それは幽雅なる……もとい、優雅なる午後のティータイムの出来事だった。
私は不健康だけどまだ涅槃には旅立ってはいないわ。
「あのぅ、パチュリー様。前々から疑問に思っていたことがあるんですけど、お聞きして宜しいですか?」
右斜め前方。麻雀風に言えば上家に座っていた小悪魔が、恐る恐るといった様子で問いかけてきた。
何故、そんな微妙な席に座っているのかと言うと……はて、何故だろう。
別に正面でも隣でも構わないのだけど、小悪魔自身がその席を選んだのだから、私としては口出しのしようが無かった。
ま、きっと己の微妙すぎるポジションを自覚しての配置なんでしょう。
こらっ、笑わない。
意図せぬ箇所で笑いを取って喜ぶのは素人の反応なのよ。
……最近、自分が何を目指しているのか良く分からなくなってきたわね。
その辺りは次回の研究課題にでもしておきましょう。
「構わないけど、何?」
「その、ですね……」
すると、何故か小悪魔は口篭ってしまった。
聞きたくはあるけれど、ストレートに口にするには微妙過ぎる問題だから……そんな所かしらね。
どうして分かるのかって?
アホの子でも分かるわよ。羽耳がピクピクと動いているんだもの。
まぁそれだけなら躊躇いを示す仕草としては合格点をあげても良いのだけれど、
合わせて背中の羽までばっさばっさと動いているのは如何なものかしら。
この娘が感情を隠せないのは周知の事実だけど、いくらなんでもあからさま過ぎるわね。
「……一体、何を企んでいるの?」
「へ? 誰がですか?」
「貴方が私に対してよ」
「ま、まさか! そんな事ありません! ただ、少し聞き辛い事象でしたから……」
「ああ、もう分かったから羽ばたきを止めなさい。埃が飛ぶじゃないの」
「大丈夫です。掃除はきちんと行き届いていますから」
「……そ、そう。なら問題無いわね」
いけない、話がずれてるわ。
ずれるのは某氏のズラと某侍従長のパッドだけで十分よ。
「ええと、何の話でしたっけ」
「貴方から振ってきたのに忘れないで」
「あ、そうでした。ええと、私の事なんですが……」
「ええ」
「その、どうして『小悪魔』って呼ばれているのでしょうか」
「……」
「……」
「……」
「……パチュリー様?」
「……」
「って、白目になってる!? 緊急事態!?」
……
………
…………
はっ!?
何て事、現実逃避を通り越して意識が飛んでしまったわ。
宣言したばかりなのに、涅槃に旅立つのは御免被りたいものね。
「あ、良かった、無事だったんですね」
「こ、事と次第によっては無事でもなくなるわ。
小悪魔。貴方、今何と言ったの?」
「だからそれです。何故に皆さん、私の事を小悪魔と呼ぶんでしょうか」
「……」
その質問に対して、私はどう答えれば良いのだろう。
強引に解釈をするならば、哲学的な問いと言えない事も無いけれど、
この娘に限っては到底有り得ない。
ならば……素?
……。
「……ぐすっ……」
「ぱ、パチュリー様? どうして涙なんて……」
「うう……そりゃ泣きたくもなるわよ。
天然だの萌えっ娘だのと誉めそやされるだけの貴方は良いでしょう。
でもね、そんな最終兵器小悪魔と四六時中相対しなければならない私の身にもなって欲しいわよ……」
「ええと、何の事だかサッパリなんですが、もしかして馬鹿にされてるんですか?」
「むしろ比べられる馬と鹿が気の毒ね」
「はぁ、今度謝っておきます」
駄目、駄目よ。また話がずれてるわ。
軌道修正、現状認識完了。
立ち上がるのよパチュリー!
紅魔館の……いえ、幻想郷の窮地を救えるのは、もはや貴方しかいないのよ!
「……ともかく、質問を確認するわ。
貴方は自分が小悪魔と呼ばれる事に関して疑問を持っている。OK?」
「はい」
小悪魔は寸分の迷いもなく言い切ってくれた。
……だから、少しくらい迷ってくれないと私としても困るのだけど。
まったく、勘弁して欲しいわ。
「それは精神世界における自己の存在の認識を求めての問いかけ?」
「???」
「……では無さそうね。ならば方向性を変えましょう。
ぶっちゃけ、貴方は何と呼ばれる事を望んでいるの?」
些か直球過ぎるかもしれないが、この娘が相手ならばむしろそれくらいの方が良好な結果が得られるに違いない。
正直に言うと、この疲れる問答をさっさと終わらせたかったのだ。
「あ、いえ、そういう意味じゃないんです」
「は?」
「別に小悪魔と呼ばれる事を不快に思っている訳では無いんです。
ただ、そうなるに至った経緯を私は理解していないので……」
「ああ、そういう事ね」
ここでようやく話が噛み合った。
小悪魔との会話には、いつだって精神的疲労を抱える恐怖の時間ね。
ホント、紅魔館は地獄だぜ!
「……って、待ちなさい。貴方、それ本気で聞いてるの?」
「本気じゃないならこんな事言いません」
「余計に性質が悪いわよ。……じゃ、質問。
貴方の頭にくっついている、ひょこひょこと動く器官は何?」
「羽ですけど?」
「なら、背中から延びているのは?」
「これも羽です。ご存知無かったんですか?」
「……」
どうして、会話を交わすだけで、こうも疲弊しなければならないんだろう。
でも、ここで突っ込んでしまったら、また話がズレてしまう事は証明済み。
芸の道の追求は、次の機会に持ち越しましょう。
「では、頭と背中から羽が生えているような人型の存在を、一般的に何と呼ぶのかしら」
「何でしょう、人型ですから鳥さんじゃありませんし……うーん、難題ですね」
「……」
むしろ、私のほうが難題を突きつけられた気がしてならないわ。
聞いてる? 月の引き篭もり姫。
真の難題とは、こういう状況を言うのよ。
「悪魔、って言うのよ。で、貴方は小さいから小悪魔。理解した?」
「はぁ……」
「納得行かないって顔ね」
「そういう訳では無いんですが……確か、レミリア様も悪魔と称されてますよね?」
「それがどうかしたの?」
「でも、レミリア様は頭に羽は生えてはいませんし、
何より私よりも小柄なのに小悪魔とは呼ばれてませんよ?」
「……」
そう来たか。
どうやら、子供相手に言い包める方針が裏目に出てしまったようね。
仕方ないわ。少し論点が逸れるけど、通常モードに切り替えましょう。
「ああは言って見たけど、実際こういう呼称に外見的な問題は些細なものに過ぎないのよ。
確かにレミィは小柄だけど、闇の眷属を一同に統べる力と、それに見合ったカリスマを持っているでしょう?」
「……なるほど。私はそういう意味で小さいんですね」
「分かってるじゃないの」
「むー……」
小悪魔はなにやら唸り声を漏らしつつ、考えに没頭し始めた。
……ここがチャンスかもしれない。
無益で体力を果てしなく消耗する問答を終わらせるべく、私は動く。
「とにかく貴方は見た目が小悪魔っぽいから小悪魔。
そして、そう呼ばれる事を貴方は不快と思っていない。
これで何の問題も無いわね?」
「いえ、あります」
「良かったわ。ならそろそろ午後の仕事に……って、え?」
こんなに完璧なまとめなのに、小悪魔は問題があると言う……。
「確かに不快じゃない。とは言いました。
でも、それで納得しているかどうかは別問題なんです」
「……って、何? 納得していないの?」
「はい。少なくとも、私の中の悪魔像と私自身は、イコールで結ばれてくれません」
普通、そういう事自分で言うかしら。
最終天然兵器たる所以ね。
「それに、パチュリー様も、私の事を悪魔らしいとは思っておられないでしょう?」
「……」
それは、その通りだった。
小の文字を付与した所で、悪魔は悪魔。
少なくとも、このような天然ボケの塊を悪魔と呼ぶのはどうかと思うわ。
「……うう……やっぱりこのままじゃいけませんよね」
「そ、そんな事は無いわ。らしさなんて所詮は他人の評価に過ぎないもの」
「仰られてる事がさっきと正反対です」
「う」
いけない、まさか小悪魔にそんな突っ込みをされるだなんて。
混じりっ気なしの天然でありながら、そんな事だけは覚えているのね。
と、言葉に詰まっていると、小悪魔は小さく頷きつつ席を立った。
「パチュリー様、お手を煩わせて申し訳ありませんでした。
私は、答えを見つけるべく、旅に出ようと思います」
「はぁ?」
結局、私の言葉は、終結を迎える鐘の音となるどころか、
余計に小悪魔の中の何かを刺激する起爆剤となってしまったらしい。
引き止める間もなく、部屋を飛び出していく小悪魔に、私はただ、呆然と眺める以外の術を持たなかった。
仕事を放っぽって自分探しの旅とは、見上げた根性ね。
まあ、どうせ直ぐに戻ってくるでしょうけど。
十分後。
何事も無かったかのように読書へと励んでいた私の背後から、
どかん、と豪快に書斎の扉が開け放たれる音が聞こえた。
振り返るまでもなく、誰なのかは想像がつく。
「あのね、小悪魔。どんな答えを見つけて来たかは知らないけど、もう少し落ち着いて……」
振り返った私の目に飛び込んできた光景は、言葉を途切れさせるに十分な衝撃を持っていた。
「ど、どうですかパチュリー様! これで悪魔っぽく見えますか?」
「……み、見えるというか何というか……」
言葉に詰まったのは、決して私の語彙が貧困だからとは思わない。
清純派で通っているような少女が、全身エナメル素材の女王様スタイルで登場すれば、
誰だって驚きに声も出なくなるだろう。
というか、一体何処の馬鹿に、こんなアイデアを吹き込まれたのかしら。
「だ、駄目ですか。私なりに、勇気を振り絞って着てみたんですけど……」
「そ、そうでしょうね。その度胸だけは買うわ」
確かに文献に出てくるようなサキュバスは、こんな格好だろう。
しかしながら、この娘は、そのような上等な存在でも無いし、
何よりも、こういう格好をするのに必要不可欠な、妖艶さというものに欠けている。
しかし、そのアンバランスさが返って彼女の秘めた魅力を引き出すという、どこか矛盾した感想が生まれるのも確か。
率直に感想を言い表すなら、グッドなコスプレという所かしら。
まあ、耳も羽も尻尾も、服装以外はすべて自前なんだけど。
「はあ……咲夜さんは、私に出任せを言ったんでしょうか」
「って、それは聞く相手が間違ってるわ」
完璧なまでに納得が行った。
あのメイド長は、小悪魔の真摯な問いを、新たなプレイの模索とでも受け取ったに違いない。
そういう意味では96点を上げても良いのだけど、TPOの弁えなさを差し引いて2点ね。
私の減点法は厳しいのよ。
……まぁ、丸投げしてしまった身では、言えた事でも無いのだけど。
「仕方ありません、今度はレミリア様に聞いてみます」
「ま、待ちなさい。それ以上被害を拡散してどうするの!」
「被害?」
「……もとい、貴方の問いは誰にも答えられるものじゃないわ。
結局は自分で見つけ出す以外に方法は無いのよ」
「ですが……」
「確かに、直ぐに見付かるようなものでは無いでしょう。
だから、少しだけ助言してあげるわ」
「助言、ですか?」
「ええ。そうね、例えば……物言いを偉そうにしてみるとかはどうかしら」
この娘が魔族らしくないのは、その全身から滲み出る善人オーラが大きな原因だと思う。
格好を変えてみたところで、おや、今日は何のコスプレだい? との心象しか与えないでしょうし、
行動様式に変化を付けたとしても、ただの気紛れとしか思われない気がする。
が、もっと根本に根付いたものならばどうだろうか?
傍目には些細な変化と映るだろうけど、むしろそうした基本的な物こそが、
彼女に変革をもたらす最も効果的な手段なのでは無いか。
それが、私の結論だった。
「偉そうに、ですか。そんなに私って腰が低いでしょうか」
「低すぎるわ。貴方、ここ最近敬語以外で話した記憶がある?」
「うーん……無い、かもしれません」
「そうでしょう。私やレミィに対して畏まるのは良しとしても、
何処の世界に八百屋のおっちゃんにまで敬語を使う魔族がいると言うの?」
「え、どうしてそんな事までご存知なんですか」
「す、少し噂に聞いただけよ。
ともかく、少しでも悪魔の呼称に相応しい存在になりたいのなら、試してみることね」
「はぁ……でも、偉そうに、と言われましても」
「いいから。思いついたままに話してみなさい」
「……分かりました、では」
小悪魔は、ふう、と息を整えると、おもむろに周囲を見渡し始めた。
どうやら、舞台設定から入るらしい。
その心意気、芸人として相応しいわね。
……等と暢気に考えていられたのは、小悪魔が口を開く瞬間までだった。
「『……ふむ、何とも辛気臭い場所だな』」
「!?」
その何気ない台詞が、私に与えた衝撃は、とても言語で表現出来るものではなかった。
「……なんて、こんな感じですか?」
「……」
「うーん、でも、やっぱりしっくり来ませんね。
使い続ければ慣れるのかも知れませんけど、少し疲れそうです」
「……」
「……あれ? 私、何か変な事言いました?」
小悪魔が何かを言っている。
でも、もう私の耳には届いていない。
一度掘り起こされた記憶は、嫌が応にも心を駆け巡っては存分にかき乱した。
「……っ!」
「え、ぱ、パチュリー様!?」
もう、耐え切れない。
慌てた様子の小悪魔を余所に、私は隣室のベッドルームへと駆け込んだ。
「くっ……はぁ……」
発作でもないのに、呼吸が乱れる。
精神的な動揺が、肉体面にまで現れているんだろう。
魔族らしくない? 少しは偉そうにしてみろ?
よくもまぁ、そんな言葉を口に出来たものだと思う。
あの娘をそんな風にしたのは、他ならぬ私のせいだというのに。
「……なんで、今頃になって……」
ぼふり、とベッドへ倒れこむ。
いっそ、このまま眠ってしまえれば良かったのかもしれない。
でも、一度掘り起こされた記憶は、時を経るにつれて、より鮮明になって行く。
私の望む望まないに関わらず。
……あれは何年くらい前だったろうか。
本を読むのに普通の椅子では背が届かない、それくらい幼かった頃の事だ。
物心付かないような時分から、私の生活は本と共にあった。
それを疑問に感じた事もなければ、諭すような存在がいた記憶も無い。
常人には信じ難いような速度で、本の山を読破し、それを知識として身に付ける。
ただ、それだけを繰り返す日々。
……が、いかな魔女とは言えども、子供は子供。
私は、好奇心のままにやってはいけないことを、実践してしまったのだ。
記述された内容そのままに、魔方陣を描く。
理論も実例も何もない。ただ、そう書いてあったからやってみただけという適当な代物。
恐らくは、召喚術がどれほどの危険性を伴っているのかも知らなかったのだろう。
子供のした事とは言え、我ながら恐ろしい。
しかし、最も大きな問題は、その召喚術が成功してしまったという点だろう。
自惚れる気には到底なれないが、当時の私は、ごく当たり前の事象としてしか捉えていなかったに違いない。
……それも、自らが呼び出した魔族と目を合わせるまでの事だったけど。
『……ふむ、何とも辛気臭い場所だな。らしいといえばらしいが、これでは気も滅入ると言うものだ』
『……』
『む、お前が私を呼び出したのか?』
『……え、ええ』
まだ、少女と呼んで良いような外見に、似つかわしくない物言い。
しかし、燃えるような真紅の髪と、頭と背中から延びる黒の羽は、
その相手が魔族であるとの証明だった。
『……何と、このような子供が召喚主か。いやいや、驚く事もあるものだな』
『こ、子供って言わないでよ』
『む。確かに外見のみで判断を下すのは愚の骨頂だな。
こうして召喚の儀を執り行うくらいだ。
ここが何処かは知らぬが、恐らくは名の知れた魔女に相違あるまい』
『そ、そうよ。分かったなら、僕らしくひざまづいて見せなさいっ』
それまで、本を両親として生きてきた私だ。
自分以外の誰かと話す事自体が稀な事象だったのだろう。
だから、必死に強がって見せる以外に、対応する手が思いつかなかったのだ。
『……どうやら勘違いがあるようだな』
『え?』
『私はまだ、召喚されたというだけで、お前と契約を結んだ訳では無い。
僕と呼ぶならば、儀式を済ませた後だろう』
『……そ、そういえばそうだったわね。久し振りで忘れてたわ』
久し振りも何も、始めてなので知る筈も無い。
しかし、これから僕として従える存在に、弱みを見せる訳にもいかない。
そういう意味では、自己の意識など存在しない、純然たる使い魔でも作り出していれば良かったのだろう。
だというのに、妙にプライドの高かった私は、本物の魔族と契約する事に固執したのだ。
『じゃ、じゃあさっそく初めるわよ。
え、ええと……確か……こちらの宣誓からだったかしら……』
『……』
『あ、ああ、ち、ちょっと待ちなさい。
あ、貴方みたいな低級魔族相手の儀なんて、そ、そう頻繁にあるものじゃ無いんだから』
『……どうも腑に落ちんな。
確かに私は名乗りを上げる事も出来ない低級の魔族だが、それは契約にあたっては無関係ではないのか?
私の知る限りでは、召喚の儀というのはもっと厳粛なものと記憶していたが』
『じ、時代の流れというものよ』
我ながら、無鉄砲振りにも程があるというものだ。
形式すら守れていないであろう拙い召還術に加え、
呼び出した主様は、それこそ幼児と言って良いような魔女の卵。
もし、この時に召還されたのが私だったならば、呆れて早々に帰っていただろう。
それならば、まだ良い。
仮にレミィのような気性の持ち主ならば、その場で八つ裂きにされても不思議は無かったのだ。
しかし、幸運にも、この相手は穏やかな気性の持ち主だった。
『……じゃ、そういう事にしておきましょうか』
恐らくは、全ては看破されていたに違いない。
だと言うのに彼女は、内心で怯える私を気遣い、口調を変えてきたのだ。
『そうもこうも無いのっ。いいからさっさと契約するわよっ』
『ああ、もう、そんなに慌てなくても大丈夫よ』
『あ、慌ててなんか……っ!?』
驚きに声が詰まったのも無理からぬ事だろう。
その相手は、虚を付く形でするりと背後に回ると、
両手で包み込むように、私を抱き締めて見せたのだ。
殺されるのか、との動揺は直ぐに収まった。
彼女に何の他意も無いことは、幼い時分の私にも十分に伝わったからだ。
『どうかな? 少しは落ち着いた?』
『べ、別に、最初から動揺なんてしてないわよ』
『そう、余計な事しちゃったかな』
『ま、まったくよ』
別の意味で動揺していた、等とは言えなかった。
生まれてこの方、他人の温もりを受けた記憶の無い私に、その抱擁は衝撃が大きすぎたのだ。
『でもね。それとは別に、一つ聞いて欲しい事があるの。良いかな?』
『……い、いいわ。度量を示してみせるのも主の使命だもの』
『ありがと。
あのね、例え形骸化……あ、形ばかりのものになってしまったという意味よ』
『せ、説明しなくってもそれくらい分かるわよ。魔女を甘く見ないで』
『ご、ごめんね。その、例え儀式そのものが形骸化してしまったのだとしても、
私にとってはそうじゃないって事を分かって欲しかったの。
そして、それは貴方にとっても同じ意味合いを持つのだと』
『……?』
『うーん……何て言ったら良いのかな。これからお互い長い付き合いになるんだから、
その最初の一歩が適当なものっていうのも勿体無い気がしない?』
『……まあ、一理あるわね』
『でしょう? だから、適当に済ませてしまうより、
きちんと形式に乗っ取って儀を行いたいって私は思うのよ』
『……』
この時の小悪魔は、何を考えてそんな事を口にしていたのだろう。
そも、私など放って帰るという選択肢もあった筈なのだ。
しかし、現実に彼女は、私と契約を結んだ。
それが、今後の運命を左右するであろう、最大にして最後の選択肢だったにも関わらずだ。
だが、対する私はどうだったろうか。
他ならぬ自分の事だから、良く分かる。
上手く行きそうだと安堵する反面、使役される存在の分際で何を偉そうに、等と思っていたのだ。
我ながら救い難い増長だろう。
そして、その増長は、極めてストレートに行動へと示された。
あろう事か私は、契約の儀に際して、ある一文を付け加えたのだ。
<今後、一切の上から見た物言いを禁止する> と。
それも、いっそ失敗していれば笑い話にもなったろうに、よりにもよって効果は覿面だった。
『……』
『……ええと、これで契約完了ね。多分』
『はい。これより私は……ええと、お名前で呼んで宜しいでしょうか』
『き、許可するわ』
『ありがとうございます。只今の儀の完了を持って、
私はパチュリー・ノーレッジ様の僕として仕えさせて頂きます』
『え、ええ、宜しく。貴方……小さい魔族だから、小悪魔でいいわね』
『小悪魔、ですか。何だか可愛らしい響きですね』
それ以来、小悪魔が敬語以外を使った記憶は、無い。
「ふふ……本当、どこまで生意気な子供だったんでしょうね」
長い回想は、私の気をより一層萎えさせるという、最悪の結果をもたらした。
何の事はない。
小悪魔がああいう性格になったのは、私が仕組んだ、愚かしい契約のせいだったのだから。
「だと言うのに私は、悪魔らしく無いだの、もっと偉そうに話してみろだの……」
「そのう、私が頼んだのだから、そう仰られるのは当然だと思いますが」
「……え?」
ふと、背後から届いた声。
立ち上がって見やると、そこには不安気な表情の小悪魔が、呆然と立ち尽くしていた。
……どうやら、またしても口に出してしまったようね。
つくづく己の芸人体質が恨めしいわ。
ん?
「って、どうして貴方がここにいるのよ」
「どうしてって、突然顔色を変えて部屋に飛び込まれては気になりもしますよ」
「……鍵はかけていた筈だけど」
「合鍵がありますから。使うべきかどうか悩みましたが」
「……」
そう言えば、そんなものを渡していた気がする。
自分からした事なのに、今ごろになって思い出す辺りに、
あの当時の出来事がオーバーラップして映った。
「それで、どこまで聞いていたの?
いえ、どこまで思い出したのかしら?」
「……多分、パチュリー様と同じかと」
「そう。なら分かったでしょう。
貴方の疑問の種を撒いたのは、誰でもなく私よ。
許可するから、罵倒するなり何なり好きにしなさい」
……何故、このような物言いになってしまうんだろう。
普通なら、ここは謝罪すべき場面の筈。
でも、私の中途半端なプライドは、それを是とはしてくれなかった。
あれから何十年も経っているというのに、内面はこれっぽっちも成長していなかったらしい。
本当、救えないわね。
「そうね……いっそ、この半端な契約を破棄した方が良いかしら。
今更言われても困るでしょうけど、それが貴方の為だもの」
「……」
「こんな児戯に、長い間付き合わせてしまって、本当に済まないと思ってるわ。
でも、もう貴方は不本意な契約に縛られる必要はない。だから……」
卑屈と呼ぶに相応しい言葉が、次々と口を突いて出る。
惨めではあるが、今の私には、他の行動が思いつかなかったのだ。
……でも、実際のところはどうだろう。
本心では、小悪魔が取るであろう行動に、期待していたのかもしれない。
「ああ、もう。そんなに慌てないでも大丈夫ですってば」
そして、それは図らずも現実となった。
「……慌ててなんか、いないわよ」
「あはは……すっかり大きくなっちゃいましたね。
あの時は本当に、手の中に納まるような感じだったんですけど」
「……」
立ち竦む私を、背後から包み込むように抱きしめる小悪魔。
数十年が経過した今をもってなお、鮮明に映る光景。
それは、私が肉体的に成長してしまった今でも……いえ、今だからこそ、その安堵感がはっきりと分かる。
収まるべき場所に収まった。そんな感覚を受けるのだ。
「私って本当に馬鹿ですね。
あんな大事な事を忘れておいて、それを今頃になって問い正したりするんですから」
「……」
「まあ、そのお陰で全部思い出す事が出来たと思えば、馬鹿で良かったのかもしれません」
「……そう」
「でも、パチュリー様はもっと馬鹿です。
そんな事を言われて、私が喜ぶとでも思っているんですか?」
「……思えないのは、あの歪な契約のせいよ」
「……はぁ……」
わざとらしいくらい大きな溜息。
それは、体勢のせいもあって、妙に艶かしい物に感じられた。
……そう言えば、こうして小悪魔の溜息を聞くのも、久し振りな気がする。
昔はもっと、頻繁にしていた気もしたけど。
「パチュリー様は、一つ誤解をなされています」
「誤解って、何がよ」
「あのですね。別に私は、強制されて貴方へと傅いた訳じゃ無いんですよ?」
「え?」
「えーと、もっと率直に言いますと、私とパチュリー様の間では、今だ契約が成立していないんです」
「……!?」
それは盲点と言うには、余りにも衝撃的な言葉だった。
「当時の私風に言えば、未熟な魔女見習い如きが調子に乗るな。って所でしょうか。
召喚術すらまともに扱えないのに、そんな妙な文言を加えたりしたら、上手く行く訳が無いじゃないですか」
「あ……」
有り得ない。と口にし掛けて止まる。
小悪魔の言葉には、自らの記憶を遥かに凌駕する説得力があったからだ。
でなければ、『当時の私』等という台詞が出る筈も無い。
あの時も、そして今もなお、小悪魔には何の強制力も働いてはいなかったのだ。
でも、それならば何故……。
「……駄目よ。現実との整合性が取れないわ」
「あー、それは、ですね。
……うーん、自らの恥部を晒すみたいで少し躊躇われるんですが……」
「言って。言わないと大変な事になるわよ」
「……はぁい。
その、私は向こうの世界では、俗に言う落ちこぼれだったんです。
元々、魔族としての等級がかなり低かったというもありますけど、その中でも更に、です。
だからあの時私は、誰かに必要として召喚されたという喜びで一杯でした。
自分には到底与えられない機会だって、思い込んでましたから」
「……とてもそうは見えなかったんだけど」
「一応マニュアルみたいなものはありますから、それに従っていただけです」
知られざる魔族の生態が今ここに!
……というか、かなり形式の整った世界のようね。
まぁ、今はどうでもいいことだけど。
「すると、突然口調が変わったのは?」
「アドリブです。流石にああいう状況は例にありませんでしたから」
「……」
「そこからは、パチュリー様も記憶なされてる通りだと思います。
だから、別に召喚の主がどんな人物であるかなんて問題じゃなかったんです。
……まあ、流石にこんなに小さな子だとは予想外でしたから、少し驚きましたけど。
それに、いくら私だって、契約に際して聞き慣れない文言が付け加えられてたら気が付きもします」
「……それもそうね」
少なくとも、あの時の私以上に、契約の儀に疎い魔族なんている筈も無いもの。
……しかし、それならば何故、彼女は今こうして私の傍にいるのだろう。
契約が結ばれていないのなら、小悪魔が私に付き従う理由など存在しないのでは?
「……ええと、ここから先は心の中という事にしませんか?」
「冗談は舞台の上だけにして。そこまで言っておいて連載打ち切りで済むと思ってるの?」
「……怒りませんか?」
「言わないと、三倍増しで怒るのは確かね」
「うう……分かりましたよう」
きっと小悪魔は、世にも情け無い表情をしているのだろう。
生憎、この体勢では伺えないけれど。
「……『この娘には私が付いてないと駄目だろうなぁ』って、思ったんです」
「……」
「……」
「……」
「あ、あの、やっぱり怒りました?」
「そんなの当たり前でしょう!」
「ひゃっ!?」
流石に、これには我慢がならなかった。
くるりと体勢を入れ替えると、勢い任せに小悪魔をベッドへと押し倒す。
抵抗する気もなかったのか、私の弱い力でも、あっさりと事は運んだ。
「ご、ごめんなさい! 生意気言っちゃいました! だから体罰は勘弁……」
「そんな事を怒ってるんじゃないわよ、馬鹿!」
「え、で、でも、なら何を……」
本気で聞いているのだろうか。
だとすれば、どこまでもお目出度く、どこまでも愚か。
そして……どこまでも彼女らしい。
「どうして、そんなどうでも良い事で、自分の運命を決めたりしてしまうのよ……」
「ど、どうでも良い事なんかじゃありません」
「何がよ……私は出来もしないくせに、貴方を歪な形で使役しようと企てていたのよ?
そんな馬鹿な餓鬼なんて、放っておけば良かったでしょう」
「先程から何を卑下されているのか分かりません。
だってそんなの、子供なんだから当たり前じゃないですか。
むしろ、呆れた反面で、この娘は将来大物になるぞー、って思いましたし」
「……」
「だから、契約云々なんてどうでも良かったんです。
正直なところ、帰ったところで良き未来があるとは思えなかったのもありますし、
それなら、魔女の卵の使い魔として生きて行くのも、結構趣があるかなー、なんて」
「……ほ、本気で言ってるの?」
「私は、嘘は吐きません」
問うてはみたけれど、それが形だけのものに過ぎないと、私自身が一番良く理解していた。
そう、小悪魔は間違えた事こそ言えども、決して嘘は吐かない。
そして、傍から見て可笑しいくらいにお人良し。
更に今になって、子供好きだったという一面まで発覚した。
世間的な悪魔像とは対極に位置する存在だと、改めて思う。
……でも、それが何だと言うのだろう。
『え、ええ、宜しく。貴方……小さい魔族だから、小悪魔でいいわね』
『小悪魔、ですか。何だか可愛らしい響きですね』
あの時に交わした会話。そして、小悪魔が浮かべた笑顔は、嘘じゃ無いんだから。
「ええと、ともかく貴方は、純然たる自分の意思で、私に仕えると決めたのね?」
「最初からそう言ってます」
「……言ってないわ」
これまで私はずっと、このどこかネジの抜けた娘を見守る事が、役目の一つだと思っていた。
でも、それは只の勘違いに過ぎなかった。
見守っていたのは、私ではなく、小悪魔のほうだったんだ。
……でも、残念だったわね。
「もう……深く考え込んだ私が、馬鹿みたいじゃないの」
「す、済みません……って、パチュリー様?」
「……な、何よ。質問は却下よ」
「で、ですが……」
「めっ、目先の事象に囚われるのは愚の骨頂よっ。ひぐっ……、
か、角膜が水分を求めるのはごく自然な光景……もっ、もっと勉強しなさいっ……」
「……」
「うっ、く、あああっ……!」
「……大丈夫ですよ。私は今も、そしてこれからもずっと、パチュリー様の傍にいますから」
「だっ、誰もっ、そんなことっ、きいて、ないわよっ、ひっく……」
その成果が、こんなにも捻くれた魔女なんだもの。
「……うーん……」
十六夜咲夜は悩んでいた。
現在、彼女の立っている地点は、パチュリーの寝室へと繋がる扉の前。
「……どうしたものかしら……」
彼女はその聡明さ故に、室内にて展開されている光景が、手に取るように理解できていた。
それが、時間を止めて窓から覗いてみました。とかそういう聡明さであっても、何の問題があろうか。
もし、この場にいたのが美鈴であったのならば、状況を察さずに、勢いのままに扉を開け放ち、
場面をモノクロにしてしまった末に、ロイヤルフレアで焼かれるオチが付くことだろう。
だが、完全で瀟洒なるメイドの彼女に限っては、そのような過ちを犯すなど、到底有り得ない。
しかし、そう理解しているにも関わらず、咲夜が今だ立ち去ろうとしないのは何故か?
理由は二つあった。
一つは、レミリアの使いとしてパチュリーに至急の伝言があるとの、至極真っ当な理由。
もう一つが、純然たる興味である。
そして、この状況においては、後者のほうが大きなウェイトを占めていた。
何故ならば……。
「確かに薦めはしたけど……あれを着た側が受けに回るって、どういうプレイなのかしらね」
それは、完全かつ瀟洒なる勘違い。
そして本日、小悪魔が犯した、最大のナチュラルミステイク。
ある意味で凍結した全ての事象は、数分後の小悪魔の叫びによって動き出すのだが、それはまた別の話である。
ひっしにぱちぇをだきしめる すがたは わたしを
かんどうさせるものがありました。
このこぁぱちぇをあたえてくれた あなたに おれいがしたい。
……それにしても咲夜さん、貴方と言う人は。
ところで、麻雀の右斜め前は下家なのでは?
語れませんが、読んで頭を垂れました。
良い物を読ませてもらいました。ありがとうございます。
悪魔スタイルの小悪魔は美味しいと思いました。色んな意味で。
で、このお話を読んで、それに加えてお互いがお互いの保護者なんだなあ、と感じましたです。
笑いがありつつも暖かいお話をありがとうございました(礼
いかん、じんと来た……
このコンビは最高だと、今はただそう思います。
女王こぁ、見たい。
正気に戻れ俺。え、もう正気?じゃあいいやあははは――!!
あなたに おれいがしたい!
どんなてんすうでも いれて あげましょう。
笑いと感動を両立させた氏に感謝を。
こんな素晴らしい図書館組を読ませてくれた氏に、
お礼として100点とチェーンソーを贈ります。
今後もこのぐらいのバランスを維持して欲しいです。
それと貴方も十分天然かと。
お前のことは憶えたぜ!
やっぱりシリアスなだけではお話って消化不良になるんだなぁと。
にしても、八百屋のおっちゃんにまで敬語ですか。容易に想像できますが。
きっと走り回っててぶつかってきた子供にもそうなんだろうなあと思いつつ。ここいらで。
感動した!大胆かつ柔軟に!!