見事に咲き誇り、見る者すべてを魅了した薄桃色の花びらも散り、
代わりに命の息吹を感じさせる青葉が台頭してきた早月も中旬に入った。
だんだんと日差しの強さが増し、汗をかきやすくなるこの季節。
そう、初夏の到来だ。
若葉萌ゆる山々に、さんさんと降り注ぐ太陽の恩恵。
しっとりと湿度を含んだ風が吹けば、もうすぐやってくるであろう梅雨の臭いがする。
今年は春先の雷もなかったことだし、天の恵みは滞りなく降ることだろう。
ただまだ梅雨には早い。
今降り注ぐのは暖気をもたらす日の光。
そんな洗濯し甲斐のある、とびきりの晴天に季節を感じる妖怪が一匹。
見上げれば雲一つない蒼天が広がっている。
遮るものなく飛び込んでくる日輪に、彼女は目を細めた。
「この調子なら午後には乾いているだろう……」
はたはたと風になびく洗濯物と日光を見比べて、満足そうにほほえむ。
家事労働をするものにとって、天候を見定めるのも仕事のうちだ。
金色の九尾を背後に揺らし、その妖怪は縁側へと歩き出す。
朝からずっとこなしていた家事も、この洗濯で一区切りついた。
よっこらしょ、と見た目とは裏腹に少々あれな台詞と共に腰を落ち着かせる。
朝ご飯の支度から、庭の掃除、そして洗濯と忙しく駆け回っていたため、
いくら強い妖力を持っている彼女といえど、疲れてしまったらしい。
体力と妖力は比例するわけではないのだ。
家事労働に勤しむ彼女は八雲藍。
この迷い家での一切の家事を取り仕切り、いつも寝てばかりの主人の代わりに、
この家を守る式神である。
守ると言っても、訪問者は殆どいないため、その役割を果たすことは皆無に等しい。
それもそのはず、ここは幻想郷でも辺鄙の辺鄙。
まず意図的に近づこうとしなければ、近寄ることすらままならない。
そんな場所にあるからこそ、平和な日々が送れるのも事実である。
☆
その日の夕方。
すっかり乾き日の香りのする洗濯物を取り込む藍の耳に、彼女の主の声が届いた。
帽子の下に隠れていても、その両耳は人間のそれを遙かに凌駕するため、
この敷地の中ならばどこにいても、主の言葉が聞こえるのだ。
それはすなわち、呼んだらすぐ来いという命令でもあるのだが。
「お呼びですか?」
主、八雲紫の部屋までやってきた藍は、お決まりの言葉で用件を尋ねる。
そして帰ってきた主の用件とは――
「今から白玉楼に行くから準備してきなさい」
「は?」
「聞こえなかったの? あの距離で私の言葉が聞こえた耳にしてはニブチンね」
いや、そういうわけではない。
白玉楼に行くこと自体はよくあることなので驚きもしないのだが。
藍にもついてこい、というのはあんまりないことなのだ。
普段なら、今から行ってくるから留守番よろしく、というのが普通なのだが。
しかし藍が白玉楼に行くことになったのは、これが初めてのことではない。
あまり行かない、というだけの事であって、先ほどのものは驚きと言うより意外だったので、
そのように聞き返してしまったのだ。
「わかりました。なにかお土産を持参した方がよいですか?」
藍の申し出にうなずく紫。
台所に外界で手に入れたお酒があったから、それを持って行きましょうということなる。
だが、その前に……。
「紫様、まずはその寝乱れた寝間着をどうにかしてください。
従者たる私の前だから良いものの、橙には教育上あまり見せられない光景です」
「あらあら、教育熱心ですこと。そんなに気になるなら手伝って?」
藍はため息をつきたくなるのをぐっとこらえ、主の着替えを一から十まで手伝うのだった。
さて、着替えも終わり、簡単に朝食――時間的には晩飯だが、紫の場合は起きてすぐの
これが朝食なのである――も摂った後、ようやく白玉楼へと向かうことになった。
時刻はすでに夜中の11時を回っている。
そんな時間に訪れて迷惑ではないのか。
いや迷惑ではないのだ。
というのも白玉楼は冥界にあり、そこに住んでいるのは亡霊幽霊ばかり。
知っての通り霊は夜中に活発に動く。
紫のライフスタイルも完全夜型のため、ちょうど時間が合うのだ。
それよりなにより、紫は“迷惑かどうか”を考える概念など持ち合わせてはいない。
「橙、おまえも行くか?」
眠たそうに目をこすり、玄関口まで見送りに来てくれたのは小さな女の子。
その頭からは三角形の耳が生えており、彼女が人外のものであることを表している。
背中では二又に分かれた尻尾がゆらゆらと動いている。
この子は橙といい、藍の式神としてこの家で生活をしている猫妖怪だ。
もう子供は寝てて当然の時間なので、本当は留守番をさせておくのだが、
今回は自分も出かける。
もしものことを考えると、橙を一匹で家に置いていくのは気が気でない。
「行きたくなかったらそれでいいんだが」
「うー……藍様がそう言うのなら、ついていきま」
す、と言いかけたところで橙が大きな欠伸をした。
口内の可愛らしい八重歯も丸見えだ。
「橙、はしたないぞ。女の子ならもう少し恥じらいを持ちなさい」
「はぁーい……」
それでも眠たそうに欠伸をかみ殺している。
「それで? やっぱり行くのはやめておくか?」
今にも寝そうな橙を、無理強いしてまで連れて行くのは可哀想な気がしてきた藍。
しかし橙にとっては、置いてけぼりにされる方がよほど嫌だったらしい。
「行くぅ」
藍の服の裾をつまみ、留守番を拒否する。
「わかったわかった。だからそんな目で、しかも上目遣いで私を見るな」
結局、橙を背負い白玉楼へと向かうことになった。
幻想郷の上空には巨大な門がある。
冥界への入り口である結界門だ。
無縁塚で冥界行きを下された魂ならば簡単入ることができるが、
それ以外の存在は頑なに拒否されている。
ただし力のある者は扉を開けることも可能だ。
それにある事件があってから、冥界と顕界との行き来は以前よりもたやすくなっている。
その門を抜けた先、この世のものとは思えない――いや、本当にそうなのだが――
広さを誇る庭が出迎えてくれる。
二百由旬の広さをもつという白玉楼の庭。
ここはいつ来ても程良く暖かい。
「紫様、藍さん、ようこそおいでくださいました」
庭の中心に位置する白玉楼に入ると、二本の刀を腰に差した少女が一行を迎えた。
この白玉楼、ひいては冥界を統治する西行寺幽々子の従者、魂魄妖夢だ。
主から紫達が来ることを聞いていたのだろう。
「ぐっもーにーん、相変わらず真面目ちゃんねぇ」
くりくりと妖夢の頭を撫でる紫。
久しぶりに会った親戚の子を可愛がる叔母さんのようだ、などと本人には決して言えない。
「幽々子様がお待ちです。どうぞこちらへ」
髪を整えながら、前を歩き出す妖夢。
その後を紫、藍が続く。
橙はまだ藍の背中でお休み中だ。
たぶん今日はこのまま寝続けることだろう。
「あらあら、よく来てくれたわねぇ。待ってたわぁ」
ほんわかした笑顔を浮かべているのが、この白玉楼の主西行寺幽々子だ。
フリルのついた和服っぽくない和服を着こなし、目の前に置かれた草団子を、
一気に三本まとめて……
「良い、食べっぷりですね……」
それをスピードを落とすことなく、三本、三本、また三本。
見ただけでも十人分は用意されていた草団子があっという間に消えていく。
藍が呆然とするのもうなずけるだろう。
幽々子は立ち居振る舞いは優雅なのだが、食べることに関しては殊更意地汚い。
意地汚さで言えば、藍の主人である紫の寝る事に関しての意地汚さは同レベルだが。
「幽々子様……それは皆さんの分もあわせて用意していたんですよ?
それをお一人で全部食べてしまうなんて……」
お茶を持ってきた妖夢も、さすがにため息をつく。
いつもながら苦労をしているようだ。
「いいのよ、妖夢。私達は食べてきたばかりだから」
「そうですか……申し訳ありません」
「そうそう、謝るときは丁寧にねぇ」
「誰の代わりに謝っていると思っているんですかっ」
「私でしょう?」
「分かっているから、尚のことたちが悪いですね……」
なんだかんだで息が合っているのは、流石というべきだろう。
それだけ長い時間を共に過ごしてきているのがよくわかる。
しばらく互いの近況を話した後、紫と幽々子は縁側で酒を飲むと言って部屋を出ていった。
あの二人のことだから、酒を飲んでも呑まれるようなことにはならないと思われるが、
どことなく心配してしまう。
それは隣でようやく一息ついている妖夢も同じ事だろう。
「藍さん」
藍が見ていたことに気がついたのか、妖夢の方から話しかけてきた。
しかしその顔がどことなく暗いことに、藍は引っかかりを感じた。
「どうしたんだ?」
「少し……相談したいことが」
「それで私が呼ばれたのか……」
別に何かのイベントがあるわけでもないのに、自分が呼ばれたのには理由があるとにらんでいた。
きっと紫を呼ぶことを知ったときに、藍に話があるとでも言ったのだろう。
幽々子が紫を誘って部屋を出ていったのも、妖夢の意図を知っていたからだ。
やはりなんだかんだで良い関係を築いている。
「それで話とは」
「はい、実は……」
「どうすればもっと幽々子様を信頼できるのでしょうか?」
良い関係に見えているのに、妖夢の口から出たのはそれを否定するような内容だった。
一瞬の逡巡の後、藍は静かに口を開いた。
「どうしてそう思うのか……なんとなく分かる気もするが、それを聞いて
どうするつもりだ? 私は所詮紫様の式神であって、おまえではない。
おまえが最も良いと思える方法で幽々子嬢を信頼していくしかないのではないか?」
「それは、そうですが」
うつむく妖夢。
彼女が真面目で、誰よりも幽々子を信頼しているのは端から見ていてもよくわかる。
しかし幽々子は行動が行動なだけにどう察して良いのかわからなくなるのも事実だ。
それに妖夢はまだ自分自身を頼りない従者だと思っている。
まあ確かにその通りと言ってしまえばそうなのだが、この弱気もそんな所から生じているのだろう。
こういう問題は急を要した状況でない限り、時間が解決してくれるものである。
幸い半人半幽霊の妖夢と、亡霊嬢の幽々子にはその為の時間はまだまだ残っている。
「それを模索していくのも従者の役目。その関係に悩むのは、おまえがまだ未熟だからだよ」
「だったら、藍さんは紫様を信頼しているんですよね?」
「そうくるか……」
くつくつ、と困ったような笑みを浮かべる藍。
しかしその笑顔はどこか楽しそうにさえ見える。
「そうだな……少しばかり長くなるが構わないか?」
「私は構いません。幽々子様達も、飲んでいればまだまだ戻っては来ないでしょうし」
「そうか、ならば話そう。私が紫様を信頼に値する存在だと認めた日のことを」
それを語るには最初から話そうか。
いや、本当はそんな必要はないのだが、私が話したいんだ。
聞いてほしい。
それは、私がまだ妖狐藍として生きていたずっと、ずーっと昔のことだ。
★
幻想郷と外界との区別がまだ曖昧だった時代。
人間と妖怪は互いの領域を意識し合いながら、微妙なバランスを保ち生活していた。
それぞれの領域を侵せば妖怪は人間を喰い、人間は妖怪を退治する。
一見敵対しているように見えるがそうではない。
人間が人間であり、妖怪は妖怪であり、それながらバランスを保つには、
このような関係が最も好ましいのである。
そんな時代に、ある一匹の大妖怪がいた。
妖狐族の中でも、九尾をもった最強の実力者の一匹。
それでいて性格は穏やかで頭もキレるため、仲間からの信頼も厚かった。
単独行動を好む妖怪が多い中、彼女の元には数十匹の妖狐が集まり暮らしている。
それだけ彼女の人徳、いや妖怪徳が篤い証拠だろう。
この九尾の狐こそが、現在の八雲藍の過去の姿である。
藍はいつものように食料探しを兼ねた、縄張り内の偵察していた。
この辺りは妖狐の巣窟として知られているたので、人間は近寄らない。
元々人気の少ない山奥を住処に選んでるため、よほどの物好きでもないかぎり
ここを訪れる人間はいない。
それは人間との諍いを未然に防ぐために、と藍の考慮によるものだ。
別に人間を喰わなくても別のもので食料はまかなえる。
山菜、猪、雉、川魚。
探せばいくらでも食料になるものとは遭遇できる。
それもここが人の手が入っていない山だからこそだ。
今日も侵入者はいないようだ。
藍は今日の食料である川魚を魚籠に入れて、住処への帰り道を急いでいた。
しかし、その足が急に止まる。
それはこれまで感じたことのない気配。
目で、耳で、鼻で、肌で。
全身を使って周囲の様子を探る藍。
突然感じた強大な力に、警戒の色を強める。
そしてそれは唐突に現れた。
「美味しそうな魚ね」
目の前が空間がぱっくりと裂け、そこから顔をのぞかせる女性。
金髪のふわふわした髪、異国の衣装を身に纏っている。
それなのに顔立ちはこの国の人間のようだ。
その衣服とのズレが、奇妙な怪しさを醸し出している。
見た目は人間だが、そのただならぬ雰囲気が彼女が人外だと教えてくれる。
そして彼女が怪しいのは見た目だけではない。
顔は笑っているが、その裏では何を考えているか分からない。
それだけ見た目と内面に含む力に差がありすぎるのだ。
「何者だ……見たところ異郷の妖怪のようだが」
「私は八雲紫。最近この辺りにやってきたの。よろしくね」
これが藍と紫、初めての邂逅の時である。
「こちらはあまりよろしくはしたくないが」
「あらあら、突っ慳貪な態度ですこと……」
言葉とは裏腹に紫の顔には楽しそうな笑顔が浮かんでいる。
その様子に藍の警戒はさらに度合いを増す。
「あなた……なかなか強い妖力を持っているようだけど、その力で侵略とかはしないのね」
「当たり前だ。私の力はそんなものの為にあるのではない」
「ふぅん……だったらどんな事のためにあるのかしら?」
「無論、仲間達を守るためだ」
何の迷いもなく答える藍に、紫は目をぱちくりとさせる。
それだけ意外だったということだろうか。
いや、そうではなかった。
「あははははっ」
突然腹を抱えて笑い出す紫。
馬鹿にされたと見なしてよいだろう。
温厚な藍もさすがに腹が立つ。
「何が可笑しい」
「だって……自分の力をろくに使いこなせないような妖怪が仲間を守るだなんて」
藍はその言葉に噛みつくのではなく、むしろ吃驚した。
紫に言われたとおり、実のところ藍はまだ最大限の力を使いこなすことができないでいるのだ。
それを一目見ただけで看破する紫。
「それは分かっている。だが、それでも私は私の力を仲間のために使う」
「実直ね。でもその真っ直ぐな心意気、嫌いじゃないわ」
その心意気を表して、と紫は続けた。
「来て早々嫌な話を聞いてね。最近妖怪退治を生業としている陰陽師が、
この辺りにやってきているそうよ。人間達がだいぶ驕り高ぶってきているのは
前々から知っていたけど……ちょっぴり厄介な相手らしくてね。
何を隠そう私がこっちにやってきたのも、そいつと出くわすのが面倒だったからなの。
それなのにそいつもこの地方にやってきていたなんてね」
「忠告感謝する。お互い気をつけよう」
「そうね。でも私は私一人の身を守れば良いだけ。あなたは仲間がいるんでしょ?
だったら私以上に用心しなきゃ、ね」
「言われるまでもない。そうだ、これは情報量として受け取ってくれ」
藍は魚籠から一匹魚を取り出すと、紫に差し出した。
「あらあら。そんな気はなかったんだけど……くれるというならもらっておくわ」
本当はねらっていたのだろう。
視線がちらちらと魚籠にいっていたのを知っていたからこそ、藍は魚を渡したのだ。
藍は別れを告げると住処へと帰って行った。
それを見送りながら、紫は何か思案するようにただその場に立ちつくす。
しばらくして何か結論が出たのか、再びスキマの中へと消えていった。
★
それから数日後。
紫から聞いた陰陽師の噂は、短期間の内に近辺の妖怪すべてが口にするようになった。
本当にこの辺りまで来ているらしい。
昨夜はついに攻撃を受けたものまで現れたという話が出た。
「藍様、いかがいたしましょうか」
群れの中では藍の次に実力を持つ妖狐が尋ねてきた。
さすがにこのまま放っておく訳にはいかないと他の妖狐族も思い始めたようだ。
「そうだな……ここから離れた場所にある滝の裏に洞窟がある。
滝の勢いを殺ぐほどの妖力を持つものでなければ入れない天然の結界に守られた洞窟だ。
そこにいったん身を隠し、ほとぼりが冷めるのを待つのが賢明だろう」
あくまで戦うことはしない。
なによりも仲間を守ることを第一に考える藍の意見に、物申した妖狐も同意する。
移動はその日の内に、速やかに行われた。
移動が済んでから、三日後。
食料を調達するべく山の中を散策していた藍。
金色の九尾を左へ右へと揺らしながら、手慣れた様子で山菜を摘んでいく。
後は魚か獣を捕らえれば今日明日の食料は確保できるだろう。
だが、散策に出たもう一つの目的は達成できなかった。
それは例の陰陽師を見つけること。
姿形も分からないものから身を隠すよりは遙かに安全だからだ。
しかし妙な気配も人間独特の臭いも察知できない。
どうやらまだこの辺りまでは来ていないようだ。
そのことが確認できただけでも良しとしよう。
「なら早く食料を届けてやらないとな」
ここ数日、ずっと洞窟に閉じこめっきりで心労もたたっていることだろう。
数十匹の妖狐が充分に入る広さを有しているとはいえ、
閉鎖された空間であることにかわりはない。
妖怪も人と同じで、塞ぎ込まれた空間にいると何故か気分まで塞ぎ込んでしまうのだ。
早くこんな生活からは解放してやりたいのだが、その為にも陰陽師とやらには
さっさとこの地をご退散願いたい、そう思いながら洞窟へと足を向ける藍。
しかし洞窟に近づくごとに、藍は不穏な気配を強く感じていた。
強くもなければ弱くもない。
対して気にとめるほどの力量でないのは確かだが、感じるだけで気分が悪くなる。
紫の気配は得体は知れないが、もう少しはっきりとしていたはず。
ならばこれは誰の気配だ。
自然と歩くスピードも上がっていく。
その気配を感じる度合いが増すごとに、藍が感じる不安も同時に増す。
嫌な予感が、とてつもなく嫌な予感がする。
そして滝の前までたどり着いたとき、頭に直接心臓の鼓動が聞こえそうなほど
藍は焦っていた。
精神を集中しなければ、この滝は裂くことはできない。
しかし藍がそれに成功したのは何度か失敗してからのことだった。
いつもならそんなことはない。
それだけ彼女が平常の精神を保てなくなっているいうことだ。
そして焦る気持ちと共に、駆け込んだ洞窟で彼女が見たのは。
「まだ一匹残っていたか……」
目の前で最後の一匹が、たった一人の人間の手によって為す術もなく消滅させられる光景だった。
霧のように霧散する妖狐。
その霧状になった仲間は、その消滅させられた人間の体に吸い込まれるようにして消えた。
洞窟の中にいた藍の仲間は誰もいない。
いや、確かにいたはずだ。
彼らの気配の残滓が、たった今までここにいたことを感じさせる。
「何をした……」
「妖怪退治だ。何十匹も妖狐が屯していると噂を聞いてやってきたが正解だったらしい」
目の前にいる男は何事もなかったように手を払うと、藍の近くまで歩いてきた。
気配から察するに人間であることは間違いないらしい。
だがその人間は妖怪である自分を全く畏怖する様子を見せない。
「私達は人間に危害を及ぼさないように、ひっそりと生きてきた……それなのに」
「いずれは妖怪と人間、どちらかが滅びねばならない。ならば私は、私が人間である以上
人間の側につくのが当たり前というもの。妖怪はすべからく退治する」
札を取り出し、戦う構えを取る。
「たった、たったそれだけのことで……」
「これからの人間と妖怪の関係を考えれば、それだけとは言い難いが」
もはや精神を制御することなどできはしない。
守るべき仲間は今すべてなくなった。
守るべきものを失った今、この力はどう使えばいい。
そんなこと知れている。
目の前の人間を殺せばいい。
怒りと憎しみの奔流が、これまでセーブしてきた力の蓋をいとも容易くぶち破る。
今まで使ったことのない妖力が全身を包むのが感じ取れる。
だが藍の意識がはっきりと覚えていたのはそこまでだった。
「ほぅ、九尾の全力か。少し手はかかりそうだが」
男は、力のすべてを解放した藍を前にしても一寸の取り乱しも見せない。
むしろ強い妖怪と遭遇したことを喜んでいるかのようにも見える。
「さて、おぬしの力は“我が能力”を打ち破ることができるか?」
どんな言葉も今の藍には届いていない。
だが陰陽師もそれを承知の上で話をしているらしい。
いや、相手の成り立たない話は話でなく独白と言うべきか。
「ゆる、さない。ゆるさ、ない……」
藍は譫言のように同じ言葉を繰り返しながら、ゆらりゆらりと陰陽師へと近づいていく。
そして攻撃にも防御にもちょうど良い位置まで来ると、ぴたりと足を止めた。
意識は失っていても、戦闘に対する感覚が自然と行動させているらしい。
金色の九尾が風もないのに揺れる。
それは藍の体から発せられる妖気が尾へと注がれ、まるで意思を持っているように動いているのだ。
尾から立ち上るだけだった妖気が、突然その流れを変えて陰陽師へと向く。
次の瞬間、なんの予告もなく妖気の流れは具現化されたエネルギーへと変わり、
攻撃の手段となって陰陽師に襲いかかった。
尾から流れ出す妖気は、九つの奔流を生み出し多方向から陰陽師に襲いかかる。
「成る程、本能だけで戦っているにしては良い攻撃だ。だがそれぞれの流れが単調すぎる。
この程度ならば避けるのは容易いぞ」
陰陽師は言葉の通り、鮮やかな動きで藍が放った九つの攻撃波をすべて避けきった。
だが藍は攻撃の手を休めない。
次々と妖気を発し、攻撃へと転換させていく。
「当たらないなら数を増やすか……短絡的な思考だな」
だがある意味では有効な手段ともとれる。
藍の攻撃自体は強力なものだ。
当たれば強い、だが当たらない、避けられてしまう。
ならば避けられないようにすればいい、避ける間のない程の攻撃を行えばよいのだ。
決して効率が良い戦い方とは言えないが。
「避けられはしない、か。だが……」
陰陽師は確実に当たるであろう攻撃を前にしても、まったく動かない。
だがそれは諦めているからではない。
それは彼の変わらぬ表情がそれを物語っていた。
そしてすべての攻撃が彼へと集中し、目映い光彩が洞窟内を明るく激しく照らした。
「……これは」
勝った、と確信したからであろうか。
藍の意識がようやく平常のものにもどった。
あまり記憶は鮮明ではないが、どうやらあの陰陽師と戦っていたらしい。
なんとなく体が覚えている。
今まで自分が放ったこともない妖力による攻撃。
そしてその攻撃は陰陽師に命中したようだ。
一つ一つが強力な攻撃なのに、すべてが命中したとなれば無事では済むまい。
だが、光が収まったとき、彼は変わらぬ姿でそこに立っていた。
傷どころか埃一つかぶっていない。
「やはりお主の攻撃では、私の『妖力を無効化する程度の能力』は破れないようだな」
「なっ」
妖力を無効化する程度の能力。
それは妖怪に対してほぼ無敵であるということを意味している。
「私が陰陽師になったのは、この力が備わっていたからだ。妖怪の術や攻撃は
すべてその妖怪の妖力が引き起こすもの。不可思議な術も強力な攻撃も、
妖力という人外の力によるものなのだ。それを無効化できれば、
妖怪など恐るるに足らぬ。もう攻撃の手段はあるまい。正気にもどれば先ほどまでの
攻撃もできぬだろうしな……そろそろ終わりにさせてもらおう」
陰陽師が一歩一歩近づいてくる。
しかし、彼が言ったようにもはや藍に彼を攻略する手だては残っていなかった。
それに先ほどはなった攻撃によって、妖力が底をつきている。
物量作戦はその疲弊が激しいのが最大の弱点である。
さっきは後先を考えることもできなかったからこそ、あの攻撃を行ったのだ。
もしあれでとどめが刺せていたのなら、結果良しで済んだのだが、
生憎あいては生きていた。
しかも無傷である。
力のない藍と力の余っている陰陽師。
もはや勝負にもならないのは明々白々の事実。
「仲間の元へ逝け」
動けなくなった藍に、陰陽師は札を貼った。
そして呪詛を唱え始める。
同時に藍は、残りわずかの妖力がさらになくなっていくのを感じた。
いや妖力だけではない。
体中のありとあらゆる力がなくなろうとしている。
「おまえの生命力。私がもらい受ける」
「ぐぅっ……」
札を通して、藍の生命力を吸収する陰陽師。
そういえば仲間も吸収されていたように見える。
「これは能力とは別に私が会得した呪術だ。痛みを与えることなく妖怪を消滅させる」
だが消滅させることに変わりはない。
藍はしだいに自分の肉体までもがなくなろうとしているのを感じ始めた。
もうわずかな時間も残されていないらしい。
だが、終わりの時は訪れはしなかった。
突如藍の下の地面がばっくりと割れ、藍はその中へと落ちていった。
陰陽師が手を伸ばすも、寸分の差で藍の体はそのスキマの中へと吸い込まれた。
★
目を覚ますと、そこには紫の顔があった。
金の長髪が顔にかかってむず痒い。
そこは洞窟の中ではなく、誰も住まなくなった民家の床上だった。
どうやら紫に助けてもらったらしい。
「紫……」
「まだ起きられないでしょう? そのままで構わないわ」
紫の言うとおり、藍の体はまったく動かすことができない状態だった。
それもそのはず、陰陽師に力という力を吸い取られたのだから。
「ずいぶんこっぴどくやられたようね」
同情するでも哀れむ風でもなく、紫は事実を事実として口にした。
だがそれに対して反論する理由も気力もない。
「あぁ」
藍が口にしたのはその一言だけ。
だがその一言に今の彼女の気持ちすべてが込められていた。
「そう……あぁ、そういえば。あなたの耳に入れておきたい話があるの」
「なんだ」
紫の笑みに邪悪な陰が指す。
見ている者に禍々しさを感じさせるとてつもなく嫌な笑み。
「あの陰陽師が、どうしてあの洞窟のことを知っていたか……気にならない?」
藍の瞳に強い光が宿る。
それは陰陽師に向けた瞳と同じもの。
「実はね、あの場所を教えたのは……私よ」
どくん、と心臓が大きく脈打った。
今なんと言った?
仲間の居場所を教えたのはこいつだと?
「ふふ、さぁ、どうする?」
「知れたこと……おまえを」
「私を? 殺す?」
あの男といい、この女といい、いったい私達が何をした。
こんな仕打ちを受けなければならないようなことはしていない。
むしろこんな目に遭わないように生きてきたのに。
憎しみと怒りが全身を支配していくのが分かる。
だが、
「体が、動けばな」
憎しみが体を支配しているが、攻撃に転じられるほどの体力も妖力も残っていない。
戦えないからか、それとも戦っても意味がないと思えたからか、藍は正気を保っていた。
「まぁ、冗談はさておき」
突然紫の雰囲気が先ほどのまでの胡散臭いものにもどる。
あれだけ強く発していた邪気は欠片すら残っていない。
それにしてもこの状況下で、しかも最も最悪な冗談を言うことができるなど神経を疑ってしまう。
そのとんでもな発言に藍の怒気も殺がれてしまった。
「じょ、冗談だと?」
「そうよ。言ったら殺されるかも知れない相手にわざわざ言う馬鹿が何処にいるというの」
何処まで本気なのかが全くつかめない。
だが言っていることは最もだ。
「……確かに」
それに対して自分は物事を冷静にすら考えられなくなっている。
それだけまともに物事が考えられなくなっていたということだ。
そんな藍を見た紫はわざとらしく大きなため息をつく。
「嘘も見破れず、本気の力を扱いこなすこともできない。
これが本当に狐守の天狐と謳われた大妖怪なのかしら」
「そんな異名がついていたのか」
「有名よ。力があるのにそれを使うことをしないから、本気が出せなくなった妖狐」
「ふふ、バレバレだったという訳か」
藍はようやく笑みをこぼした。
紫の包み隠さない言動がやけに快く聞こえ、それに釣られたらしい。
「これでだいぶ話も通じるわね」
「すまない。仲間が殺されたせいで気が動転していたようだ」
「ようだ、じゃなくて。実際そうだったのよ。……とりあえず話を進めるわ。時間もないし」
「時間?」
「あなたに残された時間よ」
あぁそうか、と納得する。
もはや体力も妖力も底を尽きた。
このまま放っておけば回復するより先に肉体が消滅するだろう。
紫が言っている時間とはそれまでに残された、つまり藍の余命のことを指しているのだ。
「このまま消えても良いなんて思っているんでしょうけど……本当にそれで良い?」
「なんだ、心配してくれているのか?」
「似たようなものよ。ただでさえ妖怪は幻想のものになりつつあるのに。
これ以上仲間が消えるのは、私としてもやっぱり、ね」
意外にも人間くさいことを言う紫。
そうかと思えばさっきの冗談のようなとんでもないことを言ったりするから得体が知れないのだが。
「悔しくはないの?」
「仲間を殺されたことか?」
悔しくないと言えば嘘になる。
あの陰陽師への憎しみはそう簡単には消えはしないだろう。
「いやいや、そうじゃなくて」
紫はひらひらと手を振り否定の意を示す。
「あなた自身よ」
「私?」
「大妖怪としての実力はかなりのものなのに、その力を使いこなす術を知らない。
賢いようでいざとなると感情的になって、まともな判断ができない。
そんな未熟なままで消えても悔しくない?」
「本当に躊躇いがないな」
「事実を事実として言ったまでよ。それよりどうなの? 悔しいの、そうじゃないの?」
そして私は八雲紫の式神、八雲藍として、新たな道を歩むことになった。
~後編へ~