11
上空は、既に死地だった。
「ルーミア……気付いたなら逃げなさいよ」
「だって」
アリスは既に満身創痍だった。
ボロボロの服。血塗れの身体。
長くはないがよく手入れされていた金髪が、血に染まって毒々しく輝いている。
対する霊夢も、そこら中衣服は破れ、いつもは結んでいる髪も解けている。
いつも持っている祓え串は見当たらない。何処かに吹き飛ばされたらしい。
『加勢は?』
「要らないわ。こっちは楽しんでるんだから」
『そう。ルーミア』
「何?」
『アリスの言うとおり、逃げなさい』
策が完全に失敗した時点で、穴の向こうのパチュリーは完全に諦めているようだった。
アリスの方はいまだに不敵に笑っている。何を考えているのかわからない。
「そうよ。次はもっとまともな策を考えてあげるから。っていうか、もう殆ど出来てるんだけど」
「アリス。あんたに、次なんてあると思ってるの」
相変わらず冷たい霊夢。
その空気を、まるで動じることなく受け流すアリス。
「ああ、そうね。ここであんたを破ってしまえば次なんて無いわよね」
「そう。じゃ、ここで死になさい」
袖から、数枚の符を取り出す霊夢。
同じく、スカートのポケットから何かを取り出すアリス。
「ルーミア」
背を向けようとしていたルーミアに、それを放る。
「使って良いわ。私はいっぱい持ってるから」
巾着袋のようなそれを受け取り、一直線に下降していくルーミア。
そして、そちらを見ている余裕は、アリスには無かった。
「さて、咲夜。穴はまだ維持できるわね?」
そう言って次にアリスがスカートの中から取り出したのは……青と黒を基調とした衣装の、人形。
蓬莱人形。
『霊力は半分以上残ってるわ。でも、加勢は要らないんでしょ?』
「絶対にしないで。余分な力を使う暇は無いし、そんな気も失くさせてあげるわ。あんた達にも見せてあげるんだから」
蓬莱人形を一度抱きしめて、手を離す。
人形は落ちることもなく平然と宙に浮いたまま。
その周囲の、空気が。
濁り始めた。
「私達四人が、何を相手にしているのかを、ね」
アリスの宣言。
人形から放たれる禍々しい空気が――――
黒い疾風となって、吹き荒れ始める。
対する霊夢は、取り出した符を。
事も無げに、投げ捨てた。
「ああそう。私はどっちにしても遠慮しないわ」
その代わり、とでも言うかのように。
同じく袖の中から、ごろごろと転がり出る陰陽玉。
六個。
それらは白に紅に輝きながら、くるくると回転し始める。
「むしろ手加減できない」
「知ってるわ。でも私、生憎人間と違って頑丈なのよ」
人形から漏れる邪気は、周囲の空気を硬質の何かに変えつつある。
あるものは刃のような鋭さを持ち。
あるものは鎖のような強靭さを持ち。
あるものは槌のような重さを持ち。
そしてあるものは……植物の蔦のような、しなやかさを、持って。
それを見ても尚、霊夢の冷たさは変わらない。
陰陽玉の回転も。
くるくる来る来ると、変わらない。
自転を続けながら、六個全てが、霊夢の周りに集う。
公転が加わる。
加速。
くるくる繰る繰るくるくる刳る刳ると。
音も無く回転する陰陽玉が、まるで衛星のように博麗霊夢に付き従う。
アリスは。
人形が生み出した、毒塗れの異空間を。
「蓬莱人形――――」
禍々しい、世界を。
辺り一面に、展開した――――
「――――首括りの大樹……!!」
異音。
空間が侵蝕される、異音。
世界が蹂躙される、不快感。
無念。絶叫。渇望。
――――死。
負の情念を撒き散らしながら、硬質の毒素が霊夢に殺到する――――!
「悪趣味ね」
黒い刃が、陰陽玉に触れる。
が。
触れた表面から噴出した白い光が、刃を粉砕し……
空中で、御符を形作り、定着する。
そして、同じように六個の陰陽玉、全てから、白い御符が。
表情さえ変えず、霊夢は。
ただ。
「夢想天生」
そして。
アリスの黒い地獄を、二色の地獄が飲み込み始めた。
12
「何なの、これは……!」
咲夜の驚愕の声。
水晶球の中に展開された映像。
陰陽玉から発せられた御符が、アリスの異界を凄まじい速度で削り取って行く。
「あんなに大量の霊力を物質化しているなんて……あれは霊夢の力? 陰陽玉の力なの? それに……」
「ええ。そっちはまだ問題ではないわ」
隣のパチュリーも。
口調こそ冷静ながら、表情は戦慄に曇っている。
「アリスはあれでも本気ではないわ。
一つの人形の力だけなら、本気に近いかもしれない……
けど、あいつならあのクラスの人形を何体も同時に出せないことはない」
「それなのに」
アリスの攻撃。
空を捻じ曲げ、闇を喰らいながら伸びるその腕は。
霊夢に、到達していた。
御符を粉砕して。陰陽玉の間を抜けて。
霊夢を、完全に捉えていた。
にもかかわらず。
霊夢には、一度たりとも当たっていなかった。
「咲夜。貴女にはどう見えるかしら」
「…………、”見えません”! 視覚では捉えられるのに……」
水晶球の中で。アリスの右足を、御符の一群が貫いた。
「あの空間に、霊夢が何処にもいないのです」
霊夢の頭上から、巨大な黒い槌が降り注ぐ。
そして、触れた瞬間、槌は消えた。
「そう。やっぱりそういう事か」
アリスの左脇腹が、ごっそりと無くなった。
苦痛に顔を歪めるアリス。
それでも、黒い咒詛は停まらない。
アリスの黒い笑みも、止まらない。
「今のあいつは、きっと……浮いてるのよ」
霊夢の首に、蔦が絡みつく。
蔦は根元まで消えて無くなった。
「世界から浮き上がっている。だから、何も届かない。声さえも届いてないかもしれない」
「……たとえば私が、時間と空間の断層で攻撃しても」
「無駄でしょうね」
アリスの右肩が裂ける。
腕がだらり、と垂れ下がった。
それでも、アリスは笑っていた。
「時間や空間なんて、”世界”の一面、下位の概念でしかないもの」
そして。
紅い御符の一群が。
アリスの胸を、貫いた。
『っ、は……』
一つ、呼吸。
『ごっ!』
黒い血を吐いた。
『どう、パチュリー。勝てると思う?』
そう言って微笑む、アリス。
ぱきん。ぱきん。
美しい金属音を響かせて、黒い異界が砕ける。
「無理ね」
何故か満足したような微笑を浮かべ。
アリスは、傍らに無傷で浮いていた人形を、黒い穴の開いた胸に抱き寄せて。
『身体張った甲斐があったわ』
言って。
紅黒く染まった人形使いは、笑顔のまま、重力に身を任せた。
13
博麗霊夢は重力を無効化することができる。
ゆえに、降下速度はすこぶる遅い。時々自分でも苛々する。
地をただ歩くようなのんびりとした調子で、彼女は一足どころではなく早くに地へ降りた襤褸襤褸の友に、数分振りに追いついた。
「アリス、死んだ?」
呼びかける。
少なくとも答えは無い筈だが、逆に、呼びかけなくとも結果はなんとなくわかっていた。
「やっぱり生きてるわね。頑丈ってのはハッタリじゃなかったか」
一歩近付く。
真後ろで、”穴”の向こうの気配が一気に張り詰めた。
「わざわざ刺さないわよ、とどめなんて面倒な事」
とりあえず言ってやる。
穴の向こうの二人、いや主犯の一人は何もわかっていない。
そんなに警戒されては、まるで自分が殺人鬼になったようだと霊夢は思う。
生涯での殺害数は、あいつの隣にいる奴の方が百倍は多い筈なのだが。
「アリスー、立てる? まあ立てないわよね」
足で軽く蹴ってみる。
僅かに動いた。
それはともかく、どうしてこの期に及んで人形だけは無傷なのだ。
「でもすごい血塗れよ。あんた自作の人形の服。土壇場で失敗しちゃってまあ」
軽口を叩きながら。
霊夢は、アリスの身体を肩へと担ぎ上げる。
「うわ軽。なんで私と同じ背丈で私より全然軽いんだ……って、原因はこの大穴かな?」
そのまま歩き出す。
既に大結界は見えている。なんでこんな時に限ってあっさり見えるのだろう。
生きたまま連れて帰っちゃったら、手当てをしないわけにはいかないじゃないか。
『霊夢』
穴から、呼びかけられる。
霊夢は全く歩みを止めないまま、
「何よ。見ての通り忙しいんだから」
『アリスとルーミア、何が違うのよ』
やっぱり、と嘆息する。
教えてやれ。隣のメイド。
「こいつはただの愉快犯。これだけ傷めつければ少しは懲りるでしょ」
『でも、ルーミアは』
「ルーミアは、”異変の核”」
断言する、霊夢。
そう。
異変は、終わってはいない。
「一番悪いのはあんたなんだけどね。でも、今はあんたを殺しても解決しないのよ」
着いた。
結界に、触れる。
「私は、解決するのに一番手っ取り早い方法を選んでるだけよ」
大結界は、苦も無く展開する。
何か言いたげな穴だけを残し、二色と七色の二人は、幻想郷へ戻った。
14
「咲夜。今起きている異変を完結に説明して」
紅魔館、大図書館。
”穴”を解いたメイド長、十六夜咲夜と、同じく遠見の魔法を解いた魔女、パチュリー・ノーレッジ。
ここ二日ほど、珍しいほど一緒に行動している二人が、向かい合っている。
パチュリーは文机の椅子に座って。
咲夜は直立したままで。
「何処から気付いてらっしゃらなかったのでしょうか」
「私は月を”還した”。その時、ルーミアを何らかの魔法の事故で道連れにしてしまった」
パチュリーを良く知る者ならばわかるだろう。
彼女の表情は、珍しいほど悔しさに歪んでいる。
「多分、それ以外は何もわかってないわ」
「いいえ、違います。その部分だけが間違いなのです」
咲夜は、はっきりと。
「こちら側に残っている月。あれが”外の世界の月”です。
そして、外の世界に戻した月。あちらが”幻想郷の月”なのです。
……最初から気付いてらっしゃると、思っていました」
暫く、静寂があった。
「原因は……?」
「パチュリー様が、どのような術で月を還したのかわかりませんので、私には何とも」
「あれは……いわば除霊と同じよ。より世界にとって不自然な存在を、あるべき世界に還すための」
「では、きっとそれでしょう」
「……ルーミア、か」
そうだ。ルーミアはあの時点では下級の、取るに足らない力しか持たない妖怪に見えた。
だがその本質は、アリスでさえ直ぐには解けないと言わせたほど強力な封印を施された、”何か”。
闇と光を操る程度の能力。
それは、本来はどれほど強い力なのだろう。
「しかもあの時、あの合成魔法。月の召喚と月光の神降ろし。
ルーミアには幻想郷の月を担当させた。異世界の月を召喚したのは、私……」
幻想郷の月と、ルーミア。月を支配する妖怪。
異世界の月と、パチュリー。月から力を借りるだけの魔法。
「私は、ルーミアごと、幻想郷の月を送還してしまっていたのね……」
15
飛んだ。
今回は別に全力ではなく。撒き散らす妖力をなるべく抑えて、でも急いで。
街が見えてきたところで、一旦森の中に降りた。
「アリス、大丈夫かな……」
考えても仕方が無い。
それに、アリスはリボンを解いた今のルーミアより更に数段以上強いのだ。
そう簡単に死なないだろう。
そこまで考えて。
いつの間にか、生き死にが当然のように考えに入っている事に気付いて、少し震えた。
「……とりあえず、今夜も何処かに隠れないと」
幸いパチュリーと咲夜は、何処にいてもルーミアを発見できるようだった。
ならば少しくらいわかり難いところに隠れても何も問題は無い。
けれど逆に霊夢も、昨日のアリスの話を聞く限り、どんな結界の中に隠れても無駄な気もする。
「とりあえず歩こうかな……あ、そういえば」
アリスに渡された巾着袋。あれは何だろう。
手ごたえから察するに紙だ。
スペルカードだろうか?
けど、パチュリーから貰ったスペルカードも、まだ一枚も手を付けていない。
開けてみる。
「……これ……お金?」
大量の紙幣が詰まっていた。
16
『そーいう事なのかー!』
恒例になっている咲夜用の数時間休憩の間、事態を打開すべく資料をかき集め、いくつかの儀式魔法を考えては試し、(今度は一段落するのが相当先なのがわかっているからか)実験中に普通に戻ってきた咲夜にとりあえずルーミアを探し出して貰って穴まで開けたところで、パチュリーはようやく実験を中止した。
で、遠見の魔法を起動したところに聞こえたルーミアの第一声がこれである。
「ルーミア!? 今何処にいるの?」
『えーとね、ビジネスホテルって所』
「え?」「は?」
揃って間抜けな声を上げてしまう、咲夜とパチュリー。
時刻は、まだ深夜というには少し早い、くらい。
まさかこの妖怪は、のこのこと人前に出て行ったと言うのか?
「ルーミア、そこは外の人間の街なの!?」
『そうだよ。アリスの言ってた次の策って、きっとこれだよ!』
わけがわからない、といった顔の二人。
ルーミアはつい先ほどまで、状況に流されて三人の話に従っていただけだった。
それがどうしたことか、次の策?
パチュリーと咲夜は、これからの方針すら決まっていないというのに。
『そうだ、アリスは! パチュリー、アリスはどうなったの? 大丈夫?』
「アリスは……無事とはとても言えないけど、辛うじて行きてるわ。霊夢が博麗神社に連れて行ったみたいだけど……」
『良かったぁ……じゃあ安心だね』
「ルーミア。霊夢は貴女を殺そうとしたのよ。その霊夢が連れて行ったと聞いて、どうして安心できるの?」
『だって』
昨日までの”だって”ではなかった。
ルーミアは。
『霊夢はアリスにも優しいもん。私を殺そうとしてるのも、霊夢が優しいからなんだよ。きっと』
……そうだ。霊夢はいつでも優しいのだ。
その、優しさの対象が。
自分であったり。
魔理沙やアリスといった旧友であったり。
レミリアやパチュリーのような、強力な厄介者であったり。
ルーミアのような、ただの通りすがりの妖怪であったり。
そして、幻想郷そのものであったり。
『だから大丈夫。二人は仲直りできるよ』
「でもルーミア、貴女は」
『大丈夫だよ、殺されるつもりなんて無いから』
ルーミアを助ける、と言ったパチュリーのように。
”博麗霊夢”を見せてやる、と言ったアリスのように。
『私も死なないよ。きっと霊夢は悲しむもん』
ルーミアは、はっきりと宣言した。
『だから手伝って、パチュリー』
辛うじて生きてるわではないかと