忘れていたものがある。
それは本当は初めから知らなかっただけなのかもしれない。憶えのないものは知らないのと変わりはないのだから。それでも妖夢は、それを知らなかったのではなく、忘れていたのだと思う。遠い昔、まだ幼子だった頃よりも前、目も開かぬころに見たまほろば。腹の中で見る夢のように穏やかな世界。浅い浅い、現実との接点にあるような夢。暖かな夢の世界。
世界が素晴らしいものであることを、妖夢は長らく忘れていた。知らなかったはずはない。
生まれて初めて巨大な桜を見たときに美しいと思ったことを憶えている。初めて繋いだ手の暖かさを憶えている。頭を撫でてもらったときのぬくもりを憶えている。頭を撫でる手は大きく、固く、まだ幼かった自分のものとはまるで別物のように思えた。それが本当に人の手であるとは信じられなかった。剣を握り続け振り続けた手。撫でてもらったのは、それが最後だったように思う。渡された双振りの刀は長く重く手に余った。抜くことすらできずに、柄で地面に跡をつけながら引きずったのを憶えている。
本当は、忘れていなかったのかもしれない。
長らく考えないようにしていただけだ。長く長く、永く生き続けると思い出だけが溜まってしまう。良いことにしろ悪いことしろ。その全てが大切な記憶で、考えないようにする暇こそあれ忘れることなどできやしない。ましてや、捨てることなどできなかった。
憶えている。初めて剣を抜いたときの感動を。月光を浴びて輝く白い刃が恐ろしく、恐ろしいが故に綺麗だと思ったことを。うっかり手で触ってしまい、強く怒られたことを。下手を打って自らの身体を傷つけたとき、涙目になって抱きしめてきた主君の柔らかさを覚えている。
どうして忘れていたのだろう。
どうして気にしなかったのだろう。
あんなにも大切な思い出なのに。
妖夢は自問し、自答は帰ってこなかった。答えるものは誰もいない。紅色の雪が、かすかに舞うだけだ。
辺りは静かだった。二百由旬の庭に音はなく、桜並木は静かに咲き誇っている。騒霊も弾幕もそこにはもうない。全ては終わってしまった。賑やかなお祭りは静かに終焉を向かえ、もはや思い返すことでしか存在できない。陰陽球も八卦炉も銀のナイフも此処にはない。
二本の剣と、壊れた扇があるばかりだ。
妖夢は立ち、立ち尽くす。ひと際大きな桜の木の前に。その根元に座る少女を見詰めて、けれど消して見下すことなく、真摯に見詰めて妖夢は立ち尽くす。剣を握る手に力はない。かろうじて落とさない程度にしか持っていない。もはや抜かれることはないだろう。敵はどこにもいないのだから。
そもそも、敵はどこにもいなかったのだから。
妖夢が知らなかっただけだ。敵はいなかった。事件は解決もしなかった。ただ静かに終わっただけだ。敵を倒すことも、華々しい決闘も、心沸き踊る解決編もなく、事件は静かに、六十の時を刻んで終わりを見せた。
妖夢はそれを見ていた。全て見ていた。
見ていることしかできなかった。
立ち尽くす妖夢は何も言えない。何を言うこともできなかったし、何の言葉も思い浮かびはしなかった。何をすればいいかも分からず、何もすることはなかった。黙って立ち尽くし、自らの主君、西行寺 幽々子の顔を見詰めることしか出来なかった。何も出来ない自分が歯痒かった。何も知らない自分が殺してやりたいほどに憎かった。今最も切り殺してやりたいのは、のうのうと剣を振るっていた自分だ。剣を振るうことこそが、剣を振るってさえいれば幽々子様の役に立てると信じていた自分を串刺しにしてやりたかった。
やる気力など、どこにも残っていなかった。
紅雪が、はらりと一枚、妖夢の前を横切って落ちた。
そのまま紅雪は溶けることなく、幽々子の身体の上に乗る。重みを感じさせないそれは、次から次へと舞い降りてくる。春の終わりを告げるかのように。
辺りは一面、紅と白に覆われていた。幽々子が背を預ける木。今や裸になってしまったその木から振り落ちる紅雪が、あたりを全て染めていた。大きすぎる多すぎる花びらが粉雪のように白玉楼を埋め尽くしていく。風も吹かず、冷たさもない、静かで穏やかな紅の雪が降る。降り落ちたものは溶けることなく、茶土の上に積もり、紅の地面を作り出していく。音もなく、重みもなく。むせかえるような桜の匂いだけが、それが夢ではないことを静かに主張していた。
空色の着物が、薄紅に埋め尽くされていく。
落ちる紅雪と逆しまに、幽々子は静かに手を伸ばした。上へ。自らの前で立ち尽くす妖夢の元へと。妖夢は動かない。全てを任せるがままに立ち尽くしている。幽々子はその妖夢の手を、幼き頃から少しだけ大きくなった、指の細い手を握る。ゆっくりとした、力のない動作。その手には扇は握られておらず、今、代わりとばかりに妖夢の手が握られている。妖夢よりもほんの少しだけ大きな、柔らかい手。
手は暖かかった。
妖夢は思い出す。初めて手を繋いだときのことを。魂魄妖忌にそうして貰ったように、頭を撫でてもらったときのことを。妖忌の手より幽々子の手は小さかったけれど、それでも当時の妖夢よりはずっと大きく、柔らかく、何よりも優しかった。撫でてもらうことが好きだった。褒めれ貰うのが好きだった。好きでいてくれるのが嬉しかった。いつまでも好きでいて欲しかったし、いつまでも好きでいたかった。親子のような関係がいつまでも続けばいいと思った。妖忌がいなくなってからは特に強くそう思った。
姉妹のように。親子のように。そして何よりも従者としていつまでも側に居たいと思った。離れることなど考えられなかった。相手にとってかけがえのない存在になりたかった。役に立ちたかった。
役に立って、もう一度、頭を撫でて欲しかった。
大きくなって、長い時間が過ぎていなくなったけれど。本当はもう一度抱きしめて欲しかった。頑張ってねと褒めてほしかった。その暖かな手で頭を撫でて欲しいと、妖夢は心の奥底で思っていたのだ。そんな子供のようなことを言えるはずもなく、剣士としてそんな甘いことを思うのを許せるはずもなく、意識の表側に出すことすらなかった思い。
撫でて欲しいと、妖夢はそう願った。
その膝が折れる。幽々子と手を繋いだまま、妖夢は膝立ちになって幽々子の側に立つ。スカートの裾が円を描いて紅雪の上に広がった。膝を居たいとは思わなかった。スカートの中、むき出しの膝は、土ではなく桜の上に置かれている。
意図的に崩れたのではない。ただ単純に、ただただ純粋に、立ち続けることができなかったのだ。弱い心が、鞘に収めるかのように画していた幼い心が、むき出しになって妖夢の気力を奪っていった。立つ気力すらもなかった。幽々子が手を握っていなければ、妖夢はそのまま横に倒れて伊たかもしれない。
膝から下の分だけ、幽々子の顔が近くなる。
幽々子は、何も持たないもう片方の手を伸ばした。開いた袖の中に、はらりと紅雪が舞い込む。構わずに幽々子は手を伸ばす。
妖夢の頭へと。
紅雪が混ざった、綺麗な銀の髪へと、幽々子は手を伸ばす。
妖夢は黙っている。その手を見てはいない。視線は全て、幽々子の瞳へと注がれている。
幽々子もまた妖夢の瞳を見返したまま、ゆっくりと、妖夢の頭を撫でた。
――妖夢は、大きくなったわね。
そう言って、幽々子は妖夢の頭を撫でる。良い子良い子、と子供にするように。優しい母親が、愛情を持って子にそうするように。
上から下へ。銀の髪をすすくかのように、指先にまでほのかな力を込めて、優しく頭を撫でる。
手のひらから伝わる温もりを、妖夢は肌で、頭で、髪で感じていた。思い出すのも遠く、はるかな昔にされたように撫でられていることを、妖夢は明瞭と感じていた。
幽々子は微笑んでいた。
妖夢は、泣いていた。
好意を、暖かな感情のもとに撫でられ、妖夢は静かに泣いていた。舞う桜よりも静かに泣いていた。声を殺すまでもなく声は出なかった。嗚咽の響きが漏れ出ることもなかった。泣くというよりは、ただ涙を流すだけのように思えた。
頬を雫が伝わり落ちていく。
足元の紅雪を、暖かな雫が濡らしていく。
幽々子は、子供のように泣く妖夢からそっと視線を外し、その奥に広がる空を仰ぎ見た。昏い空は桜の花に遮られて見えない。微かに、本当に微かに丸い月が見えるだけだ。銀色に輝く、空に浮かぶ月が見える。
月明かりの中、白と紅の雪が降り続ける。風はない。その役割を終えた桜たちは、自らの意思で振り落ちる。桜は散るのが定め。散ってこその美しき桜だと、彼らは静かに主張している。遠い月と誓い桜。白い羽のように、紅い雪のように、花びらは舞い落ちてくる。
月の涙のようだと、幽々子はふと思った。
幽々子は視線を再び妖夢へと戻す。空を見ている間にも撫でる手は止まらず、妖夢の涙も止まることはなかった。
そっと、幽々子は頭を撫でる手を離す。離したその手を身体に戻すことはなく、そのまま額を通り、耳の横を抜け、妖夢の瞳へとたどり着く。幽々子のしなやかな指先が、妖夢の目蓋を優しく閉じた。瞳の縁から流れ落ちる涙を、指先で軽く掬い取る。
――泣かないで、妖夢。
優しく言う幽々子の顔は、寂しそうに笑っている。泣かすつもりはなかったのだ。出来うることならば、妖夢には笑って欲しかった。幸せで居て干しあった。楽しそうに笑う妖夢が、嬉しそうに後をついてくる妖夢のことが幽々子は好きだったから。いつまでも、長い時間をそうしていて欲しいと、幽々子は心の底から願っていた。母のように。姉のように。主人として。かけがえのない存在として。
泣いたまま、妖夢は、寂しげに笑う幽々子の横顔を見た。
妖夢もまた、幽々子にそんな顔をさせるつもりはなかった。寂しげな笑いなど見たくもなかったし、させたくもなかった。幽々子の温かく見守るような視線が好きだった。穏やかな愛情を秘めた微笑みが好きだった。見ているだけで心が穏やかになる笑み。それは決して、寂しそうな笑いなのではない。憂いを含んだ、儚い笑いなどではない。
妖夢も、笑った。
泣いたまま、瞳から涙をこぼしたまま、妖夢も笑った。あどけない子供のような笑顔を浮かべて、涙を流しながらも、妖夢はしっかりと幽々子を見返した。
その笑顔を見て、幽々子は、先までよりも少しだけ幸せそうに笑った。
紅雪は降り続ける。振り続け、振い続ける。
辺りの景色は変わらない。少しだけ大きくなった妖夢とは違い、景色は変わることはない。妖夢が育つよりも前から、妖夢が生まれるよりも前から、ともすれば幽々子が死ぬよりも前から、桜たちは変わらない。変わることなく、春が来るたびに、桜たちは美しい花を咲かせ、そして散っていく。散ることで夏が訪れ、木は緑を栄える。秋と共に葉は落ち、冬の間眠りにつく。
そしてまた春が来て、桜は満開の花を咲かすのだ。
いつまでも変わらない繰り返し。いつまでも変わらず、優しく少女たちを桜は見守っている。
咲くことのない西行妖も同様に。
桜は遠い昔にそうしたように。遥か遠くにそうするように。静かに、花びらを舞い落とす。
涙をぬぐう、いとおしく刺し伸ばされていた指が、ゆっくりと引かれた。涙はもう残っていなかった。寂しげな笑みもそこにはなかった。穏やかで優しい、二人の少女がそこには残るばかりだった。微かな切なさは遠くへと消え逝く。桜の下に埋まるかのように。花びらに切なさは埋もれ、あとには穏やかな世界がそこにあった。
幽々子は見上げる。
果てしなく広い青空を。
妖夢の顔の奥。桜のさらに遠くにある、晴れた夜の空を。暗く昏い青よりも蒼い空を、幽々子は見上げている。
いつかに見た空と変わることのない、美しい空だった。
妖夢は空を見ない。妖夢は桜を見ない。繋いだ手の先にいる主人を、妖夢は微笑んで見ている。掴んだ手は離すことはない。剣よりも大切な、剣を捧げる相手の笑みを、妖夢はじっと見詰めている。
二人を覆いつくすように、雪が降る。
二人を覆い隠すかのように、雪が降る。
紅色の雪が、しんしんと、音もなく振り続ける。
月光に照らされた花びらは、それ自体が微かに光輝いていた。魔力を持つ桜より散る花びらは、ほのかに銀に輝いて、雪のようにも見えた。幽々子の視界を埋め尽くすかのように、勢いを増しながら花びらたちは舞い落ちる。
紅雪は、全てを覆い尽くす。
春を集め妖を起こした罪を。
二人の少女の夢のような日々を。
穏やかな白玉楼の世界全てを、桜の花は覆い隠していく。
はらり、ひらりと花が散り。
ふらり、ゆらりと雪が降る。
穏やかな世界を、静かに、覆い尽くしていく。