都から遠く離れた小さな村。
現在に至っては名前すら残っていないほど小さな寒村にひとりの女がいた。
女は官吏の家の一人娘で、器量も良く、文章、詩を書かせれば村一番だった。
女には昔から思い人がいた。
男は貧しい農家の生まれであったが、学業が秀でており生員であった。
両親も科挙に合格することを条件に娘を嫁がせることを承諾した、いわば許婚の関係であった。
村の誰もが羨みながらも納得する、仲睦まじい二人であった。
……しかし、その幸せは長く続くことはなかった。
男が科挙の試験に向かう道中、夜盗に襲われて無残な最期を遂げたのだ。
女は大いに嘆き悲しんだ。
寝食を忘れて部屋に籠もり、枕元は常に濡れ、時折が起き上がれば神に祈りを捧げる日々。
それが三日程続き、女の小柄で慎ましやかな身体は木偶のようにやせ細り、目元は幽鬼の如く落ち窪んでいた。
両親は娘の悲嘆ぶりにただただ心を痛めるばかりであった。
その晩、いつも通り祈りを捧げた女は床に就いた。
焚いた香の匂いが御簾の中に充満し、梅雨で重くなった空気がどんよりと漂う夜であった。
風はなく、四方いずれからも聞こえる雨音がこの部屋を外界から切り離してしまったのではないかと思えるほどに、――静かだった。
女は思う。
男ともう一度出会えるのならば、獄卒すら恐れはしない。
城隍神、閻魔王だって欺いてやろう。
泣き腫らした目で虚空を睨みつけながら女は誓う。
――すると、不意に静寂が訪れた。
先程から絶えず地を叩いていた雨音すら聞こえない、完全な静寂。
女はハッとして身を起こそうとするが、まるで首から下が存在しないように身体はピクリとも動かない。
自分の身勝手な決意が神の怒りに触れたのだろうかと、女は顔を蒼くする。
しかし、それでは男は還って来ない。
……何を戸惑う、自分はいま閻魔王すら欺くと心に決めたではないか。
決意を新たに、思い通りになる顔だけを使って必死に憤怒の形相をつくる。
そうこうしている間に枕元に人の立つ気配がする。
それは上等な着物で身を包んだ老爺であった。
老爺は口を開く。厳かで直接脳に響くような声が波紋を広げるように女へと吸い込まれていく。
「我は玉皇大帝。お前の男を思う気持ち、決意、我が元まで届いていた。
お前の今までの献身的な態度と善行に免じて、ひとつだけ願いを叶えてやろう。」
そう告げると老爺の手に二枚の札が現れる。
「これは現世と冥府とを繋ぐ手形。一枚にはお前の名を書き、もう一枚にはお前の戒名を記せ。
本名の札がある限り、現世はお前を何事もなかったかのように迎え入れ、
戒名の札がある限り、お前は冥府で獄吏として扱われるであろう。
明日の晩、日の出までの間、現世と冥府を繋ぐ道を開ける。
お前はその道を通り冥府から男を連れ出すのだ。
男を連れ出したら、戒名の書かれた札を折れ。
すれば冥府との道が塞がれ、獄卒たちはお前達を追いかけてはこない。
決して先に本名を書いた札を折ってはいけない、それを先に折ればお前は冥府の人間となってしまう。
ただし、これは明日の晩……一晩限りだ。そのことを肝に銘じておくが良い。」
そう告げると、老爺の姿は淡い光に包まれて消えていった。
同時に身体の感覚が戻ってくる。
雨の音も何事もなかったかのように聞こえていた。
女は夢か幻を見た心地になりながらも、布団から身を起こした。
半信半疑になりながらも女は枕元を見回すと、――そこには二枚の札が確かに置いてあった。
翌朝、女は何事もなかったかのような晴れやかな顔で両親の前に現れた。
両親は安堵し、目元に涙を溜めながら娘を抱きしめた。
女は今まで欠けていた生気を取り戻すように食事を摂り、身体を清め、化粧を施した。
両親には娘の行動に疑問を抱くことなく手を取り合って喜んだ。
娘が時折浮べる鬼気迫る笑みなど、涙で曇った瞳からは全く映りはしなかった。
その夜も外は雨だった。
人を拒むかのように降り注ぐ雨は女にとって寧ろ好都合であった。
両親や召使に悟られぬよう庭へ出ると、青白く光る紫陽花が女を出迎えた。
藍よりも青い紫陽花は一列に並んでおり、雨で視界が悪くなっているとはいえ無限に続いているように思えた。
女はその異様な光景にしばし呆然としながらも、これは玉皇大帝が冥府への道標と用意したものだと思い紫陽花の脇をひたすら歩いた。
紫陽花は進めば進むほど色を青から赤へと転じていき、いまや見るも不気味な血が凍えたような色の花が辺りを覆っている。
気がつくと雨は音だけとなり、女は濡れた着物を引き摺るように一向に視界の晴れぬ闇を歩き続ける。
道標であるはずの紫陽花も色彩を失い、徐々に闇に溺れていく。
そして完全に辺りが闇に覆われたとき、果てに一筋の光明が見えた。
女はすぐさま目標を切り替えて真っ直ぐにその光へと進んでいく。
歩き始めてから幾程の時間が過ぎたか女にはわからなかった。
否、わからないからこそ『止まってはいけない』という強迫観念が女の背中を押していた。
光明は洞穴の出口のように外界に繋がっていた。
人がひとり通れるくらいの大きさの穴からは、大きな建物が次々と立ち並んでいるのが見える。
女は意を決して穴を潜り抜けると、そこは都と見紛うばかりに沢山の人で溢れかえっていた。
ただ、擦れ違う人の顔は全て無表情で蒼白く、道の端々に矛を持って直立している者が角と牙を生やしていることが都とは決定的に異なっていた。
女は人の流れに従って死者の都を進んでいく。
男が冥府に送られたのは4日前。7日目に行われる裁判にはまだ猶予がある。
女は駆け出したい気持ちを必死に抑えながら、地獄の官吏であるように堂々と歩く。濡れていた着物はいつの間にかすっかりと乾いていた。
しばらく歩くと、天すら覆ってしまうほどの巨大な門と綺麗に整列させられた人の山が見えた。
この中から男を見つけ出すことは、黄砂の中から一粒の砂金を探すことに等しい行為であった。
女はその場で思案を巡らすと、蒼白い人の海ではなくそれを取り囲むように立つ異形の者へと歩みを進めていく。
獄卒は女の姿を見ると居住まいを正し、恭しく頭を垂れる。
近づけば近づくほどはっきりとわかる臓腑の腐敗したような異臭に内心顔を顰めながらも、女はすまし顔で上品に、それでいて反駁を許さぬ毅然とした態度で男の居場所を問い掛ける。
幾名もの獄卒を経由し、女は漸く見覚えのある愛しい人影を発見した。
すっかり痩せこけ顔には生気が全く感じられないが、その横顔は見間違うはずもなかった。
女は流れ出る涙をそのままにして、男の腕に取り縋る。
男はそこではじめて女の存在に気付き、驚きの声をあげると共に女も自分の後を追ったのだと思い、涙した。
女は首を左右に振り、自分が玉皇大帝の力添えによって男を冥府から連れ戻しに来たのだと告げる。
「さあ、時間がありません。どうぞこちらに……」
女は男の手をとり列から抜け出すと、足早に逆の順路で穴へと向かう。
穴は何事もなかったかのようにぽっかりと闇を映し出していた。
「この穴を抜けると現世に還れます。ただし、この穴に入った途端、獄卒たちが私たちを追いかけてくるでしょう。私には玉皇大帝様の御加護がありますから獄卒に捕らえられるということはありません。ですから、あなたからお入りください。」
男の背中を押しながら女は言う。
穴を潜り抜けると再び視界は闇に閉ざされるが、暗闇に目が慣れてくるとうっすらと闇が紺青に変化している場所があった。
「いけません! 夜が明け始めています。入り口が閉ざされる前にあちらの方向へ急いでください。」
女の指差した方向へ二人は走り出す。
同時に背後から地響きのような唸り声が聞こえてきた。
まだ遠いが確実に音は大きくなっていく。
二人は後ろを見ないように必死に走る。
視界の脇を通過する紫陽花はまるで、赤から青に染め直されているかのように色彩を変えていた。
女は早く紫陽花の色が青に転じることを祈る。
門の近くに咲く紫陽花が青なのであって、紫陽花が青色になれば門が開かれるわけではない。
順序が逆であることはわかってはいたが、女にはそれ以上心の支えにするものがなかった。
既に足の感覚はなく、乱れた息を聞き取る余裕すら残されてはいなかった。
無限とも思える時間。
しかし、微かに青みが増しただけの空からすれば、大して時間が流れてはいないのだろう。
八分ほど青に染めた紫陽花が見える頃、眼前に小さくみすぼらしい門が姿を現した。
二人にとって見覚えのあるあの門は、男の家の門であった。
女は表情を輝かせて、精根尽き果てそうな身体を奮い立たせて足を動かす。
だが、運命の悪戯か、はたまた一瞬の安堵が隙を生んだのか……
――女は足をもつれさせて転倒した。
門まで十数歩といった距離。
必死に起き上がろうとするが、一度止まった身体は自分の意志に反して全く動こうとはしない。
男も疲労の極致にあるのだろう、女が転倒したことに気付かず一直線に門へと駆けていた。
背後から近づく足音と、遠ざかっていく男の背中。
女は無意識に男の背中に向かって手を伸ばしていた。
声は呼吸に押し潰され、全く口から出てこなかった。
男は門に辿りつき後ろを振り返る。
……そして現状を悟った。
女は地面に倒れ伏しており、そのすぐ後ろからは恐ろしい形相の獄卒が女のすぐ後ろまでやってきていた。
女の手を引くために戻れば獄卒に捕まることは確実であった。
しかし、わざわざ自分を連れ戻しに来た思い人を見捨てることもできなかった。
どちらにせよ、逡巡している時間は残されてはいなかった。
――男は決断した。
女は門に到達した男が振り返ったのを見た。
男は驚いた顔を浮かべ、そして、女のすぐ後ろを見て恐怖に顔を引き攣らせた。
追っ手がすぐ後ろまで来ているのだろう。
女は今更になって自分が手を伸ばしていたことに気付き、苦笑した。
……男がこの手を取れば、今までの苦労は水泡と帰してしまう。
それなのに、どうして手を伸ばしているのか自分でもわからなかった。
女は最後に自分が何を求めていたのかわからなくなった。
何を期待していたのかわからなくなった。
――だから、
男が門を閉ざしたとき、女はどんな表情をして良いのかわからなかった。
ただ、
――ああ、こういう報いか……。
と、心の底から納得していた。
女の耳元を足音が通過していく。
獄卒たちが女を追い越して門に殺到していくのがぼんやりと見えた。
まだ日が昇りきるには時間がある。
おそらくこの門が破られて男が捕まる方が先であろう。
女は最後の力を振り絞って懐から札を取り出した。
そして一枚を抱えると先端を地面に押し付けるように置き、全体重をかけて倒れこんだ。
想像よりも軽い音を残して、あっさりと札が折れる。
すると獄卒たちが叩き壊そうとしていた門が瞬時に消え去っていた。
女はそれを見届けると深く息を吐いて仰向けに寝転がった。
このような結末であったにも関わらず、女は不思議と何の感慨も抱いてはいなかった。
死者を甦らせるという因果から外れた行いに、何の代償もないはずがない。
必死に目を逸らしてはいたが、薄々そんな予感がしていた。
男が生き返るには身代わりが必要なのだ。
ただそれだけのことなのだと……
頬に熱いものが流れるのを感じながらも、女はひたすらにその言葉を反復する。
門が消失したことを悟った獄卒たちが、ゆっくりとした足取りで女の周りに集まってきていた。
女は身じろぎひとつしなかった。
観念したわけではなく、覚悟を決めていたのだ。
獄卒たちは女を恭しく輿に乗せるように担ぎ上げると冥府の道へと戻っていく。
女は後ろを振り向き、折れ散らばっている札に視線をやった。
獄卒たちに踏み荒らされて無残な姿を晒している札を、
折り捨てた自らの半身――本名の書かれた札を。
もう二度と会うことはない。
それは完全な決別だと女は理解していた。
あの男とも、両親とも、現世という世界からも……
遠ざかっていく札は、まるで闇に飲み込まれるよう輪郭を朧にしていく。
女は黙ってその光景を見つめていた。
――さようなら
と唇だけを動かしながら。
声は、……出なかった。
女は残された方の札――戒名の書かれた札――を抱き寄せ、強く強く握り締める。
獄吏の証明書、これだけが今の彼女の持つ全てであった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「――――四季様、四季様。」
自分に掛けられた声に映姫はハッと我に帰る。
「なんですか? 小町。」
ずいぶんと長い時間考え事していたらしい、湯呑みはすっかりとぬるくなっていた。
このような隙を映姫は滅多にみせることがないのだが、小町はそんなことに気付ことなく見事にテンパっていた。
上司を見習って正座をしてはいるが、少しだけ残ったお茶を湯呑みごと回しながら落ち着きのない動作を繰り返す。
「こんなところでのんびりしていても良いんですか? 四季様は多忙であらせられるじゃないですか……。」
自分のことをしっかりと棚にあげて、いけしゃあしゃあと小町は述べる。
これが皮肉ではなく、心から案じた言葉に感じられたので映姫はただ微笑を浮べて答えた。
「生憎の雨ですからね、ここでしばらく雨宿りといきましょう。……ほら、小町、紫陽花が綺麗ですよ。」
――博麗神社の境内、本殿の縁側で二人は腰を下ろしていた。
小町がここで休息をとり、映姫がそれを連れ戻しに来るという、いつも通りの図式。
たまたまそこに雨が通り掛かった。
その程度では仕事熱心な閻魔様が雨宿りを提案するはずがないことくらい長年の経験から小町は承知していた。
……にも拘らず、今日に限って境内を見回した映姫が驚いたような表情を浮かべると、自ら雨宿りを提案してきたのだ。
雷雨だろうが暴風雨だろうが、耳を引っ張られたまま冥府へと引き摺られたことは数え切れないほどある。
故に、この未経験の事態に対して小野塚小町の思考は恐慌をきたしていた。
死刑執行の直前に看守の態度が急に軟化するような……、そんな情景を思い浮かべて小町は独り震える。
「……ねぇ、小町。」
「は、はひっ!!!」
穏やかに紡がれる映姫の声とは正反対の素っ頓狂で上ずった小町の返答。
しかし、映姫の視線は遠くをずっと見つめたままであった。
「あなたは青と赤、どちらの色の紫陽花が好き?」
これは何かのテストだろうか?
そう勘繰りながらも、小町は自分なりの答えを口にする。
「そうですね……、どちらかというと赤ですかね? 彼岸花も赤いですし、馴染み深いじゃないですか。」
「そう……」
映姫はただ深々と頷いて、それきり黙りこくってしまう。
小町は解答を間違ったかと不安に思いながらも藪蛇を恐れて何も言わなかった。
雨が石畳を叩く音が響き、足元から這い上がってくるような生温かい空気が流れる。
境内の紫陽花はどれも青く、不思議と灰色の空からも良く映えた。
「……私はね、小町。だから青い色の紫陽花が好きよ。」
そう、思い出したかのように映姫は呟く。
「冥府の花は須らく赤く、現世でのみ許される青い花……」
映姫はそっと傍らの笏を引き寄せ、握り締めた。
冥府の人間となって幾歳月。
欺くと宣言した閻魔王は気が付くと我が身のこととなっていた。
――それでもまだあの青い紫陽花に憧れる。
映姫は空気に溶け込ませるようにゆっくりと唇を振るわせた。
雨はことごとく音を包み隠し、彼女以外にその言葉は届かない。
それは笏に書かれた詩で、
墨が霞んで映姫にしか判読できない文句。
自分が付けた自分へのおくりなを……
四方 雨に囲まれ独り
季世に顔を覆いてさめざめと啼く
映る水面は涙に震え
姫を望みて鬼国に擲げる
現在に至っては名前すら残っていないほど小さな寒村にひとりの女がいた。
女は官吏の家の一人娘で、器量も良く、文章、詩を書かせれば村一番だった。
女には昔から思い人がいた。
男は貧しい農家の生まれであったが、学業が秀でており生員であった。
両親も科挙に合格することを条件に娘を嫁がせることを承諾した、いわば許婚の関係であった。
村の誰もが羨みながらも納得する、仲睦まじい二人であった。
……しかし、その幸せは長く続くことはなかった。
男が科挙の試験に向かう道中、夜盗に襲われて無残な最期を遂げたのだ。
女は大いに嘆き悲しんだ。
寝食を忘れて部屋に籠もり、枕元は常に濡れ、時折が起き上がれば神に祈りを捧げる日々。
それが三日程続き、女の小柄で慎ましやかな身体は木偶のようにやせ細り、目元は幽鬼の如く落ち窪んでいた。
両親は娘の悲嘆ぶりにただただ心を痛めるばかりであった。
その晩、いつも通り祈りを捧げた女は床に就いた。
焚いた香の匂いが御簾の中に充満し、梅雨で重くなった空気がどんよりと漂う夜であった。
風はなく、四方いずれからも聞こえる雨音がこの部屋を外界から切り離してしまったのではないかと思えるほどに、――静かだった。
女は思う。
男ともう一度出会えるのならば、獄卒すら恐れはしない。
城隍神、閻魔王だって欺いてやろう。
泣き腫らした目で虚空を睨みつけながら女は誓う。
――すると、不意に静寂が訪れた。
先程から絶えず地を叩いていた雨音すら聞こえない、完全な静寂。
女はハッとして身を起こそうとするが、まるで首から下が存在しないように身体はピクリとも動かない。
自分の身勝手な決意が神の怒りに触れたのだろうかと、女は顔を蒼くする。
しかし、それでは男は還って来ない。
……何を戸惑う、自分はいま閻魔王すら欺くと心に決めたではないか。
決意を新たに、思い通りになる顔だけを使って必死に憤怒の形相をつくる。
そうこうしている間に枕元に人の立つ気配がする。
それは上等な着物で身を包んだ老爺であった。
老爺は口を開く。厳かで直接脳に響くような声が波紋を広げるように女へと吸い込まれていく。
「我は玉皇大帝。お前の男を思う気持ち、決意、我が元まで届いていた。
お前の今までの献身的な態度と善行に免じて、ひとつだけ願いを叶えてやろう。」
そう告げると老爺の手に二枚の札が現れる。
「これは現世と冥府とを繋ぐ手形。一枚にはお前の名を書き、もう一枚にはお前の戒名を記せ。
本名の札がある限り、現世はお前を何事もなかったかのように迎え入れ、
戒名の札がある限り、お前は冥府で獄吏として扱われるであろう。
明日の晩、日の出までの間、現世と冥府を繋ぐ道を開ける。
お前はその道を通り冥府から男を連れ出すのだ。
男を連れ出したら、戒名の書かれた札を折れ。
すれば冥府との道が塞がれ、獄卒たちはお前達を追いかけてはこない。
決して先に本名を書いた札を折ってはいけない、それを先に折ればお前は冥府の人間となってしまう。
ただし、これは明日の晩……一晩限りだ。そのことを肝に銘じておくが良い。」
そう告げると、老爺の姿は淡い光に包まれて消えていった。
同時に身体の感覚が戻ってくる。
雨の音も何事もなかったかのように聞こえていた。
女は夢か幻を見た心地になりながらも、布団から身を起こした。
半信半疑になりながらも女は枕元を見回すと、――そこには二枚の札が確かに置いてあった。
翌朝、女は何事もなかったかのような晴れやかな顔で両親の前に現れた。
両親は安堵し、目元に涙を溜めながら娘を抱きしめた。
女は今まで欠けていた生気を取り戻すように食事を摂り、身体を清め、化粧を施した。
両親には娘の行動に疑問を抱くことなく手を取り合って喜んだ。
娘が時折浮べる鬼気迫る笑みなど、涙で曇った瞳からは全く映りはしなかった。
その夜も外は雨だった。
人を拒むかのように降り注ぐ雨は女にとって寧ろ好都合であった。
両親や召使に悟られぬよう庭へ出ると、青白く光る紫陽花が女を出迎えた。
藍よりも青い紫陽花は一列に並んでおり、雨で視界が悪くなっているとはいえ無限に続いているように思えた。
女はその異様な光景にしばし呆然としながらも、これは玉皇大帝が冥府への道標と用意したものだと思い紫陽花の脇をひたすら歩いた。
紫陽花は進めば進むほど色を青から赤へと転じていき、いまや見るも不気味な血が凍えたような色の花が辺りを覆っている。
気がつくと雨は音だけとなり、女は濡れた着物を引き摺るように一向に視界の晴れぬ闇を歩き続ける。
道標であるはずの紫陽花も色彩を失い、徐々に闇に溺れていく。
そして完全に辺りが闇に覆われたとき、果てに一筋の光明が見えた。
女はすぐさま目標を切り替えて真っ直ぐにその光へと進んでいく。
歩き始めてから幾程の時間が過ぎたか女にはわからなかった。
否、わからないからこそ『止まってはいけない』という強迫観念が女の背中を押していた。
光明は洞穴の出口のように外界に繋がっていた。
人がひとり通れるくらいの大きさの穴からは、大きな建物が次々と立ち並んでいるのが見える。
女は意を決して穴を潜り抜けると、そこは都と見紛うばかりに沢山の人で溢れかえっていた。
ただ、擦れ違う人の顔は全て無表情で蒼白く、道の端々に矛を持って直立している者が角と牙を生やしていることが都とは決定的に異なっていた。
女は人の流れに従って死者の都を進んでいく。
男が冥府に送られたのは4日前。7日目に行われる裁判にはまだ猶予がある。
女は駆け出したい気持ちを必死に抑えながら、地獄の官吏であるように堂々と歩く。濡れていた着物はいつの間にかすっかりと乾いていた。
しばらく歩くと、天すら覆ってしまうほどの巨大な門と綺麗に整列させられた人の山が見えた。
この中から男を見つけ出すことは、黄砂の中から一粒の砂金を探すことに等しい行為であった。
女はその場で思案を巡らすと、蒼白い人の海ではなくそれを取り囲むように立つ異形の者へと歩みを進めていく。
獄卒は女の姿を見ると居住まいを正し、恭しく頭を垂れる。
近づけば近づくほどはっきりとわかる臓腑の腐敗したような異臭に内心顔を顰めながらも、女はすまし顔で上品に、それでいて反駁を許さぬ毅然とした態度で男の居場所を問い掛ける。
幾名もの獄卒を経由し、女は漸く見覚えのある愛しい人影を発見した。
すっかり痩せこけ顔には生気が全く感じられないが、その横顔は見間違うはずもなかった。
女は流れ出る涙をそのままにして、男の腕に取り縋る。
男はそこではじめて女の存在に気付き、驚きの声をあげると共に女も自分の後を追ったのだと思い、涙した。
女は首を左右に振り、自分が玉皇大帝の力添えによって男を冥府から連れ戻しに来たのだと告げる。
「さあ、時間がありません。どうぞこちらに……」
女は男の手をとり列から抜け出すと、足早に逆の順路で穴へと向かう。
穴は何事もなかったかのようにぽっかりと闇を映し出していた。
「この穴を抜けると現世に還れます。ただし、この穴に入った途端、獄卒たちが私たちを追いかけてくるでしょう。私には玉皇大帝様の御加護がありますから獄卒に捕らえられるということはありません。ですから、あなたからお入りください。」
男の背中を押しながら女は言う。
穴を潜り抜けると再び視界は闇に閉ざされるが、暗闇に目が慣れてくるとうっすらと闇が紺青に変化している場所があった。
「いけません! 夜が明け始めています。入り口が閉ざされる前にあちらの方向へ急いでください。」
女の指差した方向へ二人は走り出す。
同時に背後から地響きのような唸り声が聞こえてきた。
まだ遠いが確実に音は大きくなっていく。
二人は後ろを見ないように必死に走る。
視界の脇を通過する紫陽花はまるで、赤から青に染め直されているかのように色彩を変えていた。
女は早く紫陽花の色が青に転じることを祈る。
門の近くに咲く紫陽花が青なのであって、紫陽花が青色になれば門が開かれるわけではない。
順序が逆であることはわかってはいたが、女にはそれ以上心の支えにするものがなかった。
既に足の感覚はなく、乱れた息を聞き取る余裕すら残されてはいなかった。
無限とも思える時間。
しかし、微かに青みが増しただけの空からすれば、大して時間が流れてはいないのだろう。
八分ほど青に染めた紫陽花が見える頃、眼前に小さくみすぼらしい門が姿を現した。
二人にとって見覚えのあるあの門は、男の家の門であった。
女は表情を輝かせて、精根尽き果てそうな身体を奮い立たせて足を動かす。
だが、運命の悪戯か、はたまた一瞬の安堵が隙を生んだのか……
――女は足をもつれさせて転倒した。
門まで十数歩といった距離。
必死に起き上がろうとするが、一度止まった身体は自分の意志に反して全く動こうとはしない。
男も疲労の極致にあるのだろう、女が転倒したことに気付かず一直線に門へと駆けていた。
背後から近づく足音と、遠ざかっていく男の背中。
女は無意識に男の背中に向かって手を伸ばしていた。
声は呼吸に押し潰され、全く口から出てこなかった。
男は門に辿りつき後ろを振り返る。
……そして現状を悟った。
女は地面に倒れ伏しており、そのすぐ後ろからは恐ろしい形相の獄卒が女のすぐ後ろまでやってきていた。
女の手を引くために戻れば獄卒に捕まることは確実であった。
しかし、わざわざ自分を連れ戻しに来た思い人を見捨てることもできなかった。
どちらにせよ、逡巡している時間は残されてはいなかった。
――男は決断した。
女は門に到達した男が振り返ったのを見た。
男は驚いた顔を浮かべ、そして、女のすぐ後ろを見て恐怖に顔を引き攣らせた。
追っ手がすぐ後ろまで来ているのだろう。
女は今更になって自分が手を伸ばしていたことに気付き、苦笑した。
……男がこの手を取れば、今までの苦労は水泡と帰してしまう。
それなのに、どうして手を伸ばしているのか自分でもわからなかった。
女は最後に自分が何を求めていたのかわからなくなった。
何を期待していたのかわからなくなった。
――だから、
男が門を閉ざしたとき、女はどんな表情をして良いのかわからなかった。
ただ、
――ああ、こういう報いか……。
と、心の底から納得していた。
女の耳元を足音が通過していく。
獄卒たちが女を追い越して門に殺到していくのがぼんやりと見えた。
まだ日が昇りきるには時間がある。
おそらくこの門が破られて男が捕まる方が先であろう。
女は最後の力を振り絞って懐から札を取り出した。
そして一枚を抱えると先端を地面に押し付けるように置き、全体重をかけて倒れこんだ。
想像よりも軽い音を残して、あっさりと札が折れる。
すると獄卒たちが叩き壊そうとしていた門が瞬時に消え去っていた。
女はそれを見届けると深く息を吐いて仰向けに寝転がった。
このような結末であったにも関わらず、女は不思議と何の感慨も抱いてはいなかった。
死者を甦らせるという因果から外れた行いに、何の代償もないはずがない。
必死に目を逸らしてはいたが、薄々そんな予感がしていた。
男が生き返るには身代わりが必要なのだ。
ただそれだけのことなのだと……
頬に熱いものが流れるのを感じながらも、女はひたすらにその言葉を反復する。
門が消失したことを悟った獄卒たちが、ゆっくりとした足取りで女の周りに集まってきていた。
女は身じろぎひとつしなかった。
観念したわけではなく、覚悟を決めていたのだ。
獄卒たちは女を恭しく輿に乗せるように担ぎ上げると冥府の道へと戻っていく。
女は後ろを振り向き、折れ散らばっている札に視線をやった。
獄卒たちに踏み荒らされて無残な姿を晒している札を、
折り捨てた自らの半身――本名の書かれた札を。
もう二度と会うことはない。
それは完全な決別だと女は理解していた。
あの男とも、両親とも、現世という世界からも……
遠ざかっていく札は、まるで闇に飲み込まれるよう輪郭を朧にしていく。
女は黙ってその光景を見つめていた。
――さようなら
と唇だけを動かしながら。
声は、……出なかった。
女は残された方の札――戒名の書かれた札――を抱き寄せ、強く強く握り締める。
獄吏の証明書、これだけが今の彼女の持つ全てであった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「――――四季様、四季様。」
自分に掛けられた声に映姫はハッと我に帰る。
「なんですか? 小町。」
ずいぶんと長い時間考え事していたらしい、湯呑みはすっかりとぬるくなっていた。
このような隙を映姫は滅多にみせることがないのだが、小町はそんなことに気付ことなく見事にテンパっていた。
上司を見習って正座をしてはいるが、少しだけ残ったお茶を湯呑みごと回しながら落ち着きのない動作を繰り返す。
「こんなところでのんびりしていても良いんですか? 四季様は多忙であらせられるじゃないですか……。」
自分のことをしっかりと棚にあげて、いけしゃあしゃあと小町は述べる。
これが皮肉ではなく、心から案じた言葉に感じられたので映姫はただ微笑を浮べて答えた。
「生憎の雨ですからね、ここでしばらく雨宿りといきましょう。……ほら、小町、紫陽花が綺麗ですよ。」
――博麗神社の境内、本殿の縁側で二人は腰を下ろしていた。
小町がここで休息をとり、映姫がそれを連れ戻しに来るという、いつも通りの図式。
たまたまそこに雨が通り掛かった。
その程度では仕事熱心な閻魔様が雨宿りを提案するはずがないことくらい長年の経験から小町は承知していた。
……にも拘らず、今日に限って境内を見回した映姫が驚いたような表情を浮かべると、自ら雨宿りを提案してきたのだ。
雷雨だろうが暴風雨だろうが、耳を引っ張られたまま冥府へと引き摺られたことは数え切れないほどある。
故に、この未経験の事態に対して小野塚小町の思考は恐慌をきたしていた。
死刑執行の直前に看守の態度が急に軟化するような……、そんな情景を思い浮かべて小町は独り震える。
「……ねぇ、小町。」
「は、はひっ!!!」
穏やかに紡がれる映姫の声とは正反対の素っ頓狂で上ずった小町の返答。
しかし、映姫の視線は遠くをずっと見つめたままであった。
「あなたは青と赤、どちらの色の紫陽花が好き?」
これは何かのテストだろうか?
そう勘繰りながらも、小町は自分なりの答えを口にする。
「そうですね……、どちらかというと赤ですかね? 彼岸花も赤いですし、馴染み深いじゃないですか。」
「そう……」
映姫はただ深々と頷いて、それきり黙りこくってしまう。
小町は解答を間違ったかと不安に思いながらも藪蛇を恐れて何も言わなかった。
雨が石畳を叩く音が響き、足元から這い上がってくるような生温かい空気が流れる。
境内の紫陽花はどれも青く、不思議と灰色の空からも良く映えた。
「……私はね、小町。だから青い色の紫陽花が好きよ。」
そう、思い出したかのように映姫は呟く。
「冥府の花は須らく赤く、現世でのみ許される青い花……」
映姫はそっと傍らの笏を引き寄せ、握り締めた。
冥府の人間となって幾歳月。
欺くと宣言した閻魔王は気が付くと我が身のこととなっていた。
――それでもまだあの青い紫陽花に憧れる。
映姫は空気に溶け込ませるようにゆっくりと唇を振るわせた。
雨はことごとく音を包み隠し、彼女以外にその言葉は届かない。
それは笏に書かれた詩で、
墨が霞んで映姫にしか判読できない文句。
自分が付けた自分へのおくりなを……
四方 雨に囲まれ独り
季世に顔を覆いてさめざめと啼く
映る水面は涙に震え
姫を望みて鬼国に擲げる
いや失敬。
だが好きだ。
そしてもし再会したその時、彼女はどんな表情をするのだろうか。
そんな事を考えてみたり。
こういうの好きです。
お見事でした。
四季様の過去に言及した作品が他に少ないので余計に。
美味しく頂きました。