――それは遠い記憶。
猫。
鳴子。
祭囃子。
甘い清水。
こっちだね。
こっちだよと。
誰かが呼んでる。
ボクを呼んでいる。
誰が? 分からない。
誰の声だか分からない。
誰かがボクを呼んでいる。
こっちに来なと呼んでいる。
こっちにおいでと呼んでいる。
そっちよりもこっちが良いよと。
一緒に来てよと、ボクを呼ぶんだ。
行っちゃいけないと、ママは言った。
誘われても、行っちゃいけないよって。
どこか遠くへ――さらわれてしまうから。
一人で遠くへ。一人へ何処かへ。何処かへ。
行ったら戻ってこられないよ。そう言われた。
決して戻ってこられないんだよ。そう言われた。
誰かと遠くへ。誰かと何処かへ。誰かと何処かへ。
行ったら帰してくれないよ――そうも言われたんだ。
けど、ボクはガマンできなかった。行きたかったんだ。
その声は、その音は、その姿は、その影は、その匂いは。
とっても楽しそうで。向こう側はとてもとても楽しそうで。
ダメだって言われれば言われるほど、ボクは行きたくなった。
きっと、大人たちは、わかってるんだ。向こう側に何があるか。
子供にあげるのがもったいない、良いものが、きっとあるからだ。
だから――行っちゃダメだ。見ちゃダメだ。そうボクらに言うんだ。
大人たちは、ボクらの知らないうちに、向こうにそっと行ってるんだ。
オイデ――オイデ――コチラヘオイデ――アソビニオイデヨ――オイデ。
誰かが呼んでる。それとも何か? 分からない。ボクには分からない。
分からないけど、その声に、その音に、その姿に、ボクは誘われて。
ついて行ったんだ。森の奥へと。行っちゃダメよと言われた森に。
深い夜だった。いつもの優しい月は、枝葉の向こうに隠れてた。
森の中は暗かった。星も月も届かない。田舎の森は真っ暗だ。
ざわざわと樹が揺れる。枝が揺れる。ざわざわと声がする。
枝の声。樹の声。葉の声。ナニカが喋る、ささやき声が。
森の中は暗くて、ざわざわと喋っている人が見えない。
ボクしかいない。深い森に、ボクしか。ボクだけだ。
急に怖くなった。声に誘われて、ボクは森に来た。
自分の意志で、奥が見たくて、森に行ったんだ。
でも、でも本当は――ボクの意志じゃなくて。
森の意志で。行かされたんじゃないかって。
そんなことを、ボクは、思ってしまった。
もちろんそれは、弱気なボクの妄想だ。
ボクは、自分の意志で、ここに来た。
暗くて、ちょっと怖くなっただけ。
自分の意志でボクは歩いている。
奥へ、森の奥へ――闇の中へ。
歩く。歩く。歩きつづける。
森の奥へ。奥へ。真奥へ。
外へ。外へ。街の外へ。
森の中へ。街の外へ。
どんどんずんずん。
ボクは歩いてく。
たった一人で。
誰もいない。
ボクだけ。
一人で。
森へ。
森。
夜へ。
暗い森。
夜中の森。
深く暗い森。
昼間とは違う。
怖いと、思った。
こんなに、暗くて。
こんなに、恐ろしい。
夜の森は、違う世界だ。
いつもの森とは違う場所。
いつもの街とは別の異世界。
ボクは――知らなかったんだ。
夜の森が、こんな場所だなんて。
ここは本当に――森なんだろうか。
ここは本当に、いつもの森だろうか。
森の中を歩いて、歩いて、歩き続けて。
いつしか、違う世界に辿り着いたのかも。
ボクは森の中、ふと、そう思ってしまった。
怖い。怖い。とても怖い。暗くて、恐ろしい。
暑い、夏のはずなのに。真夏の夜だというのに。
こんなにも寒くて、怖い。身体が震えそうになる。
オバケ屋敷でもこうはならない。こうも怖くはない。
本当にオバケに会ったみたい。夜のお墓にいるみたい。
くすくす、ざわざわ、ぺちゃぺちゃ。森たちのささやき。
それはきっと、森のオバケの声だ。風が届けるうわさ話だ。
生贄が来たよ。おもちゃがきたよ。人の子が迷い込んだよと。
オバケたちは、噂してるんだ。ボクのことを。哀れな生け贄を。
大人の忠告を聞かないで、夜の森に迷い込んできた、ボクの噂を。
右腕のテンプラ。からり。左腕のハンバーグ。ぐしゃり、ぱっくん。
右足はお刺身。左足は串焼き。オバケたちは、仲良くぺろりと食べる。
ここは美味しいよ? 子供の肉は、柔らかくて、とっても美味しいんだ。
そんなことを、オバケたちがささやいてる。ボクを食べる相談をする。
風のささやきは、その声だ。身体に触れる風は、オバケたちの手だ。
ボクを狙って、彼らは今か今かと、よだれを垂らして待っている。
怖くなった。夜の森が。夜の森にいる、僕の知らないダレカが。
怖くて――ボクは、走り出した。月の光を頼りに、森の中を。
もちろん、うまく走れない。足元は不安定で、走りにくい。
何度もこけそうになった。でも、走るのを止めなかった。
走れば走るほど、後ろからついてくる声が、聞こえた。
オヤ、クイモノがニゲタゾ。オエ、オエ。タベルゾ。
ホラ、サイショニツカマエタモノが、ソコをクエ。
そんな声がボクの耳に、ひっそりと届いたから。
きつくて、足を止めたかった。でも、無理だ。
足を止めたら、きっと、つかまってしまう。
走る。前だけを見て。振り向けなかった。
振り向いたら、すぐそこに、いるから。
ナニカが、いるに違いなかったから。
怖くて、振り向くなんて出来ない。
走る。走る――ひたすらに走る。
どこへ? 分からない。何も。
どこに向かって走るのかも。
どこへ走ればいいのかも。
いつまで走るのかさえ。
分からないまま走る。
ひたすらに逃げる。
走って、逃げる。
足がもつれる。
靴が絡まる。
それでも。
ボクは。
走る。
あ。
痛い。
こけた。
木の根だ。
つまづいた。
足元は、暗い。
暗くて見えない。
多分木の根だろう。
それとも――まさか。
足をひっぱられたのか。
誰かに――何かに。足を。
ひっぱられて、こけたのか。
ボクにはまったく分からない。
分からないから、恐ろしかった。
怖くて、逃げたくて。でもこけて。
足はもう動かない。起き上がれない。
土の地面の上。どたばたともがくだけ。
陸にあげられた、小さな魚みたいだった。
ぱっくりと、食べられるのを待つだけの魚。
それが今のボクだった。食べられるのを待つ。
震えながら、声も出せずに、その時を、待った。
「ム。このコはオカシイゾ」――誰かが、そう言う。
「ホントウだ。ホントウだ。オカシイぞ」とも言った。
「食べれないゾ?」「分からない」「ドウシテなんだ?」
「ヘンだ、ヘンだ、ヘンなんだ!」「アイマイなんだよね」
ボクの周りで、たくさんの声。森と風と虫とそれ以外の声。
ボクを食べようと相談する声。ボクを食べられないと悩む声。
ひょっとして、食べられずに済むんだろうか。ボクは安心した。
誰だって、得体の知れないナニカに、頭から食べられたくはない。
どうして食べられないのか、分からないけれど、それでも安心した。
けど、それは、ボクの勝手な想像だったんだ。そんなはずはなかった。
カレらは、ボクを食べたくて食べたくて、少しでもいいから食べたくて。
「この部分ダケデモ――イタダクとしようか」「涙でこぼれた、ココを」
暗い森の中。彼らの見えない手が、ボクに伸びる。涙に濡れた瞳へ。
泣いている、ボクの瞳に、彼らの見えない手が、ずずりと伸びる。
止めることは、できなかった。ボクの手は、地面を迷っていた。
見えない彼らの手を、ボクは止めることなんて出来なかった。
変わっていく光景だけを、ボクは、泣きながら、見ていた。
「ワシが右目を貰おう」全てが見えなくなるその瞬間まで。
「私はヒダリメ」その声を最後に、ボクは、光を失った。
誰かの、楽しそうな、嬉しそうな声だけが聞こえる。
美味しそうに、ボクの瞳を食べる音が耳に届いた。
ぱくり。むしゃり。ごくり。ぺろり。そんな音。
瞳は二つも無くなって、何も見えなくなって。
音だけの世界を、ボクは、ずっと聞いてた。
カレラが満足げに、去っていくときまで。
カレラの声が、耳に聞こえなくなった。
静かないつもの夜の森が戻ってきた。
かすかな蟲のざわめきが聞こえる。
夜の森の、静かなしゃべり声が。
煩い彼らはもうここにいない。
ボクは立って、周りを見た。
何も見えなかった。何も。
でも、ボクは、歩いた。
帰りたかった。家に。
何も見えないけど。
家に、帰りたい。
闇の世界の中。
ボクは歩く。
手探りで。
闇の中。
暗い。
闇。
夜闇。
暗い瞳。
冥い世界。
光のない瞳。
それでも歩く。
何も、見えない。
手探りだけが頼り。
時には四つんばいに。
時にはこけて転がって。
それでもボクは、歩いた。
家へ、家へ――家へと歩く。
どこに家があるか分からない。
ボクはどこへ行けばいいのかも。
何も分からなくても、歩く。歩く。
帰りたい。帰りたいよう。怖いよう。
でも泣けない。瞳がないから泣けない。
空っぽの目からは、空っぽの涙は出ない。
ぽっかりあいたそこには闇だけが座ってる。
無くなった瞳の代わりに、闇が、そこにいる。
だからボクには何も見えない。闇しか見えない。
真っ暗な世界しか見えずに、ボクは歩きつづける。
ボクはどれくらいの距離を歩いたのかも分からない。
半里か一里か。三千里か。ぐるぐる回っているだけか。
歩きつづける、瞳のないボクには、まったく分からない。
ただ、その果て、真っ暗な世界の中で、そのヒトに会った。
「あら――貴方。瞳がないのね」優しい、女のヒトの声だった。
「取られてしまったのね。バカな子。こっちに、迷い込むからよ」
否定はしなかった。ボクはバカだったから。夜の森に入るなんて。
バカでしかないボクへ、そのヒトは、くすりと笑って、こう言った。
「貴方のお名前は?」答えるかどうか、ボクは悩んだ。名前を教える事。
簡単に教えてはいけないよ、とボクは言われてた。でも、ボクは言った。
これ以上悪くならないと思ったからだ。正直に、ボクの名前を言った。
「××××××・×××です」闇の中。そのヒトが、くすりと笑った。
「あら、素敵な名前ね」笑いながら言った。「面白い、面白いこと」
くすくすと笑う声。なにがおかしいのか、ボクには分からない。
「面白いついでに――貴方には、これをあげましょう」笑う声。
「知らないヒトからモノをもらっちゃいけないって、母様が」
「今知り合ったのよ」ボクにそう言う彼女の声は近かった。
ボクのすぐ目の前に、その女のヒトは立っていたのだ。
まったく音がしなかった。どうやって近づいたのか。
分からなかった。怖かった。さっきのオバケより。
でも、目が見えないから逃げることはできない。
闇の中、づ、と手が近寄ってくるのを感じた。
彼女が手に持つ何かが、瞳に押し込まれた。
ずぶずぶと、空っぽの瞳に押し込まれる。
丸い、二つの、目の玉が、ボクの中に。
取られて無くなった目玉の代わりに。
新しい目玉が、ボクの瞳に居座る。
視界に――世界に、光が、戻る。
新しい目はボクのものになる。
きちんと、世界が、見える。
「それで見えるでしょう?」
ボクはこくりと頷いた。
女のヒト言うとおり。
新しい目は馴染む。
世界が、見える。
光が瞳に戻る。
でも、変だ。
光がある。
白い光。
灯火。
光。
灯光。
薄い白。
夜の森で。
なぜだろう。
光は無いはず。
幽に揺らめく光。
ゆらゆらと、光る。
陽炎のように、光る。
不確かな、不思議な光。
そんな光が、瞳にうつる。
おかしいな――おかしいよ。
そんなもの、ボクは知らない。
ボクは見たことがなかったのに。
いったい、あの光は、なんだろう?
靄のように存在する、不思議な光は。
「見えるでしょう」女の人が笑って言う。
「コレは何?」ボクは彼女へ正直に訊ねた。
新しい目を貰ったら、こんなものが見えた。
きっと、なにか――目に仕掛けがあったのだ。
女のヒトは、ボクの疑問に、笑ってうなずいた。
新しい瞳にうつる、女のヒトの姿は、綺麗だった。
金色の長い髪の毛と、ふわふわした、紫色のお洋服。
ボクも――ボクも、大きくなったら、こうなるのかな。
紫色の、不思議な女のヒトは、笑いながら、こう言った。
「貴方のその瞳は境界を見る瞳。結界を見る程度の能力の瞳」
ナニを言っているのか分からなかった。けど、感じてはいた。
この目は、変な目だ。変なだけじゃない、とんでもない目だと。
いつか――きっと、いつの日か。この目が、ボクの運命を変える。
そんな気がした。それはきっと、気のせいじゃなくて、ホントウだ。
女のヒトは、優しい瞳でボクを見て、優しく微笑んで、こう、言った。
「その瞳が見るものに、貴方の手が触れるときが――いつか来るでしょう」
声は優しかった。優しいから怖かった。ボクは、今さら気付いたんだ。
このヒトは、きっと、『人間』じゃないんだってことに、ようやく。
さっきまで姿に見えなかったモノなんかより、よっぽど怖いモノ。
だって――女のヒトの綺麗な姿は、ボクの目には、こう見えた。
ゆらゆらとゆれる光のような、『境界』そのもののヒト型に。
「そのときこそ貴方は名を捨て――××・×に『成る』よの」
そのヒトは、そう言って。ボクに目と、種を植え付けて。
ふらりと、光に溶け込むように、境界に溶けて消えた。
あとには、ボクと、遠くにある光の境界だけが残る。
彼女が言ったことを、ボクはよく分からなかった。
何かとんでもないことが、決定されてしまった。
それだけは――はっきりと心に書き込まれた。
でも、それはきっと、遠い遠い先のことだ。
今は帰ろう。帰ろう。お家へ――還ろう。
きっと、あの光の先にボクの家はある。
森の外に通じてる。ボクの世界へと。
いつもの、暖かな、人の世界へと。
光の境界は、きっと通じている。
ボクは歩く。そこに向かって。
新しい瞳で、光を見ながら。
不思議な森をあとにする。
幻想の郷をあとにする。
人の世界へ、戻ろう。
たとえ――それが。
泡沫の、夢でも。
ボクの世界へ。
光のもとへ。
光の奥へ。
還ろう。
家に。
光。
光―――――――――――――――――――――――――――――――
(END...?)
山が変わる度にもっと大きな変化があればよかったかも。
2-3つめ、4-5つめは中身もそのまま続いてて、せっかくの形の意味が薄かったような。
レイアウトで惹かれ、内容で魅せられ、後書きで唸らされた。
いや、WebにおけるSSの可能性を魅せられた気分です。
ごちそうさまでしたw
中庸ほどを。
と呆けておりました。
で。
>そういうの、メリーの方が詳しいんじゃないかしら?
は、蓮子の方が、ではないでしょうか。
ですが、ぱっと読んで秘封臭があまり感じられずコメントでカバーした感が有りましたのでこの点数とさせていただきましたスミマセン。
あと、これ読んでると星新一(だったか忘れましたが、もしかしたら違うかも…)の異次元に吸い込まれる話思い出した。
そこで語られる物語すら、「彼女」の能力によって
美しく形成された、ということか・・・。
いや全くお見事です。
現実と幻想の境界を楽しませていただきました。
色々と考えさせられます。
東方での裏づけの或る構成文というものも興味深いですね。