夜の仲を進展させようとしたときに、門番隊も巻き込んで計画を立てたことがある。それで味を占めたのか、門番隊とフランドールの両方から計画を急かされているのだ。
「あんなに綺麗にハマることなんてそうそうありえないんですから、
もうちょっと時間をくださいよ」
「えー。
隊長に隠れて練習してるのに、お披露目の場がないのは哀しいですよー」
「はい?」
「永遠亭の兎さんたちに、衣装をお願いしてありますしー」
「ちょ、ちょっとまってください。
何のお話ですか?」
「だって、計画ならダンスが必要なんですよね?」
「いや、アレはたまたまダンスパーティのときだったんで、
それにあわせてタップダンスをやってもらっただけですよ?」
「えー。
じゃあ、こっそり練習してるラインダンスは?」
「そんなことやってるんですか!?」
「あれからずっと練習してるのにー」
思わず絶叫してしまった小悪魔の前で、門番隊の何人かが一列に並ぶ。
順番に腕を組んで、
「1・2・3、ハイ!」
手足が長く、出るべきところが出て引っ込むべきところが引っ込んでいる門番隊メンバー。一列に並んで足を蹴り上げるだけでかなり壮観な上に、単純に足を揃えてのダンスだけではなくお互いとお互いの足を絡める動きや更にそれに手拍子まで入った、一糸乱れぬラインダンス。
「何でそんなに完璧なんですか……」
「本番は門番隊全員で、
永遠亭に発注してあるバニーの衣装でやる予定なんですよー」
「それならそれで、今度パーティがあるときにでもお披露目したらどうです?」
「でも、なんとなく今ひとつなんですよねー。
私たちだけじゃ、パンチに欠けると言うか……」
「なら、美鈴さんを巻き込んだらどうですか」
「「「……おお!」」」
小悪魔が「あ、しまった」と思う間もなく、
「それでいこう!
隊長が一番リズム感いいんだし、
ちょっと頑張ってもらえばすぐに踊れるようになるよ!」
小悪魔が「頑張ってもらうの前提なんですか」と突っ込む暇もなく、
「うんうん!
永遠亭の衣装、まだ変更効くかな?
私たち白の衣装で、隊長だけ赤にしよう!」
小悪魔が「いや、どこぞの隊長機のカラーリングじゃないんだし」と無駄知識を見せる隙もなく、
「そうだね、それが目立つだろうし!
よし、隊長にソロをやってもらって私たち皆でバックよ!
隊長を盛り上げるために頑張るわよ!」
小悪魔が「最後に巻き込む人にソロやらせる気ですか」と止める時間もない間に、
「そうと決まれば、隊長を丸め込むわよ!」
「「了解!」」
門番隊は姿を消していた。
「あー……」
止めようとした手が、虚しく空を掴んでいた。
小悪魔は力なくその手を下げて、門番隊全員に一斉にまくし立てられて結局ソロを踊ることになるであろう美鈴を思う。
「すみません、美鈴さん。
……私もちょっと見てみたいです」
館の主であるレミリアが欧州の血を感じさせる吸血鬼であることからか、紅魔館の基本的な生活習慣は幻想郷では珍しい西洋風の生活習慣だ。
室内でも靴は履いたまま。
主食はパン。
お酒はワイン。
眠るときにはベッドで。
ナイトガウンは香水の香りなのだ。
……全員が完全に実現できているいるかどうかは別として。
小悪魔も例に漏れず、西洋風の生活習慣を持っている一人だ。
今日も自室のベッドで目を覚ます。
むくりと身を起こして、
「うー……ん」
伸びをしながら首を回す。
花も恥らう乙女としては、あんまり嬉しくない音が全身の関節から聞こえてきた。昨日もどこぞの白黒鼠が人形師を連れて襲撃してきたので、必要以上に忙しかったのだ。汗だけは流したものの、髪を乾かす気力もなくてそのままベッドに倒れこんでしまった。そのせいでおかしな癖がついてしまっている髪を撫で付けながら、シーツを身にまとってベッドを降りると窓に近づく。
カーテンを開けると眩しい朝日。今日もいい天気だ。
起床後、身支度を整えた小悪魔がメイド用大食堂に足を踏み入れると、朝の爽やかな空気と共にパンの柔らかな匂いがいっぱいに立ち込めていた。
「あ、おはようございますー」
朝の大食堂はそれこそ戦争である。果物ジュースが切れただの、目玉焼きが足りないだの、私の分のサラダが少ないだの、ジャムつけすぎだそれじゃ太るぞあんた人のこと言えたもんじゃないでしょやんのかコラだの、色々と騒々しい。
そんな中、周囲の喧騒を5割増しした空間で美鈴と咲夜が食事を取っていた。
「あ、おはよー。
小悪魔ちゃん、今日は朝食?」
「はい。昨夜は魔理沙さんの相手でお疲れだったのか、
パチュリーさまも早めに就寝されたので
今日は他の人の朝食と一緒に夕食を食べるハメにならなくてすみました」
「あら、珍しい。ってこら、それは私の目玉焼きでしょーが!」
「油断大敵ですよー……いや、隊長、食事中にスペルカードはあんまりで」
どがぎゃ。
「咲夜さんもおはようございます。
それにしても、よくこの空間で食事していられますね」
「おはよう、小悪魔。
慣れよ、慣れ」
門番隊の食事風景は野生動物のとあんまり変わらないなぁ、というのが小悪魔の正直な感想である。とは言え「堅気の人に手を出しちゃいけねぇ」という薫陶が行き届いているのか、美鈴の横で食事をしている咲夜や近くにいる他部署のメイドたちにまで類が及ぶことはないのだが。
小悪魔が失礼な感想を抱きながら朝食を乗せたトレーを咲夜の隣の席に置くと、それを見ていた咲夜がふと漏らした。
「貴方も結構食べるのね」
香ばしい匂いのするクロワッサンとロールパンが2つずつ。半熟の黄身が震える蒸し焼きの目玉焼き2つ。茹でた紅魔館自家製ソーセージが3本。それにサラダとヨーグルト。飲み物は牛乳だ。
「……司書って、言葉の響きからは縁遠い肉体労働なんですよ」
ちょっと遠い目をしてみる小悪魔。
パチュリー様に召喚されてから、ついたといえば腰や腕の筋肉かなぁ。ああ、里帰りしたら魔界のおっかさんになんて言われるだろう。
「得意技は本を片付けるときに身に付けた、本棚ブックウェーブです!
とか言って大量の本がなだれ落ちるような
本棚最上段からの雪崩式フランケンシュタイナーでも披露したらいいかな……
うふ、うふふふ……」
暗い目で笑う図書館司書。本人が認識していないところで余計な知識もついているらしい。とりあえず「魔界のおっかさんと聞いて歩いて来ました」というフレーズと共に脳裏をよぎった前髪に特徴のある女性を本棚ブックウェーブで沈めておいて、小悪魔はパンをちぎる。
実は小悪魔も元々は咲夜や人間のメイドたちには言えないようなものを食べていた口だ。しかし、最近ではそれらを食べることはなくなっている。こんなに美味しいものがあるのに、わざわざ隣人に対して気が引けるようなものを食べようとは思わない。館にいる他の妖怪メイドたちも、多分同じようなものだろうと小悪魔は思っている。
「食べる量について含むものがあったわけじゃないのよ?」
あまり表情は変わらないものの、ちょっと慌てているのを感じ取れるようになった。
そんな彼女に、微妙な顔はされたくない。
「いいですよー。
どうせ私なんて食べれば食べるほど、ついて欲しい部分以外にお肉がつくだけですしー」
拗ねたフリをして咲夜から視線を外すと、何故か全員が殴り合いを始めている門番隊が目に入った。門番隊は、隊長を筆頭に全員が「ついて欲しい部分に肉がつく」タイプだ。
小悪魔は無言で牛乳を飲み干した。
「小悪魔?」
「うん、まあ、なんと言いますか……世の中って不条理ですよね」
咲夜がわかったようなわかっていないような妙な表情になったところで、美鈴が戻ってきた。
「はー、やれやれ」
「お疲れ様です。
何か随分な騒ぎになっていましたけど?」
「そうだ!
ちょっと聞いてよ小悪魔ちゃん!
目玉焼きには塩コショウよね!?」
「……はい?」
「ソースやお醤油、ましてケチャップやマヨネーズなんてもってのほかよね!?」
「……乱闘の理由を教えてください」
「半熟、塩コショウは譲れないのよー!」
どうも目玉焼きをどうやって食べるかで意見の相違があったらしい。普段は美鈴一人VS門番隊になるのにバトルロイヤルになってしまったところを見ると、それぞれに譲れない主張があったようだ。
「最初は盗られた目玉焼きを奪い返すための戦いじゃなかったんでしたっけ?」
「あれ、そういえば私の目玉焼きどうなったんだろう」
「……そんな貴方にソーセージ一本ぷれぜんと」
「いいの? ありがとー」
気楽な門番隊長の横で、メイド長が笑っている。
咲夜は美鈴の横で紅茶を飲んでいた。食事自体はもう済んでいるらしい。
今でこそ紅魔館で人間のメイドは少なくはなく、食事に困ることはないのだが、咲夜がメイドとして紅魔館に入った直後は彼女以外に人間はこの館にいなかった。
最初から随分と人間離れした能力を持っていた彼女だが、それでも彼女は人間だ。まさか小悪魔が以前口にしていたようなものを食べさせるわけにはいかない。
そこで動き出したのが、妙に食事にこだわりを見せていた美鈴だ。人里での物々交換や紅魔湖での釣り、森での採集など、どこからでも食料を手に入れてくると、上手に調理してみせた。
当時、すでにメイド部隊には料理部門があったのだが、それを見て「人間の食べる料理のほうが工夫や創作の余地が多いじゃないか」と気付いたらしい。どういうわけだか料理部門のメイドたちは無駄に熱い職人根性丸出しの連中であったため、今ではすさまじい数のメニューを誇る。厨房設備もそれに見合ったものになり、食堂横にとんでもない大きさの厨房とパン焼き窯が完成していた。
厨房拡張工事の際の、資材仕入れや工事担当のメイドたちと料理部門のメイドたちの大喧嘩を懐かしく思い出しながら、ふと小悪魔は首をかしげた。
小悪魔がパチュリーに召喚されたとき、美鈴はすでに門番隊長だった。
その当時から、美鈴の食事に対するこだわりは結構有名だったのだが、そこに咲夜を……というよりも人間を結びつけてみると、食事に対するこだわりというよりも、食材に対するこだわりではないかという気がしたのだ。
召喚された直後から美鈴とは親しくしてもらっているが、思い返してみれば美鈴が「気の引ける食材」を口にしているところを見たことは一度もない。
もしかして、やたらと食事にうるさいのは「気の引ける食材」を避けるためではないのか?
横で紅茶を飲んでいるメイド長や紅白巫女、白黒魔法使いよりも人間臭い彼女だが、それでも彼女は妖怪だ。どうして妖怪である彼女が、わざわざそれらを避けるのか。
小悪魔はサラダを口に運びながら、そっと美鈴を盗み見た。
さらりと流れるくせのない紅い髪。僅かに目じりの上がったぱっちりとした青の瞳という、どちらかといえば西洋風の容貌でありながら、幻想郷でも珍しい大陸系の生活習慣。本人の能力や武術もそれに近い。
召喚された直後には頻繁に疑問に思っていたことが、久しぶりに頭をもたげてくる。
この人、いったいナニモノなんだろう……。
「確か、今日だったわよね?」
「ええ。お昼過ぎだったと思います」
小悪魔がふと我に返ると、咲夜と食事を終えた美鈴のそんな会話が耳に入る。
「そうだったよね、小悪魔ちゃん」
「えーっと……」
突然会話を振られたことに慌てながらも脳内のスケジュール帳を必死にめくって、今日に該当する項目を見つけ出した。
「そうですね。
パチュリーさまがいつ起きてらっしゃるかわかりませんから、
少し遅い時間においでいただくようお願いしてあります」
客人のところに使いに出されたのは小悪魔だったのだが、パチュリーから話を聞いたときには天変地異の前触れかと思ったものである。
パチュリーが自ら客を招く。
その内容が紅魔館に行き渡ったときに、一番派手なリアクションを見せてくれたのがその親友であるはずの館主だったというのは小悪魔だけの秘密だ。
「出迎えはどうします?」
「パチュリーさまのお客様ですから、私が応対しますよ」
「でも、同時に紅魔館のお客様でもあるわけだから、私にも声をかけてくれるかしら」
「了解しました。
それじゃ、小悪魔ちゃんと咲夜さんの両方に取り次ぎますね」
美鈴は飲み終えて空になっていた咲夜のカップに紅茶を注ぎ足すと、「お先に」と言い残して姿を消した。門番隊の交代時間にはまだ少し時間がある。おそらく準備運動をしておくつもりなのだろう。
完璧にタイミングを盗まれて礼すら口に出せなかった咲夜は、美鈴の背中を見送ってから苦笑いして紅茶に口をつけた。
「もしかして、それって美鈴さんの紅茶ですか?」
「そうよ。あなたも飲んでみる?」
紅魔館でお茶、というと紅茶だが、実はこれもすさまじい数の種類がある。というよりも、メイド一人一人がオリジナルブレンドを持っているのでメイドの数=紅茶の種類だ。
咲夜の淹れる紅茶を頂点に、それぞれのメイドが工夫を凝らした紅茶。
その中でも謎に包まれているのが美鈴の淹れる紅茶だ。中国茶ではなく、きちんと紅茶のオリジナルブレンドを持っているのだが、何をどう混ぜているのか味から判別がつかない。本人に聞いても今ひとつ要領を得ないこともあって、謎に包まれている。
「わ、いいんですか」
「どうぞ。
時間が経ってしまっているから、ちょっと渋いかもしれないけど」
咲夜は美鈴が置いていったティーポットからいつの間にか用意していたカップにお茶を注ぐと、カップを小悪魔に押しやった。咲夜の手元には砂糖もミルクも用意されていない。小悪魔はストレートで飲むのがいいのかな、などと考えながら何気なくカップに口をつけて、一口。
味も香りもあまり主張しない、ともすれば薄いと表現されてしまいそうな紅茶だったが、一度飲んでから息をすると口の中に残る後味が爽やかな香りになって抜ける。
「……なんだか、美鈴さんみたいな紅茶ですね」
「そうかもしれないわね」
小悪魔の感想を聞いた咲夜はくすりと笑ってカップの紅茶を口にすると、ほっと息をつく。小悪魔は手元のカップに目を落として、頭の中にある紅茶レシピと照らし合わせてみた。
図書館司書である小悪魔。魔術分野以外にはあまり興味を見せない彼女の主の代わりに、それ以外の部分でヴワル魔法図書館を管理、活用しているのは彼女だ。メイドたちから寄せられる、高価な美術品のお手入れ方法や一風変わった食材の調理方法、果ては暇つぶしのゲームまで、あらゆる質問に対応するための知識を整理し、蓄えている。紅茶に関する知識もそのひとつだ。メイドたちのオリジナルブレンド作りの支援のために、古今東西のいろんな紅茶の知識を持っている。
「ああ、なるほど……」
その知識の中から味と香りが良く似たブレンドの、薬効を思い出した小悪魔は思わず呟いた。咲夜の不思議そうな視線になんでもありませんと首を振って見せながらも、こらえきれない笑みがこぼれる。
もう一度カップに目を落とす。これは咲夜のための紅茶だ。
でなければ、オリジナルブレンドとは言え美鈴が朝に飲む紅茶にリラックス効果のあるものを選択するはずがない。
どう考えても、普段から張り詰め気味の咲夜のためだけの紅茶だろう。
小悪魔はにやけないように気をつけながらカップの紅茶を飲み干すと、咲夜に向かって言った。
「ご馳走様です」
食堂出口で咲夜と別れた小悪魔は、廊下を歩き始めた。
小悪魔の身長を2倍しても天井にはまるで手が届かない廊下に、赤い絨毯が敷き詰められている。吸血鬼の館でありながら窓は大きく取られており、そこには一つ一つ精巧なレリーフが施され、それだけで美術品にもなりそうだ。差し込む柔らかな陽光で絨毯の上に描かれる影絵と赤一色になりがちな紅魔館で要所要所に活けられている花々が、ただ廊下を歩くだけでも客人をもてなしてくれる。
窓の外に目を向ければ、紅魔館の手入れが行き届いた庭が目に入る。廊下の花は全てその庭で摘まれたものだ。全ての木や花が、朝露できらめいている。
小悪魔がゆっくりと歩いている間に、廊下の隅を掃除用具を手にしたメイドたちや剪定用具を抱えたメイドたちの行き交う数が増え始めた。
紅魔館の目覚めの時間だ。
小悪魔に気付いたメイドたちが挨拶してくれるのに応じながら、小悪魔は外へ出て行くメイドたちに逆行して、館の奥へ奥へと足を進めていく。
扉をくぐる。
窓から入り込んできていた日の光が遮られ、暗い場所になる。
扉をくぐる。
メイドたちが行き交う音や話し声が遮られ、静かな場所になる。
扉をくぐる。
呼吸が、鼓動が。生き物の気配が遠くなり、冷たい場所になる。
扉をくぐる。
そこがヴワル魔法図書館だ。
小悪魔はぐるりと本棚の森を見回して、普段通り図書館内にある司書席に足を向けた。そこはパチュリーが普段本を読むテーブルから近い一角で、積み上げられた本でうずもれたテーブルが一つ置いてある場所だ。小悪魔は誰が見てもうんざりするようなその席に座り、自分がいるべき場所に帰ってきたことを実感した。
それは正しい場所に、図書が戻された瞬間の安堵感。
小悪魔はテーブルの引き出しを開けるとそこにあった片眼鏡をかけ、白手袋を取り出して手に嵌めた。
そして積み上がった本の山から一冊を手に取ると、テーブルに固定して慎重にページをめくる。読めなくなっている部分はないか。破れているページはないか。蟲が繁殖していないか。翻訳の魔法が込められたパチュリーお手製の片眼鏡で意味と文字の両方を確認しながら慎重に慎重を重ねてページをめくり、最後まで問題なく読めることを確認して、小悪魔は背もたれに体重をかけて大きく息をついた。
別の引き出しから一覧表を取り出して本の題名を確認しながら問題なしとチェックを入れると、別の本を手にとってまた同じようにチェックを始める。
今度の本は7割ほどページをめくったところで、ページの癒着が見つかった。片眼鏡と手袋の入っていた引き出しから、今度は小さなルーペを取り出して癒着している部分を詳しく見てみる。
特に粘着物は見つからない。恐らく水がついたまま本を閉じてしまったために、くっついてしまったのだろう。
軽く引っ張ってみると嫌な音がして、ページの表面が破れてしまいそうだ。小悪魔は同じ引き出しからピンセットを取り出すと癒着部分の紙と紙の間にそれを差し込み、表面を傷つけてしまわないように気をつけながら、剥がしていく。
ピンセットの先が引っかかるたびに、本ではなく自分が動いて力を入れる方向を変えたりしながら、少しずつ少しずつ剥がしていく。
最後に小さくパリ、と音がしてページが開けた。
小悪魔はすぐさま癒着していた部分の文字を調べ、別の紙に同じものを書き写した。書き写した後で、軽く文字の表面を手袋を外して指でなぞってみて、状態をチェックする。
ほっと息を吐いた。
いつの間にかじっとりと額に浮いていた汗を拭ってから手袋を付け直すと、更に慎重にページをめくっていき、最後まで到達した時点で一覧表に題名を書き写して問題なしとチェックを入れる。
緊張から開放されて、また大きく息をつきながら時計を見ると、作業を始めてから随分と時間が経っていた。
本を片付けて片眼鏡と手袋を外し、図書館を出てパチュリーの居室に向かう。
図書館に近いその部屋の前に着くと、軽く身だしなみを整えてからドアをノックする。
「パチュリー様。
起きてらっしゃいますか?」
返事はなかった。
2度ほど同じことを繰り返してから、失礼しますと声をかけてドアを開けると存外に本が少ないその部屋に入り、天蓋付きのベッドに近づく。
予想通り主はまだ眠っていた。
仰向け眠る主の白い顔を覗き込む。
小悪魔はいつもこの瞬間に不安を感じる。生命を停止しているような印象を受けるその寝姿。二度と目を覚ましてくれないのではないのかと考えてしまう。
「パチュリー様、
今日はお客様がいらっしゃるんですよ!
自分で呼んでおいて寝てましたじゃあんまりでしょう!」
それをごまかすために、できるだけ景気のいい声を出すのだ。
「ほら、起きてください!
もうすぐお昼ですよ!」
「んー……本を読むには日の光は強すぎるのよ」
「だからって月の光だけじゃ明るさが足りないでしょう。
早く起きてください。
ムーンサルト押し花プレス食らわしますよ」
起き出して来たパチュリーに安堵からくる軽口を叩いておいて、小悪魔はクロゼットを開けた。偶の来客なのだから、今日くらいは着飾ってもらおうと前々から計画していたのだ。
しかし。
「やられた……っ!!」
前日までに今日の着替え候補の心算でクロゼットに納めておいた服は、全て普段のものに置き換えられていた。
「昨日は早くお休みだったのに妙に起きるのが遅いと思ったら、
夜更かししてんなことやってたんですかー!」
小悪魔が視線を向けると、眠たげな目つきと会心の笑みを浮かべる口元。
「まさか封印魔法まで使って普段着を隠されているとは思わなかったけどね。
逆にその封印のために使った魔力が、私の捜査の網にかかったわ」
「なんで探索魔法と感知魔法の同時発動なんて
高等技術まで使って正装を拒否しますか」
うんざりしながらクロゼットから服を取り出していると、パチュリーが口元に手をやって笑って見せた。
「貴方の見立てなんだから似合わないなんてことはないでしょうけど。
らしくないでしょう?」
「そりゃそうなんですけど……。
ああ、見てみたかったなぁ……パチュリー様の魔法使いとしての正装姿……」
「本当かしらね。
随分とドレスもあったけど?」
「あ、あはは……
さあ、髪を梳かしますので鏡台の前にどうぞー」
小悪魔が櫛を片手に鏡の前に立つと、パチュリーはその前の椅子に腰を下ろした。
失礼します、と一声かけてその菫色の髪を手に取る。
しっとりとした光沢を持つしなやかなそれに、小悪魔はゆっくりと櫛を通す。少しだけ内側に巻き込む癖があるその髪に櫛を通してやると、自然といつも通りの形になっていく。髪から仄かに香るパチュリーの匂いを感じながら小悪魔は一房手にして、
「たまには結い上げてみますか?」
「そうしたら合う服が変わってくるでしょう。
いつも通りで結構よ」
目を閉じて髪をゆだねてくれていたパチュリーに一声かけてみたが、予想通りの応え。
少しだけ残念に思いつつ、小悪魔は櫛を置いて用意してあった着替えを確認する。
「では、お召し物を」
するりと立ち上がったパチュリーの後ろから、胸のボタンに手をかけた。
パチュリーの着替えが終わったところで派手に腹時計がなって、随分とパチュリーにからかわれてしまった。そのパチュリーが笑いながら休憩を許可してくれたので、小悪魔は昼食をとることにした。
念のため来客者が来たときに取り次ぎが遅れないようにと司書席にその旨の書置きを残してから、メイド用大食堂に移動してきた。
すでにメイドたち休憩時間に入っていたのでかなり混雑している。とは言っても、それぞれに休憩時間をずらしたりしているためか、朝ほどの喧騒はない。
「ちょっとそのエビフライ私が狙ってたのよ!」
「ふふん。先に手を出したものの勝ちよ!」
「他人の皿にあるものの所有権を主張しあうな!!」
まあ、どこにでも例外はある。
何故これで皿がひっくり返らないのか不思議なほどの大騒ぎをしながら食事しているのは例によって門番隊だ。他部門のメイドたちは生暖かくそれを観戦している。
ちなみに、厨房も「門番隊がここにいる」というだけで戦争状態だ。
「次、牛肉行きます!
48の捌き技! 牛肉バスター!」
「おっけー、ピラフにするわね!
メイド一〇二芸! 烈火太陽鍋!」
「サラダは引き受けました!
52のかんせ……じゃなくて包丁技! 桂剥きクラッチ!」
物理法則はノーセンキュー。
出来立てのほやほやだよ! と主張する牛肉入りピラフと大根サラダが美味しそうだったので、せっかくだからとそれを貰った小悪魔が空いている座席を探していると、
「あ、司書さーん。
ここ空いてますよー」
「あ、ありがとうございます」
門番隊の一人から声をかけられた。
素直にそちらに腰を下ろすと、何故かわらわらと門番隊が集まってくる。
「ど、どうしたんですか?」
「いえね、次の計画はまだかなーと」
「ああ……」
以前、退屈していたフランドールと一緒に美鈴と咲夜の仲を進展させようとしたときに、門番隊も巻き込んで計画を立てたことがある。それで味を占めたのか、門番隊とフランドールの両方から計画を急かされているのだ。
「あんなに綺麗にハマることなんてそうそうありえないんですから、
もうちょっと時間をくださいよ」
「えー。
隊長に隠れて練習してるのに、お披露目の場がないのは哀しいですよー」
「はい?」
「永遠亭の兎さんたちに、衣装をお願いしてありますしー」
「ちょ、ちょっとまってください。
何のお話ですか?」
「だって、計画ならダンスが必要なんですよね?」
「いや、アレはたまたまダンスパーティのときだったんで、
それにあわせてタップダンスをやってもらっただけですよ?」
「えー。
じゃあ、こっそり練習してるラインダンスは?」
「そんなことやってるんですか!?」
「あれからずっと練習してるのにー」
思わず絶叫してしまった小悪魔の前で、門番隊の何人かが一列に並ぶ。
順番に腕を組んで、
「1・2・3、ハイ!」
手足が長く、出るべきところが出て引っ込むべきところが引っ込んでいる門番隊メンバー。一列に並んで足を蹴り上げるだけでかなり壮観な上に、単純に足を揃えてのダンスだけではなくお互いとお互いの足を絡める動きや更にそれに手拍子まで入った、一糸乱れぬラインダンス。
「何でそんなに完璧なんですか……」
「本番は門番隊全員で、
永遠亭に発注してあるバニーの衣装でやる予定なんですよー」
「それならそれで、今度パーティがあるときにでもお披露目したらどうです?」
「でも、なんとなく今ひとつなんですよねー。
私たちだけじゃ、パンチに欠けると言うか……」
「なら、美鈴さんを巻き込んだらどうですか」
「「「……おお!」」」
小悪魔が「あ、しまった」と思う間もなく、
「それでいこう!
隊長が一番リズム感いいんだし、
ちょっと頑張ってもらえばすぐに踊れるようになるよ!」
小悪魔が「頑張ってもらうの前提なんですか」と突っ込む暇もなく、
「うんうん!
永遠亭の衣装、まだ変更効くかな?
私たち白の衣装で、隊長だけ赤にしよう!」
小悪魔が「いや、どこぞの隊長機のカラーリングじゃないんだし」と無駄知識を見せる隙もなく、
「そうだね、それが目立つだろうし!
よし、隊長にソロをやってもらって私たち皆でバックよ!
隊長を盛り上げるために頑張るわよ!」
小悪魔が「最後に巻き込む人にソロやらせる気ですか」と止める時間もない間に、
「そうと決まれば、隊長を丸め込むわよ!」
「「了解!」」
門番隊は姿を消していた。
「あー……」
止めようとした手が、虚しく空を掴んでいた。
小悪魔は力なくその手を下げて、門番隊全員に一斉にまくし立てられて結局ソロを踊ることになるであろう美鈴を思う。
「すみません、美鈴さん。
……私もちょっと見てみたいです」
相変わらず賑やかな紅魔館が見られて何よりです。
午後の部も期待。
周りは騒がしいですが、小悪魔の周りだけは時間がゆったりと流れてるようなそんな感覚に囚われてしまったり。
目玉焼きは完熟+ソース、これは譲れな(セラギネラ9+門番隊弾幕
そんな私は半熟+醤油派
そして門番隊が楽しすぎます
>48の捌き技! 牛肉バスター!
それなんてポチョm
小悪魔とパチュリーの仲良しさんっぷりが、もう!
このユルさは、読者を優しい気持ちにしてくれます。
朝から美味しそうな生じ風景、アリガトウございました。
素敵な紅魔館門番隊(他いろいろ)に乾杯!
目玉焼きはマヨネーズと微塵切り玉ねぎと少量の刻んだ香味野菜を一緒に、親の仇が如くかき混ぜて食べるのが好きです。
タルタルソース? ナニソレ?
私はマヨネーズ以外ならいけますね。
ケチャップが妥当でしょ~。
半熟にケチャップ
ブラッティー目玉焼きの出来上がり。
キャラがいきいきとして読んでて楽しいです
あいかわらずすばらしい作品ですねーw
ところで目玉焼きには塩コショウだろう・・・