Coolier - 新生・東方創想話

ひとりぼっち

2006/04/24 06:38:20
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 欠けた月が天頂を過ぎ去り、既に世界は夜の住人へと渡されたこの時間。
 陽の下の賑やかしさは忘れ去られ、代わりに顔を出すのは密やかなさざめきばかり。

 そんな暗闇の静謐に身を浸しながら、アリスは自宅の書斎で読書に耽っていた。
 三方を書架が覆い、当然のように窓を持たないその部屋では、光源はランプの淡い灯りだけ。
 ほの暗く、部屋の中ですら輪郭がぼやけそうではあるが、しかしアリスには十分な明るさだった。

 かさり。羊皮紙の擦れ合う乾いた音が室内に響く。

 何て事の無い音は、却って部屋の雰囲気を引き立てる。
 ただ一人でそこに存在するという寂しさ。寂寥感と言ってもいい。
 ズラリと並んだ書籍は閑寂に鎮座するだけで、開かれたページの語りは聞き手と噛み合わない。

 一つ、アリスは息を吐く。

「――――ハズレね」

 それだけ呟いて、彼女は手に持っていた本を閉じた。
 机の上にそれを置くと、椅子の背もたれへと体を任せる。

 ギシリ。

 椅子の上げる僅かな軋みが、アリスには心地良い。
 天井を仰ぎ見れば、薄い金色の髪がぱさりと揺れる。

「…………」

 先程まで読んでいた本は、実につまらないものだった。
 何処かの誰か――――それこそ思想家なのか詩人なのか、はたまた別の何かなのかもわからない人物が書いた本。
 実体験を交え、恋愛について情熱的に書かれているそれは、年頃の少女の気を引くには十分かもしれない。

 普段ならばアリスもそれなりに楽しめたのだろう。が、何とも日が悪かった。
 精神状態と噛み合わなかったお陰で、覚えたのは苛立ちだけ。
 残念な事をした、と思わないでもない。

 アリスはもう一度息を吐くと、部屋の中を見回した。

 青い瞳に映るのは、シンと静まり返った己の書斎。
 特に調度も無い寂しい部屋だとは思うが、アリスはそんな空間を気に入っていた。

 魔界にいた頃とは違う、その感性。


 ――――――……


 ――――……


 ――……


 彼女が幻想郷に移り住んで、それなりの月日が経っている。
 その間に事件と呼べるような出来事も幾つかあったし、騒ぎの解決に乗り出した事もある。
 そんな中で、また、それ以前に出会ったこちらの住人は気に入っているし、別に賑やかなのも嫌いではない。
 時たま行なわれる宴会にだって――――何だかんだと言いはするが――――余程の事が無い限りは参加を決めている。

 幻想郷の生活は既に体に馴染み、日々の生活はそれなりの充実を見せている。
 ここで得た友に不満など無く、魔法の研究に停滞は在れど停止は無い。
 心地良くて、小気味良くて、そこに在るのはたしかな満足。

 ただ、それでもたまに、どうしようもない違和感を感じる事があるのだ。

 或いは賑やかしい宴会の席で、或いは友人との楽しき談笑の合間で。
 アリスにとって拭う事の出来ない、忘れる事の出来ないオカシサを。

 だからそんな時はこの書斎に篭もり、夜遅くまでひたすらに本を読み耽る。
 一人で静かに本を読んでいると、段々と心が落ち着いてくる故に。
 けど、それも今夜は失敗。逆に不愉快指数が増大した。

「こんな事なら、理論書にでもしとくんだったわね……」

 とはいえ、今更そんな事を言ってもしょうがない。

 額に手を当てて、アリスはボンヤリと部屋の中に視線を巡らせる。
 そうして何処に焦点を合わせるというわけでもなく並んだ書籍を眺めていると、コンと扉を叩く音が聞こえた。

「?」

 アリスが視線を移せば、ちょうど扉が開かれるところだった。
 最初は少し、それから徐々に開かれていく扉の向こうには、お気に入りの人形の姿。

 万歳の格好をしている人形の手はお盆を支えており、そこにはティーカップが載っている。
 よく見れば、扉の影から更にもう一体。おそらくはこちらが扉を開けたのだろう。

 アリスは、柔らかく微笑んだ。

「ありがとう。上海、蓬莱」

 カップを受け取って礼を言えば、二体はくるくると回り始めた。
 喜びの表現だろうか。お揃いの金髪が、力作のドレスの裾が浮き上がって、なんとも可愛らしい。
 アリスの目標である完全自律思考型の自動人形。その為の試作として加えた機能なのだが、効果は上々とみえる。

 長い間を共に過ごしてきたからか、最近では少しずつ感情のようなものが芽生えてきた、この二体。

 動作のバリエーションが増えているし、勝手に行動する事もある。
 初めて自分から手伝いをした時など、アリスは喜びから涙したものだ。
 それもこれも、幾つかのルーチンを予めに組み込んでいたからこその成果である。

 己の周りを楽しげに飛び回る人形達。
 その姿を、アリスは優しい表情で眺めている。

 アリスは人形が好きだ。人形が大切だ。

 それは純粋に趣味的な意味合いも持つが、彼女の根幹的な意識に食い込んでくる存在だからでもある。
 完全自律思考型の自動人形――――つまりは人に近しいそれも、彼女の無意識から求めている部分は大きい。

 普段は本人ですら気付く事の無いそれは、こんな時に首をもたげてくる。

「神様が自分を模して創ったのが人間なら、人間が自分を模したものが人形なのよ」

 微かに口元を歪めながら、アリスは呟いた。
 それから、二体の人形を抱き寄せる。

 人形の支えていたお盆が床に落ちて、乾いた音が部屋に響く。

 胸元に埋まった彼女らは、特に騒ぐ事も無くジッとアリスを見上げるだけ。
 いや、脇の方に短い腕を伸ばしているのは、抱き返そうとしているからだろうか。
 なんだか心配してくれているように感じられて、アリスは一層強く二体を抱き締めた。

 っと、流石にきつかったのか二体が暴れ始めた。
 それに気付いて、アリスは慌てて彼女らを離す。

 こんな気分の時には人形に関わらないようにしていたのに、ちょっと失敗。

「ごめんなさいね」

 苦笑を浮かべて、アリスは謝罪の言葉を口にした。

 その眼前では二体の人形がふわふわと浮かんでいる。
 腰に手を当て、私、怒ってますと精一杯に自己主張。

 けど、それもすぐに終わり。
 それぞれ一発ずつアリスの額を叩くと、そのまま膝へちょこんと座る。

 ありがとう、とアリスは小さく呟いた。


 ――――――……


 ――――……


 ――……


 椅子に座ってまどろんでいたアリスは、不意に顔を上げた。
 それからキョロキョロと辺りを見回し始めた彼女は、ある一点で視線を止める。

 スッと、その瞳が細められた。

 虚空を見詰めて数秒、彼女はおもむろに溜息を吐くと、呆れたように首を振る。
 気付けば人形達も浮かび上がっており、こちらは空中で何度も腕を振り抜いていた。

 ジャブ、ジャブ、ワン・ツー。
 ジャブ、ジャブ、ジャブ、ワン・ツー。

 腕の振りは速いのだが、如何せん音が軽すぎる。
 動作も傍から見れば可愛いだけなので、迫力など欠片も無い彼女らの行動。

 そんな二体が見えているのかいないのか。
 アリスは一言だけ声を掛けて、そのまま書斎を出て行った。

 二体も慌ててアリスの背中を追って行く。






 薄く月明かりに照らされるだけの廊下を、アリスは小難しい表情で歩いている。
 一歩、足を進める度にブーツと床板が音を立てて、ただそれだけの事なのにアリスの癇に障る。
 歩き慣れたこの廊下、それが少しでも長くなればいいのにと願っても、そんな事はありはしない。

 やはり、厳しい表情でアリスは歩く。

 原因はきっと、己の失態。意外と気の利く友人だから。
 わかっているが、心というのはそれほど簡単に出来てはいない。

 廊下を曲がれば、もうあと少しで目的地。

 別に嫌なわけではない。普段ならば歓迎しなくも無い出来事だ。
 しかし今日は、どう対処すればいいのか困りそうだから。

 ――――――上手く、やれるだろうか。

 微かな苛立ちは、そのまま足音に反映される。
 しかしアリスはそれを気にする余裕も既に無く、黙って足を進めるばかり。

 辿り着いたのは、玄関だった。

 アリスが到着すると同時に扉が開かれ、微かな冷気を孕んだ風が流れ込む。
 そして、風と共に現れたのは、やはり予想通りの人物。それは玄関前で悠然と佇む少女。

 長く、癖のある金髪を持つ少女は、黒い帽子を被って魔法使い然とした格好。
 彼女は愛用の箒を片手に、普段通りの悪戯っぽい笑みを浮かべていた。

 霧雨 魔理沙。
 アリスにとっては魔法使いとしてのライバルであり、また悪友とも言える少女。
 そんな彼女がどうしてこのような時間に訪ねてきたのかを思い、アリスは心中で苦笑する。

 表面上では額に右手を当て、呆れているような表情だが。
 ちなみに左手は突撃しようとする人形達を抑えている。

「よお、アリス。あまり久し振りじゃないな」

 片手を上げて挨拶する魔理沙に、アリスは溜息を吐きたくなった。
 およそ八時間ぶりの再会は、さして歓迎するようなものではない。

 嫌いな相手ではないが、こんな時には会いたくない相手でもあるから。

「……まったく。こんな時間に何の用なのよ?」

「いや? 私が眠れないからお前を起こしに来ただけぜ?」

「なんで疑問系なのよ……迷惑だし」

 アリスは盛大に溜息を吐いた。
 いつものように、ただ呆れたと言うかのように。

 目の前の相手はそんな事は気にしないだろう、いつものように。
 そんな友人の性格をよくわかっているからこそ、アリスは何も言わずに踵を返す。

「お邪魔するぜ」

 そう言って何の遠慮も無く上がり込む友人に、しかしアリスは文句を言わない。
 慣れた、と言ってしまえばそれまでだ。それに、彼女は魔理沙のこういったところは嫌いではなかった。

 己の周りで不機嫌そうに浮かんでいる人形達を宥めながら、アリスは小さく呟いた。

「大根役者」




 リビングへとやって来た二人は、それぞれ手近なソファに腰掛けた。
 アリスは人形達を台所に向かわせると、対面の魔理沙に向かって口を開く。

「ったく。寝酒を用意してあげるから、それ飲んだら帰って寝なさいよ?」

「なんだなんだぁ? 冷たいぞ、アリス」

「私はあなたほど神経が図太くないだけよ」

 ぷらぷらと手を振りながら、どうでもでもよさげに答えるアリス。
 そんな彼女に、魔理沙は納得したように頷いた。微かな笑みを浮かべつつ。

「ああ、お前は引き篭もりだからな」

「都会派魔法使い」

「…………」

「…………」

 お互いがお互いを見遣り、軽く笑った。これも、いつも通り。

 既に何度も繰り返されてきた、同じような遣り取り。決まりきった攻防戦。
 故に、この会話にはあまり意味が無い。一種のコミュニケーションのようなものだ。

 アリスはこんな時間が嫌いではなかった。魔理沙もそうだ。
 そして、そんな二人だからこその悪友でもあるのだろう。

 ――――ヒュッ。

 唐突に何かが空を裂く音が聞こえた。

 同時に、小さな影がアリスの側を通り過ぎる。

「おっと」

 パンッという小気味良い音と共に、影は魔理沙の手の中に収まった。
 受けた右手を軽く振りながら、魔理沙は左手でそれが何かを確認する。

 見れば、それは器だった。やや縦長の形に、ザラザラとした手触り。
 おおよそ手の平大のそれは、黒っぽい赤色をしており、妙な文様が刻まれていた。

「あん?」

「ミニ土器ね」

 訳がわからないといった様子の魔理沙に、アリスが言った。
 しかし、その答えも魔理沙には意味不明だ。いや、意味はわかるのだが。

「土器?」

「それも縄文」

「ブランド物だな」

 まぁいいか、と魔理沙は口を付けようとして、はたと気付く。

 口から離して、土器の中を覗き込んで確認すれば――――やはり。
 それから段々と傾けて、最後には逆様に引っくり返してみたが、何も零れてこなかった。

「おい。空っぽだぜ」

 魔理沙の文句に、しかしアリスは動じない。
 しれっとした様子で答えを返す。

「だって、中身が零れたら困るじゃない」

「……私が受け取った意味はあるのか?」

 はて。あっただろうか、とアリスは首を傾げた。
 しかし、無かったとしても特に問題は無い事に気付いて、すぐにそんな思考を捨て去る。

「まぁ、やった本人に聞けばいいんじゃない?」

 そう言ってアリスは後ろの方を見遣る。
 つられて魔理沙がそちらに視線を送れば、二体の人形がグラスの載ったお盆を運んできているところだった。
 いや、正確にはお盆を運んでいるのは一体だ。という事は、土器を投げてきたのは残りの一体という事になる。

 それを確認すると、魔理沙は頭を掻いた。

「お前の人形も、とうとう意思を持つようになったのか?」

「まだ大まかな快・不快の感情と、それに伴った自律行動をするだけよ」

 なるほど、と魔理沙は納得した。まぁそれでも随分な事ではあるが。
 それから飛んでる人形の一体を観察していると、目前のテーブルの上にグラスが置かれた。

 先程のお盆に載っていたものだろう。

「ウイスキーよ。水割りのダブル……まぁ私が求める人形にはまだまだ程遠いわね。大いに参考にはなるけど」

 そもそも、成り立ちからしてアリスの望むものとは違う。
 創られた当初から明確な意思を持つ、一つの生命の創造が彼女の目標だ。
 こういった後天的な霊魂の付与とは違うのである。

 可能かどうかは別。今は目標に向かって前進すべし。

 何時の間にか、少しばかり思考の方向がずれている。
 だがまぁそれでもいいか、とアリスは思う。
 こんな日はいっそ馬鹿になった方が気が楽だ。

 そう考えて、アリスは手に持ったグラスを一気に傾けた。

 ――――喉が、熱い。

「いい飲みっぷりじゃないか。もう一杯、なんてどうだ?」

「寝酒の飲み過ぎは体に悪いわよ。それより、あなたは飲んだら帰りなさい」

「飲酒運転はいけないぜ」

 アリスの言葉を気にした風も無く、魔理沙はグラスの中身を呷る。

 段々と消えていく琥珀色の液体を、アリスは何とはなしに見ていた。

 やがて全てを飲み干してグラスを置いても、魔理沙に立ち上がる気配は無い。
 予想していた事とはいえ、アリスは溜息を吐きたかった。横では人形達が既に次の土器を構えている。

「はぁ……」

 もう諦めた。
 ああ、そうだ。ほんとに馬鹿でいいじゃないか。

 人形達を片手で抑えながら、アリスはそんな事を考えていた。


 ――――――……


 ――――……


 ――……


 どれだけの時間が経っただろうか。
 おそらくは一時間と経っていまい。

 だが、時刻としては既に深夜。

 アリスの目の前では、魔理沙がソファに身を沈めて眠りこけていた。
 まるで起きる気配の無い彼女の頬を、人形達がぺちぺちと叩いている。
 たまに抉るように拳を打ち込んでいる。軽いが。

 目の前で繰り広げられるそんな光景を、アリスはボンヤリと眺めていた。
 特に明確な思考を展開しているわけでもなく、ただ胡乱な頭で座っている。

 今にも眠ってしまいそうだが、寝れる気はしなかった。
 眠気が無いという訳ではないのだが、そこは精神的な問題だ。

 更に深くソファに身を沈めて、先程までの事を振り返る。

 まぁどうという事の無い、普段通りの会話が繰り広げられただけである。
 お互いの魔法理論の談義をしたりとか。傍らには追加のウイスキーもあった。
 結局は幼稚な言い合いに成り下がったが、それは少し酔っていた所為だと思う。思いたい。

 何であれ、アリスとしてはお陰で寝れる気がしなくなったというのもある。
 別の日だったならば違ったのだろうけれど。

 ああ、目の前で眠る魔理沙が恨めしい。しかし感謝の念も少しだけ。
 研究の仕上げで徹夜を続けていたという話は、九時間ほど前に聞いたばかりである。

 アリスが眠れない原因の一端を担っている事も確かだが。

「……仕様が無いわよね」

 よし、と一息ついてアリスは立ち上がった。
 それに気付いて、二体の人形がアリスの方へ寄って来る。

 可愛らしい彼女らの行動に、薄く笑んでしまう。

「少し出掛けてくるわ。悪いけど、留守番をお願いね。魔理沙の事も」

 そう言えば、人形達は任せろと言わんばかりに胸を張る。
 アリスはそんな仕草が愛しくて、それぞれの頭を軽く撫でた。

 彼女らはパタパタと腕を振り回す事で応えてくれる。

「それじゃ、任せたわよ」

 最後にそう言うと、アリスはリビングの扉を潜って行った。






 頬で感じる夜風が心地良かった。
 何処か蕩けた思考と、歪んだ視界に刺さるような感覚。

 火照った体を少しでも鎮めようと、アリスは飛行速度を更に上げる。

 眼下の光景が高速で流れて行き、あっという間に置き去りに。
 遠くの方に視線を移せば、上弦の月がそろそろ地平と落ち合うようで。
 巫女の朝は早いというけれど、流石にまだ起きてはいまい。あの紅白なら尚更。

 寝ているとわかっている相手を訪ねる自分は酔っているだろうか。
 アリスが己に問うた答えは、もちろん是である。酔っているのだろう、間違い無く。

 自然と笑みが浮かんでいた。意味も無く両手を広げもした。
 それでいいじゃないか、今夜は馬鹿なんだから、と。

 宙返りでもしてみようか。やめておこうか。
 だって到着が遅くなる。おや見えてきた。

 アリスの視界には、既に見慣れた風景が捉えられている。
 人里離れたこの場所で、長い階段の上に構えている古びた神社。
 半ば山に埋もれているようにも見えるその場所が、アリスの目的地だった。

 段々と近付いてくる神社は、やはり閑散として侘しい。
 人影どころか、この時間では雀一匹いやしない。歌うアレは別として。

「――――到着、と」

 出来るだけ音を消しながら、アリスは神社の境内に降り立った。
 あとは勝手知ったる何とやら。迷いの無い歩みで、友人の寝所へと向かう。


 ――――……


 ――……


 やがて辿り着いたのは、一つの障子の前。
 そこで立ち止まったアリスは、緊張からか手が震えているのに気付く。

「……ふぅ」

 吸って、吐いて。
 吸って、吐いて。
 深呼吸の繰り返し。

 暫らくして落ち着いてくると、彼女は障子に手を掛ける。
 その表情は硬く、障子を引き始めた時にはきつく唇を噛んでいた。

 ふわり。

 開かれた障子の隙間から洩れ出たい草の匂いが、鼻腔をくすぐった。
 その中に混じる微かな甘い香りに気付いて、アリスは笑う。同時に、体から少し力が抜けた事を感じる。

 更に必要な分だけ障子を横へ動かすと、その間に身を滑らせた。
 静かに。素早く。この部屋の住人を起こさぬよう。

 後ろ手に障子を閉めたところで、アリスはホッと息を吐く。
 それから顔を上げて室内を見渡せば、すぐに目的の人物が見付かった。

 部屋のほぼ中央、そこで彼女は布団に入って眠っている。

 アリスは細心の注意を払いながら近付いて行き、彼女の枕元で座り込む。
 両手を畳みについて上体を動かせば、彼女の寝顔がよく見える。


 ――――――思わず、息が止まる。


 普段見慣れぬ寝顔だからだろうか。その、綺麗に通った鼻筋が、微かに動く頬が、震える長い睫毛が、妙に色っぽい。
 半ば闇に溶け込んだぬば玉の黒髪は僅かに乱れており、それが彼女の白い容貌を一層際立てていて。
 形の良い唇を眺めていれば、まるで吸い込まれるようで――――だからアリスは視線を外す。

 上体を起こして胸に手を当てれば、落ち着けたはずの鼓動がまた沸き立っている。頬だってきっと真っ赤だ。

「はぁ……」

 吐いた息は熱っぽく、しかしそれは酔いの所為だけではないのだろう。
 アリスが少し視線を動かせば、未だ変わらず眠り続ける彼女が目に入る。

 彼女――――博麗 霊夢はアリスの友人だ。
 友人だが、アリスの中ではかなり特別な存在にカテゴライズされてもいる。

 普段はそんな事をおくびにも出さないけれど。


 ――――……


 ――……


 眺めていると、アリスは霊夢に触れたくなった。
 きっと思考は麻痺してる。伸びた手は、既にどうしようもない。

「んぅ」

 霊夢の髪を梳こうとしたところで、彼女が寝返りをうった。
 伸ばした手は宙を彷徨って、結局は元の位置へと戻ってしまう。

「……もう」

 怒ったようにそう言うが、アリスの顔は笑っている。
 それから暫し思案顔でいたかと思えば、彼女は座っていた体を倒した。
 霊夢の顔が目の前に来るように動きながら、アリスは畳の上で横になる。

 ころん、と寝転んだ体勢だと、霊夢の吐息が掛かりそう。
 まだどこか胡乱な頭でそんな事を考えながら、アリスは霊夢の寝顔を見詰めていた。




 幻想郷という異界の地での生活は、思っていたほど楽なものではなかった。
 いや、生きるだけならばアリスには何ら問題は無い。寧ろ楽な作業と言える。


 問題だったのは、もっと根幹的な意識面の事だ。


 幻想郷と魔界、この二つの世界の違いは何だろうか。
 これについては色々とあるだろうが、もっともわかりやすいものはその成り立ちだろう。

 幻想郷は元々の世界より隔離する事で創られた異界。
 対して魔界は創造主によって全てが一から創られた世界。

 その違い。それだけの違い。

 互いに生きる者達は様々で。
 互いに生きる者達は『個』を持っていて。

 しかし魔界には、幻想郷とは異なる一つの認識ある。

 すなわち、創造者と創造物。

 創造者である神綺と、創造物であるその他の者達。
 魔界という場所は、究極的にはこの二つの存在で成り立っている。

 普段から気にする者などいないだろう。
 けれど、意識の底では誰もが理解している。

 例えば隣に住んでいる貴方。
 例えば何処かで擦れ違った貴方。
 見知らぬ誰かも、見知った友も、もちろん自分も。

 唯一である創造者を除けば、皆が皆、同じモノ。

 口にする事も、意識に上らせる事も無いけれど、たしかに誰の内にでも潜む認識。
 それが魔界に生きる者にとっての常識、いや、集合的無意識。

 アリスには、それが問題だった。

 神綺という創造者を除けば、全ての者が同じであった魔界。
 そこで生まれ育ったが故に持つアリスの同属意識とも呼べるものは、本来人間や妖怪が持つものよりも深い。
 だからこそ、種族間のみでの――――ことによれば更に細かく分かれるであろう同属の分類が理解できない。

 いや、理解はしているが馴染まない。
 無意識下に刷り込まれているが故に拭えない違和感が付き纏う。

 それは、無意識的に感じてしまう場違い感となって表れる。

 別に魔界の知り合いも、幻想郷の知り合いも、アリスは区別をしている訳ではない。
 しかし幻想郷で暮らしていると、ふと感じてしまう事があるのだ。えも言われぬ不快感を。
 相手が自分と違うという事がオカシイと、心の底では思っているが故に。感じているが故に。

 互いの持つ潜在的な部分の差異。日々の生活に於いてはまるで意識される事の無い違和。
 その、本人達もまるで意識しない内に起こる微かな摩擦は、見えなくともたしかに蓄積されている。

 塵も積もれば、すなわち山。少なくともアリスが気付く程度のしこりにはなる。
 認識してしまえば忘れる事も、無視する事も出来はしない。だから彼女は一人となる。

 熱さに悲鳴を上げる心を、鎮める為に。

 この不快感は、特に魔理沙に対して強く感じてしまう。
 何もかもが違い過ぎる彼女との会話は、互いの『個』を浮き立たせる。
 それでいて、同じ存在であるという認識を支える土台を持っていないのだから。

 そして、だからこそ博麗 霊夢は特別だった。

 彼女は全てに等しく価値を置かない。
 そもそも価値というものを気にしていないのかもしれない。

 各々を『個』と区別しながら、その根底部分での価値は等価。
 アリスでありながら、霊夢の中での価値は魔理沙と同じ。

 それ故の安心。
 それ故の懐古。

 アリスは惹かれる、かの少女に。

 それは偶然であり、必然である。
 それは邂逅であり、関係である。

 高鳴る鼓動に、ある時気付いた。

 会えて、話せて、楽しくて。
 触れて、感じて、嬉しくて。

 温かく熱いその感情は、どうしようもないだろうけれど。

 甘えなのだろうか、それは。
 弱さなのだろうか、それは。

 アリスは望む、棄て去りたいと。己を恥じて。

 彼女の目前には、安らかな霊夢の寝顔。
 手を伸ばせば届く、けれども遠い二人の距離。

 歪む顔には、何が潜むのか。

 恋慕などとは到底言えない、無礼に塗れた想いだろうか。
 思慕と呼ぶ事すらおこがましい、何処か歪んだ想いだろうか。

 考えて、アリスは強く、布団を握り締めた。


 ――――――……


 ――――……


 ――……


「……やだなぁ、もう」

 気付けば洩れた、アリスの言葉。

 馬鹿のままでいたかったのに、どうしてこんな思考に陥るのだろうか。
 目を閉じるなんてしたくない、きっと余計に落ち込んでしまうから。
 ああ、なんとも困った。余計に眠れなくなったではないか。

 だからといって他に何かをする気にもならなくて、アリスはジッと霊夢の寝顔を眺めていた。
 気付けば夜が明けていたようで、障子を通して入り込んだ光が足を刺激する。

 このまま霊夢が起きるまで待っていようかと、アリスはそんな事を考えた。
 それは賢い選択ではないというのに、何故か魅力的に感じられてしまう。

 視線をずらして虚空を睨んでみても。
 目を瞑って心を落ち着かせてみても。

 馬鹿みたいな選択が棄て切れないのはどうしてだろうか。

 堂々巡りを始めそうなアリスの思考は、しかしあるものを見付けて立ち止まる。
 それは布団からほんの少しだけはみ出ている、霊夢の手。

「…………」

 さて、アリスは何を考えていただろうか。
 何も考えていなかったかもしれない。

 ――――――ああ。

 ただ気付いたらその手を握っていた。
 これが一番正しいのだろう。

 ――――――嫌だなぁ。

 もう、とうに酔いなど醒めているはずなのに、アリスの頬は火照ってしまう。
 先程まで沈み込んでいた鼓動まで忙しなく騒ぎ始めて、これは一体何なのか。

 ――――――ほんとに馬鹿みたいじゃない。

 気付けばアリスは、優しく微笑んでいた。
 たったこれだけの事で、心が沸き立っていた。

 ――――――だけど、それもいいかな。

 やっぱり馬鹿でいよう、今ぐらいは。
 こんな、酷く単純な事で喜べるのだから。


 まどろみ沈み行く思考の中で、アリスは強く、手を握る。










 ~おわり~





読者の皆様こんにちは、もしくは初めまして。【やみ】です。

今回はアリスの話ということで。
まあこんな彼女もいいんじゃないかと思って書きました。

しかし、何だか普通に文章を書いた気がしますね、これは。
次はもう少し変わった文体で書いてみたいです。

では、ここまで付き合ってくださった皆様、ありがとうございます。
機会がありましたら、またお会いしましょう。
【やみ】
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コメント



0.1830簡易評価
4.90名前が無い程度の能力削除
アリスが人形に魂を持たせるために選んだ手段が、後の創造主と創造物についての伏線になっているところが、なんというか素敵でした。
的外れだったらすみません……。
5.80CODEX削除
なんとも素敵なアリスと使い魔達のお話でした。
色々なアリス像が存在するなか、その中でも個性的かつ魅力的なアリス像を描き出したやみさんの力量に感服です、
29.80反魂削除
「アリス」という像を描いた作品として、非常に印象に残る作品でございました。
全キャラの中でも、アリスの立ち位置ってのは一種独特のモノがある。
それを描き出した手腕お見事でした。
34.70名前が無い程度の能力削除
孤独なアリスの生き方がとてもよかったです。
人形遣いとしての矜持ってものがあって。
彼女は別に小心者なんかじゃなくて、きっと自我の強い少女なんですよ。
良いお話をありがとうございました。
37.80名前が無い程度の能力削除
良いですね。アリスの悩みがうまく伝わってきます。
アリスの内面と外面の整合性がとれててうまいなぁ。
44.70Mya削除
 うーん、こういうアリスも良いですねぇ……。
49.100名前が無い程度の能力削除
すてきなアリスでした。