いい天気だった。思わず鍵盤に手が伸びてしまいそうな心地よい秋の日差しが、花畑を照らしている。
木に背中を預けて座っているリリカの目の前で、花に戯れるように虫が何匹か飛び回っていた。のどかな風景だ。
鍵盤はしっかり小脇に抱えたまま、リリカは顔を上に向ける。
白い雲がよく映える青空に、楽しげな笑いを響かせる影が一つ。そして凄絶な悲鳴を放っている影が二つ。
「うふふふふ。ほーら、まだまだ終わらないわよぉ」
「いぃぃぃやぁぁぁ! やめてー、助けてー!」
「リリカー、どこに行ったー!? ――ひゃあああ!」
花の弾幕が宙を舞い、追われる二人は怒号を上げながら大空を逃げ回っていた。
リリカはこっそりとため息を漏らし、再び花畑へ視線を戻しつつ身を潜める。
少し前の話だ。
姉妹三人でこの花畑を通りかかったとき、突然横手から大量の花が襲ってきた。
直撃したり避けたりとそれだけでも十分酷い目にあったが、そんな彼女らの前に現れたのは幻想郷でも有数のいじめ屋、風見幽花だった。虫の居所が悪かったのだろうか、彼女は笑顔でさらに信じられない量の花を撃ち出すと、容赦なくリリカたちを追い立て始めた。
曰く、『やかましい!』らしい。
プリズムリバー三姉妹も、それなりに場数は踏んでいる。体勢を立て直し三人そろって反撃に出たのだが、あっけなく魔力砲をぶちかまされ、あとは必死になって逃げに専念していた。
リリカは、隙を見て姉達を突き飛ばし、一瞬注意をそらしたところで地上に逃れたのだ。
「おほほほは。チンドン屋はいい音で鳴くわねぇ。じっくりといたぶってあげるわ」
「リリカ出てこいぃぃー!」
上空ではさらに悲壮な悲鳴。
リリカは鼻の頭をかきつつ、のんびりと花畑――ヒマワリの花畑を眺め続ける。
今リリカがいるのは、街道に大きくせり出した一本の木の下で、上から見ただけではそう簡単には見つからない。うまく気配を隠して進めば、道なりに遠くまで逃げられるかもしれなかった。
しかし、姉達が撃墜されるのも時間の問題。できれば三人そろって脱出したいところだが、手立てはないものか……
答えを求め、リリカは街道を目で追った。彼女の居場所を境に、後ろ側は森の道、見ているほうはヒマワリ畑の道と、大きく変化している。
まさかこのヒマワリ畑全てを消し去るなんて出来るはずもないし……などとリリカが考えていると、不意に視界の隅に人影が現れた。
見やる。道の向こう、両側をヒマワリに囲まれた街道を――一人の男が歩いてくるところだった。
遠目にも背が高いと分かる男だ。軽装だがしっかりした衣装を身にまとい、慣れた旅人といった風情を感じる。
段々近づいてくると、顔かたちも見えるようになった。そのあたりから、奇妙なものを感じる。彫りの深い顔立ちに、大雑把に伸びたあごひげ。シャープな印象を受ける目つきで、何よりも特徴的なのは髪の色だった。
あいまいな色なので例えるのは難しいが、銀色の満月に夕焼けの空を重ねたらおそらくこんな色になるだろう、という髪だった。長いらしく、どうも後ろで束ねている風だ。
見慣れない男だった。なんというか――言葉にしづらいが、とにかく見慣れない。リリカも生まれは西洋なので、男の外見に関しては特に違和感を感じることもなかった。だが、やはり奇妙な男だ。
とりあえず細かいことは置いておくことにしよう。利用できそうなカモがやってきてくれたわけだし。
リリカはざっと頭の中でこれからすべきことの算段を整えると、近くまでやってきた男に大げさな身振りで駆け寄った。
「ああっ、助けてくださいオサムライさん!」
「……いや、侍ではない」
淡白なリアクションが返ってきた。
それとなく観察すると、男は困ったような表情で首を傾げてリリカを見返している。間近で見るとリリカよりかなり背が高いが、気にせず彼女は続けた。よよよと崩れ落ちて哀れっぽい声を出す。
「あぁ、なんてかわいそうな私。この辺り一帯をシマにしている悪逆非道な残虐妖怪にどつきまわされているところを姉達を生贄にしてまで逃げてきたのに、頼る先がこんなパッとしない通りすがりの中年オヤジだけだなんて、天は私を見放してしまったのね……」
「君が何を言わんとしているのか、よく分からんが……」
男は心底あきれた表情で身を引くと、上空で未だ酸鼻を極めている弾幕戦を見上げた。そろそろ姉達の体力も尽きてきたらしく、悲鳴に力がない。
それでは説得力に欠けるではないかとリリカは内心で舌打ちした。男はさらに顔をしかめて口を開く。
「とりあえず、君は一体?」
「私はリリカ。上で泣きながら逃げ回ってるのが私の姉達で、笑いながら弾幕をばら撒いて悦に浸ってるのが風見幽花」
「そうか。私の名前はヴィクトールだ。ここへは旅の途中で来た」
「ああ、私たち三人の力だけではあの真性サディストには太刀打ちできないの。どうか私達を助けて、オサムライさん!」
「いやしかし……これ以上ないくらいうそ臭い顔で言われてもな……」
ため息混じりに肩を落とすヴィクトール。彼は腕を組み、疲れたような眼差しを空に向けた。
「あの花の妖怪、とんでもなく強くないか」
「それだけじゃないの。わがままで強情でそのくせ移り気で、自分の楽しみのためなら他人は犠牲になるべきだって公言してるのよ。そのせいで私達がどれだけ苦労させられたか……」
「いいではないか、苦労は人を育てる。そういうのを自力で乗り越えて初めて一人前だぞ。じゃ、私はこの辺で――」
「ああ、待って! 見捨てる気なの!?」
さりげなくすれ違おうとした彼の服の裾を掴み、リリカは思いっきり泣き顔を作った。
「なぜそんなあっさりと見殺しなんていう選択肢を選べるわけ!? 人としてどうかしてるわ! 困っている人を見たら助けましょうって親に教わらなかったの!? 鬼よ、悪魔よ! 酷すぎるわぁぁぁ!」
「分かった、分かったから……」
あんまり大声を出すと見つかるので、実際には普通の口調より少し大きい程度の泣きまねだったが、ヴィクトールは根負けしたようで振り返ってリリカの肩をぽんぽんと叩いてきた。
「うーむ、正直騒ぎには関わりたくないのだが……」
「助けてくれるのね。ありがとう」
「……要はあの花の妖怪から逃げられればいいんだな?」
「そうなの。何とかして、三人そろって逃げ切らないと――あのアマ調子こいて手加減抜きでビシバシ当ててきやがって、チクショー覚えてろよ……」
「何?」
「ううん、なんでもないわ」
危ない。ぱぁっと満面の笑みでごまかす。
ヴィクトールは特に気にしなかったようで、渋面で空を見上げて何事か黙考し始める。さっさと特攻なり何なりしてほしかったが、あの幽香が相手だと確かに不用意な突撃は時間稼ぎにもならないだろう。
リリカは大して期待しない心地で木にもたれていた。もとよりヴィクトールは強そうには見えない。まぁ、何であれ注意がそれた瞬間に姉達を引っつかんで離脱してしまえばよい。
ヴィクトールはしばらくして決意したのか、視線を花畑に移すとそのうちの一本まで移動した。
「これで何とかなるだろう、おそらく」
リリカが成り行きを見守っていると、彼は口の端を不自然に吊り上げた。と……
唐突にヴィクトールの牙が一本鋭く伸びる。バネ仕掛けのように飛び出たそれを、彼は無造作に指でつまんでへし折った。つーと流れる血の跡が舌で拭われると、いつの間にか新しい歯が生えそろっている。
リリカが片眉を上げて見ている前で、ヴィクトールは無造作に牙をヒマワリへ突き立てた。
牙から魔力があふれてヒマワリを侵食する――とか、そういった何かしらの変化があったわけではない。しかし彼は軽く上空を確認すると、顔を厳しく引き締めてから言ってきた。
「君はどこか別の……あの辺に隠れていたほうがいい。すぐに花の彼女は私に気づくはずだ」
「……何したの?」
「ちょっとした暗示をな。単なる不意打ちにすぎんよ、それに私の力量では花たちに少々眠ってもらうくらいしか出来ん……」
彼の言葉が終わる頃、上空でも変化が起きていた。
幽香が微笑みと共にふりまいていた無数の花が、しぼむようにその量を減らしていく。
原因がすぐにはわからなかったのだろう、幽香は空中で疑問符を浮かべながら傘をふって、なおも花を呼び出そうとしていた。が、スカスカと空を切るだけで申し訳程度にしか花は現れない。
「んー……?」
そのうちの一枚をつまみ、彼女は口をへの字にしてうなり声を上げる。
その頃、バテきって動けなくなっていた姉達は、もはや安堵の声すらでないようで高い木の枝に引っかかってぶつぶつと呪詛をもらしていた。
こっそりと影から近づき、耳をそばだてる。
「リリカ……殺す……」
「今受けた……千倍の苦痛を……リリカに……」
…………。
とりあえず、出て行くのはやめた。
ぶつぶつと続けられる呟きを振り払うように幽香を見上げる。それが合図だったように、幽香は何が起こったか気づいたらしく、はっと身を翻してヴィクトールへ鋭い視線を向けた。迎えるヴィクトールも油断なく幽香を見つめている。
重苦しい緊張感が二人の間に押し詰められていた。リリカは影から機会を窺う。
「あなたね、私の可愛い花畑に細工してくれたのは」
「……まぁその通りではあるのだが。どうだろう、争いは争いしか生み出さないわけだからして、矛を収めて何も言わずに通してくれればありがたい……」
「うふふ。私に逆らうなんて、いい度胸じゃない」
傘に魔力を集中する幽香。ヴィクトールは慌てて手を振って後ずさった。
「ま、待て! 話せば分かる。だからそんな物騒な魔力砲はしまってくれ! そうだ、リリカ、君からも頼――」
「ああぁー、酷いわ酷いのよ酷すぎる! そこの男ってば『ぐふ、ぐふふ』なんて下卑た笑いでイッちゃった顔をしながら、さも楽しそーにヒマワリに牙を突き立てて一人で喜んでたのよ! 私がいくら止めても聞かないで刺し続けたの! 鬼よ、悪魔よ! 花に罪はないのに!」
「な、なにぃ、裏切ったな!?」
絶妙のタイミングで嘘泣きしながらヴィクトールを奈落に突き落とすリリカ。彼女は素早く姉達の手をわしづかみにすると、あとは物も言わずに全力でその場を離れた。
長居できる状況ではない。背後には幽香の鬼気迫るオーラが立ち上っているのを感じるのだ。ヴィクトールは一瞬弁明らしき声を発したようだったが、何を言っても無駄だと悟ったのかリリカたちを追って彼も逃げ出そうとしていた。
もちろんタダで逃がしてくれるフラワーマスターではない。
「待ぁぁてぇぇぇ!」
「違う! 私は……ぐおぁあああ!」
後方で繰り広げられる惨劇を感じながら――それでもヴィクトールは頑張ってリリカたちを追いかけているようだった――リリカは容赦なくフルスピードで安全な場所へと飛び続けていた。
■ ● ■
縁側に腰掛け、空を見上げる。
押して延ばしたような秋の雲が、青空の谷間にぽつぽつと浮かんでいた。のどかな日和だ、向こう二、三日は雨も降らなかろう。
昼下がりの休憩時間。妖夢は屋敷の手入れを切り上げて饅頭とお茶をつまんでいた。やはり昼時は渋い茶と甘い饅頭に限る。
こうした息抜きの時間には、三回に二回くらい幽々子と共に座卓を囲む妖夢だったが、幽々子は今忙しいとかで一人で空を見上げている。
まぁ、やはり誰かと一緒にお茶を飲むほうが美味しく感じるのは確かだ。
涼風を肌に受けながら、妖夢はお茶をすすって一息ついた。
そうして彼女がのんびりと庭を眺めていると、どこからか……空をよぎって三つの影が現れる。目を向けると、それらは飛び去って行くところだったようだ。いつの間に冥界にやってきたのか、演奏家の三姉妹が背中を向けて蒼穹の中へ吸い込まれていく。
……何の用だったのだろうか?
妖夢はいぶかしんで、まだ途中までしか口にしていないお茶と団子を座卓に戻し、刀を取って彼女らが飛び立ったあたりへ向かった。
白玉楼階段の中腹、のやや下寄り。妖夢が上から観察すると、そこに一人の男が腰掛けていた。
どこか哀愁漂う背中から積年の疲労感を感じる。肩まである銀髪を――いや、妖夢自身の髪に比べればだいぶ赤みがかっているか、とにかくそんな髪を紐で縛ってシッポにしていた。
背丈は高いような気がしたが、肉付きが太いという体格でもない。
妖夢は男の背後に忍び寄ると、刀を抜き、突きつけようとして、
「……何者だ」
やめた。
一見して、大したことのない手合いである。間違いなく切り伏せられる確信があったが、切っ先を向けなかったのは気まぐれのようなものだ。
男は誰何の声にピクッと身体を震わせると、妖夢を振り向いた。
「む、すまん……疲れたので休ませてもらっていた。いや、怪しい者ではない」
白い肌に、異国的な造作。青い瞳が申し訳なさそうに妖夢のほうを見ていた。
何か、ちぐはぐなものを感じる。なんだろう、場違いというか――とにかくふさわしくない、何か。
距離をとってじっと不審な目つきを向けている妖夢は気にしないのか、彼は続けた。
「私はヴィクトールという、遠くからの旅の者でな。つい先ほど迷惑な騒動に巻き込まれ、騒霊たちの後についてここまで避難してきた……彼女らはもう帰ってしまったが、私はなにぶん歳なのでな。身体の痛みが引くまで、ここでゆっくりさせてもらおうと思っていた。邪魔なら立ち去るが」
遠まわしな物言いは好きではないのか内容は直截的で、彼は丁寧にそう言ってきた。
彼の立ち居振る舞いからは不思議な感覚を覚えるものの、この冥界にやってくる客人の中ではかなり礼儀正しいほうだ――危険な人物ではなかろう。
妖夢はもう一度注意深くヴィクトールを観察してから、刀を納めて彼の正面に立った。
「いえ、押し入りならともかく、そういう事情でしたら構いません。プリズムリバーの姉妹達に案内されたということは、少なくとも害意はなさそうですし。申し遅れましたが、私はこの白玉楼当主の剣の指南役兼庭師、魂魄妖夢です」
「ありがたい。……しかし、ここは死者の国なのか? ずいぶん顔色の悪い者たちしかいないが……」
「そのものずばり、冥界ですよ」
知らないで来たのだろうか。
妖夢は改めて男――ヴィクトールを観察した。武芸家に通じる隙のない眼差しを持っているが、どちらかというと本でも読んでいるほうがよほど似合う気もする。ずっと腰掛けているので体運びに関してはなんともいえない。いや、さっきの彼の言葉どおり身体が痛むのか、仕草一つとってもどこか気だるげだ。
……と、いうよりも。
「ひょっとして、怪我してませんか?」
「まぁ、なんだ……不覚にも極大魔力砲の直撃を食らってしまって、実はかなり痛い」
「……大丈夫ですか、それ」
半ば呆れてため息交じりに返す。
魔力砲と聞いて連想するのはマスタースパークだ。あれを受けてなお逃げてきたのなら、相当タフな妖怪なのだろう。
妖夢はちらりと白玉楼のほうを見やった。一瞬逡巡する。
――まぁ、いいか。
「ビクトールさん」
「ヴィクトール」
「ここで座っていても構いませんが、よかったらお屋敷のほうにご案内しますよ」
「何、いいのか?」
「怪我人を放っておくわけにもいきませんし……本当は死人でなければ冥界に入ってはいけないのですけれど、まぁ、いいです。みょん」
「それはすまない。是非ご厄介になる」
一礼して立ち上がるヴィクトール。
妖夢はそんな彼の数歩先に立つと、一度振り向いて遠くの紅葉と共に彼を眺めやってから屋敷へ先導していった。
ほどなく、妖夢がお茶を飲んでいた縁側が見えてきた。
ヴィクトールはフラフラとおぼつかない足取りで妖夢の後についてきている。実のところわざわざ招くより、あのまま休んでいたほうがよかったのではないかと思わないでもないが。
屋敷を示し、妖夢は肩越しにヴィクトールを振り返る。
「あちらです」
「つ、着いたか……ずいぶん大きいな」
息を切らしながら、感心したようにうなずくヴィクトール。
そんな彼を引き連れて妖夢は室内に上がりこんだ。食べかけの饅頭が残っていたはずだが、それを片付けるのは後回しにして――
そう考えながら座卓を見ると、お茶も饅頭も消えていた。
代わりに木のフォークをくわえたまま目をぱちくりしている幽々子がいる。
何がどうなったかは文字通り考えるまでもない……妖夢は反射的にばっと向き直ると声を荒げた。
「幽々子さまっ、またつまみ食いを!」
「おいしかったわぁ」
「もはやごまかす気すらないんですか」
呆れを通り越して疲れる。
妖夢が頭を抱えていると、幽々子はヴィクトールのほうに気づいたようだった。彼は靴を揃えているらしく背を向けていたが、微苦笑をもらしつつ顔だけ室内に振り返ってくる。
「失礼する」
「あら、どちらさま?」
「えーと……何でも弾幕に巻き込まれて逃げてきたとかで、階段の途中で休んでいたんですよ。そのままにしておくわけにもいかないと思いまして、案内しました。名前はビクトールさんとか」
「ヴィクトール……ご好意に甘えて屋根を借りさせていただこうと思ったのだが、構わんかな」
「喜んでお招きするわー。私はこの屋敷の主人の、西行寺幽々子。ゆっくりしてちょうだい」
笑顔でヴィクトールを迎える幽々子。
彼女は妖夢にお茶の用意をするよう言いつけると、正座して座卓についたヴィクトールへ口を開いた。
「それはそうと、見慣れない人ねぇ。ビクトールさんはこの辺に住んでいるのかしら」
「ヴィ……」
ヴィクトールはもごもごと口を動かしてから、ため息と共にそれをやめた。
「旅の者だ、外から来た」
「そりゃあ、冥界の外から来たのは分かりますが……」
お茶を淹れながら当たり前に返す妖夢。
「いやな、そうではなく――」
「きっと、幻想郷の外から来たのね?」
幽々子もまた、当たり前のようにそう返してきた。
一瞬ついていけず、妖夢は目をしばたかせる。急須を蒸らしている途中で動きを止めていると、幽々子が横手からひょいとそれを取り上げて茶碗にそれぞれ注ぎ始めた。ヴィクトールはごく普通にそれを受け取って、
「うむ。欧州は仏蘭西、永遠の華の都より……要するに遠いところから来た。お茶、頂戴する」
「変わった人だとは思ってたけど、外からの旅人さんは初めて見るわ。紫も意外に社交的なのね――」
「いや、あの」
和やかな会話になってしまっている二人に、妖夢は慌てて割り込んだ。茶碗に口をつけたまま怪訝な表情で見返してくるが、気にしてはいられない。
混乱するものを感じながら、妖夢は手振りも交えつつヴィクトールへ顔を向ける。
「げ、幻想郷の外からいらっしゃったんですか?」
「あぁ。人に会いにな」
「どうやって……?」
「……君、細かいことを気にしてはいけない」
「そうよ妖夢。ビクトールさんが幻想郷の外の人だっていうのは、“見れば分かる”でしょ?」
実際、ヴィクトールは常に不思議な違和感を漂わせていた。妖夢にとってその正体は『見れば分かる』ものではないが、外の者ということにでもしなければ納得できないのは確かだ。『斬れば分かる』かもしれないが。
妖夢は額に手を当ててしばし沈黙する。
その向こうで、二人はお茶を飲みながら外の景色を眺めていた。
「いい庭だな。こう、趣というか、心理的な奥行きのようなものを感じる……西洋の庭は、こうは飾らないものだ。こういった様式の庭もいくつか見てきたが、ここは格別だな」
「嬉しいわねぇ。その庭は妖夢が手入れしてるの。外人さんにそう言ってもらえると、この子も喜ぶわ」
「いやいや、世辞ではないぞ、実によく整えられている……ん、何……? ほぉ、なんとも……」
「お煎餅、食べるかしら。お饅頭もあるけど」
「ありがたい」
どこから取り出したのか、幽々子は煎餅と饅頭の入った器を座卓に載せていた。
ヴィクトールは一枚の煎餅を取り出すと、未だ押し黙ったままの妖夢へ目を向ける。
「……突然外の怪物が現れたら、やはり困るかね」
――初めて彼と目を合わせたとき、若干の申し訳なさを感じ取った。今の彼の口調には、それと同じものが含まれているように思う。
妖夢は慌てて顔を上げ、不定形だった言葉を脳裏で組み立てなおした。
「いえ、驚いてなんと言っていいか分からなかっただけです……外の世界のことなんて、考えたこともなかったので」
「本質的には、大差ないな」
彼は肩をすくめながら煎餅をかじった。
「まぁ都合というものがあるから、向こうでは怪物が大手を振って歩けるという状況ではないが、違うのはそれくらいだ」
「やっぱり、外にも妖怪はいるんですね……幽霊なんかもいます?」
「んー、いや……これは私の故郷の話だが、死んだら転生するという教えがないのでな。少なくとも私の知り合いに亡霊の類はいない。近い概念の連中もいるにはいるが、厳密には怪物だし」
「そうなんですか……あの、外の世界ってどんな人が住んでいるんでしょうか。幻想郷にも外の世界の物は流れてきますから、気にはなっているんですけど」
「…………」
彼は視線を庭にそらし、答えに間を空けた。
ヴィクトールはどこか遠くを見ている。風が木々をさざめかせ、傾き始めた陽光が斜めに部屋を照らしていた。彼がそうして故郷を眺めていたのは、妖夢が彼の視線を追って景色に意味を見出す程度の時間でしかなかったが、それでも何かまずい質問だったかと不安に思い始めた頃、そのままの姿勢で彼はポツリとつぶやいた。
「なんてことはない……私が言っても意味のないことだな。君が自分で見て自分で確かめるより他に、方法なかろう」
「それも、そうですね」
不思議とはぐらかされた気はしなかった。おそらくヴィクトールの言うとおり、自分で確かめるのが一番正解だからだろう。
彼はその辺で話題を打ち切ると、手で庭の奥を示して幽々子に向き直った。
「ところであそこに妖樹があるが、いいのか、放っておいて? なんかかなり危ないことをブツブツこぼしているぞ」
「ブツブツ?」
「正しくは言葉ではないが……まぁ、やたら死をばら撒きたがってるというのは聞こえる」
彼が指しているのは西行妖だった。
聞こえる……? 確かに西行妖は桁外れの妖気を放ってはいるが、聞こえるという表現は馴染まない。葉のない枝を大きく張り出したその桜を眺めながら、妖夢は首をひねった。
幽々子は妖夢よりも先にヴィクトールの言わんとしていることを理解したらしい。立ち上がって縁側の柱に手をつき、ヴィクトールと同じほうを見やる。
「それは、ひょっとして……そうね、あの木も立派な妖怪だから。つまり、あなたはあの木が“喋っている”のが分かるわけね。幻想郷でそれが分かる人なんて居なかったから、ちょっと驚きだわ」
「偶然、友人の奥方が森の妖精でな。それに旅先でパルクライツ森やアインナッシュ森、魔粧の森などの妖樹林も見てきたゆえ……まぁ、多少は。ほんとに多少だぞ?」
「西行妖が、喋っている……ですか?」
今まで一度もそんなことは考えもしなかったが、不自然なことではないかもしれない。西行妖がいかに強力かは妖夢自身よく知っているし、分けてもここはあらゆる亡霊が集う冥界である。喋って当たり前とまでは思わないが、あの木と会話するのに何か問題点があるとすれば、言葉が通じ合うだけの意識があるかどうかくらいだろう。
幽々子は目を細めて風を受けていた。
「あの木がもともとどういう成り立ちであそこにいるのかは知らないけど、ひょっとしたら独りで寂しかったのかもしれないわね……」
幽々子はひらりと縁側から降りると、草履を引っ掛けて西行妖の元まで歩いていった。顔を見合わせ、ヴィクトールと妖夢もそれを追う。
幽々子は西行妖の幹に手をつき、瞳を閉じて微笑んでいた。
妖夢の知る限り、この桜は一度も咲いたことがない。先代の言葉によれば、開花した様はそれは凄まじいものであったらしいが、彼女はこれほどの妖気を放つ桜が花開いたときどうなるか想像もつかなかった。
やがて幽々子は、西行妖に手を突いたまま、肩越しにヴィクトールを振り返った。
「やっぱり私には何を言っているのか聞こえないわ。この子、なんて?」
「黒の葬士によれば、死者の最も強い思いは、自分が誰だったか、ということらしい。私には断片的にしか分からんが……聞いたままを言うぞ。大昔、西行某という大変高名な法師がいたそうだ。そやつ、仏門に帰依しながら優れた和歌の達人でもあったとか。各地を遍歴して様々な業績を残したというが、晩年は寺院に庵を結び人一倍桜を愛でたらしい……」
ヴィクトールはいったん切ると、幽々子と同じように西行妖の胴に手を触れた。
彼女と同じように、彼も微笑む。
「今わの際まで桜に執心し、ついにはこの木の下に魂を伏せることにしたそうだ。墓は別にあるらしいが、こやつ死んだときに魂だけ肉から抜け出したようだな。以来この桜は魔力を放つようになり、人死にを誘ってはその力を増していった。やがて桜ごと幻想郷へやってきて……今に至る、ということだ」
ヴィクトールは根から幹、枝の先端まで順繰りに目で追っていた。今も西行妖は何かを訴え続けているのだろうか、彼はくるりと身体を反転させると太い幹に背中を預ける。
ヴィクトールは皮肉げに口の端を吊り上げ、腕を組んで妖夢を見つめてきた。
「悪いことは言わん。斬るべきだ」
「……なぜ?」
幽々子がすっと目を開いて問いかける。ヴィクトールは軽くとんとんと幹を指で叩き、次いで周囲全体を腕で示した。
「あまりに死を吸いすぎてしまったせいで、これはもうたった一つのことしか考えていない。地上を蹂躙して終わりなき死をばら撒くとな。ここまで成長してしまうと大抵大地と大気も妖化するものだが、厳重な封印がされているおかげで他に影響が出ていない。私の見た限りこの封印が解けることはないだろうが、所詮約束事というのは破られるためにあるものだ……いつかは必ず、解き放たれるぞ」
彼は静かな顔でそう告げた。
幽々子は無言で西行妖の根元を見下ろし、じっとヴィクトールの言葉をかみしめているようだった。
――西行寺幽々子が西行妖を初めて見たのは、いつのことだったのだろう。少なくとも妖夢が生まれる以前であることは確実だが、桜の目の前に佇んだまま物思いにふけっている彼女を見ると、その沈黙の長さだけ過去があったのだと思う。化け物桜を咲かせてみたい、などと突然言い出したこともあったが……その話も、幽々子と西行妖の関係を表しているような気がした。
やがて。
「この子、閉じ込められて恨んでいるかしら」
「さぁな。だが植物は恨み辛みとは無縁の存在だとは思うよ。伸ばした根が岩に当たっても、彼らは泣き言こぼすことなく根の向きを変えるだけだ。要は――環境に適応した姿にすぎんだろ」
彼はもたれていた幹から身を離すと、数歩進んで妖夢の隣から西行妖の姿を見上げた。
幽々子は……「そう」とだけうなずくと、両手を広げて太い幹に抱きついた。大木の中を流れる鼓動に聞き入るように、穏やかな顔で表皮に耳を向けている。
「でも、私達ではこの子は斬れないのよ。あまりに強大すぎるから……あなたなら斬れる?」
「外の旅人に頼るな。自分で何とかしたまえ」
「それもそうねぇ。仕方ないから、この子はまだしばらくここに飾っておくことにするわ……とりあえず妖夢には、この子を斬ってくれるくらい強くなってもらわないとね」
「え、あ、はぁ……し、精進します」
もちろん今の妖夢には西行妖を切り伏せる力はない。が、幽々子に命じられたなのなら、長い時間を積み重ねてでも必ず倒すだろう。
特に疑問もなく、妖夢はすとんとそれを理解した。
いつか花が咲くというのなら、その時のために剣を磨いておかねばならないな。
隣でヴィクトールがふっと微笑する。彼は幽々子から満足のいく答えが聞けたのだろうか。ともあれ、それ以上何を言う気もなさそうではあった。
幽々子も話題を続けるつもりはないのか、緩やかに西行妖から離れ屋敷へと踵を返す。いや――その直前、微かに西行妖へ一礼していた。おそらく普段から見ている妖夢でもなければ気づかないような、小さな動きだったが。
「飲みかけのお茶、冷めちゃってるわねぇ、きっと」
「また新しく淹れますよ」
「ぬるい茶でも私にはご馳走だがなぁ」
「……いつもは何を飲んでるの?」
「旅先では、現地の住人からいただいた酒を水筒に詰めているのでな。うっかり切れてしまうと泥水をすする羽目になる」
「……妖夢、かわいそうだから厨房まで行ってお酒と日持ちする食べ物を持ってらっしゃい」
「はい……」
妖夢は幽々子と沈痛な面持ちで顔を見合わせると、部屋に戻る二人を背中に厨房まで食料を取りに行った。
時間の過ぎるのは早いもので、しばらく談笑していたヴィクトールも空が赤くなる頃に帰ることとなった。
「色々と世話になった。ありがとう」
「楽しかったわぁ。よかったらまた来てね」
「道中お気をつけください。武運長久を」
三人それぞれ別れの挨拶を交わし、ヴィクトールは気負った風もなくさっさと身を翻した。腰には干し肉の包みと、酒の満たされた竹筒が提げられている。
秋の夕暮が冥界の林を照らし、赤く色づいた木々をますます燃え上がらせた。石畳の道を歩きながら、ヴィクトールはそんな風景を横目で眺めているようだ。丹精込めて手入れした庭の景色を楽しんでもらえているようで、妖夢ははにかみながらも笑みをこぼす。
やがて階段を下り、視界から消えていく彼を見送ると、幽々子は屋敷に戻る前に一度だけ庭を振り返った。
「妖夢」
「はい」
庭を――一際巨大な桜を見つめながら、幽々子はそのまま何か言葉を継ごうとしたのかもしれない。一瞬だけ口を開いたのを、妖夢は見ていた。しかし――
幽々子は苦笑すると、それきり西行妖から視線を外して白玉楼へと歩いていった。
「……なんでもないわ。そろそろご飯をお願いね」
「はい、お任せください」
幽々子は肩越しに振り返って笑みを残すと、いつもの調子で戻っていった。
妖夢もそれを追い、途中で何気なく西行妖を一瞥する。無数の死を誘う妖樹。いつかはあの桜も、冥界の亡霊たちのように成仏できる日が来るだろうか。
不意に、
――私の屍には、桜の花だけを供えてくれればいい……――
声が、
「…………」
空耳だろう。耳を澄ましても、もう何も聞こえない。
わずかに髪を巻き上げる疾風を感じ、妖夢は無言のまま踵を返した。
「さて」
さて、今日はどんな夕飯を用意しようか。
「大丈夫ですよ、お任せください。私は幽々子さまの剣ですから」
妖夢は石畳の上を歩きながら、秋の夕焼けにポツリと囁いた。
木に背中を預けて座っているリリカの目の前で、花に戯れるように虫が何匹か飛び回っていた。のどかな風景だ。
鍵盤はしっかり小脇に抱えたまま、リリカは顔を上に向ける。
白い雲がよく映える青空に、楽しげな笑いを響かせる影が一つ。そして凄絶な悲鳴を放っている影が二つ。
「うふふふふ。ほーら、まだまだ終わらないわよぉ」
「いぃぃぃやぁぁぁ! やめてー、助けてー!」
「リリカー、どこに行ったー!? ――ひゃあああ!」
花の弾幕が宙を舞い、追われる二人は怒号を上げながら大空を逃げ回っていた。
リリカはこっそりとため息を漏らし、再び花畑へ視線を戻しつつ身を潜める。
少し前の話だ。
姉妹三人でこの花畑を通りかかったとき、突然横手から大量の花が襲ってきた。
直撃したり避けたりとそれだけでも十分酷い目にあったが、そんな彼女らの前に現れたのは幻想郷でも有数のいじめ屋、風見幽花だった。虫の居所が悪かったのだろうか、彼女は笑顔でさらに信じられない量の花を撃ち出すと、容赦なくリリカたちを追い立て始めた。
曰く、『やかましい!』らしい。
プリズムリバー三姉妹も、それなりに場数は踏んでいる。体勢を立て直し三人そろって反撃に出たのだが、あっけなく魔力砲をぶちかまされ、あとは必死になって逃げに専念していた。
リリカは、隙を見て姉達を突き飛ばし、一瞬注意をそらしたところで地上に逃れたのだ。
「おほほほは。チンドン屋はいい音で鳴くわねぇ。じっくりといたぶってあげるわ」
「リリカ出てこいぃぃー!」
上空ではさらに悲壮な悲鳴。
リリカは鼻の頭をかきつつ、のんびりと花畑――ヒマワリの花畑を眺め続ける。
今リリカがいるのは、街道に大きくせり出した一本の木の下で、上から見ただけではそう簡単には見つからない。うまく気配を隠して進めば、道なりに遠くまで逃げられるかもしれなかった。
しかし、姉達が撃墜されるのも時間の問題。できれば三人そろって脱出したいところだが、手立てはないものか……
答えを求め、リリカは街道を目で追った。彼女の居場所を境に、後ろ側は森の道、見ているほうはヒマワリ畑の道と、大きく変化している。
まさかこのヒマワリ畑全てを消し去るなんて出来るはずもないし……などとリリカが考えていると、不意に視界の隅に人影が現れた。
見やる。道の向こう、両側をヒマワリに囲まれた街道を――一人の男が歩いてくるところだった。
遠目にも背が高いと分かる男だ。軽装だがしっかりした衣装を身にまとい、慣れた旅人といった風情を感じる。
段々近づいてくると、顔かたちも見えるようになった。そのあたりから、奇妙なものを感じる。彫りの深い顔立ちに、大雑把に伸びたあごひげ。シャープな印象を受ける目つきで、何よりも特徴的なのは髪の色だった。
あいまいな色なので例えるのは難しいが、銀色の満月に夕焼けの空を重ねたらおそらくこんな色になるだろう、という髪だった。長いらしく、どうも後ろで束ねている風だ。
見慣れない男だった。なんというか――言葉にしづらいが、とにかく見慣れない。リリカも生まれは西洋なので、男の外見に関しては特に違和感を感じることもなかった。だが、やはり奇妙な男だ。
とりあえず細かいことは置いておくことにしよう。利用できそうなカモがやってきてくれたわけだし。
リリカはざっと頭の中でこれからすべきことの算段を整えると、近くまでやってきた男に大げさな身振りで駆け寄った。
「ああっ、助けてくださいオサムライさん!」
「……いや、侍ではない」
淡白なリアクションが返ってきた。
それとなく観察すると、男は困ったような表情で首を傾げてリリカを見返している。間近で見るとリリカよりかなり背が高いが、気にせず彼女は続けた。よよよと崩れ落ちて哀れっぽい声を出す。
「あぁ、なんてかわいそうな私。この辺り一帯をシマにしている悪逆非道な残虐妖怪にどつきまわされているところを姉達を生贄にしてまで逃げてきたのに、頼る先がこんなパッとしない通りすがりの中年オヤジだけだなんて、天は私を見放してしまったのね……」
「君が何を言わんとしているのか、よく分からんが……」
男は心底あきれた表情で身を引くと、上空で未だ酸鼻を極めている弾幕戦を見上げた。そろそろ姉達の体力も尽きてきたらしく、悲鳴に力がない。
それでは説得力に欠けるではないかとリリカは内心で舌打ちした。男はさらに顔をしかめて口を開く。
「とりあえず、君は一体?」
「私はリリカ。上で泣きながら逃げ回ってるのが私の姉達で、笑いながら弾幕をばら撒いて悦に浸ってるのが風見幽花」
「そうか。私の名前はヴィクトールだ。ここへは旅の途中で来た」
「ああ、私たち三人の力だけではあの真性サディストには太刀打ちできないの。どうか私達を助けて、オサムライさん!」
「いやしかし……これ以上ないくらいうそ臭い顔で言われてもな……」
ため息混じりに肩を落とすヴィクトール。彼は腕を組み、疲れたような眼差しを空に向けた。
「あの花の妖怪、とんでもなく強くないか」
「それだけじゃないの。わがままで強情でそのくせ移り気で、自分の楽しみのためなら他人は犠牲になるべきだって公言してるのよ。そのせいで私達がどれだけ苦労させられたか……」
「いいではないか、苦労は人を育てる。そういうのを自力で乗り越えて初めて一人前だぞ。じゃ、私はこの辺で――」
「ああ、待って! 見捨てる気なの!?」
さりげなくすれ違おうとした彼の服の裾を掴み、リリカは思いっきり泣き顔を作った。
「なぜそんなあっさりと見殺しなんていう選択肢を選べるわけ!? 人としてどうかしてるわ! 困っている人を見たら助けましょうって親に教わらなかったの!? 鬼よ、悪魔よ! 酷すぎるわぁぁぁ!」
「分かった、分かったから……」
あんまり大声を出すと見つかるので、実際には普通の口調より少し大きい程度の泣きまねだったが、ヴィクトールは根負けしたようで振り返ってリリカの肩をぽんぽんと叩いてきた。
「うーむ、正直騒ぎには関わりたくないのだが……」
「助けてくれるのね。ありがとう」
「……要はあの花の妖怪から逃げられればいいんだな?」
「そうなの。何とかして、三人そろって逃げ切らないと――あのアマ調子こいて手加減抜きでビシバシ当ててきやがって、チクショー覚えてろよ……」
「何?」
「ううん、なんでもないわ」
危ない。ぱぁっと満面の笑みでごまかす。
ヴィクトールは特に気にしなかったようで、渋面で空を見上げて何事か黙考し始める。さっさと特攻なり何なりしてほしかったが、あの幽香が相手だと確かに不用意な突撃は時間稼ぎにもならないだろう。
リリカは大して期待しない心地で木にもたれていた。もとよりヴィクトールは強そうには見えない。まぁ、何であれ注意がそれた瞬間に姉達を引っつかんで離脱してしまえばよい。
ヴィクトールはしばらくして決意したのか、視線を花畑に移すとそのうちの一本まで移動した。
「これで何とかなるだろう、おそらく」
リリカが成り行きを見守っていると、彼は口の端を不自然に吊り上げた。と……
唐突にヴィクトールの牙が一本鋭く伸びる。バネ仕掛けのように飛び出たそれを、彼は無造作に指でつまんでへし折った。つーと流れる血の跡が舌で拭われると、いつの間にか新しい歯が生えそろっている。
リリカが片眉を上げて見ている前で、ヴィクトールは無造作に牙をヒマワリへ突き立てた。
牙から魔力があふれてヒマワリを侵食する――とか、そういった何かしらの変化があったわけではない。しかし彼は軽く上空を確認すると、顔を厳しく引き締めてから言ってきた。
「君はどこか別の……あの辺に隠れていたほうがいい。すぐに花の彼女は私に気づくはずだ」
「……何したの?」
「ちょっとした暗示をな。単なる不意打ちにすぎんよ、それに私の力量では花たちに少々眠ってもらうくらいしか出来ん……」
彼の言葉が終わる頃、上空でも変化が起きていた。
幽香が微笑みと共にふりまいていた無数の花が、しぼむようにその量を減らしていく。
原因がすぐにはわからなかったのだろう、幽香は空中で疑問符を浮かべながら傘をふって、なおも花を呼び出そうとしていた。が、スカスカと空を切るだけで申し訳程度にしか花は現れない。
「んー……?」
そのうちの一枚をつまみ、彼女は口をへの字にしてうなり声を上げる。
その頃、バテきって動けなくなっていた姉達は、もはや安堵の声すらでないようで高い木の枝に引っかかってぶつぶつと呪詛をもらしていた。
こっそりと影から近づき、耳をそばだてる。
「リリカ……殺す……」
「今受けた……千倍の苦痛を……リリカに……」
…………。
とりあえず、出て行くのはやめた。
ぶつぶつと続けられる呟きを振り払うように幽香を見上げる。それが合図だったように、幽香は何が起こったか気づいたらしく、はっと身を翻してヴィクトールへ鋭い視線を向けた。迎えるヴィクトールも油断なく幽香を見つめている。
重苦しい緊張感が二人の間に押し詰められていた。リリカは影から機会を窺う。
「あなたね、私の可愛い花畑に細工してくれたのは」
「……まぁその通りではあるのだが。どうだろう、争いは争いしか生み出さないわけだからして、矛を収めて何も言わずに通してくれればありがたい……」
「うふふ。私に逆らうなんて、いい度胸じゃない」
傘に魔力を集中する幽香。ヴィクトールは慌てて手を振って後ずさった。
「ま、待て! 話せば分かる。だからそんな物騒な魔力砲はしまってくれ! そうだ、リリカ、君からも頼――」
「ああぁー、酷いわ酷いのよ酷すぎる! そこの男ってば『ぐふ、ぐふふ』なんて下卑た笑いでイッちゃった顔をしながら、さも楽しそーにヒマワリに牙を突き立てて一人で喜んでたのよ! 私がいくら止めても聞かないで刺し続けたの! 鬼よ、悪魔よ! 花に罪はないのに!」
「な、なにぃ、裏切ったな!?」
絶妙のタイミングで嘘泣きしながらヴィクトールを奈落に突き落とすリリカ。彼女は素早く姉達の手をわしづかみにすると、あとは物も言わずに全力でその場を離れた。
長居できる状況ではない。背後には幽香の鬼気迫るオーラが立ち上っているのを感じるのだ。ヴィクトールは一瞬弁明らしき声を発したようだったが、何を言っても無駄だと悟ったのかリリカたちを追って彼も逃げ出そうとしていた。
もちろんタダで逃がしてくれるフラワーマスターではない。
「待ぁぁてぇぇぇ!」
「違う! 私は……ぐおぁあああ!」
後方で繰り広げられる惨劇を感じながら――それでもヴィクトールは頑張ってリリカたちを追いかけているようだった――リリカは容赦なくフルスピードで安全な場所へと飛び続けていた。
■ ● ■
縁側に腰掛け、空を見上げる。
押して延ばしたような秋の雲が、青空の谷間にぽつぽつと浮かんでいた。のどかな日和だ、向こう二、三日は雨も降らなかろう。
昼下がりの休憩時間。妖夢は屋敷の手入れを切り上げて饅頭とお茶をつまんでいた。やはり昼時は渋い茶と甘い饅頭に限る。
こうした息抜きの時間には、三回に二回くらい幽々子と共に座卓を囲む妖夢だったが、幽々子は今忙しいとかで一人で空を見上げている。
まぁ、やはり誰かと一緒にお茶を飲むほうが美味しく感じるのは確かだ。
涼風を肌に受けながら、妖夢はお茶をすすって一息ついた。
そうして彼女がのんびりと庭を眺めていると、どこからか……空をよぎって三つの影が現れる。目を向けると、それらは飛び去って行くところだったようだ。いつの間に冥界にやってきたのか、演奏家の三姉妹が背中を向けて蒼穹の中へ吸い込まれていく。
……何の用だったのだろうか?
妖夢はいぶかしんで、まだ途中までしか口にしていないお茶と団子を座卓に戻し、刀を取って彼女らが飛び立ったあたりへ向かった。
白玉楼階段の中腹、のやや下寄り。妖夢が上から観察すると、そこに一人の男が腰掛けていた。
どこか哀愁漂う背中から積年の疲労感を感じる。肩まである銀髪を――いや、妖夢自身の髪に比べればだいぶ赤みがかっているか、とにかくそんな髪を紐で縛ってシッポにしていた。
背丈は高いような気がしたが、肉付きが太いという体格でもない。
妖夢は男の背後に忍び寄ると、刀を抜き、突きつけようとして、
「……何者だ」
やめた。
一見して、大したことのない手合いである。間違いなく切り伏せられる確信があったが、切っ先を向けなかったのは気まぐれのようなものだ。
男は誰何の声にピクッと身体を震わせると、妖夢を振り向いた。
「む、すまん……疲れたので休ませてもらっていた。いや、怪しい者ではない」
白い肌に、異国的な造作。青い瞳が申し訳なさそうに妖夢のほうを見ていた。
何か、ちぐはぐなものを感じる。なんだろう、場違いというか――とにかくふさわしくない、何か。
距離をとってじっと不審な目つきを向けている妖夢は気にしないのか、彼は続けた。
「私はヴィクトールという、遠くからの旅の者でな。つい先ほど迷惑な騒動に巻き込まれ、騒霊たちの後についてここまで避難してきた……彼女らはもう帰ってしまったが、私はなにぶん歳なのでな。身体の痛みが引くまで、ここでゆっくりさせてもらおうと思っていた。邪魔なら立ち去るが」
遠まわしな物言いは好きではないのか内容は直截的で、彼は丁寧にそう言ってきた。
彼の立ち居振る舞いからは不思議な感覚を覚えるものの、この冥界にやってくる客人の中ではかなり礼儀正しいほうだ――危険な人物ではなかろう。
妖夢はもう一度注意深くヴィクトールを観察してから、刀を納めて彼の正面に立った。
「いえ、押し入りならともかく、そういう事情でしたら構いません。プリズムリバーの姉妹達に案内されたということは、少なくとも害意はなさそうですし。申し遅れましたが、私はこの白玉楼当主の剣の指南役兼庭師、魂魄妖夢です」
「ありがたい。……しかし、ここは死者の国なのか? ずいぶん顔色の悪い者たちしかいないが……」
「そのものずばり、冥界ですよ」
知らないで来たのだろうか。
妖夢は改めて男――ヴィクトールを観察した。武芸家に通じる隙のない眼差しを持っているが、どちらかというと本でも読んでいるほうがよほど似合う気もする。ずっと腰掛けているので体運びに関してはなんともいえない。いや、さっきの彼の言葉どおり身体が痛むのか、仕草一つとってもどこか気だるげだ。
……と、いうよりも。
「ひょっとして、怪我してませんか?」
「まぁ、なんだ……不覚にも極大魔力砲の直撃を食らってしまって、実はかなり痛い」
「……大丈夫ですか、それ」
半ば呆れてため息交じりに返す。
魔力砲と聞いて連想するのはマスタースパークだ。あれを受けてなお逃げてきたのなら、相当タフな妖怪なのだろう。
妖夢はちらりと白玉楼のほうを見やった。一瞬逡巡する。
――まぁ、いいか。
「ビクトールさん」
「ヴィクトール」
「ここで座っていても構いませんが、よかったらお屋敷のほうにご案内しますよ」
「何、いいのか?」
「怪我人を放っておくわけにもいきませんし……本当は死人でなければ冥界に入ってはいけないのですけれど、まぁ、いいです。みょん」
「それはすまない。是非ご厄介になる」
一礼して立ち上がるヴィクトール。
妖夢はそんな彼の数歩先に立つと、一度振り向いて遠くの紅葉と共に彼を眺めやってから屋敷へ先導していった。
ほどなく、妖夢がお茶を飲んでいた縁側が見えてきた。
ヴィクトールはフラフラとおぼつかない足取りで妖夢の後についてきている。実のところわざわざ招くより、あのまま休んでいたほうがよかったのではないかと思わないでもないが。
屋敷を示し、妖夢は肩越しにヴィクトールを振り返る。
「あちらです」
「つ、着いたか……ずいぶん大きいな」
息を切らしながら、感心したようにうなずくヴィクトール。
そんな彼を引き連れて妖夢は室内に上がりこんだ。食べかけの饅頭が残っていたはずだが、それを片付けるのは後回しにして――
そう考えながら座卓を見ると、お茶も饅頭も消えていた。
代わりに木のフォークをくわえたまま目をぱちくりしている幽々子がいる。
何がどうなったかは文字通り考えるまでもない……妖夢は反射的にばっと向き直ると声を荒げた。
「幽々子さまっ、またつまみ食いを!」
「おいしかったわぁ」
「もはやごまかす気すらないんですか」
呆れを通り越して疲れる。
妖夢が頭を抱えていると、幽々子はヴィクトールのほうに気づいたようだった。彼は靴を揃えているらしく背を向けていたが、微苦笑をもらしつつ顔だけ室内に振り返ってくる。
「失礼する」
「あら、どちらさま?」
「えーと……何でも弾幕に巻き込まれて逃げてきたとかで、階段の途中で休んでいたんですよ。そのままにしておくわけにもいかないと思いまして、案内しました。名前はビクトールさんとか」
「ヴィクトール……ご好意に甘えて屋根を借りさせていただこうと思ったのだが、構わんかな」
「喜んでお招きするわー。私はこの屋敷の主人の、西行寺幽々子。ゆっくりしてちょうだい」
笑顔でヴィクトールを迎える幽々子。
彼女は妖夢にお茶の用意をするよう言いつけると、正座して座卓についたヴィクトールへ口を開いた。
「それはそうと、見慣れない人ねぇ。ビクトールさんはこの辺に住んでいるのかしら」
「ヴィ……」
ヴィクトールはもごもごと口を動かしてから、ため息と共にそれをやめた。
「旅の者だ、外から来た」
「そりゃあ、冥界の外から来たのは分かりますが……」
お茶を淹れながら当たり前に返す妖夢。
「いやな、そうではなく――」
「きっと、幻想郷の外から来たのね?」
幽々子もまた、当たり前のようにそう返してきた。
一瞬ついていけず、妖夢は目をしばたかせる。急須を蒸らしている途中で動きを止めていると、幽々子が横手からひょいとそれを取り上げて茶碗にそれぞれ注ぎ始めた。ヴィクトールはごく普通にそれを受け取って、
「うむ。欧州は仏蘭西、永遠の華の都より……要するに遠いところから来た。お茶、頂戴する」
「変わった人だとは思ってたけど、外からの旅人さんは初めて見るわ。紫も意外に社交的なのね――」
「いや、あの」
和やかな会話になってしまっている二人に、妖夢は慌てて割り込んだ。茶碗に口をつけたまま怪訝な表情で見返してくるが、気にしてはいられない。
混乱するものを感じながら、妖夢は手振りも交えつつヴィクトールへ顔を向ける。
「げ、幻想郷の外からいらっしゃったんですか?」
「あぁ。人に会いにな」
「どうやって……?」
「……君、細かいことを気にしてはいけない」
「そうよ妖夢。ビクトールさんが幻想郷の外の人だっていうのは、“見れば分かる”でしょ?」
実際、ヴィクトールは常に不思議な違和感を漂わせていた。妖夢にとってその正体は『見れば分かる』ものではないが、外の者ということにでもしなければ納得できないのは確かだ。『斬れば分かる』かもしれないが。
妖夢は額に手を当ててしばし沈黙する。
その向こうで、二人はお茶を飲みながら外の景色を眺めていた。
「いい庭だな。こう、趣というか、心理的な奥行きのようなものを感じる……西洋の庭は、こうは飾らないものだ。こういった様式の庭もいくつか見てきたが、ここは格別だな」
「嬉しいわねぇ。その庭は妖夢が手入れしてるの。外人さんにそう言ってもらえると、この子も喜ぶわ」
「いやいや、世辞ではないぞ、実によく整えられている……ん、何……? ほぉ、なんとも……」
「お煎餅、食べるかしら。お饅頭もあるけど」
「ありがたい」
どこから取り出したのか、幽々子は煎餅と饅頭の入った器を座卓に載せていた。
ヴィクトールは一枚の煎餅を取り出すと、未だ押し黙ったままの妖夢へ目を向ける。
「……突然外の怪物が現れたら、やはり困るかね」
――初めて彼と目を合わせたとき、若干の申し訳なさを感じ取った。今の彼の口調には、それと同じものが含まれているように思う。
妖夢は慌てて顔を上げ、不定形だった言葉を脳裏で組み立てなおした。
「いえ、驚いてなんと言っていいか分からなかっただけです……外の世界のことなんて、考えたこともなかったので」
「本質的には、大差ないな」
彼は肩をすくめながら煎餅をかじった。
「まぁ都合というものがあるから、向こうでは怪物が大手を振って歩けるという状況ではないが、違うのはそれくらいだ」
「やっぱり、外にも妖怪はいるんですね……幽霊なんかもいます?」
「んー、いや……これは私の故郷の話だが、死んだら転生するという教えがないのでな。少なくとも私の知り合いに亡霊の類はいない。近い概念の連中もいるにはいるが、厳密には怪物だし」
「そうなんですか……あの、外の世界ってどんな人が住んでいるんでしょうか。幻想郷にも外の世界の物は流れてきますから、気にはなっているんですけど」
「…………」
彼は視線を庭にそらし、答えに間を空けた。
ヴィクトールはどこか遠くを見ている。風が木々をさざめかせ、傾き始めた陽光が斜めに部屋を照らしていた。彼がそうして故郷を眺めていたのは、妖夢が彼の視線を追って景色に意味を見出す程度の時間でしかなかったが、それでも何かまずい質問だったかと不安に思い始めた頃、そのままの姿勢で彼はポツリとつぶやいた。
「なんてことはない……私が言っても意味のないことだな。君が自分で見て自分で確かめるより他に、方法なかろう」
「それも、そうですね」
不思議とはぐらかされた気はしなかった。おそらくヴィクトールの言うとおり、自分で確かめるのが一番正解だからだろう。
彼はその辺で話題を打ち切ると、手で庭の奥を示して幽々子に向き直った。
「ところであそこに妖樹があるが、いいのか、放っておいて? なんかかなり危ないことをブツブツこぼしているぞ」
「ブツブツ?」
「正しくは言葉ではないが……まぁ、やたら死をばら撒きたがってるというのは聞こえる」
彼が指しているのは西行妖だった。
聞こえる……? 確かに西行妖は桁外れの妖気を放ってはいるが、聞こえるという表現は馴染まない。葉のない枝を大きく張り出したその桜を眺めながら、妖夢は首をひねった。
幽々子は妖夢よりも先にヴィクトールの言わんとしていることを理解したらしい。立ち上がって縁側の柱に手をつき、ヴィクトールと同じほうを見やる。
「それは、ひょっとして……そうね、あの木も立派な妖怪だから。つまり、あなたはあの木が“喋っている”のが分かるわけね。幻想郷でそれが分かる人なんて居なかったから、ちょっと驚きだわ」
「偶然、友人の奥方が森の妖精でな。それに旅先でパルクライツ森やアインナッシュ森、魔粧の森などの妖樹林も見てきたゆえ……まぁ、多少は。ほんとに多少だぞ?」
「西行妖が、喋っている……ですか?」
今まで一度もそんなことは考えもしなかったが、不自然なことではないかもしれない。西行妖がいかに強力かは妖夢自身よく知っているし、分けてもここはあらゆる亡霊が集う冥界である。喋って当たり前とまでは思わないが、あの木と会話するのに何か問題点があるとすれば、言葉が通じ合うだけの意識があるかどうかくらいだろう。
幽々子は目を細めて風を受けていた。
「あの木がもともとどういう成り立ちであそこにいるのかは知らないけど、ひょっとしたら独りで寂しかったのかもしれないわね……」
幽々子はひらりと縁側から降りると、草履を引っ掛けて西行妖の元まで歩いていった。顔を見合わせ、ヴィクトールと妖夢もそれを追う。
幽々子は西行妖の幹に手をつき、瞳を閉じて微笑んでいた。
妖夢の知る限り、この桜は一度も咲いたことがない。先代の言葉によれば、開花した様はそれは凄まじいものであったらしいが、彼女はこれほどの妖気を放つ桜が花開いたときどうなるか想像もつかなかった。
やがて幽々子は、西行妖に手を突いたまま、肩越しにヴィクトールを振り返った。
「やっぱり私には何を言っているのか聞こえないわ。この子、なんて?」
「黒の葬士によれば、死者の最も強い思いは、自分が誰だったか、ということらしい。私には断片的にしか分からんが……聞いたままを言うぞ。大昔、西行某という大変高名な法師がいたそうだ。そやつ、仏門に帰依しながら優れた和歌の達人でもあったとか。各地を遍歴して様々な業績を残したというが、晩年は寺院に庵を結び人一倍桜を愛でたらしい……」
ヴィクトールはいったん切ると、幽々子と同じように西行妖の胴に手を触れた。
彼女と同じように、彼も微笑む。
「今わの際まで桜に執心し、ついにはこの木の下に魂を伏せることにしたそうだ。墓は別にあるらしいが、こやつ死んだときに魂だけ肉から抜け出したようだな。以来この桜は魔力を放つようになり、人死にを誘ってはその力を増していった。やがて桜ごと幻想郷へやってきて……今に至る、ということだ」
ヴィクトールは根から幹、枝の先端まで順繰りに目で追っていた。今も西行妖は何かを訴え続けているのだろうか、彼はくるりと身体を反転させると太い幹に背中を預ける。
ヴィクトールは皮肉げに口の端を吊り上げ、腕を組んで妖夢を見つめてきた。
「悪いことは言わん。斬るべきだ」
「……なぜ?」
幽々子がすっと目を開いて問いかける。ヴィクトールは軽くとんとんと幹を指で叩き、次いで周囲全体を腕で示した。
「あまりに死を吸いすぎてしまったせいで、これはもうたった一つのことしか考えていない。地上を蹂躙して終わりなき死をばら撒くとな。ここまで成長してしまうと大抵大地と大気も妖化するものだが、厳重な封印がされているおかげで他に影響が出ていない。私の見た限りこの封印が解けることはないだろうが、所詮約束事というのは破られるためにあるものだ……いつかは必ず、解き放たれるぞ」
彼は静かな顔でそう告げた。
幽々子は無言で西行妖の根元を見下ろし、じっとヴィクトールの言葉をかみしめているようだった。
――西行寺幽々子が西行妖を初めて見たのは、いつのことだったのだろう。少なくとも妖夢が生まれる以前であることは確実だが、桜の目の前に佇んだまま物思いにふけっている彼女を見ると、その沈黙の長さだけ過去があったのだと思う。化け物桜を咲かせてみたい、などと突然言い出したこともあったが……その話も、幽々子と西行妖の関係を表しているような気がした。
やがて。
「この子、閉じ込められて恨んでいるかしら」
「さぁな。だが植物は恨み辛みとは無縁の存在だとは思うよ。伸ばした根が岩に当たっても、彼らは泣き言こぼすことなく根の向きを変えるだけだ。要は――環境に適応した姿にすぎんだろ」
彼はもたれていた幹から身を離すと、数歩進んで妖夢の隣から西行妖の姿を見上げた。
幽々子は……「そう」とだけうなずくと、両手を広げて太い幹に抱きついた。大木の中を流れる鼓動に聞き入るように、穏やかな顔で表皮に耳を向けている。
「でも、私達ではこの子は斬れないのよ。あまりに強大すぎるから……あなたなら斬れる?」
「外の旅人に頼るな。自分で何とかしたまえ」
「それもそうねぇ。仕方ないから、この子はまだしばらくここに飾っておくことにするわ……とりあえず妖夢には、この子を斬ってくれるくらい強くなってもらわないとね」
「え、あ、はぁ……し、精進します」
もちろん今の妖夢には西行妖を切り伏せる力はない。が、幽々子に命じられたなのなら、長い時間を積み重ねてでも必ず倒すだろう。
特に疑問もなく、妖夢はすとんとそれを理解した。
いつか花が咲くというのなら、その時のために剣を磨いておかねばならないな。
隣でヴィクトールがふっと微笑する。彼は幽々子から満足のいく答えが聞けたのだろうか。ともあれ、それ以上何を言う気もなさそうではあった。
幽々子も話題を続けるつもりはないのか、緩やかに西行妖から離れ屋敷へと踵を返す。いや――その直前、微かに西行妖へ一礼していた。おそらく普段から見ている妖夢でもなければ気づかないような、小さな動きだったが。
「飲みかけのお茶、冷めちゃってるわねぇ、きっと」
「また新しく淹れますよ」
「ぬるい茶でも私にはご馳走だがなぁ」
「……いつもは何を飲んでるの?」
「旅先では、現地の住人からいただいた酒を水筒に詰めているのでな。うっかり切れてしまうと泥水をすする羽目になる」
「……妖夢、かわいそうだから厨房まで行ってお酒と日持ちする食べ物を持ってらっしゃい」
「はい……」
妖夢は幽々子と沈痛な面持ちで顔を見合わせると、部屋に戻る二人を背中に厨房まで食料を取りに行った。
時間の過ぎるのは早いもので、しばらく談笑していたヴィクトールも空が赤くなる頃に帰ることとなった。
「色々と世話になった。ありがとう」
「楽しかったわぁ。よかったらまた来てね」
「道中お気をつけください。武運長久を」
三人それぞれ別れの挨拶を交わし、ヴィクトールは気負った風もなくさっさと身を翻した。腰には干し肉の包みと、酒の満たされた竹筒が提げられている。
秋の夕暮が冥界の林を照らし、赤く色づいた木々をますます燃え上がらせた。石畳の道を歩きながら、ヴィクトールはそんな風景を横目で眺めているようだ。丹精込めて手入れした庭の景色を楽しんでもらえているようで、妖夢ははにかみながらも笑みをこぼす。
やがて階段を下り、視界から消えていく彼を見送ると、幽々子は屋敷に戻る前に一度だけ庭を振り返った。
「妖夢」
「はい」
庭を――一際巨大な桜を見つめながら、幽々子はそのまま何か言葉を継ごうとしたのかもしれない。一瞬だけ口を開いたのを、妖夢は見ていた。しかし――
幽々子は苦笑すると、それきり西行妖から視線を外して白玉楼へと歩いていった。
「……なんでもないわ。そろそろご飯をお願いね」
「はい、お任せください」
幽々子は肩越しに振り返って笑みを残すと、いつもの調子で戻っていった。
妖夢もそれを追い、途中で何気なく西行妖を一瞥する。無数の死を誘う妖樹。いつかはあの桜も、冥界の亡霊たちのように成仏できる日が来るだろうか。
不意に、
――私の屍には、桜の花だけを供えてくれればいい……――
声が、
「…………」
空耳だろう。耳を澄ましても、もう何も聞こえない。
わずかに髪を巻き上げる疾風を感じ、妖夢は無言のまま踵を返した。
「さて」
さて、今日はどんな夕飯を用意しようか。
「大丈夫ですよ、お任せください。私は幽々子さまの剣ですから」
妖夢は石畳の上を歩きながら、秋の夕焼けにポツリと囁いた。
次が早く載る事を期待してます