「お、見かけない妖怪発見ですね」
パシャ、パシャ。
「ぬぅ、何だ君は……いきなり撮影とは無礼な」
「これは失敬。私は天狗のジャーナリスト、射命丸です。あなた、この辺の妖怪じゃありませんね。およそ吸血鬼と同じにおいがします」
「いかにも吸血鬼だ。紅魔館というところに向かっているのだが……まぁ、旅人だよ」
「紅魔館ですか、ここからだと遠いですよ。――あぁ、こういうのはどうでしょう? 取材に応じてくれたら、ものすごい速さで紅魔館まで運んで差し上げます」
「ほぅ、悪くないな。では一つお願いしようか」
■ ● ■
「げほっ、ごほ……うーむ、結局振り落とされたか。酔った気象精霊でもあそこまで乱暴な加速はせんというに……」
「――おーい、そこのあんた。こんなところで何してんだい」
「お。娘さん、すまんがここはどこかな。場所に迷ってしまったのだが」
「あん? 彼岸だよ。妖怪が気軽に来ていい場所じゃないんだ。仕事の邪魔だし、さぁ帰った帰った」
「何、彼岸。ずいぶん飛ばされたものだ……確か閻魔がいるとか何とか。一度会ってみたいとは思っていたが」
「知らないのかい? 変なおっさんだね……四季様なら川の向こうだよ。フランクな方だからアポ無しでも会ってくれるだろ。なんだ、裁かれたいのかい?」
「いいのか。悪いな」
「……やっぱあんた、変なおっさんだよ」
■ ● ■
「ほい、ついたよ」
「……お?」
「あー、悪いね。ずばり正確な場所まで運べるほど鍛えてるわけじゃないんだ。森の中に出ちまったけど、紅魔館の近くのはずさ」
「ふーむ、縮地法か。東の龍王以外使い手はいないと思っていたが」
「……うん?」
「世話になったな。閻魔の言葉は日々の心得とすることを改めて誓おう」
「素直で結構。四季様は間違ったことは言わないからね、何言われたか知らないけど、がんばんな、ビクトール」
「ヴィクトール」
「じゃあね」
「ではな」
■ ● ■
「沢か。ということは辿れば湖だな……」
「そこのおじさん。こんなところへ何の用?」
「誰かな――? いや、旅の道すがらというやつなのだが、縄張りを荒らしてしまったかね。すまん」
「別に荒らしたわけじゃないけど、いつになく虫たちが騒ぐからね。気になって」
「そうか。ふぅ……少し休憩させてもらうよ。やたら虫は多いが、いい場所だ」
カシッ、シュボ……
チュイーン!
「ぎゃぁぁ! ジッポーがぁぁぁ!?」
「あのー、この辺にはエネルギー体に突っ込むっていう習性持った虫が棲んでるんだけど」
「おぉのれぇぇぇ! サイコガンで撃ち潰してやる!」
■ ● ■
「ようやく着いた……丸太でも切り落としてイカダにせんとな。――名残惜しいが、招待状を受け取ったままいつまでも待たせるわけにはいかぬ。メルレット、今のうちに首でも洗って待っておれ」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
午後、それは美鈴にとって大の字になって昼寝する時間帯。
門前の草原に横たわったまま、ぼんやりと青空を見上げる。半分閉じたまぶたの向こうで、薄雲がやんわりと陽光をさえぎり流れていた。
チチチと小鳥がどこかでさえずっている。
肌をなでるそよ風も、原っぱが波打つざわめきも、みな心地よく等しく眠気の源だ。
無意識のうちに視界が狭くなる。その頃になると目に映る風景は真っ白になってしまっているので、目を開けているかどうかは問題ではないのだが。ともあれ考えるだけの余裕もなく、聞こえてくる古い古い子守唄のような自然の息吹に抱かれ、美鈴は緩やかに眠りへと落ちようとしていた。
やがて吐息も平坦で単調になり、本格的な睡眠から一歩手前の状態までなったところで不意に聞きなれない声があった。
「もし」
微かに耳をそばだてる。
聞きなれないというのは語弊があるかもしれない――さび付いた楽器か何かのような響きを感じる。鮮明ではない記憶に従ってもう一度声を追いかけようとしたが、寝ぼけた頭の中ではうまく組み立てられなかった。
「もし。聞こえんのか」
古い友人の声を久しぶりに聞けば、こんな感じになるかもしれない……
美鈴は何か言おうとして、半開きの口をもごもごと目の前の誰かに向けた。目の前の誰か。誰か――?
彼女はそのときになってようやく、侵入者がすぐそこまで接近していることを覚った。
「うっひゃぁ!」
跳ね起きると同時に大きく腕を振りかぶって突き出す。顔を近づけるように美鈴を覗き込んでいた侵入者は素早く身を引いてそれを避けたが、美鈴は瞬時に敵の懐へ飛び込むと内股に右足を絡ませて膝をくじき、さらに前手でガードをはじきつつ肘を相手の顔面に叩き込む。
……いや、叩き込もうとした。頭が働く前に反射的な動きで攻撃を繰り出していたのだが、信じられないことに、敵は一瞬で空いているほうの手をかざして美鈴の攻撃を受け止めたのだ。経験的にいって、防御できる体勢ではないというのに。
密着しているためにうかつに離れられず、美鈴は奥歯を噛んで目の前の男――ここで気づいたが、男だった――を睨みつけた。
「この紅魔館に何の用、返答次第では――」
そこまで言って、凍りつく。腕に半分顔が隠れた人物を、まっすぐに見つめたままの格好で、美鈴は両目を『くわっ』と大きく見開いた。
顔面にぶわっと汗が吹き出る。意思とは無関係に、肩が、腕が震えだす。自分のしでかした真似を、どうやって取り繕ったらいいのか分からず、彼女は無言でその場に凝固していた。
「変わった挨拶だな、美鈴」
抑揚のない声で、その男が言った。
「君はここでは、いつもそうやって雇い主に接しているのかね」
「も……その。も、申し訳ありません、大旦那様。大変なご無礼を。……自分も、当惑しております。お、大旦那様と知っていれば、決して……このような狼藉は」
「謝罪の前に肘をどけてくれんかね」
「オゥ、イエッサー! アィムソーリィ、サー!」
美鈴ははじかれたように飛び退き、攻撃態勢を解いた。直立不動の彼女の前で、『大旦那様』は立ち上がると、旅装についた埃を払い、居住まいを正した。
背は高いほうだろう。壮年というにはやや若い顔つきであるものの、彼の放つ重厚感は歳経た貫禄を十分に伝えてくる。深い眼窩に宿る目つきがやたら鋭いのは昔のままだが、今はそれ以上に険しい感情を含んでいるのは間違いない。最後に見たときにはなかったあごひげがはえている……血に塗れた銀の糸としか表現しようのない毛色は、彼以外にいなかろう。
吸血鬼・ヴィクトール=ドラクール・スカーレット。
スカーレット一族の“本家”の当主にして欧州の闇で覇権を競う、頭に超のつく大怪物である。
美鈴はガチンゴチンに固まったまま無理やり愛想笑いを浮かべ、ぎこちなく口を開いた。
「ほ、本日はどんな御用向きでしょうか」
「娘に会いに来たに決まっているだろう。案内しろ」
美鈴はがくっと肩を落として、沈痛に声をひねり出す。
「……それでしたらあらかじめご連絡いただければ、しかるべきお出迎えをさせていただいたのですが」
「何を言う。家族の顔を見るのにわざわざ予約を入れる者がいるか。変に気を使われるのも好かん、というか……ここは幻想郷だろう。私の領地でもない場所で騒ぎになりたくない」
「そ、そうですか……あああ、どうしよう」
美鈴は頭を抱えて一人懊悩した。
よくない。非常によくない。
もちろん現在の紅魔館はなんら後ろ暗いところはない。美鈴はスカーレット本家に訪れたことは一度もなかったが、レミリアは何一つ落ち度のない完璧なお嬢様を体現しているはずだ。ヴィクトールがそのあたりに文句をつけることは万に一つもありえないし、そもそも彼が極度の親バカであることを美鈴は知っている。
だが。
だが、だ……一癖も二癖もある館の住人が、突然の来訪者を快く歓迎してくれるだろうか。しかも相手はレミリアの父親であり、恐ろしく強大な力を持った怪物の中の怪物。美鈴の持ちえるありとあらゆる経験と直感が、逃げたほうがいいと警鐘を鳴らしていた。
とはいえ、もちろん逃げることなど出来ない。
「あのー、大旦那様……現在お嬢様はお客様をお迎えしているところでして、後日改めてとはいきませんでしょうか」
「その客のほうも、一応目当ての一つなのだがな。博麗の巫女が来ているのだろう?」
「知ってて無理吹っかけてきますか……よくご存知ですね」
ヴィクトールの言った通り、今館内ではレミリアと霊夢、それに魔理沙がお茶を飲んでいるはずだ。
ヴィクトールは不思議そうに首をかしげ、美鈴と館とを交互に見回した。その後一瞬、無言で何か考え事のような仕草を見せると、困りきった顔で道をふさぐ美鈴を避けて勝手に館へと歩き出した。
「まぁ私も凡骨ではないし、大抵の気配は把握できる。それで……いつまでぼんやりしている。ついてこんか」
飄々とポーチへ向かうヴィクトール。美鈴は仕方なくため息混じりに彼の前に出て、館内へ案内すべく腹を決めた。
「ふと気になったのですが……外界の旅人なんて大騒ぎになってもおかしくないのに、今まで全然大旦那様のことが噂になってませんでしたけれど、何か細工を?」
「さっき言った通り、騒ぎになると厄介だからただひたすらに中堅怪物を装ってきた。私の本性まで見抜いた奴はそうはおるまい」
「やり口が地味な上にセコいですね……」
「それよりも美鈴。お前には門番を言いつけたはずだが……ちゃんと働いているだろうな?」
「はっ!? そ、それはもちろん毎日毎日馬車馬のごとく忠実に任務をこなしているに決まっているではありませせせんんか」
「さっき寝たたがな」
「それは、えーと……英気を養っていたのですっ!」
「まぁいい」
正面扉の前まで来て、尊大に腕組みするヴィクトール。美鈴は早速疲れた心地で首を振りながら、重々しい扉を押し開けて彼を中に通した。
大ホールではいつもどおり、メイドたちがせわしなく行き来してあれやこれやと仕事に励んでいた。中には美鈴とその背後のヴィクトールに気づいてきょとんとしているメイドもいる。
まぁ、今まで一度も幻想郷に来たことのないヴィクトールの顔を知っている者といえば、紅魔館の中ではスカーレット姉妹か美鈴ぐらいしかいなかろう。ちなみに美鈴は色々あって、大昔中国大陸でヴィクトールにスカウトされて、ここで働いている。
「多いな」
ヴィクトールがポツリと漏らした。美鈴が振り返って何がと問い返そうとすると、ヴィクトールはそれをさえぎる様に手のひらを出して先を続ける。
「使用人の数が私の屋敷より多い。文化が違えば当たり前ではあるかもしれんな。職場の人数が多くなると自然と細分化が発展するものだが……ここはよく統制が取れている。感心だ」
「紅魔館ではとても優秀なメイド長が全てを取り仕切っているんですよ。人呼んで完全で瀟洒な従者」
「ほぉ、恐るべきマチル・コーレリーの予定表か……」
「はぃ?」
「優れた使用人をたたえる称号だ。神の手による創造のごとく無駄のない人材管理を行う老女がいたのだが、彼女の名を取ってそう呼ばれる……あの娘だな?」
ヴィクトールが目線で、ホールの右奥――二階へと通じる階段の踊り場を指した。
そこにはいつからいたのか、話題のメイド長・咲夜が手すりに軽く手を添えて美鈴らを眺めていた。背景にぴりぴりした空気の硬さが窺える。見慣れない男がいきなり入ってきたのだから、当然の反応といえるだろう。
美鈴は事情を説明しようと一歩前へ踏み出しかけたが……その肩をヴィクトールが掴んで止めた。
怪訝な表情で振り返る。
「大旦那様……咲夜さんは怒らせると怖いんですよ。誤解を招かないうちにきちんと話しておかないと――」
「美鈴、ここから先はしばらく私を『ヴィクトール』と呼べ。彼女には私から自己紹介しておこう。あの若さでハウスキーパーとは、見所があるじゃないかね」
ヴィクトールは不吉な笑みを浮かべ、ぐいと美鈴を押しのけて前に出た。
咲夜が油断なく彼を睨んだまま階段を降りてくる。美鈴の背筋に凄まじく嫌な予感が走ったが、肩をがっちりホールドされてしまっているので逃げられない。
せめてもの抵抗で小さくつぶやく。
「……騒ぎはダメなんじゃないんでしたっけ?」
「ここはスカーレット家の領地、今まで手出しを控えていたのは人様の庭先だったからだ。いい機会だな、コソコソ隠れて舐められきっていたが、久しぶりに本調子に戻してみるか」
近づく咲夜を凶悪な笑顔で見返すヴィクトール。
やがて十歩ほどの距離を開けて咲夜は立ち止まった。すでに剣呑な空気を感じ取っているのだろう、リラックスした風に見せながら、その実彼女独特の戦闘態勢をとってヴィクトールと相対する。
「どちら様ですか?」
「ヴィクトール。ここの主人に面会に来た。都合してもらえるかな」
「あいにくお嬢様は現在ご多忙にございます。お引取りください」
咲夜は目を細めてヴィクトールを睨んでいる。美鈴がすんなり彼を通したことで排除すべきとは判断していないのだろうが、均衡が崩れれば容赦するとは思えない。
つっけんどんな咲夜を気にも留めず、ヴィクトールは一度館の奥に視線を向けた。
「客が来ているらしいということは門番から聞いた。だが、それでも通してもらおうか」
「……礼もわきまえぬ不逞の輩が絶えないのは、憂うべきことだと思いますわ」
「客人に食って掛かる使用人よりは、いくらか上品だ」
とすっ、とヴィクトールが美鈴を突き飛ばした。彼女は一瞬たたらを踏んだあと、全力で二人から距離を取る。玄関のすぐそばまで引き返してからようやく振り返った。
糸を極限まで細くよっていくような不気味な緊張が、恐ろしく窮屈な速度で終点まで突き進んでいく。いや、糸ならば害もなかったろう。ホールにいるあらゆるメイドたちが、固唾を呑んで成り行きを見守っていた。
明確なきっかけがあるわけでもなかったが、少なくとも美鈴は二人が同じタイミングで行動に出たことは分かった。咲夜が瞬時にナイフの雨をヴィクトールへと打ち出し、片やヴィクトールは……
彼は美鈴に背中を向けていた。表情は見えなかったが、おそらく油断も気負いもなかったろう。無造作に左腕を持ち上げると、空中でぱちりと小気味よく指を鳴らした。同時に、彼の左手の上で長方形の幻影が揺らめきとともに発光し、瞬時に消える。
――スペルカードか。
彼が何を意図したのかはすぐ分かった。ヴィクトール目掛けて殺人的に直進していたはずのナイフの群れが、一定の緩やかなカーブを描いてあらぬ方向へ飛んでいく。
「ふぅん?」
咲夜が見せた反応は、わずかに片眉を上げた程度だったが。
彼女は再び魔術じみた動きでナイフを投げつける。今度は先ほどの倍近い量の弾幕であったが、やはりヴィクトールに届く前に逸れて無関係な方向へ飛んでいった。何かしらの障壁にはじかれたというより、軌道そのものが始めから曲がっているようだ。
第二波が届くより先に、ヴィクトールは体勢を低くかがめて咲夜へ疾走していた。避ける必要がない分速度が出るのは理解できるが、それにしたってやけくそに速い。いかさまなんじゃないかと思うような勢いで至近距離まで踏み込むと、彼は軽く握った拳を突き込もうとした。外野で観戦している美鈴が見たところ、視界を覆うように拳でフェイントをかまし、死角にもぐりこんで投げ技にでも持ち込もうというあたりだろう。
――もちろんそれを許すような咲夜ではない。
瞬き一つ分の時間すらなく、ヴィクトールはいきなりナイフのカゴに閉じ込められていた。まさにカゴとしか表現しようのないほど密にナイフがひしめいている。そして慈悲の猶予もなく、それらは内側へ向け一気に収束した。勝負あったかに見えたが――
ほんのわずかな隙間を縫って、カゴの中から黒い影が弾丸のように飛び出してきた。カゴから数歩後退した位置にいる咲夜が、それを見た瞬間大きく瞠目したのが目に映る。黒い影は空気を裂くように鋭い動きで咲夜の側面から突撃すると、ぶつかる直前ぱっと広がって――羽を広げたコウモリの姿そのものである――輪郭がぶれた。一瞬歪んだ視覚を黒い影に集中しなおすと、それはいつのまにかヴィクトールに変化している。
彼はそのまま咲夜の肩と手首を取り、淀みない動きで腰の回転まで加えて派手に投げ飛ばした。
いや……正確には、ヴィクトールに掴まれる直前、咲夜は再び時間を止めてナイフを握り、接近戦に切り替えていた。しかしそれにもかかわらず、もはや冗談としか思えない速度で、ヴィクトールの両腕が彼女を捕らえたのだ。
そんな攻撃の応酬が、ほんの一瞬のうちに交わされていた。目のいい美鈴が、両者の力量をあらかじめ知りつつ、観戦の立場に立って初めて全体が把握できるような、それほどまでに凄まじい技のぶつかり合いだった。多分咲夜も、何をされたか全て分かっているということはないだろう。野次馬のメイドたちは完全に置いてきぼりだ。
他人事で感心しながら一連の攻防を眺めていた美鈴は、咲夜が飛ばされた方向を一瞬遅れて察知して、慌てて現実に意識を引き戻した。玄関――つまり美鈴の位置を狙ったように、咲夜が猛烈な勢いで突っ込んでくる。というか実際狙ったのだろうが。
美鈴は全身に力を込め、気息をあわせて咲夜を抱きかかえると、
「ふぬぁっ!」
自分から後ろに跳び退って、背中で扉を突き破った。
ざざっと派手に身体をこすりながら、抱えたままの咲夜をかばう。広い石畳のポーチを縁のあたりまで滑って――メイドが普段から綺麗に掃除してくれていることに、美鈴は心底感謝した――ようやく止まった。
「いったた……」
咲夜を下ろし、よろよろと背中に手を回しながら上体を起こす美鈴。
ひりひりと傷む肩や腰を気にしていると、ホールからいかにも余裕げな声が聞こえてきた。
「戦いの基本は格闘だ! 弾幕や時間に頼ってはいけない……」
「…………」
「ちょ、ちょっと咲夜さん目が本気になってますよ!」
「あの不埒者の首から下を土に埋めてニワトリに目玉つつかせてやるわ。止めないで美鈴」
「止めますって!」
慌てて背後から抱きついて動きを抑える。それでも咲夜は美鈴を引きずって、ずるずるとヴィクトールへ近づいていったが。
氷のような目つきに薄ら寒いものを感じつつも、美鈴は必死になって説得を試みた。
「咲夜さん咲夜さん、聞いて下さい。あの方は害意があってお嬢様に会おうとかそういうのじゃなくてですね、もっとこう気さくな感じで“ヘイ、ジョニー! 元気だったか?”みたくフレンドリーなお気持ちで館をお訪ねになられたのでして、咲夜さんももっと笑顔でお迎えしていただくと何事も角が立たずに八方丸く収まるのですけれど」
「…………」
ずるずる。
「咲夜さぁーん、お願いしますよぅー……」
「美鈴……あの男と知り合い?」
扉をくぐったあたりで止まり、彼女は肩越しに振り返ってきた。美鈴は一瞬どう答えたものかと迷ったが、ヴィクトールと咲夜の顔を交互に見比べて、当たり障りのない部分で妥協する。
「……最後に会ったのはかなり昔ですけれどね。多分、普通に戦っても勝てませんよ。ちなみにレミリアお嬢様とフランドール様もお知り合いです」
「コウモリに化けてたから、まさかとは思ったけど……あいつも吸血鬼なのね」
咲夜は何事か逡巡したように言葉を切った。微かに肩を落としてから、聞いてくる。
「美鈴、あの男信用できるかしら?」
「そこは私が保証します」
「……そう」
静かにうなずいて再びヴィクトールと向かい合う咲夜。殺気立った気配がないのを見て取って、美鈴はそろそろと彼女に回した腕を解いた。
これ以上争いが続くようなら、身体を張ってでも止めに入るつもりではいた。さりげなく両者を同時に把握できる位置へ移動しながら、意識は咲夜へと向ける。
彼女は淡々と腕を組んだまま、何かタイミングでも計っているようだったが――やがてあきらめたように嘆息した。
「……お嬢様のお部屋へご案内しますわ」
「頼む」
ホールの中央で仁王立ちしていたヴィクトールは、鷹揚な態度でうなずいた。
外野のメイドたちは、そんな彼の反応に終始反感をおぼえていたようではある。メイド長が膝を折った(ように見える)結論を出したことで、憤懣やるかたなしといった様子の者たちが何人かホールを後にしたようだ。まぁ、咲夜は今さらヴィクトールに敵意を抱くこともなかろうし、美鈴はただひたすら胸をなでおろすのみであったが。
そろそろ門番に戻ろうかとも思ったが、やはりヴィクトールをほうっておいてこの場を離れるわけにはいかなかった。というか、いつ危険事態になるか分からない人物を館内に残したまま離れるというのは、後のことを考えれば賢明とはいえない。
咲夜の先導でレミリアらのいる広間まで移動する間、美鈴は彼女に聞きたいことがいくつかあったが、いつにも増してきびきびと空を切る肩に圧されて結局声をかけられずに終わった。
代わりに、他人に見咎められない程度でヴィクトールへこっそり耳打ちする。
「大旦那様」
「ヴィクトール」
「ビクトール様」
「……ヴィ」
「さっきの咲夜さんとの戦いで、カードらしきものを使ってませんでした? あれは一体……」
「んー、あれか。こっちに来てから知ったのだが、ここでは弾幕というコミニュケーションが一般的らしいな……で、旅の道すがら色々話を聞き、私なりにスペルカードなるものを開発してみたのだ」
「でも、弾幕に頼ってはいけないって……いや、いいです……」
「さっきのあれはな、私の故郷の古い物理学者の名前を取って作られたものだ。現代でも有名な学者で、転向力というものを発見した偉大な男だった。途中は省略してものすごく噛み砕くと、物の軌道を曲げる力のことだ」
「はぁ。便利なカードだなとは思いましたけど……あれ、弾幕戦とはちがいますよ。スペルカードってああいうものではないと思うのですけれど」
「え、何。そうなのか?」
「……ビクトール様は拳法の達人ですから、多分弾幕にはあまり向いてないんじゃないでしょうか」
「ヴィクトール」
いちいち訂正を入れてくる。どうも彼は中途半端なところで穴だらけの性格をしているらしい。
目当ての部屋には、そんな会話が終わる頃、計ったように到着した。
流麗な装飾の施された扉の横に立ち、咲夜が取っ手に手をかけながらヴィクトールを振り返る。目を細め、声を低くして、
「念を押しておきますが、お嬢様に害なす行いに出られた場合、力ずくでも当館よりお立ち退きいただきますわ」
「分かった。誓おう」
ヴィクトールは言葉少なく肯定し、髪を手ですいたり服のしわを伸ばしたりした。
どうでもいいが、彼が咲夜と会話するときやたらと言い方が簡潔なのは、貴族とはそういう風に使用人と接するからなのだろうか。よくは分からないが。
なんとなく先の展開が読める美鈴は、黙ってヴィクトールの後ろについて事の成り行きを見守ることにした。
咲夜が軽く扉をノックする。彼女は一拍置いてから中にいるレミリアへかいつまんで状況を説明し、入室を求めた。室内では何か重要な話し合いでもされているのか、「ふーん」とか「そう」とか、やたら上の空な返事だけが返ってきたが、一応は許可された。気になったので中の気配を探ってみると(普通の状況でそんな失礼な真似をすれば即座に殺されるだろう……)予想通りのレミリア、霊夢、魔理沙のほか、パチュリーも来ているようだ。
咲夜がしずしずと扉を開ける。ヴィクトールは――珍しく硬めな動きで数歩室内に踏み入り、中の様子を眺めていた。美鈴も彼の影から窺うと、どうやら全員でテーブルを囲んでカードに熱中しているらしい。かなり真面目に勝負しているのか、ヴィクトールのほうへ目を向ける者はいなかった。
「一巡したな? よし、勝負」
親役なのだろう、魔理沙の指示に従ってプレイヤーたちが手札をテーブルに広げ始めた。
「私はツーペアだぜ」
「イセルハーサ・スート、フラッシュ」
「こっちはエル・フィルディン・スートのテン、ミッシェル、ルティス、アヴィン、エース――」
「待て待て待てっ」
魔理沙が突然大声を上げて腰を浮かせ、樫作りの椅子が後ろに倒れてがたんと重くやかましい音を立てた。
「なぁによ」
「何度目だ、何度目っ。そんなに出るものじゃないだろ、あり得ないぜ」
「何が言いたいの?」
霊夢が左目を細めて睨む。魔理沙も負けじと霊夢の瞳を睨み返し、声色を低くして続ける。
「イカサマしてるだろ」
「証拠は?」
「…………」
剣呑な空気に息を飲むような面子ではないものの、張り詰めた静寂の中で二人は数秒にらみ合う。こういったいさかいは、普段ならレミリアが適当なところで中に入って強引に仲介するのだが、いつまで経っても無言のままの彼女らは自然とレミリアに視線を向けた。
当の彼女はあっけに取られたように目を見開いている。テーブルの上のカードは気にも留めない様子だったが、イカサマをしていたのは一人だけではなかったらしい。彼女の手札は、エースのフォー・オブ・ア・カインドだ。
「とっ……」
「と?」
呆然としているレミリアに、残りの全員が疑問符をあげる。
ヴィクトールが軽く手を上げてパタパタと振っていた。
「お父様っ!?」
「会いたかったよ、レミィー」
抱擁の仕草のように両腕を広げてレミリアに近づくヴィクトール。レミリアはかつてない狂乱的な動きで椅子を蹴り倒してその場を脱出すると、一気に部屋の隅まで逃げて混乱したように目を白黒させた。
「ど、どうしてお父様がここに?」
「どうしてもなにも、娘の顔が見たくなったのだよ。どうだ、元気にしていたかい?」
さすがに抱くことはあきらめたのか、数歩離れた位置で残念そうに(顔は見えないが、そういう気配だった)立ち止まるヴィクトール。
それでも懲りずになおも親バカ発言を連発しはじめるヴィクトールと、それをワーワーと叫びながらかき消すレミリアの二人を、ギャラリーが興味深そうに眺めている。美鈴はそちらは無視し、ぽかんと口を半開きにしている咲夜へと向き直った。
「黙ってて、すみませんでした」
「えっ……と……未だ状況がつかめないんだけど……」
「お咎めはないと思いますよ。大旦那様は咲夜さんの力量を試したくて、わざと挑発したんだと思います」
「……吸血鬼は吸血鬼でも、まさか父親だったなんて……とんだ大失態をやらかしてしまったわ」
「まぁ、変わったお方ですから……あまり、気に病まないほうがいいと思いますよ」
嘆息し、ヴィクトールのほうへ視線を向ける。親子騒動も一段落ついたのか、彼は霊夢たちに色々と質問攻めにあっていた。特に魔理沙が人一倍興味深そうにあれやこれや話しかけていたが、それよりも霊夢は以前ヴィクトールを見たことがあったらしく、
「そういえば、あなたいつぞやの境内に不時着してきた人?」
「うむ、あれは私だ。あの時は無視して立ち去ってしまってすまなかったな」
「……気づいてたなら、声くらいかけてもいいでしょうに」
「あの時は、色々あってな……接触したくなかったのだ。だが郷を旅するうちに、別段逃げる必要はなかったと気づいてな、改めて挨拶に来た」
世間話をしていた。
ショックから立ち直った咲夜が美鈴の肩をとんとんと叩いてくる。呆れたような疲れたような表情の彼女に向き直ると、咲夜はヴィクトールのほうを指してつぶやいた。
「……どういう縁で知り合ったの?」
「昔、大旦那様とレミリアお嬢様とフランドール様で大陸の旅をしていたのですけれど、その頃の私は『中国』って呼ばれる在野の妖怪で、ちょっかいを出したらグーで殴られました」
「…………」
「その頃から殴り合いには自信があったのですけれど、正面切って戦って負けちゃったので、以来使用人として雇用していただくことに」
「……とりあえず、昔から中国って呼ばれてたのね。呼ぶのにますます抵抗がなくなったのだけは確かよ……」
本格的に疲れたのか、咲夜はこめかみに手を当てて壁に寄りかかった。
美鈴は苦笑して肩をすくめる。依然ヴィクトールらは四方山話に花を咲かせているようで、彼女は咲夜の手を取るとそんな彼らの輪の中に入った。
久しぶりに、ヴィクトールの旅の話を聞かせてもらうとしよう。
■ ● ■
その後、ヴィクトールがフランドールを呼び出して、レミリアと再会したとき以上の大騒動になったり。大図書館に足を運んでパチュリーや小悪魔と、
「あなた、昼なのに普通に日光の下も歩けるの?」
「特殊な香を焚いていてな。昼夜を逆転させる香りで、昔はそれは高価な代物だったが、近頃では庶民にも求めやすい価格で取引されているよ」
「譲ってちょうだい」
「すまんが予備は手元にない」
熱心? に話し合ったり。館内の運営状況についてこまごまと確認に回ったり。ティータイムに、
「吸血鬼は酒を定期的に飲まないと死んでしまうのだよ」
「……嘘でしょう?」
「ほんと、ほんと」
と無理やり酒宴にしたり。ノリで弾幕大会に発展して、勝手を知らないヴィクトールが結局皆を肉弾戦でどつきまわしたり。彼以外の全員が笑いながら逆上してヴィクトールをボコボコにし返したり。
そんな風に時間が過ぎて、やがてヴィクトールは、
「……そろそろ帰るとしよう」
と切り出した。
■ ● ■
いつの間にか空は赤く、遠く稜線に夕日が沈みつつあった。冬の足音はもうそこまできているようで、木々はこのところ少しずつ葉を落とし、景色は緩やかに味気ないものへ変わろうとしている。
広く湖に囲まれた紅魔館でも、生き物の冬支度を感じることは出来た。美鈴は一度ぐるりと周囲を見渡し、彼らの息遣いに聞き入る。秋の夕暮ともなれば、目に移るもの全てはどことなく寂しげではあったが、季節が移ろい行くこの大地で、そこに深く根ざした営みというのはむしろ感慨深いものに違いない。
美鈴が一回転して視線を戻すと、ヴィクトールも眩しそうに目を細めて湖の彼方を眺めているようだった。故郷でも思い出しているのかもしれない。
正門には美鈴とヴィクトールだけだった。全員で見送りするものと思っていたが、ヴィクトールが『物々しいのはゴメンだ』と言って、残りの皆とは簡単な挨拶だけで別れをすませている。美鈴も見送りと言うより、単に門番に戻って来たに過ぎない。
ヴィクトールは大量の土産物が入った袋を背負いなおすと、数歩進んで草原の只中で美鈴を振り返った。
「これでもう、後は帰らねばならんな。名残惜しいが……早く帰れ、と気をもんでいる奴がいる」
「よろしかったのですか? お嬢様方とも大したお話はされていませんでしたけれど……わざわざ遠くから足を運ばれたというのに」
「『娘に会いに』来るのが当初からの目的だったからな。何を話すか、などはそれほど重要ではない」
ヴィクトールはなにやら顔をしかめたらしかった。思い出すことでもあったのか、美鈴から見ればそのタイミングは若干不自然にも感じる。斜陽に照らされた彼の表情は、なんというか……あまり、彼にふさわしくない違和感のようなものがあった。
それは悲しみでも怒りでも、喜びでもなかった。
安堵とも違う。来るべき時が来ただけというほどに、ヴィクトールが長く旅人でいたというわけでもなかろう。
羞恥だった――意識の底からその言葉をひねり出して、美鈴は胸中で苦笑した。
唐突に頭に浮かんだというわけではない。自分の中にあるものを思い出しただけ……おそらく彼女も、かつて全く同じ表情を浮かべたことがあったはずだ。いつかは覚えていないが、彼を見て直感するのだから、浮かべたこと自体は間違いない。振り返った過去で最もそれに近いのは、大陸の暗部と決別したときの記憶だったが。
裏切ろうとしている。
――美鈴にはそう思えた。
「……聞いてもいいですか?」
「うむ?」
「どうしていまさら、この東方の土地に大旦那様が? 西洋で、何かあったのです?」
「変わりはないさ。昔通りだ。何もかもな」
ヴィクトールは片手を振って、何かを振り払うような仕草を交えた後、不意に表情を淡白なものに変えて続けた。
「なぜこの時期か、といえば、気まぐれ以外の何物でもないよ。以前から来ることは決めていたが、過去でも未来でも、まずいということはなかった。そう……ただの気まぐれだ」
「決めていたとは……なぜ?」
「私一人ではどうしても分からない答えを、聞きに来るためにだ」
何か思うところでもあったのか、ヴィクトールは言葉を飲み込んで間を取った。腕組みし、つま先を横に向けてどこか分からない場所へ視線を向けている。
「地図の空白は埋まってしまったよ、とうの昔にな……そのどこにも、怪物はいなかった。だが幻想郷は、未だ地図の空白として存在している。――お前に言っても、何のことか分からんだろうが」
「さっぱりですけど……気にはなりませんよ。私の仕事は、紅魔館の安全を守ることです」
「そうか、そうだな……なぁ、美鈴。これから言うことはは雇い主としてではなく、通りすがりの旅人と思って聞いてくれ」
美鈴が「はい」と返すと、ヴィクトールは彼女に背中を向けて、長い沈黙をはさんでからようやく声をあげた。重々しさはないが、忘れることもないだろう……そんな声。
「今日のような日がいつまでも続けばよい。だがいつか、自分の意思ではどうしようもない岐路に立たされる時が来るかもしれん。納得できる選択になればいいが、そうでない苦境に追い詰められるかもわからん。だが、どれだけ絶望的な状況であっても、人の歴史というのはその瞬間に終わってしまうものではない。いつだってこの世には未来があるということを、忘れずに生きてほしい」
「……なんでいきなり、そんなことを?」
美鈴は困惑しながらつぶやいた。
ヴィクトールは空を見上げ、またしばらく沈黙した。横から差し込んでくる日差しは、いつの間にか細く線のようなきらめきだけ、残滓のように漂っている。風や雲が言葉の続きを知っているはずもないが、彼は頭上だけ見つめて何かを待っているように動かない。
不意に、美鈴は気がついた。およそ考えられない話だが、何のことはない――フランス最強の大吸血鬼も、返答に窮することがあるわけだ。
何か言いたいことがあったのだろう、だがうまく言葉に出来ず、彼は時間をかけてそれを組み立てようとしてる。
静寂に風の鳴る音だけが響いていた。無理に答えを引き出さなくてもいいことを美鈴は告げようとしたが、一瞬早くヴィクトールが目だけ振り返ってくる。
「……お前には、色々と面倒なことを押し付けてしまったからな。なんとなく言い訳のようなつもりだ」
彼が選んだ言葉は、最終的にそれだけだったが。
ヴィクトールはそれきり会話を終わらせることにしたらしい。再び背を向け、ひらひらと手を振りながら、
「達者でな」
「大旦那様も、末永くご壮健であらせられますよう」
彼はごく平素な足取りで湖へと歩いていった。何気ない、乾いた別れのやり取りだった……なんとなく他にも話したいことはあったが、言わないまま終わるのが一番すっきりするだろう。
美鈴は門の前に立ったまま、去り行くヴィクトールを見つめ続ける。彼は湖岸にイカダを結わえていたらしく、それに乗って日の暮れた湖に漕ぎ出していった。
何をするでもなく、そのままの姿勢で、美鈴は彼の後姿を見送った。
やがて肩の力を抜き、指で隠せるほどに遠く離れたヴィクトールへ一礼する。
彼女が紅魔館に来られたのは、彼のおかげだった。最後まで口にすることはなかったが――胸中で小さく、「ありがとう」と囁いた。
美鈴の愛する紅魔館に働けることを、いつまでも忘れずに感謝したい。
視線を戻したとき、ヴィクトールは霞の向こうに消えていた。白光の薄れつつある西の空に変わり、天空に星々が現れ始める。
星影が、彼を無事に故郷まで送り届けてくれることを願う。
「……末永く、ご壮健であらせられますよう」
美鈴はそう繰り返し、門の前に立って夜の幻想郷に向き直った。
気を引き締めて門番に立つ。これまでもこれからも、きっと彼女はそうやってその場所に立ち続けるだろう。
いつまでも――叶うなら、いつまでも。
パシャ、パシャ。
「ぬぅ、何だ君は……いきなり撮影とは無礼な」
「これは失敬。私は天狗のジャーナリスト、射命丸です。あなた、この辺の妖怪じゃありませんね。およそ吸血鬼と同じにおいがします」
「いかにも吸血鬼だ。紅魔館というところに向かっているのだが……まぁ、旅人だよ」
「紅魔館ですか、ここからだと遠いですよ。――あぁ、こういうのはどうでしょう? 取材に応じてくれたら、ものすごい速さで紅魔館まで運んで差し上げます」
「ほぅ、悪くないな。では一つお願いしようか」
■ ● ■
「げほっ、ごほ……うーむ、結局振り落とされたか。酔った気象精霊でもあそこまで乱暴な加速はせんというに……」
「――おーい、そこのあんた。こんなところで何してんだい」
「お。娘さん、すまんがここはどこかな。場所に迷ってしまったのだが」
「あん? 彼岸だよ。妖怪が気軽に来ていい場所じゃないんだ。仕事の邪魔だし、さぁ帰った帰った」
「何、彼岸。ずいぶん飛ばされたものだ……確か閻魔がいるとか何とか。一度会ってみたいとは思っていたが」
「知らないのかい? 変なおっさんだね……四季様なら川の向こうだよ。フランクな方だからアポ無しでも会ってくれるだろ。なんだ、裁かれたいのかい?」
「いいのか。悪いな」
「……やっぱあんた、変なおっさんだよ」
■ ● ■
「ほい、ついたよ」
「……お?」
「あー、悪いね。ずばり正確な場所まで運べるほど鍛えてるわけじゃないんだ。森の中に出ちまったけど、紅魔館の近くのはずさ」
「ふーむ、縮地法か。東の龍王以外使い手はいないと思っていたが」
「……うん?」
「世話になったな。閻魔の言葉は日々の心得とすることを改めて誓おう」
「素直で結構。四季様は間違ったことは言わないからね、何言われたか知らないけど、がんばんな、ビクトール」
「ヴィクトール」
「じゃあね」
「ではな」
■ ● ■
「沢か。ということは辿れば湖だな……」
「そこのおじさん。こんなところへ何の用?」
「誰かな――? いや、旅の道すがらというやつなのだが、縄張りを荒らしてしまったかね。すまん」
「別に荒らしたわけじゃないけど、いつになく虫たちが騒ぐからね。気になって」
「そうか。ふぅ……少し休憩させてもらうよ。やたら虫は多いが、いい場所だ」
カシッ、シュボ……
チュイーン!
「ぎゃぁぁ! ジッポーがぁぁぁ!?」
「あのー、この辺にはエネルギー体に突っ込むっていう習性持った虫が棲んでるんだけど」
「おぉのれぇぇぇ! サイコガンで撃ち潰してやる!」
■ ● ■
「ようやく着いた……丸太でも切り落としてイカダにせんとな。――名残惜しいが、招待状を受け取ったままいつまでも待たせるわけにはいかぬ。メルレット、今のうちに首でも洗って待っておれ」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
午後、それは美鈴にとって大の字になって昼寝する時間帯。
門前の草原に横たわったまま、ぼんやりと青空を見上げる。半分閉じたまぶたの向こうで、薄雲がやんわりと陽光をさえぎり流れていた。
チチチと小鳥がどこかでさえずっている。
肌をなでるそよ風も、原っぱが波打つざわめきも、みな心地よく等しく眠気の源だ。
無意識のうちに視界が狭くなる。その頃になると目に映る風景は真っ白になってしまっているので、目を開けているかどうかは問題ではないのだが。ともあれ考えるだけの余裕もなく、聞こえてくる古い古い子守唄のような自然の息吹に抱かれ、美鈴は緩やかに眠りへと落ちようとしていた。
やがて吐息も平坦で単調になり、本格的な睡眠から一歩手前の状態までなったところで不意に聞きなれない声があった。
「もし」
微かに耳をそばだてる。
聞きなれないというのは語弊があるかもしれない――さび付いた楽器か何かのような響きを感じる。鮮明ではない記憶に従ってもう一度声を追いかけようとしたが、寝ぼけた頭の中ではうまく組み立てられなかった。
「もし。聞こえんのか」
古い友人の声を久しぶりに聞けば、こんな感じになるかもしれない……
美鈴は何か言おうとして、半開きの口をもごもごと目の前の誰かに向けた。目の前の誰か。誰か――?
彼女はそのときになってようやく、侵入者がすぐそこまで接近していることを覚った。
「うっひゃぁ!」
跳ね起きると同時に大きく腕を振りかぶって突き出す。顔を近づけるように美鈴を覗き込んでいた侵入者は素早く身を引いてそれを避けたが、美鈴は瞬時に敵の懐へ飛び込むと内股に右足を絡ませて膝をくじき、さらに前手でガードをはじきつつ肘を相手の顔面に叩き込む。
……いや、叩き込もうとした。頭が働く前に反射的な動きで攻撃を繰り出していたのだが、信じられないことに、敵は一瞬で空いているほうの手をかざして美鈴の攻撃を受け止めたのだ。経験的にいって、防御できる体勢ではないというのに。
密着しているためにうかつに離れられず、美鈴は奥歯を噛んで目の前の男――ここで気づいたが、男だった――を睨みつけた。
「この紅魔館に何の用、返答次第では――」
そこまで言って、凍りつく。腕に半分顔が隠れた人物を、まっすぐに見つめたままの格好で、美鈴は両目を『くわっ』と大きく見開いた。
顔面にぶわっと汗が吹き出る。意思とは無関係に、肩が、腕が震えだす。自分のしでかした真似を、どうやって取り繕ったらいいのか分からず、彼女は無言でその場に凝固していた。
「変わった挨拶だな、美鈴」
抑揚のない声で、その男が言った。
「君はここでは、いつもそうやって雇い主に接しているのかね」
「も……その。も、申し訳ありません、大旦那様。大変なご無礼を。……自分も、当惑しております。お、大旦那様と知っていれば、決して……このような狼藉は」
「謝罪の前に肘をどけてくれんかね」
「オゥ、イエッサー! アィムソーリィ、サー!」
美鈴ははじかれたように飛び退き、攻撃態勢を解いた。直立不動の彼女の前で、『大旦那様』は立ち上がると、旅装についた埃を払い、居住まいを正した。
背は高いほうだろう。壮年というにはやや若い顔つきであるものの、彼の放つ重厚感は歳経た貫禄を十分に伝えてくる。深い眼窩に宿る目つきがやたら鋭いのは昔のままだが、今はそれ以上に険しい感情を含んでいるのは間違いない。最後に見たときにはなかったあごひげがはえている……血に塗れた銀の糸としか表現しようのない毛色は、彼以外にいなかろう。
吸血鬼・ヴィクトール=ドラクール・スカーレット。
スカーレット一族の“本家”の当主にして欧州の闇で覇権を競う、頭に超のつく大怪物である。
美鈴はガチンゴチンに固まったまま無理やり愛想笑いを浮かべ、ぎこちなく口を開いた。
「ほ、本日はどんな御用向きでしょうか」
「娘に会いに来たに決まっているだろう。案内しろ」
美鈴はがくっと肩を落として、沈痛に声をひねり出す。
「……それでしたらあらかじめご連絡いただければ、しかるべきお出迎えをさせていただいたのですが」
「何を言う。家族の顔を見るのにわざわざ予約を入れる者がいるか。変に気を使われるのも好かん、というか……ここは幻想郷だろう。私の領地でもない場所で騒ぎになりたくない」
「そ、そうですか……あああ、どうしよう」
美鈴は頭を抱えて一人懊悩した。
よくない。非常によくない。
もちろん現在の紅魔館はなんら後ろ暗いところはない。美鈴はスカーレット本家に訪れたことは一度もなかったが、レミリアは何一つ落ち度のない完璧なお嬢様を体現しているはずだ。ヴィクトールがそのあたりに文句をつけることは万に一つもありえないし、そもそも彼が極度の親バカであることを美鈴は知っている。
だが。
だが、だ……一癖も二癖もある館の住人が、突然の来訪者を快く歓迎してくれるだろうか。しかも相手はレミリアの父親であり、恐ろしく強大な力を持った怪物の中の怪物。美鈴の持ちえるありとあらゆる経験と直感が、逃げたほうがいいと警鐘を鳴らしていた。
とはいえ、もちろん逃げることなど出来ない。
「あのー、大旦那様……現在お嬢様はお客様をお迎えしているところでして、後日改めてとはいきませんでしょうか」
「その客のほうも、一応目当ての一つなのだがな。博麗の巫女が来ているのだろう?」
「知ってて無理吹っかけてきますか……よくご存知ですね」
ヴィクトールの言った通り、今館内ではレミリアと霊夢、それに魔理沙がお茶を飲んでいるはずだ。
ヴィクトールは不思議そうに首をかしげ、美鈴と館とを交互に見回した。その後一瞬、無言で何か考え事のような仕草を見せると、困りきった顔で道をふさぐ美鈴を避けて勝手に館へと歩き出した。
「まぁ私も凡骨ではないし、大抵の気配は把握できる。それで……いつまでぼんやりしている。ついてこんか」
飄々とポーチへ向かうヴィクトール。美鈴は仕方なくため息混じりに彼の前に出て、館内へ案内すべく腹を決めた。
「ふと気になったのですが……外界の旅人なんて大騒ぎになってもおかしくないのに、今まで全然大旦那様のことが噂になってませんでしたけれど、何か細工を?」
「さっき言った通り、騒ぎになると厄介だからただひたすらに中堅怪物を装ってきた。私の本性まで見抜いた奴はそうはおるまい」
「やり口が地味な上にセコいですね……」
「それよりも美鈴。お前には門番を言いつけたはずだが……ちゃんと働いているだろうな?」
「はっ!? そ、それはもちろん毎日毎日馬車馬のごとく忠実に任務をこなしているに決まっているではありませせせんんか」
「さっき寝たたがな」
「それは、えーと……英気を養っていたのですっ!」
「まぁいい」
正面扉の前まで来て、尊大に腕組みするヴィクトール。美鈴は早速疲れた心地で首を振りながら、重々しい扉を押し開けて彼を中に通した。
大ホールではいつもどおり、メイドたちがせわしなく行き来してあれやこれやと仕事に励んでいた。中には美鈴とその背後のヴィクトールに気づいてきょとんとしているメイドもいる。
まぁ、今まで一度も幻想郷に来たことのないヴィクトールの顔を知っている者といえば、紅魔館の中ではスカーレット姉妹か美鈴ぐらいしかいなかろう。ちなみに美鈴は色々あって、大昔中国大陸でヴィクトールにスカウトされて、ここで働いている。
「多いな」
ヴィクトールがポツリと漏らした。美鈴が振り返って何がと問い返そうとすると、ヴィクトールはそれをさえぎる様に手のひらを出して先を続ける。
「使用人の数が私の屋敷より多い。文化が違えば当たり前ではあるかもしれんな。職場の人数が多くなると自然と細分化が発展するものだが……ここはよく統制が取れている。感心だ」
「紅魔館ではとても優秀なメイド長が全てを取り仕切っているんですよ。人呼んで完全で瀟洒な従者」
「ほぉ、恐るべきマチル・コーレリーの予定表か……」
「はぃ?」
「優れた使用人をたたえる称号だ。神の手による創造のごとく無駄のない人材管理を行う老女がいたのだが、彼女の名を取ってそう呼ばれる……あの娘だな?」
ヴィクトールが目線で、ホールの右奥――二階へと通じる階段の踊り場を指した。
そこにはいつからいたのか、話題のメイド長・咲夜が手すりに軽く手を添えて美鈴らを眺めていた。背景にぴりぴりした空気の硬さが窺える。見慣れない男がいきなり入ってきたのだから、当然の反応といえるだろう。
美鈴は事情を説明しようと一歩前へ踏み出しかけたが……その肩をヴィクトールが掴んで止めた。
怪訝な表情で振り返る。
「大旦那様……咲夜さんは怒らせると怖いんですよ。誤解を招かないうちにきちんと話しておかないと――」
「美鈴、ここから先はしばらく私を『ヴィクトール』と呼べ。彼女には私から自己紹介しておこう。あの若さでハウスキーパーとは、見所があるじゃないかね」
ヴィクトールは不吉な笑みを浮かべ、ぐいと美鈴を押しのけて前に出た。
咲夜が油断なく彼を睨んだまま階段を降りてくる。美鈴の背筋に凄まじく嫌な予感が走ったが、肩をがっちりホールドされてしまっているので逃げられない。
せめてもの抵抗で小さくつぶやく。
「……騒ぎはダメなんじゃないんでしたっけ?」
「ここはスカーレット家の領地、今まで手出しを控えていたのは人様の庭先だったからだ。いい機会だな、コソコソ隠れて舐められきっていたが、久しぶりに本調子に戻してみるか」
近づく咲夜を凶悪な笑顔で見返すヴィクトール。
やがて十歩ほどの距離を開けて咲夜は立ち止まった。すでに剣呑な空気を感じ取っているのだろう、リラックスした風に見せながら、その実彼女独特の戦闘態勢をとってヴィクトールと相対する。
「どちら様ですか?」
「ヴィクトール。ここの主人に面会に来た。都合してもらえるかな」
「あいにくお嬢様は現在ご多忙にございます。お引取りください」
咲夜は目を細めてヴィクトールを睨んでいる。美鈴がすんなり彼を通したことで排除すべきとは判断していないのだろうが、均衡が崩れれば容赦するとは思えない。
つっけんどんな咲夜を気にも留めず、ヴィクトールは一度館の奥に視線を向けた。
「客が来ているらしいということは門番から聞いた。だが、それでも通してもらおうか」
「……礼もわきまえぬ不逞の輩が絶えないのは、憂うべきことだと思いますわ」
「客人に食って掛かる使用人よりは、いくらか上品だ」
とすっ、とヴィクトールが美鈴を突き飛ばした。彼女は一瞬たたらを踏んだあと、全力で二人から距離を取る。玄関のすぐそばまで引き返してからようやく振り返った。
糸を極限まで細くよっていくような不気味な緊張が、恐ろしく窮屈な速度で終点まで突き進んでいく。いや、糸ならば害もなかったろう。ホールにいるあらゆるメイドたちが、固唾を呑んで成り行きを見守っていた。
明確なきっかけがあるわけでもなかったが、少なくとも美鈴は二人が同じタイミングで行動に出たことは分かった。咲夜が瞬時にナイフの雨をヴィクトールへと打ち出し、片やヴィクトールは……
彼は美鈴に背中を向けていた。表情は見えなかったが、おそらく油断も気負いもなかったろう。無造作に左腕を持ち上げると、空中でぱちりと小気味よく指を鳴らした。同時に、彼の左手の上で長方形の幻影が揺らめきとともに発光し、瞬時に消える。
――スペルカードか。
彼が何を意図したのかはすぐ分かった。ヴィクトール目掛けて殺人的に直進していたはずのナイフの群れが、一定の緩やかなカーブを描いてあらぬ方向へ飛んでいく。
「ふぅん?」
咲夜が見せた反応は、わずかに片眉を上げた程度だったが。
彼女は再び魔術じみた動きでナイフを投げつける。今度は先ほどの倍近い量の弾幕であったが、やはりヴィクトールに届く前に逸れて無関係な方向へ飛んでいった。何かしらの障壁にはじかれたというより、軌道そのものが始めから曲がっているようだ。
第二波が届くより先に、ヴィクトールは体勢を低くかがめて咲夜へ疾走していた。避ける必要がない分速度が出るのは理解できるが、それにしたってやけくそに速い。いかさまなんじゃないかと思うような勢いで至近距離まで踏み込むと、彼は軽く握った拳を突き込もうとした。外野で観戦している美鈴が見たところ、視界を覆うように拳でフェイントをかまし、死角にもぐりこんで投げ技にでも持ち込もうというあたりだろう。
――もちろんそれを許すような咲夜ではない。
瞬き一つ分の時間すらなく、ヴィクトールはいきなりナイフのカゴに閉じ込められていた。まさにカゴとしか表現しようのないほど密にナイフがひしめいている。そして慈悲の猶予もなく、それらは内側へ向け一気に収束した。勝負あったかに見えたが――
ほんのわずかな隙間を縫って、カゴの中から黒い影が弾丸のように飛び出してきた。カゴから数歩後退した位置にいる咲夜が、それを見た瞬間大きく瞠目したのが目に映る。黒い影は空気を裂くように鋭い動きで咲夜の側面から突撃すると、ぶつかる直前ぱっと広がって――羽を広げたコウモリの姿そのものである――輪郭がぶれた。一瞬歪んだ視覚を黒い影に集中しなおすと、それはいつのまにかヴィクトールに変化している。
彼はそのまま咲夜の肩と手首を取り、淀みない動きで腰の回転まで加えて派手に投げ飛ばした。
いや……正確には、ヴィクトールに掴まれる直前、咲夜は再び時間を止めてナイフを握り、接近戦に切り替えていた。しかしそれにもかかわらず、もはや冗談としか思えない速度で、ヴィクトールの両腕が彼女を捕らえたのだ。
そんな攻撃の応酬が、ほんの一瞬のうちに交わされていた。目のいい美鈴が、両者の力量をあらかじめ知りつつ、観戦の立場に立って初めて全体が把握できるような、それほどまでに凄まじい技のぶつかり合いだった。多分咲夜も、何をされたか全て分かっているということはないだろう。野次馬のメイドたちは完全に置いてきぼりだ。
他人事で感心しながら一連の攻防を眺めていた美鈴は、咲夜が飛ばされた方向を一瞬遅れて察知して、慌てて現実に意識を引き戻した。玄関――つまり美鈴の位置を狙ったように、咲夜が猛烈な勢いで突っ込んでくる。というか実際狙ったのだろうが。
美鈴は全身に力を込め、気息をあわせて咲夜を抱きかかえると、
「ふぬぁっ!」
自分から後ろに跳び退って、背中で扉を突き破った。
ざざっと派手に身体をこすりながら、抱えたままの咲夜をかばう。広い石畳のポーチを縁のあたりまで滑って――メイドが普段から綺麗に掃除してくれていることに、美鈴は心底感謝した――ようやく止まった。
「いったた……」
咲夜を下ろし、よろよろと背中に手を回しながら上体を起こす美鈴。
ひりひりと傷む肩や腰を気にしていると、ホールからいかにも余裕げな声が聞こえてきた。
「戦いの基本は格闘だ! 弾幕や時間に頼ってはいけない……」
「…………」
「ちょ、ちょっと咲夜さん目が本気になってますよ!」
「あの不埒者の首から下を土に埋めてニワトリに目玉つつかせてやるわ。止めないで美鈴」
「止めますって!」
慌てて背後から抱きついて動きを抑える。それでも咲夜は美鈴を引きずって、ずるずるとヴィクトールへ近づいていったが。
氷のような目つきに薄ら寒いものを感じつつも、美鈴は必死になって説得を試みた。
「咲夜さん咲夜さん、聞いて下さい。あの方は害意があってお嬢様に会おうとかそういうのじゃなくてですね、もっとこう気さくな感じで“ヘイ、ジョニー! 元気だったか?”みたくフレンドリーなお気持ちで館をお訪ねになられたのでして、咲夜さんももっと笑顔でお迎えしていただくと何事も角が立たずに八方丸く収まるのですけれど」
「…………」
ずるずる。
「咲夜さぁーん、お願いしますよぅー……」
「美鈴……あの男と知り合い?」
扉をくぐったあたりで止まり、彼女は肩越しに振り返ってきた。美鈴は一瞬どう答えたものかと迷ったが、ヴィクトールと咲夜の顔を交互に見比べて、当たり障りのない部分で妥協する。
「……最後に会ったのはかなり昔ですけれどね。多分、普通に戦っても勝てませんよ。ちなみにレミリアお嬢様とフランドール様もお知り合いです」
「コウモリに化けてたから、まさかとは思ったけど……あいつも吸血鬼なのね」
咲夜は何事か逡巡したように言葉を切った。微かに肩を落としてから、聞いてくる。
「美鈴、あの男信用できるかしら?」
「そこは私が保証します」
「……そう」
静かにうなずいて再びヴィクトールと向かい合う咲夜。殺気立った気配がないのを見て取って、美鈴はそろそろと彼女に回した腕を解いた。
これ以上争いが続くようなら、身体を張ってでも止めに入るつもりではいた。さりげなく両者を同時に把握できる位置へ移動しながら、意識は咲夜へと向ける。
彼女は淡々と腕を組んだまま、何かタイミングでも計っているようだったが――やがてあきらめたように嘆息した。
「……お嬢様のお部屋へご案内しますわ」
「頼む」
ホールの中央で仁王立ちしていたヴィクトールは、鷹揚な態度でうなずいた。
外野のメイドたちは、そんな彼の反応に終始反感をおぼえていたようではある。メイド長が膝を折った(ように見える)結論を出したことで、憤懣やるかたなしといった様子の者たちが何人かホールを後にしたようだ。まぁ、咲夜は今さらヴィクトールに敵意を抱くこともなかろうし、美鈴はただひたすら胸をなでおろすのみであったが。
そろそろ門番に戻ろうかとも思ったが、やはりヴィクトールをほうっておいてこの場を離れるわけにはいかなかった。というか、いつ危険事態になるか分からない人物を館内に残したまま離れるというのは、後のことを考えれば賢明とはいえない。
咲夜の先導でレミリアらのいる広間まで移動する間、美鈴は彼女に聞きたいことがいくつかあったが、いつにも増してきびきびと空を切る肩に圧されて結局声をかけられずに終わった。
代わりに、他人に見咎められない程度でヴィクトールへこっそり耳打ちする。
「大旦那様」
「ヴィクトール」
「ビクトール様」
「……ヴィ」
「さっきの咲夜さんとの戦いで、カードらしきものを使ってませんでした? あれは一体……」
「んー、あれか。こっちに来てから知ったのだが、ここでは弾幕というコミニュケーションが一般的らしいな……で、旅の道すがら色々話を聞き、私なりにスペルカードなるものを開発してみたのだ」
「でも、弾幕に頼ってはいけないって……いや、いいです……」
「さっきのあれはな、私の故郷の古い物理学者の名前を取って作られたものだ。現代でも有名な学者で、転向力というものを発見した偉大な男だった。途中は省略してものすごく噛み砕くと、物の軌道を曲げる力のことだ」
「はぁ。便利なカードだなとは思いましたけど……あれ、弾幕戦とはちがいますよ。スペルカードってああいうものではないと思うのですけれど」
「え、何。そうなのか?」
「……ビクトール様は拳法の達人ですから、多分弾幕にはあまり向いてないんじゃないでしょうか」
「ヴィクトール」
いちいち訂正を入れてくる。どうも彼は中途半端なところで穴だらけの性格をしているらしい。
目当ての部屋には、そんな会話が終わる頃、計ったように到着した。
流麗な装飾の施された扉の横に立ち、咲夜が取っ手に手をかけながらヴィクトールを振り返る。目を細め、声を低くして、
「念を押しておきますが、お嬢様に害なす行いに出られた場合、力ずくでも当館よりお立ち退きいただきますわ」
「分かった。誓おう」
ヴィクトールは言葉少なく肯定し、髪を手ですいたり服のしわを伸ばしたりした。
どうでもいいが、彼が咲夜と会話するときやたらと言い方が簡潔なのは、貴族とはそういう風に使用人と接するからなのだろうか。よくは分からないが。
なんとなく先の展開が読める美鈴は、黙ってヴィクトールの後ろについて事の成り行きを見守ることにした。
咲夜が軽く扉をノックする。彼女は一拍置いてから中にいるレミリアへかいつまんで状況を説明し、入室を求めた。室内では何か重要な話し合いでもされているのか、「ふーん」とか「そう」とか、やたら上の空な返事だけが返ってきたが、一応は許可された。気になったので中の気配を探ってみると(普通の状況でそんな失礼な真似をすれば即座に殺されるだろう……)予想通りのレミリア、霊夢、魔理沙のほか、パチュリーも来ているようだ。
咲夜がしずしずと扉を開ける。ヴィクトールは――珍しく硬めな動きで数歩室内に踏み入り、中の様子を眺めていた。美鈴も彼の影から窺うと、どうやら全員でテーブルを囲んでカードに熱中しているらしい。かなり真面目に勝負しているのか、ヴィクトールのほうへ目を向ける者はいなかった。
「一巡したな? よし、勝負」
親役なのだろう、魔理沙の指示に従ってプレイヤーたちが手札をテーブルに広げ始めた。
「私はツーペアだぜ」
「イセルハーサ・スート、フラッシュ」
「こっちはエル・フィルディン・スートのテン、ミッシェル、ルティス、アヴィン、エース――」
「待て待て待てっ」
魔理沙が突然大声を上げて腰を浮かせ、樫作りの椅子が後ろに倒れてがたんと重くやかましい音を立てた。
「なぁによ」
「何度目だ、何度目っ。そんなに出るものじゃないだろ、あり得ないぜ」
「何が言いたいの?」
霊夢が左目を細めて睨む。魔理沙も負けじと霊夢の瞳を睨み返し、声色を低くして続ける。
「イカサマしてるだろ」
「証拠は?」
「…………」
剣呑な空気に息を飲むような面子ではないものの、張り詰めた静寂の中で二人は数秒にらみ合う。こういったいさかいは、普段ならレミリアが適当なところで中に入って強引に仲介するのだが、いつまで経っても無言のままの彼女らは自然とレミリアに視線を向けた。
当の彼女はあっけに取られたように目を見開いている。テーブルの上のカードは気にも留めない様子だったが、イカサマをしていたのは一人だけではなかったらしい。彼女の手札は、エースのフォー・オブ・ア・カインドだ。
「とっ……」
「と?」
呆然としているレミリアに、残りの全員が疑問符をあげる。
ヴィクトールが軽く手を上げてパタパタと振っていた。
「お父様っ!?」
「会いたかったよ、レミィー」
抱擁の仕草のように両腕を広げてレミリアに近づくヴィクトール。レミリアはかつてない狂乱的な動きで椅子を蹴り倒してその場を脱出すると、一気に部屋の隅まで逃げて混乱したように目を白黒させた。
「ど、どうしてお父様がここに?」
「どうしてもなにも、娘の顔が見たくなったのだよ。どうだ、元気にしていたかい?」
さすがに抱くことはあきらめたのか、数歩離れた位置で残念そうに(顔は見えないが、そういう気配だった)立ち止まるヴィクトール。
それでも懲りずになおも親バカ発言を連発しはじめるヴィクトールと、それをワーワーと叫びながらかき消すレミリアの二人を、ギャラリーが興味深そうに眺めている。美鈴はそちらは無視し、ぽかんと口を半開きにしている咲夜へと向き直った。
「黙ってて、すみませんでした」
「えっ……と……未だ状況がつかめないんだけど……」
「お咎めはないと思いますよ。大旦那様は咲夜さんの力量を試したくて、わざと挑発したんだと思います」
「……吸血鬼は吸血鬼でも、まさか父親だったなんて……とんだ大失態をやらかしてしまったわ」
「まぁ、変わったお方ですから……あまり、気に病まないほうがいいと思いますよ」
嘆息し、ヴィクトールのほうへ視線を向ける。親子騒動も一段落ついたのか、彼は霊夢たちに色々と質問攻めにあっていた。特に魔理沙が人一倍興味深そうにあれやこれや話しかけていたが、それよりも霊夢は以前ヴィクトールを見たことがあったらしく、
「そういえば、あなたいつぞやの境内に不時着してきた人?」
「うむ、あれは私だ。あの時は無視して立ち去ってしまってすまなかったな」
「……気づいてたなら、声くらいかけてもいいでしょうに」
「あの時は、色々あってな……接触したくなかったのだ。だが郷を旅するうちに、別段逃げる必要はなかったと気づいてな、改めて挨拶に来た」
世間話をしていた。
ショックから立ち直った咲夜が美鈴の肩をとんとんと叩いてくる。呆れたような疲れたような表情の彼女に向き直ると、咲夜はヴィクトールのほうを指してつぶやいた。
「……どういう縁で知り合ったの?」
「昔、大旦那様とレミリアお嬢様とフランドール様で大陸の旅をしていたのですけれど、その頃の私は『中国』って呼ばれる在野の妖怪で、ちょっかいを出したらグーで殴られました」
「…………」
「その頃から殴り合いには自信があったのですけれど、正面切って戦って負けちゃったので、以来使用人として雇用していただくことに」
「……とりあえず、昔から中国って呼ばれてたのね。呼ぶのにますます抵抗がなくなったのだけは確かよ……」
本格的に疲れたのか、咲夜はこめかみに手を当てて壁に寄りかかった。
美鈴は苦笑して肩をすくめる。依然ヴィクトールらは四方山話に花を咲かせているようで、彼女は咲夜の手を取るとそんな彼らの輪の中に入った。
久しぶりに、ヴィクトールの旅の話を聞かせてもらうとしよう。
■ ● ■
その後、ヴィクトールがフランドールを呼び出して、レミリアと再会したとき以上の大騒動になったり。大図書館に足を運んでパチュリーや小悪魔と、
「あなた、昼なのに普通に日光の下も歩けるの?」
「特殊な香を焚いていてな。昼夜を逆転させる香りで、昔はそれは高価な代物だったが、近頃では庶民にも求めやすい価格で取引されているよ」
「譲ってちょうだい」
「すまんが予備は手元にない」
熱心? に話し合ったり。館内の運営状況についてこまごまと確認に回ったり。ティータイムに、
「吸血鬼は酒を定期的に飲まないと死んでしまうのだよ」
「……嘘でしょう?」
「ほんと、ほんと」
と無理やり酒宴にしたり。ノリで弾幕大会に発展して、勝手を知らないヴィクトールが結局皆を肉弾戦でどつきまわしたり。彼以外の全員が笑いながら逆上してヴィクトールをボコボコにし返したり。
そんな風に時間が過ぎて、やがてヴィクトールは、
「……そろそろ帰るとしよう」
と切り出した。
■ ● ■
いつの間にか空は赤く、遠く稜線に夕日が沈みつつあった。冬の足音はもうそこまできているようで、木々はこのところ少しずつ葉を落とし、景色は緩やかに味気ないものへ変わろうとしている。
広く湖に囲まれた紅魔館でも、生き物の冬支度を感じることは出来た。美鈴は一度ぐるりと周囲を見渡し、彼らの息遣いに聞き入る。秋の夕暮ともなれば、目に移るもの全てはどことなく寂しげではあったが、季節が移ろい行くこの大地で、そこに深く根ざした営みというのはむしろ感慨深いものに違いない。
美鈴が一回転して視線を戻すと、ヴィクトールも眩しそうに目を細めて湖の彼方を眺めているようだった。故郷でも思い出しているのかもしれない。
正門には美鈴とヴィクトールだけだった。全員で見送りするものと思っていたが、ヴィクトールが『物々しいのはゴメンだ』と言って、残りの皆とは簡単な挨拶だけで別れをすませている。美鈴も見送りと言うより、単に門番に戻って来たに過ぎない。
ヴィクトールは大量の土産物が入った袋を背負いなおすと、数歩進んで草原の只中で美鈴を振り返った。
「これでもう、後は帰らねばならんな。名残惜しいが……早く帰れ、と気をもんでいる奴がいる」
「よろしかったのですか? お嬢様方とも大したお話はされていませんでしたけれど……わざわざ遠くから足を運ばれたというのに」
「『娘に会いに』来るのが当初からの目的だったからな。何を話すか、などはそれほど重要ではない」
ヴィクトールはなにやら顔をしかめたらしかった。思い出すことでもあったのか、美鈴から見ればそのタイミングは若干不自然にも感じる。斜陽に照らされた彼の表情は、なんというか……あまり、彼にふさわしくない違和感のようなものがあった。
それは悲しみでも怒りでも、喜びでもなかった。
安堵とも違う。来るべき時が来ただけというほどに、ヴィクトールが長く旅人でいたというわけでもなかろう。
羞恥だった――意識の底からその言葉をひねり出して、美鈴は胸中で苦笑した。
唐突に頭に浮かんだというわけではない。自分の中にあるものを思い出しただけ……おそらく彼女も、かつて全く同じ表情を浮かべたことがあったはずだ。いつかは覚えていないが、彼を見て直感するのだから、浮かべたこと自体は間違いない。振り返った過去で最もそれに近いのは、大陸の暗部と決別したときの記憶だったが。
裏切ろうとしている。
――美鈴にはそう思えた。
「……聞いてもいいですか?」
「うむ?」
「どうしていまさら、この東方の土地に大旦那様が? 西洋で、何かあったのです?」
「変わりはないさ。昔通りだ。何もかもな」
ヴィクトールは片手を振って、何かを振り払うような仕草を交えた後、不意に表情を淡白なものに変えて続けた。
「なぜこの時期か、といえば、気まぐれ以外の何物でもないよ。以前から来ることは決めていたが、過去でも未来でも、まずいということはなかった。そう……ただの気まぐれだ」
「決めていたとは……なぜ?」
「私一人ではどうしても分からない答えを、聞きに来るためにだ」
何か思うところでもあったのか、ヴィクトールは言葉を飲み込んで間を取った。腕組みし、つま先を横に向けてどこか分からない場所へ視線を向けている。
「地図の空白は埋まってしまったよ、とうの昔にな……そのどこにも、怪物はいなかった。だが幻想郷は、未だ地図の空白として存在している。――お前に言っても、何のことか分からんだろうが」
「さっぱりですけど……気にはなりませんよ。私の仕事は、紅魔館の安全を守ることです」
「そうか、そうだな……なぁ、美鈴。これから言うことはは雇い主としてではなく、通りすがりの旅人と思って聞いてくれ」
美鈴が「はい」と返すと、ヴィクトールは彼女に背中を向けて、長い沈黙をはさんでからようやく声をあげた。重々しさはないが、忘れることもないだろう……そんな声。
「今日のような日がいつまでも続けばよい。だがいつか、自分の意思ではどうしようもない岐路に立たされる時が来るかもしれん。納得できる選択になればいいが、そうでない苦境に追い詰められるかもわからん。だが、どれだけ絶望的な状況であっても、人の歴史というのはその瞬間に終わってしまうものではない。いつだってこの世には未来があるということを、忘れずに生きてほしい」
「……なんでいきなり、そんなことを?」
美鈴は困惑しながらつぶやいた。
ヴィクトールは空を見上げ、またしばらく沈黙した。横から差し込んでくる日差しは、いつの間にか細く線のようなきらめきだけ、残滓のように漂っている。風や雲が言葉の続きを知っているはずもないが、彼は頭上だけ見つめて何かを待っているように動かない。
不意に、美鈴は気がついた。およそ考えられない話だが、何のことはない――フランス最強の大吸血鬼も、返答に窮することがあるわけだ。
何か言いたいことがあったのだろう、だがうまく言葉に出来ず、彼は時間をかけてそれを組み立てようとしてる。
静寂に風の鳴る音だけが響いていた。無理に答えを引き出さなくてもいいことを美鈴は告げようとしたが、一瞬早くヴィクトールが目だけ振り返ってくる。
「……お前には、色々と面倒なことを押し付けてしまったからな。なんとなく言い訳のようなつもりだ」
彼が選んだ言葉は、最終的にそれだけだったが。
ヴィクトールはそれきり会話を終わらせることにしたらしい。再び背を向け、ひらひらと手を振りながら、
「達者でな」
「大旦那様も、末永くご壮健であらせられますよう」
彼はごく平素な足取りで湖へと歩いていった。何気ない、乾いた別れのやり取りだった……なんとなく他にも話したいことはあったが、言わないまま終わるのが一番すっきりするだろう。
美鈴は門の前に立ったまま、去り行くヴィクトールを見つめ続ける。彼は湖岸にイカダを結わえていたらしく、それに乗って日の暮れた湖に漕ぎ出していった。
何をするでもなく、そのままの姿勢で、美鈴は彼の後姿を見送った。
やがて肩の力を抜き、指で隠せるほどに遠く離れたヴィクトールへ一礼する。
彼女が紅魔館に来られたのは、彼のおかげだった。最後まで口にすることはなかったが――胸中で小さく、「ありがとう」と囁いた。
美鈴の愛する紅魔館に働けることを、いつまでも忘れずに感謝したい。
視線を戻したとき、ヴィクトールは霞の向こうに消えていた。白光の薄れつつある西の空に変わり、天空に星々が現れ始める。
星影が、彼を無事に故郷まで送り届けてくれることを願う。
「……末永く、ご壮健であらせられますよう」
美鈴はそう繰り返し、門の前に立って夜の幻想郷に向き直った。
気を引き締めて門番に立つ。これまでもこれからも、きっと彼女はそうやってその場所に立ち続けるだろう。
いつまでも――叶うなら、いつまでも。
親馬鹿振りがなんとも…(笑。
シリーズが早々と終ってしまうようでなんか寂しいですが、次回作楽しみにしてます!!!…ワクワク。
一見生真面目そうに見えるのに、親しみやすい。
それでいて物凄く強いけど、加減は心得ている。
単純に言うならば、凄くカッコいい。
こんなお父様を持って、お嬢様は幸せ者ですね。
バトルも良かったです。
次回作もワクワクテカテカして待ちます。
このシリーズいいなぁ。
中国vsヴィクトールの話から続いていたのだと後半のほう読んで初めて気づきましたよ。
あ、間違えた。ヴィクトール。