事件の現場、というのは、ようするに境界だと思う。
境界線の向こう側と、境界線のこちら側。
事件の現場は境界線上だ。事件はとうに過ぎ去って終わっているのに、日常の場所と言うことのできない。事件の残り香だけが、ずっと漂っている場所。
向こう側は、事件の当事者のいるべき場所だ。犯人、被害者、関係者。事件という、非日常に関わる人たちのいるべき場所。
こちら側は、事件とはまったく関係のない人がいるべき場所だ。向こう側以外の人。圧倒的多数。日常を過ごす人たち。
そして――その境界線の上。事件とは関係のないのに、事件に首を突っ込む人。
私達は境界線に立っていた。精神的な意味でも、現実的な意味でも。
外と中。女子寮という隔離された世界と、その外に広がる世界、その狭間。
女子寮をぐるりと囲む門。それはまさしく境界だった。
その境界を前に、私たちは立っていた。
相変わらず雨は降っている。けれど、その雨の勢いは、少しずつ弱まってきていた。夜が深まるころには、雨は完全に止んでしまうだろう。空から雲はなくなり、いつもの月と星が覗くだろう。
その頃には、事件は全て終わっているに違いない。
もう、お開きの時間なのだと、私もメリーも判っていた。
いや、お開きにするのだ。いつものように、境界の向こう側へと飛び込むことによって。最後の山場を乗り越えて、この事件を終わらせるのだ。
「大丈夫かしら?」
メリーが不安そうに言う。勝手に入って咎められないかしら。私を見るその瞳が、如実にそう語っていた。
私は視線をメリーから女子寮へと移し、はっきりと言う。
「見て、帰るだけ。このくらい広いのなら……『見知らぬ転入生』がいてもおかしく無いわ。不審に思われても、バレる前に出ればいいだけ」
「寮監の先生に見つからなければ、ね」
「そういうこと。それより、ここで立ち尽くしているほうが怪しく思われるわよ」
目の前にある、広い広い――ひょっとすると女学校と同じくらいの大きさがあるかもしれない女子寮へと、私は一歩踏み出した。頭の中にはだいたいの間取りが入っている。女子寮は凹の字型をした二階建ての建物。メリーが見たのは、二階東側。詳しい間取りはもちろん分からなかったが、それだけ分かれば十分だった。
女子寮へと帰ってくる女学生たちに混ざって、私たちも中へと入る。帽子は本と一緒に手に持ち、傘は傘立てへ。
時折、ちらりと横目で見られることはあったが、特に何も声をかけられることはなかった。ひょっとすると、彼女たちは判っていて何も言わないのかもしれない。私たちとは事情が違うけれど、友人の部屋にこっそり遊びにくる他校の生徒、というのは今までだって存在しただろう。
見覚えがなくても声をかけない。そんな暗黙の了解が、生徒たちの間には存在するのかもしれない。
入り口のところにある管理人室に見咎められないように、生徒たちの影に隠れるようにして、私とメリーは中へと入る。
メリーの容姿は目立つので、少しひやひやしたけれど、見咎められることなく、無事に進んだ。
一度中に入ってしまえば楽だった。この時間は、まだ廊下に生徒が溢れている。教師や寮監の姿はない。もう少ししたら出てくるのかもしれないが、その時はその時だ。
「メリー、急ぐわよ」
「もちろんよ」
足早に、けれど不審に思われない程度の速さで階段を昇り、二階へと行く。
二階は比較的生徒が少なかった。それでも、かしましいお喋り声は、十分に響いていた。
声に隠れながら、私たちは奥へと、東館へと進む。
角を曲がる。東館廊下には、生徒の姿はほとんど無かった。見通しのいい廊下の先に、大きく豪華な扉が見える。扉の横に掛かっている札には、『寮監室』と書かれてあった。
「寮監室のすぐ側で? それとも……寮監室で? 事件は、こっち側の館で起きたのよね」
「そうよ。私の見間違えでなければ、こっち側の館で起こったはずだわ。奥の部屋よ」
「扉の位置から考えると、多分すぐ側の部屋ね」
メリーの言葉を疑ってはいなかったし、見間違いだとも思っていなかった。
つまり、寮で一番偉い人間の部屋か、すぐ側の部屋で事件が起こったことになる。
陰謀の匂いがした。寮監が、何らかの形で関わっている。その可能性が、むくりと顔を覗かせていた。
私たちは足並みを揃え、決して走らないように、目立たないように、それでも急いで
「いよいよね、蓮子」
「いよいよよ、メリー」
部屋の前に掛けられた名札を読みながら、一つ、一つ、部屋の前を通り過ぎ、奥へと向かう。
事件が起こったと思しき、部屋の前へと。
――長野、梶尾、朝倉。
一歩足を踏み出すたびに、私の中で溜まっていた何かが、少しずつ大きくなるのを確かに感じていた。
ようやく終わるのだ。
これが小説なら、もう終わり50ページだ。これがドラマなら、今は一時間四十分目だ。犯人のもとへと探偵が近寄り、事件の真相をひらめく一歩手前、さあもうすぐ解決編だ! 犯人の妨害を乗り越え、命の危機をやり過ごし、さっそうと犯人の前に現れ、こう叫ぶ。
貴方が犯人ね!
秘密を、封じられた秘密を暴くその瞬間。隠れていたものが私たちの前に顔を出す。誰も知らなかった真相が姿を見せる。ジグソーパズルの最後の一欠片が埋まり、絵は完成する。ただのピースでしかなかったものが、集まり、つながり、一つの壮大な絵を描く。
真実という絵を。
――平谷、萩原、貫井。
そこに何が描かれているか、私は知らない。
ジグソーパズルは、完成するそのときまでは、ただの欠片の塊に過ぎない。できることといえば、未完成の断片から、真実を予想するだけだ。
けれど、予想とは、つねに外れるものだ。
最後の一欠片をはめ込んだ瞬間、特殊な仕掛けが発動し、絵の中身が全て変わらないと、誰が言える?
完成するまでは分からない。
最後の最後まで、真相とは解らないものだ。
――杉本、西澤、高野。
真相へと近づくにつれて、私の中では様々な思考が飛び交っていた。
過去のこと。そして未来のこと。今日あった様々なことを思い返し、今これから起こるであろうことに思いを馳せた。
喫茶店でメリーと二人話した。バイクに轢き殺されかけた。不思議な古道具屋に逃げ込んだ。もう一度轢かれかけ、反撃を誓った。
そして今、私たちはここにいる。
全てが始まった場所。事件が起きた部屋へ。
――大原、浅田、新城。
事件がおきた部屋まで、あと二つ。
そこには何が待ち受けているのだろう? メリーの見た殺人犯の少女が何食わぬ顔をして座っているのだろうか。首を締めていたように見えただけで、本当は今も二人仲良く喋っているのだろうか。警察官が現場干渉をしているということはないだろう(立ち入り禁止の黄色いテープはなかった。問題の部屋の前は静けさを保っていた)。ひょっとすると――未だに殺された少女の遺体が転がっているのかもしれない。
全ては仮説だ。
けれど、もうすぐ判る。
――小松、筒井、Wells。
一番手前までの名札を見終え、私とメリーは、最後の部屋の前に立つ。
寮監室の手前、右手側にある部屋の扉。
私たちは、そこに掛かってある、名札を見た。
「蓮子、これ――」
「――――」
見たのだ。
問題の部屋、事件が起こったと思しき部屋の扉に掛かっている名札を。
何も書かれていない、白紙の名札を。
部屋は――無人だった。
事件がおきた部屋は、確かにあった。
あるだけだった。
名札は無情にも、部屋が使われていないことを、扉の向こうに誰もいないことを、レースのカーテンも二段ベッドも古びた机も存在しないことを示していた。
私は何も考えられないまま、反射的にノブをつかんで、回した。
ガチ、という硬い感触は、部屋が使われていないことを証明してくれた。
手を離す――かすかに、手には埃がついていた。まるで、長い長い間誰もこの部屋を使っていないことを、埃たちが主張しているようだった。
ジグソーパズルの最後の欠片が、ぴったりとはまらなかったような、そんな気分だった。
「……どういうことかしら?」
隣に立つメリーが、訝しげに呟く。
そんなことは、私が訊きたいくらいだった。
呆然とした頭を必死に動かして考える。
仮説1。名札の付け忘れ。
仮説2。昨日から無人になった。
仮説3。メリーの見間違い。本当は他の部屋で事件が起こった。
仮説4。全て夢だった。今、ここでこうしていることも含めて。
最後の説は少しだけ心躍ったけれど、どれも違う気がした。どの仮説も、最後の一片には成り得なかった。
なら――最後の欠片は、一体何だろう?
封じられた秘密は、何処にある?
「メリー」
と呼びかけた時、私はまだ、『そのこと』に気づいていなかった。
どうしよう、どう思う?
そんなことを、メリーに訊ねようとしただけだったのだ。
「なぁに?」
メリーがそう答えた瞬間に、私はようやく、『そのこと』に気づいたのだった。
ほんの小さな違和感の正体に。
「この寮って――三人部屋よね」
それが、どう言う意味をもつのか、考えるより早く。
「――何をしているのですか」
私のものでもメリーのものでもない、まったく知らない、誰かの声が廊下に響いた。
「……!」
私とメリーは、はじかれたように声のしたほうを見た。
東館廊下の、一番奥。
寮監室の扉が開き、そこに、女性が立っていた。
髪の毛に白髪が混じり始めた、六十を過ぎた頃の女性が、背筋をぴんと伸ばして立ち、私たちを睨んでいた。
落ち着いた、厳しい雰囲気の人だった。きっと、寮監に違いない。
――私たちは見つかったのだ!
「貴方がたは……この寮の生徒ではありませんね?」
私たちをじっと見つめて、寮監は言う。
あっさりと、私たちが女子寮の人間でないことを見破られた。きっとこの人は有能な人なのだろう。誰かを殺すような人間には見えないけれど。
私は、返す言葉を持たなかった。
言葉を言う間も惜しんで、この状況を打開する方法を、必死で考えていたからだ。
選択肢は、幾つかあった。
選ぶ時間は、そう無かった。
もし扉の先に、事件の鍵となるようなものがあれば、私は迷わずメリーの手を引いて逃げ出していただろう。
もし扉の先に、事件が勘違いでしかないと判るような何かがあれば、私は素直に頭を下げただろう。
けれど、扉は開かなかった。
扉の向こうには、何もなかった。
秘密は私の前には現れず、何処かに封じられたまま、顔を見せようともしなかった。
それが、秘封倶楽部の一員として、気に食わなかった。
ここで逃げ帰るくらいなら、ここで諦めるくらいなら、最初からこんなことをしないだろう。
私が選ぶ選択肢は、ただの一つだ。
つまるところ――私は開き直ったのだ。
左足を起点にくるりとターンし、寮監に真正面から向かい合う。
鋭い目つきに怯むことなく、胸を張って、まっすぐ見返す。
寮監は目をそらさなかったし、私も目をそらさなかった。
静かな、青い火花が、私と寮監の間で飛び散った気がした。
「ええ、その通りです」
声は、動揺に震えなかったと思う。いつも通りの声で、私はそう言えた。
寮監の声も、また変わらなかった。感情を押し殺したような、冷たい声。ほんの少しだけ、怒りの色が声には混じっていた。
それが寮監としての立場からなのか、彼女個人の感情なのかは、わからなかった。
「何の御用ですか?」
「貴方に、一つお訊ねしたいことがあるんですが」
「何の御用ですか、と私は聞いているのです」
頑固で、立派で、毅然とした人だと私は思った。自らの仕事を忠実に務めようとする、好感の持てる人だった。
それでも、退くわけにはいかない。
寮監の言葉を無視して、私は言った。
「殺人事件」
ぴくり、と。
寮監の手が動いたことを、私は見逃さなかった。
その言葉は、寮監という立場に押し隠した、彼女の心を揺さぶるには十分な単語だったらしい。
そうだろう――と私は思っていた。もし本当に殺人が起きているのなら、それに寮監が何らかの形で関わっていないはずがない。
図らずとも、彼女は、かすかな動揺でそれをバラしてしまったし――私にそれがバレたことを、彼女はきちんと自覚していた。
何かを諦めたかのように、彼女は小さく溜め息を漏らした。
そして、もう一度私たちの方を見る。そこに、冷たく厳しい、寮監の顔はなかった。
年相応の、落ち着いた女性がそこにいるだけだった。
「――を、私の友人が見たんです。それを確かめに来たんですよ」
続けた私の言葉に、女性は少しだけ、眉をひそめた。
それが何を意味するのか、私にはわからなかった。
ギクリ、とするのならわかる。怪しいところを突かれ、動揺を露わにするのならば理屈は通る。
けれど、女性が一瞬だけ見せた表情は、それとは全然違うものだった。
何を言っているのか判らない。何かが違っている。何かがおかしい。そういった、納得のいかない疑問を感じたような表情だったのだ。
だからこそ私も、それ以上何を言うこともできなかった。いっそ取り乱して『そんなことはありません! 帰ってください!』とでも言われたほうが、よっぽど判りやすかったのだが。
先に話を切り出したのは、女性の方だった。
「……夜も更けかけてきました。部屋の中でお話しましょう」
そう言って、女性は私たちの返事を聞くことなく、寮監室へと戻っていった。
空いた扉の向こうへと戻る女性の背中は、『それが嫌なら帰れ』とはっきりと告げていた。
行くか、退くか。
選択肢は二つだ。
私は横を顔だけで振り向き、メリーを見る。メリーも同じように、私を見てきた。
どうしましょう? とメリーが目で語っていた。
罠の可能性は、確かにあった。部屋に入るなり寮監がオノを取り出して「見てしまったからには殺さなくてはならない」と言い出さない保障は、どこにもなかった。
けれど、そうでない方に、私はこの日記帳を賭けてもいい。
選択肢は二つ。行くか退くか。
選ぶのは常に一つだ。ウサギの穴だろうと虎の巣だろうと構わない。秘密を求めて前へ前へ、だ。
私はメリーと一緒に、女性の後について、寮監室の中に入った。
「扉は閉めてください」
奥にある応接用ソファーに腰掛けて女性が言った。
私は彼女の言葉に従い、扉を閉める。鍵は閉めなかった。
部屋の中は、以外と狭かった。
正直に言えばもっと豪華な部屋を想像していた。虎の毛皮のソファーとまでは言わないが、ゆったりとした、美術品でも置いてあるような部屋かと思ったのだ。けれど、どんなに見回しても美術品などなく、実務的な机と書類、それに応接用の低いテーブルと向かい合ったソファーがあるだけだった。ソファの上には黒猫が眠っていた。首に巻かれた銀の首輪には、『Petronius』と書かれている。寮監の飼い猫なのだろう。
窓は奥――北側に一つきりだ。東側に窓はない。
メリーが事件を見た部屋は、さっきの部屋で間違いないことが、これではっきりした。
女性と向かい合う形で、私とメリーはソファーに座る。帽子と本は膝に上に置いた。正面にある窓からは、いまだ降り続けている雨が見えた。雷は、鳴っていなかった。激しかった嵐も、もう終わってしまうのだろう。
「詳しいお話を、お聞かせ願えますか?」
女性の言葉に頷き、私は、簡単にまとめて説明した。
昨日の夜、あの部屋で殺人が行われたのを見たこと。本当に殺人かどうか自信がなかったので、確かめるために制服を借りてここへ来たこと。
轢かれかけたことは、言わなかった。
「…………」
全ての話を聞き終えて、女性は黙り込んだ。
それは何かの間違いだ、とも、その通りだ、とも言わなかった。
黙ったまま、視線を伏せて、机の真ん中あたりを凝視していた。
女性が何かを悩んでいるのがはっきりと判ったので、私たちもまた何も言わなかった。
ただ黙って、静かに、女性の言葉を待った。
「女学生が……女学生の、首を絞めていたのですね?」
恐る恐る吐き出された、女性の問い。
私ははっきりと断言した。
「ええ」
女性は再び沈黙する。私も、メリーも、何も言わない。
雨音だけが、部屋の中に響く。
女性は何も言わないままに立ち上がり、奥にある事務机の元まで行き、ポケットから鍵を取り出して抽斗を開けた。
何を持ってくるのだろう――そう思う私の目の前で、女性は、引き出しから小さな缶を取り出した。
私の持つ本よりも、一回り小さいくらいの缶を。
その缶を持って女性はソファーまで戻り、座ってから、私たちの前で開いてみせた。
「見ても宜しいのですか?」
「どうぞ」
女性は目をつぶり、静かに答える。
私とメリーは少しだけ身を乗り出し、缶の中身を覗き込む。
缶の中には、一冊の手帳が入っていた。分厚くも、本のような装丁でもない、小さな手帳が。
私たちが缶の中身を見終えると同時に、女性は目を開けて静かに言う。
「貴女たちの言うような事件は……確かにありました。それは、その少女の日記です」
「亡くなった方の日記……ということですか?」
私の問いに、女性は小さく首を横に振る。
それ以上質問する必要はなかった。わざわざその言葉を、口に出させる必要はなかった。
言葉を飾らずに言うのならば、この日記は、殺した側の日記ということだ。
誰にも見せない、秘密の日記。
事件の真相が載っている日記。
ジグソーパズルの、最後の欠片。
それが、今、私たちの目の前にあった。
「読んでもよろしいかしら?」
訊いたのはメリーだ。膝の上に手を乗せたまま、慌てることもなく、のんびりとした声で訊ねた。
女性は今度は首を縦に振った。その顔色は、お世辞にも良いとはいえなかった。
彼女にとって、この日記は、特別な意味があるのだろう。
日記に限らず――事件そのものに。
「失礼します」
私は手を伸ばし、手帳を手に取る。かさついた、古びた紙の感触がした。
手元まで手繰りよせ、手帳を開く。横から覗くメリーが見やすいように、少し傾けて読む。
手帳には、丸っこい、少女らしい文字で、毎日あった出来事が綴られていた。
楽しかったことや悲しかったこと。
嬉しかったことや寂しかったこと。
そういった、他の人にとっては何でもない、けれど書いた本人にとっては大切な出来事の数々。
ページをめくる手が、止まる。
悩んだのだ。本当に読んでいいのかと。これは秘密だ、少女の秘密だ。
封じられている秘密ではない。大切にしまってある秘密だ。
同じ秘密を暴く行為でも、二つの間には大きな隔たりがある。
これは、暴いてはいけない秘密なのではないか――
「蓮子」
ぐるぐると回りかけた私の思考を遮ったのは、メリーの声だった。
もう一人の秘封倶楽部、我が相方、マエリベリー・ハーンは、優しく私の名前を読んだ。
日記から、視線をメリーへと移す。
メリーは、私の目をまっすぐに覗き込んでいた。その瞳には、逡巡はない。決意だけがあった。
「読みましょう。ね?」
声に強制の色はなかった。
けれど、意志はあった。メリーは瞳で語っていた。
――寮監さんが見ていい、と言ったのよ。見ていい、いけないを判断するのは私たちじゃないわ。私たちが見ないでどうするの? ここまできたのよ、今更見ないで帰る気? なら私だけでも、独りでも読むんだからね。
メリーの言葉は正しかった。
読んでいい、と言われたのだ。なら私が決めることは、読むか、読まないかだ。
読むことでしか秘密に近づけないのなら、躊躇している暇はない。
私は頷いて、視線を日記へと戻す。
止めていた手を動かし始める。
ゆっくりと目を通し、日記の頁をめくっていく。
日記の中で生き生きと日々を綴る少女を、私は覗き見ていく。
日記には、何度も何度も同じ名前が出てくることがあった。
『彼女』。日記を書いた少女にとっての親友。
かけがえのない大切な存在。
文面からでも、行間からも、それはよくわかった。少女が、どれほどまでにその『彼女』を大切だと思っているか。
だからこそ、辛い。
読みながら、私は気づいていた。メリーも気づいていただろう。
殺した側の少女。加害者の少女。その少女が、首を絞めて殺した相手。
それはきっと――この、大切な『彼女』なのだろうから。
日記は、ある日を境に、少しずつ不穏の色を見せていた。
大切な『彼女』がいなくなる予兆。少しずつ、日記の中に不安の色が混じっていく。
そして、崩壊。
『彼女』から決定的なひと言を告げられて、少女は完全に崩れてしまう。その日以降の日記は、読んでいるだけで辛くなるような、寂しさと辛さの入り交じったものになっていた。
日記の最後になると――少女は悟っていた。
自分が何をすればいいのかを。
どうすれば、『彼女』と別れずに済むのかを。
その文字を最後に、日記は途絶えていた。あとには、白紙の頁が続くばかりだ。この後、少女がいったいどうしたかは、想像に難くない。
夜中。嵐の晩、外に雷が落ちる中。
少女は、大切な親友を部屋に呼び出し(あるいは友人の部屋に行き)懇願する。どこにも行かないで欲しい、ずっとずっと側にいて欲しい、と。
その願いが叶わないと知った時、少女の手は、首へと伸びたのだ――
「…………」
「…………」
全てを読み終わって。
事件の真相を、隠された秘密を知って。
そこに、解決の爽快感や、秘密を知る驚きは、存在しなかった。
そこにあったのは、一人の――否、二人の少女のお終いだけだった。女子寮を舞台にした陰謀劇も、目撃者を消そうという恐ろしい企みも存在しなかった。
少女の世界が崩壊する、小さくて大きな事件。
それが、日記の形をして、私たちの前にあるだけだった。
私は、何も言えなかった。
言うべき言葉を持たなかった。
なぜならば――日記の中にいたのは、宇佐見 蓮子に他ならなかったからだ。
私はもちろん、メリーを殺したいと思ったことなどない。
女学校に通ったことも、女子寮で暮らしたこともない。
それでも、この名前も知らない少女は、確かに私だった。
遠くへ行ってしまう親友。手の届かないところへ行ってしまう親友。
追いかける手段を持たない自分。
それは、秘封倶楽部の私たちと、何が違うというのだろう?
遠くて行ってしまうメリー。手の届かないところへ行ってしまうメリー。
境界の向こう側。結界の向こう側。神隠しにあうかのように、別の世界に行ってしまうメリー。今は帰ってくる。けれど、いつかは、きっとくる。帰ってこられなくなる日が。向こう側になじみすぎて、こちら側に戻ってこられなくなる日が。
私は取り残される。一人で。いつの間にか居なくなってしまったメリーの姿を、私は探し続けるのだ。けれど、探してもどこにも、この世界のどこにもメリーはいない。メリーを見つける手段はない。
宇佐見 蓮子は、マエリベリー・ハーンのような、境界を見る能力を持っていないのだから。
私が持っているのは、時間と場所を知る能力だけだ。一人では、向こう側には行けない。
いつの日か――私は、置いていかれるのだ。
「……蓮子? 大丈夫?」
メリーの心配そうな声。
自分では判らないけれど、今、私は酷い顔色をしているのだろう。
私を心配するメリーの顔。その表情を見ていると、私の中に、酷く残忍な思考が浮かび上がってくる。
――今すぐこの場でメリーを縛りつけ、歩けないようにしてしまえばいい。目隠しをして、境界を見えなくしてしまえばいい。そうすれば、メリーはどこにも行かない。私が一人取り残されることはない。
それは、私の思考ではなかった。
日記の中の少女が、私の中へするりと入り込み、私の耳に囁くのだ。
こういう方法もあるよ、と。
そして――日記に書かれた少女とは、未来の、いつの日かの私かもしれないのだ!
「……なんでもないわ、メリー。なんでもないの」
言って、私は一度目を閉じ、思考を整える。
いつの日にかメリーが居なくなる。
それは、確かに真実だろう。
メリーが何処にも居ない世界。
そういう日が来るのは間違いない。
けれど――日記の少女と、私と。決定的に違う点が、一つある。
私は、秘封倶楽部なのだ。
私ならば迷わない。躊躇しない。
メリーは何処かへ行く。遠い世界へ。
それがどうしたというのだ?
私も行けばいい。それだけの話だ。メリーについて、一緒に境界の向こう側を見に行けばいい。メリーだけ見ているなんてずるい。そういうことだ。
これまでも、そうしてきたように。
これからも、そうしていけばいい。
たとえ戻れなくなったとしても――私たち二人は一緒だ。秘封倶楽部は永遠だ。
何処へ行ったとしても、秘封倶楽部の活動はできるのだから。
そこに秘密のある限り。
……私は目を開ける。さっきまでと変わらない、メリーと、寮監の顔がそこにある。
その時にはもう、私は、いつも通りの私に戻っていた。
「これで、全て――」
日記にはもう、何も書かれてはいない。
これが全てでも、辻褄は合う。バイクに轢かれかけたのはただの雨の日の事故で、香霖堂が消えたのは事件とはまったく関係がなく、陰謀をたくらむ女子寮の組織なんてない。問題の部屋に名札がないのだって、理由をつけようと思えば付けられる。たとえば昨日メリーが帰ったあとで、すぐに警察に自主して事件は解決。名札は取られ、立ち入り禁止のテープは午前中だけ存在し、午後にはいつも通りの女子寮に戻っていた。女学生の幾人かが反応したのは、彼女たちが被害者と親しい仲だったからだろう。
そう考えれば、辻褄は合う。
納得など、出来もしなかったけど。
納得できないままに、日記を最後までめくる。何か、何か書いていないかと。
何も、書かれてはいない。
ただ――最後。背表紙の前、最後の頁。
古い写真が、そこに挟まっていた。
写真には二人の少女が写っていた。ウェーブの掛かった黒髪の少女と、肩口で髪の毛を綺麗に切りそろえた少女。二人とも、今私が着ている制服を着て、楽しそうに笑っていた。
ウェーブがかかっている女の子は、少しだけ、メリーに似ている気がした。
「それは、事件の数日前に撮った、彼女たちの最後の写真です」
私の目線をたどって、女性が付け加える。
その言葉には、懐かしさを感じる色が混じっていた。
そして――私はようやく、今になってようやく、違和感に気づいた。
古びた写真の仲では、二人の少女が笑っている。
……古い写真?
昨日死んだはずの少女たちが写った写真が、なぜ古いのだ?
いや、そもそも。
――昨日まで書かれていたはずの日記が、どうして古びている?
違和感は、今やはっきりとした形をとって、私の頭の中にあった。
仮説とも言えない、妄想のようなモノ。それが私の頭の中を占めていた。
「事件の、数日前、ですか?」
「ええ――」
私の問いに、
寮監の女性は、
いままでの全てを覆す、
決定的なひと言を、
言った。
「――もう、五十年も昔のことです」
――今、この人は何を言ったのか?
判らなかった。
女性の言った言葉は、私たちが普段使っている言語だったはずだ。
けれどこの時ばかりは、彼女が、宇宙人の言葉を喋っているような気がした。
まったく意味が通じなかったのだ。
ゴジュウネンモマエノコト。
意味のない、音の連なりにしか、聞こえなかった。
同時に――
私の頭の片隅。かろうじて意味を理解した、その一部分で、カチッ、という音が聞こえた。
それは、ジグソーパズルの、最後の一欠片がはまる音だった。
ジグソーパズルは完成した。
最後のひと言、最後の一欠片を以って、ジグソーパズルは、一枚の絵を描いた。
そこに描かれていた絵は、さっきまでのものとは、全くの別物だった。
意味を成さないものだったのが――全てが埋まることによって、ようやく、意味のある絵になった。
全ての真実が、封じられた秘密が、私の前に姿を現したのだ!
宇佐見 蓮子はまだ全てに気づいていない。その一部が、ようやく、完成した絵を見て、感動にうち震えている。
単に私がそれを認めることができないだけだ。
そんな――そんなことが、あっていいはずがない。その仮説とも言えない妄言を認めるのは、簡単にはできない。
認めれば、辻褄も合う上に、納得もいくのに、真人間としての私が、それを『応』と言ってくれない。
何も言えずにいる私に、女性は言う。
その声に、もう怒りはない。
懐かしい思い出を、悲しい思い出を語る、疲れた声があるばかりだ。
「……悪戯で、ここへ来たのではないのですね」
「えぇ」
答えたのは、私ではない。
震える声で、それでもしっかりと答えたのは、メリーだった。
答えたメリーの横顔を、私は見る。
メリーは驚いていた。
メリーも驚いてた。
けれど――
メリーは、受け入れていた。
マエリベリー・ハーンは、『そういうこともあろうだろう』と、事態を完全に受け入れていた――
「私ははっきりと、この写真の彼女を見ましたわ」
「……幽霊というモノがあるのならば、きっとそれなのでしょうね」
女性は感傷的に言って、目をつぶった。
きっと思い出しているのだろう。
五十年前のことを。
女性が――まだ、若い少女だったころを。
写真に写る少女たちと、同年代位だったころのことを。
目を開けた女性は、年相応の落ち着いた、はっきりとした声で言った。
「けれど、事件はもう、とうに終わったことなのです。覚えているのも、私と、一部の生徒だけです。――お願いです。そっとしておいてください。今はもういない、私の友人たちのためにも」
そう言って、女性は、小さく頭を下げた。
お引取り下さい。暗にそう言っているのだと、私は判っていた。
言われるまでもなく、私は帰る気でいた。もう、ここには用は無かった。隠されたものは全て出揃い、ジグソーパズルは完成した。あとは、それに意味をつけるだけなのだから。
最後に(正真正銘、これが最後だ。その証拠に、私は手帳と写真を机の上に置いてソファから立ち上がった。帰る、という意志を示すためにだ)、私は写真を指差し、二つだけ気になっていたことを質問した。
「昔は、寮は二人部屋でしたか?」
「えぇ」
「……その写真。どちらが、その――被害者ですか?」
「彼女たちは――二人とも、被害者でした」
沈黙。
女性の言葉には、声を挟む余地が存在しなかった。
「ただ、日記を書いたのは、右側の子です」
右側の子。髪を肩口で揃えた子。
この子が、
けれど、二人とも被害者というのは、少しだけ納得がいかなかった。
「……この子は、今、どうしているんですか?」
順調に考えれば、この子も今、六十歳のはずだ。たとえ当時警察機構のお世話になったとしても、今はもう、町へと戻ってきているだろう。
その問いに、女性は、首を横に振ってから答えた。
「亡くなりました――五十年前に」
「…………」
「無理心中、と警察の方は言いました」
その言葉の意味を、私は考える。
無理心中。
その情景を、私は想像する。
豪雨と雷の中、少女が首を絞める。力を失った身体が地面に倒れる。ウェーブの掛かった髪が、地面に広がる。少女は、その後を追うように、自らの命も絶つ。シェークスピアの『ロミオとジュリエット』のように、死ぬことで二人は一緒になる。
「ただ……本当に『無理心中』だったのか。あの子が拒んだのかどうか、私はこの年になっても、疑問に思っています――」
女性の言葉に、答える術を、答えを、私は持っていなかった。
誰も持っていないのだろう。
答えを持った二人の少女は、もう、この世にはいないのだから。
「……ありがとうございました」
「お手数をおかけしました」
私とメリーは、二人で頭を下げ、踵を返す。
女性は、私たちの方を、見ようとしなかった。机の上に置かれた写真と日記帳を、ただじっと見つめていた。
私は振り返らなかった。
振り返ることなく、寮監室を出る。
二度とここに来ることはないだろう、と思いながら。
扉をくぐり、私たちは東館二階の廊下を歩き出す。
窓の外からは、かすかに雨が降っている。名残雨のようなものだった、すぐに消え去るだろう。廊下には誰もいない。喋り声も聞こえない。静かな、夜の廊下がそこにあった。
私も、メリーも、何も言わずに歩く。
黙ったまま、今では『開かずの扉』になった、名札のない部屋の前を過ぎ、
――その瞬間、窓から光が跳び込んできた。
白い光が、廊下を染める。
遅れて轟音が響く。雷の音が、静かだった廊下に響き渡る。
そして――そこに、いた。
さっきまでは誰もいなかったはずの廊下。
そこに、少女がいた。
鴉色のセーラー服と赤いスカーフ。長く伸びた黒い髪は、ウェーブが掛かっていた。
どこかで見たような少女だった。
そう――何処か――たとえば、写真の中で。
五十年前に撮った写真の中で見た少女が、今、そこを歩いていた。
彼女はゆうゆうと私たちの側を通り過ぎ、
「今晩は。今、いいかしら」
そんな声と共に、ガチャ、という音がした。
開かずの扉が開く音が。
私は――足を止めなかった。
振り返ることもしなかった。
後ろで何が起きたのか。
今何が起きたのか。
つとめて考えないようにしながら、私は、外を目指して歩き続けた。
寮監室で思いついた、妄想のような仮説は、もう、仮説ではなくなっていた。
そのことを、今は、考えたくなかった。
一刻も早く、この場から立ち去りたかったのだ。
隣を歩くメリーが言う。彼女も気づいたのだろう、声が、微かに不安げだった。
「蓮子、今の……」
「気のせいよ。きっとね」
そう、気のせいなのだ、きっと。
あの少女は、五十年前に、死んだのだから。
あの後、部屋で何が起きるか、私は知っている。私たちは知っている。
あの少女の運命を、知っているのだ。
彼女を止めなくてよかったんだろうか? そんな疑問が、一瞬だけ頭に浮かんだ。
もし私が彼女に声をかけて、その先に待ち受けるものを教えていたら? そこまでしなくてもいい、寮監の先生が見回りをするそうよ。寮監の先生が、あの部屋に行くそうよ。そう言えば、事態は変わっただろうか?
意味のない、机上の空論だ。
私は何も言わなかったし、私が何を言っても、彼女は止まらなかっただろう。
あの行く先に――何が待ち受けるのか。
ひょっとしたら、彼女は全て知っていたのかもしれない。
そんなことを、ふと思った――
◆ ◆ ◆
×月××日 豪雨 雷が鳴り止まない
彼女が私の部屋にきた。
「今晩は。今、いいかしら」
きっと、明日のことだろう。
彼女は明日、居なくなるのだから。
けど、それはもういい。
明日居なくなることはない。
彼女は今日、私と一緒に、永遠になるのだから。
二度と離れることはない。
私にも、彼女にも、明日は訪れない。
私は彼女を部屋に迎え入れて、座らせる。
これで、お終いだ。
私たちは永遠になる。
窓の外で、雷が、また鳴った――
◆ ◆ ◆
外は、もう夜になっていた。
雨と雷は止んでいたが、空にはまだ雲が掛かっていた。月と星は見えない。今は、まだ。
今がいつなのか。
今が何時なのか。
空を見てもわからない。空にかかった雲は、私の能力を阻害してしまう。
ポケットに入っている時計だけが、時間と日付を知る唯一の手段だった。
けれど、もうそれも終わるだろう。空で雲は動き続けている。もう一時間もしないうちに、雲の隙間から星が覗き始めるだろう。
私は帽子を目深にかぶり、メリーの手を引いて町を歩いていた。
有無を言わさず、女子寮を出た時から一直線に、私たちはソコを目指していた。
「どこへ行くの?」
メリーの問いに、私は短く答える。
「一番高いところよ」
その言葉に嘘はない。
私が向かっているのは、この町で一番高いところ――歩道橋の下から見た、あの時計塔だ。屋上に望遠鏡がある時計塔。
あそこは、一番空に近い。
あそこに行けば、この町で一番最初に、星と月を見ることができる。
私は、時間を知りたかったのだ。
時計が告げる正確な世界の時間ではなく、今この瞬間の時間を。
今日一日、ずっと雨が降っていたせいで、私は能力の使い道がなかった。
空を見上げても、時間も場所もわからなかった。
その事実が、私の『仮説』を――今回の事件の真相、『真犯人』に関する仮説を、後押ししていた。
寮監室で閃いた、妄言にも近い仮説。
それは今や、時間が経つにつれて私の中で整理され、一つの真実を指し示していた。
完成した絵は、矛盾も歪みもない、納得のいく絵だったのだ。
それを『絵』だと認めるのが難しいだけで。例えるのならば、写真を指差して『これは絵だ!』と叫ぶような、そんな感覚があった。
それでも――それ以外には、何も思いつかなかった。
「一番高いところって、時計塔かしら?」
「そうよ」
「何をしに?」
「星を見に」
話しながら、時計塔の扉をくぐる。
エレベータは、この時間は動いていなかった。屋上は開放されているけれど、この時間、中の施設は使えないのだ。
私は迷わず、壁際にある螺旋階段へと向かった。少し長いが、それでも登れない程ではない。
登る。螺旋階段を。
くるくると回る階段を、どこまでも昇る。
どっちが右で、どっちが左で。
どっちが前で、どっちが後ろで。
どっちが北で、どっちが南で。
どっちが西で、どっちが東で。
そんな簡単なことさえ、登っているうちに判らなくなってしまう。
――そのうち、何で登ってるかすら忘れてしまうんだ。
そんなことを、ふと思った。
窓がないから、月も星も見えない。ここが何処で、今が何時なのか、知る術はまったくない。
登りながら、私とメリーは会話を続ける。
「あれは、本当に幽霊だったのかしら?」
「あれ?」
「私が昨日見たあれよ。……あとは、ついさっきのも、だけれど……」
こつ、こつ、こつという硬い足音と一緒に、声が螺旋階段に反響する。
メリーは、あれを幽霊だと思っていたのか――そのことが、少しだけ意外だった。
見た本人が、一番最初に理解するかと思ったのに。
けれど、そういうものなのかもしれない。メリーは、理解しているのではなく、ただ受け入れているだけなのかもしれない。
見たあれが夢であれ幽霊であれ何であれ、メリーはあるがままに受け入れるのだろう。
そんなメリーだからこそ、境界を見る能力があるのかもしれない。
それとも、境界を見る能力があったからこそ、メリーはこういう性格になったのだろうか? 発狂し、壊れるのを防ぐために、自動的に全てを受け入れる性格になった……というのは、少し穿ちすぎな考えだろう。完全に的外れではない気もするけれど。
「違うわよ」
私は、ひと言で否定した。
あれは、幽霊ではない。
化けて出て、死んだ時と同じような嵐の晩に同じことを繰り返す――というのもあり得そうな話ではあったが、そういうことをするのは未練がある幽霊だけだ。あの日記の少女に、未練があるとは思えなかった。殺された方の少女には未練があったかもしれないが、その場合は化けて出てまで殺されたりはしないだろう。
「あらはっきりと。蓮子は、何だと思うのかしら?」
足を止めず。
かつかつと音を立て、屋上を目指しながら、私は言う。
「決まってるでしょ。行って、見てきたのよ。五十年前に」
「それって――?」
メリーの問い。
それに、私ははっきりと答えた。
全てが埋まったジグソーパズル。
そこに現れた絵のタイトルを、ばらばらになって隠されていた真実を、私はメリーに告げた。
「――――タイム・スリップ」
……過去と未来の境界。
そこに、私たちは立っている。
その向こう側を、私たちは覗くことはできない。私たちは境界線の上に立って、境界線の上を歩き続けているのだから。過去側にも未来側にも足を踏み出すことはない。ずっと、境界線の上を歩き続ける。サーカスの綱渡りみたいに。
けど――メリーは、境界を覗き見ることができる。
境界線の向こう側に、過去と未来があることを知っている。
自分たちが、境界線の上を歩いているのを知っている。
私はメリーではない。彼女がいったい、この世界をどんな風に見ているのか、私は知らない。
けれどそれは、薄氷の上を踏むような、目隠しして綱を渡るような、そんな危うい生き方に違いない。
たとえば、背中をちょんと押すだけで、向こう側に行ってしまいそうな。
何も背中を押さなくてもいい。ちょっと強い風が吹くだけでもいい。綱が濡れていて足元を滑らせるだけでもいい。
それだけで、メリーは向こう側へと行ってしまう。
例えば――雷。
あの強い光に照らされることで、メリーの目には、境界が浮き彫りになって見えるのかもしれない。
あの強い力、1.21ジゴワットの力を受けることで、この世界を包みこむ境界に、ほんの少し穴が開くのかもしれない。
それを、メリーは見逃さないだろう。
過去と未来の境界を、メリーは、雷に後押しされて、あっさりと渡ってしまうだろう。
「雷でタイムスリップするっていう小説、昔あったわよね」
タイトルは忘れてしまったが、確かにあった。
雷を受けた男が、遠い昔に時間移動するのだ。
過去と現在の境界を踏み越えて、遠い過去に行く。
それが――メリーの身に起きないと、なぜ言える?
最初から境界が見えるメリーは、その男よりも、ずっとずっと行きやすいんじゃ無いだろうか?
いや、そもそも。
メリーはとっくの昔に――私が気づかないだけで――何度も何度も、薄氷を渡っているのではないだろうか。
本人が気づいていない無意識のうちに、気がつかないうちに、実際に境界を渡ったことが、一度ならずともあるんじゃないだろうか。
いつか、境界の向こう側から、クッキーと筍を持ちかえった時のように。
気づかないうちに、過去へと跳んでいることだって、あるのではないだろうか。
本人が気づかないだけで。
気づかないうちに、受け入れているだけで。
そして――今日。
私は、一日をメリーと行動した。
メリーと一緒に、境界の上を歩き続けたのだ。
メリーはいつも通りだった。ただ、私が過剰に反応しただけだ。いつもメリーが歩いている、私たちの穏やかな世界とは違う視点を、私が一緒に覗いてしまった。そのせいで、簡単で素直なはずの事件が、ややこしい陰謀劇のように感じてしまったのだ。
バイクに轢かれかけた。
私から見たら、あれは、バイクが突然現れたように見えた。意識の外から、突如バイクが襲ってきたような、そんなイメージがあった。
本当は、逆だとしたら?
バイクが現れたんじゃなくて――私たちが、バイクの前に現れたのだとしたら?
あの時、雷が鳴った瞬間。ほんの一時的に、メリーの周りだけ、過去と未来の境界の位置が変わっていたとしたら?
バイクからすれば、私たちが突然目の前に現れたように見えたのだろう。
雨と雷の中、不思議なお店香霖堂へと入った。
あれも――本当は、この町に存在するものではないとしたら? 境界の向こう側に存在するお店だとしたら?
あの時、雷が鳴った瞬間。気づかないうちに境界を渡って、気づかないうちに境界から戻ってきていたとしたら?
少女が殺される場面を見た。
それもまた――メリー曰く、雷が鳴っていた。
強い稲光に照らされた中、メリーは、窓の向こうに殺される少女を見た。
それが、窓の向こうであると同時に――境界の向こう、遠い過去を覗き見ていたのだとしたら?
少女とすれ違った。
あの瞬間、最後の大きな雷が鳴っていた。その瞬間だけ、思い出したかのように、窓の外は豪雨だった。
あの時――時間を跳び越えていたとしたら?
五十年前の、事件当日。殺される直前。その時間に、一瞬だけ私たちが跳んでいたとしたら?
もしあの瞬間少女に話しかけ『貴女は殺される。行かない方がいいわよ』と言っていたら、どうなっていただろう? 少女は死ぬこともなく、世界の歴史は変わり、私たちは戻れなくなっていたに違いない。
全ては、仮説だ。
仮説と真実の境界が、かぎりなく薄いだけで。
あるいはそれは、全部夢だったのかもしれない。奇しくもメリーが言ったように。雷が私たちに白昼夢を見せていたのかもしれない。
「そう。犯人は――」
言って、私は足を止める。
目の前には、屋上へ繋がる扉。
螺旋階段と、屋上をつなぐ扉。
雨の音は聞こえない。この向こうには、きっと、星と月が出ているだろう。
そしたら私は空を見上げて、それらを見よう。星を見て、今私たちが、私たちの時間を生きていることを確認しよう。今いる場所が、私たちの住むこの町だということを確認しよう。
そうしてようやく、今回の秘封倶楽部の活動は終わるのだ。
振り返り、一段下に立つメリーの顔を見て、私は言った。
「犯人は――貴方だったのよ、マエリベリー・ハーン」
少女を殺したのも。
バイクで轢きかけたのも。
それらは全て、私たちとは関係のないことで起こったものでしかない。
けど――それらを事件として捉えるのなら。
この『事件』の犯人は、間違いなく、メリーその人だ。
凶器は境界。死因は過失死といったところだろうか?
犯罪ではないから、『ジグソーパズルの製作者』の方がしっくりくる気もするけれど。
「そう――そう、だったのね」
メリーの声は、珍しく覇気がなかった。
それもそうだ、自分の意志とは関係のないところで、いつのまにか犯人になっていたのだから。
別に不安にさせるためでも、落ち込ませるために言ったわけじゃないので、私はすぐに付け加える。
「まあ、でも心配することはないわ。そうそう簡単に時間の境界なんて踏み越えられるわけでもないし。嵐の晩には家で大人しくしてれば大丈夫よ」
今はそうだけれど、とは付け加えなかった。
現在と未来の境界の果て――いつの日か、ありとあらゆる境界を自在に操る日が来るかもしれないとは、付け加えなかった。
その時は、その時だ。
その時こそ私は、メリーと手をつないで、境界の向こう側に行くだろう。
未だ目にすることのない、封じられた秘密を求めて。
私の言葉を聞いて、メリーは、少しだけ嬉しそうに笑った。
うん、やっぱり、落ち込んでいるよりは笑っているほうが似合っている。
秘封倶楽部は、サークル活動だ。何はともあれ楽しまないと。
「つまり蓮子は――」
「時間を確かめに行くのよ。それでお終い」
言って、私は振り返って、ノブに手をかけた。
雨音は聞こえない。雷の後は、綺麗な晴れ空が待っているはずだ。窓がないから外は見えないけれど。
メリーが一段登り、私と一緒に、鉄扉の前並ぶ。
そして、私は扉を開いて――
――その瞬間、この嵐の終わりを告げる、最後の雷の光が遠くから――
ヤバい、と一瞬だけ思った。思ったころには遅かった。込めた力は止めることができず、扉は完全に開いた。
開いた扉の先から、眩いほどの、白い光が跳び込んでくる。
くん、と、変な感触があった気がした。
気のせいだったのかもしれない。
が、それを確かめている暇はなかった。
それ以上の異変に、私は目と、心を奪われていたからだ。
白い光の中。
ほんの一瞬だけ、私は見た。
扉の向こうに広がる景色を。
美しい世界を、私は見た。
美しいとしか言いようがなかった。高い高い時計塔のレンガはひび割れ、そこから草と花が伸び出ていた。時計塔の周りには何もなかった。高いビル群は存在しなかった。家すらもなかった。
家の代わりに樹があった。空まで伸びているような大きな木。そこから広がる地面には、色取り取りの花が咲き誇っていた。赤、桃、黄、橙。明るく美しい花が、何処までも、地平線の彼方まで咲き続いていた。コンクリートの灰色は何処にもなかった。せわしく動き回る人間は何処にも居なかった。
私と、メリーしか、世界には居なかった。
秘封倶楽部の二人だけが、この美しい世界にいた。
ここではない何処か。今ではない何処か。
世界でもっとも美しい光景の広がる――この世のものではないような、美しい世界を、私は見ていた。
それはまるで――そう、まるで。
人が滅びて。
世界が滅びて。
もう一度生まれ変わった、争いのない、花だけが咲き誇る美しく平和な世界――
何億年後かの、遠い未来の光景。
何百年後かの、遠い未来の光景。
現在と未来の境界の果て――美しい幻想の境を、私は、呆然と見ていた。
目から涙が出ていることにも気づかずに。
「――蓮子?」
それを見ていたのは、本当に一瞬だけだった。
白い光が消え、遅い音速で雷の音が響くころには――世界はもう、灰色へと戻っていた。
――そこに広がっていたのはいつも通りの光景だった。
灰色のビルが広がる、いつもの町だった。
境界はどこにもない。
完全に――こちら側に、私たちは立っていた。
私は空を見上げる。
雲は遠い空へと逃げ去り始めていた。残っているのは、晴れ晴れとした蒼く暗い空だった。
月と星が、そこにあった。
月と星は、私に、今の時間と、場所を教えてきた。
私は視線を空から手元へと戻す。手には、ポケットから取り出した時計を持っていた。
香霖堂で買った、時間と場所がわかる、あの不思議な時計を見た。
星と月の時間と、見事に一致していた。
私たちがいるこの場所。この世界。
いつもの――私たちの、世界だった。
「メリー」
「なぁに?」
メリーはいつも通りの声で返事をした。
いつも通り。
いつもと変わらない声。動揺も何もない。
メリーは、あの美しい光景を見なかったのだろうか?
私が見たあの光景は、私だけに見えた、ただの幻だったのだろうか?
それとも――メリーは、いつもあんな美しい世界を見ているのだろうか?
判らない。きっと判らないだろう。私の目は、月と星しか見えない。
境界を見る目を持たない私には、メリーの見る世界を同じように見ることはできないだろう。
それでも。
「これ、あげる」
手に持った時計を、私は、無理矢理メリーに握らせた。
時間と日にちがわかる時計を。
「……いいの?」
「いいの」
言って、私は空を見る。
月と星は、変わらずそこにある。
やっぱり、私はそれだけで十分だ。時計があれば便利だけど、便利なものだけで世界は構成されていない。
この時計は、メリーが持つべきなのだ。
境界は認識の力だ。意識が大きく関わっている。
時間と日にちを表示する時計を持っていれば、メリーは、今が何月何日の何時何分かを常に意識できる。
そうすれば、勝手に時間の境界を踏み越えることはないだろう。
私を置いて、一人きりで行ってしまうことはないだろう。
私が、独りきりになることもないだろう。
「ありがとう――!」
本当に嬉しそうな、メリーの声。
その声を聞くだけで、私も嬉しくなる。
私は、境界を見る目は持たない。一人では境界を踏み越えることも、見つけることもできない。メリーの見る世界を、同じように見ることは、どう頑張ってもできはしない。
それでも、できることはある。
同じ世界を見ることはできなくても。
隣に立つことくらいなら、私にだって出来る。
隣にだって、何処までも行こう。
秘封倶楽部として何処までも行こう。
それがたとえ、境界の向こうだとしても。
「さ――帰ろっか」
言って、私は夜空を見たまま、両手を大きく伸ばして深呼吸をする。
夜風の冷たい空気を、かすかに電気を孕んだ、雨上がりの心地良い空気を思いっきり吸い込む。
遠くから、境界を越えるほどの遠くから――微かな――あるいは、幽かな――花の香りがした。
ラベンダーの花の匂い。
遠い幻想の匂いだけが、私の心に届いていた。
秘封倶楽部は何処にいる? P-N-F THE GIRL WHO SEE THROUGH TIME (了)
最初は長いなぁ、と思ったのですがまったく気にせず最後まで読む事が出来ました。
で、誤字なんかを。
>灰色のビルが広がる、いつもの待ちだった。
ここはいつもの街、でしょうか?
心を捉えて離さない貴方の幻想に、感謝の意を籠めてこの点数を送ります。
その女子寮には寮監など居ない、というベタなオチが来るかと思っていましたが見事に外されました。
ところで
>私はもちろん、蓮子を殺したいと思ったことなどない。
>最初から境界が見える蓮子は、その男よりも、ずっとずっと行きやすいんじゃ無いだろうか?
>蓮子はとっくの昔に――私が気づかないだけで――何度も何度も、薄氷を渡っているのではないだろうか。
ここ、蓮子ではなくメリーじゃないでしょうか。あと
>……私は目を開ける。さっきまでと変わらない、蓮子と、寮監の顔がそこにある。
「蓮子と寮監の顔がそこにある」と読んでしまったので一瞬メリー視点かと思いました。
町、です。至急修正しました。
ご指摘ありがとうございます
>名前が無い程度の能力氏
誤字以前のものすごい間違いだと自分でも思います……これ、なんでだろう。
修正しました。ご指摘、ありがとうございます。
この文章のどこかに境界でもあったのでしょうか。
気付けば物語の中へと吸い込まれ、何事かと頭を回し。
それも時間軸ごと吹っ飛ばされてしまったようです。
つまるところ飲まれました。見事。
読めば読むほど話に引き込まれてしまいましたよ。
彼女達は次は何処へ? そう考えてしまいそうな、まさに題名に相応しいお話でした(多謝
私もいつかこんな秘封倶楽部書いてみたいものです……無理か……。
ともかくお疲れさまでした。
見てるうちにハラハラして、読みきった後のハァーっと安心したような達成感を覚えました。
自分の中をぐるぐると回っているというか。
TTを東方世界に会う形で見事に料理してあり、
その上で独特の世界観を築き上げているのが凄いと思いました。
しかし、小ネタのモトネタが咽喉の奥にまで出掛かってるのに、
思い出せないのが結構あったというのが少し悔しいなあ(苦笑)
作者様の趣味や嗜好が上手く反映されていて、独特の作品として仕上がっている様に思います。
大変美味しゅうございました。ご馳走様。
さておき、大変面白かったです。蓮子のスタンスがとても素敵。
よかったです、凄く。
遠くを眺め、ぼんやりと。お見事でした。
二人が出て行った後に、ひょっこりスキマが
「時計を治してほしいんだけど・・・アフターサービスはやってくれるわよね?」
と来るのが幻想しました。
時計を渡すその心が、友情だなぁ、と。
小ネタもとっても知りたくなったので、明日から図書館通いになりそうですww
やはり秘封倶楽部は不安定な立ち位置にいるのですね。
問題編では終始引き込まれっぱなしで、最後は幻想的な種明かし。
このSFチックなミステリーがとても秘封らしいと思いました。
素晴らしい秘封倶楽部の物語を読ませてくれてありがとうございました。
特に一人称で進む蓮子の心情描写が秀逸で物語に引き込まれました。
物語の構成にも欠点がまるでない。文句なしに100点を進呈します。
当作品を読ませていただき、ありがとうございました。
タイムスリップかあ...確かにありえなくはないですねえ。
最後、花が咲き乱れる光景は素晴らしかったです。
脳内でラピュタのBGM が流れるほどでした。
ミステリアスな作品で充分楽しめました。
では失礼いたします。