Coolier - 新生・東方創想話

――さぁ、どうする

2006/05/15 06:16:10
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「クロケです、ども。えーっと……前書きでこんなことを言うのは僕も不本意なのですが、これを読むにあたってひとつお願いがあります」

「本作者が創想話に投稿した作品をどれかお読みになり、先が気になるという方のみ、お進みください。あくまでお願いですので、強制は出来ませんが、昔は振り返らない主義の方は、あらかじめ本作品はかなり主張が強いことをご理解いただいた上でお進みください」

「それでは、どうぞ」

   ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 石段に足をかける乾いた音が木立にこだまする。
 四方を木々に囲まれた森の道。一見すれば、そこは彼がよく見る普通の木が続いているようにも感じられた。実際そうなのかもしれないが、場所を考えれば何ひとつ信用できるものはない。
 ヴィクトールは一瞬だけ木陰の奥を透かし見る。長く続く緩やかな坂道の途中、取り立てて目に映るものは、何もなかったが。
 彼は視線を戻し、再び坂の上へ向かう。この道を通るものはごく限られているのだろう……表面を丹念に磨かれた上質の石段は、傷らしい傷をひとつも残さずに、数百年間ここに敷かれているようだった。
 幻想郷の境界。
 ――余人が足を踏み入れられるような場所ではない。そこは、明確な壁や溝が引かれているわけではなかった。隔てているものがあるとすれば、空気か、何かか……いや、もっと物事の根元に近い概念なのだろう、的確な言葉は見当たらない。
 彼は幻想郷に来てからずっと、この場所に訪れることを避けてきた。ここに来るのは、最後と決めていたのだ。
 どのみち、外に出るためには一度話をつけておかねばならない。
 一段、また一段とヴィクトールは少しずつ進んでいく。急いでも意味はない。それに、目的地はもうすぐそこだろう……


 坂を上りきったところに、建物があった。
 端から端まで見回す――神社だ。博麗神社と極めてよく似ていた。同じものではないかと錯覚するほどだったが、まさかそんなはずもない。
 ヴィクトールはあたりに人気がないのを見て取ると、構わず奥へ向かおうと足を踏み出した。
「止まれ」
 一歩前に出たと同時に、声が聞こえた。無言で声の出所へ向き直る。直前に確認したときには影も形もなかったが、一人の女性が境内の隅に立って彼のほうへ鋭い視線を向けていた。
 金毛の九尾――
「名を名乗れ」
「ヴィクトール=ドラクール・スカーレット。ここの主に招待状を押し付けられた故、出向いた」
「なにぃ……?」
 余分なことを聞く気はなかったのだろう。彼女は名前だけしか訊ねてこなかったが、ヴィクトールが懐から右腕を取り出すのを見て、さっと表情を険しいものに切り替えた。両の袖に腕を交差させた姿勢で、緩やかに足元の空気が渦を巻いている。風が何かを避けて彼女の両脇を流れていった……殺気なのだろう、おそらくは。
 彼は注意深く九尾との間合いを意識しながら、マントの内側から持ち上げた右腕を掲げた。
 久々の正装に包まれた彼の身体は、五体満足ではある。しかし彼が取り出したのは、文字通りの“右腕”だった。肩の部分で切り落としたそれは、半ばからおかしな位置でねじまがり、肘が三つに増えているようにも見える。
 ヴィクトールは害がないことを示すために、数回腕を揺すってから九尾と彼の中間あたりに放り投げた。声を低く抑え、無感動な表情で淡々と声をあげる。
「招待状だ。無粋ではあるがな」
「……何のつもりだ?」
「本気で招待状のつもり、なのでしょうね」
 九尾がヴィクトールへ踏み出そうとしたその機先を制するように、前触れなく三人目の声が聞こえた。やはり誰もいなかったはずだが、ヴィクトールの横手で、木陰に休むような人影が木にもたれている。
 どうせはじめから聞いていたのだろう。このあたりは彼女の管理下なのだから。
 ヴィクトールは新たな人影に顔を向け、初めて皮肉げに表情を変えると、自分から彼女ら二人に挟まれる位置へ移動する。革靴の乾いた足音に合わせて告げた。
「博麗大結界を乗り越えようとしたときだがな、当初はお前に気づかれずに忍び込むつもりだった。そもそも気づかれてしまっては、私には打つ手がない。防御されれば、この結界を破る方法などなかろう」
 ヴィクトールは地面に転がる腕の脇で立ち止まると、じっと折れた骨格を眺めながら続ける。
「しかしお前は私の右腕をへし折っただけで、やすやすと侵入を許した。あの時は殺されるかとも思ったがな……出来るのに追い払わなかったのなら、つまりこの右腕は招待状なのだろう」
 足元にある腕は、幻想郷に侵入した後彼が自分で切り落としたものだ。もちろん今では新しい右腕を再生させている。
 ヴィクトールは言い終えると同時に、視線に力を込めた。途端に肉が発火し、猛烈な熱量の炎が一瞬で腕を灰に変える――吸血鬼の肉体は極めて強固に出来ているが、彼の一睨みで燃え尽きてしまった。風が灰を散らし、腕が転がっていた痕跡は数秒で跡形もなく消えうせる。
 顔を上げる。振り返った先に佇む彼女は顔の半分を扇で隠していたが、悪戯っぽい瞳だけ笑みを浮かべていた。
「藍」
「……はい」
「これから彼と二人きりで話をしてくるわ。橙をつれて、マヨヒガで待ってなさい」
「よろしいのですか」
 声と同時に背後から一際鋭いプレッシャーを感じるが、ヴィクトールは苦笑してそれを受け流した。
「いきなり嫌われたようだ」
「別に決闘しようってわけじゃないもの。あなたが心配するようなことじゃないわ」
 正面の彼女が木から身を離すと、提げていた傘を開いてぱっと一振りした。その動きに呼応したように、突然黒いわだかまりがヴィクトールと彼女をそれぞれ包み込む。
 一瞬接触を嫌って身をひねったが、感触からして悪意ある呪いではないようだ。場所を変えようというのだろう。
 ヴィクトールは抵抗を止め、成り行きに任せて黒いもやのような何かが晴れるのを待つことにした。闇の向こう、彼と同時に黒く塗りつぶされた彼女の顔がまだ脳裏に残っている。
 彼女は途方もなく強力な妖怪だ。
 幻想郷を生み出した妖怪、八雲紫――

   ■ ● ■

 移動は一瞬だったらしい。が、ヴィクトールは自分が転移したことにしばらく気づかなかった。上も下もないくらいの完全な闇の中、自分の姿だけがやけにはっきりと目に映る。空間そのものが真っ黒なのだろう。
 ヴィクトールが軽く頭を振りながら視線をめぐらすと、数歩の距離を挟んで紫が立っていた。邪気のない笑みで彼の方を見てくるが、あれで実際には嫌味な性格をしているのだから手に負えない。
「ふぅ」
 肩を回し、相好を崩す紫。ヴィクトールも肩の力は抜いて彼女と向かいあったが、さすがに笑えるような気分ではなかった。
「私のところに来るまで、ずいぶん遠回りしたみたいね」
「見てたのか」
「まぁ、大体は……」
 上目遣いに虚空を見上げ、紫はヴィクトールの旅の足跡を思い描いているようであった。全て見ていたわけではないだろう、彼女にしてみればヴィクトールが問題を起こさなければ、それでいいはずだ。
 彼はなんとなく紫を中心にした円に歩き出しながら、歩調に合わせる程度でポツリと呟いた。
「旅にはうってつけの場所だったのは確かだ。最近の都会と違って、この郷にはまだまだ夢があるな」
「あなたが何しに幻想郷まで来たのか、結局聞いてなかったわね。予想はつくけど、一応教えておいてもらいましょうか」
「実際、家族に会いに来るのも当初からの目的のひとつだったよ……そうだなぁ、言葉にしづらいものだが」
 ヴィクトールは視線を落として、どう繋いだものかとしばらく黙考する。しかし適当な答えが浮かんでくるでもなく、結局遠まわしに説明して相手に解釈を任せることにした。
 表向きには、彼はずっと『娘に会いに』が旅の理由だったし、事実顔を見るつもりでもいた。とはいえ、それが全てというわけでもない。紫もあらかたは見抜いているのだろうが……
「初めはな、非干渉ですぐに帰るのが予定だった。だが博麗神社に叩き落されて、幻想郷の中身に触れざるを得なくなったわけだ。色々悩んだがね。結局次善策として、出来る限り外の世界のことをここの住人に知らしめることに決めた」
「180度回転ね」
「あまり愉快な話ではないな。彼らが自力でどんな行動に出るかを見たかったのだが……それが無理なら、私が望む方向へ少しでも流れやすくするのがよかろう」
 話しながら、段々と考えがまとまってくる。あやふやだった言葉を少しずつまとめ上げ、彼はさらに順を追って話を続けた。
「例えば、そうだな、不死の蓬莱人に会ったよ。形あるものはいつかは滅びるゆえ、人はどうしても不滅なるもの、永遠なるものを求める。そんな願いがひとところに集まったものが、不死者なのだろうな。彼女は幻想郷ができる前から生きていたようだから、別に私が声をかける必要もなかったかもしれないが……外の世界の言葉を引き合いに出して、彼女が考えていなかっただろう可能性について、いくつか示唆した」
「で、それの意味は?」
「先を急ぐな。他にも亡霊の頭領なんかに会ったな。死界から戻ってきた人間はおらん。ために死後の世界は化け物が支配し、死者を捕らえて離さないと人々は考えた。だから死界の妖怪というのはおしなべて強力であるよ。彼女、外の世界を見たことがあったのか? どうも幻想郷だけで暮らしてきたわけではなさそうな雰囲気があったな。そんな感じだから、あまり外の話題には触れなかったが……それでもいくつか、仄めかしの言葉は残してきた」
 ヴィクトールは、相変わらず紫の周囲を歩きながら話していた。前後も定かでないほどの暗闇なので、気を抜くと歩いているのかどうか混乱する。正面のやや下を見つめながら、そこに過去の幻影を映し出すように歩を進めた。
「森のそばの道具屋の主人は、この郷で一番外の世界に近い男だったな。あぁ、お前は除くぞ。そんなわけであの店では単なる雑談に終始した感があったよ。それよりも興味深かったのは生来魔女の方だ。あれの起源は古い。人は古代より、宇宙の巨大さを理解しきれず、理由をつけられない出来事をひたすらに恐れてきた。平伏すのみに耐え切れなくなった彼らは、納得できる形での原因を求めた。それが魔女の誕生だ。全ての悪意は、魔女によって引き起こされるとな……。彼女には“ジャック”と名付けた使い魔を残してきた。ありふれた名前だが、それゆえに多くの同名の人格――それと同じ数の外の世界と通じることが出来る」
 ヴィクトールは立ち止まった。
 同時に言葉も止める。言うことが尽きたわけではないが、彼はどこにも濃淡のない真っ暗闇を見上げた。躊躇が彼の口を鈍らせる。幻想郷に来るまでは、これから口にしようとするものがあるなど、思ってもみなかったが……
 たっぷり数分は沈黙を挟んだのち、紫が先を促さないことに痺れを切らして彼は続けた。
「博麗の巫女を見たときはたまげた。博麗大結界、博麗霊夢。人間として存在したものに術をかけたのか、それとも完全に人造人間なのかは知らんが、あの娘……博麗大結界の力をそのまま内在しよる。結界が服着て歩いてるとは思わなかったぞ」
「ずいぶんいろんなものを見て回ったのね」
 視線を戻すと、紫は傘を傾けて口の端で笑っていた。かすかに威圧的なものが彼女から放たれている。
 頬に力を入れ、ヴィクトールは認めた。そろそろ本題に入るべきだろう。
「そこでお前だ。外の世界を知ることの出来るお前に、引用は無意味だろうが、ひとつだけ」
 ヴィクトールは両足を軽く開き、背筋を伸ばした姿勢で暗闇の中に立っていた。
 暗闇は夜に似ている。星のない漆黒は夜とは呼ばないだろうが、静寂で、大空をも満たして圧倒し、人のことなど一欠片たりとも考えてはいない点は同じだった。夜は人のことなど知らない。自らと地面の間に挟まっている小さな生き物のことなど考えたこともないに違いない。人が虫を知らないように、夜もまた人を知らない。
「……それでも人は夜を崇拝してしまうのだよ、紫。夜という巨大なものを恐れて、敬い、恋いこがれてきたのだ。人は闇を遠ざけるために、手に入れた財産のほとんどを食いつぶしてきた。油を買って明かりを作り、壁と天井で周りを囲い、犬を飼った。家族を増やして養い、家の近くに誰も近づけないよう柵を立てた。彼らの努力の向こう側から人を嘲笑う、得体の知れないものと戦い続けてきた。人はそれを夜と呼んだり、闇と呼んだりした。それの正しい呼び名は……未知だ」
 長い台詞――それはまさしく芝居の台詞じみていた――を呟きながら、ヴィクトールは過去を振り返っていた。
 旅の道中ではない。より太古、文明の黎明期に人間は怪物と戦って暮らしていた。彼らは胸を張って地上を支配できる日を心待ちにしながら、怪物を恐れ、打倒すべく武器を手に取っていた。
 それは、幻想郷で営まれる日常によく似ている。
「別の話をしよう。同じことなのだが。かつて、地図には空白があった。人が到達できない土地が……無数にあった。人は地図の全域を埋めることができなかった。高すぎる山岳、低すぎる渓谷。荒れる海岸。遥かな波濤の果て。それは地図の空白となり、人はそれを恐れたのだ。恐れて、その空白に名前をつけた。赤い小さな警告の言葉として。それは、怪物領域と呼ばれた」
 怪物。
 いまさらその言葉の定義を繰り返すまでもない。怪物とは人を襲い、害悪をなす魔性の存在。大いなる過去より果てることなく人間に苦難を強いてきた隣人。
 怪物はいつからいたのだろう?
 人が気づいたとき、すでに怪物は彼らの背後にいた。いつからそこにいたのかは分からないし、どこから来たのかも分からない。もし、怪物の起源が全くの錯覚であるとすれば、今宇宙の全てに広まった怪物たちは、ある日夢が覚めると同時に――
「その領域には、怪物がいると信じられていたのだ。なぜなら、そこから生還した人が誰もいないからな。人の力が及ぶことのない悪魔の獣が、立ち入るものを確実に破滅させる。怪物がいると信じられていたのだ」
 ヴィクトールはそこで一呼吸以上の長さを置いた。
「だがな。人はそれでもひとつひとつ、空白を埋めていったのだ。山岳を征し、渓谷を探索した。そのどこにも、怪物はいなかった」
 無意識に吐息を漏らしていた。
 音を聞いて自覚するほどのため息だった。自分でも気づかないうちに語りに没頭していたのだろう。二、三度目をしばたいて焦点をあわせると、視線だけは変わらずに正面を捉えたままだった。
 思考の空白は捨て置いて、なにごともないように彼は続けた。
「さて。人々は、怪物を信じていたのに、怪物はいなかった。彼らが信じていたその恐怖、畏怖は、どこにいてしまったのだろう? それは、煙のように消え去ってしまっのだろうか。用済みになった瞬間、どこかに消えてしまったのだろうか」
 ヴィクトールは目を閉じ、腕を後ろに回して言葉が終わったことを示した。紫がどんな顔をしているのかは見えないが、胸中は大体察しがつく……人が地図の空白を埋めたにもかかわらず、幻想郷が地図に載ることは絶対にない。
 まぶたの裏で現代の地図と古代の地図を比べて待っていると、皮肉げな声が届いた。
「……忌々しき大マグス、アイネスト・マッジオの言葉」
「そう、だが忌々しいのは奴ではない。人でもないし地図の空白でもない。ましてや我々の存在を忌むのも無意味だ。呪うべきは……未知だ」
 鋭く目を開き、眼光を紫に向けた。右腕を自らの胸に押し当てる。
「怪物は人の未知から生まれた。彼らは我々がいることを信じた。山に迷って獣に食われた人間は神隠しにあったと考えられた。教会の教えと伝染病が吸血鬼の存在を作り出した」
「大昔、人々はそうして不可解なものと向き合ってきた。そうね、太古の時代、確かに妖怪は生きていたわ。でも人間はそのときからずっと刀を砥いでいた。妖怪に対抗しうる刀――」
 紫は醒めた声音でヴィクトールの言を継ぐと、一転してにっこりと笑った。表面を見れば魅力的な笑みだったが、同時に底知れない表情でもある。
「西洋ではもう、その刀で妖怪が消え去ってしまったようね。まさかケチを付けに来ただけでもないでしょう、先を続けてちょうだい」
「地図の空白が埋まれば、妖怪は消える。人の鍛えた刀――つまり学問が発展すれば、未知は葬られる。ひとつの時代が終わり、それに付随した文化も終わる。だが、それを良しとしないものがいた」
 彼はもう一度ひとみを閉じると、現代の町並みと古代の町並み、そして幻想郷の集落を順番に連想する。そのうちのひとつだけ、怪物がいない。そこでは怪物は人にまぎれて暮らしている。
 どちらの生活がいいのかは分からない。だから……彼はその答えを出しにここへ来た。
「そいつは結界の扱いにかけては卓抜した技量を持っていた。結界とは、世界創造。単なる神隠しの域を超え、世の法則の最も深き場所まで網羅した。そして怪物のいる世界を保存し、この博麗大結界の中で生きながらえる道を選んだ……」
 腕を組み、自嘲気味に笑みをこぼしてヴィクトールは間合いを取った。
 彼の故郷でも、紫がそうしたように無理やり地図の空白が広げられていたかもしれなかった。そうならなかった理由はどこかにあるのだろうか。どこかで二股に分かれた道の、こちらとあちらで二人が向かい合っている。
「欧州では怪物は死んだわけではないよ、心のスキマに生きている。まぁ、平和だ」
「あなたは結界を作って暮らそうというつもりはないのね……『領域を操る程度の能力』を持ってるのに、私とは正反対だわ」
「相変わらずその言い回しが好きだな。“物理学誑惑者”の通り名のほうが気に入っているんだが」
「当てこすりはその辺にしておきましょうか。つまり外の世界で生きているあなたが気になったのは、私でも結界でもない……ここで暮らす妖怪や人間たち。あなたから見れば、ここで生活する彼らは自然の流れからは外れた存在だもの。私達は人から生まれたけれど、運命を人に委ねた道と、決別した道。枝分かれした先が、果たして栄華だったか破滅だったか……」
 まさしく紫の言うとおりだった。
 彼は、怪物が人界に埋没した故郷のあり方を間違っているとは思わない。だが幻想郷の人も妖怪も、明日に確かな希望を持ちながら生きている。彼は旅をしながら、それを見てきた。
 おそらくどちらも正しいのだろうし、かといって万全でもないのだろう。幻想郷のほうがより楽園と呼ぶにふさわしいが、どう考えたって完全ではない。どちらがどう優れていると指摘することもできたが、興味はなかった。
「それと、もうひとつだ」
 そう、もうひとつ。
 こちらは紫に撃墜されてから目的に付け加えたことだ。以前から手は打っていたことだったので、来る前は大したこともなかろうと思っていたが、今では撃墜されてよかったように感じる。
「ここの住人は、全員お前と同じ考えでいるわけでも、なかろう。幻想郷は閉じた世界。外に世界があるということを、皆知っている。知っていれば……腕を伸ばしてみたくなるかもしれん。そして求めれば、いずれは翼を手に入れて飛び出していくかもしれん」
 紫はやはり彼の発言を予測していたようだった。眉根を寄せることもなく、日傘と扇を傾けて優雅な姿勢のままヴィクトールを見返してくる。
 この世に再び未知なるものが現れても、人間は克服してしまうか封印してしまうか、どのみち怪物の潜む余裕はないだろう。人が途方もない歳月をかけて生み出した科学という武器は、ヴィクトールの目から見てもほぼ確実な土台に根付いている。
 しかしそれでも科学の完全性は断言できない。怪物が人を圧倒する日を否定はできないのだ。もっとも彼はそんなこととは無関係に、幻想郷の殻を割る何者かの可能性をどこかに期待していた。
 彼は引き結んでいた口元をゆっくりと吊り上げながら、告げた。
「だが彼らの前には大きな壁が立っている。この世界を保存したお前は、幻想郷の世界観を変容させるものを決して許さない。幻想郷から旅立とうとするものは、お前に勝たねばならん。だが結界の内側で生きてきたものに、結界を操るものを倒す術はない」
 組んでいた腕を解いてマントの外に垂らす。不意打ちを旨とする彼の拳法において構えは存在しないが、打ち合いに備えた体勢を維持しながら彼はさらに続けた。
「旅人には剣が必要だ。幻想郷とは無関係な剣が」
「あなたとやりあうのは、さすがに骨が折れそうねぇ。収めて帰ってほしいわ」
「外様の私に剣の資格はなかろうよ。それに、すでに一振りこの地に忍ばせてある。幻想郷に入る前に、過去の力を封印した怪物……いやはや、そのときは剣に使うなど想像もしなかったが」
 大昔の話。
 大陸の奥地に、あらゆる悪行に関わったとされる邪悪の化身がいた。彼女は未知なるものの集大成だったが、彼が出会ったときは大陸吸血鬼として拳を交えたものだ。
「元は神を人の身に光臨させるため、憑代に選ばれた娘だったらしい。堕落に激怒した龍神によって一帯の集落は全滅したようだが、娘は生き残った。いや、死んで生き返ったというべきか……おかげで生きておらず死んでおらず、人でも神でもない、という怪物が大陸の闇を席巻することになった」
「“中国の闇”という意味の名前で呼ばれ、何百年か前にあなたに敗れて使用人になったんだったかしら」
 さして話に乗ってくるでもなく、どちらかというとつまらなそうに、紫は彼の台詞を先取りした。相変わらず余裕綽々な格好で流し目を送ってくるが、ヴィクトールが重心を低くした状態で相対していることを含めると、異様な状況ではある。
「なにせ大陸中の未知を吸収同化した怪物だ。あれが相手ではさしものお前も苦戦するだろうよ。とはいえ、式に力を封印して条件が同じ大怪物がお前の手元にいる上、博麗の巫女が敵に回ってはもはや勝ち目薄ではあるが」
「……旅先であちこち歩いて回ったのは、剣がどこにあるかをこっそり広めるためでもあったわけねぇ」
 紫は嘆息と共に額を押さえると、手を下ろす動作で扇をぱちりと閉じた。次いで傘を一回転させると、どういう仕組みなのか勝手に閉じて彼女の手に収まる。
 斜にヴィクトールと向かい合い、傘を地についた状態で彼女は声のトーンをひとつ落とした。
「あなたの言った通り、私は幻想郷を別物にしようとするものは許さないわ。あなたがそれを手引きするつもりだっていうなら、生かして帰すわけにはいかなくなっちゃうわね」
「押し通る」
「あら、本気出しちゃうわよ?」
 言葉が終わった瞬間、無数の攻防が二人の間で繰り広げられた。
 目に見えるものではない。紫が猛烈な勢いで結界を分割し、ヴィクトールを異界の狭間に叩き落そうとする。対するヴィクトールも境界の連鎖に拮抗するように領域を広げ、彼の支配域を堅持した。
 侵食と復元がきわどい釣り合いの元打ち消しあう。戦況が動かないことを見てヴィクトールは間合いを詰めようとしたが、それよりも紫が早かった。彼女が指でヴィクトールを指すと、あたりの暗闇を突き破るようにあちこちから光球が出現する。密度は凄まじく、速度に緩急もつけられていた。それらが全てヴィクトールへ殺到してくる。
 ――弾幕。
 大きく動くことは止め、彼は左手をぱちりとはじいて弾の動きに集中した。音と同時に自作のスペルカードが一瞬現れ、瞬時に消える。カードの力が彼の周囲に広がり、迫りくる弾幕に立ちふさがった。
 その領域に弾幕が接触すると、突然弾の大きさや速度、方向が変化して回避するだけの空白が生まれる。そこへ身体を滑り込ませながら、ヴィクトールは周囲に意識をめぐらせて結界を突破できるような部分を探した。このまま戦っても分が悪すぎる。
 弾幕の全てが彼の横を通り過ぎる頃――ヴィクトールは背後に揺らぎを感じて、ためらわず全力で結界を破りにかかった。注意しなければいけないのは、ここで攻撃されればひとたまりもないということだ。そう、侵入するときも似たような状況だった……
 目だけ向けると、紫は笑ったままで彼を見ていた。瞬きひとつ分の時間もない空隙だったが、今度は腕一本も取る気はないらしい。全くもって、嫌味な性格は変わっていない。
 その頃にはもう結界に穴を開け終わっていた。笑顔の彼女に皮肉のひとつでもくれてやろうかと一瞬考えたが、特に理由もなくやめることにした。飛び退って穴の中へ飛び込みながら、最後に一言だけ別れの挨拶を残す。
「ではな」
 それまでとは質の違う黒い空間に突っ込みながら、意外にも、
「またね」
 と向こうから返事が返ってきた。

   ■ ● ■

「――ぶめぎゃ! ぐぅ……うーむ、あの女狐め。どこが本気だ、逃がす気満々ではないか」
 黒い地面に激突し、押しつぶされた衝撃で悲鳴をこぼしてから立ち上がる。
 特に見渡すまでもなかったが、服の汚れを払いながら頭を巡らせると、そこはごく普通の林の中だった。結界の気配はない。幻想郷の外まで帰ってきたのだろう。
 いや――結界の気配がないというのは、語弊があるが。
 彼は狭い空を見上げてざっと星座を確認する。幸い彼の故郷と同じ高さに北極星を見つけたため、道順に困ることはなさそうだった。近くに林道が走っているのを見つけると、彼はそれにそって近くの人里まで歩き始める。
 ふと。振り返って結界の痕跡でも見定めるべきだったか――数歩進んだところでそう思ったが、特に意味もないと考え直した。幻想郷でやるべきことは大方すませたし、いまさら未練を残すでもない。そういえば彼の部下が結界の中に迷い込んでいたが、まぁ、どうにかなるだろう。
 彼は歩きながら、再び夜空を見上げた。あたりは深い暗闇で天には星が輝いている。あれらの星は遠い、本当に遥か遠い宇宙の彼方から届いてきた光だ。宇宙は広く、人間の感覚の及ばない深遠の果てまで続いている。その広さは、無限といっていいかもしれない。
 だが果てはある。どこかでこの宇宙も終わっているだろう。
 ヴィクトールは無意識に苦笑した。幻想郷に旅人を求めたのは、余興とは少し違う。最後の理由があった。
 単純な話だ――この宇宙そのものもひとつの結界と同じではないか。
 結界とは、世界創造。世の理を作り出すこと。
 紫がそうであったように、宇宙を生み出した誰かがいるかもしれない。宇宙の外に何かがあるのかもしれない……
 幻想郷が結界なら、彼の目に映る全てを同じ解釈で捕らえてもいいはずだ。幻想郷から巣立つ旅人が現れれば、もうひとつ外側の結界を巣立つ旅人が現れる可能性も、ゼロではない。
「常ならぬ世の理を……」
 彼は歩調はそのままでポツリと呟き、その言葉を背後のどこかへと向けた。
「末まつろわぬ箱庭に……」
 結界。無限にも見えるが、一つの言葉で表現できる限り果てはある。
「夢深き夜も眼冴え……」
 どれだけ果てが遠くても、その向こうを思い描くことはできる。
「旅人何処、幻想郷――さぁ、どうする」
 答えの出る日は、まだ遠い。
D「“星に願いを。彼の地に踏み入れよ、宙を舞い、我が手を取って……”」
C「あれ、警部。英語の歌ですか。外国の曲も聞くんですね」
D「おぉ、クロケ君。今帰りか」
C「えぇ、まぁ……って、なんですかこのふつー過ぎる会話!?」
 どーもー。
C「出たな変なの」
 お二人ともついにフランスに帰るときが来ましたね。いやあー、長かった。
D「長かったというか、ここ最近ゲームに没頭して全然キーボード叩いてなかったようだな」
C「前回、早く出すなんて公言したのに不精な作者ですねぇ」
 ……すみません。
D「ともあれこれでようやく完結か。あー、遠まわしなやり口の作者につき合わされて疲れた……」
 ドラクール警部には『紅を名乗れ』から出てもらってますからね。で、まぁ『メルレット』、『涅槃行』と続いて『ヴィクトール編』に入りまして、
D「私が去った後に、美鈴編の『ドレス』、『獣』、『クビになったら』。第二回SSコンペの『陽の下』で終了だな。一応、これで全部つながってるか」
C「え、なんですかそれ。そんな設定で話が作られていたんですか?」
 この話以外、各話完結のスタンスで作ってますけれどね。作中時間順に読んでいただければちょっとは見方も変わるかもしれません。
C「変態だ……」
 おかげでこの話書くのえらいきつかったですよ。伏線全部詰めるつもりでストーリー立ててたので、もうパンクしちゃって何がなにやら……修行不足でした。
D「あぁ、そうだった。読者諸氏。作者の趣味でやたらと小説やゲームからの引用が多い作品になっているが、私やクロケ君は元ネタ無しらしいぞ。念のため」
C「うー、結局僕の出番はあとがきだけかぁ。ねぇ作者、僕主役で何か書いてくれないかしら」
 もはや東方じゃないでしょ……それよりも大神二周目やRaidersのネット空戦を楽しみたい。素直にそう思う。
D「返す返すも不精者め」
 そういうわけですので、あとがきはこの辺で終わりにいたしましょう。読者の皆様方、楽しんでいただけたのなら幸いです。
D「ではな」
C「それでは、失礼します」
腐りジャム
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コメント



0.1870簡易評価
16.90翔菜削除
>宇宙そのものもひとつの結界

あぁ、……スケールがデカイ、けれどなるほどなぁ、と頷いてしまう。
今まで匿名評価での最高点を投じて来ましたが、ここに来てコメントが思いつかないから、というのもないでしょう。
これまでの話のタイトルが出てきたところは何だか色々と凄い物を感じました。

とてもよかったです。
32.50削除
34.100MIM.E削除
世界観、ヴィクトールの性格、そして東方との関係。
大きな大きな物語がとても好きです。大好き。