空に浮かぶ十六夜の月を、ルナチャイルドはまんじりともしないで見上げている。
夜は長く、月は遠く。
手を伸ばせばつかめそうな気がする月を、ルナはじっと見つめている。
高い高い、幻想郷を見渡せそうなほどに高い樹の枝の上。
妖精が生まれる何百年も前から幻想郷を見守ってきた樹に寄りかかるようにして、ルナチャイルドは座っている。
スターサファイアもサニーミルクも傍らにいない。
ただ独りきりで空を、月を見上げている。
何をするわけでもない。
ただ待っているだけだ。
時折、暇をもてあましたその手が、自らのロールした髪に伸びるくらいで、視線は月から外れない。
くるくるくる、と指を回す。
くるくるくる、と髪が回る。
月はゆっくりと昇る。
時計の針の如き、遅々とした動きで。
時計の針の様に、定められた速度で。
休むことなく昇っていく。
止まることなく月は昇る。
地球の重力に逆らうかのように、高く、遠くへ。
満月に最も近く、最も遠い月は、空の頂を目指し続ける。
満月、ではない。
ほんの少しだけ欠けている。一目見ても判らないような、人目で見ても判らないような欠け。
夜に生き、月の満ち欠けに左右される妖怪や――月の光の妖精であるルナにしか判らないような欠けだ。
欠けは小さい。
けれど、それは無視できないほどに重要なことでもあった。
なぜならば、一度欠けてしまった月は、満月とはまったく別の存在になってしまう。
少しでも欠けてしまったら、あとはボロボロと崩れていくだけだ。
ボロボロと崩れて、完全に崩れ落ちてから、月はもう一度生まれ変わる。
生まれかわった月は、十五日をかけて成長し、満月になる。
その繰り返し。
三十日をかけての、月の生まれ変わりだ。
それは『良い』ことでも『悪い』ことでもない。そういうものでしかないのだ。
崩れかけた月も、生まれ始めた月も、月であることに変わりはない。
永遠は、傷がついても永遠のように。
どんな姿であれ、それは月なのだ。紛れもなく。
しいて違いがあるとすれば、それは月の機嫌のようなものだとルナは思うのだ。
満月は、にっこりと笑った月。
新月は、恥ずかしがりやの月。
三日月はぶっきらぼうなお澄ましさん、という風に。
満ち、欠ける月は、表情多彩で、日ごとに貌を変える。
ルナは空を見上げる。
深く暗い藍色の空が、吸い込まれてしまいそうな空がどこまでも広がっている。
そこに浮かんでいるのは、金平糖をばら撒いたような星々と、ひときわ大きい丸い月。
天の頂にさしかかった、ほんの少しだけ欠けた――散り始めた桜のような月。
十六夜の月を見上げて、ルナは思う。
さしずめ、今日の月は――
きらり、と。
そのルナの視界の中、何かが光った。
始めは、光が瞬いただけかと思った。夜空を真っ黒な鳥か何かが飛んでいると、一瞬だけ視界が遮られて光が瞬くように見えるからだ。
すぐに違うことに気づいた。
それは、瞬いただけではなかった。瞬きながら、輝きを強めながら、徐々に近づいてくるものだった。
ルナが待ち望んでいたものが、ようやく来たのだ。
ソレのために、ルナは眠りもせずに、一心に月を見上げていたのだ。
一ヶ月に一度しかない、この日この夜にしかない、大切なイベント。
十六夜の日、十六夜の夜、十六夜の月。
それは、欠けた月の欠片が地上へと降り注ぐ夜だ。
ルナの見つめる中。
闇に見守られる中。
音もなく、夜の欠片が堕ちてくる。
■ ■ ■
空から物が落ちてくる、ということは、こと幻想郷において珍しいことではない。
閉じられた楽園幻想郷においても、外からのものは絶えず流れこんでくる。大きいものから小さいものまで。
それがつまらないものかどうかは、拾ったヒトが決めることだけれど。
大抵流れ込んでくるものは、外の世界で非常識なもの、常識から外れてしまったもの、存在しなくなったものだ。
そして、初めから存在しない幻想のモノも、時折どこかから流れこんでくる。
幻想郷とは、その名の通りに、現世とは常識で切り離された幻想の世界なのだから。
空から――宇宙から落ちてくるものは、特にその比率が高い。
宙は、それそのものが幻想のモノなのだから。
近くにありながらも決して届かないもの。認識の上でしか存在しないもの。
それこそが、幻想と呼ぶにふさわしいものだ。
十六夜の夜に宙から降り落ちるモノ。
それは幻想の品だ。現実には存在しない、幻想の世界の品物。
月が欠け落ちるこの夜にだけ手に入るモノだ。
もちろん、宇宙の果てにある月が本当に欠けているわけでも、欠けた月の破片が38万キロの真空と博麗大結界を突き破って堕ちてくるのではない。あくまでも、『月の欠けたモノ』という認識の上にある幻想が堕ちてくるのだ。
今夜、ルナがひたすら月を見上げていたのは、その堕ちてくるものを拾いに行くためだ。
――ルナチャイルドは、月の光の妖精だ。
月からこぼれる光の妖精。月の影響を受けて生きる妖精。月の子供、ルナチャイルド。
彼女が十六夜の刻に出歩くのは、月から落ちてきたモノを拾い集めるためだ。
拾い集めて何をするか、というのは特にはない。
拾い、そして集めること自体に意味があるのだ。
月の妖精は、その力を、月によって変化していく。
満月のときにもっとも強く。
新月のときにもっとも弱く。
月の眠る昼間には大人しく。
くるくると外からの影響で力を変える。陽の影響を受けるサニーのように。外の影響を受けないスターとは正反対に。
なら、とある日ルナは考えたのだ。月から堕ちてくるモノを集めて、一ヶ所に全部溜めていけば。
地上の月が作れるのではないかと。
空に月があろうとなかろうと、常に強くあれるのではないかと、ルナは考えたのだ。
まるでジグソーパズルのように。
欠片を集めて、形を整えて。
いつの日にか、小さな小さな満月を作るかのように。
でこぼこでツキハギだらけの月を、自らの元に作り出すかのように、ルナは月の欠片を集めた。
それはもちろん、不遜で、適うはずのない考えだった。空に浮かぶ月は、全ての人のものであり、一個の妖精が手に入れられるものではない。月を自らのものにできるのは、それこそ月に匹敵する実力をもつものだけだ。
それは例えば、永遠と須臾を操る程度の能力を持つ者だったり。
それは例えば、密と疎を操る程度の能力を持つ者だったり。
そういう強者であり、同時に長く生きた古いものでもない限りは、月をどうこうなどできないのだ。
妖精にできることは、月を見上げ――月を愛することしかできない。
そういう意味では、ルナの行為は半分正しく、半分間違っていた。
月の欠片を集めても、ルナの力は変わらない。
けれども。
『月の欠片』そのものは――たとえルナの力が変わることはなくても――たしかにルナのものだった。
可愛らしいウサギの人形。
古びた剣玉。さらに古い土偶。
星のちりばめられた旗。
集めた品たちは、たとえ何の意味をもたなくとも、ルナのものだった。
欠片は欠片だ。どんなに集めても月になることはない。
それでも、欠片だらけのルナの部屋は(少なくともルナにとっては)天の川のような美しさを誇っていたのだった。
……というわけで、今夜もルナは月の欠片を探し求めていた。
実を言えば、捜す必要はあまりなかった。
全てのものには引力がある。
物と物は引かれ合う。月の妖精であるルナは、無意識の範囲で月の欠片に引かれてしまう。
ルナが月の欠片を集めているのか、月の欠片がルナに集めさせているのか、それは誰にも判らない。
ただ、漠然とした感覚にしたがって、ルナは月の欠片を求めた。
求めて、夜闇の中を、ふらふらと飛ぶ。
風を切って飛べたらいいのに、と思ったことは一度や二度ではない。妖精の羽では速度は出ない。風にのってゆっくりと飛ぶのが精一杯だ。
こんな月の奇麗な夜に、思い切り風を切って飛ぶのは気持ちよさそうだと、ルナは思うのだ。
夜空に浮かぶ月を見ながら、ゆっくりと飛ぶのも、嫌いではなかったけれど。
飛ぶというよりは流れるというように、ルナは進む。
魔法の森に立ち生える、木々の間を縫うようにして。
月明かりだけを頼りに、ルナは飛ぶ。
月の欠片の堕ちた場所へと。
魔法の森の最奥へと。
月が一個分動くだけの時間をかけて、ルナはそこへたどり着いた。
そこには――闇が倒れていた。
闇は少女の姿をしていた。金色の髪と、闇色の服を着ていた。赤いリボンと靴を履いていた。
ふわふわと揺れうごめく闇を出す少女は、地面にうつぶせに倒れて、頭から煙を出したまま、ぴくりとも動いていなかった。
小さな頭には、でっかいたんこぶが出来ていた。
頭の隣には、蒼く光る宝石が二つ。もともとは一つだったのが割れて二つになったらしい。断面部分がまっ平らだった。
アレが頭にぶつかったのだろう。
そしてあの蒼く光る宝石は月の欠片だ。そのことにルナはすぐに気がついた。
迷わずに拾う。二個の、自ら発光する石を右手に握る。
ほんのかすかに、あったかい気がした。
が、それを確かめるのは後回しだった。
今は、何はともあれ、倒れたまま動かない少女が気になった。
――ひょっとしたら死んじゃったかもしれない。
そう不安に思いながら、恐る恐る少女へと近づき、
「……生きてる?」
つん、と指先で頭をつついてみる。
一度、
二度、
三度目は少しだけ強く。
劇的な反応があった。
少女はいきなり跳び上がり、不定形にぐにゃぐにゃとしていた闇の塊が一気に巨大化した。ルナをも飲み込む闇が広がり、何も見えなくなった視界の中で何かが風を切って飛ぶ音と、「ここどこー!?」という少女の声が聞こえ、その一瞬後に何かが何かにぶつかる痛そうな音が聞こえた。
闇が消える。
月の光が戻ってくる。
木の根元。幹に頭からぶつかって、痛そうに頭を抱えている少女がそこにいた。
サニーに似ている、とルナは思う。
容姿が、ではない。朝起きて寝ぼけたまま飛んでしまい天井に頭をぶつけるサニーと、今の少女の行動が似通っていたのだ。
初めて会った相手なのに、妙に親近感がわいたのはきっとそのせいだろう。
ルナは少女の下へと駆け寄り、声をかける。
「大丈夫?」
「大丈夫……なのかー?」
「なのよ、きっと」
「なら大丈夫。うん、大丈夫ー」
少女は明るい声で言って立ち上がる。頭のコブは大きかったけれど、平気そうに笑っていた。
きっと妖怪なのだろう。あまり賢い妖怪にも、強い妖怪にも見えなかったけど、ルナはそうアタリをつけた。闇を作る妖怪。夜の妖怪。
同じ夜に生きるモノなのだとわかって、少しだけ嬉しかった。
「いきなりヘンなのがぶつかってきて、死ぬかと思ったわー」
頭を撫でながら、少女は恥ずかしそうに笑ってそう言った。
「痛くないの、それ?」
ルナの言葉に、少女は首を左右にぶんぶんと振る。
「ううん、慣れてるしー。いっつも木にぶつかってるから、これくらいは平気なのよー」
「いつもぶつかってるの? どうして?」
「昼間は闇を出してるから、何も見えないのよー。おかげでしょっちゅう木にぶつかったりするわー」
「それは、」
そこでルナは言葉を切る。
それはアホね、といつものように言いそうになったのだ。
さすがに初対面の相手にそれを言うのはあんまりだと思い、ルナは別の言葉を捜す。
「それは、大変ね」
「そう、大変なのよー」
――そうさ、そうとも、そうともよ。大変なのさ、でもそんなことは大したことじゃなくってよ。私ったらリッパな妖怪さんで、ちょっとやそっとじゃびくともしないんだから。
そう思ったかどうかは定かではないが、ともかく少女はえっへんと無い胸を張った。
その顔には満足げな笑みが浮かんでいる。別に満足するようなことは何もしてないのだが、それでも幸せそうだった。
つられて、ルナも微笑んでしまう。
誰かが笑っていると、つられて笑ってしまうものだ。
幸せが広がっていくように。
「それ、なにー?」
少女が、ふと気づいたように、視線を下に落とした。
その先にあるのは、ルナの手だ。握り締めた指の隙間から青白い光が漏れている。
「これ? これはね、」
ルナは手を顔の高さまで上げ、少女の見ている前で、ゆっくりと握りこぶしを開く。
光は、蒼い宝石の光だった。
月の欠片から漏れ出る光だった。
「奇麗でしょ。これ、月の欠片なのよ」
「そーなのかー」
少女は、目を輝かせて覗き込んできた。赤い瞳の中に、蒼い光が飛び込んでいる。
興味津々であることは、すぐにわかった。
同時に、少女がその石に惹かれていることも。
悩んだ。
ルナは考え込んだ。どうしよう、と。
思い出す。宝石は割れて、二つになったことを。
そして、ここにいるのは、二人だということも。
悩んだ。
これは自分のものだ。月の妖精である自分のものだ。そういう考えなかったとは言えない。
けれども。
少女に当たって二つに割れた――なら。
この石の半分は、少女のものだと、そう思ったのだ。
「ねぇ、」
と少女に声をかけたときも、ルナはまだ悩んでいた。
少女が不思議そうにルナの瞳を覗き込んでくる。ちょうだい、と懇願する色はない。どこか楽しそうな表情。
きれいなものを見れて嬉しい。
めずらしいものを見れて嬉しい。
物欲などなく、ただただそう思っているような――そんな表情だった。
決め手になったのは、その表情だ。
物に固執する自分が、なんとなくみっともない気がしたのだ。
いつの日にか、サニーミルクに言われたことを思い出した。
美味しい餅の絵を――という言葉を。
美味しい餅は、皆で食べるのだから美味しいのだ。ふと、そんな言葉すら頭に浮かんだ。
だから、言った。
「あげる、これ」
二個ある宝石の欠片のうち、片方をルナは指でつまんで、少女へと差し出した。
蒼く光る宝石をつきつけられて、少女は小首をかしげる。
その目が無言でこう語っている。
――どうして、と。
単純にどうしてくれるのかわからない、といった顔だった。
ルナは少しだけ視線をそらして、少女の頭の赤いリボンを見ながら、少しだけ早口で言った。
「昼間、木にぶつかるって言ってたから。それがあったら、灯篭代わりにはなるし。……ソレ、月の光の宝石だから、あなたも嫌いじゃないでしょ?」
うん、と少女は首を振る。
夜中を生きる妖怪や妖精は、総じて陽の光が苦手だ。
陽の光は強すぎて、まぶしすぎるのだ。
それに比べ、月の光は控えめに、優しく照らし出してくれる。
闇夜の妖怪と思しき少女も、月の光なら大丈夫だろう――そう思ったから、渡した。
夜闇の中、行くべき道を照らし出してくる灯台のように。
宝石が役に立ってくれればいいと、ルナは思ったのだ。
「……いいのー?」
「いいの。いらないならあげないけど」
「いる! いるいる!」
す、とさげかけたルナの手から、少女は蒼い宝石をすごい勢いでひったくった。
その様子を、ルナは微笑ましいとさえ思った。
隠し切れない、隠そうともしない素直な心が見て取れたから。
「無くさないようにね」
ルナの言葉は、もう半分以上届いていなかった。
少女は、貰ったばかりの宝石に、完全に魅入られていたから。
口を半分ぽかんと開き、目をまん丸に開いて、一心不乱に宝石を見ている。
蒼く光る、美しい宝石。
それがムーンストーンと呼ばれる宝石であることを彼女たちは知らない。
ルナにとっては「月の欠片」であり、少女にとっては「不思議で奇麗な石」でしかないからだ。
名前は大切だ、とどこかの誰かが言った。
けれども、今、名前は必要ではなかった。
奇麗な石がそこにある。美しい夜がここにある。
一夜だけの、素晴らしい出会いが、今、ここにあった。
二人の少女は、それだけで満足だった。
「じゃあ、ぶつからないようにね」
そう言って、ルナは踵を返す。
月はもう、寅の方位へと差し掛かっていた。もう夜が明ける。陽が昇ってくる。
月が沈む。
夜が終わる。
そうなる前に帰ろう――家へ。樹木をくりぬいて出来た、温かい寝床へ。
振り返らず、まっすぐに飛び去るルナ。
その背中に。
「――ありがとー!」
本当に嬉しそうな、心の底からの感謝を伝えてくる、少女の声が届いた。
ルナは振り返らない。
少女の腕をぶんぶん振っている腕を、なにかの合図のように左右に揺れる蒼い光を、満面の笑みを、振り返るまでもなく想像できたからだ。
そして、ルナもまた、笑っていた。
月が奇麗だ。欠けた月も奇麗だ。
なんて素敵な夜だったのだろう――知らずのうちに微笑みながら、ルナはそんな事を思っていた。
わずかに欠けた、満月に最も近く、もっとも遠い月。
月から欠片が降り注ぐ夜。
その欠片を、ルナは、涙だと思った。
それは決して悲しみの涙でも、後悔の涙でもない。
嬉し涙だ。
感極まって、幸せすぎて、こらえきれずに一滴だけ落ちた、月の涙だ。
静かな夜。
ルナの手の中。
少女の手の中。
音もなく、月の涙が輝いている。
(あとがき【特別でない364日の楽しみ】 に 続く のかもしれない)
君に受け継がれたのだ。
ルーミアかわいいよルーミア。
しっとりとした読後感……が、後書きでぶち壊されました台無しだぁっ!w
楽しいこと、素敵なこと。独占するより、共有すること。
失うようで、実はそれは乗算なのかも。だから結果的には増えている。
月の子供の静かな一夜、お見事でした。
二人の間で行われたことは二人が共有した欠片のように美しく輝いていたのかもしれない…。
とても素晴らしいお話を有難うございました。
幻想的な月の夜の描写、可愛くて素直なルーミア。
どれをとっても素敵なSSでした(多謝
空から石が降ってきた!!
滅びの呪文は、乱用ダメ、ゼッタイ。なんちて