マヨヒガの屋敷に近い広大な森。
木陰から日差しが差し込み、鳥が賑やかに歌う天然の楽園。
わたくし事、八雲藍とその式・橙。
そして私の主人、八雲紫。
私達は約一月程前からこの森のコテージに滞在している。
普段とは違う現地調達を基本とした家事にも、既に慣れた。
偶には割烹着を脱いで家事をするのも乙なものだ。
私は目の前の小川のせせらぎを聞きながら、釣り糸を垂らす。
「そーれ!」
「ミギャー!?」
背後から響くは、紫様と橙の声。
おそらく橙が紫様に突っかかり、返り討ちにあったのだろう。
別に式苛めをしているわけではない。
そもそも此処へは橙本人の希望で、修行に来たのである。
原因はあの長い冬の終わり、私達全員が人間三人に揃って負けたこと。
その戦いの中でただ一人何も出来ずに負けたことが、本人にかなり応えたらしい。
紫様や私に比べた自分の差。
もともと気にしていた所に突きつけられた現実。
それが橙の意識を少しばかり変えたようだ。
「どれ」
私はため息をついて背後を見やる。
そこには向かい合う私の主と式。
主は口元を扇で隠し、その向こうで笑みなど浮かべて橙を見やる。
対する式は、全身の毛を逆立てて一杯一杯で紫様を睨む。
……少し落ち着けよ、橙。
「まだ始まって十分よ。もうギブアップなのかしら?」
「まだです! まだ負けてませんから!」
「ふふ……」
そう言って、二人は自身を中心に妖気を張る。
紫様は自身を中心とした半径5メートルの正円形。
橙はその大きさを何処までも伸ばし、遂には紫の妖気に接触する。
「……行きます」
「どうぞ?」
これは妖気を底上げする訓練。
互いに妖気を展開して行き、接触したら試合開始。
上手は自身の陣地に相手の妖気を通さないよう護る。
下手は有らん限りの力で、相手の陣地を侵そうとする。
このとき、攻め手は常に自身の妖気を全力で放出する。
よって下手は粘れば粘るだけ底力がつくのだ。
「くぅ……」
橙の放つ妖気が正円形でなくなって行く。
その形は橙の後ろ方向に、少しづつ大きくなる。
紫様が押している訳ではない。
これは橙自身で小揺るぎもしない紫様の陣地を押している結果。
どうしても前へ進めないため、安易に広がる後方へ無意識に妖気が流れているのだ。
肝心な紫様の妖気との接触面が薄くなっている。
こういう時は相手をしっかり意識して。
円形を壊さないように、ゆっくりと妖気の接触面を押し返していかないと……
「後ろへ流れてるわよ」
「う?」
「修正して、意識は私に寄りかかる位前に。私を押し返せないなら、無理に陣地を広げることはないの」
「はい!」
橙の陣地が楕円形から正円形に修正される。
範囲を広げれば密度は薄くなる。
下手の橙に必要なのは陣地を広げることではない。
紫様の陣地を僅かでも侵すことだ。
「まぁ、無理だろうけど」
釣竿に手ごたえ。
私は二人に背を向けると、竿に意識を向ける。
今日のお昼は何かしら?
既に山菜と茸は取ってきてる。
後は山女でも釣れれば申し分ないのだが……
「これだけ騒がれちゃなぁ」
苦笑が漏れる。
用心深い魚は期待できないだろう。
というか、これだけ騒いでるところへ悠然と餌を食む魚とは何者ぞ?
私は捻くれ者の顔を拝もうと、竿を合わせる。
「ぬ!?」
想像以上に重い手ごたえ。
私は期待に胸を膨らませて竿を上げ……
「あら? 大物」
背後に主の声を聞いた。
「……橙は?」
「少し押し返したら伸びちゃった」
「まぁ、そんなものでしょうね」
「ええ、そんなものね」
別に話を逸らした訳ではない。
ただ、圧し掛かる脱力感に耐え切れなかった。
「……凄いでしょう? 紫様」
「ええ、お昼は期待できそうだわ」
「因みに、何に見えますか?」
「幻想郷ではあまり見ないわね」
「そうですねぇ」
私が吊り上げた魚は普段はあまり見かけない。
縁日では出店の主役。
それは真っ赤な金魚だった。
「……く」
「……ふ」
しかもその体長は一尺を超える大物である。
当然こんなものが普通に釣れるわけが無い。
紫様は橙をからかいつつも、スキマを通して私の釣り針にコレを引っ掛けたのだ。
「くくっくくくくく……」
「うふ……うふふふふふ」
次第に、笑みを堪えきれなくなる私達。
流石に大声で笑いはしないものの、こみ上げる笑いはどうしようもない。
それは紫様も同じのようで、二人は腹を抱えて笑いあった。
そうかそうか、そういうことか。
一頻り笑った私達が、ようやく正気に戻る。
開口一番に私は告げた。
「喰えよ?」
「嫌ですわ」
満面の笑顔で語り合う私達。
周囲の自然の和やかさに反し、私達には殺伐とした笑顔が張り付いて離れない。
……キャッチ&リリースは釣りの基本。
「喰らえ」
小憎たらしい主の顔面目掛けて本日の獲物を投げつけた。
出店の親父が釣らせるつもりのない大物が、完璧なまでに整った主の顔を襲う。
「嫌」
紫様は寸前でスキマを開き、時速二百kmで迫る金魚を吸い込む。
『……』
私達は顔の笑みだけは決して崩さず互いを睨む。
私の得物は手にした釣竿。
紫様の得物は吸い込んだ金魚。
双方に決め手が無い。
「橙を見てやらなくていいの? ゴシュジンサマ……」
「失神させた張本人が、他人事のようにおっしゃいますか……」
まぁ、確かに紫様の言うとおり。
此処は折れるよりあるまい。
復讐の機会など幾らでも在る。
なければ積極的に作るだけだ。
私は竿を納めて、紫様に一礼。
主に背を向けると、橙の元へ一足飛び。
未だ目を回している可愛い式を抱きかかえる。
「橙……橙?」
少し揺すってやると、橙もようやく目を覚ます。
「藍さま……?」
「お疲れ橙。それで、どうだ?」
「……伸びた分だけ、二人が遠くなってる感じです……」
「まだそんなもんだろうね」
それが解るだけ、この子も成長しているのだ。
「さて、お昼にしようかね?」
「はーい」
私は橙を降ろすと、紫様に手を振る。
紫様はふわりと浮き上がると、私達の元へ降りてきた。
「今日は何かしら?」
「山菜御飯に茸のソテー。メインは金魚の塩焼きです」
「金魚ぉ!?」
「嗚呼、許しておくれ橙よ!」
「……お待ちなさいな式共」
私は橙をヒシと抱きしめ言葉を繋ぐ。
そして気づかれぬよう紫様を横目で見やり、笑む。
「紫様が妙なことしなければ、お前にそんなもの食わさずに済んだのに!」
「ちょっと!」
「嘘……ですよね?」
「う……」
「嘘ですよね? ……紫様」
子供の純粋な眼差しに捉えられ、たじろぐ紫様。
決して大げさなことではない。
幾ら橙でも金魚は食べたくないだろう。
大好物の川魚がそんなものに化ければ、橙の追求が緩かろう筈がない。
私は紫様の困惑に溜飲を下げ……
「そうよ橙。これは嘘……」
「え?」
「そうなんですか? 紫様」
「そう……全ては藍に言われてやった事!」
「ええー!?」
「待てや……」
あまりに無理多き理屈に、私の思考が一瞬止まる。
その一瞬で紫様は地面に崩れ落ち、顔を伏せてすすり泣く
「うう……私は嫌だって……藍が無理やり……」
「っこ……スキマっ……」
「藍様……嘘ついたの?」
「う!?」
橙の瞳は、今度は私に向けられる。
非常に腹立たしいが、紫様は嘘を尽いていない。
『藍に言われてやった』……おそらく橙の修行について。
『私は嫌だって』……金魚を食べるのが嫌だと言った。
『藍が無理やり』……おそらく金魚を食わそうとしたことだろう。
それらを紡いで都合よく並べれば、あら不思議。
嘘無しでこの展開になってしまうのだ。
……後で絶対泣かす。
もしくは鳴かす。
「違うよ橙……私がお前に嘘などつくか?」
「でも、隠し事はするじゃない」
「お互い様でしょう!?」
「……大人って……」
「……え?」
「……橙さん?」
「汚いです!」
言って駆け出す橙。
「おい!」
「ちょっと!」
私と紫様は次第に小さくなる橙の背中を見送る。
その方向は、私達が滞在しているコテージ。
傷つきながらもちゃんと家に向う辺り、あの子は本当に良い子だと思う。
因みにコテージは紫様が用意した。
どうやったのかは知らないが。
『……』
とりあえず決着はつけなければなるまい。
静寂が辺りを満たす。
遅い春の風が一陣、森の中を駆け抜けたとき……
「貴女のせいだ!」
「貴女のせいよ!」
紫様の横っ面に竿の先端がめり込み、私の側頭部を金魚が張り付く。
物理的な衝撃よりも精神的なダメージでスタンする私に、紫様が組み付いてくる。
「隙あり!」
「っち……この!」
そのまま五分ほど取っ組み合ったのは別の話。
紫様のスキマからウリボウを捕まえて代わりにしたのも別の話。
ついでにウリボウを絞めるのに橙が猛反対し、結局家で飼う事になったのも、また別の話だった。
* * *
メインの無い昼食でも、食せばそれなりに腹は膨れる。
お昼の後は食休み。
特に紫様は午前中起きていたことがかなり応えているらしい。
このコテージにこもって以来、紫様はいつも昼食の後は寝入ってしまう。
「いいなぁ」
橙の声は、おそらく紫様の膝に乗るウリボウに向けられたもの。
こやつは三人の内では紫様に一番懐きやがった。
大物である。
「実際、紫様に懐くとは思わなんだな」
「ねぇ? 趣味悪いと思いません?」
「駄目だよ橙。そういう台詞は、ちゃんと紫様が寝ているか確かめてから言わないと」
「はい……って、アレで寝てない時があるんですか?」
「あるよ」
紫様は安楽椅子に揺られ、深い寝息を立てている。
誰が見ても寝ているように見えるが、そう思うのは浅はかである。
紫様の『寝たふり』は素人目に見破れるものではないのだ。
看破出来るのはそれに騙され、赤っ恥を掻かされたことがある者のみ。
すなわち、私と幽っ子のことである。
「今は寝ているようだがね」
「……何処で見分けてるんですか?」
「一番分かりやすいのが服の皺だね」
「皺!?」
「その数と位置によってかなりの角度から分析出来る」
「……」
「まだ知りたい?」
「もういいです」
賢明である。
これ以上は感覚の話になるので難しいし。
私は紫様に愛用のかいまきを羽織らせる。
やや重いのか、紫様の呼吸が少し変わる。
どうしようかと悩むこと三秒。
私はこのままにしておくことにする。
紫様が風邪をひくとも思えないが、せっかく持ってきてるんだし。
「さぁ、午後は私と一緒だよ」
「はい!」
私達はコテージを出ると森に入る。
しばらく行くと、森の中にあって木々が途切れた広場に出る。
そこで私達は向かい合う。
開始の合図はない。
対峙した瞬間から既に組み手は始まっている。
『……』
橙が使うのは両手の甲を覆う鉄甲。
当然私が作った物である。
本人の希望では刀を欲しがったのだが、橙の身長ではあまり長いと使いにくい。
またあまり刃物を持たせたくないという心情もあり、とりあえずはこれで我慢してもらっている。
対峙する私が持つのは太刀。
それも刀渡り約七尺と、私の身長よりもかなり長い大太刀である。
サイズこそ違うものの、そのスタイルは妖夢に近いものがある。
妖夢は今回の目標であり、仮想敵。
この一ヶ月、橙には彼女を超えることから目指してもらった。
実力差は少々厳しいモノがあるが、それでも私や紫様よりは与し易いはずである。
今回の修行は一ヶ月を期限としており、明日はその最終日。
果たして橙はどれだけ差を詰められたのか……
「行くよ?」
一息に間合いを詰め、太刀を降とす。
妖夢よりも少し速く、少し強くなるように。
橙は鉄甲で頭上の太刀を受けつつも、更に踏み込んで自分の間合いに入ろうとする。
零距離に入られたくない。
おそらく妖夢もそう考えるはず。
私は退きながら太刀を振るい、橙の接近を阻む。
橙は舌打ちしつつも正確に太刀を捌いていく。
間合いが開いたところに、今度は橙が先に動いた。
無数の妖弾を飛ばして私の動きを牽制する。
喰らったところで問題ないが、被弾するのも癪である。
私は幾つかの弾を避け、避け切れないものは叩っ斬る。
私が太刀を振るった瞬間、今度は橙から間合いを詰め、鉄甲に仕込んだ鉤爪を私に振るう。
「へぇ」
かなり早い。
感嘆をもらしつつも、私は刃を翻して橙の爪を弾く。
同時に左手に狐火を作り、掌底と共に叩き込む。
橙は私の行動に即応し、自らの右手に妖弾を生んだ。
どうやら読まれていたらしい。
真っ向から打ち返す橙。
二人の中間で掌底同士が激突し、互いの妖気が干渉して小爆発を引き起こす。
爆発は煙を巻き上げ、お互いの姿を覆い隠す。
思わず舌打ちする私。
想像以上に橙の妖弾が早く、そして重かった。
どうやら紫様との修行の成果は随分と顕著に現れているらしい。
「……」
それにしても、よく動く。
体術の中に妖術まで絡めた戦術は、今まで橙自身使ってこなかった。
この一月あまりの間、おそらく影で相当努力をしていたのだろう。
明日の最終日を控え、その成果を存分に発揮する橙は決して弱くない。
伸び盛りの時期の勢いと言うものを間近で見せられ、私は複雑な思いに駆られる。
この子はいつか私を追い抜いていくんだろうな……
そんなことを考えていると、橙に動きが見えた。
加速によって煙を引き裂き、私に迫る。
私はカウンターで切り返すべく太刀を構える。
しかし橙は私の間合いの直前で横に飛ぶ。
目標を見失い、虚を付かれた格好の私に正面から妖弾が迫る。
「!?」
橙は背中から妖弾に追わせて私に接近したらしい。
これは完全に私の失策。
橙自身と煙という死角は在ったにせよ、全く察知出来なかった。
私は構えた太刀で妖弾を斬り、橙の蹴りは上体を振って何とかかわす。
しかし橙の追撃は一度では終わらない。
両手の爪と足技と。
間断ない連撃が私のバランスを奪う。
ここで倒れたら少々マズイ。
私は全身の筋肉を使い重心を起こす。
同時に橙の蹴りを裏拳で弾いて体勢を戻す……はずだった。
「っひゅ」
「え?」
橙の身体が沈みこみ、私の拳はまともに空振る。
水面蹴り!?
私は強引に足を上げて回避するも、今度こそ本格的にバランスを崩す。
倒れこむ視界の端では、橙が全身の妖気を振り絞り、妖力へと変換していた。
頭上に掲げた両手から、私の身の丈を超えるサイズの妖弾を生む。
……立て直せねぇ。
両腕が顔を庇う暇もなく、橙の放った妖弾は私の身体を吹き飛ばし、爆発した。
* * *
「やっ……た?」
半信半疑で呟く橙。
無理も無い。
今までは体術だけとはいえ、私にまともに触れることも出来なかった。
初めて術まで使って戦い、そして私を吹っ飛ばした。
これは橙にとって快挙を通り越して信じがたいことなのだろう。
まぁ、確かにやってないけどね。
それにしても、正直ここまでや出来るとは思っていなかった。
私は身体を起こして埃を払う。
そして手にした太刀を一閃し、今だ猛る爆煙を切り裂いた。
「え!?」
私の姿を捉えた橙が驚きの声を挙げる。
勝ったとは思っていなかったろう。
しかし無傷とも思っていなかったらしい。
橙が幾ら力を増したと言っても、私との差は桁違い。
先の妖弾は私が纏う妖気に遮られ、私に届いていなかった。
「惜しかったね」
「……っぐ」
橙の顔が悔しそうに歪む。
その顔好いなぁ……って違う。
今は橙を指導せねば。
「悔しがることないよ。良い攻撃だった」
「でも効かなかった……」
「私にはね。でも妖夢辺りだったら有効打になってたよ」
「……」
「へこむなよ。今のお前には妖気を増すこと教えてないんだから」
妖気を効率よく妖力へと変換し、更に術式を与えて形にするのはこれからの課題である。
いつもは私が式を尽けてやっているが、これからは自分で式を編んでいくことも教えないといけない。
下地も出来てきたようだしな。
「でも、いささか驚いたよ。アレだけ出来れば及第点だ……そうさね……」
「藍さま?」
「うん、興が乗った。健闘の褒美に少しだけ、強い私を見せてやる」
「!?」
私は無造作に踏み込むと、太刀を振るう。
橙が鉄甲で受けた瞬間に手首を返して軌道を変える。
打ち降ろしから刺突へ、刺突から逆袈裟へ。
「っつ!?」
橙はこちらの意図が判ったらしい。
私は手数で押し切ろうとしている。
それは橙がもっとも得意なことでもある。
橙は歯を食いしばって私を睨むと、真っ向から太刀を受け止め、鉤爪を返す。
両手の爪と一振りの刀。
そして回転が速く連撃を放ちやすい小柄な身体。
普通ならば、これは橙に分のある勝負。
しかし次第に橙の手数は減っていき、相対的に私の手数が増えていく。
「な……んで……?」
「リズムが悪い。昨今は妖夢でも、この程度の虚実は用いて来るぞ!」
今の条件の中で単純な速さ勝負をすれば、おそらく橙は私より速い。
それでも尚私が押しているのは、この打ち合いが私のリズムで展開されているからである。
そもそも私の腕力ならば、大太刀であろうと片手で扱える。
それを態々両手で使っているのは、その方が遥かに刃の攻撃稼動域が大きくなるからだ。
間隔を空けて両手で持った刀は、手元を僅かに動かしただけで切っ先を大きく変化させられる。
私はこれを利用し、斬撃に幾重もフェイントを掛ける。
小手打ちで鉄甲を弾き、返す刀を顔面へ。
かわされた瞬間に刃を翻し、右薙ぎ。
橙が刀を遮ろうと手を動かした時は、既に横薙ぎは打ち降ろしへ。
「こ……のぉ!」
遂に焦れた橙は、鉄甲で私の刀を押さえに来る。
片手で刀を押さえてしまえば、もう一方の手が開く橙が有利。
だが、見え透いている。
「苦し紛れの行動は相手にとって読みやすい!」
橙の踏み込みに合わせて、私も一歩踏み込んだ。
橙の踏み足が地面に付くより遥かに早く。
「あ?」
橙が気づいたとき、私は肩で橙の胸部を吹っ飛ばしていた。
「ぐ!」
身軽さを生かし、中空で受身を取る橙。
ややふらつきながらも、何とか足から着地する。
同時に橙は私に向かい駆けて来る。
その途中、橙の身体がぶれた。
「幻術?」
四人になった橙は、タイミングを微妙にずらして私に迫る。
狙いは悪くないがね。
「自分の気配くらい隠せド阿呆!」
私は一番右の橙に太刀を合わせて大きくはじく。
しかし私がはじいたのは橙の鉄甲。
どうやら間合いの直前で静止し、鉄甲を投げてきたらしい。
囮か?
「喰らえ藍さま!」
橙は一瞬で妖気を練り、かなりの熱量の火球を生む。
即席にしては、悪くない。
空気を焦がして燃え上がり、橙の火球が放たれる。
あえてかわす事をせず、私は火球をまともに喰らう。
それは着弾と同時に爆裂し、炎が弾けて舞い上がる。
「そんな脆弱な炎で……」
「え……?」
「天狐の姫たる私が焼けるか!」
自身の声と共に、私は抑えていた妖気を開放する。
空間に走った圧力が炎と煙をかき消す。
橙はその様子に呆然としているが、私は思わず苦笑した。
予想通り、自身の妖気が弱いのだ。
それは両手をふさぐ太刀のせい。
私は本来術士であって戦士ではなく、その妖気は武器を嫌う。
片手でも塞がってしまえば途端に妖気の循環が悪くなり、約八割ほどしか廻せなくなる。
それが両手ともなれば、全力の七割に届かない。
こればかりは如何ともし難い、私の体質的な弱点である。
「これが……藍さま……」
本気というには語弊があるが、一々訂正する気も無い。
私の力に気圧されたことが、逆に気付けになったらしい。
橙は一時の自失から立ち直り、その眼光は鋭く私を射抜く。
しかし既に立っていることも覚束ないほど消耗しているようだった。
「それで終いか?」
「……」
「では見せてやる。火球はこうして使うんだ」
私は妖気を練って収束させる。
橙に見せるために、ゆっくりと。
練った妖気を体内で妖力として変換する。
此処までは橙も下手なりに出来る。
問題は此処から。
集めた妖力を形としてイメージする。
形は炎。
今は不可視であるそれを、手で触れることさえ出来る程正確に捉える。
左手の上に火の粉のような小さな狐火が生まれる。
「っひ?」
橙が息を呑む音が聞こえる。
この火の粉だけで、先ほど自身が放った火球の熱量を遥かに凌駕することを悟ったらしい。
私の手の平の上で、狐火が赤から紫へと色を変える。
私は食い入るように炎を見つめる橙に苦笑する。
此処からが本番なんだがね。
私は狐火を上へと放る。
「動くなよ?」
私は太刀を振りかぶり、顔の高さの狐火を一閃した。
同時に焼け石を水に入れたような音が響き、熱風が私と橙を等しく薙いだ。
「ぇ?」
橙の視線は、私が手にした『太刀だった物』に注がれている。
私の太刀は刀身の半分が消滅している。
次の瞬間、轟音が橙の背後に響き渡る。
慌てて振り向く橙が見たものは、私の顔の高さで見渡す限りの木々が焼き切られた光景。
近場のものは完全に炭化しており、遠くの物は崩れ落ちると同時に燃え上がる。
私は一声吼えると雨を呼び、森林火災を防ぐ。
狐の嫁入りを浴びながら、私は橙に歩み寄った。
「ま、こんなもんだ」
橙の肩を叩く。
同時にへたり込む橙。
「大丈夫?」
「ぁ……はい……」
心身共に限界の所へ、この光景はショックだったらしい。
こうしていても風邪引くな……
私は未だ呆然と炎を眺める橙を背負った。
「藍さま!?」
「いいから、そのままにしてな」
「でも……」
「なぁ、橙よ」
「……」
「今日は、よくやったな」
「……はい」
橙が私に掴まると、そのままコテージへと足を運ぶ。
転移を使えば一瞬で済む。
しかし橙には悪いが、私はもう少しこうしていたかった。
冷たい雨に打たれながらも、橙を乗せた背中だけは温い。
子どもは体温高いな……
「藍さま……」
「ん?」
「……私、絶対強くなりますから」
「ああ」
橙が背中にしがみ付くのが解る。
私の肩に食い込むほど、その手が握り締められた。
歯痒いだろうな……
私にも紫様にも遠く及ばぬ自分。
しかし背中の子猫は知らぬだろう
自分がこの年の頃の私など、既に追い抜いていることを。
コテージに着くまで約五里。
私は橙の涙を知らぬ振りしていた……