目を閉じて、耳を澄ましてみた。
空を穿つ音がする。
風が唸る音がする。
鈴が煌く音がする。
柳が囁く音がする。
林が呻く音がする。
桜が散る音がする。
音が、世界に色を塗っている。
そんな、気がした。
瞼の前に違和感を感じて目を開ける。
桜の花びらだった。
どうやらうたた寝していたみたいだ。
お茶も切れていたし。
瞼についた花びらを指ではじいて、今一番見ごろの桜へ目を向ける。
したたる白っぽいピンクの涙粒。
そして、舞い上がる涙風。
いつの間にか、笑っていた。
あんまり、綺麗だったもんだから。
もう一回、お茶を入れる。もちろん、自分の分だ。
そして、今日も今日とて階下、というか幻想郷を見渡す。
満開を過ぎた桜、かすかに雪の残る尾根。
春だ春だとわめきたてる鳥と妖精。特にうるさいのが……今年は二人。
去年と比べれば穏やかな春。それでも過ぎ去るのは惜しい。
毎年毎年春は来るが、ああいや、遅れたときもあったっけ。
それでも瞬く間に過ぎ去る。そう、まるで雷のように。
ふむ、そういえば春に芽を出す蕾には『雷』があったっけ。
うん、うまい。67点。お茶がおいしい。100点。
瞬く間に過ぎ去る春には瞬間の美というものがあるのかもしれない。
だからこそ、楽しんでおこうかな。あー、でも出かけるのもなぁ……。
春なんて毎年来るわけだし。
でも、今年という春は今しかないわけで。
楽しんでこよう。
過ぎ去る前の春を。
芽吹く芽吹く風の音。
息吹く息吹く春の音。
吹きすさぶ春風。
見渡す限りの快晴。
散る、舞う、桜の花びら。
また来年、楽しませてね。
季節を持たない森を過ぎる。
季節を忘れた家を過ぎる。
季節を省みない彼女が頭を過ぎった。
窓から見える伏せたぼさぼさの金色の頭。
書きかけの手紙、散らかった万年筆、飛び散る黒い線。
ちゃんと布団で寝ないと風邪引くわよ?
勝手知ったる他人の家、上がりこんで毛布をかけておいた。
ここのところ宴会続きだったから、忙しかったのかな。
いつだって彼女は輪の中心にいて、楽しんでいるように見える。
いつだって彼女は心の中に入ってきて、隙間を埋め立ててしまう。
彼女は変わらない。ああも変わらないのも珍しいと思う。
だけどこの変わりゆく世の中。
いつまでも変わらないものがあったっていいと思う。
くるりと方向転換して、低空飛行。
春の山並みは滑空の速さで線に見える。緑の線。赤の線。青の線。白の線。
それに心を向けなきゃ、それが何かはわからない。
つまらないじゃない?そんなの。
だから私は空を行く。楽しむために。楽しんで行くために。
白い、暗い森に調和しない家が見える。
布団を干す虹色の影法師。
整った金の髪、手に持った洗濯物。
彼女を手伝うためにぴこぴこと忙しなく動く人形たち。
ほほえましくて、思わず笑ってしまった。
心持たざる者たちに贈る嬉遊曲。
けたたましい中に流れる練習曲。
さぁ、どこまで続けようか?
できるなら永遠に。
私は祈る。
世界が、廻ることを、廻り続けることを。
風の向きが変わる音がして、森を抜け、湖を渡る。
去年と変わらず飛び交う妖精たち。舞い散る春に誘われる妖精たち。
その中の、特異点。
水色の髪。いつでも半袖。そして裸足。
春を嫌う、というか冬以外を嫌う妖精。
あちこち飛び回ってわめきたてている。
見ている分には面白いけど、やられるほうはたまったものじゃないだろう。
その特異点に攻め立てる影二つ。春を告げる白い影。春を伝える黒い影。
去年までは一対一だったから引き分けで終わっていたけど、今年はやられてしまうかもしれない。
それでも。彼女は春を嫌うことをやめない。
彼女は冬が好きだから。
好きになることに理由なんていらない。
そして、その想いは何よりも強い。
馬鹿だ能無しだなどと言われても彼女は願う。
去りゆくことのない冬を。
でも彼女は笑っている。
嫌いだけど、楽しんでいるんだ、彼女も。
嫌いなだけで楽しまないなんて、もったいないと思わない?
去りゆくことのない冬。
私だって春が去らないならなんていいことだろうと想う。
でも、それは叶わぬこと。
だから、人は去ることを恐れる。
でも、また出会える。まだ知らないものと。知っているものと。
だから私は今の春を想う。
次に出会うために。
風が止まって、立ち尽くす。空の真ん中で。
ひらひらと舞い降りる白い花びら。
桜じゃない。雪でもない。
空を見上げる。わずかに雲の残る快晴の空。
桜なら幽冥の向こう側だろうけど、これは違った。
風がまた動き出した。空へ向かって。
空へ駆け出す。空の向こうへ。
まだ、私は見ていないのかもしれない。
去る前の春の姿を。
いつにも増して急ぐ。
急ぐ。急ぐ。ただ急ぐ。
この春は、今しかないから。
今しか、出会えないから。
遥か、遥か、雲の上。
そこは、言うなら空の島だった。
実際に浮いているわけじゃなくて、あくまで比喩で。
雲海によって隔離されてしまった、空の島。
そしてその島には、見たこともないものがあった。
白い、白い、花畑。どこまでも続く。果てしなく。
雲間に隠れた、白い花畑。
空の向こうの、天空の花園。
咲き誇るは、背の高い白い花。
うなだれないで、上を向く白い花。
あまりに綺麗で、あまりに非現実的で、思わず笑ってしまった。
その花畑にたたずんでいる老人がいた。
彼は、何十年も前からここで花を育てているという。
何のために?そう、何十年もかけて花などを。
そう、聞いてみた。
彼が言うには、彼は昔大きな罪を負ってしまったらしい。
そしてあまつさえ、それから逃げてしまったのだという。
その償いとして、ここでこの花を育て始めたのだと。
何十年も、一人で、誰に見られることも、知られることもなく。
彼は私に聞いてきた。
自分の罪は償えたかと。自分のしたことに意味はあったのかと。
私は、その問いに即答できなかった。
私なんかには、彼にそんな重大なことを答えられるはずもなかったのだ。
だから、言っておいた。
貴方の花は、笑っている。
貴方がそれを見て笑えたなら、貴方は償えたのではないか、と。
私は別れを告げ、花畑を後にする。
去り際、彼は、呆然としていたように見えた。
振り返る刹那、一陣の風が吹いた。強い風が。
一斉に花が散る。
雲に、空に、世界に、白が解けていく。
白は雲と一体になり漂う。
白は空と一体になり輪舞する。
白は世界と一体になり世界を包む。
白が、世界に解けていく。
包む白の隙間に、わずかに笑った彼の顔が見えたような気がした。
彼は今年のような花畑は来年は見られないだろう、と言っていた。
でも。それでも。
いつか、またここに来れるよう、私は願う。
天空の花園、咎人の楽園。
彼はなんと言うだろうか。
呆れるだろうか。反するだろうか。
でも、私は願う。
世界が、笑うことを。
笑顔で、満たされることを。
詩的な表現一つ一つもそうなのですが、何より、
描こうとしている世界の、大きく捉えた美しさがどうしても好きです。
春、来てますね。
なるほど、幻想郷の春というのは花だけの春ではない、自然だけの春でもない
そこに棲む全ての命、人、妖怪、精霊達があって初めて春なんだ、と感じました
都会では存在し得なくなってしまった風景です