長い長い冬が終わりを迎えようとしていた。店の外にはまだ雪が降っていたが、一時期のような勢いはなかった。なごり雪は景色を白く染めるだけで、決して積ろうとはしなかった。厳しかった寒さも柔らかくなり、もう七日もすれば花も咲き始めるだろう。
霖之助が朝から秘蔵の酒をひっぱりだしたのは、今日のこれが今年最後の雪見酒になる気がしたからだ。
朝から酒を呑む、と言うと自堕落な生活に聞こえるが、霖之助の場合はそうではない。客のこない古道具屋にとっては朝も昼も夜も関係がない。季節の移ろいに身を任せ、心の赴くままに生活する。それが霖之助の毎日だった。朝から酒を呑むことも、そう珍しくはない。
珍しいことといえば、
「香霖、これ美味いな」
朝も早くから、魔理沙が店内にいることだけだ。
「上等ものだからね。店にあるのはそれっきりだよ」
「じゃあ全部呑んでしまおうぜ」
何が『じゃあ』なのか分からない。分からないが、訊いても無駄だろうから何も言わなかった。
代わりに魔理沙のお猪口に酒を注ぎ、自分のにも注ぐ。本来なら魔理沙に瓶を渡して注いでもらう――とするのだろうが、そんなことをしよう日には瓶ごと持ち逃げされかねない。
「いい酒だな。こんなのを隠しとくなんて香霖も人が悪いぜ」
「それは売り物じゃないからね。特別な日のために取っておいたんだ」
霖之助の言葉に、魔理沙は意地の悪そうな笑みを浮かべて言う。
「特別じゃない日なんてない――なんて、どこぞの巫女なら言いそうだな」
「ああ、言っていたよ。そう言って秘蔵のお茶を飲んでいった」
「あいつのやりそうなことだぜ」
「君のやりそうなことでもある」
む、という顔をして、魔理沙は人差し指を霖之助に向けて振る。
指先から出た金平糖サイズの星が、霖之助の頭にこつんとぶつかって弾けた。
店の中で弾幕ごっこは止めてほしい。
そう思うが、言わない。言ったら「店の外ならいいんだな!」と返されそうな気がしたからだ。こんな雪の日に外に出たいとは思わない。もっとも、晴れの日だろうがヤリの日だろうが霖之助が外に出ることは滅多にないが。
「で、なんで君はここにいるんだ?」
外の雪を見ながら酒を呑む魔理沙に、霖之助は問う。
普段なら酒を呑む前に訊ねるべきことだが、魔理沙があまりにも当然のように店内にいるので訊くのをすっかり忘れていた。
今日雪見酒をしようと思ったのは、朝起きて外の雪を見たとき、急に思いついたことだ。あらかじめ誰かに『朝から雪見酒をするぞ』と言っていたわけではない。
が、魔理沙は、朝早くから香霖堂へと来た。
まるで、雪見酒をすることを知っていたかのように。それが霖之助には不思議でたまらなかった。
霖之助の問いに、魔理沙はあっけらかんと答える。
「雪見酒をするからだろ?」
不思議そうに首をかしげる魔理沙。
お前は何を言っているのだ、とでも言いたげな魔理沙の態度を見て、霖之助はなんとなく悟る。
この少女にとっては、こうしてここにいることが当たり前のことなのだと。
「つまり、君は酒の匂いに誘われてきたんだな」
「そんなところだぜ」
「雪が降っているのによく鼻が利くことだ。雪は音と匂いを吸い込みながら降るというのに」
「いやいや、やかましい雪妖精もいるぜ。いや、あれは氷妖精だったか?」
「雪と氷は同じものに見えて、やっぱり同じものだけれど、決定的に違うところがある」
「画数か?」
「茶々を入れない。氷も雪も溶けるものだが、氷は冬以外も残る。雪は、冬とともに去っていく。同じものであってもその違いは大きいよ」
「私にはどっちも同じに見えるがね。つまり、どういうことなんだ?」
「七月に雪が降ることはなくても、カキ氷は食べられる」
「はじめからそう言えばいいのに。香霖はいちいち回りくどいぜ」
ぐい、とお猪口を傾ける魔理沙。
霖之助も同じように呑みながら、魔理沙が実直なのか自分が回りくどいのかを考えてみる。結論が出ない、結論を出さない考察が霖之助は好きだった。
他愛のないことを考えながら、戸の向こうを見る。
開けっぱなしの戸からは肌寒い空気が入ってくる。が、凍えるほど寒くはない。ストーブをつけているせいもあるが、気温そのものがそう低くないのだろう。
それでも、長方形にくぎられた向こう側の空間は、まぎれもなく雪の世界だった。
勢いはない。むしろ静かに、穏やかに降る雪。
音もなく、音を吸い込み、しんしんと降り続ける。積もることもなく、水に変わることもなく、重さを感じさせない軽い雪が舞い落ちる。
「たまにはこういうのもいいもんだぜ」
「静かなものもいいだろう? いつも君たちが賑やかすぎるんだよ」
「冗談だろ。『いつも』こうなら退屈で白玉楼逝きだぜ」
残り少なくなったお酒を、ぐい、と一気に飲み干して魔理沙が言う。
やれやれ、と思いつつも霖之助はお酒を注ぎ足す。この勢いなら、昼前には酒が尽きるだろう。そしたら雪見酒から、雪見読書に変更しよう。魔理沙は退屈だと文句を言うかもしれないが。
外の雪が、少し強くなった気がした。
雪が強くなる原因は二つしかない。空の上で雪の妖精が飛びまわっているか、近くで寒さの妖精が遊びまわっているかだ。雪が増えるか空気が冷えるか。そのどちらかで、降る雪の量は変わる。冬が終わるということは、冬の妖精がいなくなるということなのだ。
「少し寒くなってきたな」
魔理沙は呟き、よっ、という小さな掛け声と共に立ち上がった。
何をするのかと霖之助が見ていると、魔理沙はとてとてと戸口の方へと歩いていった。
「帰るのかい?」
「まさか。ストーブの火を強くするだけだぜ」
「やり方は分かるのかい?」
「分からなかったら八卦炉を投げ込むさ」
とんでもないことを言いながら魔理沙はストーブへと近づく。
外の雪は、ますますその強さを増していた。雪に混じって、時折何かが光っているのが見える。あれは雹だろうか。
とてつもなく、嫌な予感がした。
予感がしたものの、できることは何もなかった。
霖之助の見守る中、魔理沙はストーブへと近寄り、その前で立ち止まり、
――ズドドン、と。
その魔理沙の足元に、氷柱がニ、三本突き刺さった。
霖之助と魔理沙の動きが氷付けになったかのように固まる。
そしてその一瞬後。
「たのも――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ッ!!」
大声で叫びながら飛び込んできた氷精を、
「動くと撃つ! マスタァァァァァァァァァァァァァァァッスパァァァァァァァァァァァァァァァァァァクッ!!」
大声で叫びながら魔理沙が撃墜した。
一直線に伸びるマスタースパーク(Easy)の光を見ながら霖之助は思う。
ああ、やっぱりな――と。
どうせこうなると思っていたのだ。朝から雪見酒を始めたのは、昼前には静けさが破られると思ったからだ。何もない日は誰もこないに、何かある日には大抵誰かが静けさを打ち破って訪れる。どこぞの巫女は「すべてが特別な日」と言うのだろうが、毎日こんな騒ぎがあるくらいなら誰もこない幻想郷の端にでも逃げた方がマシだ。
何をするより先に攻撃した魔理沙が、いまさら突然の出来事に驚いたかのように身構えた。
「敵襲か!」
「僕は別に敵を作ったおぼえはないよ」
「なら泥棒だな!」
「泥棒なら、ほら、僕の目の前に」
「あれはツケだって、香霖自分で言ってただろ。だから私は泥棒じゃないぜ」
「あたいを無視するな――!」
再度飛び込んでくる氷精。とくにケガをしている様子もない。ただの氷精かと思ったが、それなりに強い氷精なのかもしれない。
霖之助が、飛び込んできたモノをすぐに氷精だと見破ったのは、彼女の容姿によるものが大きかった。透明の六枚羽は妖精の証、水色と青の服は属性を示す。小柄な体躯も妖精の特徴だ。この時点で寒さか氷の妖精のどちらかだと霖之助は踏んでいたが、飛んできたのが雪球ではなく氷柱だった時点で、『恐らくは氷精だろう』と当たりをつけていた。
その考察を肯定するかのように、妖精は、空中に氷柱を作り出して威嚇した。
先の尖ったそれは、香霖堂内にあるものを軽々と貫通するだろう。珍しい道具だろうが、店主の体だろうが関係なく。
魔理沙が、す、と動いた。ストーブから離れ、霖之助とチルノの対角線上に。
肩をすくめて魔理沙が言う。
「誰かと思えば、なんだチルノか。どうした、雪見られ酒でもしにきたのか? カキ氷の季節はまだ先だぜ」
「なんだってなんだ! だいたいあんた、いきなり撃つなんて正気!? 『動くと撃つ』って言いながら撃って避けれるわけないじゃない!」
「そうだったおかしいな『撃ってから動く』だったな」
さらに氷柱を作り出しながら怒るチルノに、魔理沙は八卦炉をす、と構える。
自分に向けられた八卦炉を見て、う、とチルノは唸る。さすがにもう一度マスタースパーク喰らいたくはないらしい。
一触即発な雰囲気を見て、霖之助は嘆息する。
――弾幕ごっこはいいけれど、店の外でやってほしい。
霖之助はもう一度だけため息を吐き、大儀そうに腰を上げる。
にらみ合う二人の側を通り、チルノが作った氷柱を拾い上げ、
「……あ? 香霖、何してんだ?」
「あー! あたいの氷ー!」
二人の言葉を無視して、霖之助は氷をストーブの上のヤカンに放り込んだ。氷精の作った氷だから、外の雪とそう大差はないだろう。
霖之助の奇行に、あっけに取られる二人。さっきまでの張り詰めた雰囲気は、もう残っていなかった。
気概を削がれた魔理沙が、ばつの悪そうに頬を掻いた。
チルノも霖之助の行動に呆けていたが、すぐに気を取り戻して無い胸をはり、
「ふ、ふふん。今日はあんたなんかに構ってるヒマはないのよ」
いきなり殴りこみかけといて何ぬかしてんだこのガキは、という顔の魔理沙。
その魔理沙を無視して、びし、と自信満々な顔でチルノは人差し指を突き出す。
「用があるのは、あんたよ!」
小さな人差し指が指し示したのは、他の誰でもない、氷をぽちゃんぽちゃんとヤカンに突っ込んでいる霖之助だった。
ふふん、と鼻息を鳴らすチルノ。そのチルノを、魔理沙と霖之助は呆気に取られたような顔で見ている。
「……僕?」
「そう、あんたよ!」
「…………」
「…………」
魔理沙と霖之助は言葉に詰まる。
チルノが魔理沙に用がある、なら分かる。二人はそこそこの接点があるし、気が向けば弾幕ごっこもやりあう。チルノは魔理沙を『いつか倒してやる』と思っているし、魔理沙はチルノのことを『暇つぶしに丁度いいアホな妖精』と思っている。殴り込みをかけてくるのには充分な理由がそこにある。
が、霖之助は違う。めったに外に出ない古道具屋の霖之助と、外を楽しげに飛びまわる氷精チルノでは、接点はほとんどない。事実霖之助は、チルノの名前どころか存在すら知らなかった。
チルノが霖之助に用がある、というのは、仕事熱心な巫女と同じくらいにありえないことなのだ。
たっぷりと――自信ありげに突きつけられたチルノの指がおずおずと引っ込められるくらいにたっぷりと――時間を使って考えた末に、霖之助ははっきりと言った。
「僕は弾幕ごっこはしないよ。そういうのは好きじゃないんだ」
「だから、違うんだって! あたいはお客なの、おーきゃーくー!」
じだんだを踏んで怒るチルノ。体重が軽いせいか、どんどん、ではなくぱしぱし、という軽い音しか鳴らないので迫力はない。
魔理沙と顔を見合わせる。
客。
古道具屋にくる客、といえば、意味はひとつしかない。すなわち、お金や物品を持ってきて、古道具を買ったり、逆に古道具を売っていったりする人間――あるいは妖怪のことだ。
チルノの姿を、上から下まで舐めるように見る。
何も持っていない。そして、金を持っているようにも見えない。おまけに氷柱が転がっている。
殴りこみ以外の何者にも見えない。
「……チルノ、客っていうのは、お金を払って物を買う人のことを言うんだぜ。わかってるか?」
「あ、あ、あん、あんた! あたいのことひょっとしてバカにしてる!?」
「よく分かったな。ひょっとしても何も思いっきりバカにしてるぜ」
「ああもう!? そんなにコテンパンにされたいのねこの黒白!」
「やるか!? カキ氷にされてから泣いても遅いんだぜ!」
再び臨戦態勢に入る魔理沙とチルノ。もう、呆れて何も言えない。どうしてこう少女たちは血の気が荒いのか。気性の荒い妖精と魔理沙だから、仕方がないと言えば仕方がないのだが。
ため息を一つ吐く。
気だるそうな態度で霖之助が動く。一触即発な雰囲気の魔理沙とチルノの間に割り込み、二人の少女に手を突きつける。
「はい、そこまで」
仲裁に入る。このまま放っておけば、店内でいきなり弾幕ごっこをやりかねない。それに、まがりなりにも「客」を名乗っている相手だ。話くらいは聞くべきだろう。チルノが本当に客かどうかは、それこそ話を聞かないと分からないが。
少女たちは構えをとかない。が、一触即発な空気は抜けていた。
自分の思うがままに生きる少女たちは、どうも『興を削がれる』ことと相性が悪いらしい。
少しだけ時間を置いてから、霖之助は魔理沙の方を向く。
ふくれっ面で不機嫌そうな魔理沙。弾幕ごっこを邪魔されたのだから当然の反応かもしれないが、それだけにしては少し不機嫌過ぎるように霖之助は感じた。
「魔理沙もケンカを売らない。他のところならともかく、うちの店は弾幕ごっこができるような場所じゃないんだ。それに、相手はまかりなりにもお客さんなんだから」
「あのなぁ香霖、私は別に……」
言いかけて魔理沙は黙った。
少し変な気がした。いつもの魔理沙よりも少し余裕がないというか、いつもよりも不機嫌そうに見える。少なくとも、霖之助にはそう見えた。
そのことに魔理沙自身も気づいたのか、それ以上は何も言わず、
「けっ、普通だぜ」
何が普通なのか言わないままに、それだけを言い残して魔理沙は踵を返し、店の奥へと引っ込んでいく。
どこに行くのかと思えば、さっきまで霖之助が座っていた席に座り、置いてあった日本酒を抱きかかえ、
ぐい、と直接ラッパ呑みをした。
もう、呆れて何も言えない。
酒飲みと化した魔理沙を放って、霖之助はもう一人の少女を見る。細かい事情は絶対に分かっていないだろうが、魔理沙がやりこめられたのを感じ取って、チルノは少しだけ楽しそうに笑っていた。
不機嫌よりはマシ、と思いながら、霖之助はチルノに話しかける。何はともあれ客かどうかを知りたい。客ならば仕事に移る、客じゃないのなら追い出す。このまま放っておけば、そう遠くないうちに店が破壊されてしまう。
「それで、君はお客と言ったけれど。何か探しものかい? それとも、何かを売りにきたのかな」
「うん。欲しいものがあるの」
チルノは頷く。その態度に反抗的な色はない。
こちらからちょっかいを出さなければ素直なのか、と霖之助は思う。どこにでもちょっかいを出す魔理沙とはさぞかし相性が悪いだろう。あるいは、相性が良いのかもしれない。
氷精が欲しいもの。
それが何か、霖之助は考えてみる。妖精は基本的に物欲を持たない。自然の象徴である彼女らは、そこにあるものだけで満ち足りているからだ。妖精が何かを欲しがる、というのは、霖之助の知識からすれば珍しいことだった。
「何が欲しいんだい?」
訊ねながら、霖之助は店の奥へと戻る。いつもの場所は占領されているので、魔理沙の横に腰を下ろす。お猪口を突き出すと魔理沙は酒を注いでくれたが、それが一気呑みで直接口をつけたものだと注ぎ終わった後でようやく思い出す。
かまわず呑んだ。
魔理沙の味がする――わけもなく、普通の酒だった。
チルノは少し考えあぐねた末に、とてとてと霖之助の正面まで歩み寄り、
「あのね、」
正面から霖之助の目を覗きこんで、言った。
「ずっと冬のままでいられる道具が欲しいの」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
幻想郷に雪が降る。
水ほどは柔らかくない。氷ほどは硬くはない。
只々、静かに。音もなく――周囲の音すらをも吸い込んで。
ふるり、はらりと、雪が降る。
しんしんと、雪が積もりゆく。
そこに例外はない。
村も人も。
森も山も。
それ以外の何もかもをも、雪は白で塗り潰していく。
紅の館は白の館へ。
紅白の社は白の社へ。
黒白の森は白の森へ。
色に塗り潰されるだけの白が、全ての色を塗り潰していくという不可思議。
そこに、違う色が混じった。白い雪と白い地面と白い世界に、淡い水色があった。雪解け水のような色。
氷精チルノだ。
チルノは見ているほうが寒くなるような格好で、雪の中を飛びまわっている。夏の陽気さすら感じさせるチルノの態度は、氷精ならではだ。チルノ本人が冷気を放っているので、彼女が飛びまわるたびに雪が強くなる。
「気持ちいい――っ! やっぱり冬は最高ね!」
六枚羽を広げ、妖精とは思えない速度でチルノは飛ぶ。雪を切り裂き、切り裂いた空間には新たな雪と雹が生まれ出る。
くるくると回って飛んだり、突然370度ターンをして飛ぶ方向を変えたりと、身体全体で喜びを表現する。今日が特別な日というわけではない。冬の間はいつもこうだ。チルノは思うがままに冬を楽しんでいる。
――冬の妖精は冬を楽しむべきだ、とチルノは思うのだ。
難しいことを考える必要はない。気分のままに楽しめばいい。今は冬で周りは雪であたいは氷精だ。これで楽しまなければウソだ。
チルノは常々そう思っている。
だからレティに、
「あんたはいつも楽しそうね」
と言われたとき、それが皮肉だとはまったく気づかなかった。
「うん。レティは楽しくないの?」
「楽しいわよ。冬の間は、だけどね。まさかチルノ、あんた気づいてないの?」
「……? ……。……気づいてる! もうすぐ春だってことくらいちゃんと気づいてるよ!」
冬が終わりかけている。
そのことに、妖精であるチルノはかなり早い段階から気づいていた。妖精は自然の一部であり、同時に自然そのものである。季節の移り変わりや天候の変化を察知する能力は、妖怪や人間の追随を許さない。妖精の範疇から外れかけているチルノも例外ではなかった。
最近は、あんまり寒くない。
雪は相変わらず降る。冷たくない雪が。本当に冷たい雪は、もう幻想郷の中にはほとんど残っていなかった。
その、かすかな『本当に冷たい雪』を求めて、チルノはレティのところへと向かっていたのだ。
雪が強いところにレティはいる。
チルノの単純なその思考は見事にあたった。明らかに雪が強いところは一箇所に集まっていた。他はなごり雪程度なのに、そこだけ強く吹雪いていたのだ。
その場所へと浮かれ騒ぎ踊り周りながら飛び込んだ途端、開口一番レティに『楽しそうね』と言われたのだ。
楽しくないはずがない、と答えるのも当然のことである。
「そう。ならいいんだけど」
「? 変なレティ」
「あんたほどじゃないわよ」
「む、それどういう意味よ!」
「そのまんまの意味よ」
言い捨てて、レティは再び飛ぶ。
チルノを無視するかのように、チルノとは別の方向へ。
その先に何があるのか、と思いチルノはそちらを見るが、とくに何もない。どこまでも雪景色が広がっているだけだ。
雪を引き連れて行くレティの後をチルノは追う。
「ねぇレティ、どこいくの? 何か面白いことでもしにいくの?」
「……北の方に行くのよ。チルノは行かないの?」
「北。北かあ。何かあったっけ? あたいの湖は南だし」
「……ハァ」
レティはわざとらしく大きなため息を吐いた。
その態度にチルノは疑問を憶える。レティが何を思っているのか、まったく分からない。なんとなく馬鹿にされているような気もした。
「ねーねー、さっきから何なのよ!」
レティの周りをくるくると回りながら訊ねるチルノ。
その態度に嫌気がさしたのか、それとも放っておいたらもっと大変なことになると思ったのか。レティは急に立ち止まり、チルノの方へと向き直った。
その顔にあるのは笑いでも怒りでもない。
軽い諦観と、小さな呆れだ。
「北になにがあるか。あんたは知ってる?」
「北? 北には……知らない。どっちが北かなんて、あたい別に考えないし」
「だからあんたは『変』なのよ」
何を言うか――と反論しかけたチルノの口に、レティの人差し指が突きつけられる。
いいから黙って聞いてなさい、とレティの目が語っていた。
チルノは口を閉ざし、不満げな顔で、それでも首を縦に振った。
それを確認してから、レティは言う。
「幻想郷の北にはね、結界があるのよ」
「……?」
知っている。
それくらいはチルノでも知っている。幻想郷は結界で包まれており、ある一定から先は行けなくなっている。逆に、外から入ってくることもできない。外と中を区分する常識の壁、それが博麗大結界だ。
しかし、それは北に限らず、四方八方上方下方の全てに貼ってある。
レティが何を言いたいのか、チルノにはまだ分からない。
「そこで私たちは消えるのよ」
「消えるの!?」
黙っていろと言われたのに、思わず叫んでしまった。
チルノの反応は予想済みだったのか、レティは眉一つ動かさない。おもむろに雪を手につかみ、その手の中で消える雪を見ながらレティは淡々と言う。
「勘違いしないで。消えるのは、私と私の同属だけ。氷精のあんたは別に消えないの」
「どうして!」
どうして消えるのか。
どうして自分は違うのか。
その両方の意味を込めて、チルノは叫んだ。消えるだなんて、聞いたこともなかった。考えもしなかった。冬は終わるけれど、終わったあとも今の生活はいつまでも続くものだと思っていたから。
レティのことが、特別好きだというわけではない。
レティもまた、チルノのことを特別好きなわけではないだろう。
しかし、氷精と寒気の妖怪という、似て非なる存在の二人は、つかず離れずの関係だった。互いの性格に気に食わないところがあっても、憎いというほどでもなかった。互いに寒いところが好きだったし、寄り添えばより寒くなるから、二人で遊ぶこともよくあった。
なのに。
唐突に『消える』と、しかも相手だけが消えると言われて、チルノは途方もなく動揺した。
――ひょっとして。
チルノの中に恐ろしい考えが浮かぶ。冬の間、楽しく生きていた間には、少しも考えなかった恐ろしい考えが。その考えは否定したくてもしきれなかった。まるで夕暮れ時に伸びる影のように、のっそりとチルノの頭の中を占めていく。
――レティたちは、自分だけを置き去りにして、どこかへ行くのだろうか。自分が妖精だから。妖怪じゃないから。うるさくて気に食わないから。あたいだけを放って去ってしまうのだろうか――
そんな悪魔の囁きを、チルノは意志の力で押し込めて、訊ねた
「ねぇ、レティ教えてよ! どうしていなくなるのさ!?」
「その『どうして』が分からないから、あんたは変だって言ってるのよ」
ため息を一つ。レティが吐いた息は、白くなかった。こんなにも寒い場所でも、レティやチルノの息は白くならない。本人たちの体温が低すぎて、周りの温度と変わらないからだ。
激昂するチルノに、レティはあくまでも淡々と説明をする。これが当然のことだと、別に驚くに値することではないとでも言いたげに。
「もうすぐ春になるでしょ。そしたら、私たちは眠るの。本当は冬を求めて北へ北へと行くんだけど、結界があるからある一定以上はいけない。だから、ぎりぎりまで冬を追いかけて、そこで眠りにつく。来年の冬まで消えているの」
「……冬が終わるから、消えるの?」
「そう。私たちは本能の深い場所でソレが根付いてる。でも……あんたは違うでしょ。自然の小さな歪みなあんたは、季節の移り変わりに関係なく遊び周る。……あんたも気づいてるでしょ。もう、ここら辺に残ってるのは私とあんたくらいよ」
気づいている。
気づいていたが、気にしてはいなかった。
最近は冬の妖怪の姿を見なくなった。そのことはチルノも気づいていた。雪の中を飛びまわっても、誰とも遭遇しなかった。いつもならば、楽しそうにふわふわと漂っている冬の妖精たちの姿も全然見なかった。みんなどこに行ったんだろう、そう疑問に思っても、深く気にしなかった。
まさか、みんないなくなっているだなんて、考えもしなかったから。
レティの言っていることは難しくて、チルノは全てを理解することはできなかった。本能や小さな歪みとか、それが何のかはまったく分からない。分かりたいとも思わない。
が、一つだけ分かったことがある。
要するに、レティたちは、
「春になるから? 冬が終わるから、みんな消えちゃうの?」
「そう。春になるから」
春になるから、消えてしまうのだ。
冬が終わるから、冬とともに消えてしまう。幻想郷の北の果てで、永い眠りについてしまう。来年の冬まで。チルノにとっては、一年後など永遠のさらにその果てだ。永い永い眠りは消滅とそう違わない。妖精であるチルノにとって――そして幻想郷に生きる者にといっては、明日よりも昨日よりも、その日一日が重要なのだから。
明日死ぬかもしれない。
明日消えるかもしれない。
だから今日を生きよう。それが、幻想郷に生きる者の思考だ。もちろん例外はあるが、少なくともチルノはそう思っている。
――そんなの。
だから、これは、チルノにとっては、永遠のお別れにも等しいことだった。
――そんなの、イヤだ。
イヤだった。認めたくなかった。そんなことがあっていいはずがなかった。いつまでも楽しいことをして、幸せに生きていたかった。寂しいお別れなんて絶対にごめんだった。楽しくなければ嘘だ。
レティが消えるなんて、そんなことがあっていいはずがなかった。
だから叫んだ。心の底から声を出して。
「なら、春にならなきゃいいじゃない! ずっと、ずっと冬のままだったら、いつまでも遊んでられるんでしょ!?」
叫んで飛ぶ。もうレティを見ようとはせず、風よりも早く一直線にチルノは飛び去る。
――そんなのはイヤだ、とチルノは思うのだ。
だから向かった。香霖堂へと。その存在は、妖精の噂で知っていた。喋りたがり屋の多い妖精たちの間では、あっという間に噂が広がっていく。
人も妖精も妖怪も関係なく、物を売り買いする店があると。星の光の妖精が、隕石を売って洋服を貰ったという話を聞いた。どこかのメイドが月に行くための道具を買ったという話を聞いた。神の剣が置いてあると聞いた。
そんな店になら、春を止める道具くらいあるかもしれない。
そう思い――半ば願い――チルノは無心で香霖堂を目指し飛ぶ。
その後ろ姿を、レティは見つめている。
いつまでも、いつまでも。
チルノが雪の向こうに消え、姿が見えなくなっても、レティはずっとチルノが消えた方向を見続けていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ヤカンの湯が沸騰している。
それなりに長い話を聞き終えて、霖之助は静かに息を吐いた。
長い話を聞くのは久しぶりだった。店に来る人間はたいてい己のペースで生きているから、長く語るということをしない。いきなり用件だけ言って帰ったり、何も言わずに店のものをあさる者ばかりだ。たまにくる客も、人の話を聞かずに自分の欲しいものだけを簡潔に言う。店内で一番喋るのは、口を開けば真偽の知れない薀蓄が飛び出す霖之助本人だ。
酒を呑みながらとはいえ、話をじっと聞き続けるのは精神的に疲れた。
チルノの話が終わるころには、一升瓶はすでに空になっていた。それどころか、魔理沙が懐から取り出した二瓶目も半分ほど空けてしまっている。
あまり呑まなかった霖之助と違い、話を聞きながらぐいぐい呑んでいた魔理沙はほどよく酔っていた。眼の焦点が少しあやしい。
全てを話し終えたチルノは、霖之助の目をじっと見つめて、右手を突き出して言う。
「というわけで、ずっと冬にする道具、ちょうだい」
――ちょうだい、と来たか。
霖之助は頭をかかえる。売って、でも交換して、でもなくちょうだい。つまり、代価を払う気は毛頭ないらしい。目の前の氷精は『客』と言ったが、それは客ではなくただの泥棒だ。魔理沙と大差がない、どころか、自分が客だと思っている分だけタチが悪いかもしれない。
「それじゃ客じゃなくて物取りだぜ」
「だから魔理沙君は人のことを言えないだろう」
「人のことは言ってないぜ。妖精のことだ」
「それは屁理屈だよ」
「それをお前にだけは言われたくないな」
魔理沙は呂律だけはしっかりしている。が、態度はどこか危なっかしい。まっすぐに座ることもできず、頭を霖之助の肩に乗せるようにして寄りかかっている。ウェーブのかかった金髪が、魔理沙が身じろぐたびに首筋を流れ少しくすぐったい。
酒を一口ぐいと呑んで、チルノの奥、開けたままの扉を見る。
雪が降っている。
けれどもそれはなごり雪だ。消えかけた雪だ。この冬の最後の雪だ。この雪が途絶えてしまえれば、消えてしまえば、もう一年は降ることはない。
雪と同じように、冬のモノたちが消えていく。
そのことを、霖之助は知識としては知っていた。知ってはいたが、チルノのように特別な感慨を持つわけでもなかった。冬が消えるということは、春が来るということでもある。冬を止めれば春が来ない。そんなことを霖之助が望むはずはなく、そんなことを考えたこともない。
「で、あるの? ないの? どっちよ!」
バン、と机を叩いて、チルノが詰め寄ってくる。すぐ近くに迫ってきた瞳は真剣そのものだ。
冬を止める道具。
心あたりが、ないわけではない。冬を止める。方法がないわけでもない。道具に限らず、自らの能力だけでそれを成すことのできるモノは多数いる。
例えば、冬と春の境界を弄くる。
例えば、幻想郷中の春を集めて隠す。
例えば、幻想郷を覆うほどの雪を常に出す。
そういった様々な方法で冬を留めることはできるし、同じような効果を持つ道具も確かに世界にはあるだろう。
が、香霖堂にそれがあるかどうかと言えば、
「道具はないよ」
霖之助ははっきりとそう言い、さらに付け加えて言った。
「あったとしても、自然の妖精である君が自然を従えることはできない」
「なんで!」
脊髄反射で返ってきた質問に、霖之助は律儀に答える。答えることが好きだからだろう。
「君の下に自然があるのではなく、自然の中に生きるのが君だからだよ。自然の一部を歪めることはできても、自然そのものを操ることはできない。それをすれば自らの存在を否定することにもなるからね。世界を変えるなんていう大それたことは、一妖精のできることではないよ」
霖之助の言葉に嘘はない。確かに、様々な能力や道具で、冬を止めることはできるかもしれない。
が、それは一時のことだ。いつまでもそんなことができるわけではない。そんなことを続けていれば、かならずどこかに歪みができ、やがては破綻する。
誰も永遠に生きることができないように、冬を永遠に留めることなどできるはずもない。
それができるとすれば、それはもはや季節の中に――世界に生きるものではない。
「ようするに、無理なのね……?」
「無理だよ。冬を止めることは、君だろうが誰だろうが不可能だ。そんなことができるのは、幻想郷より上位に生きるカミサマのような存在だけだよ」
かすかな望みを否定され、チルノは落ち込む。声に元気は欠片もなく、六枚の羽が力なく垂れている。体から放たれる冷気も、どことなく温くなった気がした。
冬を止められるかもしれないというかすかな希望。それを頼ってここまできたのに、あっさりと否定されてしまったのだ。元気がなくなるのも無理はない。
しかし、霖之助は言う。
チルノに、かすかな希望を感じさせることを。
チルノの願いをかなえる一つの方法を。
「けれども、元からある『冬がずっと続く世界』に行く方法ならある」
「ホント!?」
喜び勇み詰め寄ってくるチルノ。どっと冷気が増し、ちくちくと肌を刺すように冷たかった。顕微鏡レベルで見たら本当に小さな氷柱が刺さっているのかもしれない。
近寄ってきた氷精の頭をぐい、と押しやって、霖之助は語る。
「君の友人の言う【結界】はね、博麗大結界というんだ」
「うん。うん、それで?」
長い話になりそうだぜ、と魔理沙が呟いたのを無視して、霖之助は語り続ける。
「博麗大結界は幻想郷の全てを囲んでいる。これのおかげで外からの侵略を受けないし、逆にこれのせいで外に出ることもできない。外と中を完全に区別する常識の壁、それが博麗大結界だ。これはとてもとても強力なもので、どうやったところで乗り越えることはできない。それが可能なのは博麗神社の巫女か、境界そのものを操れる者くらいだ」
「……」
チルノが小さく首を傾げる。
「さて、君が言うその冬の妖怪。本来ならば季節の移り変わりに合わせて移動する渡り鳥のような妖怪なのだろう。春が来ると冬を追いかけて北上する。そして夏が過ぎ秋が終わるころに、冬の到来とともに戻ってくる。そうした習性を持つ動物や妖怪は少なくない。逆に春だけ、夏だけ、秋だけ、という妖怪も多数いる。妖怪のいるところに季節があるのではなく、季節とともに妖怪が現れるのだからそれは自然なことだ」
「…………」
チルノが頭を抱えて小さく唸る。
「ところがだ。この幻想郷内ではその理は通じない。博麗大結界のせいで北上することができないからだ。結果、季節の妖怪は幻想郷内部に閉じ込められ、季節が変わると共に消えざるを得なくなる。一年を通して存在するものならばともかく、季節限定のものはそうすることでしか生きられないし、そうすることが彼女たちにとってはごく当然のことなんだ。七月にカキ氷を食べることはできても雪が降ることはない、ということだ」
「………………」
チルノの目が丸になる。
「逆に言えば博麗大結界の外に出る方法さえあればその問題は解決する。たとえば北の果てにあるという【北極】という土地は、一年を通して冬が続く場所だと文献に載っている。そこに行けば一年中冬の妖精や氷精たちは楽しく遊んでいるだろう。一年中冬の場所、なんてものは人間の土地のはずがない。きっとそこはまた別の形の『幻想郷』だから、妖精や妖怪も必ずいるはずだ。言わば冬の妖怪の聖地だね」
「……………………」
チルノの顔が呆けている。もはや聞いているのかどうかすら定かではない。
それでも霖之助はかまわず喋る。
「問題はそこに行く方法だね。博麗大結界があるから外に出ることはできない。なら博麗大結界をどうにかすることさえできれば外に出ることはできるわけだ。結界を越えるには、さっき言ったとおり巫女に頼むか境界をどうにかできる者に頼むことだ。が、巫女に頼んだところで何かをしてくれるはずもないし、境界をどうにかできる者なんてそこら辺に存在しているはずがない。しかし、だ。境界をどうにかできる『モノ』ならば確かに存在する。神隠しの道具、と呼ばれるものだ。たとえば――そうだね、扉、襖。そう言った何かと何かをくぎるモノは、簡易的な結界、境界だ。外を内を分けるモノ。そういうものはたまに、他の場所に繋がったりする。衣装ダンスの扉が別の世界に続いていた、という文献だって確かに存在する。フスマの向こうが願望のかなう世界だった、という文献もある。家の扉を開けたら幻想郷に出ていましたということだって世の中にはあるだろう。なら、扉の向こう側が冬の世界に続いていたとしても不思議ではないね」
そこで、ようやく霖之助は言葉を切って、酒に口をつけた。
話はこれでお終い、とばかりにチルノを見る。
長々と、本当に長々とした話を聞き終えて――魔理沙はそもそも聞いていない――チルノは言った。
「……つまり。どういうこと?」
チルノの言葉に、霖之助は不満げな顔をする。嬉々として話した内容の一割も理解されていないのは悲しいものがあった。
霖之助自身は、分かりやすく簡潔に説明したつもりだったのだが。
仕方なく、霖之助は今までの言葉を一文に省略して言う。
「幻想郷の扉という扉を開ければ、そのどれかは冬の世界に繋がっている。ということだよ」
そこまで省略しても、チルノがその意味を理解するのには十秒の時間を必要とした。
冬へと繋がる扉。それを探し出せば博麗大結界の外に出られる。博麗大結界の外に出られたら冬だけの世界にいける。
冬だけの世界にいけば、レティたちがいなくなることもない。
そこまで思考がたどり着いて、ようやく、チルノは嬉しそうに笑った。
「ホント!?」
「本当だよ。もっとも、どの扉が通じているのか、本当に通じる扉があるのかは僕にも判らない。その可能性がある、というだけの話さ」
霖之助の言葉に、チルノの笑顔が満面のものになる。
蜘蛛の糸よりも細いわずかな希望。それでも、それはチルノの心を明るくするには充分なものだった。0と1の違いはわずか1でしかないが、それでもその1の差は無限にも等しいのだ。
わずかな可能性があるからこそ、それにすがって生きていける。
たとえ1の可能性だとしても、諦めなければ人はどこまでもいける。それは妖精でも同じことだ。
「――おじさん、ありがと!」
もはや返事も聞かずに、チルノは香霖堂を飛び出していく。
六枚の羽を目いっぱいに広げ、氷と雹と寒さを残して。扉を開けっ放しにしていなければ、扉を突き破って出て行っただろう。その姿は雪の中に消え、あっという間に見えなくなる。
残された霖之助は、苦虫を噛み潰したような顔でその後ろ姿を見送った。
「お、おじさん……?」
そんなことを言われたは初めてだった。いくらなんでもあんまりだ、と霖之助は思う。
たしかに、歳は取っている。見かけの何倍も。
しかし見かけの何百倍も歳をとった幼女が当然のようにいるこの幻想郷で、まさか『おじさん』と言われるとは、流石の霖之助も思わなかった。第一、あの氷精は霖之助の歳を知らないはずであり、ということは見かけだけで判断して『おじさん』と言ったことになる。
いくら霖之助でも、それは少しだけ悲しいものがあった。
――くっくっく、という笑い声。
横を見れば、魔理沙が、身体ごとよっかかり顔を伏せたまま笑っていた。
「いやぁ、おじさん。おじさんだってさ。チルノもうまいこと言うよな……くくっ、くはは!」
「まだ若いつもりなんだけどね、自分では」
「嘘つけ。もう何年もまったく変わってないくせに。本当のところ、香霖お前は幾つなんだよ」
「君よりは年上だよ」
「ハッ、いつもそうやってはぐらかす……いいぜいいぜ別に気にしないさ。お前はいっつもヒミツだもんな色々とさ」
ぐちぐちとこぼすように言う魔理沙。その態度は、いつものあっさりとした魔理沙の態度からはかけ離れたものだ。
「魔理沙。君、ひょっとして酔ってるのかい」
「酔っ払いは自分のことを酔ってるとは言わないものだ」
「つまり、君は酔ってるわけだ」
「ああ酔ってるぜ。つまり酔っ払いじゃない」
「クレタ人のパラドクスか。借りていった本、ちゃんと読んでるんだな。そろそろ返してくれると嬉しいんだが」
「あれは借りていったんじゃない。買っていったんだ」
「代金は?」
「後払いだな。安心しろって、香霖がおじいさんになる前には払うからさ」
「それはつまり、払う気はまったくないってことなんだろうね」
「意見の相違だな。悲しいぜ」
言って、魔理沙は二つのお猪口に酒を注ぎ足してぐいと呑む。一人で丸々一升空けているようなものだ、酔っぱらっても仕方はないだろう。酒に弱い者ならとっくに酔いつぶれているところだ。
一口で注いだ半分ほどを飲み干し、くはぁ、とそれこそおっさんのような息を吐いて、魔理沙は口を開く。
「それで、だ」
一拍置く。
どんなことを言われても大丈夫なように、霖之助はお猪口を机に置いた。これで驚いてこぼす、なんて無様なことはせずにすむ。
魔理沙は言う。
「ウソか?」
「本当だよ」
霖之助は即答した。
何のことか、とも訊ねなかった。魔理沙が何を言いたいかくらいは、長い付き合いで分かるつもりだった。それ以前に、この状況だと真偽を問いただすようなことは一つしかない。
すなわち、チルノに言った『冬へと繋がる扉』の話が、本当かウソか、だ。
そしてそれは紛れもなく本当のことだ。ウソをつく必要など、霖之助にはない。博麗大結界の話も、扉が境界に繋がるというという話も、全て本当の話だ。
ただ、
それは、1よりも小さい、小数点が左へと無限に動いたくらいの確率だろうけれども。
「確率は低いだろうけどね」
「どれくらいだ?」
「博麗神社にお賽銭が入る確率くらいだよ」
「神に頼むに他はなし、か」
「そういうことだね」
酒を呑む。魔理沙のように一気には呑まず、ちびちびと傾けていく。霖之助にとって酒はゆっくりと味を楽しむものだった。
それは例えば、人生のように。
流星のように瞬いて生きるのではなく。
古びた時間のする道具のように生きる道を、霖之助は選んでいる。
そのことを、魔理沙も分かっている。分かっているから、今だけはのんびりしようと思っていた。たとえ一秒後に弾幕ごっこをするとしても、だ。
「ああ、そうだ。コレ、」
ふと思い立ち、右手にもった酒瓶を、魔理沙はくいと掲げる。
もうほとんど残っていない。二人で二升。空にするには昼までかかるかと霖之助は思っていたが、意外と早く空けてしまった。奥にしまってある酒瓶の数を頭の中で数える。あまり残っていなかったはずだ。あれで足りるといいのだが。
「本の代金ということにしよう」
「酒瓶一本、で?」
「高いくらいだぜ。こんなに可愛い注ぎ手付で今ならお値段据え置きおまけに八卦炉もついてきて一個分のお値段。よかったな得してるぜ香霖」
「自分でそれを言うのかい? ……ああ、でも魔理沙、これどうして持ってきたんだ? 今日雪見酒をするだなんて、君に言ってなかったけれど」
「ああ、なんだそんなことか」
やれやれお前は何を言っているんだ、というため息を魔理沙は吐き、不思議そうな顔をしている香霖を、斜め下からのぞき込んで言う。
「香霖の考えることくらい、すぐに分かるに決まってんだろ」
長い付き合いだしな、と魔理沙は笑う。
「そうかい」
霖之助は答え、瞳を閉じてお猪口を口に運ぶ。
人に注いでもらった酒は、いつもより美味しい気がした。
「そうだぜ」
それきり、何も言わず。ただ静かに時間だけが過ぎていく。
窓の外にはなごり雪。
止む気配を見せず、しかし去る気配を見せながら、静かに降り続けている。
(冬への扉・後へ続く)
同様→動揺 のような気がします
『同様』の誤字、修正しました。