夕餉の洗い物を片付け終えると、暫しの時間が空いてしまった。
普段ならば予定が詰まっているだけに、こんな時はどうしていいのか、ちょっと困る。
……まあ、折角できた暇だ。橙と一緒に茶でも飲もうか。
そう思い立てば、私の行動は早いものだ。無為に時を過ごす趣味など、私は持っていない。
戸棚から取り出した急須に茶葉を入れ、湯を注す。
なに、そう大層な茶葉は必要ないだろう。どうせ飲むのは私と橙だ。
嘗ては肥えていたこの舌も、今ではすっかり庶民の味に慣れている。
これも紫様と共に過ごした結果だろう。ああ、考えてみてれば中々に可笑しなものだ。
ん、いかんな。
思わず歪んだ口元を直して、橙、と呼び掛けた。
そうすれば、すぐさまあの子の元気な返事が返ってくる。
ふむ。縁側の方か。
急須と湯呑みが載った盆を片手に縁側を覗けば、やはりそこには橙が居た。
何も履いていない裸の足を縁側から下げて、ぶらぶらと揺らしている。
それに対応するように、スカートから覗く尻尾もゆらゆらと。
一歩、私が近付いたら、茫洋と空を眺めていた視線がこちらに向いた。
鳶色の瞳が私を捉えれば、橙の顔に快活な笑みが浮かぶ。
底抜けに明るい、純真なこの子の表情には酷く安心させられる。
私は橙の隣に腰掛けて、くしゃりと頭を撫ぜてやった。
途端、愛らしい顔がだらしなく歪む。
普段は悪戯っぽく笑う唇も、今は力の抜けたように開けられている。
幸せだ。
きっと、今の私の顔は馬鹿みたいに穏やかなんだろう。
それこそ昔、あの方の笑顔を見ていた時みたいに。今では滅多に見せてくれないからな。
ああ、懐かしいな。刹那の如く過ぎ去った時間だが、何より印象深いものだ。
たしかあれは――――――ん?
とと、いかんな。今は橙の相手をしなくては。
すまんな、橙。
茶を注いだ湯呑みを渡せば、嬉しそうに受け取って、すぐさま口に含む
まだまだ熱いんだがな。……ああ、ほら。それ見たことか。
舌を出し、涙目で見上げてくる橙の頭に手を置いてやる。
落ち着きが足りないところは、この子の欠点だな。
なに、私は長生きだ。これからも色々と教えてやれるさ。
二人揃って、ぼんやり庭を眺めてる。
ズッと茶を啜る。橙はまだ舌が痛いらしい。
しかし、茶を飲むだけではなんだな。
――――――……
――――……
――……
ああ。
何か話題を考えて、そういえば、と思い至る。
どうして橙は空を見上げていたのだろうか。
朔の夜空を眺めたところで、そう面白い事など無いだろうに。
問うてみれば、なるほど、簡単な話だ。
私の真似をしたと言う。たしかに、朔日に夜空を眺める事は半ば習慣となっている。
しかし、あれだな。中々に恥ずかしいものがあるというか――――。いや、嬉しいのだが。
あ~、橙も最近は立派になってきたしな。
少し話してみようか。昔の事でも。
……そんなに嬉しいのだろうか。
はしゃぐ橙に、口元が綻んでしまう。
見上げれば、暗い昏い夜空を舞台に、幾つもの八重雲が浮かんでいた。
ああ、なるほど。
実に――――――実に、良い夜だ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
なあに、昔々の事だよ、橙。
お前が生まれるよりも、幻想郷が出来るよりも、ずっと昔の話だ。
私は中国、天竺、日本という三國を叉に掛けた大妖怪だったのさ。
ああ、強かったよ。今はそれ以上に強いがね。
その当時は、私に敵う妖怪に出会った事など無かったし、私よりも美しい存在など知らなかった。
ん? ありがとう。橙も凄く可愛いと私は思うぞ。
特にこの耳などが私は好きだ。おお、すまん。くすぐったかったか。ははは――――。
…………こほん。
なに。それで私は上手い具合に時の権力者に取り入って贅の限りを尽くしていたのさ。人間のフリをしてな。
今の私から見れば、酷くつまらない生活だったがね。
――――それは偉い人って意味だ。橙はもう少し勉強が必要だな。こら、露骨に嫌そうな顔をしない。
んんっ。それで、だ。
あいつらは言葉一つで万の人間を動かせるし、その財は膨大だ。
そんな奴らだって、私の笑顔一つで言いなりさ。だから、その頃は色々と無茶をしたもんさ。
例えば……そう。
幾千の人間を処刑した事も、数え切れないほどの宝石を貢がせた事もあったかな。
全ては退屈凌ぎの戯れだったがね。
あんまり面白い生活じゃないさ。何の価値も無い、煤けた思い出だな。
昔はそう感じなかったが、今、振り返ってみればね。
多くの男が私の虜になって、身を滅ぼしていったよ。
別に何も感じなかったな。今だって感じないだろうさ。
所詮はどうでもいい阿呆ばかりだったからな。
ああ、橙。色に溺れた男ほど愚かな奴もいないぞ。周りが何も見えていない。
だから気をつけろよ。夜道で知らないオジさんに声を掛けられたらすぐ逃げろ。お姉さんでもヤバイかもしれん。
…………橙はまだ知らなくていい事だ。
あ~、うん。
私はそういった風に長い時を過ごしたんだ。
ただな、何時の時代でも私の正体はバレてしまってね。何度も苦労したものさ。
それでもいつもは見事に逃げ果せて、追っ手を馬鹿にしながら次の獲物を探していたよ。
あの時は違ったけどな。
ん? およそ千年ぐらい前の話だよ。多分。
ちょっと遊びが過ぎてね、お上から私の討伐命令が下ったのさ。
それで、色んな所から色んな術士が集められて、私を殺しに来たわけだ。
笑い話にもならないような思い出だね。
――――ああ。そいつは今日みたいな、新月の晩の事だったよ。
どうってことないと思ってたんだ、私は。
普段通りに、軽くあしらって終わりだと考えてたんだ、私は。
けどまあ、人間ってのは時として予想外の働きをするものでね。
あの時が正にそうだ。
奴らはしぶとくてしぶとくてしぶとくて。
何時までも粘って粘って粘って。
それこそ最後の一人まで抗って抗って抗って。
――――――私を、殺そうとしたんだよ。
連中に何があったのかは知らないが、死を感じたのはあれが初めてだったな。
全身に傷を負わされて、妖力も底を尽きかけて、正しく死に体だ。はは、やっぱり笑い話かもしれんな。
こらこら、そう腹を立てるな。ほら、私は生きているだろう? 勝ったのは私だよ。
一人残らず屠り尽くしてやったさ。
――――……
――……
そうそう。少し落ち着け、橙。
ほら、茶でも飲もう。
…………はぁ~。
いやいや、こんな茶の一杯だけで幸福に浸れるあたり、私も随分と安上がりになったもんだ。
ふむ? 当然だろう。橙が居るだけでも私は幸せだぞ。勿論、紫様もな。
はははっ。そうか、そうか。ありがとう。……涙じゃないぞ。
おほん。閑話休題、だ。
あ~、それはさておき、ということだ。ほら、そろそろ話を戻そう。
たしか……私が辛くも勝利を収めたところからだったか? そこからだな。
まあ、そんな死に掛けの私だったわけだが、最後の気力を振り絞ってそこから離れたよ。
次の奴らが来るかもしれなかったからな。悔しいけど、その時の私は人間に恐怖を感じていたのさ。
当て所もなく、いや、そんな事を考える余裕もなく、私はフラフラと彷徨っていた。
さっきも言ったが、新月の晩だ。人間が攻めて来るなんて予想も出来ないほどの、暗闇だ。
オマケに視界は霞むしで、どんな風に飛んでいたのか記憶に無いときた。
それでも……それでも鮮明に覚えている事がある。
どこぞの山奥まで逃げ込んで、私は遂に倒れた。
周りを囲むのは木々ばかり。目に映るものは、既に無かったよ。
ふふ。大丈夫だ。私はこうして生きているからな。
そうさ。その時に現れたのが紫様だよ。
音も無く、気配も無く。それこそ唐突に、あの方は私の目前に降り立った。
気付けたのは、どうしてだろうな。やはり紫様だったからだろうな。
既に闇しか映していなかった私の瞳に、しかしあの方だけは輝いて見えたよ。
唯一点、白く浮かんだその容貌を、私は忘れる事が出来ないんだからね。
酷く美しく、それでいて何処までも冷え切った御方だったよ。
あの金の瞳は、果たして私を映していたんだろうかと、今でも悩んでる。
生まれて初めて感じる圧倒的な力と、この世の物とは思えぬ美貌。
負けた、と思ったね。敵わない、と感じたね。
私だって世に名を轟かせた大妖怪だ。それなりに矜持は持っていた。
けれどそんなもの、あの方の前ではあまりに無意味。
一も二も無く屈服したよ、本能が。ただ出会っただけだというのにな。
あの時の私は、さぞかし間抜けな顔をしていただろうさ。
想像できないか? そうだろうな。紫様は変わられたから。
ただ、覚えておけ橙。お前の主の主は、遥か高みに存在しているという事を。
今では当時のように振舞わないだろうが、それでも強大な事には変わりない。
ん。いい子だ。
――――……
――……
それからの事は、まるで覚えてない。
気付けば布団に寝かされていて、あの方の式神になった事を告げられたよ。
淡々と、感情を滲ませない口調でそれだけをね。流石に混乱したさ。
どうして式神にしたのかも、私のするべき仕事も、何も教えて貰えなかったからな。
しかし訊ねるのも恐れ多く思えて、布団から出られるようになるまでの数日間、悩みに悩み抜いたもんだ。
はは。怖かったのさ。
殺されるとか以前に、あの方に意見する事が。想像するだけでも背筋が震えたよ。
それこそ絶対だったのさ。八雲という妖怪の存在は。
そうして考えた結果に達した結論は、強くなる事だった。
力を上げて、あの方に刃向かう連中を残さず消す事だと思った。
なに。世間知らずのお嬢様だったのさ。ま、他に何も出来なかったというのもあるが。
――――――……
――――……
――……
それから何百年と同じような日々が続いたよ。
その間、私はずっとあの方に怯えていたかな。
一挙手一投足に過剰に反応して、ご機嫌窺いに奔走していた覚えがある。
……それに意味が無いと感じ始めたのは、何時頃だったかな。
完璧というのは、あの方の事だと思ったよ。
武に於いては千の妖怪を軽く踏み越え、智に於いては一国の歴史よりもなお深い。
出会った当初から人間のような生活をしていたが、家事に於いても隙無しときたもんだ。
私に出来た事と言えば、ただ日々の生活の中で邪魔にならないように生きる事だけだったよ。
己が糧を得、己が敵を討つ。
自分の部屋は自分で掃除し、自分の衣服は自分で洗濯する。
同じ場所に住んではいたけれど、私達は共に生きていた訳ではなかった。
なにせ紫様が私に話しかけられた回数など、両の指で数えられるほどだ。
何を思って私を式にしたのか、本当に理解できなかった。今も正確には分からない。
やはり……戯れ、だったのかな。
ふふ。そう心配するな。紫様にも色々と御ありだったんだよ。
それにほら、今はお前も知っての通り仲良しだ。
ああ。それから……うん。ある日の事だ。
紫様が傷を負って帰って来られた。いや、あの時は焦ったもんだ。
一体どんな化け物が現れたんだ、とな。しかもよく聞けば負けたという話。
ははは。本気で夜逃げしようかと思ったよ。結局しなかったけどな。
――――本当に、逃げ出しても良かったのかもな。
紫様が本気を出せば、私なぞ数分と持たずにやられるだろう。
その紫様を倒す存在など、正直関わり合いになりたくなかった。
私が逃げたところで、きっとあの方は気にも留めなかっただろうしな。
まあ、それでも居残ったのは、長い時を過ごす内に、情でも湧いたからだろう。
――――……
――……
何でもないよ、橙。
まぁそれからは……ああ、そうだ。
その頃から少しずつ、紫様が私と話されるようになってきたんだ。
毎日のように何処かへ出掛けて、帰ってきたら他愛も無い事をお話になる。なんて事の無い生活だよ。
やはり紫様への恐怖はあったし、あの方も殆ど表情を動かさなかったけど、楽しくもあった生活だった。
えっと、だな。その……なんだ。
毎日毎日、紫様が帰ってきて話されるのを私は待っていたんだよ。
部屋を掃除して、飯なんぞを作ったりしてな。まぁ時には眠ってしまう事もあったが。
あ、こらっ! 笑うなっ!
…………まったく。少し茶でも飲んで――――って、もう無いのか。
まぁいい。もうちょっとだしな。
毎日お話しになる紫様の表情にも段々と色が付いてきたんだよ。
それを見ていると、私も妙に心が浮き立ったもんさ。
そしてあれは、ちょうどこの幻想郷が出来た時だったか。
夜遅くに帰ってきた紫様が笑っておられたんだ。
何百年と主従の関係にあった癖に、あの方の笑顔を見たのはその時が初めてでな。なんとも情けない事だが。
ああ、思わず見惚れてしまったよ。
如何に見事な花であろうと、あれには敵うまい。
それから私を見付けると、『藍』とお呼びになったんだ。
つまり、私はその時に名付けられたのさ。
――――……
――……
ははは。不覚にも涙を流してしまったよ。あんまりにも嬉しくてね。
それからだろうな、私が本当の意味であの方の式神となったのは。
まあ、私の心というのも中々に現金でな、何時の間にやら恐怖を忘れて、憧憬と親愛を感じていたよ。
くくっ。そうむくれるな。
お前は愛しく大切な、私の式神だよ。
……橙も大概現金だな。似た者主従というわけか。
さて。その時から少しずつ私は家の事を任されるようになったんだ。
何とかして紫様の役に立ちたくて、毎日一生懸命に頑張っていたよ。
紫様に追い付くのには苦労したが、それでも、あの方の笑顔が好きだったからな。
そういえば、色々と出会いがあったのも、この時期か。別れもあったが。
はは。秘密さ。
お前にも話せない事はあるんだよ。私にも、紫様にも。
なあに、まだ早いというだけさ。
いずれ橙が『八雲』の姓を名乗れるようになれば、その時に話してやろう。
いい子だ。その意気だぞ、橙。
さて、それじゃあ少し結界の様子を見てこようか。それで今日の仕事はお終いだ。
~つづく~
なのにその一つ一つの場面がありありと思い描けるのは何故なのか。
言葉というものは不思議ですね。使い方一つでこんなにも綺麗になる。
一人語りだというのに、橙がどういう動きをしているか、藍がどんな仕草をしているかがはっきりと分かる。
そして、優しい藍の笑顔も。