幻想郷の竹林。
霧が立ち籠め昼なお暗く、道なき道を踏み越えたその果てに。
数多の竹に隠れるように、一軒の屋敷があると聞く。
時を忘れた当主が名づけて曰く「永遠亭」と。
妖怪兎の子供たちが、最近よく絵日記を書いたといって私のところに持ってくる。
今日はどこに行った、何をした、こんなだったあんなだったという些細な出来事が、稚拙な絵と共に一生懸命書かれている。
私はその一つ一つにじっくりと目を通し、感想を言ってあげる。
一匹一匹皆違う。
外見はまだ人の形を取るほど妖力がないためタダの兎だから、見分けは付きにくい。
それでも、その絵に描かれることと文に記されることは誰もが違う。
そんな中、一匹の妖怪兎がすっかり老獪になったてゐを通訳にして言った。
「姫様は、日記とか書かれないんですか?」
笑って答えた。
私にはそんな必要はないわ。この永遠亭にいる限り、日記をつけるほどの大きな事件なんて殆どないからね、と。
この永遠亭は時が止まっている。
私がいる限り、時間は万年雪のように降り積もったまま。溶けることなくただ蓄積されていくだけ。
事件なんてものは、ずいぶん昔に永琳が満月を隠した時、博麗神社の巫女と隙間妖怪が押しかけてきたことくらいなものだ。
客人などとうの昔に絶えた。
最後にここを訪れた人間は、いったい誰だったか。
ここを訪れた人間…………?
「姫様? どうなさいました?」
てゐが私に尋ねるが、その声もかすかにしか聞こえない。
何かが記憶の底から浮かび上がってくる。
遠い昔に交わした、ある約束を。
人間という言葉を鍵に、忘却の彼方にあったはずの月日が蘇ってくる。
私は早々に絵日記を見終え、自分の部屋に戻った。
記憶が戻ってくる。
かつて、ここに一人の人間がいた。
私は部屋の中で、あのときのことを思い返す。
あのとき、なぜ私はあんな難題を出してしまったのだろう。
永遠を生きる超越者の単なる慰み。
時に捨てられた罪人のひと時の戯れ。
ほんの、気まぐれだったはずだ。
求婚してくるものを難題であしらうことなど、久しく忘れていた。
幻想郷に居を構え、満ち欠けする月を眺めて幾星霜。
ここ永遠亭に暦はない。時を数えるのに人が編み出した数字などなんの役に立つ?
四季折々の花を眺め、移り変わる季節を感じ、天に揺らめく星を見ればよい。
それで時は十分に計れる。
ある日、永遠亭に一人の少年が訪れた。
占星術師見習いの彼を、永琳はひどく気に入ってあれこれ伝授していたようだ。
私が御簾の奥、遠い故郷を思いまどろんでいたのはどれくらいの間だっただろう。
ずっと忘れていた記憶が蘇る。
御簾が開かれたとき、そこに平伏していた少年は最初に出会ったときのあどけなさを捨て、一人の青年に成長していた。
定命のものの何と生き急ぐことよ。
「どうしたのですか。何を求め、私の元に来たのです?」
私は姫の言葉遣いで彼に尋ねた。
彼は面を上げて私を見た。
その瞳は、覚えている。
最初に私に出会ったときと同じ、まっすぐに私を見つめる曇りなき清きまなこ。
彼は言った。
蓬莱山輝夜殿。あなたと――――結納を交わしたいのです。
ああ。なぜそのときまじめに彼の言うことを聞かなかったのだろう。
私の脳裏に、かつて言い寄る貴族たちを尽く退けた昔の私が蘇っていた。
「そう。ならば、あなたに難題を授けましょう。その難題を解いたならば、あなたの想い、受け取ることと致しましょう――――」
私は無慈悲に、彼に難題を授けた。
時は流れる。止まらず、流れ続ける。
竹の花が咲き、そして散り、再び咲く。
その、ほんの一瞬。
私にとってはほんの一瞬の間に、様々なことが移り変わっていった。
博麗神社の巫女は代替わりをし、以前の巫女―たしか、霊夢って名前だったかしら―は先祖代々が眠る場所に身を横たえた。
魔法の森に住む魔法使いはいつの頃からかいなくなったそうだ。幻想郷を抜け、外の世界に旅に出たまま帰ってこないらしい。
紅魔館の瀟洒なメイドも鬼籍に入った。
今ではあの館は門を固く閉じ、悲しき赤い霧の中に引きこもったまま外からの侵入者を拒み続けているとか。
―時よ止まれ。お前は美しい―
悪魔と契約を結んだ希代の魔術師の妄言。それとも鼻持ちならないペテン師の戯言か。
永遠はここにある。私が抱えて離さない甘美なる罪。
誰にも渡しはしない。
誰にも分かりはしない。
ただ私だけが知る。永遠という言葉の真の意味を。
そして、今――――
まどろみから現へと引き戻された。
人の気配を感じたからだ。
「永琳?」
違うと分かっていても、思わずそう口にしていた。
御簾が音もなく上げられたその先に。
彼がそこにいた。
あのとき、難題を授けたときと全く変わりない姿で彼がそこにいた。
「――――よく戻りました」
私は内心の驚きを隠し、姫らしく落ち着いてねぎらいの言葉をかける。
「待っていたのですよ」
虚飾に彩られた心にもない言葉にも、彼はただ微笑むだけ。
本当は尋ねたかった。
なぜ、律儀にも戻ってきたの?
あんな難題、人の身では絶対に解けるはずがなかったのに。
なぜこうして、わざわざ私のところに戻ってきたの?
あなたの気持ちを無視して、無理な難題を押し付けて鼻であしらった私のところに。
けれども殿上人の誇りはそれを許さない。
「私の授けた難題、解くことはできましたか?」
口をついて出る言葉は、無慈悲なものだった。
彼は私に小さな漆塗りの箱を差し出した。
差し出されるがままに受け取り、蓋を開く。
そこにあったのは、蓬莱の玉の枝。
生ける木でありながら、様々な宝玉で出来た蓬莱の産物。
贋作では到底辿り着けぬその光輝。
本物がそこにはあった。
彼は、私の出した難題を乗り越えたのだった。
「おめでとう。よくぞこれを持ち帰りました」
私はそう言う事しかできなかった。
悔しいからではない。けれども祝福しているからでもない。
もう、私の出来ることはそれしかないのだから。
「この蓬莱山輝夜。あなたの想い、確かに受け取りました」
ただ、こうやって言葉をかけることだけしか。
「望むのならば、再びここに来なさい。そのときまで待っていてあげる」
彼は笑って頷いた。
その姿が薄らいでいく。
手も足も、服も何もかもが薄くなっていき、やがて消えた。
一目見た時から分かっていた。
彼はもう、この世のものではなかったのだ。
生涯を賭して蓬莱の玉の枝を手に入れ、しかしここに戻る道半ばで倒れたのか。
それとも生ける人間の器では初めからたどり着けなかったのか。
さぞかし無念だったのだろう。その強い感情が、黄泉の誘いから魂を引き剥がす。
どれほどの妄執がそこにあったのか、私には分からない。
いずれにしろ、彼は死してなおその執念だけで魂を現世に留め、ここまで帰ってきた。
ただ、私にこれを見せたいというその一念だけで。
だから、それが達成された時が終わり。
死人に現世の居場所などない。ようやく彼は本当の意味で死んだのだった。
「綺麗ね」
彼の持ってきた蓬莱の玉の枝を、私は手に取る。
信じられないほどの美しさと、儚さが同時にそこにはある。
無理もない。これは彼の生涯そのものが形となったのだから。
そう。人の命は美しく儚い。
私は彼に言った。望むならば再びここに来るようにと。
ひたすら続く輪廻の果て。
この世が慈悲深き阿弥陀仏の光臨によって救われる日か。
あるいは怒れる神と嘲笑う悪魔との最後の戦いによって滅ぶ日か。
その時までに、今一度運命の悪戯が私と彼とを再び結び合わせるかもしれない。
もし再び出会えたのであれば、私は彼を招こうかしら。
永遠亭が永遠亭と呼ばれる真の意味。
すなわち、時の果てまで生きる私のいる場所へと。
もっとも、その時まで彼のことを覚えていたらの話だが。
彼のことなどあっさりと忘れてしまっているかもしれない。
実際、私はかつての求婚者のことなどおぼろげにしか覚えていない。
彼らのことなど、半ばどうでもよく思ってしまっているのだ。
ああ。人の生とは所詮陽炎のようなもの。
だから、私は貴方のために今は悲しみを示してあげる。
貴方のその想いに敬意を表して、今だけは泣いてあげる。
忘れてしまう未来の約束ではなくて、今だからこそ出来る貴方への手向けを。
私は、いつか忘れてしまうであろう彼のために、その時だけは涙を流した。
私の涙は蓬莱の玉の枝にかかり、宝石のようにその輝きを添えていた。
永遠を生きる彼女の心情がこうであったなら、すごく哀しい物語ですね。
抗えない悲劇性の美しさは私は大好物ですが。
私は、ほんわかとした話が好きで、怖いのとか悲しいのを読むとすぐに回れ右する人間なのですが、なぜかこの作品にはとてもひきこまれました。読み終えてじーんとくるいいお話ですね、ありがとうございました。
永遠を知る輝夜だからこそ言える重い言葉ですね。
しかし、それを知る輝夜もまた美しい。
いったい何故NEET姫なんて呼ばれるようになったんだか;