夕方から降り始めた雨はますますその勢いを増し、日が暮れた今もざぁざぁと雨音を響かせている。椅子に座ったまま手を止めて顔を上げると、窓に張り付いた雫が絶え間なく滝のように流れ落ちていた。風も強いらしく、ごうごうと木々の騒ぐ枝鳴りが低くこだまする。時折思い出したように、窓の外で閃光が瞬き――数秒遅れて雷鳴が轟いた。
髪をかきあげて嘆息する。このまま雨がやまなければ、今夜はここに泊めてもらうしかない。
アリスは手元の人形に一度視線を落としてから、店の奥でいまだにごそごそと作業している店主に声をかけた。
「やっぱりないかしら?」
「うん……残念だけど、なさそうだね。うちに置いてある糸は、そこにあるので全部だよ」
さっぱりした否定が返ってきたが、店主は律儀に最後まで在庫を調べてくれるようだった。中腰のまま箱をひっくり返しては、得体の知れないガラクタをためつすがめつ眺めてから戻していく。
霖之助が用意してくれた糸は、普通に裁縫で用いるには十分な品質ではあった。しかしこれでは……人形繰りに使うには不十分なのだ。
アリスは再び手元の人形を縫いながら――こっちの糸は霖之助が売ってくれたものを使っている――糸の予備を切らしてしまった自分を反省する。
まぁ、いつもそれ用の魔法の糸は自分で紡ぐので、そう簡単に見つかるものでもない。近頃の天候のせいで材料が手に入らなかったことも恨みつつ、彼女は無言のまま店の隅で暇つぶしの人形作りに励んでいた。
「やっぱりなかった」
横目で声のほうを見ると、霖之助が箱を片付けながら顔だけこちらに向けていた。ついでに整理したのだろう、彼の足元には箱から取り出されたガラクタが山になっている。
はじめから期待してもいなかったので、アリスはこくりとうなずきだけを返した。それよりも雨のほうが問題だ。
「ありがとう。まぁ、仕方ないわ……あの、申し訳ないんだけど、雨がやむまでここにいさせれもらえないかしら」
「もちろん構わないよ。いくら歩き慣れていても、こんな雷雨の中魔法の森を歩くのは賢明とはいえないしね」
霖之助は快諾して、店内に商品を並べ始めた。
アリスは腰掛けたままぺこりと頭を垂れると、また針を取って手元をちくちくと縫っていく。彼女が人形を作るときは決まって自室であったが、意外にも香霖堂はそれと同じくらい馴染みやすく、いつもどおり落ち着いて作業できた。霖之助と波長が通じるのだろうか、不思議と安心感に包まれるような感じだ。
ただ静かに時間が流れる。
黙々と手を動かすアリスと、商品を真剣に眺める霖之助。沈黙にぎすぎすした空気はなく、どちらかというと言葉のないほうがこの店にはふさわしいのかもしれない。ますます心地よかった。
そうしてしばらくアリスが人形作りに没頭していると、彼女が道具置きに(一方的に)借りたテーブルへ湯気の上るマグがことりと置かれた。ふと顔を上げると、霖之助が彼のカップに口をつけながらアリスを見ている。
「ありがとう」
自然に笑みを浮かべ、アリスは運ばれたマグを傾けた。深いコクと程よい甘みが口の中いっぱいに広がる。……これはチョコレートか、さては隠し味に塩もごくわずか混ぜたな?
「よかったかな、ホットチョコレートで。コーヒーや紅茶やお酒やその他なんかもあったけど」
「ううん、とても美味しい。チョコレートを飲むのはずいぶん久しぶりだわ、魔界にいた頃は、よく神綺様に作っていただいた……」
美味しい。懐かしさもあいまって、胸をくすぐられるような気分になる。
霖之助は「それはよかった」と言って店主の席に戻り、やたらたくさん積まれている新聞を一枚広げ、難しい表情で読み始めた。あれは天狗の新聞だろうから彼のように真面目な表情で読むのはどこまでもずれているような気がするが、霖之助はアリスが読むのと同じ視点から読むとは限らないから、彼なりに有意義に読んでいる、のだろう、か……
――いつの間にか霖之助を目で追っていた。
慌てて視線を落として人形に集中する。白黒ストライプのスーツを縫っている途中で、気づかないうちに針が見当違いの方向へずれようとしていた。
目を閉じ、一度息を吸ってからため息のように吐き出す。頭を切り替えて手元を落ち着けて、あとできるだけ横を向かないように注意しなければ。
すっ、さー。チョキチョキ。さっさっ、ぺたし。チクチクチク……
型紙に布を重ね、色鉛筆で輪郭をなぞる。裁ちばさみでそれを正確に切り分ける。他パーツと合わせる部分は、縫い目が見栄えよくなるように決まった手順で折りたたまなければいけない。そしてあとはひたすら一定のリズムで縫い付けるのみ。
チクチクチク……
ふと。
数分前の自戒をあっけなく破って、アリスは顔を上げた。なんとなく気配というか、空気の流れが気になったほうを見ると、新聞片手にこちらを眺めていたらしい霖之助とばっちり目があった。
「…………」
「あ、いや……なんでもないんだ」
なんとなく気まずくなってそのまま視線を上に逃がす。霖之助も、咳払い一つして再び新聞に目を戻した。
いけない、いけない。
アリスはもういちどさりげなく深呼吸して、中に詰める綿をちぎって調整しはじめた。
まぁ、何かよく分からない雰囲気になっているが、人形作りには差し障りもない。
またしばらくそんなような、居心地よくもそわそわするという変な店内が続いた。順調に人の形になっていく人形を見ながら、魔理沙と来るときはいつもそこそこ饒舌な店主なのに今日は静かだなぁ、などと思うアリスだった。
と、
「……雨宿り、させてもらえんかね」
ドアを開けて、一人の男が入ってきた。全身を覆う巨大な雨合羽を着込んでいる上、フードもかぶっているので一見かなり不気味だ。この豪雨に降られながら森の中を歩いてきたのか、その声は憔悴しきったようにかすれていた。
「……骨董品店かな?」
「道具屋だよ。ずぶぬれのようだけど……タオルを持ってこようか? さしあたってストーブの前で体を温めたほうがいい」
「すまん、思い切り降られてしまったのでな、是非借りたい」
霖之助は普通どおりの態度で応対すると、奥の扉に引っ込んでいった。
男は見たこともないような男だった。雨粒が室内に入らないように、閉めた扉のすぐ横で慎重に雨合羽を脱いでいる。長身で中肉、異国的な顔形。鋭い目つきとあごひげを蓄えた中年男性だが、フードの下から現れた赤粉をまぶしたような銀髪が、その男の外見で一番目を引く特徴だろう。
明らかに付近の住人ではない。状況からしてこのあたりには不慣れなのだろう。
いや、そうではない……そうではない。何かとにかく言い知れないが、そうではないのだ。そういった表面的な問題は全てすっ飛ばして、この男はどこか変だった。だが、それがどこかと正確に指摘することが出来ない。――とにかく変な男だ。
彼は雨具の下も容赦なく濡れ鼠だった。男はびしょぬれの雨合羽をどうすべきか一瞬迷っていたが、タオルを持って戻ってきた霖之助がそれを受け取ってハンガーにかけてストーブの前につるす。男は再び礼を言って、霖之助が用意したスツールに腰掛けた。
「いやー……助かった。森の中で迷った上、雨にぶつかって正直ほとほと困りきっていたのだ。ここの明かりを見たときには天の助けと思ったよ」
「無茶するね……雨が上がるまで外には出ないほうがいいよ。ここは森の外だけど、多分迷うから」
「ご忠告骨身に染みる。いやほんとに」
男は疲れたように苦笑した。
「旅の者でな、私の名はヴィクトール。ただの森ではないと思っていたが、うっかり足を踏み入れてしまったのがまずかった」
「旅人さんか……ここは“今日も素敵な品揃え、ナンバーワンの香霖堂”、さっきも言ったとおり道具屋で、僕は店主の霖之助さ。ちょいと何かが足りないときは、痒いところに手が届くようにいつも、いつもいいもの見つけます――」
「……なんなの、それ?」
「いや、この店にも何かキャッチコピーがあったほうがいいんじゃないかと思ってね。暇にあかせて作ってみた……」
呆れて突っ込むアリスと、視線をそらしつつ答える霖之助。さすがに本気ではなかったのか、苦笑いでごまかそうとしてる。
半眼のまま店主を見やっていると、ヴィクトールという旅人がもの問いたげな視線でアリスのほうを見ているのに気づいた。
「あー、私はアリス。雨で帰れなくなった客よ」
「そうか……お互い災難だな」
「そうでもないわ。結構居心地いいし、サービスいいし」
いただいたチョコレートは大変美味しかった。
その後もしばしヴィクトールと霖之助、アリスの三人で世間話のようなものをして、アリスはヴィクトールが放つ奇妙な印象が気にはなったものの人形作りを続けることにした。会話の最中にヴィクトールの服も水気はあらかた飛んだようで、彼は店内を物色することにしたらしい。霖之助は椅子に戻って今度は分厚い本を読み始める。
まぁ、ヴィクトールが珍しそうに商品について聞いて回るため、霖之助は本を読む暇がなさそうだったが。
「本当にいろんなものがあるな。お、これは一体?」
「名前は“ラヂヲ”で、用途は“遠くの情報を聞く”ことらしい。機構的には動くはずなんだけど、何をしても“聞く”ことが出来ないんだ。便利なものだと思うんだけど、使えないから安く売ってるよ」
「……そ、それはこの郷に電波局なんてないしな。兵士の亡霊でも憑いていれば話は別だが……げ、これは?」
『げ、これは?』以前は小声でつぶやいていたが、耳のいいアリスにはしっかり聞こえていた。
「そっちは“ハンド・パースエイダー”で、“説得”に用いるものらしい。でもダメさ。少なくとも僕の周辺の数人が相手じゃ、説得する役には立たなかった」
「……よかった、弾は入ってない。こんな物騒なものまで流れてるのか……店主、これは?」
「“ふんどし”、“迷彩”」
「迷彩?」
「朝、起き抜けにそのカムフラージュを着用して庭先で乾布摩擦を行えば、周囲と一体化できるまでの迷彩効果が得られることが実証されているのさ。かくいう僕も常時それを身に着けている。うん、備えあれば憂い無しだね」
「……ダンボール箱かぶったどこぞの工作員じゃないんだから……む、店主。よく見ると服が多いな」
「なぜか知らないけど、服作りを依頼に来るお客――いや、客ではないか――知り合いが多いんだよ。僕は針子じゃないし、腕では彼女に劣ると思うんだけどね」
ちらりと目線だけあげると、霖之助がアリスのほうを示していた。なんとなく嬉しくはあったが、ここは素直に「ありがとう」と返すべきなのか。いやそれではそっけなさ過ぎる気もするし、むしろ世辞だったのかもしれない可能性を考えて皮肉を混ぜたほうが。あぁ今はヴィクトールという第三者もいるしそのどの返事もあまりふさわしくないような。
などと一人でぐるぐる考え、結局何も言わずに人形作りに戻るアリス。全く気にしなかったのか、ヴィクトールはあごに手を当てて何か考えていた。
「――いや、待てよ?」
変なつぶやきを残して、ヴィクトールはいそいそと扉を開けて外へ出て行った。荷物は置きっぱなしだし帰ったわけではないはずだが、意味不明な行動に霖之助とアリスが動きを止めて扉を見守って数秒。再びばたりとドアが開くと、どんなトリックを使ったのかほとんどぬれていないヴィクトールが戻ってきた。
「……表に商品搬入用の落とし穴はなかったよ」
「……当たり前じゃないか」
「念のため聞くが、地下で古着屋はやってないよな?」
「古着屋……ふむ、それもいいかもしれないな」
「いや、やめてくれ。ほんと頼む」
即答に近い速さで首を振るヴィクトール。
霖之助は釈然としない面持ちで、カウンターに載せた本越しにヴィクトールを眺めていた。もっとも、ヴィクトールはそれを黙殺したが。
再び陳列棚に戻ったヴィクトールは、視線をめぐらした先で唐突に動きを止めた。
「これは……」
彼が棚から取り出したのは、手のひらに載るくらいの金属の箱だった。錆びたような、いや実際錆びているに違いない黒色で覆われ、目立った突起のないシンプルな直方体だ。
「それは“ライター”といって、“火を生み出す――」
「ブラック・クラックルの外装、歴史を感じさせる風格と触感、癖のない無地の装飾、3バレルヒンジ、底部の刻印……はないか」
ヴィクトールは彼自身の世界に没入したように、霖之助の言葉をさえぎって真剣な眼差しで金属の箱を見つめている。
その様子を追っていると、正しくはそれは箱ではないことにアリスは気づいた。直方体の半ばから“ライター”とやらは二つに折れ、中には奇怪な形をした金属の構造体が入っている。おそらく、こっちが重要なものなのだろう。
彼は耳元で“ライター”を振ったり、鼻に近づけたりして何かを確かめてから独り言を再開した。
「オイルは入ってる、フリントも厚い、ウィックも油を吸ってる、金属疲労および変形は見当たらない……これは、いかん、付くぞ……」
彼は慣れた手つきで“ライター”を操作した。それが合図だったのか、耳障りな音と共に“ライター”の上で火が踊る。
それを見て、アリスはあっさり興味を失った。ただの魔法ではないか、便利かもしれないが目を輝かせるほどのものではない。視線を針に戻す。
が、ヴィクトールは逆にその火に興奮したように一際大きな声をあげていた。
「おぉぉぉ! “It works!”。なんてことだ、これは本物だぞ。WWII当時のヴィンテージモデル! 物欲をもてあます。店主、譲ってくれ、頼む!」
「え、あぁ……別にいいよ」
「ありがとう友よ!」
「お代はそこに書いてあるとおりだから」
ヴィクトールの声が止まった。アリスはいい加減無視しようかとも思ったが、それでも完成間近までこぎつけた作業を止めてうんざり顔を上げる。目に付いたヴィクトールはなにやら再び動きを止めていた。
ギギギと人形じみた動きで首を回して棚を見るヴィクトール。値札に書かれているのは、まぁ、妥当なところだろう。ガラクタにふさわしい投売り価格でそれは売られているようだった。
ヴィクトールは中途半端に大げさな身振りで固まったままだが、声だけはポツリと聞こえた。
「か……金は……」
「お金は?」
「金は……ないんだ……」
「…………」
「しょうがなかった……両替屋がない……ユ、ユーロならいくらでも出せるが、受け取ってくれるか?」
「そのユーロっていうのが何を指すのか分からないけど、幻想郷じゃ間違いなく価値のないものだと思うよ」
「そ、そうか……しかし、しかし……」
ヴィクトールはかなり悶々と悩んでいる。アリスは手元に意識を集中しながらでも、彼が重々しい空気を放ちながら頭を抱えている様子が伝わってきた。
そんなヴィクトールを見かねたのか、霖之助のほうからため息と本を閉じる音が聞こえた。
「物々交換でもいいよ。うちではよくやってる」
「おお、ありがたい! といっても売れそうなものはほとんど持ち合わせていないが……具体的には、どんなものと交換してもらえるだろうか」
「実はね、ちょうど糸が入用だったんだ。それも魔法で作るような糸。持ってないかな?」
思わずアリスは顔を上げた。霖之助は普段どおりのあいまいな微笑で、カウンターの上に指を組んでいる。
彼女は手は止めないまま、霖之助の心遣いに内心で感謝した。しかしこの香霖堂になかったものを、流れの旅人が持っているとは――
「なんだ、そんなものでいいのか? もっと難題吹っかけられるかと思ったが」
「……あるの?」
ヴィクトールがこともなげに告げた台詞に、アリスは聞き返していた。
彼は「ふむ」と笑って懐に手を入れながら、アリスの人形に目を向けてくる。
「なるほど。彼女が人形に使うわけだな? それならばまさにうってつけの一品がある」
店主がもったいぶって商品を持ち出すときの言葉とほとんどそっくりに、彼は言ってきた。ちらりと霖之助のほうを見ると、複雑な顔をしている。
口調のわりに、ヴィクトールはあっさりアリスの前にそれを差し出してきた。彼の懐から出てきたのは、厚紙にぐるぐる巻きにされた白い糸だ。
「腕利きの糸紡ぎ職人、クロト婆さんが丹精こらして紡いだ特製の三色より糸だ」
「わ……」
それはとてもよくできた糸だった。明らかに普通の手法で作られたものとは違う。その道の専門家が、無数の失敗を積み重ねた上に始めて完成するような洗練された糸である。紡ぎ手は魔法の知識に乏しかったのか、魔力を込めたような形跡こそ見当たらないが、そこは重要ではない。あらゆる状況を考慮して作られたのだろう、大型から小型、パワーかスピードか、精密性もしくは簡略性、そういった人形のバリエーションに柔軟に対応すべく、その糸にはアリスが片手間に作ってきた糸よりも深く広い技術が感じられた……
「って――まさかこれ、人形用?」
「分かるのか、さすが本職は違うな。クロト婆さんはどんな糸でも紡げるその道のプロだったが、特にこれは元来人形遣いのための糸だった。あまりによくできた糸だったので、旅の共に手放せんと思って譲ってもらったのだよ。うむ、かつてはこの糸を使った人形が、ヴェルトルーナの危機を救ったりしたものだ……」
よく分からない感傷に浸って過去を振り返るヴィクトール。
アリスは糸を解くと、引っ張ったり巻いたりしてその糸を念入りに確かめた。まぁ、一見しただけで十分実用に耐えると分かってはいたが。
そんなアリスをよそに、ヴィクトールもまた嬉しそうな動きで“ライター”を取って手の中で遊んでいる。
「ふっふふ。いいぞぉ、この手に馴染む感触と形状。適度な硬さと重量。何をとっても文句なしだ。まさに実用性の塊!」
「アリスも満足そうだし、それは持っていってくれて構わないよ。まぁ、物々交換というわりには、ちょっとバランスがつりあわなかったけど……」
「なにぃ? 買わせてくれ、約束だぞ!」
「ぐぁっ。く、首を絞めないで……それが人にものを頼む態度かよ、離してくれ!」
「はっ。すいません、つい」
「ふぅ……僕が言ってるのはね、僕のほうが得をしてるってこと。君の糸のほうが高価だったんだよ。何か欲しいものがあれば、好きな商品を持っていってもらってもいい」
「そうは言うがな。……うーむ、旅にかさばるものは余計だし、これといって目を引くものは……」
漫才を繰り広げている二人を尻目に、アリスははやる手つきで人形に糸を通していた。ちょうど本体も完成したところだったので、これでもう一人前に動くことが出来る。
「完成ー」
とっとっ、と椅子から立ち上がり、くるくる回転しながら人形を操るアリス。
彼女の手に付き従うように、人形は華麗なターンを決めながらステップを踏み、優雅に一礼した。
今回作ったのはいつもの少女型ではなく、すらりと伸びた四肢をストライプのスーツでで包み、頭の代わりにかぼちゃの被り物を据え付けた男性型だった。ひょろっとした体系だが、糸の効果もあいまってか凄まじいパワーとスピードを発揮できる人形になってしまっている。
霖之助とヴィクトールが――店主はこの機会に不良在庫を売りつけようとしているようだったが――立ち止まって人形に向き直る。人形は身軽な動きでぱっぱっと跳躍し、霖之助の足に取り付くや否や勢いよく彼の頭上まで駆け上がった。
「うわっ?」
口元を押さえながらくすくす笑うアリス。人形は霖之助の上で宙返りを決め、両手を広げたまま落下するとぽすんとうつぶせに張り付いた。
「可愛いでしょ?」
「た、確かに愛嬌のある人形だね……」
彼は目だけ上げて人形の鼻先と向き合う。ヴィクトールもアリスの手際に感心したように腕を組み、ふむふむとうなずいていた。
「よくできた人形だな。これほどのものは滅多に見ない……これ、名前は?」
「まだ決めてないのよ」
「あー、ふむ。ではこういうのはどうだろう? この人形に名前をつける権利を頂きたいのだが、糸の代価では不足かね」
ヴィクトールは人差し指を立てた姿勢でそう言ってきた。目つきからしてジョークで口にしたということはないようだ。
アリスはきょとんとして操作の手を止めて、人形を見やった。
「……それだとあなたが何一つ得したようには思えないけど、何で名前なんか?」
「まぁ、下らん話に聞こえるのだろうな。だが旅先に自分の足跡を残したいと思うのは旅人の本能みたいなもので……それに、他人に名前を与えるというのは、少なくとも私の故郷の文化では大変尊いことなのだ。その光栄を譲ってはくれんかね」
「うーん」
それほど難しい話ではない。いや、損得勘定が絡むと三者の誰が最終的に得をしたのか、という意味で非常に複雑ではあるが。
アリスが作った人形達の中に、アリス以外の名付け親を持つ人形は少ないが存在する。例えば魔界の神綺だったりそのメイドの夢子だったり、巫女だったり職業魔女だったり本の虫だったり、あるいはその他も少々。
人形に目で問いかけると、本人も悪い気はしないのか――もちろん人形に意思はない。単純な処理結界を搭載しているだけで――首を傾げてカタカタと歯を打ち鳴らした。目も少し和らいでいる。
ついでにその下の霖之助も見やったが、彼は口を挟む気はないのか肩をすくめて椅子のほうへ戻っていった。
……うん、まぁいいか。
「私は人形に名前をつけたことしかないから光栄とかそういうのは分からないけど。そのくらいで糸のお礼になるのなら好きな名前をつけてもらっていいわよ」
「なんとも、ありがたい」
「気に食わなかったら、後から改名すればいいだけだし」
「……手厳しいな」
ヴィクトールはちょいちょいと人差し指で人形を招き、彼の手のひらに乗せた。
優雅にステッキを突きつつ立っている人形の耳に、ヴィクトールは口元を寄せて何事か囁いたようだ。
ほんの二言三言でそれは終わったらしい。アリスの耳にも聞こえなかったが、人形は無事に名前をもらったのだろう、ひょいと彼の手から飛び降りると彼女の足元まで駆けてきて指示を待った。
「“カボチャの来訪者”」
ヴィクトールはそれだけ告げてくる。
「そういう称号を与えた。称号とはつまり真の名を照らす鏡であるからして、その名でも呼びかけには応えてくれる。もちろん真の名も与えたが、そっちは秘密だ」
「秘密……? 何、どういうこと。この子に何かしたの?」
「改名されてはたまらんから、謎かけの封印を施したのだよ。知らなければ変えられんだろ?」
「こ、小細工を……」
アリスはうめいて人形を持ち上げた。謎かけの封印という言い回しだったが、見たところ呪いをかけられたわけではないようだ。単に推測するしか当てる方法がないという状況を、格好つけて置き換えただけに過ぎないのだろう。
カボチャの来訪者はこくこくと満足げに首を振ってアリスの肩によじ登った。
ため息と共にカボチャの来訪者をつつき、アリスはヴィクトールへ向き直る。
「まー、別にいいわ。この子も気に入ってるみたいだから、それで」
「丸く収まったようだね。よかったよ」
「すまんな店主、色々手間をかけて」
「このくらい、普段に比べたら手間でもなんでもないさ……ああ、いつの間にか雨があがっているね。なんか僕だけ得しちゃった感じだし、せっかくだから一杯飲むかな?」
「気が利くじゃないか。是非に」
外を指す霖之助につられてアリスが窓を見やると、確かに雲は消えて月光が大地を照らしていた。
とりあえずカボチャの来訪者を意味もなく霖之助に突撃させたりしながら、片肘を窓枠についてそこにあごを乗せた。いい夜空だ。星のきらめきは胸をすくようだし、魔女にとって月は特別な意味を持つものである。
なんとなくくすくすと笑って店内を振り返ると、ヴィクトールは霖之助を眺めながらスツールに腰掛けて酒盃を待っていた。カウンターの裏に酒を常備しているということなのだろうか、霖之助はごそごそと腰を折っていつも座っているあたりを探っている。その背中に乗ってカボチャの来訪者がひょこひょこと踊っていた。
やがて霖之助がグラスと酒瓶、ビスケットの箱を持って丸テーブルへ運んでくる。そこには当たり前のようにアリスの分も用意されていたし、アリスは当たり前のように椅子ごとテーブルへと移動した。
霖之助がトクトクトクと三人分のグラスに酒を注ぐ。
「月が見えないのは残念だけど、ヴィクトールの旅の話でもつまみにさせてもらって美味しいお酒といきたいね」
「私の話は酒を美味くするほどではないかな。頭の上でカボチャを躍らせてる店主のほうがよほどユーモアが利いていると思うが、どうか」
「確かにそのほうが人当たりはよくなりそうね。霖之助さんはこれからずっとその子を頭に載せてたほうが売り上げが伸びるんじゃないかしら」
「……一瞬でも真剣に検討してしまった僕は自分が恥ずかしいよ」
「まぁ、得てして骨董品屋の主人とは渋さがステータスだ。今のままでいいのではないかね」
「骨董品じゃなくて道具屋なんだけど……」
「より正確には、ガラクタ屋かしら?」
「そういえば説明してもらった商品も、半分以上“使えない”なんて解説が入ってたなぁ」
「その使えない商品を買ったの、君だろう」
「ぉう、一本とられたな」
と、談笑。
そんな様子で酒は進む。アリスがカボチャの来訪者に余興をさせたり、霖之助があれこれとうんちくを垂れたり、ヴィクトールは実は幻想郷の外から来たのだと聞かされたり、その夜はいつもとは一味も二味も違うお酒となった。
夜が更けて月の光が照らす香霖堂の一角で、彼らは長いこと酒を交わしていた。
髪をかきあげて嘆息する。このまま雨がやまなければ、今夜はここに泊めてもらうしかない。
アリスは手元の人形に一度視線を落としてから、店の奥でいまだにごそごそと作業している店主に声をかけた。
「やっぱりないかしら?」
「うん……残念だけど、なさそうだね。うちに置いてある糸は、そこにあるので全部だよ」
さっぱりした否定が返ってきたが、店主は律儀に最後まで在庫を調べてくれるようだった。中腰のまま箱をひっくり返しては、得体の知れないガラクタをためつすがめつ眺めてから戻していく。
霖之助が用意してくれた糸は、普通に裁縫で用いるには十分な品質ではあった。しかしこれでは……人形繰りに使うには不十分なのだ。
アリスは再び手元の人形を縫いながら――こっちの糸は霖之助が売ってくれたものを使っている――糸の予備を切らしてしまった自分を反省する。
まぁ、いつもそれ用の魔法の糸は自分で紡ぐので、そう簡単に見つかるものでもない。近頃の天候のせいで材料が手に入らなかったことも恨みつつ、彼女は無言のまま店の隅で暇つぶしの人形作りに励んでいた。
「やっぱりなかった」
横目で声のほうを見ると、霖之助が箱を片付けながら顔だけこちらに向けていた。ついでに整理したのだろう、彼の足元には箱から取り出されたガラクタが山になっている。
はじめから期待してもいなかったので、アリスはこくりとうなずきだけを返した。それよりも雨のほうが問題だ。
「ありがとう。まぁ、仕方ないわ……あの、申し訳ないんだけど、雨がやむまでここにいさせれもらえないかしら」
「もちろん構わないよ。いくら歩き慣れていても、こんな雷雨の中魔法の森を歩くのは賢明とはいえないしね」
霖之助は快諾して、店内に商品を並べ始めた。
アリスは腰掛けたままぺこりと頭を垂れると、また針を取って手元をちくちくと縫っていく。彼女が人形を作るときは決まって自室であったが、意外にも香霖堂はそれと同じくらい馴染みやすく、いつもどおり落ち着いて作業できた。霖之助と波長が通じるのだろうか、不思議と安心感に包まれるような感じだ。
ただ静かに時間が流れる。
黙々と手を動かすアリスと、商品を真剣に眺める霖之助。沈黙にぎすぎすした空気はなく、どちらかというと言葉のないほうがこの店にはふさわしいのかもしれない。ますます心地よかった。
そうしてしばらくアリスが人形作りに没頭していると、彼女が道具置きに(一方的に)借りたテーブルへ湯気の上るマグがことりと置かれた。ふと顔を上げると、霖之助が彼のカップに口をつけながらアリスを見ている。
「ありがとう」
自然に笑みを浮かべ、アリスは運ばれたマグを傾けた。深いコクと程よい甘みが口の中いっぱいに広がる。……これはチョコレートか、さては隠し味に塩もごくわずか混ぜたな?
「よかったかな、ホットチョコレートで。コーヒーや紅茶やお酒やその他なんかもあったけど」
「ううん、とても美味しい。チョコレートを飲むのはずいぶん久しぶりだわ、魔界にいた頃は、よく神綺様に作っていただいた……」
美味しい。懐かしさもあいまって、胸をくすぐられるような気分になる。
霖之助は「それはよかった」と言って店主の席に戻り、やたらたくさん積まれている新聞を一枚広げ、難しい表情で読み始めた。あれは天狗の新聞だろうから彼のように真面目な表情で読むのはどこまでもずれているような気がするが、霖之助はアリスが読むのと同じ視点から読むとは限らないから、彼なりに有意義に読んでいる、のだろう、か……
――いつの間にか霖之助を目で追っていた。
慌てて視線を落として人形に集中する。白黒ストライプのスーツを縫っている途中で、気づかないうちに針が見当違いの方向へずれようとしていた。
目を閉じ、一度息を吸ってからため息のように吐き出す。頭を切り替えて手元を落ち着けて、あとできるだけ横を向かないように注意しなければ。
すっ、さー。チョキチョキ。さっさっ、ぺたし。チクチクチク……
型紙に布を重ね、色鉛筆で輪郭をなぞる。裁ちばさみでそれを正確に切り分ける。他パーツと合わせる部分は、縫い目が見栄えよくなるように決まった手順で折りたたまなければいけない。そしてあとはひたすら一定のリズムで縫い付けるのみ。
チクチクチク……
ふと。
数分前の自戒をあっけなく破って、アリスは顔を上げた。なんとなく気配というか、空気の流れが気になったほうを見ると、新聞片手にこちらを眺めていたらしい霖之助とばっちり目があった。
「…………」
「あ、いや……なんでもないんだ」
なんとなく気まずくなってそのまま視線を上に逃がす。霖之助も、咳払い一つして再び新聞に目を戻した。
いけない、いけない。
アリスはもういちどさりげなく深呼吸して、中に詰める綿をちぎって調整しはじめた。
まぁ、何かよく分からない雰囲気になっているが、人形作りには差し障りもない。
またしばらくそんなような、居心地よくもそわそわするという変な店内が続いた。順調に人の形になっていく人形を見ながら、魔理沙と来るときはいつもそこそこ饒舌な店主なのに今日は静かだなぁ、などと思うアリスだった。
と、
「……雨宿り、させてもらえんかね」
ドアを開けて、一人の男が入ってきた。全身を覆う巨大な雨合羽を着込んでいる上、フードもかぶっているので一見かなり不気味だ。この豪雨に降られながら森の中を歩いてきたのか、その声は憔悴しきったようにかすれていた。
「……骨董品店かな?」
「道具屋だよ。ずぶぬれのようだけど……タオルを持ってこようか? さしあたってストーブの前で体を温めたほうがいい」
「すまん、思い切り降られてしまったのでな、是非借りたい」
霖之助は普通どおりの態度で応対すると、奥の扉に引っ込んでいった。
男は見たこともないような男だった。雨粒が室内に入らないように、閉めた扉のすぐ横で慎重に雨合羽を脱いでいる。長身で中肉、異国的な顔形。鋭い目つきとあごひげを蓄えた中年男性だが、フードの下から現れた赤粉をまぶしたような銀髪が、その男の外見で一番目を引く特徴だろう。
明らかに付近の住人ではない。状況からしてこのあたりには不慣れなのだろう。
いや、そうではない……そうではない。何かとにかく言い知れないが、そうではないのだ。そういった表面的な問題は全てすっ飛ばして、この男はどこか変だった。だが、それがどこかと正確に指摘することが出来ない。――とにかく変な男だ。
彼は雨具の下も容赦なく濡れ鼠だった。男はびしょぬれの雨合羽をどうすべきか一瞬迷っていたが、タオルを持って戻ってきた霖之助がそれを受け取ってハンガーにかけてストーブの前につるす。男は再び礼を言って、霖之助が用意したスツールに腰掛けた。
「いやー……助かった。森の中で迷った上、雨にぶつかって正直ほとほと困りきっていたのだ。ここの明かりを見たときには天の助けと思ったよ」
「無茶するね……雨が上がるまで外には出ないほうがいいよ。ここは森の外だけど、多分迷うから」
「ご忠告骨身に染みる。いやほんとに」
男は疲れたように苦笑した。
「旅の者でな、私の名はヴィクトール。ただの森ではないと思っていたが、うっかり足を踏み入れてしまったのがまずかった」
「旅人さんか……ここは“今日も素敵な品揃え、ナンバーワンの香霖堂”、さっきも言ったとおり道具屋で、僕は店主の霖之助さ。ちょいと何かが足りないときは、痒いところに手が届くようにいつも、いつもいいもの見つけます――」
「……なんなの、それ?」
「いや、この店にも何かキャッチコピーがあったほうがいいんじゃないかと思ってね。暇にあかせて作ってみた……」
呆れて突っ込むアリスと、視線をそらしつつ答える霖之助。さすがに本気ではなかったのか、苦笑いでごまかそうとしてる。
半眼のまま店主を見やっていると、ヴィクトールという旅人がもの問いたげな視線でアリスのほうを見ているのに気づいた。
「あー、私はアリス。雨で帰れなくなった客よ」
「そうか……お互い災難だな」
「そうでもないわ。結構居心地いいし、サービスいいし」
いただいたチョコレートは大変美味しかった。
その後もしばしヴィクトールと霖之助、アリスの三人で世間話のようなものをして、アリスはヴィクトールが放つ奇妙な印象が気にはなったものの人形作りを続けることにした。会話の最中にヴィクトールの服も水気はあらかた飛んだようで、彼は店内を物色することにしたらしい。霖之助は椅子に戻って今度は分厚い本を読み始める。
まぁ、ヴィクトールが珍しそうに商品について聞いて回るため、霖之助は本を読む暇がなさそうだったが。
「本当にいろんなものがあるな。お、これは一体?」
「名前は“ラヂヲ”で、用途は“遠くの情報を聞く”ことらしい。機構的には動くはずなんだけど、何をしても“聞く”ことが出来ないんだ。便利なものだと思うんだけど、使えないから安く売ってるよ」
「……そ、それはこの郷に電波局なんてないしな。兵士の亡霊でも憑いていれば話は別だが……げ、これは?」
『げ、これは?』以前は小声でつぶやいていたが、耳のいいアリスにはしっかり聞こえていた。
「そっちは“ハンド・パースエイダー”で、“説得”に用いるものらしい。でもダメさ。少なくとも僕の周辺の数人が相手じゃ、説得する役には立たなかった」
「……よかった、弾は入ってない。こんな物騒なものまで流れてるのか……店主、これは?」
「“ふんどし”、“迷彩”」
「迷彩?」
「朝、起き抜けにそのカムフラージュを着用して庭先で乾布摩擦を行えば、周囲と一体化できるまでの迷彩効果が得られることが実証されているのさ。かくいう僕も常時それを身に着けている。うん、備えあれば憂い無しだね」
「……ダンボール箱かぶったどこぞの工作員じゃないんだから……む、店主。よく見ると服が多いな」
「なぜか知らないけど、服作りを依頼に来るお客――いや、客ではないか――知り合いが多いんだよ。僕は針子じゃないし、腕では彼女に劣ると思うんだけどね」
ちらりと目線だけあげると、霖之助がアリスのほうを示していた。なんとなく嬉しくはあったが、ここは素直に「ありがとう」と返すべきなのか。いやそれではそっけなさ過ぎる気もするし、むしろ世辞だったのかもしれない可能性を考えて皮肉を混ぜたほうが。あぁ今はヴィクトールという第三者もいるしそのどの返事もあまりふさわしくないような。
などと一人でぐるぐる考え、結局何も言わずに人形作りに戻るアリス。全く気にしなかったのか、ヴィクトールはあごに手を当てて何か考えていた。
「――いや、待てよ?」
変なつぶやきを残して、ヴィクトールはいそいそと扉を開けて外へ出て行った。荷物は置きっぱなしだし帰ったわけではないはずだが、意味不明な行動に霖之助とアリスが動きを止めて扉を見守って数秒。再びばたりとドアが開くと、どんなトリックを使ったのかほとんどぬれていないヴィクトールが戻ってきた。
「……表に商品搬入用の落とし穴はなかったよ」
「……当たり前じゃないか」
「念のため聞くが、地下で古着屋はやってないよな?」
「古着屋……ふむ、それもいいかもしれないな」
「いや、やめてくれ。ほんと頼む」
即答に近い速さで首を振るヴィクトール。
霖之助は釈然としない面持ちで、カウンターに載せた本越しにヴィクトールを眺めていた。もっとも、ヴィクトールはそれを黙殺したが。
再び陳列棚に戻ったヴィクトールは、視線をめぐらした先で唐突に動きを止めた。
「これは……」
彼が棚から取り出したのは、手のひらに載るくらいの金属の箱だった。錆びたような、いや実際錆びているに違いない黒色で覆われ、目立った突起のないシンプルな直方体だ。
「それは“ライター”といって、“火を生み出す――」
「ブラック・クラックルの外装、歴史を感じさせる風格と触感、癖のない無地の装飾、3バレルヒンジ、底部の刻印……はないか」
ヴィクトールは彼自身の世界に没入したように、霖之助の言葉をさえぎって真剣な眼差しで金属の箱を見つめている。
その様子を追っていると、正しくはそれは箱ではないことにアリスは気づいた。直方体の半ばから“ライター”とやらは二つに折れ、中には奇怪な形をした金属の構造体が入っている。おそらく、こっちが重要なものなのだろう。
彼は耳元で“ライター”を振ったり、鼻に近づけたりして何かを確かめてから独り言を再開した。
「オイルは入ってる、フリントも厚い、ウィックも油を吸ってる、金属疲労および変形は見当たらない……これは、いかん、付くぞ……」
彼は慣れた手つきで“ライター”を操作した。それが合図だったのか、耳障りな音と共に“ライター”の上で火が踊る。
それを見て、アリスはあっさり興味を失った。ただの魔法ではないか、便利かもしれないが目を輝かせるほどのものではない。視線を針に戻す。
が、ヴィクトールは逆にその火に興奮したように一際大きな声をあげていた。
「おぉぉぉ! “It works!”。なんてことだ、これは本物だぞ。WWII当時のヴィンテージモデル! 物欲をもてあます。店主、譲ってくれ、頼む!」
「え、あぁ……別にいいよ」
「ありがとう友よ!」
「お代はそこに書いてあるとおりだから」
ヴィクトールの声が止まった。アリスはいい加減無視しようかとも思ったが、それでも完成間近までこぎつけた作業を止めてうんざり顔を上げる。目に付いたヴィクトールはなにやら再び動きを止めていた。
ギギギと人形じみた動きで首を回して棚を見るヴィクトール。値札に書かれているのは、まぁ、妥当なところだろう。ガラクタにふさわしい投売り価格でそれは売られているようだった。
ヴィクトールは中途半端に大げさな身振りで固まったままだが、声だけはポツリと聞こえた。
「か……金は……」
「お金は?」
「金は……ないんだ……」
「…………」
「しょうがなかった……両替屋がない……ユ、ユーロならいくらでも出せるが、受け取ってくれるか?」
「そのユーロっていうのが何を指すのか分からないけど、幻想郷じゃ間違いなく価値のないものだと思うよ」
「そ、そうか……しかし、しかし……」
ヴィクトールはかなり悶々と悩んでいる。アリスは手元に意識を集中しながらでも、彼が重々しい空気を放ちながら頭を抱えている様子が伝わってきた。
そんなヴィクトールを見かねたのか、霖之助のほうからため息と本を閉じる音が聞こえた。
「物々交換でもいいよ。うちではよくやってる」
「おお、ありがたい! といっても売れそうなものはほとんど持ち合わせていないが……具体的には、どんなものと交換してもらえるだろうか」
「実はね、ちょうど糸が入用だったんだ。それも魔法で作るような糸。持ってないかな?」
思わずアリスは顔を上げた。霖之助は普段どおりのあいまいな微笑で、カウンターの上に指を組んでいる。
彼女は手は止めないまま、霖之助の心遣いに内心で感謝した。しかしこの香霖堂になかったものを、流れの旅人が持っているとは――
「なんだ、そんなものでいいのか? もっと難題吹っかけられるかと思ったが」
「……あるの?」
ヴィクトールがこともなげに告げた台詞に、アリスは聞き返していた。
彼は「ふむ」と笑って懐に手を入れながら、アリスの人形に目を向けてくる。
「なるほど。彼女が人形に使うわけだな? それならばまさにうってつけの一品がある」
店主がもったいぶって商品を持ち出すときの言葉とほとんどそっくりに、彼は言ってきた。ちらりと霖之助のほうを見ると、複雑な顔をしている。
口調のわりに、ヴィクトールはあっさりアリスの前にそれを差し出してきた。彼の懐から出てきたのは、厚紙にぐるぐる巻きにされた白い糸だ。
「腕利きの糸紡ぎ職人、クロト婆さんが丹精こらして紡いだ特製の三色より糸だ」
「わ……」
それはとてもよくできた糸だった。明らかに普通の手法で作られたものとは違う。その道の専門家が、無数の失敗を積み重ねた上に始めて完成するような洗練された糸である。紡ぎ手は魔法の知識に乏しかったのか、魔力を込めたような形跡こそ見当たらないが、そこは重要ではない。あらゆる状況を考慮して作られたのだろう、大型から小型、パワーかスピードか、精密性もしくは簡略性、そういった人形のバリエーションに柔軟に対応すべく、その糸にはアリスが片手間に作ってきた糸よりも深く広い技術が感じられた……
「って――まさかこれ、人形用?」
「分かるのか、さすが本職は違うな。クロト婆さんはどんな糸でも紡げるその道のプロだったが、特にこれは元来人形遣いのための糸だった。あまりによくできた糸だったので、旅の共に手放せんと思って譲ってもらったのだよ。うむ、かつてはこの糸を使った人形が、ヴェルトルーナの危機を救ったりしたものだ……」
よく分からない感傷に浸って過去を振り返るヴィクトール。
アリスは糸を解くと、引っ張ったり巻いたりしてその糸を念入りに確かめた。まぁ、一見しただけで十分実用に耐えると分かってはいたが。
そんなアリスをよそに、ヴィクトールもまた嬉しそうな動きで“ライター”を取って手の中で遊んでいる。
「ふっふふ。いいぞぉ、この手に馴染む感触と形状。適度な硬さと重量。何をとっても文句なしだ。まさに実用性の塊!」
「アリスも満足そうだし、それは持っていってくれて構わないよ。まぁ、物々交換というわりには、ちょっとバランスがつりあわなかったけど……」
「なにぃ? 買わせてくれ、約束だぞ!」
「ぐぁっ。く、首を絞めないで……それが人にものを頼む態度かよ、離してくれ!」
「はっ。すいません、つい」
「ふぅ……僕が言ってるのはね、僕のほうが得をしてるってこと。君の糸のほうが高価だったんだよ。何か欲しいものがあれば、好きな商品を持っていってもらってもいい」
「そうは言うがな。……うーむ、旅にかさばるものは余計だし、これといって目を引くものは……」
漫才を繰り広げている二人を尻目に、アリスははやる手つきで人形に糸を通していた。ちょうど本体も完成したところだったので、これでもう一人前に動くことが出来る。
「完成ー」
とっとっ、と椅子から立ち上がり、くるくる回転しながら人形を操るアリス。
彼女の手に付き従うように、人形は華麗なターンを決めながらステップを踏み、優雅に一礼した。
今回作ったのはいつもの少女型ではなく、すらりと伸びた四肢をストライプのスーツでで包み、頭の代わりにかぼちゃの被り物を据え付けた男性型だった。ひょろっとした体系だが、糸の効果もあいまってか凄まじいパワーとスピードを発揮できる人形になってしまっている。
霖之助とヴィクトールが――店主はこの機会に不良在庫を売りつけようとしているようだったが――立ち止まって人形に向き直る。人形は身軽な動きでぱっぱっと跳躍し、霖之助の足に取り付くや否や勢いよく彼の頭上まで駆け上がった。
「うわっ?」
口元を押さえながらくすくす笑うアリス。人形は霖之助の上で宙返りを決め、両手を広げたまま落下するとぽすんとうつぶせに張り付いた。
「可愛いでしょ?」
「た、確かに愛嬌のある人形だね……」
彼は目だけ上げて人形の鼻先と向き合う。ヴィクトールもアリスの手際に感心したように腕を組み、ふむふむとうなずいていた。
「よくできた人形だな。これほどのものは滅多に見ない……これ、名前は?」
「まだ決めてないのよ」
「あー、ふむ。ではこういうのはどうだろう? この人形に名前をつける権利を頂きたいのだが、糸の代価では不足かね」
ヴィクトールは人差し指を立てた姿勢でそう言ってきた。目つきからしてジョークで口にしたということはないようだ。
アリスはきょとんとして操作の手を止めて、人形を見やった。
「……それだとあなたが何一つ得したようには思えないけど、何で名前なんか?」
「まぁ、下らん話に聞こえるのだろうな。だが旅先に自分の足跡を残したいと思うのは旅人の本能みたいなもので……それに、他人に名前を与えるというのは、少なくとも私の故郷の文化では大変尊いことなのだ。その光栄を譲ってはくれんかね」
「うーん」
それほど難しい話ではない。いや、損得勘定が絡むと三者の誰が最終的に得をしたのか、という意味で非常に複雑ではあるが。
アリスが作った人形達の中に、アリス以外の名付け親を持つ人形は少ないが存在する。例えば魔界の神綺だったりそのメイドの夢子だったり、巫女だったり職業魔女だったり本の虫だったり、あるいはその他も少々。
人形に目で問いかけると、本人も悪い気はしないのか――もちろん人形に意思はない。単純な処理結界を搭載しているだけで――首を傾げてカタカタと歯を打ち鳴らした。目も少し和らいでいる。
ついでにその下の霖之助も見やったが、彼は口を挟む気はないのか肩をすくめて椅子のほうへ戻っていった。
……うん、まぁいいか。
「私は人形に名前をつけたことしかないから光栄とかそういうのは分からないけど。そのくらいで糸のお礼になるのなら好きな名前をつけてもらっていいわよ」
「なんとも、ありがたい」
「気に食わなかったら、後から改名すればいいだけだし」
「……手厳しいな」
ヴィクトールはちょいちょいと人差し指で人形を招き、彼の手のひらに乗せた。
優雅にステッキを突きつつ立っている人形の耳に、ヴィクトールは口元を寄せて何事か囁いたようだ。
ほんの二言三言でそれは終わったらしい。アリスの耳にも聞こえなかったが、人形は無事に名前をもらったのだろう、ひょいと彼の手から飛び降りると彼女の足元まで駆けてきて指示を待った。
「“カボチャの来訪者”」
ヴィクトールはそれだけ告げてくる。
「そういう称号を与えた。称号とはつまり真の名を照らす鏡であるからして、その名でも呼びかけには応えてくれる。もちろん真の名も与えたが、そっちは秘密だ」
「秘密……? 何、どういうこと。この子に何かしたの?」
「改名されてはたまらんから、謎かけの封印を施したのだよ。知らなければ変えられんだろ?」
「こ、小細工を……」
アリスはうめいて人形を持ち上げた。謎かけの封印という言い回しだったが、見たところ呪いをかけられたわけではないようだ。単に推測するしか当てる方法がないという状況を、格好つけて置き換えただけに過ぎないのだろう。
カボチャの来訪者はこくこくと満足げに首を振ってアリスの肩によじ登った。
ため息と共にカボチャの来訪者をつつき、アリスはヴィクトールへ向き直る。
「まー、別にいいわ。この子も気に入ってるみたいだから、それで」
「丸く収まったようだね。よかったよ」
「すまんな店主、色々手間をかけて」
「このくらい、普段に比べたら手間でもなんでもないさ……ああ、いつの間にか雨があがっているね。なんか僕だけ得しちゃった感じだし、せっかくだから一杯飲むかな?」
「気が利くじゃないか。是非に」
外を指す霖之助につられてアリスが窓を見やると、確かに雲は消えて月光が大地を照らしていた。
とりあえずカボチャの来訪者を意味もなく霖之助に突撃させたりしながら、片肘を窓枠についてそこにあごを乗せた。いい夜空だ。星のきらめきは胸をすくようだし、魔女にとって月は特別な意味を持つものである。
なんとなくくすくすと笑って店内を振り返ると、ヴィクトールは霖之助を眺めながらスツールに腰掛けて酒盃を待っていた。カウンターの裏に酒を常備しているということなのだろうか、霖之助はごそごそと腰を折っていつも座っているあたりを探っている。その背中に乗ってカボチャの来訪者がひょこひょこと踊っていた。
やがて霖之助がグラスと酒瓶、ビスケットの箱を持って丸テーブルへ運んでくる。そこには当たり前のようにアリスの分も用意されていたし、アリスは当たり前のように椅子ごとテーブルへと移動した。
霖之助がトクトクトクと三人分のグラスに酒を注ぐ。
「月が見えないのは残念だけど、ヴィクトールの旅の話でもつまみにさせてもらって美味しいお酒といきたいね」
「私の話は酒を美味くするほどではないかな。頭の上でカボチャを躍らせてる店主のほうがよほどユーモアが利いていると思うが、どうか」
「確かにそのほうが人当たりはよくなりそうね。霖之助さんはこれからずっとその子を頭に載せてたほうが売り上げが伸びるんじゃないかしら」
「……一瞬でも真剣に検討してしまった僕は自分が恥ずかしいよ」
「まぁ、得てして骨董品屋の主人とは渋さがステータスだ。今のままでいいのではないかね」
「骨董品じゃなくて道具屋なんだけど……」
「より正確には、ガラクタ屋かしら?」
「そういえば説明してもらった商品も、半分以上“使えない”なんて解説が入ってたなぁ」
「その使えない商品を買ったの、君だろう」
「ぉう、一本とられたな」
と、談笑。
そんな様子で酒は進む。アリスがカボチャの来訪者に余興をさせたり、霖之助があれこれとうんちくを垂れたり、ヴィクトールは実は幻想郷の外から来たのだと聞かされたり、その夜はいつもとは一味も二味も違うお酒となった。
夜が更けて月の光が照らす香霖堂の一角で、彼らは長いこと酒を交わしていた。
脳内イメージがアレで固定されてしまいました。
しかしオタコンとスネークとは…
話がうまく組み立てられてて良かった。
ゆったりとした雰囲気がよかったです。
迷彩褌ワロタwwwww
つか、クロケ君は女性でしたか。
いや~、一人称「僕」てのはどうしても野郎だ、と思ってしまうもんで(タンジュン
まぁ、兎に角。
次でラストですか。期待してますぜ(エ?
あと不気味堂吹いた。
ヴィクトール=警部は都市シリーズだろか。