紅魔館に雨が降る。
土砂降りというほどではないが外出が億劫になる程度の、そんな雨。
雨が降れば自然、来客も闖入者も減り、館の主は日光の代わりに流れる水に閉じ込められて外出できない。
そういう訳で雨の日の紅魔館は静かだ。
図書館で爆発も起きず、館の主は自室で大人しくしている。
雨の日は紅魔館のメイド達にとって数少ない休息の日だった。
「……」
淙々と雨滴の流れ落ちる窓辺に、十六夜咲夜は立っていた。
普段はメイド長として紅魔館中を、場合によってはそれ以外の場所をも忙しなく飛び回っている彼女だが、
今日は珍しく手が空いていた。
彼女はこういう振って湧いた暇が苦手だ。
いつも仕事で埋め尽くされている彼女の時間に、ぽっかりと空く空白。
部下のメイド達は私室で他愛無い会話や遊びに興じているのだろうが、彼女はそんな気分にはなれない。
どうやって時間を潰していいか分からずに、こういうとき彼女はいつも自室の窓際でぼんやりしている。
何もすることが無い、と言うのは、彼女にとって苦痛というのは大げさにしても、愉快なことではなかった。
何もすることが無い事でぽっかり空いた胸中の真空には、いつも考えなくてもいいこと、考えたくないこと、
思い出したくないことが吸い寄せられる。
雨の日は彼女をひどく憂鬱な気分にさせる、嫌な天気だった。
今日何度目かのため息を吐き出したとき、部屋のドアがノックされた。
恐る恐るといった調子の控えめなノックが2回。このノックは美鈴だ。
「鍵はかかってないわ。どうぞ」
視線は窓の外に向けたまま、ドアの向こうに居るであろう赤毛の門番に返事を返す。
「失礼します、お休みのところ申し訳ありません……で、ですね」
いったい何の用だろう。門番である美鈴が直接ここに来るということは……?
視線をドアの方に向ける。
入ってきたのはいつものように妙におどおどしている美鈴と……他にもう一人?
黄色のタオルを頭から被った、小柄な……女の子?
「ええと、私は今日も今日とて門の警備をしてたんですけど、そのときに向こうからこの子が……」
美鈴の話をそこまで聞いて、咲夜は美鈴に連れられてきたのが誰だか悟る。
「あなた……妖夢?」
タオルの向こうから覗く銀髪には見覚えがあった。
忘れもしない、かつて冥界へと続く長大な石段の上で咲夜と死闘を演じた白玉楼の庭師、魂魄妖夢。
妖夢は咲夜の言葉にも応じずに、絨毯に視線を落としている。
「で、この子この雨の中傘も差さずに歩いてるんで思わず呼び止めちゃったんです。体も冷え切っちゃってるし……」
「事情は分かったわ。とりあえずあなたはお風呂の用意を。あと何か温かい飲み物をお願い」
意外な来客のもたらした不測の事態だが、慌てるほどのことも無い。いつもと同じように指示を飛ばす咲夜。
さっきまで窓辺でぼんやりしていたのが嘘のようだ。
咲夜の指示で美鈴は退室し、今咲夜の私室には彼女の妖夢の二人きり。
(さて……どうしたものかしらね)
やや困惑しつつ、咲夜はタオルを被ったままの妖夢を見つめていた。
シャワーを終えた妖夢は再び咲夜の部屋にいた。
他に空き部屋が無くはなかったが、なんとなく咲夜は妖夢を自室に招き入れた。
着替えが他に無かったため自分のシャツを妖夢に着せてベッドに座らせ、咲夜はその正面の椅子に腰掛ける。
咲夜からは口を開かない。妖夢が自分から話し始めるのを咲夜は何も言わずに待った。
沈黙だけが降り積もる室内。雨が硝子を打つ音だけがその場を支配していた。
長い沈黙を破って妖夢がぽつりともらしたのはたった一言。
「ゆゆこさまとけんかしちゃった」
それだけだった。
思わず吹き出しそうになるのをこらえる。
それは彼女を、魂魄妖夢という幼い少女を、たった一人で白玉楼を飛び出させ、
雨の中を当ても無くさ迷い歩かせるに足る理由なのだろう。
「そう」
咲夜の返した返事はそれだけだった。
再び、沈黙。
純粋な、少女だと思った。
自分の主と喧嘩をしたといって家を飛び出してしまう少女に、その幼さに、輪郭のはっきりしない羨望を咲夜は覚えた。
ああ、そうか、と咲夜は思い至る。
私はこの子が、感情で行動しているのが、感情で行動できるのがうらやましいのだ。
咲夜は感情や衝動に左右されない。必要と義務で行動するタイプの人間だ。
常に平坦な、冷たい湖のような、凪の精神状態。
それが他者に冷淡な印象を与えるということは分かっているが、努めて感情を表に出そうとは思わない。その必要を感じない。
そもそも人間は感情それ自体を知覚する方法を持たない。
対象の表情、口調、抑揚、そういったものから対象の感情を推測しているに過ぎない。
そう考える自分とこの少女は、全く大げさな言い方ではなく別の世界に住んでいるのだと言える。
そんな自分の冷静な分析が、少し冷たく感じた。
「あの」
二度目の沈黙を破ったのも、やはり妖夢からだった。
熱い紅茶の注がれたティーカップを両手で抱えたその姿が、やけに小さく見える。
ようやく落ち着いてきたのか、先ほどまで床に据えていた視線をやや俯きがちにだが上げ……また下げてしまう。
「……ごめんなさい」
「いいのよ」
咲夜はそれだけ答える。
三度目の沈黙。
風が出てきたらしく、雨粒が窓を打つ音が大きくなって来はじめた。
咲夜が腰を上げた。ベッドへ歩み寄り、妖夢の隣に腰を下ろす。
二人分の体重を受け止めたベッドが、小さく軋む。
妖夢が視線を上げた。咲夜の視線とぶつかる。また視線を床に落とす妖夢。
首を垂れた横顔。その額にまだ乾ききっていない髪がひと房、張り付いている。
手を伸ばし、指先で払ってやる。触れた額はシャワーの熱がまだ残っており、熱い。
水気を吸った髪はやや重く、だが滑らかだ。
指先を少し下へ下ろす。柔らかい頬。あ、という小さな声が漏れた。
意識してか無意識にか、妖夢が顔をわずかに傾け自分の頬を咲夜の手のひらに押し付けた。
柔らかく、温かい。
くすり、と笑みを漏らし、咲夜はさらに指先を下ろす。
ぴくり、と妖夢の肩が震えた。咲夜の方に向けられた瞳が、困惑に揺れている。
咲夜の指先が首筋に触れた。
白いシャツを着ていてなお映える色白の肌が、熱を持って桜色に染まっている。
かわいいな、と、咲夜は素直に思った。
「体は、暖まった?」
「え、あ……は、い」
「そう」
指先を離す。
「あ……」
「うん?」
「い、いえっ、何でもないですっ」
思わず漏れてしまった名残惜しげな声をごまかそうと、妖夢はティーカップの中身を一気にあおる。
ティーカップをトレイに戻し、妖夢は咲夜に頭を下げた。
「あの、いきなり来ちゃって、その、ご迷惑をおかけしました」
「気にしないで。雨の中に一人で歩いてる女の子を放っておくほど私は冷たくないわ」
「何か、その、お返しができると良いんですけど……」
「お返し?」
「お風呂まで貸して頂いたのに、何もお礼をしないわけにはいきませんから」
「ふぅん……じゃあ」
再び手を伸ばし、
「あなた、私の妹になりなさい」
「いも……っ!?」
いったい何を想像したのか、顔を真っ赤にする妖夢。思わず吹き出す咲夜。
「ぷ、あは、あはははっ、なぁにその顔。真っ赤よ?」
「こ、これは、咲夜さんがヘンなこと言うから……っ!」
ふふ、とまた笑い、咲夜は立ち上がる。
「さて、私は少し仕事が残ってるから。あなたはもうお休みなさい」
「……大変、なんですね」
「好きでやってる仕事だもの。苦じゃないわ」
「じゃあ……おやすみなさい、咲夜さん」
「ええ、お休み」
それだけ言い残して、咲夜は部屋を出る。
ぱたん、と後ろ手にドアを閉める。
窓の向こうではいよいよ勢いを増した雨が、窓の硝子に緩やかに弧を描く文様を描いている。
「……ちょっと、はしゃぎすぎたかしらね」
薄暗い廊下の硝子窓に手をつき、ため息を一つ。
吐息のかかったそこだけが白く曇り、数秒のうちにもとに戻る。
軽く頭を振り、物思いにふけろうとする思考を追い払う。
雨の日は比較的仕事は少ないが、それでも全くゼロと言うわけではない。
今日は図書館の主であるパチュリーからマジックアイテムの類を詰め込んだ倉庫の整理を頼まれている。
雨の日特有の憂鬱さは、仕事の段取りを頭の中で組み立てることで多少は紛らわせることが出来た。
「……余計なこと考えてないで、さっさと仕事を終わらせなきゃ」
やや急ぎ足で、だが足音は立てないように、図書館へと向かう咲夜。
その足元。
燭台の明かりに照らされて長く伸びた咲夜の影が、ゆらゆらと踊っている。
ゆらゆら。ゆらゆら。
足元から伸びた影は、ゆらゆら踊りながらどこまでも咲夜について来る。
どこまでも。
明かりを消してシーツを被っても、なかなか眠気は訪れない。
慣れない洋装の部屋の所為か、または他に理由があるのか、妖夢は眠れないでいた。
「……」
咲夜に触れられた感触が、今もまだ肌に残っている。
少し冷たく、柔らかい、指先。
その感触を思い出して、妖夢は一人頬を染める。
十六夜 咲夜。
紅魔館のメイド長にして、レミリア・スカーレットに仕える従者。
……綺麗な、とても綺麗な
さらさらの銀色の髪と、いつも涼しげな笑みを浮かべる青い瞳。
すらりと伸びた手足に、成熟した肢体。
ううん、外見だけじゃない。
いきなり飛び込んできた私に、何も聞かないでいてくれた。
きっとあのひとはわたしみたいに、自分の主と喧嘩したなんて子供じみた理由で落ち込んだりしないだろうし、
そもそも自分の主と喧嘩なんてこと、するはずがない。
「はあ……」
ベッドの中で妖夢は、何度目かのため息をついた。
同じ従者でありながら、あの人と私はこんなにも違う。
あの人はきっとこんな風に落ち込んだりもしないんだろう。きっととても強い人だから。
「やっぱり、わたしなんかとは違うなあ……」
あの戦いで知り合って以来、咲夜は妖夢の理想だった。恋愛感情めいた憧れをさえ抱いていた。
今までは冥界から出ることの殆どなかった妖夢は、多忙な毎日のうちの僅かな時間を費やして度々顕界を訪れるようになった。
いつもというわけには行かなかったが、時々、僅かな時間、一緒に居て言葉を交わすだけで妖夢は幸せだった。
怨恨で戦ったわけではないにせよ、一度刃を交えた相手をすんなり受け入れてくれた咲夜に、
妖夢はいつしか強く惹かれるようになっていた。
白玉楼を飛び出した後、ここ紅魔館に足が向いたのも自然なことだったと妖夢は思い返す。
不意の出来事とはいえ咲夜の居る屋敷に足を踏み入れ、さらには彼女の自室にまで入ってしまったことに、
思い出したように妖夢は軽い混乱と興奮を自覚する。
「……」
白玉楼から滅多に外に出たことのない妖夢にとって、他人の部屋で眠るというのは初めての経験だった。訳も無く緊張する。
それが憧れを抱いている相手の部屋ならなおさらだ。
憧れの人の部屋で、憧れの人のシーツとシャツに包まれて、あっさりと眠れるはずが無い。
ぼんやりとそんなことを考えながら、妖夢は咲夜の残り香を求めるように枕に顔を埋める。
枕からは上品な芳香剤のにおい。
考えてみれば通したのが自室だったとはいえ、あの咲夜が来客用の寝具を用意しないはずがない。
少し残念な気持ちになる妖夢。
ベッドの中から顔を出し、部屋を見回す。
よく片付いた、簡素な部屋。だが、どことなく生活感に欠けた印象がある。
四六時中屋敷を飛び回っている咲夜は、眠るときやちょっとした休憩のときくらいにしかこの部屋を使わないのだろう。
なんだか、寂しい部屋だな、と妖夢は思った。
最低限の調度品の他には装飾品と呼べるものはなく、一枚の絵、一輪の花すらも置いてはいない。
使う頻度が少ないにしても、自室というにはあまりにも物が無い。
燭台も消してしまった後の光源の無い、ただ窓が雨と風に叩かれる音だけで満たされた部屋は、ことさらに閉鎖的に、寂しく見えた。
ふと、どこかで読んだ「部屋というものはその主の心を表している」という言葉が脳裏を掠めた。
「……そんなはず、ないよね」
妖夢は否定する。
そんなはずはない。
この冷たく寂しい、ともすれば主など居ないように、廃墟か何かにさえ見える部屋が、彼女の心の内側であるはずがない。
あんなに綺麗で、あんなに優しいあの人が、こんな虚を抱えているはずがない。
だが、しかし。
本当に、そうだろうか。
そもそも妖夢は咲夜のことを殆ど知らない。
食べ物の好みも、趣味も、休みの日はどんな風に過ごしているのかも、……その過去も。
そんな自分が、本当にそんなはずはないと否定できるのだろうか。
暖かいはずのベッドの中で、妖夢はぞくりと身震いをする。
時刻は夕方を過ぎ、雨脚は未だ衰えずに硝子窓を叩き続けている。
咲夜は図書館へと続く長い廊下を歩いていた。
いつもならメイド達が忙しなく動き回っているこの廊下も、今日に限っては誰も居ない。
いるのは咲夜一人だけ。
いつもは一人でいても何も思わないが、雨の所為だろうか、孤独感がくっきりと濃い。
「……はぁ」
今日何度目のため息だろう。
ふと視線を窓の方にやると、自分の顔が映っている。
その顔が疲れきった旅人のように歪んで見えるのは、果たして窓を流れる雨水のせいだろうか。
そのまま歩みを止め、咲夜は窓に映った自分の顔をぼんやりと見つめていた。
雨の日は嫌な日だ。決まって憂鬱な気分になる。
そんな日に誰も居ない廊下を一人ぼっちで歩いていれば、憂鬱さは増すばかり。
一人ぼっち。
何気なく思い浮かんだその言葉に釣られて、咲夜に作業を頼んだ図書館の主の言葉が脳裏に浮かぶ。
良いこと、咲夜。
倉庫の中のマジックアイテムは、殆どが効力を失っているものばかり。
でも中には、ほんの残りかす程度だけれど魔力が残っているものもあるかも知れないわ。
私達には何でもなくても、あなたには危険なものよ。
魅入られないよう、気をつけなさい。
……あなたは、私達とは違うのだから。
「……私達とは違うのだから、か」
小さく、呟くように魔女の言葉を反芻した声が雨音の中に溶けて消えていく。
ここ紅魔館に住む者は、館の主であるレミリア・スカーレットを筆頭に、全て人外の存在。
その中で咲夜はただ一人の人間。ただ一つの例外。
普段は意識もしない――意識したくないことを思いがけず意識して、咲夜はまたため息をつく。
――ほんとうに雨の日は嫌いだ。嫌な事ばかり考えてしまう。
「でも……」
ふっと表情を緩める咲夜。
突然の来客だったが、悪い気はしなかった。
自室でからかってやった時の妖夢の顔を思い出すだけで、自然と頬が緩んでしまう。
魂魄妖夢。
冥界は白玉楼の主、西行寺幽々子に仕える庭師。
……純真な、とても純真な少女だと思う。
咲夜はどちらかというと他者に対して積極的に感情を向けるタイプではないが、あの妖夢という少女を見ていると、
暖かいような、くすぐったいような、そんな気持ちになってくる。
久しく感じた事の無かった感覚だった。
雨の日は例外なく訳も無く落ち込んだ気持ちになってしまうが、突然の来客のおかげで忘れていられる。
咲夜はそう思った。
心なしか、肩が、気分が、軽くなった気がする。
気分が軽くなれば、表情も和らぐ。
咲夜は軽く笑みを浮かべ、ふと雨に叩かれる窓に視線を転じた。
『……気持ち、良かった?』
「!!」
ぐにゃり、と。
窓に映った自分の顔が、笑んだ。
それまで浮かべていた穏やかな笑みが、流れ落ちる雨でたまたまそう見えたのだという楽観と共に一瞬で凍りついた。
聴覚と視覚が、一瞬で驚愕……恐慌に侵食される。
いま、私は何を見た? 何を聞いた?
『ねえ、咲夜。気持ち良かった? 気持ち良かったの?』
居る。
何かが、窓の外……いや、窓の中に……私が映っていたはずの窓の中に、私でないモノが。
微笑んでいる。
囁いている。
私と同じ顔で。
私と同じ声で。
「な……!」
喉の奥からやっとそれだけを搾り出す。
くすくすと涼やかでさえある喘い声が、廊下を伽藍の如くに響き渡る。
理解、出来ない。何が起こっているのか理解できない。
頭は理解できなくても、体は勝手にそれが何なのか悟ったらしい。
咲夜の意図とは無関係に後ずさり、反対側の壁に背を預ける……というよりは、押し付ける形になる。
その様子をさもおかしそうに幻影は窓の中から眺めていた。
「く……ッ!」
得体の知れない恐慌から来る硬直を振りほどいたのは右手だった。
ナイフを抜き払い、ひと刹那のうちに窓に向けて投擲。廊下の幅というごく短い距離を銀光が疾駆する。
切っ先はあやまたず、咲夜と同じ顔をした幻影の眉間に突き刺さり、粉々にする。……ただの硝子を。
割れた窓から吹き込む風と雨の中、全身を濡らしながら咲夜はよろよろと立ち上がる。
もうあの声は聞こえない。あの姿も見えない。体も自由に動く。
「な……何だったの、一体……」
そう虚空に向けた問いに答えるものはいない……はずだった。
『私はあなた。十六夜咲夜よ』
「……ッ!?」
再び聞こえてきた自分の声に飛び退く咲夜。
誰もいないはずの廊下に、出所のわからない忍び笑いが鮮明に響く。
何だ。何が起こった。何が現れた。
再び身を焼く恐慌に視線をさまよわせたその先。
窓。
外が暗いためか、鏡のように咲夜の表情を不気味なほど鮮明に映し出している窓硝子。窓硝子に映った咲夜の、その背後。
『ここよ咲夜。私はいつもあなたの傍に居る』
その声は咲夜の背後、誰もいない、居るはずのない、咲夜が背を押し付けている壁の方から、否、咲夜の耳元で鮮明に聞こえた。
その意味を理解するよりも、恐怖で叫び声を上げるよりも優先して即座にナイフを抜き窓にその切っ先を向けようとして、
首筋に絡みつく二本の腕の幻触に阻まれる。……背後には誰も居ないのに。
いや、いる。
咲夜の背後――そう、
力を入れるでもなく、しなだれかかっただけにしか見えないその腕が、咲夜の全身の自由を奪っていた。
『だぁめ。乱暴は止しなさい?』
首筋にある腕の感触は紛れも無く現実のもので、しかしその実像だけが欠け落ちたように感じられない、おぞましい感覚。
窓に向き合った形で身動きが取れなくなった咲夜は、窓の向こう、自分の背後にいるであろう誰か、否、「何か」を凝視する。
平坦な硝子の面に写るのは、自分と、その後ろにいる――何か。
咲夜を抱きすくめている咲夜の顔をした何者かは、鏡の中に居る。鏡の中にしか居ない。
にも関わらずその口元から零れる忍び笑いは咲夜の耳元から聞こえる。
視覚情報と聴覚情報のずれが、咲夜の恐慌を容赦なく加速させていく。
『ねえ、咲夜。あの子の温もりは気持ち良かった? あの子の柔らかさは気持ち良かった?』
もがいても暴れても、首にかかった手の感触はびくともしない。それ以前に、体に力が入らない。
幻影だ。まやかしだ。そんな当たり前の認識をあざ笑うように咲夜を抱きすくめる腕の感触は現実のもので、
ただその声だけが夢幻の淵から響いてくるかのよう。
『雨は嫌よね、咲夜。じめじめするし、気分が滅入るし……』
硝子を雨が叩く音に雷鳴が混じり始めた。
吐き気を催すほど優しげな声が、咲夜の耳朶を冒す。
『でも良かったわよね。あんなに可愛いお客様が来てくれたのだもの』
全身が総毛立つくらいに澄んだ声が響く。
精神が直接冒されていく明確なおぞましさが咲夜の知覚を塗り潰し始める。
(何が起こったの? 何が居るの?)
「……何を、言って……!」
食いしばった歯の間からそれだけの言葉を搾り出すのがやっとだった。
今できる最大限の抵抗がそれだけであることを見透かしてか、幻影はその笑みを深めた。
『貴方は雨の日が嫌い。でも今日は特別。だってあの子が貴方を訪ねてきてくれたから。
だから誤魔化せた。あの子のお陰で。……いいえ、あの子を使って、貴方は自分の不快感を誤魔化せた』
「違う!」
怒声を上げたつもりが、咲夜の喉から漏れたのは、悲鳴と形容するのも憚られるような、か細い吐息だけ。
「わ、私は、そんな浅ましい事なんてしてない! 私は、あの子、あの子が、」
『孤独』
自分の言葉と噛み合わない、幻影の言葉。
そのたった一言が刃の鋭さで咲夜の心臓を貫き、ひとたまりもなく沈黙させた。
『貴方はここ紅魔館……魔物の群れ集う館でたった一人の人間。この紅魔館で一番弱い、存在。
貴方と同じ人間は、誰一人として居ない。ここにいる誰とも違う。ひとりぼっち』
動機が激しい。しかし指先は氷に触れているように体温を失って痺れて来ている。矛盾した感覚。
『だから……自分に近いあの子に惹かれている』
瞬間、膝が自重を支えるという役割を忘却した。壊れた人形のように、咲夜は床にへたり込む。
動けない。
「……あ……」
何もかも訳が分からない中で、たった一つ、咲夜は理解したからだ。
この幻影は一体何者なのか、ではなく。
この幻影はどうして現れたのか、ではなく。
そもそもこれは現実なのか、でもなく。
人間を壊すにはどうすればいいか、を。
際限なく苦痛を与えるか。長期間極限状態に晒すか。……どれも違う。そんな手間をかける必要はない。
正解はとても簡単。
「隠し事を、たったひとつだけ、取っておきのヤツを晒してやればいい」
……今の私が、そうされているように。
雨脚が強くなり、雷鳴が轟き始めた。
その中で、幻影の忍び笑いが、残酷な程はっきりと聞こえた。
「……っ!?」
背筋を撫でる悪寒と言うのも生易しい感覚に、妖夢はベッドから飛び起きた。
思わずあたりを見回す。
時折雷光に照らされる明かりの消えた部屋には未だ雨音が満ちている。それだけだ。変わった様子など何一つ無い。
だが、さっきの感覚。「気のせいか」で済ませられるようなものではなかった。
悪寒は一瞬だったが、動悸が収まらない。体の震えが止まらない。
「なに……なに、これ……!?」
何が起こっているのか、まるで分からない。それなのに、何か恐ろしいことが起こっているという確信だけがある。
正体の掴めない焦燥に駆られて、ベッドから降りる。ベッドから降りたところでどこに行くわけでもない。
だが、じっとしてなどいられない。
落ち着かなげに視線をさまよわせながらベッドから4、5歩程離れたテーブルに辿り着き、明かりをつける。
薄い灯明に照らされた部屋には、やはり何も異常は見当たらない。だが、否、だからこそ、おかしい。
「? なに、この音……?」
薄暗い部屋の中でかすかに聞こえる、何かがかたかたと鳴る音。
数瞬視線を巡らせると、その出所はすぐに分かった。
ベッドに立て掛けてあった、二振りの刀。楼観剣と白楼剣。それが小刻みに震えている。
「これって……!」
これと同じことがあったことを、妖夢は思い出す。
幽々子が白玉楼を所用で空けた折、結界の小さな綻びから悪霊が侵入して来たことがあった。
その際にこの二刀は今と同じように震えだし、悪霊の侵入を己の主である妖夢に報せ、事なきを得たことがあった。
いつも、不吉な事、危険な事があると、楼観・白楼の二刀はそれを嗅ぎ取ったかのようにこうして震えだすのだ。
この二刀一対がただの刀剣でないことの証である。
「楼観、白楼……! なに? 何を教えているの?」
そっと柄に手を伸ばす妖夢。刃を引き抜くと、薄暗い部屋の中でもまるでそれ自体が発光しているかのように、
その刃は銀光を放っている。
と、磨き抜かれたその刀身に鏡のように映し出された妖夢の顔が、水面に石を投じたように茫洋と輪郭を失い……
次いで、そこにはいない人物の顔と、そこではない場所を映し出す。
「え、な、何……!?」
見間違えるはずも無い、銀色の髪、青い瞳。……咲夜だ。食い入るようにぼやけた幻像に見入る妖夢。
生気の感じられない顔、空ろに宙に放り投げられた視線。身じろぎすらしない体。
その体を、得体の知れない――目を凝らせばそれは人間の形に見えなくも無い――ぼやけて霞んでいるのに
奇妙な存在感を感じさせる黒い靄が取り巻いている。
妖夢は呼吸することすら忘れたかのように息を詰め、瞬きする間すら惜しむように、
咲夜の足の投げ出された場所、背を凭れ掛けている場所を凝視する。
燭台の掛けられた壁……真っ赤で上品な絨毯……この館の廊下!?
それだけを刀身に映し出して、息が途切れたかのように幻像は消えてしまった。
刀身から幻像が完全に消えてしまう、その刹那。
何故か、一度も見たことの無い、想像したことも無い、子供のように声を上げて泣く咲夜の顔が、脳裏を過ぎった。
妖夢は刃を鞘に戻す。韻、と澄んだ鍔鳴りの音が室内に散った。
瞼を固く閉じ、開いたその瞳には、困惑の代わりに確信、焦燥の代わりに決意。
妖夢は二振りの愛刀を引っ掴み、部屋を飛び出す。
ほんの数秒間見ただけの幻像から得られる情報はあまりにも少ない。今しがた刀身に映し出された場所は一体どこなのか、
あの得体の知れない黒い靄は一体何なのか。だが妖夢にとって最も重要な情報な一つだけだった。
「咲夜さん……!」
それだけを食いしばった歯の間から漏らし、妖夢は紅魔館の、無限に続くとも思える廊下を駆け抜ける。
自己像幻視。
そんな言葉が咲夜の脳裏に浮かび、泡のように消えた。
あがくでもなく、もがくでもなく、身じろぎ一つせず、できず、
咲夜は窓硝子の中で壊れた人形のように自分と同じ顔の幻影の胸に背中から抱かれて映っている。
『そう……寂しかったのよね、咲夜。貴方には帰る場所がある、居るべき場所がある、そして仕えるべき主もいる。
でも、それでも貴方は孤独、ひとりぼっち。どれだけ近くに居ても、魔物と人間。その隔たりは決して埋まらない。
彼女らは貴方を理解することは出来ても、共感することは出来ない。
この館の誰も、誰も、誰も……貴方と同じ視線で物事を感じることは出来ない』
「止めて……」
幻影が慈しむように指先で頬をなぞりながら、耳元で囁くと、その感触は壁に身を預けている咲夜にはっきりと伝わった。
その声に咲夜は呟くようなか細い声でようやく反発する。
くすり、と喘う影。
『だから、貴方は惹かれたのね。自分により近い、あの子に』
「……」
『あの子はまるで本当の幼い子供みたいに、普通の人間みたいに素直に泣いたり笑ったりするから……安心するのね?』
「……」
そうかもしれない、と咲夜は霞のかかった頭でぼんやりと思う。
幻影の紡ぐ言葉は毒薬のように咲夜の認識を冒す。
抵抗が出来ない。
何故、抵抗することが出来ないのか。
得体の知れない幻影の、得体の知れない力で拘束されているからか。
否。
幻影の紡ぐ言葉は……真実だからだ。咲夜がそう思いたくないだけで、真実だからだ。
幻影の紡ぐ言葉、それこそが咲夜を縛る縛鎖なのだ。
何一つ、否定することが出来ない。
咲夜が紅魔館でただ一人の人間で、そのために彼女は根源的な孤独を抱えていることも、
自分に、即ち人間に近い妖夢に惹かれていることも、
彼女のごく人間らしい感情の発露が咲夜に安心を与えていることも。
ああ……この幻影は、本当に私だ、私なんだ。
咲夜は無根拠にそう思い始める。認識が弛緩している事が自覚できない。
「そう……そうね……私はあの子が好きなのね、きっと」
茫洋と呟く咲夜の言葉に笑みを深くする幻影。
『あの子の傍に居るの、好き?』
「……ええ、好きだわ」
『あの子を見つめるの、好き?』
「……ええ、好きだわ」
『あの子の髪の色、好き?』
「……ええ、好きだわ」
『あの子の笑った顔、好き?』
「……ええ、好きだわ」
『あの子の弱さが、好き?』
「……え」
咲夜は硝子に映った自分を抱きすくめる幻影を見上げる。
幻影は窓硝子の中から咲夜を見下ろす。
初めて気付く。
顔も髪も、文字通り鏡に映したように自分と同じだと思っていた幻影の、その瞳の色。
紅い。
血の凝結したような、凍てついた炎のような、夕日を閉じ込めたような……否。どれも違う。
この色を、間違いなく知っている。だのに思い出せない。……思い出してはいけない?
幻影はその赤い瞳で微笑みながら言う。幼い子供に語りかける口調。
『良かったわね。あの子が……自分より弱い誰かが貴方を頼ってきてくれたおかげで、貴方は自分を慰めることが出来た。
雨が降るといつも感じるあの落ち込んだ気分を、誤魔化すことが出来た』
「何を、言って……!」
『良かったわね。あの子が貴方よりも弱くて。幸せなことだわ、自分より弱い者がいるというのは』
「違う……ッ」
『違わないわ』
幻影は微笑みながら否定する。甘い、慈しむような笑みを浮かべて断じる。
『それに、貴方はあの子を見ているわけじゃない。あの子に重ね合わせて見ているだけ』
幻影はそこで一旦言葉を切る。
『過去の、自分をね』
今まで身じろぎもしなかった咲夜の肩が、びくりと跳ねる。
幻影の笑みが深くなる。
『ちょうど貴方があの子と同じくらいの頃だったわね』
「……知らない」
咲夜の呟きは、遠く響く遠雷にかき消された。
『ああして欲しかったこと、こうして欲しかったこと……貴方があの頃どんなに望んでも縋っても求めても与えられなかったこと、
それを貴方はあの子に与えることで、自分の過去にこびりついた腐臭を拭おうとしているのね』
「……知らない……」
『でもだめ。貴方がいくらあの子を抱きしめて優しくしても、自分の過去は拭えない。もう貴方は汚れてしまってるんだから』
「知らない……」
『あの子にあの頃の自分を重ねているのなら、咲夜、同じ事をしてあげたら……? 貴方がして欲しかったのと、同じ事……』
「……し、らない……」
『あの子、まだ
か細くて、でも熱い息で貴方の名前を呼びながら……』
「止めて……止めてえ……」
『でも、貴方はそれを求めたことがある。いえ、求めている。違うかしら?』
「ちが、う……」
弱々しくかぶりを振る咲夜の頭を優しげに両手で包み、幻影は咲夜の銀髪に口付ける。
窓硝子に映ったその姿が咲夜には、魔物とその牙にかかった哀れな贄に見えた。
『かわいそうな咲夜。私は貴方を責めているんじゃないの。
だって、人間が自分を安心させるために他人を使うなんて、当たり前のことでしょう?
誰でもしていることでしょう? だから貴方は悪くなんかない』
「そんな言い方……しないで……」
『それにあの子も、貴方を慕っている。貴方に憧れている。
貴方はあの子の理想なのよ。光栄なことじゃない?』
「……あの子は知らないのよ、私を、私の弱さを。……私の過去を!
ここに来る前、私がどんなことをしてきたか、どんなことをされてきたか!
……だから慕っていられる、憧れていられる」
『あの子は知らないのね、貴方を。あら? じゃああの子は……』
「そうよ……あの子は私を見てなんかいない。
あの子の見ているのは、あの子の中で理想化された十六夜咲夜。わたしじゃ……なく」
『そう、気付いていたのね』
「……ええ、気付いていたわ。でも、あの子は気付いていない」
『そう、あの子は気付いていない。
貴方にいちばん近いはずのあの子も、貴方を理解していない、見ていない、共感できない……そう、やっぱり貴方は孤独なのね』
「ええ、私は孤独……一人ぼっち、だわ」
幻影が咲夜の襟元に顔を埋め、頬に口付ける。心地よいのか、おぞましいのか、それすらも判別できない。
『でも、私は知っている。貴方の弱さも、貴方の過去も、貴方の悲しみも、貴方の孤独も、ぜんぶ』
「ぜん、ぶ……?」
『そう、全部』
すう、と窓硝子の中の幻影が腕を伸ばす。……壁に背を預けている、咲夜に向かって。
まるでそれが当たり前だといわんばかりに、幻影の両手が硝子を透過して差し伸べられるのを、咲夜はぼんやりと眺めていた。
『だって、私は貴方だもの。貴方のことなら何でも分かる。貴方のことなら何でも知ってる。
貴方のこと、全部を、受け入れてあげられる』
指先が、肘が、肩がそして全身が窓硝子から完全に抜け出る。
今や幻影は咲夜の眼前に、確固たる存在感を纏って躇立していた。
青い瞳が見上げる。
赤い瞳が見下ろす。
「私を……全部……?」
『そう。貴方を、全部』
仕える主にも、小さな庭師にも求められない、できない、自分の全てを受容するということ。
それをこの幻影はできるという。
通常の認識を咲夜が保っていたなら、この幻影に身を委ねればどうなるかはまだしも、
この幻影に身を委ねるということがどういうことかを悟る事は出来たはずだった。
しかしこのときの咲夜の無防備な認識はそれをすることも出来ず、
幻影の言葉にただこの上ない甘美さを感じることしか出来ないでいた。
差し伸べられた幻影の手に導かれるように、咲夜がふらりと立ち上がる。自発的でない、歪な動作。
そのまま、雲の上を歩むかのような足取りで、一歩、二歩。
幻影は両手を広げ、抱擁するように咲夜を迎える。決して幻影の方からは動こうとしない。
制約や躊躇などでは当然ない、獲物が自分からその首を差し出しに来るのを待ち受ける、捕食者の愉悦が赤い瞳に滲む。
咲夜の足が緩慢に、だが確実に最後の一歩を踏み出そうとした、その刹那。
「咲夜さあん!!」
鋭い声が、夜気を切り裂いて迸った。
妖夢がそこへ辿り着けた理由は、彼女自身にも分からない。
初めて訪れたこの館の中の構造など妖夢が知る由もなく、赤い絨毯の敷かれた廊下などこの館の中にはどこにでもある。
そもそも妖夢が咲夜の部屋で見た幻像が現実に起こっていることであるという保証などどこにもなかった。
だが、果たして咲夜はそこにいた。
窓が一つ割れ、廊下に雨風が舞い込む中、咲夜はそこにいた。
明らかに意識が明瞭でない、あるいは正常でない視線で、妖夢には見えない何かを見ている。
一体何が起こったのか、また起こっているのか、この状況から妖夢に理解できることなど何一つ無い。
今は全てに優先してすべきことがある。即座に実行する。
「咲夜さあん!!」
あらん限りの大音声で、その名を呼ぶ。迸った声は、ほとんど悲鳴。
咲夜は……反応しない。
空ろな視線を窓硝子に据えたまま、まるで見えない糸で吊られているかのように、
意思の感じられない仕草で右手をゆっくりと伸ばす――その先。
「!!」
そこに至って妖夢は、初めて咲夜の視線の先にあるものを認めた。
赤い絨毯の廊下にずらりと並んだ窓硝子。
外が深夜の暗さのため、廊下の内側を鏡のように映している。
吹き込む風雨に濡れた絨毯も、頼りなく揺らめく燭台の炎も、
そして蒼白な表情に深く影を落としている妖夢の顔も、全てを等しく映している。
映している、はずなのに。
咲夜の真正面の窓硝子には、咲夜が映っていない。何も映っていない。
ただ墨を流したような、深い深い夜の闇があるだけ。
それが妖夢には、どんな醜怪な怪物よりも不気味なものに見えた。
それに咲夜は手を差し伸べている。妖夢の一度も目にしたことの無い、無防備な、
迷子が親を見つけて安堵したときのような表情で、窓硝子に歩み寄ろうとしている。
咲夜を止めなければ、取り返しのつかないことになる、そう直感、否、確信する。
刹那。
妖夢の脳裡から「咲夜を止める」以外の全ての思考が吹き飛んだ。
単一の目的行動のもとに完全に統一化された精神と肉体との間に遅延は無い。「咲夜を止める」と思ったと同時に、
妖夢の肉体はその為に必要にして有効な行動を完成していた。
裸足で床を蹴り、白楼剣を抜き放ち、咲夜の真正面の窓硝子までの間合いを一足に詰め、
「
裂帛の気合と共に、その切っ先を窓硝子に突き込む。
速度と体重、そして霊力の十分に乗せられた切っ先は、狙い違わず窓硝子の中心に吸い込まれ、
ぶつんッ
――固いものが柔らかいものを突き抜ける感触が、した。容易に動物の――人間の肉体を破砕した様を想起させる感触。
おぞましい違和感が柄を通して固い硝子の砕け散る感触を予想していた妖夢の腕を這い昇る。全く想定していなかった感触に、
妖夢の意識に一瞬の空隙が出来た。その空隙を衝くかのように、再び異状。
白楼剣が突き刺さった窓硝子の割れ目から、つ、と滑り落ちる――赤い液体。
それを見るものに「鮮血」の二文字を強制的に想起させる、鮮烈な色。妖夢もまた、その色に鮮血の赤を見た。
そして、爆裂。
樽をひっくり返したような量の鮮血が、硝子の割れ目から爆ぜるように噴き出す。
赤黒い奔流が廊下の絨毯を、そして妖夢の全身を、腕といわず足といわず濡らしていく。
度を越した錯乱寸前の恐怖と混乱は、妖夢の思考を容易に凍結させた。
身じろぎすることも出来ず、妖夢は鮮血の迸るまま立ちすくむことしか出来ない。
臭気。鉄の錆びた臭いに酷似した、しかし決定的な生物臭を孕んだ臭気が、瞬く間に冷えた夜気を冒した。
凍りついた妖夢の思考が、悲鳴を上げるという形で溶解しようとしたその刹那、
ぎゃ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ
それを押さえ込むように、絶叫が上がった。
人間の喉から発声される声では断じて無い、魂切る叫喚。聞く者の魂さえも千々に引き裂くかのような叫び。
どこから聞こえてくるのかすら分からない悲鳴が、狭い廊下を伽藍の如くに響き渡る。
まるで割られた窓硝子が断末魔を上げているような、そんな錯覚すら覚える。
そう、錯覚。
硝子窓が悲鳴など上げるはずがない。
鮮血を噴出し続ける硝子窓の、その正面。
電気に打たれたかのように全身を痙攣させ、目を真円に見開き、
着衣を引き裂かんばかりの力のこもった両腕で自身を掻き抱く――咲夜。
断末魔はその口中から、窓硝子から噴出し続ける鮮血と同様に際限なく吐き出されている。
これじゃ、これじゃ、まるで、(駄目だ、駄目だ! 考えるな! そんなことがあるはずが無い!)
「う……」
まるで、わた、わたしが、(止めろ! 止めろ! それ以上考えるな!)
「う、うあ、ああ……!!」
わたしが、咲夜さんを……!!!
「うわ、あああ、ああっ……わあああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
鮮血を噴き出す窓硝子と絶叫を上げる咲夜という二つの光景が想像し得る内で最悪の符合を成した瞬間、
妖夢の認識は粉々に砕け散り、崩壊し混濁し蹂躙された。
頭の中でぐわんぐわんと反響するその叫喚の中、妖夢もまたついに絶叫を上げた。
二つの絶叫はねじれ合い、絡まり合い、壮絶な交響曲と成り果てて雷雨の中を転げ回る。
視覚と聴覚の両方から正常な認識を冒され、妖夢の意識は糸が切れるように闇に落ちた。
覚醒は穏やかだった。
割れた窓から吹き込む風の冷たさに、妖夢は身じろぎしながら身を起こす。
「ん……う、うう……」
固い廊下に横たえていた体がぎしぎしと痛む。
一体どれくらい倒れていたのだろうか。窓の方を見やると、まだ外は雨に閉ざされて暗いままだった。
「……っ!」
廊下に倒れ伏すその前、最後に見、そして感じたあのこの世のものならぬおぞましい光景と感触が、
おぼろげだった妖夢の意識を一気に覚醒へと引き上げた。
全身を見回す。濡れている……雨に。
窓硝子が二枚割れており、そこから雨風が吹き込んでいる。しかし、あのとき妖夢の全身を濡らした鮮血の痕跡はどこにも無い。
「……」
幻覚……だったのか。
だが妖夢の記憶に残る重く濡れた服の感触と鉄臭い臭気は、とても幻覚の二文字で片付けられる程曖昧なものではなかった。
そしてもう一つ、妖夢の耳朶に張り付いて離れない……あの、声。
「咲夜さん!?」
果たして咲夜は妖夢と同じに全身を雨に濡らして倒れていた。
その蒼白な顔色は容易に妖夢に最悪の仮定を喚起させるもので、
妖夢は弾かれたように仰向けに倒れている咲夜に駆け寄り、脈と呼吸を確かめる。
脈と呼吸は……正常なものだった。
妖夢は安堵の溜息をつく。だがそれも束の間、妖夢は咲夜が目を覚ます気配の無いのに気付き、
咲夜に飛びつきその名を何度も叫んだ。
呼ぶうちに蒼白だった咲夜の頬に赤味が差し、眉根がぴくりと動き、
やがて瞼がゆっくりと、またすぐ閉じてしまいそうな弱々しさで開いた。
「妖……夢……?」
「咲夜さん……!」
咲夜の意識は妖夢がそうだったようにまだ曖昧な様子ではあったが、はっきりと妖夢を認めた。
今度こそ本当に、心の底からの安堵の溜息をつく妖夢。その拍子に全身の力が抜けてしまい、妖夢はへなへなと床にへたり込む。
今の今まで張り詰めていた緊張の糸が切れたのか、妖夢はしきりに両手の甲で目元を拭いながらしゃくり上げていた。
しばらくそうしていたが、やおら思い出したように咲夜の胸元に飛びつく。
「咲夜さん、咲夜さん……!」
今にも泣きじゃくり始めそうな妖夢の表情。そんな妖夢の泣く顔を見たくなくて――
消えてしまったはずの幻影の声が、聞こえた。
本当に? 本当にそう? 違うでしょう? 本当は違うでしょう?
本当は何もかもここで洗いざらい明かしてしまいたいんじゃないの?
でも、貴方は知っている。
貴方の悲しみと苦しみは誰にも誰とも共有できないことを知っている。
いえ、そう思い込んでいる。
だから貴方はこんなに苦しいのにこんなに悲しいのにこの期に及んで笑顔を見せようとしている。
……
いいわ。
ほら、そうしたいならそうなさい。せいぜい下手な作り笑顔を見せてあげると良いわ――
でも。
あの子がそんなへたくそな笑顔で、騙されるかしらね――?
――咲夜が笑って見せたその顔は、妖夢には、歪んで見えた。引っかき傷だらけの、人形の顔に見えた。
見えただけではない。はっきり聞こえた。――ぎしり、と、軋む音。
瞬間、妖夢の胸中に怒りとも悲しみともつかない感情が湧いた。
咲夜の笑顔が幼い自分にもはっきり分かるほど作り笑顔だったからだろうか。
その作り笑顔があまりにも痛ましかったからだろうか。
作り笑顔を向けられて疎外感を感じたからだろうか。
それとも、その全部だろうか。
そんなまとまり無く渦巻く感情に耐え切れず、妖夢は叫んでいた。
「どうして!?」
なぜそんな言葉が口を突いて出たのか、分からない。それこそ「どうして」だ。妖夢はもう考えて喋っていなかった。
ただひたすらに、詰まった息を吐き出すように、叫ぶ。
「わたし、わたしには、一体何が起こったのかなんて全然分かりません!
咲夜さんが何を見たのかも、あの時見たものがなんなのかも!
でも、咲夜さん怖かったんでしょ!? 辛かったんでしょ!? じゃあ! じゃあ……!」
息が詰まり涙が溢れ、まともに言葉が出てこなくなってしまった。
幼い子供のように顔を涙でくしゃくしゃにして、乱れた呼吸の間から、それでも妖夢は言葉を搾り出す。
「泣いて! お願い咲夜さん、泣いて! そんな顔で笑わないで、泣いて! 怖いなら泣いて!! 辛いなら泣いて!!」
両手で咲夜の襟元を思い切り掴み、噛み付くように叫ぶ。
「じゃないと壊れちゃう! 咲夜さん壊れちゃう! わたしイヤだ、そんなのイヤだ!」
妖夢がかぶりを振るたび、涙が飛び散る。咲夜の頬に、ひと雫、飛んだ。ひどく、熱かった。
「わたしは咲夜さんのことなんにも知らない……
食べ物の好みも、趣味も、休みの日はどんな風に過ごしているのかも……昔のことも……
でも、でも! だからって! 咲夜さんのこと好きなのに! こんなに、こんなに好きなのに!
……泣き顔も見せてくれないなんて、ひどいよおお……っ!!」
言葉は嗚咽に飲まれ、もうよく聞き取れない。妖夢は言葉を詰まらせながら、咲夜の胸にしがみつく。
「泣いてくれなきゃ、殴ってでも泣かしてやるからあ……」
顔を咲夜の胸に埋めて言った妖夢の、その言葉。
止め、だった。
どんなに鋭いナイフよりも深く、咲夜の胸を抉った。迸るのは、鮮血……ではなく。
「あ……」
声と言うにはあまりにささやかな吐息が漏れた。
胸が熱い。妖夢の涙が、吐息が、胸元に染み込んでくる。
それと同じに、自分の頬もまた熱いのを、咲夜はぼんやりと感じた。
泣いていた。
目元から流れた涙滴が、頬を伝い、顎を伝い、零れ落ちた。
零れ落ちて、胸元の妖夢の頬に落ちて砕ける。
落ちて砕けて、妖夢の流した涙と混ざり合った。
妖夢が、顔を上げた。
顔を上げて、咲夜の顔を見た。
泣いていた。
涙を流していた。一度も見たことの無かった、初めて見る、咲夜の涙。
妖夢は泣きながら……笑った。
涙に埋もれてはいたが、確かに笑顔を浮かべた。
咲夜の両手が、ゆっくりと、恐る恐る、妖夢の肩に伸ばされた。
その手に、そっと、脆い硝子細工に触れるように、妖夢の手が添えられた。
妖夢は涙で濡れた笑顔で、頷く。
目顔で、言った。
いいんですよ。
我慢する必要がないのだと理解した。
咲夜は妖夢にしがみついて、泣いた。
声を上げて、泣いた。
子供のように、泣いた。
妖夢も泣いた。
しがみつく咲夜の髪を撫でながら、泣いた。
咲夜を抱きしめながら、泣いた。
泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣き続けて。
雨はいつの間にか止んでいるのに、二人ともびしょぬれだった。
寒くは、なかった。
翌日は快晴だった。
朝から強い日差しが降り注ぎ、空には見事な虹がかかっている。
そんな朝、妖夢と同じに泣き腫らしたのか、目を赤くした幽々子が紅魔館を訪れた。
咲夜と一緒にいつものように美鈴が門番をしている門まで出てきた妖夢に、
幽々子は少しだけためらった後、ごめんなさい、と一言言った。
妖夢も、ごめんなさいとだけ言った。
それで全部だった。
幽々子は飛びつくように妖夢を抱き締め、妖夢は何も言わずに幽々子の胸に顔を埋めていた。
「うちの妖夢が、お世話かけちゃったわね」
ばつが悪そうに、幽々子。
「いいえ……」
軽く笑みながら、咲夜はそれだけ言った。
そんな咲夜の顔を、幽々子がまじまじと見つめる。
「……。なに?」
「……あなた、変わった」
「変わった……って、何が」
「んー」
視線を宙にさまよわせる幽々子。妖夢も不思議そうな顔をしている。
ややあって幽々子は、くすりと笑って、
「なんだか、柔らかくなった」
そう言った。
きょとんとする咲夜。笑みを浮かべる妖夢。
ややあって、咲夜もまた、笑みを浮かべた。
「あなたの従者の、お陰ですわ」
今度は幽々子が、きょとんとする番だった。
その後、二言三言言葉を交わし、幽々子と妖夢は帰っていった。
帰り際、妖夢は振り返り、また来ます、とだけ言った。
咲夜は、またおいでなさい、とだけ言った。
二人とも、何となく昨晩の出来事は口にしなかった。
美鈴の、妖夢ちゃんまたねー、というのんきな声を聞くと、咲夜は妙に安心した。
いつもの日々に帰ってきたんだという実感が、じわりと胸に広がった。
仕事が始まるまで、まだ少し時間がある。咲夜は自分の部屋に戻った。
ドアを開け、いつも雨の日にそうしているように、窓辺に立つ。
結局のところ、あの幻影は、なんだったんだろう。
考えたところで答えが出るはずもないが、やはり考えずにはいられない。
「……」
孤独に弱った自分の心が生み出した、幻影だったのだろうか。それとも……。
「ほんとうに、わたし……だったの?」
咲夜の脳裏に、幻影の声が蘇る。
――……
いいわ。
ほら、そうしたいならそうなさい。せいぜい下手な作り笑顔を見せてあげると良いわ――
でも。
あの子がそんなへたくそな笑顔で、騙されるかしらね――?
もしかしたら。
私の願望だったのかもしれない。
ひたすら隠して、誰にも見せたことのなかった本心を、誰かに、無理やりにでも暴かれて、そして恥も外聞もなく、
子供のように泣きたかったという、わたしの願望だったのかもしれない。
ひたり、と、窓硝子に触れる。冷たく澄んだ感触。
「
窓硝子の中で。
泣き腫らして……赤い目の咲夜が、微笑んでいる。
読んだ後に心地よさが感じられました。
ゆゆ様はきょとんとしたあとに事情を察した描写が欲しかったか。カンは良い方だと思いますし・・・いささか曲解気味だがw
まーこれも感想というより願望?
妖夢の心情描写と格好付けてないストレートな台詞回しが
心に響きました
4倍ぐらいの点数が入っててもおかしくない作品だと思います
寂しい時は素直に泣いても言い・・・・・
人間の心は強くないのですから・・・・・
すごく面白かったです。