Coolier - 新生・東方創想話

東方耳袋譚上段

2006/05/21 09:00:05
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乱世之跫聞こゆる光文之世
東に在る遅れた近代文明を歩む邦
此邦では未だ怪しき事象存在しけり
其の当世の噺










明治の御世より帝國陸軍は大演習の名目で秘密裡に地鎮鎮魂を行う為諸国行脚をした。
其れにより近代化を進める此の邦を追われた妖物共は人々から忘れ去られた。
其等の行方はとうと知れず。










妖物共は近代國家に復讐せんと地を揺るがし天を操り、國家転覆を図るが未知の科学の力を以ってして立ち向かう圧倒的な文明に適わざる。
大正年間疵付き辛うじて生き長らえた妖物共は帝國の首級を捕らんと嘗て無い天変地異を起こすが近代化の前には無力だった。
其れ以後、光文へ移った世に妖物の力は急速に衰退した。










癲狂院  輪廻  槓桿  柄袋





冬至を過ぎし頃、闇を好む者が冬の冷たさも忘れ野を徘徊す。
其の長き夜に冥界を侵犯す生者がいた。生者の男は朱の入った土色の異国の着物を付け獣の革で刀を腰に下げる武人だった。同胞から逸れ秘郷へ迷う異邦の人は妖の者の棲み処を荒さんが為生きながらに死んだ。被りに魔除の星が虚しく輝く。
生者は躰を捨て生霊だけを自由に効かし雲より高い天へ行く。素晴らしい開放感だった。昇天する魂は考える事を止め、自ずを認める複雑な思考は断ち切られ海中の泡の様に当て所なく浮上する。温度の感覚もなく意識だけが雲海を越えた。
其処には階段に続く厳しい門前の楼閣があった。
生霊は門扉の隙間から這入り、庭へ忍び込む。男には足があるのだろうか、敷き詰められた砂利が軋む。季節柄、庭はよく手入れが行き届けども単調な禿た樹々が立ち並ぶだけで、規模に対して白けた体を成していた。適所に配置された庭石や合間を埋める苔は季節の加減で見栄えがない。
禿た樹々の中でも途方無く巨大な樹が見当もなく空を捉えていた視野を満たせた。植物学に疎くとも其れが永劫の歳月を経た桜の老樹であることは明確であった。
男は老樹へ歩み寄り、根元から枝が埋め尽くす天を仰いだ。方々へ其れ同士が重ならぬ様伸びた末端の枝は一本一本が芸者のしなやかな手付きに思えた。南洋の象の胴を思わせる太い樹幹へ手を当て窪みの深い樹皮を聢と見る。常軌を逸した桜は単に規模の所為ではない。自然の驚異とは此の様なことを云うのだろう。
不思議な包容力を秘める木は亦、呪いも秘める。
ふと、目を上げると手が届く高さに十寸程の小振りの枝が突き出ていた。
其の更に細かく分かれた枝先に爪の欠片程で蕾の形を辛うじてする節が付いていた。此の老樹に魅せられた男は帰るとも知れぬ地へ持ち帰ろうと枝を折り取った。
途端に背後から突き抜ける様な力で小突かれた。風に押さるる如く透過した感覚だったがそれでも強か弾かれた。

“ふゝゝゝゝゝ。”

嗤う聲がした。
辺りの昏さが和らぎ、仄かに照らす者がいた。蒼白い陰火だった。空間を埋め尽くす数だった。
恐怖に共鳴し枝がざわめく。
其れは楼閣の屋根よりも高い処から睨んでいた。

“もっと見たいでしょう。”

不意に人間の意識が戻ってきた。眼前の光景と居所を理解し慄く。
ある筈の脚で地を蹴り門扉へ急ぐ。隙間へ身を捻じ込み魔物の棲み処から遁走した。
雲を貫く階段を駆け降りる。階段は奇妙に歪み上下が反転した。足が掬われ天とも地ともつかぬ方向へ落ちる。
数刻の間、空間の狭間を落下し闇が視界を途切れさす。
落ち至る処は此の世だった。元居た場所で放心していた只、其れだけの事である。
男は何も考えることが出来ない。一度、黄泉路へ誘われた者は此の世の魂を忘れ正気を持たない。
其の者は再び死へ招かれる。
形が瞭然しない亡霊が手を伸ばし男を死の淵へ引きずり込む。男の生気のない手が短銃を掴み亡霊に鉄の管を向ける。死への最後の抵抗をする為、獣の様に咆哮し銃弾を放つ。其れを受けた亡霊は容易く退治る。半身を軸とし舞う様に回転し仰向けに倒れた。顔の下半分を至近距離からの銃撃に上顎と平々とした唇の残骸が残った。
辺りが紅く染まった。
亡霊は一人ではなかった。銃火が闇を断続的に照らす。

光文三年霜月の陸軍特別大演習に於いて将校逃亡事件が発生した。
事件概要は演習へ参加す一陸軍士官が前日より行方不明となり当初事故と想定され捜索が行われた、翌未明近辺の林中に潜む士官を憲兵が発見したが突然発砲し抵抗、小戦闘の末負傷し錯乱状態の士官を直ちに衛戍病院へ収監すると云う事態となった。当人は射殺したのは憲兵ではなく自分を殺す為に此の世へ来た怨霊だと喚いた。特別大演習には陛下を始め国会議員や各国観戦武官が出席しており、陸軍憲兵司令官は直ちに箝口令を敷き事件の隠蔽を図った。事件の抹殺と共に始まった捜査は士官が精神に異常を来したと前提し、M衛戍病院へ監禁の上軍籍の剥奪を目的とした軍法会議の実施を考慮したものだった。

男は江戸期の狂人がそうであった様に土蔵の如く昏い部屋に監禁された。亡霊が部屋の隅から見ている。狂気の叫びが病室に満ちた。










昏い屋敷の中には童女が佇んでいる。
見知らぬ屋敷は幾つかの小さい部屋に区切られていた。細胞の様に同型の集合体。部屋には畳が数枚敷かれ、格子の嵌った十寸角の窓が一つ在るだけで酷く単調である。
童女は窓に背を向け立つ。
暗緑の胴着から斜めに突き出した細い影に手を掛け何かを見ている。大気の振動が途切れ静寂が張り付いている。其の平面の闇を唯見据える。闇には影が潜む、鋭い気配が皮膚を刮ぐ。誰として動く物はない。音を啜る闇は時をも貪る。何時から続く絵画の様な光景が初めて変動を来す。
窓と対になった闇の虚空から細い筋が縦に弱く浮かび出る。徐々に太る筋は闇と新たな空間とを繋ぐ。壁には掌程の小さな覗きが空けられた厚い扉が在った。其れが独りでに緩慢な動きで開いて行く。開き切る寸前、闇から闇へ壁伝いに影が出て行くのを感じた。獲物を狩る獣の様に音を立てず僅かな気配の流れのみを残し。

“う、おう、よ、うむ。”

太陰は雲に隠され外との区別は出来ない。

“妖、む、妖夢、よ、お、夢。”

擦れた聲が妖夢と云う名の童女を呼ぶ。
妖夢は惹かれる様に声を追い部屋から出る。外には左右に延々と伸びる廊下が在った。雲より出ずる月光が格子の嵌った窓から板張りの廊下を照らし幾筋もの影を刻み込む。其の一つ一つが結界の様に明暗の境界を生み出す。
屋敷には人で在って人では無き者が棲む。振り替えると何時の間にか閉じて居た扉から真っ直ぐに腕が生えていた。左右へ無数の腕が同じ様に扉の覗き窓から生えている。腕は古い蝋みたく艶光りし茶け、枯れ枝の様に細く、筋が半円状に深く浮き出ている。月光を浴び精気を養うかの様に僅かも脈動すらせず壁から宙へと突き出す。腕が連なる更に奥は月明りが届かず見え無い。窓の途切れた廊下の先は昏く、潜む影と同化する。

“こ、い。”

擦れた聲が呼ぶ。
低く、途切れ、温度の無い無機物の聲をし。
数間先に聲は居る。
聲は駆けるでもなく次第に妖夢から遠のく。

“こい。”

自ずの意思では無い力で妖夢の足は擦る様に動く。息の様に短い風が歪んだ襟飾りと色を失った髪を靡かす。格子の前を過ぎると視界の脇で灯りが明滅する。
スカアトの紋様が光に反し一層、不適格さを増す。
廊下は物が溢れ歩き辛い。硬い靴が竹の割れる様な音を立て縁の丸い眼鏡を潰す。
銀に光る金属製の盆や硝子の容器を音を立て蹴り飛ばす。
廊下は所々濡れて居る。
其の上で白い衣が液体に黒く染みる。
壁から生える腕が其等を引き寄せる。
腕は恐ろしく長い。
物を打ち合わせ叩き壊す。

“来い。”

聲は帳の彼方へ導く。










果てし無く続く様に見えた廊下は病室の扉により絶たれていた。

“きえゝゝゝゝゝゝゝ”

新たに絶叫が廊下に響く。
先を走って居た白衣の人物の姿は見とめられない。釦を全て外した上衣がはためき、腰につく間もなく肩の高さまでせり上がる。本館から切らした息を整えるだけの余裕もなかった。長い廊下を走り抜くのを諦め壁へ手を付いた。
狂った士官に撃たれた肩の創傷がぬめりとし、巻いた布が気色悪く張り付いた。肋骨の下で痛んだ肺が痛みで極限まで凝固した。空いた穴から血が噴出すのではないかと心配する程だった。其れに耐える為胸を握り潰す様に鷲掴みをしする。上半身に感覚が集中し足の力が緩む。膝を付き背を屈め、丸めた肩が一定感覚で上下した。白い息が顔を埋める。顎を砕かんばかりに歯を食い縛ると口内の傷から血が溢れ唇を伝う。
視界が霞んだ。
壁伝いに車輪の付いた寝台に寄り掛かり乍ら脇を過ぎて、扉へ近づく。扉は身丈よりも少し高く、朽ちて黒ずんで居り突き当たりの暗がりと同化す。扉の上には黒い板に白墨で〝傳染病科病室〟と書かれた札が掛けられていた。
何かの流出を畏れる様に大柄な扉は踏ん張る。
廊下が続いて居る様に見えたのは扉に貼られた紙が遠く小さくなった出口の様に見えた所為だった。貼り紙には〝靜神科將校專用病棟〟と書かれていた。隙間から扉の面を横に撫でる様に斜陽の灯りが漏れている。建物の突き当たりには西向きに据えられた窓が逢魔ヶ時の日を入れるのだろう。
把手に手を掛け引くと其れ以上の力が同時に内側から扉を跳ね飛ばす。扉に弾かれた井原は後方へ蹣跚めき、壁へ身を打ち付けた。軍刀が騒がしく鳴る。壁に背を付け倒れまいとした。其の眼前を自ずの為に道を譲られたかの様に季節外れの蝶が悠々と空を横切る。
黒い壁に空いた四角い穴からは日を背負う三人分の影が見えた。一人は床の上に尻を付け半開きの扉に寄り掛っている。
扉に衝突したのは白衣を着用した軍醫だった。眼窩には眼球の代わりに深々と脱脂綿を挟む鉗子が突き刺さっていた。生血は頬を伝い、下顎から滴となり白い襯衣と白衣を朱に染める。弛緩した口から舌が垂れ下がる。
其の後ろへ血飛沫を浴びた士官と其の背へ張り付くように鬼火の様な着物を身に着けた少女が倒れた衝立の上に立っていた。少女の紅い髪が士官の頭上に見えた。少女の異様に高い背は足が床から五寸程浮いている所為だった。
広い穴から見える部屋の中には日を反射する無数の金属筒が輝いていた。寝台の傍らに銃を持った二人の憲兵が仰向けに倒れていた。痙攣した四肢が握った金属塊を微動させ床板を嗤わす。憲兵に外傷は無いが白目を剥き苦痛に顔を在らぬ形相に変え悶死していた。
其れ等を日が紅く塗り固める。
呆然自失し数秒の沈黙の末、井原は腕を吊っていた布を引き裂き自由の利く手で抜刀した。柄を握り絞めると、裂いた袖から曝け出た繃帯に血が滲んだ。其れを少女が横目で眺める。口元が引き攣り嗤っていた。
相手は武器を持たぬ。
床に散ばる薬莢からして憲兵の銃に弾は残っていないだろう。況してや収監者が武装してよう筈もなく鋏や醫療器具での応戦は長刀に勝ち目が無い。七間程の距離を一気に斬り寄る。
光彩が開き切った士官の目にモノクロウムの井原が写る。其の目の中へ突進した。
刀を振り上げ斬りかかる。
恥らう様に袖で顔を隠し俯いていた少女は斬り掛かる井原を扇ぎ飛ばす様に片手で扇子を揺らした。
蝶が何処から現れる。
無数の蝶が扇の微風を受け鋭く飛躍した。蟲の動きらしからず銃弾の様に素早い。
日の光を受けてか蝶は夜間演習の曳光弾の如く細く長い筋を引き美しく輝く。
壁にぶつかる様に井原は衝撃を受ける。洋刀が放物線を描き床へ跳ねた。無数の蝶が襲い掛かる。蝶の輝きに目を潰された。残像に人影が残る。
腕を交差し防御した、瞼を通して強烈な光線が瞳を焼く。
余程の強い光の所為か、井原は昏倒した。

“ふゝゝゝゝゝゝ”

日の余韻の中で井原にだけ闇が満ちる。












其れは闇では無かった。
黒い塊が廊下の区画一杯に嵌っている。
黒いぶよぶよとした何かが立ちはだかる。近くへ寄ると其れは幾つかの水の入った袋の様だった。表面は濡れている訳ではないが全体的に鈍い光沢があった。其れが新たに壁を作り出す。
黒い袋は襞の辺りを反射させる。少し蠢いて居る様に見える。形状を頭頂部へかけ微妙な曲線を描き巨大な砲弾の様をす。
十寸にまで間を詰める。袋の表面は滑らかで、矢張り少し表面が蠢動している。意思を持って行く手を阻む。
鞘で探ると其れは柔軟で押せば減り込んでしまいそうだが奇妙な感触に手を引く。
凹んだ箇所が内側から元に戻る。蠢動が全体的な動きになった。

“こ、い”

壁の背後から聲は呼ぶ。
袋は可也重そうである。生えた腕が引っ張るがびくともしない。手は引っ込み内側から怒る様に扉を叩いた。
隙間も無く並んでいる。脇を擦り抜けるのは不可能だ。先よりも漸進して来ている。
邪魔ならば其れを除けるまで。
切っ先で軽く突くと以外にも容易く破れた。温度のある液体が澱と共に噴出する。液体は黒く少し粘り気があった。臓物の香りがした、本能が其れを拒否する。其れは顔をしどゞに濡らし黒い跡を残して緩々と垂れる。
液体の出切った袋は後ろへ倒れへたりと床に萎み、道を開ける。脂の塊が床を滑らす。
靴底に腥い感触を残し蛋白質の欠片を踏み潰す。袋には未だ固まった物が残っていた。所々盛り上がった袋を踏み越えて行く。廊下は尚も続く。
左手に腕の生える壁、右手に月を透過する格子。
散乱する雑多な物が風に動かされ弱々しく音を立てる。
延々と其の繰り返し。
動く者も呼ぶ者も居ない。
折れた格子に引っ掛った布が風に棚引く。
明滅する月灯り。
槌を打つ様な音をさせ靴底が床板を支えにもう一方を浮き上がらせる。
聴覚だけが自ずの意思である。目も脚も勝手に動く。
聲も気配もない。
壁に生えた手に掴まれぬ位置を歩く。
廊下一杯に横たえた薬棚を乗り越えると、壁に突き当たった。廊下は右へ折れている。散乱した物品も其れに続く。
角を曲がると開いた扉が一つあった。中を覗くと奇妙な部屋がある。
一風変わった洋造りの部屋だった。元は畳敷きであったらしく、廊下と床との高さが合っていない。扉の延長線上に腰の辺りから天井まで延びる窓と其の前に据えられた机がった。
其れに五鈷杵の様な形の鉄の樹、背後を透かす白い衝立、薬壜の入った棚、簡素な寝台と反対側に壁から生える蛇口と洗面台。
一段低い床は廊下と同じく金盥や壜等が散乱し一見すると荒れた部屋にしか見えなかったが、奇妙だったのは床がずるりと剥け、窓の縁へ這っていたことだ。月光とは直角な部屋は窓から微弱に漏れた明かりで照らされる。
散ばった物の下を擦り抜け廊下から逃げる様に窓へ向かう。先頭部は壁を攀じ登り窓枠まで寄っていた。
妖夢は這いつく床を踏みつけ、窓を乗り越える。越えた先は廊下だった。
窓の外は庭を一巡する濡れ縁があり、一方は別の建物へ続く。
此の建造物の構造はよく分からない。月が雲に隠されるのを見上げる。庭に生えた木々に何処から飛ばされて来た白い布が引っ掛る。
向かいの縁へ回り込み、気配を探す。
聲は何処へ行ったのだろう。回廊まで行き着くと待っていたかの様に柱の後ろから人影が動き出す。庭を横切り階の在る建物へ這入る。妖夢は大きく迂回し後を追う。
聲は黙している。










井原は呻き聲すら上げれず痛みに耐えた。
軍醫の骸の上に横たわり、腹を抱え込んでいた。片目を辛うじて開け士官が通り過ぎるのを見た。足は床を滑っており全く動かず、後ろから押されているのを踏ん張り止めている様だった。其の後を空を歩む浮いた足が過ぎて行く。
井原は居眠りをする者が頭を上下に揺らすのは実に奇怪だと常日頃考えていた。意識が無く筋肉が緩み、支えを失った首が前のめりになるのは分かる。然し其れが元に戻るのには如何しても腑に落ちない。
其の運動を目前を過ぎた男は行っていた。数歩分を動く間に一度首が項垂れそして仰け反る。脚には車輪が付き、首を動かして楽しむ撥条仕掛けの人形の様だった。
井原は腕を伸ばし足を捕まえんとした。
押えていた手を離すと急激に痛覚が増す。再び意識が遠のいた、耳の奥で叫びと連続的な銃聲がした。
数刻の後、痛みが少し引き、半身を起こす。既に日は完全なる沈黙となっていた。
昏い廊下は吸い込まれる感覚が生じる。
扉に掴まり立とうとするが安定せず、立ち上がるのに苦労した。
躰は細かく痛む。手の感覚が戻るまで掌を見つめていた。
床を見るが洋刀は無かった。指先から血流が引く。震える手を腰辺りに這わすと腰の隠しから拳に収まる程の白耳義製の銃を取り出した。憲兵が通常使用する銃よりも小型で運用が容易な物で井原は私物の護身用として普段から官給の大型拳銃とは別に携帯していた。
銃口を扉の鍵穴に当て破壊した。部屋へ這入り扉の脇にあった電話機の転把を白い手套で回した。低いダイナモの鈍く唸る音がし、数回々した所で転把が軽くなり電鈴が鳴る。
交換手の応答はなかった。受話器の中で雑音が途切れ糸の切れる様な短い音がした。
倒れる様に中庭側の壁へ向かって廊下を横切る。殆ど体当たりに近く壁へ寄りかかる。背を壁に付け窓枠へ手を伸ばした。
窓枠に手を付き乍ら歩く。
何も動かない。窓掛けだけが風に戦いだ。
否、闇に低く星が輝いていた。目を凝らす、蝶だった。
足を速め乍ら頭に載った軍帽をかなぐり捨て、右肩の取れかけた尉官位の肩章を剥ぎ取った。戦闘に備え邪魔な物を外す。
二つに裂かれた袖が鬱陶しく、紅く文字が染め抜かれた腕章を袖口まで引き下げ布切れを纏めた。
窓を掴む腕が痛む。銃創は貫通しており、円筒の腕の両側から出血する。
痛みで歩みが止まる。途端、窓が破れ横様に倒れた。
意外にも窓の外は廊下と同じ高さに畳が敷かれていた。倒れた処にはだゞっ広い畳敷きの部屋があった。
中庭に面する窓に手を付いていたと思っていたが窓では無く障子だった。破れた障子の向こうに美しい庭が見えた。
衛戍病院の疎らに生やした木と粗末な池があるだけの中庭とは違い、確乎りとした庭があった。
立ち上がり廊下へ出た。落とした銃を拾い、構え乍ら辺りを見回す。陸軍省の建物は見る影も無い。
其処は何処かの屋敷の縁側だった。
歩いて来た方向には脱ぎ捨てられた軍帽と肩章が落ちていた。
奇妙だ。
和式の建造物を洋式の病院と見間違える訳がない。
今、居るのは別の建物である。
廊下の先には蝶が飛んでいた。
井原は歩き出した。
屋敷が相当な規模である事を廊下は示す。
光文の世に之だけの屋敷が残っているのは不思議であった。
文明開化以前でも存在したかは分からない。
之だけの規模は通常在り得る筈が無い。
井原は必死に考え乍らも結論は出されない。
先が見えない廊下を蝶の後に付き歩く。
徐々に屋敷の奥へ進んだ。
人影は全く見えない。
無人の迷路だった。
東方耳袋譚上段了。
以下ハ東方耳袋譚下段ニ続ク。
尚、上記ノ文章ニ落胆セザル者ハ此処ニテ回避サレタシ。
以下ニ続ク文章ノ保障ハサレガタキカラニシテ、身ノ安全ヲ図ルベシ。
之ヲ以テ警告トス。
島山石燕
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コメント



0.260簡易評価
2.30反魂削除
おお、なんか見たことない手の作品だ。
ひと言で言い表そうとすると……昭和ホラー?


誤字をひとつ。終わり近く、
以外にも窓の外は→意外にも では?
5.無評価島山石燕削除
ご指摘有り難う御座います。訂正致しました