異常な舞台に彩られ、人形が独り踊っていた。
独りの人形だけが存在を許された暗く孤独な人形劇場。
此処には音楽による演奏をする者も居なければ、人形を照らすスポットライトを操る者も居ない――人形を操る人間さえ、此処では存在を許されない。
人形は独りでは立つことさえ出来ないのに、此処には人形がただ独り、踊っている。
唐突に、これは夢だと気がついた。それでも私は暗闇の客席をゆっくりと進んで行く。こんな悪趣味な夢に付き合おうと思ったのは、きっと不味いワインで酔ったせいだろう。
私が席に着くと同時に、何処からか聞き慣れた声が劇の始まりを告げた。
私は人形、人形はコドク、人形は人の心には留まれない。
だから人形はそのことに気がついても忘れようとしました。
本当の孤独に気がついたとしても、人形では何も出来はしないのだから。
自己完結の痕に残るのは、誰の手にもとられぬ忘れられた人形。
――気づいている、自分の本当の孤独に
――気づいている、自分がソレを手繰り寄せたことに
――気づいている、自分は“孤独人形”だと
仲間を望んで人形を作った――その度に涙し、狂っていった。
所詮は孤独人形が創造した人形――その人形が、孤独でない筈がない。
外で作られた人形でも、孤独人形の渇きは潤せはしない。
ワタシは孤独であるが故に人形。
――人形が居なくとも宴が始まるように
――人形が居なくとも皆が笑うように
――人形が居なくとも誰も気づかないように
アリス人形はひたすらに独り
まるで苦痛の嗚咽のように、哀哭の叫びのように、暗闇に響く声が私の意識を取り込んでいった。
深い目眩に捕らわれて景色が暗転する。
瞬間、私は舞台に立っていた。見下ろす客席に私は居ない。
唇が勝手に言葉を紡ぎ、漸く聞き慣れた声が自分のものだったのだと気がついた。
最初からこの場所には人形しか存在しない、孤独に踊る人形が自分だったとは随分と皮肉な夢だ。
私の身体は自動的に踊り続けた。それは運命に踊らされるようにただ残酷に、永遠と続く愚かな演劇。
口からは己を責めるような言葉ばかりが紡がれた。まるで愚かな自分への嘲りのように孤独人形の演劇は続けられていく。
人形は踊る、姫に求愛する王子も、嫉妬に狂う魔女さえも存在しない孤独な舞台で只独り。
愚かな劇が続いていく。
アリス人形はいつも人の目を気にしている。
故に人との距離を置く、己が己を人形へと成していく。
踊り狂いゆく人形は、独り善しとするアリスの人形。
最後の舞台は廃棄場、そこでも人形は独りきり
独り暗闇の舞台で久遠に狂う
それがなにより悲しくて
それがなにより悔しくて
それがなにより嬉しくて
孤独人形は独りで踊り続ける
アリス人形は独りで狂い続ける
それなのに、伸ばされたこの手はなんだ
誰も気づかぬ孤独人形をその手に取る
人形はその手が恐ろしい
手を取れば最後、手が離されたなら完全に壊れてしまう
人形はその手を拒む
手を取れば最後、狂ったこの身を晒してしまう
だけど人形は知っている
その手が人形を離さぬことを知っている
だから人形は恐ろしい
それが何より恐ろしい
手を取れば最後、もう孤独へ戻れはしない
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
――イヤな夢を見た。
内容の大半は忘却の向こう側へと追いやられていたが、微かに残された夢の欠片が私を苛々とさせる。
狂気に彩られた夢に汗を吸って不快に纏わり付く寝間着は気分を害するに充分な理由だった。
もそもそと乱れた寝間着を正し、そのまま布団へと倒れこむ。
まだ起きるには早い時間のようだが、意識は既に全て睡魔を喰らい尽くしてしまったようにはっきりとしていた。
虚空を見上げていた視線を少しずつ動かしていくと月明かりを透す窓に目が留まった。
四角形に切り取られた世界の中には、何処かの瀟洒な従者を想わせる十六夜の月が独り寂しげに浮かんでいる。
そんな月を嘲るように微笑して、窓からも視線を外していく。
窓から差し込む青白い光は寝起きの私の目を痛めることなく室内を静かに照らし、私の心を少しだけ穏やかにしてくれた。
独りの静寂に耳鳴りがする。此処はただひたすらに静かに、寂しく在った。
いつもと違う天井を見上げて、漸く此処がとある人間の魔女の家だと思い出した。
昨夜は確か――何があったろうか。
唸ってみても昨日の記憶にかかった靄を払うことが出来ない。
恐らく宴会で酔いつぶれたのを連れ帰ってもらったのだろうと思い立ち、私は記憶の靄を払うのを諦めた。
ふと隣に目をやると、恐らく此処の主が寝息をたてているであろうベットが目についた。
彼女の姿は陰になって見えなかったが、辛うじて寝返りをうっている様子が聞き取れる。
静寂の中、もそもそと動く音から容易く寝乱れた少女が想像できる。どうも寝相がよろしくないようだ。
波立ったシーツの海から彼女の手が顔を覗かせているのが見える。
――悪夢の中、伸ばされた手を夢想させられた
無意識のうちに、私の指は彼女の手へと向いている――届かない。
寝転がったままの体勢では精一杯に手を伸ばしてもけしてその手には届かぬようだった。
――人形は独りでは立つことさえ出来ぬのに
それだけのことが何故かとても悔しくて、涙さえ滲ませて指が震えるまで腕を伸ばし続けた。
――馬鹿みたい
届くことのない指先から目を逸らし、愚かな私の命令を守り続けた腕から力を抜くと、支えを失った腕は漸く許しを得たとでも言わんばかりに地へ堕ちる。
――筈だった
いつまで経っても布団の感触が伝わってこない。
もう一度彼女の方へ顔を向けると、私の手は彼女のの手にしっかりと掴まれていた。
「……ぁ……」
小さく、それこそ嗚咽でも漏らすかのように私は声を漏らした。視界が不自然に歪んで見える――私は泣いていた。
――手を取れば最後、手が離されたなら完全に壊れてしまう
彼女の手を引いて自分の身体をベットへと引き上げる。握られた手の力は強く、離されることはなかった。
月の光が眩しいほどにシーツの波を照らす中、彼女は聖女のように静かに寝息をたてていた。
私はそれを眩しげに目を細めながら見つめ、涙を溢れさせ続けた。
繋がれたままの手を、寝相の悪い聖女を、十六夜の月が眩しく照らす聖女の舞台に怯える人形を、この蒼い両眼に捉えながら。
涙に歪む世界の中、寝息をたてていた彼女の目が薄く開かれていく。
特に驚きは無かった。
ただ自然に、人形を見つめる彼女の瞳を見つめ返す。
「……アリス、なに泣いてるんだ?」
微笑と共に彼女の手が私の頬をそっと撫でた。
「ねぇ、私を孤独から連れ出すことが出来る? 私を……」
――愛スルコトガ出来マスカ?
彼女の問いを無視して問いかける。
月の姫の五つの難題すら霞むほどの問いを、人形が聖女に問いかける。
――手を取れば最後、狂ったこの身を晒してしまう
そんな難題さえ、聖女は笑い飛ばすかのように微笑を浮かべる。
「お安い御用だぜ、お姫様」
零れた涙が彼女の頬へと落ちた。
それさえ慈しむ様に彼女は微笑み続けてくれた。
涙は止まらなかった。
耐え切れなくなって、そっと己の唇を彼女の唇に合わせる。
抵抗は無かった。というより、彼女は再び寝息をたてていた。
少しだけ、涙が引っ込んだ気がした。
手は繋がったまま、彼女の隣にその身を横たえる。
十六夜の月の夜、アリス人形は聖女に恋をした。
――さて、これからどうしてくれようか?
孤独な舞台から連れ出された今、未だに自分の気持ちに気づかない図書館の魔女や、恋を理解出来ぬ幼い悪魔の妹に彼女を渡すことなど出来はしない。
負ける気なんて微塵すらこの心には存在しない。
此処にはもう孤独な人形は存在しない。
明日の朝、恐らくなにも覚えてはいないであろう彼女はどんな顔をするだろうか。
きっと隣で寝息をたてる私に驚き、目を見開くのだろう。
そんな声すらあげられぬ彼女の視線に照れたように俯いてやろう、そして恥ずかしげにキスをねだってやろう。
あぁ、楽しくなってきた。
――手を取れば最後、もう孤独へ戻れはしない
― 了 ―
それだけに、その雰囲気を壊す誤字は引き込まれた読者にとって残酷です。
もう一度読みたくなりました。その時までに、完全な姿に整えておいていただければ、幸いです……