長月、満月の夜。
……の、次の夜。
ほんの少しだけ、人には分からないくらいに少しだけ欠けた月。
大切なのは見た目ではなく、『欠けてしまった』という事実なのだ。かつて永遠は傷ついても永遠だ、と言ったものがいたが、それは半分正しく半分間違っている。傷がついても永遠は永遠だが、『傷がついていない永遠』と『傷がついた永遠』は同じ永遠でも微妙に異なるのだ。
ついた傷の分だけ、永遠は異なる。それでも永遠であることに変わりはない。
それと同じように、欠けてしまった分だけ月は変化する。
けれど、月であることに変わりはなかった。
頭上に輝く、ほんの少しだけ欠けた月。
それはまぎれもなく月である、とルナチャイルドは思うのだ。
「早く早く! サニー、スター、何をのんびりしているの?」
その月の下、巨きな木の根元から上を見あげてルナが声を張り上げる。
見上げる先、古い巨木の真ん中あたりには、小さな穴が開いている。三月精が住む家の入り口だ。
そこからひょこんと顔を出したのは、ルナと同じ三月精、星の光の妖精スターサファイアだ。長い黒髪にフリルのついた可愛い服。背中からは妖精の象徴である半透明の羽が生えている。
手に持ったアンティークな傘を開いて、スターは穴から飛び出し、ふわふわと飛んで幹に立つ。幹は殆ど揺れない。体重を感じさせないその動きには、妖精らしさがにじみ出ていた。
傘をたたんで幹に横たわり、組んだ手の上にあごを乗せてスターは言う。
「あら。ルナ、夜はまだまだ長いのよ。そんな流れ星みたいな速度じゃ燃え尽きちゃうわよ?」
「星は貴方でしょうスター。私は月だもの、星みたいにふらふらしないわ」
「ならしっかりなさいな。月がどっしり構えていないと、星たちまで迷い出すのよ」
う、と嫌そうな顔をするルナ。うまく切り返したつもりが、見事に図星を突かれたからだ。言い返す言葉にも詰まり、出かけた言葉は声にならず、喉の奥に消えていった。
それでも何か言おうとしたが、
「……眠いわ~」
そんな、呑気な声が、二人の間に割って入った。
寝ぼけ声の主――サニーミルクは寝ぼけたまま穴から顔を出し、寝ぼけたまま身体を出し、寝ぼけたまま穴から落ちて地面にぶつかった。
どすん、という嫌な音がする
半分幹に埋まったまま、ぴくりとも動かないサニー。
「……サニー?」
「……サニー。今日は起きてなさいって私言ったわよね?」
「しかたないじゃない。太陽が沈んだんだから!」
言い訳にもなっていない言い訳をするサニー。
そのサニーを、やれやれ、という顔でルナとスターは見つめる。
「私みたいに一度寝ないでずっと起きてればいいのに。中途半端に寝ちゃうから眠くなるのよ」
「ルナは夜の妖精だからそんなことができるのよ! 普通はお日さまと一緒に寝るものよ」
「まぁまぁ。サニーもルナもケンカしないの。今日が何の日だか、憶えてるでしょ?」
スターの言葉に、サニーとルナは口を閉じる。
もちろん、忘れているはずがない。今日という日は妖精である彼女らにとっては大切な日だ。妖怪でも人でもない、自然の中に生きる妖精の、年に一度しかない特別な日。
もっとも、特別でない日は、一日としてないのだけれど。
ともかく、この『行事』ができるのはこの日だけだ。遅れて参加できませんでした、となっては笑えもしない。
「忘れてないわよ。――おめかしして、ね」
「憶えてるわよ。――お気に入りのコップを持って、ね」
「そうそう。――幻想郷の真ん中に行きましょう」
三人は顔を見合わせて微笑む。
こういうときは仲が良い上に心まで通じ合っている。星、月、日という三月精の彼女たちだからこそできる芸当なのかもしれない。普通の妖精は、もっと気まぐれでばらばらに動くものだ。そういう意味では、彼女たちは非常にまとまりがある方だった。
好き勝手に生きていることには違いないが。
もし、そのことを彼女たちに面と向かって言っても、異口同音にこう答えが返ってくるだろう。
――貴方は好きなように生きないの?
というわけで、彼女たちは今夜も好きなように生きるべく、とある場所へ向かっている。
行き先は、幻想郷の中心だ。
それは別に、地理的な意味で、ではない。幻想郷の地図なんてものは存在しないし、正確な地形を把握している人など誰もいない。どこかの妖怪のせいで空間が歪んでいることもあって、正確な中心点など調べようにも調べられない。
この場合の中心とは『幻想郷の中心という意味を持つ場所』に過ぎない。
たとえば、博麗神社は、実際に幻想郷の端にあるわけではない。ただ、博麗大結界の境目にあるからこそ、『幻想郷の端』と言われているだけだ。
それと同じように、意味としての幻想郷の中心に、三月精たちは向かっていた。
幻想郷の中心。それはすなわち、霧雨――人間、森――妖魔、それと神社――境界の中心となる場所。
つまりは、魔法の森の近くに存在する古道具屋、香霖堂だ。
「ね~ね~ルナ。今年の月はどうかしら?」
「少し甘いかもしれないわね。今年は色々あったから」
「甘いのは好きだわ。蜂蜜みたいに甘いのは」
とスター。手にもった黒い日傘をくるくると回している。
森の中、しかも夜なので日傘は何の意味も成さないが、それでもスターは楽しそうに傘を回している。黒くフリルのついた傘は、月の光を反射せず、静かに吸い込むばかりだ。
スカートの端を押さえてサニーは跳び、細い木の枝の上に立って胸を張り、傘を差すスターを指差す。
「サニー、日傘なんて邪道よ! 光を遮ってどうするのよ、もう!」
「そうね。こんなに月光が気持ちいいのに」
ふわふわと低空飛行するルナが、その言葉に続いた。
四つの瞳に見据えられても、スターは動じなかった。
ぽん、と軽く地面をけり、傘を使ってゆったりと飛びながら、くるりと向きを変える。
ルナとサニー。二人を正面から見返して、スターは答えた。
「私は貴方たちと違って光を必要としないもの!」
「スターはいいわね……光の影響を受けないなんて」
「あら。でもルナ、貴方は『今』は楽でしょうに。影響を受けて、良いことだってあるでしょう?」
「そうね、満月だもの」
「満月に近いんだもの、でしょ」
「サニー。揚げ足取りはいらないわよ」
ルナの不機嫌そうな顔に睨まれて、サニーはさっと木の陰に隠れた。太陽の影響を受けるサニーは、夜のルナには適わない。
三人のパワーバランスは、空と同じようにくるくると変わる。影響を受けないスターを中心に、衛星のようにルナとサニーが回っている。悪戯失敗のとき、スターが一番ちゃっかり逃げ出すのは、そういう理由もあるからだろう。
もっとも――彼女たちは、悪戯を失敗したときのことを、少しも後悔していない。反省すらしていない。
彼女たちには、常に先しかない。
面白いこと。楽しいこと。幸せなこと。
――未来のことすらなく、『今』のことだけを考えて生きている。
彼女たちに限らず、妖精というのは概ねそういう存在だ。とある氷精は、最近思うところがあって行動を改めたようだが。
が、『強くなりすぎた』妖精など、彼女たち三月精にとっては雲の上のまた上の存在である。
周りがどうあろうと――紅の霧が出ようが冬が終わらなかろうが夜が終わらなかろうが――そんなことには関係なく、彼女たちは楽しく生きていた。
今、この瞬間も。
「足じゃなくて手を取ればいいのかしら?」
「何? ダンスでもする気?」
「いいわね、それ。月の光の元でくるくるくる~って踊るのね」
「あら楽しそう。サニー、一緒に踊りましょう」
「サニー! スター! あんまり遊んでると遅れるわよ」
ルナの叱咤に、木々を縫うようにして踊っていたサニーとスターの動きが止まった。
一番近い枝にぴょこんと飛び降り、サニーは枝に手をついて、前回りをするかのようにくるりと回ってルナの横に立った。スターがそれに続く。
スカートの端が、夜風を吸ってふわりと膨らんだ。
「遅れたら困るわね」
「そうそう、急がないとね」
三人は足を揃えて歩き出す。
周りには誰もいない。少なくとも人は。
けれども――誰かではない、何か。夜闇に潜んで姿の見えない何者かが、確かにいた。
森の奥から囁き声が聞こえる。
木の陰から笑い声が聞こえる。
月の綺麗な夜には、人以外のものが山と出る。
か弱いか弱い三月精たちは、彼らに見つからない、こっそりと森を歩く。
「姿を消して」とサニー。
「足音消して」とルナ。
「ひっそりこっそり行きましょ!」
スターが言葉を締め、三人は少しだけ速度を上げて森の奥へと急いだ。
元より妖精の速度、急いだところでそう速くはない。
外から見れば穏やかとも言える速度で、三月精たちは森の奥、森の端、香霖堂を目指す。
枝葉の隙間から覗く月は、もう頂に掛かろうとしていた。
「間に合うかしら?」
「間に合うわよ!」
「間に合うといいわね」
三者三様に喋りながら、妖精たちは飛び続ける。
木の間を抜け、枝の下を潜り、葉の中を通り、魔法の森を突き進む。
やがて――
欠けた満月が、頭上にたどり着くほんの直前。
三月精たちは、香霖堂へと辿り着いた。
「一番!」
「二番~」
「あら、最後?」
サニー、スター、ルナの順番で、少し開けた場所へと着く。
森の木々が途切れ、ほんの少しだけ、囁き声が遠退いた場所。
そこには『香霖堂』と看板の掲げられた店が建っている。少し古ぼけた、いつから建っているのかさえ分からない様な古道具屋。
店の中に明かりは灯っていない。店主は恐らく寝ているのだろう。玄関の鍵が開いているかどうかも分からない。
けれど、それでも構わなかった。
彼女たちは、香霖堂の中に用があるわけではなかったのだから。
「急いで急いで!」
ルナの声に従って、三人はさらに少しだけ飛んだ。
森と店の境目から、香霖堂の上、屋根の上へと。
ふわりと、重力から解き放たれたかのように軽く飛んで。
瓦屋根のてっぺん、一番高いところに、三人で輪を描くようにして座った。
「間に合った?」
「間に合った!」
「良かったわー」
三人は互いの顔を見合わせ、楽しそうに笑う。彼女たちの頭上で、月はゆっくりと動き続けている。
ほんの少しだけ欠けた月が――天の座へと戻す。
その月の見守る中、少女たちは、胸元から思い思いのコップを取り出す。
サニーはマグカップを。
ルナは薄い杯を。
スターはお猪口を。
小さなそれらを小さな手で大切そうに持って、自分たちの前に置いた。
それそれのコップには、何も入っていない。空の器。
その底に、丁度てっぺんにきた月が映るまで、三月精たちはじっと、楽しそうに微笑みながら待った。
ゆっくり。
ゆっくりと、月が動く。
わずかに欠けた月が、ゆっくりと、空の一番高いところへと昇る。
「――来たわ」
ルナの声と同時。
月が昇りきると同時に。
――きらきらと。
星のように瞬き煌きながら。
ゆっくりと、月の欠片が落ちてくる。
月の欠片が――降りてくる。
満月の次の夜。ほんの少しだけ欠けてしまった月。
その、欠けてしまった部分。零れ落ちてしまった部分が、幻想郷の中心めがけて落ちてくる。
月からの落し物、ではない。
欠けてしまった、月そのものの欠片が、ゆっくりと落ちてくる。
天蓋に映る月から、夜が更けるくらいに遅々とした速度で、欠片は降りてくる。
小さく砕け、細かく細く、静かな銀色に輝きながら。
幻想郷の中心、香霖堂の上。
そこに座る三人の少女の下に、月の欠片は降りてくる。
欠片は、少女たちの瞳に銀の光を零しながら、ゆっくりと舞い降りた。
屋根に置かれた、マグカップと杯とお猪口の中へ。
銀の光が、その中に収まる。
「ふふっ。大成功っ」
スターが言って、お猪口を手に取る。
その中は、もう空ではない。
小さなお猪口の中には、薄く銀に輝く液体が、波々と注がれている。
蜂蜜のように甘い、銀色のお酒が。
月の欠片のお酒が、淡く銀に輝いている。
お酒の水面に映るのは、欠けた満月。
零れた雫の行く先を、丸い笑顔で見守っている。
「それじゃ、」
「そろそろ――」
ルナとサニーも、それぞれのコップに手を伸ばす。
マグカップにも、杯にも、同じように銀のお酒が、月のお酒が注がれている。
三人はそれを手に持ち、まるで月に見せるかのように、高くに持ちあげ。
ゆっくりと、縁をあわせた。
かん、と小さな音を立てて、注がれたお酒が揺れる。
サニーミルクは笑い。
ルナチャイルドは笑い。
スターサファイアは笑い。
月に聞こえるような、楽しそうな大声で、声を揃えて言う。
「「「――――乾杯!!」」」
(あとがき【夜明けの香霖堂】 に 続く のかもしれない)
しかし持ち出してくるコップの種類に三人の性格が
現れているような気がするなあ・・・。
>「サニー、日傘なんて邪道よ! 光を遮ってどうするのよ、もう!」
このサニーはスターですね。