※本作と西行法師とは一切の関連はありません。
※本作は短編として完成しておりますが、一部設定が作品集27にある「さくら さくら ~歌聖~」と繋がっておりますので、そちらと合わせて読まれることを推奨します。
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初めて屋敷にやってきたのは十二の時。母に連れられ屋敷からその妖(あやかし)桜を見せられた。我が家の名をとり”西行妖”と呼ばれる巨大な桜。けれど私には桜はろくに見えなかった。だって、桜の周りを大量の死霊が覆い尽くしていたのだから。
その光景に吐き気がした。顔を歪めて口を手で隠すと、それを桜にあてられたと勘違いした母が「まだ早かったわね」と謝って私を奥へと連れて行った。
そもそもここに来るのは、普通体が成長しきる齢十八を越えてから。なのにまだ十二の私が連れてこられたのは、ひとえに私の持つ”死霊を操る”異能の力のせい。確かに、私はここに来ても死霊の放つ妖気にあてられることはない。しかし、あの桜を中心に数百にも及ぶ死霊が蠢いている映像は、到底耐えられるものではない。
それなのに、なぜか私はあの妖桜に親しみを覚えていた。いつ見ても群がる死霊で幹も枝も見せないその桜に、なぜか呼ばれている気がした。
私は母とともに規定の期間である一ヶ月を過ごした後、引継ぎをしてから屋敷を後にした。
当たり前のことではあるけれど、屋敷は娯楽にとても縁遠い。交代制であることよりも、妖桜にあてられ遊ぶ元気も出ないのが原因である。なので屋敷での私の日常は、屋敷に残る様々な歌人の歌を詠むことと、母から舞を習うことに終始していた。
不満はない。歌を詠み過去の人の心情に触れることも、舞を踊り上達していくことも、どちらも私にとっては嬉しく楽しいことだ。
そして今日も、私は屋敷の一室で歌を探していた。ここに来てもう随分と経ち、詠んでいない歌は大分少なくなっている。別に詠み返すことがつまらない訳ではない。二度詠めば一度目とは異なる想いを、三度詠めばまた異なる想いを。詠むたび違う想いを抱くことはとても楽しい。けれど、まずは全ての歌を一度詠もうと決めている。
「えぇと、……ん?」
部屋の箪笥の奥に、見慣れない箱があった。さほど大きくもない、平たい直方体の箱。引っ張り出し埃を払うが、表には何も書かれていなかった。なんだろうと思いながら蓋を開けると、中には丁度箱に収まる大きさの本が一冊見える。表紙にはある歌人の名前に続いて”歌集”と書かれていた。
記憶を探り、その歌人に行き当たる。自然の歌をたくさん謳った人で、今も歌聖としてその名を残すほどの人のものだ。私もいくつか詠んだことがある。歌い手がどれほど自然を愛しているか、その自然への想いが伝わってくる良い歌ばかりだった。
なぜこんなものが、という疑問は捨て置いて、私ははやる気持ちを抑えきれずに本を開く。歌は一項に三つか四つほど。小さな声でゆっくりとその歌を歌い上げていく。春、夏、秋、冬、豊かな自然の賛美に魅せられて、そこに自分がいるかのように心が穏やかになる。
そうして最後の項を読み終えて一息、名残を惜しんで視線を本に落としたところで、私は本がもう一項あることに気が付いた。歌は終わっているのになんだろうかと開いてみれば、短冊と何やら書き込みがあった。短冊を手に取って見る。かすれた文字で上の句だけが書かれていた。本に目を移すと、これが歌人の辞世の句であり、この歌に心動かされた誰かによって完成されることを望んでいるとあった。改めて短冊を見て、かすれて途切れがちの文字を何とか歌として詠んでみる。
「――花の下にて、か」
妖桜の方を見つめながらしばらくそのまま思案して、私は短冊をしまい、新しい短冊を探しに部屋を出た。
「私はこの屋敷に残り、今後ここを私一人で管理したいと思います」
そう告げたのは、私が十八になり、これからは母と離れて一人で見張り番をするようになった時だった。母と共に屋敷で過ごす最後の時間、いつものように父が引継ぎに来た昼過ぎに、私は両親を居間に招いてそう切り出した。意味が理解できないのだろう、眉をひそめる二人に私は重ねて告げる。
「私なら、あの桜の影響を受けることはありません。いらぬ病人を出すよりは、私がここに残る方がずっといいと思うのです」
もっともらしい理由。実際、これは確かに私の本心ではある。しかし、これは全体の半分にしか過ぎない。もう半分はとても話せるものではないため、どうしてもこれで納得してもらわないといけない。私は顔を上げ、できる限りの意志を瞳に乗せ、両親を見据えた。
「急に畏まって何を言い出すかと思えば」
呆れたように母が息を吐く。母は私があの妖桜を避けていることを知っている。その観点から見れば、私の発言は愚かな自己犠牲として映っただろう。なだめるようにあやすように、私の頭をなでてくる。
「確かに私達はあの桜のせいで体調を崩すこともあるけれど、それはお前が気にすることではありませんよ。ねえ?」
同意を求められた父は首肯を返した。即座に私は母の手を払いのけて反駁する。
「母さん、私は嫌なの。屋敷から帰ってくる人が寝込むのを見るのが嫌なの。家にいるといつも感じる異質なものを見る目が嫌なの」
私は家で親戚や使用人からあからさまに煙たがられている。原因は明白。私の異能のせいだ。そのことを出すと、二人の顔に陰がさした。
二人は親として私のことを心配してくれている。とても嬉しいことだけれど、それでは駄目なのだ。どうしても、私は一人でここに残らなければならない。誰かと居ては駄目なのだ。
私の力は増大していた。今までは操る存在だった死霊達が、従うようになった。死霊を統べるこの力は、まさしく西行妖と同じもの。ならばいつか私の力は、生者にまで影響を及ぼすことになるはず。
故に私は一人でいなければならない。そう言えたらどれだけ楽だろう。けれど、言ってはいけない。言えば、この二人は必ず反対する。下手をすれば、二度とこの屋敷に来させてはくれないだろう。しかしそれでは私が耐えられない。家にいて第二の西行妖になるかも知れずに怯えて暮らすなんて嫌だ。だからこそ、私はここに残らなければならない。
「……お前が家で辛い思いをしていることは知ってます。私達の力が足りないせいで――」
「母さん。最近食が細くなってるよね。父さんもそう。最近体が重くなってるんじゃない?」
私の割り込みに、二人が動きを止める。
ここ数年、日増しに西行妖はその力を増してきている。今まではせいぜい軽い症状で済んでいた一月の滞在が、最近は命を蝕むまでになっている。
二人ともそれは分かっているのだろう。関係ない、と言う父の声には張りがない。私が見つめれば見つめるほど、両親の目は忙しく動く。
「分かるでしょう? 私がここに居れば、誰も困らなくなるでしょう? お願いだから、無理して私を残して逝かないで」
沈黙が続く。即座に否定できないのは、このままいけば数年を待たずに死ぬということが分かっているから。両親を追い詰める自分に罪悪感を抱いてしまう。それを表に出さないよう努めて、私は二人の返事を待った。
やがて父が吐息を一つ。
「…………駄目だ。娘をこんな所に一人残していく訳にはいかない」
「なんでよ!」
反射的に畳を叩いて叫ぶ。先ほど抱いた罪悪感が、私に納得してくれないことへの怒りへと変貌する。怒りは一瞬で全身を駆け巡り、私を支配していく。激情に駆られたまま、私の口は意思を無視して言葉を放っていた。
「私何かおかしなことを言った!? ねえ、言ってないでしょう! ねえ父さん、私間違ってる!?」
「そうじゃない。間違ってるかどうかと言う話ではないんだ。理屈ではなく、感情の問題なんだ」
「ふざけないで! 感情? 父さんの感情は今だけ親面して後は死んでも構わないって言ってるの!? 自分が死ぬまで満足できれば、後のことはどうでもいいの!?」
「違うの。お願いだから、落ち着いて私達の話しを聞いてちょうだい」
「うるさい! 母さんも父さんと同じことを言うんでしょう! もういい! こんなに言っても分かってくれないなら、もういいよ! 馬鹿みたいに無茶して勝手に死んじゃえばいい!! 死んで私が独りで悲しんでるのを、あの世から呑気に眺めてればいいじゃない!!」
二人の顔が、これ以上ないほどに悲しみに歪んだ。それを見て激情は瞬時に消えさり、残ったのはただただ先の発言を悔い責める自分だけ。
三人を包む重苦しい雰囲気。耐えられなくなって、私は居間を飛び出した。そのまま走り、私に割り当てられた部屋に飛び込んで、布団も敷かず畳の上に仰向きに倒れこみ、私は浮かんでくる涙を何度もぬぐった。
私は何をやっているのだろう。父さんや母さんに心配をかけたくなくて、だからここに残ろうとしたのに、一時の感情を抑えられずに二人を傷つけて。本末転倒、私は何と二人に詫びればいいのだろう。
どれだけの間泣いていたのか。ふと外を見れば日が大分傾いていた。赤く染まりつつある日が屋敷を照らしている。その光に誘われるように私は部屋を出た。まずは両親に会って、先ほどのことを謝らなければならない。それでも納得してくれていないなら、仕方がない、隠した本心のもう片方を告げるしかないだろう。
廊下を歩く途中、妖桜へと目を向ける。赤い日を背負って立つその姿は、死霊がいなければさぞかし荘厳なものに違いない。それが見れないことを残念に思いつつ、私は立ち止まって妖桜を見ていた。
「――――え?」
思わず目をこすり、目を細めて注意深く妖桜を見る。間違いなかった。
そこに、父さんと母さんがいた。妖桜の根元、死霊に隠れるように二人は立っていた。共に手を握り合い、巨大な妖桜を見上げている。
「父さん! 母さん!」
下履きを履く時間も惜しい。裸足のまま庭へと下りて、二人を目指して駆け出した。二人のことを何度も呼びながら駆け寄っていく。途中、声が聞こえたのだろう。二人が私へと振り向いた。
「父、さん? 母、さん……?」
二人は、私に向かって微笑んでいた。命を蝕む西行妖の下にあって、まるでそれが嬉しいことであるかのように微笑(わら)っていた。その奇妙な薄気味悪さに足が止まる。
向かい合って数秒。両親は微笑んだまま、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
「お前に死んじゃえばいいと言われてから、死ぬことがとてつもなく魅力的に思えて、気が付いたら西行妖のところに行っていたの」
そう言って、母はその日のうちに息を引き取った。二日後には、同じことを言って父も死んだ。
両親の葬儀の為に一度家へ戻った私は、葬儀の終了と共に屋敷の管理を任されることになった。元々私を疎ましく思っていたのだから、反対意見が出ないのは分かりきっていたことである。
私の力は、もはや人に害なすまでになっている。両親の死がきっかけとなったのか、もとよりなっていたのがそこで分かっただけなのか、それはわからないけれど、私の力は親を殺した。それで充分。人を避けなければならない理由を、これ以上ないほど満たしている。これ以上、私の力で人が死ぬようなことがあってはいけないのだ。
私は本格的に屋敷に籠り、定期的に来る食料などの配達を頼りに暮らすようになった。一人で出来ることは限られているけれど、退屈はなかった。春になれば桜、夏になれば蝉、秋になれば紅葉、冬になれば雪。それらを眺めながら、書物に残る様々な歌人の歌を詠み、時には舞を踊り過ごす。それだけで私は満足だった。
しかし、西行妖の力は想像以上に強いらしく、時折ふらりと人がやってくることがあった。彼らは真っ直ぐ妖桜を目指して歩き、決まってその下で命を終えた。助けようにも、妖桜と共鳴する私が近づくと桜の妖力が高まるため、全くの逆効果になってしまう。結果私は妖桜の下で人が死ぬのをただ見届けるだけ。
管理を任されて五年、私の日常は歌と舞と死体の片付けに集約されている。
そして今日、また人がやってきて妖桜の下に立っている。年越しも間近な冬。桜の木々はその幹と枝をさらけ出し、遠く見える山とともに雪にその身を埋もれさせていた。その景色を縁側に腰掛け眺めながら思う。最近人がやってくる頻度が高くなっている気がする。それだけこの桜の妖力が強くなっているということだろうか。
「あの人、もうすぐ死ぬわよ?」
聞こえた第三者の声に顔を向ける。いつの間にか、私の隣に女性が一人、縁側に腰掛けていた。波を描く金の髪に手櫛を通しながら、妖桜の下にいる人を観察している。奇妙な形の傘をさし、これまたどこの物とも分からない着物を身に着けていて、その口元に浮かぶ小さな笑みと相まり、近寄るのをためらいたくなる空気を纏っていた。
一目で妖怪だと分かる。妖怪と関わる気などないので、私は無視して顔を妖桜へと戻す。構わず、女性は語りかけてきた。
「初めまして、不死見の娘さん」
「不死見の娘?」
聞きなれない単語に眉をひそめて聞き返す。女性は「知らないの?」とくすくす笑う。
「貴方のことよ。あの西行妖を死な不(ず)して見る娘。この辺りではちょっとした評判ですわ」
くだらない、と嘆息する。妖桜を見れば、根元に立つ人は今にも倒れそうに震えている。私は懐から短冊を二枚取り出し、書きかけの一枚を脇に置いて白紙の一枚を手に取る。墨と筆はすでに横においてあった。
「あら。人が死ぬのに歌を?」
「……これは私のものじゃないわ」
「それでは、どなたのかしら?」
「あの人のものよ」
視界の先で、幹にすがるように崩れ落ちる人が見える。筆を持ち、時を待つ。妖桜はその蕾を震わせていた。
「これは、あの人の――辞世の句。人の辞世を語るなんておこがましいかもしれないけれど、私にできるのはこれくらいだから」
返事がないので横目でちらりと見ると、女性は変わらず微笑して妖桜を眺めていた。妖桜はなお震えを大きくし、蕾は徐々に開かれていく。
そのままだと死ぬわよ、と言おうと口を開きかけたが、面倒なので止めた。どうせ彼女が死んでも、歌と手間が一つ増えるだけなのだ。
蕾が花へと変化していく。一分咲き、二分咲き、三分咲き、そこで止まった。妖桜はさらに咲きたいとしばしその身を震わせるが、吸うべく魂はすでになく、やがて沈静していった。
「残念。花見ができると思ったのに」
「三分咲いただけでも大したものだと思うわ。――それより、貴方、なんともないの?」
つらつらと今死んだ人への歌を作りながら問う。女性は嬉しいことにね、と涼しい顔で返してきた。なるほど、と理解する。目の前の女性が、かなり強力な妖怪であることを。
女性が私の脇に置かれた歌を手に取った。上の句だけ書かれたそれを一度詠み、記憶を探るように小首を傾げる。
「どこかで聞いた歌に良く似た雰囲気ですわね」
「昔のある歌人の歌よ。自然を数多く歌っていて、そのどれもが素晴らしい、そんな人。御先祖様が縁あるらしくて、その歌を預かったんですって。後の世に、誰かが形にして欲しい、と」
「それを、貴方が形にしようと?」
「ええ。この人の歌が好きだからというのもあるけれど、せっかく目の前に立派な花があるのだし。この桜を見られるのは私だけだから」
歌ができた。筆を置き、できた歌を今息絶えた人へ向けて一度詠む。余韻を楽しんでから、書きかけの歌を返してもらう。「この歌は、いつ完成するのかしら?」と言いながら手渡してくる女性に、「私が死ぬときに」と答える。
話は終わりと立ち上がり、部屋へと戻っていく。
と、
「……まだ何か?」
後をついてくる女性に不機嫌を露わに振り返る。女性は私の機嫌などどこ吹く風で笑みを崩さない。廊下なのに傘をたたんでいないのがものすごい邪魔である。
「実は私、貴方に興味がありますの」
「私に? なぜ?」
あの妖桜になら分かるけれど、と首を傾げる。私の反応が期待通りだったのか、女性の笑みがわずかに深くなった。
「分からない? 貴方は自分がいかに特異か理解していないのかしら。西行妖と共鳴し、多くの人を死に誘う自分をご存じないのかしら」
「確かに西行妖と同調してはいるけれど、先ほどのように人を死に誘っているのは私ではなく西行妖でしょう」
「あらあら、ほんとにご存知ないようね」
困惑する私をからかうように、女性は笑って傘をくるくる回す。その笑声が不愉快で、私は会話を打ち切って歩みを再開した。女性はなおも笑っていたが、少しして笑い声を収めた。
「西行妖は、花咲かす春にしか人を誘わない」
女性の声が、実際以上に大きい響きとなって私に届く。それが女性の狙いだと分かっていても、立ち止まらないわけにはいかない。だって、その言葉を認めるということは。
「嘘はよくないわ。あの妖桜は四季を問わずに人を誘っている」
振り向かず、否定を表すため意識的に声を張る。女性は私の態度などどこ吹く風と変化を見せない。
「そうね。確かに季節など無関係に人は死に誘われている。でも桜は春しか目覚めない。夏も秋も冬も、本来桜は眠って過ごすのよ。これはあの西行妖にしても例外ではないわ」
それはつまり。四季を問わずに訪れる人たちは、何に誘われやって来ているのか? 春は西行妖。なら夏は? 秋は? 冬は? 眠っているはずの西行妖の下へ人を誘っているのは――?
「貴方は他人を避けていると聞いているけれど、ふふふ、人を遠ざける最も簡単かつ効果的な方法とは、何かしら?」
全身が震えるのを抑えられない。呼吸は荒く歯は音鳴らし、足は力を失い柱に縋る。
いけない。これ以上、あの女の言うことを聞いてはいけない。柱から障子、障子から柱。倒れそうな体を預けながら、懸命に体を前へ動かしていく。
ひとまず眠ろう。一眠りして気持ちも落ち着いたなら、あの女の言うことが嘘だと分かるはず。
嘘に決まっている。そうでなければ、今まで人を死なせていたのは――。
年が明けて一月が経ち、如月の月に入った頃、屋敷に一人の客が訪れた。
屋敷に客が来るなど何年ぶりだろうか。どうせ来るはずもないと客用の湯飲みは埃を被ったまま。仕方がないので私の分を使い、適当に茶菓子を合わせて居間へと入る。
質素な服を着た、厳格な雰囲気の男だった。旅の剣客といったところだろう。白髪が目立つ四十過ぎの見た目に反して、加齢による弱さは微塵もない。腰に差していた刀は横に置き、胡坐をかいて座っている。
「まさか人が来るとは思っておりませんでしたので、大したもてなしもできませんが」
「いや、押しかけたのは私の勝手。貴方が気にすることはない」
言いつつ、差し出したお茶を一口飲む。出された物を拒んでは失礼だと知っており、その所作も落ち着いている。なかなか清廉な人のようだ。男が湯飲みを置いて一息ついたところで、こちらから口を開く。
「それで、本日はどのようなご用件で?」
うむ、と男は頷いて、顔を横に向けた。男の視線の先、障子の奥にあるのは、あの妖桜。雪も解け始め、その身に多くの蕾を蓄えている。男は見えない桜を睨みつけたまま、
「西行妖を斬りに参った次第」
「……西行妖を?」
「左様。あの桜は少々人の血を吸いすぎている。これ以上の犠牲が出る前に、止めねばならない」
男の言ったことを理解できず、しばし呆然とする。
斬りに来た、と言った。あの巨大な妖桜を、人の身で斬ろうと言ったのだ。何という豪快さだろう。あまりの豪胆さに、思わず笑みがこぼれてしまう。「如何した」と尋ねてくる男に「なんでもありません」と返して、私は一度居住まいを正した。わざわざ頼みに来る彼の真っ直ぐさは好ましいけれど、それを認めるわけにはいかない。
「あの西行妖を間近にしながら平静を保つ貴方の心力は素晴らしいものと存じます。しかし、貴方を西行妖に近づけることはできません」
私の否定に、男がわずかに苛立ちを見せる。
「理由を聞きたい。何故私を止める?」
「まず、あの桜は先祖より代々管理を任された大切な桜故、他人様に勝手にどうこうされる訳には参りません。そしてもう一つ、貴方はあの妖桜を甘く見ております。もし貴方が敵意を持ってあそこへ行けば、貴方は無数の死霊にとりつかれ命を落とすでしょう」
男は苦い顔をして黙り込んだ。その表情は、命を落とすことに迷うのではなく、管理者として伐採を拒む私をどう説得しようかと考えているもの。
大した自信だ、と気づかれない程度に肩を落とす。おそらく多くの妖怪と切り結んできたのだろう。それこそ”妖忌――妖怪が忌み嫌う”の名に恥じないほどに。
「どうしても、承諾はしないと?」
それは確認ではなくこちらの腹をさぐるもの。必ず斬りおとしてみせるという強い意志を瞳に乗せて、鋭く私を見据えてくる。その目には剣客としての誇りが並々と湛えられていた。誇り高いのは良いことではあるけれど、ことこれに関しては彼の誇りは驕りである。
「例え貴方がどれほどの剣客であろうとも、認めるつもりはございません。人の身で西行妖に近づくなど、ただの自殺行為です」
男に負けないくらいの意志をこめて、真っ向から睨み合う。しばらくして、私が折れないことを悟った男は目を閉じることで睨み合いを終え、「邪魔をした」と言って立ち上がった。私はその後ろをついていき、玄関まで見送る。
「また参る。その時は良い返事を期待している」
ごめん、と礼をして男は去っていった。
五日後、再び男が現れた。
「かの桜が貴方にとって大切なものだということは分かる。しかし、だからといって人を誘い殺す妖を野放しにしては置けぬのだ。どうかそれを分かって欲しい」
男の言うことは正論だ。でも、論点はそこではない。それが分からぬのであれば、私が首を縦に振ることはできない。
「先日も申しましたとおり、私は貴方の自殺に手を貸すつもりはございません。お引き取りください」
無言の対峙はほんのわずかの間。私の考えが変わっていないことを知った男は、再び礼をして去っていった。
さらに五日後、三度男は屋敷を訪れた。過去二度の訪問とは違い、男の纏う空気はある種の決意が滲み出ているように見える。
「もはや四の五のは言わぬ。どうかあの桜を斬らせて欲しい。頼む!」
この通りだ、と深く頭を下げる。微動だにしない様子を見れば自ずと分かる。彼にとってこれが正真正銘最後の交渉なのだと。愚直なまでの真摯さが心地良い。されど、これが最後ならばなおさら、一分の許しも見せずに断らなければならない。もうここへ来させないよう、拒絶しなければならない。男に顔を上げさせてから、しっかりとその目を見つめて答える。
「何度請われても私の答えは変わりません。管理者としても一個人としても、貴方を西行妖に近づけることはできません。どうかお引き取りを」
頭を下げて、そのまま静かに相手の対応を待つ。そのまましばし、静寂が佇む二人を包み込む。
沈黙を破ったのは男の方。承知した、と諦観の息をもらし、顔を上げた私に三度に渡る勝手な訪問を詫びてくる。分かってくれれば良いという私の返答にもう一度詫びてから、男は去った。
翌日、太陽が傾き始めた頃にそれは起きた。
絶叫。全身の力を搾り取ったと思えるほどの、長く大きな叫び。どこか聞き覚えのある声に、何事だろうかと声を頼りに部屋を飛び出し廊下を走り――そして見つけた。数十の死霊が、何かに取り付いている。
また誰かが誘われたのかと納得しかけて、ふと思いとどまる。今まで誘われた人たちを、死霊があのように囲むことはしていない。死霊は人が来ると仲間が増えることを喜んでいた。あれはその逆。明らかにやって来た人を拒んでいる。
訝しげに目を細めて死霊の中心を覗き込む。しかし死霊の群れは厚く層を作り、奥を隠していた。舌打ちして死霊に退くよう命じる。そうして死霊の群れの中から現れたのは、
「……なん、で?」
先日、確かに西行妖に挑むことを諦めたはずの男だった。倒れている男の手には抜き身の刀が握られており、その刀で西行妖に斬りかかろうとしたことは明白である。
「なんで? だって彼は昨日、もう来ないって」
あの男の性格からして、私に無断でこのような蛮行に至るとは思えない。礼節を重んじるということを理解したからこそ、あそこまで頑なに彼を拒んだのだから。
拒んだ、ともう一度繰り返したところで思考が止まった。
「彼を、拒んだ……?」
甦るのは、いつか来た女妖怪の言葉。”人を遠ざける最も簡単かつ効果的な方法とは、何か”、そう言っていた。拒むことは即ち遠ざけること。私が遠ざけようとすると人が死ぬと言うのなら、私に拒まれた彼はどうなるか?
「なんて、おろかなことを」
自責が私の胸を縛りつけ、罪悪が私の体を押し潰す。それでもわずかに残る責任を活力に、男の元へ走り寄ってその身を抱きかかえた。私の接近に妖桜が身をわずか震わせる。その様に恐怖し、少しでも早く妖桜から遠ざけようと男を引きずっていく。庭から廊下へと何とか持ち上げて、客間へと引きずりを再開する。急げと逸る気持ちのせいか、見たくないと拒む後ろめたさのせいか、顔は前だけを向いて動かない。その為に、私が男の異常に気付いたのは、男を客間の布団に寝かしてからになった。
球に尾びれをつけた真白の物体。最初は死霊かと思い、庭へ戻るよう命じたけれど、動かない。眉をひそめて注視していると、それが死霊ではないことを理解できた。これは死霊ではなく、生霊。おそらく、死霊に襲われたとき体から抜き出されたもの。この生霊は、間違いなく男の一部。一度抜かれた魂を元の肉体に返す方法など知らない。この男はこれからの生を、半人として生きていくことになったのだ。
男を何とか助けたと思った次の刹那に訪れた現実。目に見える結果に再び自責の念がこみあげてくる。胃が収縮して胃液が食道を這い上がってくるのを堪えきれず、口から零れないよう手で塞いで廊下へ走り、庭に胃の中身を全て吐き出した。
「なんて、ことを」
呟く声はうわ言の様。涙が止め処なく溢れてくる。人を殺すだけでも罪深いというのに、それだけでは飽き足らず、私の異能は人を人の道から外れさせてしまった。
彼になんと言えばいいのだろう。人としての生を殺してしまった私は、彼になんと詫びればいいのだろう。
いや、それ以前にもう、私の方が限界だ。機械のように、人形のようにと己を殺してきたけれど、もう駄目だ。喉に張り付く胃液の感触に顔をしかめながら、救いを求めて視線を上へ。見えるのは蕾を咲かさんと構える妖桜。その幹をなぞるように上へ。枝を越えて空に至る。そこに輝く月を見つけ、ああ、と息を吐く。
「数日で、月が満ちそうね」
その夜私はじっと、九分ほど満ちた月を見上げ続けた。
次の日、男が目覚めた。目の前に浮いている霊に動揺した素振りは見られない。無意識の領域でそれが己の半身だと理解しているのだと思う。取り乱すことを予想していたので少々拍子抜けした感はあったけれど、落ち着いているのならそれに越したことはない。深く、床に額がつくほど深く頭を下げ、謝罪する。気にするなという言葉に逆らう様にもう一度、二度と頭を下げる。四度下げようとしたところで、男の困り戸惑った表情を見て止めた。その後男の体調が万全になるまで、この屋敷に滞在することに決め、その日を終えた。
月はまだ満ちない。
また次の日、男が庭に下りているのを見つけた。慌てて声をかけると、男は問題ないと振り返った。半身が霊となったことで、西行妖の放つ死の力が効かなくなったらしい。今年はここで花見をしようか、と楽な表情で笑いかけてくる。後ろ暗さからどうしても目を逸らしてしまう。その日男は山を自由気ままに散策していた。
月はまだ満ちない。
さらに次の日。庭で久しぶりに舞の練習をしていたら、男に見られてしまった。是非もう一度との頼みに人様に見せるほどではないと断るも、男はそんなことはないとさらに詰め寄ってくる。仕方なく、私は母に見せた時以来、実に六年ぶりに人に舞を見せることになった。幾度か舞子を見たことがあるがそれ以上だと褒めてくれたけれど、あまりに手放しすぎて面映(おもはゆ)く、私は素直に喜べなかった。
月の満ちは九分九厘。明日、月は満ちるだろう。
そしてその日が来た。私は朝から部屋に籠り、特に気に入っている歌を一つ一つ、ゆっくりとかみ締めながら詠み返していた。外に出たのは、台所での食事の準備と居間での二人の食事、それと食事の片付け。その時以外は部屋から一切出なかったので、夕食時に男から心配されてしまった。歌を詠んでいるだけと言っておいたけれど、男の顔から不安が消えることはなかった。さすがは剣客、相手の表情を読み取ることに長けていると思わず感心してしまう。
夕食後の食器も洗い終えて部屋に戻る。墨と筆を準備して、懐から短冊を取り出した。歌聖の想いが詰まった上の句を手に、瞼を下ろす。暗闇と静寂に、しばしその身を浸す。とりとめのない思考は流れるに任せ、体の鼓動は零へと近づいていく。自身が闇と同化したと錯覚するほどの一体感が心地良い。
すぅ、と瞼を上げる。闇の余韻をたっぷりと味わいながら、筆へと手を伸ばす。右手に筆を、左手に短冊を。障子越しに月の明かりが目に入る。その明かりで自身の闇が晴れていく様を想像する。
心が晴れた。一点の曇りもない心持ちで、障子の向こうの月を思いながら筆を走らせる。できた句を一度声に出さずに詠み、満足して筆を置く。
これでもう、引き返す道は消えた。そのことが何故か清々しい。歌を机に置いて、代わりに取るのは小刀。障子を開け、一度部屋を振り返り名残を失くしてから廊下へ。
「今日はお花見ができるのかしら?」
妖桜へと続く庭に面した廊下に、いつかの女がいつかの様に傘を差して腰掛けていた。まるで全てを見透かしているかのような、こちらの不快を煽る笑み。
「貴方、今度ばかりは死ぬかもしれないわよ。悪いことは言わないから帰りなさい」
「それは楽しみですわね。何分私、今まで死にそうになったことがないもので」
忠告に返ってきたのは軽口。それはそれは、と呆れて二の句が浮かばない。元より相手にする気もなかったので、勝手にしなさいと放っておいて庭へと下りる。
一歩二歩と歩いたところでふと足を止め、女に振り返った。
「そういえば、お互いの名前も知らなかったわね」
「あら。それを今から言う意味があるのかしら?」
「これから花見をさせてあげる相手の名前ぐらい、知っておきたいじゃない」
自分の名を告げて、貴方は? と問いかける。
「私の名前は紫。八雲紫よ、お嬢さん」
何が楽しいのか、彼女はくすくすと笑っている。全くもってその思考が理解できない。私も妖怪のように長い生を過ごせば、少しはその思考に近づけるのだろうか。どうでもいいことではあるけれど。
嘆息して妖桜へと向き直り、歩みを再開する。一歩近づくごとに妖桜の枝が仲間の到来に、蕾が開花の予感に、その身を震わせる。同調のせいか、その様子が愛おしく感じる。
根元にたどり着き、その幹を撫ぜる。瞬間、一際大きく妖桜がその身を震わせた。
「そう、喜んでいるのね」
こんな状況だというのに、笑みが浮かぶ。周りから疎まれ続けてきて、こんな時になって初めて喜ばれたのだ。
幹に背を預けて空を見れば、屋敷と桜の間から、満ちた月が星と共に輝いている。桜、屋敷、月。三つが一堂に会す光景を、身じろぎもせずに目に焼き付ける。
屋敷の奥から慌しい足音が届いた。あまりゆっくりとしている時間はなさそうだ。後ろ髪引く思いを目を閉じて断ち切り、小刀を鞘から抜く。深く息を吐くのに合わせて顔を正面に戻して目を開ける。視界の中では女妖怪が変わらず笑みを浮かべてこちらを眺めていた。見届けるのが彼女一人というのは少々不愉快ではあるけれど、一人でもいてくれることがそれ以上に喜ばしい。
私は小刀を逆手に振り上げて、
「さようなら」
胸に目掛けて振り下ろした。
全身を襲う奇妙な感覚に目を覚ますと、頭上で半身が何かを拒むような動きを見せていた。死霊に襲われ抜き出されたと聞いた己が魂。生霊の名に恥じず、霊的な事象に敏感に反応する。さすがに人から外れたと分かった時は混乱したが、なったものは仕方がないと半ば強引に割り切った。それが自分の為でもあるし、あの娘の為でもあったのだから。
立ち上がって上着を身に着け腰に刀を差す。この屋敷で半身が反応する霊的現象があるならば、それは西行妖に他ならない。一直線に向かおうとして思いとどまり、進路を反転する。向かう先は管理の娘の部屋。すでに迷惑をかけた身、無断の行動でさらに輪をかけるわけにはいかない。
障子の前に立ち、声を控えめに呼びかけ返事を待つ。返ってこない。眠っているのかともう一度、少し声を強める。それでも応答がないことに眉をひそめ、断りを入れてから障子を横に引いた。
「? もう向かったのか?」
無人の室内で無駄とは知りながらも今一度呼びかけてみる。やはり反応はない。中に入ってざっと部屋を見回して、その視点が机で止まった。
机に置かれていたのは、一つの歌と一冊の本。それが無性に気になり、心中で詫びながら机の前に座る。歌を手に取り、その内容を理解して、
「……この歌は」
一瞬、心臓が止まった。まさか、という思いが何度も浮かぶ。しかしそれは歌の内容から導かれた答えを否定できずに消えていった。負の想像を打ち消したいと本へ手を伸ばす。動き出した心臓は一転して早鐘を打ち鳴らしていた。
日記だった。最初の記録は一年前。個人の領域に踏み入ることに良心が痛むが、無理矢理抑えつけた。何を探しているのかも曖昧なまま次々と項を捲っていき、所々現れる変に浮いた墨の多さに項を捲る手を止めた。何だ? と一項ずつ確認しながら読み進めていく。
墨が多いのは、一度書いた文章を乱暴に横線で消していたからだった。消されていた文章は、西行妖に誘われ人が死んだという内容のようだ。その脇にはただ一文。墨をべっとりと含み、本の体裁など無視した大きさでただ一言。
”私が殺した”。
思わず顔をしかめて本から顔を離した。その文に込められた生々しい感情が殴り書きの字の端々から滲んでいる。墨のない場所にできた皺は涙の跡だろうか。
負の感情に軽い吐き気すら覚える。それを堪えながら項を進めていく。歌や舞という日常に紛れ込んで現れる”私が殺した”という一文。
何だこれは? これは本当にあの娘の日記なのか? まだ二十歳そこそこの少女の内に、これ程の闇が巣食っていたのか?
日記は私との出会いにまで進んでいた。三度自分の来訪を簡単に記している。正直に言って、この先を読むのが怖い。だが、ここで止まるわけにはいかない。どのようなことが書かれてあったとしても、読まなければならないのだ。内から震える体を数度の深呼吸でなだめて、自分の四度目の来訪についての記述を読んだ。
書かれていたのは、西行妖の側に倒れていた私を保護したことだけだった。淡々とした文章だが、文字に幾らか揺れが見て取れた。己の愚行に吐き気がする。一体彼女はどれほどの思いを隠してこの文を書いたのか。今すぐにでも少女の元へ行って償いたいという衝動に駆られる。
日記はその後三日、何事もなく続いていた。そして今日の分に書かれていたのは、”楽になろう”、と一言だけ。
「ふざけるな!」
机を全力で叩いて立ち上がり、歌を握り締めて部屋を飛び出た。
認めない。この歌を認めるわけにはいかない。生きてもらわねば。生きて自分に償いの時間を貰わねば。走り、居間を通り抜けて反対側に出て――――満開の桜が、そこにあった。
視界を埋め尽くすほどの、満開の西行妖。思考も何もかもが洗い流され、ただただその絶景に魅了された。目は固定されたかのように西行妖を見上げたまま動かせない。突っ立ったまま、西行妖に吸い寄せられる感覚に身を任せてしまいそうになる。
「そこから先に出たら、死ぬわよ」
「っ!」
急速に全身の感覚が復活する。知らず西行妖に誘われていたらしい。容易く折れた自身の心に叱責を入れて声の主を見る。一目見て怪しいと分かる女の妖怪。いつでも腰の刀を抜けるように警戒する。女はこちらの半身を見ると、へえ、とかすかに目を見開いた。
「驚いた。魂が肉体から離れている人は初めてよ」
女は見ていて不愉快になる笑みを浮かべた。そもそもここでこのような女に構っている場合ではないと首を振り、西行妖を見据える。少女は西行妖の根元で、幹に背を預けて西行妖を見上げていた。胸には小刀が突き立っており、まるでその小刀で西行妖に縫い付けられているようにも見える。強く大きな声で呼びかけると、緩慢な動作で虚ろな瞳を向けてきた。
そして微笑して一礼、そのまま前のめりに倒れた。
反射的に飛び出そうとして、女の傘に視界を覆われ失速した。湧き上がる激情に右手の歌を放り出し、居合いの構えをとる。あらん限りの殺気を向けられても尚、女の表情から笑みは消えていない。その事が激情をさらに加速させる。
「貴方、そんなに死にたいのかしら?」
「黙れ……!」
「私は今お花見を楽しんでいますの。貴方の様な不純物が入られると、折角の桜が台無しになってしまいますわ。大人しくあの娘の望んだ桜を観賞しなさいな」
あの娘が望んだ。その言葉に理性が活性化する。激情に身を任せる本能を包み込み、少女の最期を見届けろと声高に叫ぶ。逡巡は長くなかった。苦々しい顔で構えを解き、頭を振って余計な思考を排除。西行妖とその根元に倒れる少女を見る。
少女はすでに動きを止めている。まだ息はあるかもしれないが、もって後わずか。自分にできるのは、その死に様を見届けることだけ。
西行妖は満開の峠を越え、先ほど見たほどの威厳は感じられなくなっている。目を凝らせばいくつかはすでにその花を散らしていた。
女と二人、声もなく西行妖が散り行く様を観賞する。舞い散る桜の花がまるで垂れ幕の様に視界を遮る。花は加速度的に散る速度を増して行き、思っていたより早くその花を散らし終えた。残ったのは二つだけ。再びその身を幹と枝だけとした西行妖、そして西行妖の花に埋もれ息絶えた少女。僅かなりとも動かないその景色は、まさに祭りの終わりを告げるもの。
長い時を挟んで、女の手が動いた。どこからか扇子を取り出しその先端で空間をなぞる。するとそこに不気味な隙間が生じ、中から別の女が現れた。現れた女は「紫様も式使いの荒い」とぼやいて、西行妖の元へ行き、持っていた鍬で土を掘り始めた。その背には、金色の尾が九本。
九尾の狐。見たのは初めてだが、驚くべきはそこではない。九尾ほどの妖怪を苦もなく従えるこちらの女の方だ。一度解いた警戒心が高まる。女は横目でこちらを見て、小さく笑声をあげる。
「また緊張しているわね。安心なさい。今貴方をどうこうするつもりはないわ」
「……では、あの狐に何をさせている?」
「埋葬の準備ですけれど」
女は傘で私が落とした歌を手繰り寄せて、一読してからこちらに見えるよう掲げた。
「この如月の望月の中、花の下にて眠るがあの娘の望み。何か異論がありまして?」
女の言う事は確かに正論。だが、
「それだけではあるまい。貴様のような女が、人一人の為にそこまでするとは到底思えぬ」
「これは手厳しい」
「答えろ。貴様の目的は何だ?」
こちらの追及にも、女の笑みは変わらない。くすくすと、何事にも動じず、何事をも見通しているかの如く、相手を見下ろし笑っている。酷く気分が悪くなる。
「私の目的は、貴方と同じ、西行妖を封じること。あの娘を封ずれば、共鳴同調している西行妖も封印される。そうすれば西行妖は花を咲かすことができなくなり、人を誘うこともなくなりましょう」
あっさりと答えが返ってきた。悟る。この女は別に目的を隠していたわけではなく、問われなかったから答えなかっただけなのだと。女からすれば、こちらがどう動こうが関係ない。聞かれれば答え、聞かれなければ気にしない。私はその程度のものだと、女は考えている。
気に食わない。剣士としての誇りが自然と構えをとらせた。
「何か、お気に触ったかしら?」
「貴様のその態度が気に食わぬ」
「それはご免なさい。でも、これが私ですのでご勘弁を」
一閃。女の首目掛けて最速で居合い抜く。しかし刀は何の感触も返してこない。己の目が信じられない。首の手前、女がなぞった空間を通った刀は、半分より先が綺麗に消失していた。あまりの異常に、振りぬいた体勢のまま次の動作に移ることができない。
背後から首に衝撃。脳がぐらぐらと揺れ、立つことはおろか意識を保つことすら覚束ない。倒れざまに後ろを確認すれば、そこには狐の立ち姿。
「ご苦労様ね、藍」
「このくらい、ご自分でなさればよろしいでしょうに」
狐の溜息を最後に、意識が消えた。
強い光に網膜が脳へ覚醒を促す。目を開けた途端飛び込む日の光に目を細めて顔を逸らし、目が明るさに慣れるのを待つ。視界には障子と板張りの床。昨夜倒れたまま放置されていたらしい。光に順応した瞳で反対を見れば、周囲を花開いた桜に囲まれた西行妖が、枝と幹だけの姿で屹立している。その根元には誰もいない。
「終わったのか」
「お蔭様で、つつがなく」
呆然と呟いた声に、横からの返事。ちらりと見れば、昨夜と変わらぬ姿勢、変わらぬ笑みで女が座っていた。
「ならばもう、西行妖が人を誘うことはないのだな?」
「ええ。生者が死に誘われることはないでしょう」
この事を知れば、少しはあの少女も救われるだろうか。そう思うと、複雑な気持ちになる。結局、自分は少女に何もしてやれていないのだから。
「――けれど」
思考を中断して女を見る。女は前を見据えたまま、
「西行妖はすでに死霊を吸い寄せすぎている。ここにさらに負の魂が集ってしまえば、最悪幻想郷全体に影響を与えかねない」
「それで、どうすると?」
「この山一帯に結界を張り、冥界としてこの世から隔離します。このことはあのお方にも承諾を頂いておりますゆえ、早急に」
山を下りるならお早めに、そう言われるが、動くつもりはない。
私はここに留まらねばならない。過程はどうあれ、最終的に少女を殺したのは私に違いない。それを償うためにここに留まり、少女の弔いに生きるのだ。そう伝えると、女は意外そうに数度その目を瞬かせた。女の驚く顔は初めてで、そのことに妙な達成感を感じて笑ってしまう。
その後女は結界を作り、去っていった。
「貴方の愚直さに負けて良い知らせを二つ程。貴方の半身は不滅の魂となり外に出た。おそらくそれに引きずられて、貴方の命は人の数倍になっていると存じます。そしてもう一つ。正直私は貴方が残るとは思いませんでしたので、西行妖の管理者として別の者を考えておりました。人を死に誘う哀れな亡霊なれど、まあ仲良くどうぞ」
最後まで笑みを浮かべて、そんな置き土産を残していった。
さて、と大きく伸びをする。とりあえずはあの客間を自分の部屋として使わせてもらおう。無断で入るのは少々気が引けるが、少女の部屋も簡単に片付けておかねばなるまい。少女がいつ帰ってくるかは分からない。ならばいつ帰ってきてもいいようにしておかなければ。
歩き出そうとして、足元に落ちた短冊に気が付いた。少女の辞世の句が書かれた短冊だ。無言で拾って、懐にしまいこむ。少女に見せるつもりはないが、己の戒めの為に貰っておこう。
長い長い償いの時間が始まる。いつか自ら償いを終える瞬間が来ることを望んで、歩き出した。
――願わくは 花の下にて 春死なむ
その如月の 望月のころ――
※本作は短編として完成しておりますが、一部設定が作品集27にある「さくら さくら ~歌聖~」と繋がっておりますので、そちらと合わせて読まれることを推奨します。
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初めて屋敷にやってきたのは十二の時。母に連れられ屋敷からその妖(あやかし)桜を見せられた。我が家の名をとり”西行妖”と呼ばれる巨大な桜。けれど私には桜はろくに見えなかった。だって、桜の周りを大量の死霊が覆い尽くしていたのだから。
その光景に吐き気がした。顔を歪めて口を手で隠すと、それを桜にあてられたと勘違いした母が「まだ早かったわね」と謝って私を奥へと連れて行った。
そもそもここに来るのは、普通体が成長しきる齢十八を越えてから。なのにまだ十二の私が連れてこられたのは、ひとえに私の持つ”死霊を操る”異能の力のせい。確かに、私はここに来ても死霊の放つ妖気にあてられることはない。しかし、あの桜を中心に数百にも及ぶ死霊が蠢いている映像は、到底耐えられるものではない。
それなのに、なぜか私はあの妖桜に親しみを覚えていた。いつ見ても群がる死霊で幹も枝も見せないその桜に、なぜか呼ばれている気がした。
私は母とともに規定の期間である一ヶ月を過ごした後、引継ぎをしてから屋敷を後にした。
当たり前のことではあるけれど、屋敷は娯楽にとても縁遠い。交代制であることよりも、妖桜にあてられ遊ぶ元気も出ないのが原因である。なので屋敷での私の日常は、屋敷に残る様々な歌人の歌を詠むことと、母から舞を習うことに終始していた。
不満はない。歌を詠み過去の人の心情に触れることも、舞を踊り上達していくことも、どちらも私にとっては嬉しく楽しいことだ。
そして今日も、私は屋敷の一室で歌を探していた。ここに来てもう随分と経ち、詠んでいない歌は大分少なくなっている。別に詠み返すことがつまらない訳ではない。二度詠めば一度目とは異なる想いを、三度詠めばまた異なる想いを。詠むたび違う想いを抱くことはとても楽しい。けれど、まずは全ての歌を一度詠もうと決めている。
「えぇと、……ん?」
部屋の箪笥の奥に、見慣れない箱があった。さほど大きくもない、平たい直方体の箱。引っ張り出し埃を払うが、表には何も書かれていなかった。なんだろうと思いながら蓋を開けると、中には丁度箱に収まる大きさの本が一冊見える。表紙にはある歌人の名前に続いて”歌集”と書かれていた。
記憶を探り、その歌人に行き当たる。自然の歌をたくさん謳った人で、今も歌聖としてその名を残すほどの人のものだ。私もいくつか詠んだことがある。歌い手がどれほど自然を愛しているか、その自然への想いが伝わってくる良い歌ばかりだった。
なぜこんなものが、という疑問は捨て置いて、私ははやる気持ちを抑えきれずに本を開く。歌は一項に三つか四つほど。小さな声でゆっくりとその歌を歌い上げていく。春、夏、秋、冬、豊かな自然の賛美に魅せられて、そこに自分がいるかのように心が穏やかになる。
そうして最後の項を読み終えて一息、名残を惜しんで視線を本に落としたところで、私は本がもう一項あることに気が付いた。歌は終わっているのになんだろうかと開いてみれば、短冊と何やら書き込みがあった。短冊を手に取って見る。かすれた文字で上の句だけが書かれていた。本に目を移すと、これが歌人の辞世の句であり、この歌に心動かされた誰かによって完成されることを望んでいるとあった。改めて短冊を見て、かすれて途切れがちの文字を何とか歌として詠んでみる。
「――花の下にて、か」
妖桜の方を見つめながらしばらくそのまま思案して、私は短冊をしまい、新しい短冊を探しに部屋を出た。
「私はこの屋敷に残り、今後ここを私一人で管理したいと思います」
そう告げたのは、私が十八になり、これからは母と離れて一人で見張り番をするようになった時だった。母と共に屋敷で過ごす最後の時間、いつものように父が引継ぎに来た昼過ぎに、私は両親を居間に招いてそう切り出した。意味が理解できないのだろう、眉をひそめる二人に私は重ねて告げる。
「私なら、あの桜の影響を受けることはありません。いらぬ病人を出すよりは、私がここに残る方がずっといいと思うのです」
もっともらしい理由。実際、これは確かに私の本心ではある。しかし、これは全体の半分にしか過ぎない。もう半分はとても話せるものではないため、どうしてもこれで納得してもらわないといけない。私は顔を上げ、できる限りの意志を瞳に乗せ、両親を見据えた。
「急に畏まって何を言い出すかと思えば」
呆れたように母が息を吐く。母は私があの妖桜を避けていることを知っている。その観点から見れば、私の発言は愚かな自己犠牲として映っただろう。なだめるようにあやすように、私の頭をなでてくる。
「確かに私達はあの桜のせいで体調を崩すこともあるけれど、それはお前が気にすることではありませんよ。ねえ?」
同意を求められた父は首肯を返した。即座に私は母の手を払いのけて反駁する。
「母さん、私は嫌なの。屋敷から帰ってくる人が寝込むのを見るのが嫌なの。家にいるといつも感じる異質なものを見る目が嫌なの」
私は家で親戚や使用人からあからさまに煙たがられている。原因は明白。私の異能のせいだ。そのことを出すと、二人の顔に陰がさした。
二人は親として私のことを心配してくれている。とても嬉しいことだけれど、それでは駄目なのだ。どうしても、私は一人でここに残らなければならない。誰かと居ては駄目なのだ。
私の力は増大していた。今までは操る存在だった死霊達が、従うようになった。死霊を統べるこの力は、まさしく西行妖と同じもの。ならばいつか私の力は、生者にまで影響を及ぼすことになるはず。
故に私は一人でいなければならない。そう言えたらどれだけ楽だろう。けれど、言ってはいけない。言えば、この二人は必ず反対する。下手をすれば、二度とこの屋敷に来させてはくれないだろう。しかしそれでは私が耐えられない。家にいて第二の西行妖になるかも知れずに怯えて暮らすなんて嫌だ。だからこそ、私はここに残らなければならない。
「……お前が家で辛い思いをしていることは知ってます。私達の力が足りないせいで――」
「母さん。最近食が細くなってるよね。父さんもそう。最近体が重くなってるんじゃない?」
私の割り込みに、二人が動きを止める。
ここ数年、日増しに西行妖はその力を増してきている。今まではせいぜい軽い症状で済んでいた一月の滞在が、最近は命を蝕むまでになっている。
二人ともそれは分かっているのだろう。関係ない、と言う父の声には張りがない。私が見つめれば見つめるほど、両親の目は忙しく動く。
「分かるでしょう? 私がここに居れば、誰も困らなくなるでしょう? お願いだから、無理して私を残して逝かないで」
沈黙が続く。即座に否定できないのは、このままいけば数年を待たずに死ぬということが分かっているから。両親を追い詰める自分に罪悪感を抱いてしまう。それを表に出さないよう努めて、私は二人の返事を待った。
やがて父が吐息を一つ。
「…………駄目だ。娘をこんな所に一人残していく訳にはいかない」
「なんでよ!」
反射的に畳を叩いて叫ぶ。先ほど抱いた罪悪感が、私に納得してくれないことへの怒りへと変貌する。怒りは一瞬で全身を駆け巡り、私を支配していく。激情に駆られたまま、私の口は意思を無視して言葉を放っていた。
「私何かおかしなことを言った!? ねえ、言ってないでしょう! ねえ父さん、私間違ってる!?」
「そうじゃない。間違ってるかどうかと言う話ではないんだ。理屈ではなく、感情の問題なんだ」
「ふざけないで! 感情? 父さんの感情は今だけ親面して後は死んでも構わないって言ってるの!? 自分が死ぬまで満足できれば、後のことはどうでもいいの!?」
「違うの。お願いだから、落ち着いて私達の話しを聞いてちょうだい」
「うるさい! 母さんも父さんと同じことを言うんでしょう! もういい! こんなに言っても分かってくれないなら、もういいよ! 馬鹿みたいに無茶して勝手に死んじゃえばいい!! 死んで私が独りで悲しんでるのを、あの世から呑気に眺めてればいいじゃない!!」
二人の顔が、これ以上ないほどに悲しみに歪んだ。それを見て激情は瞬時に消えさり、残ったのはただただ先の発言を悔い責める自分だけ。
三人を包む重苦しい雰囲気。耐えられなくなって、私は居間を飛び出した。そのまま走り、私に割り当てられた部屋に飛び込んで、布団も敷かず畳の上に仰向きに倒れこみ、私は浮かんでくる涙を何度もぬぐった。
私は何をやっているのだろう。父さんや母さんに心配をかけたくなくて、だからここに残ろうとしたのに、一時の感情を抑えられずに二人を傷つけて。本末転倒、私は何と二人に詫びればいいのだろう。
どれだけの間泣いていたのか。ふと外を見れば日が大分傾いていた。赤く染まりつつある日が屋敷を照らしている。その光に誘われるように私は部屋を出た。まずは両親に会って、先ほどのことを謝らなければならない。それでも納得してくれていないなら、仕方がない、隠した本心のもう片方を告げるしかないだろう。
廊下を歩く途中、妖桜へと目を向ける。赤い日を背負って立つその姿は、死霊がいなければさぞかし荘厳なものに違いない。それが見れないことを残念に思いつつ、私は立ち止まって妖桜を見ていた。
「――――え?」
思わず目をこすり、目を細めて注意深く妖桜を見る。間違いなかった。
そこに、父さんと母さんがいた。妖桜の根元、死霊に隠れるように二人は立っていた。共に手を握り合い、巨大な妖桜を見上げている。
「父さん! 母さん!」
下履きを履く時間も惜しい。裸足のまま庭へと下りて、二人を目指して駆け出した。二人のことを何度も呼びながら駆け寄っていく。途中、声が聞こえたのだろう。二人が私へと振り向いた。
「父、さん? 母、さん……?」
二人は、私に向かって微笑んでいた。命を蝕む西行妖の下にあって、まるでそれが嬉しいことであるかのように微笑(わら)っていた。その奇妙な薄気味悪さに足が止まる。
向かい合って数秒。両親は微笑んだまま、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
「お前に死んじゃえばいいと言われてから、死ぬことがとてつもなく魅力的に思えて、気が付いたら西行妖のところに行っていたの」
そう言って、母はその日のうちに息を引き取った。二日後には、同じことを言って父も死んだ。
両親の葬儀の為に一度家へ戻った私は、葬儀の終了と共に屋敷の管理を任されることになった。元々私を疎ましく思っていたのだから、反対意見が出ないのは分かりきっていたことである。
私の力は、もはや人に害なすまでになっている。両親の死がきっかけとなったのか、もとよりなっていたのがそこで分かっただけなのか、それはわからないけれど、私の力は親を殺した。それで充分。人を避けなければならない理由を、これ以上ないほど満たしている。これ以上、私の力で人が死ぬようなことがあってはいけないのだ。
私は本格的に屋敷に籠り、定期的に来る食料などの配達を頼りに暮らすようになった。一人で出来ることは限られているけれど、退屈はなかった。春になれば桜、夏になれば蝉、秋になれば紅葉、冬になれば雪。それらを眺めながら、書物に残る様々な歌人の歌を詠み、時には舞を踊り過ごす。それだけで私は満足だった。
しかし、西行妖の力は想像以上に強いらしく、時折ふらりと人がやってくることがあった。彼らは真っ直ぐ妖桜を目指して歩き、決まってその下で命を終えた。助けようにも、妖桜と共鳴する私が近づくと桜の妖力が高まるため、全くの逆効果になってしまう。結果私は妖桜の下で人が死ぬのをただ見届けるだけ。
管理を任されて五年、私の日常は歌と舞と死体の片付けに集約されている。
そして今日、また人がやってきて妖桜の下に立っている。年越しも間近な冬。桜の木々はその幹と枝をさらけ出し、遠く見える山とともに雪にその身を埋もれさせていた。その景色を縁側に腰掛け眺めながら思う。最近人がやってくる頻度が高くなっている気がする。それだけこの桜の妖力が強くなっているということだろうか。
「あの人、もうすぐ死ぬわよ?」
聞こえた第三者の声に顔を向ける。いつの間にか、私の隣に女性が一人、縁側に腰掛けていた。波を描く金の髪に手櫛を通しながら、妖桜の下にいる人を観察している。奇妙な形の傘をさし、これまたどこの物とも分からない着物を身に着けていて、その口元に浮かぶ小さな笑みと相まり、近寄るのをためらいたくなる空気を纏っていた。
一目で妖怪だと分かる。妖怪と関わる気などないので、私は無視して顔を妖桜へと戻す。構わず、女性は語りかけてきた。
「初めまして、不死見の娘さん」
「不死見の娘?」
聞きなれない単語に眉をひそめて聞き返す。女性は「知らないの?」とくすくす笑う。
「貴方のことよ。あの西行妖を死な不(ず)して見る娘。この辺りではちょっとした評判ですわ」
くだらない、と嘆息する。妖桜を見れば、根元に立つ人は今にも倒れそうに震えている。私は懐から短冊を二枚取り出し、書きかけの一枚を脇に置いて白紙の一枚を手に取る。墨と筆はすでに横においてあった。
「あら。人が死ぬのに歌を?」
「……これは私のものじゃないわ」
「それでは、どなたのかしら?」
「あの人のものよ」
視界の先で、幹にすがるように崩れ落ちる人が見える。筆を持ち、時を待つ。妖桜はその蕾を震わせていた。
「これは、あの人の――辞世の句。人の辞世を語るなんておこがましいかもしれないけれど、私にできるのはこれくらいだから」
返事がないので横目でちらりと見ると、女性は変わらず微笑して妖桜を眺めていた。妖桜はなお震えを大きくし、蕾は徐々に開かれていく。
そのままだと死ぬわよ、と言おうと口を開きかけたが、面倒なので止めた。どうせ彼女が死んでも、歌と手間が一つ増えるだけなのだ。
蕾が花へと変化していく。一分咲き、二分咲き、三分咲き、そこで止まった。妖桜はさらに咲きたいとしばしその身を震わせるが、吸うべく魂はすでになく、やがて沈静していった。
「残念。花見ができると思ったのに」
「三分咲いただけでも大したものだと思うわ。――それより、貴方、なんともないの?」
つらつらと今死んだ人への歌を作りながら問う。女性は嬉しいことにね、と涼しい顔で返してきた。なるほど、と理解する。目の前の女性が、かなり強力な妖怪であることを。
女性が私の脇に置かれた歌を手に取った。上の句だけ書かれたそれを一度詠み、記憶を探るように小首を傾げる。
「どこかで聞いた歌に良く似た雰囲気ですわね」
「昔のある歌人の歌よ。自然を数多く歌っていて、そのどれもが素晴らしい、そんな人。御先祖様が縁あるらしくて、その歌を預かったんですって。後の世に、誰かが形にして欲しい、と」
「それを、貴方が形にしようと?」
「ええ。この人の歌が好きだからというのもあるけれど、せっかく目の前に立派な花があるのだし。この桜を見られるのは私だけだから」
歌ができた。筆を置き、できた歌を今息絶えた人へ向けて一度詠む。余韻を楽しんでから、書きかけの歌を返してもらう。「この歌は、いつ完成するのかしら?」と言いながら手渡してくる女性に、「私が死ぬときに」と答える。
話は終わりと立ち上がり、部屋へと戻っていく。
と、
「……まだ何か?」
後をついてくる女性に不機嫌を露わに振り返る。女性は私の機嫌などどこ吹く風で笑みを崩さない。廊下なのに傘をたたんでいないのがものすごい邪魔である。
「実は私、貴方に興味がありますの」
「私に? なぜ?」
あの妖桜になら分かるけれど、と首を傾げる。私の反応が期待通りだったのか、女性の笑みがわずかに深くなった。
「分からない? 貴方は自分がいかに特異か理解していないのかしら。西行妖と共鳴し、多くの人を死に誘う自分をご存じないのかしら」
「確かに西行妖と同調してはいるけれど、先ほどのように人を死に誘っているのは私ではなく西行妖でしょう」
「あらあら、ほんとにご存知ないようね」
困惑する私をからかうように、女性は笑って傘をくるくる回す。その笑声が不愉快で、私は会話を打ち切って歩みを再開した。女性はなおも笑っていたが、少しして笑い声を収めた。
「西行妖は、花咲かす春にしか人を誘わない」
女性の声が、実際以上に大きい響きとなって私に届く。それが女性の狙いだと分かっていても、立ち止まらないわけにはいかない。だって、その言葉を認めるということは。
「嘘はよくないわ。あの妖桜は四季を問わずに人を誘っている」
振り向かず、否定を表すため意識的に声を張る。女性は私の態度などどこ吹く風と変化を見せない。
「そうね。確かに季節など無関係に人は死に誘われている。でも桜は春しか目覚めない。夏も秋も冬も、本来桜は眠って過ごすのよ。これはあの西行妖にしても例外ではないわ」
それはつまり。四季を問わずに訪れる人たちは、何に誘われやって来ているのか? 春は西行妖。なら夏は? 秋は? 冬は? 眠っているはずの西行妖の下へ人を誘っているのは――?
「貴方は他人を避けていると聞いているけれど、ふふふ、人を遠ざける最も簡単かつ効果的な方法とは、何かしら?」
全身が震えるのを抑えられない。呼吸は荒く歯は音鳴らし、足は力を失い柱に縋る。
いけない。これ以上、あの女の言うことを聞いてはいけない。柱から障子、障子から柱。倒れそうな体を預けながら、懸命に体を前へ動かしていく。
ひとまず眠ろう。一眠りして気持ちも落ち着いたなら、あの女の言うことが嘘だと分かるはず。
嘘に決まっている。そうでなければ、今まで人を死なせていたのは――。
年が明けて一月が経ち、如月の月に入った頃、屋敷に一人の客が訪れた。
屋敷に客が来るなど何年ぶりだろうか。どうせ来るはずもないと客用の湯飲みは埃を被ったまま。仕方がないので私の分を使い、適当に茶菓子を合わせて居間へと入る。
質素な服を着た、厳格な雰囲気の男だった。旅の剣客といったところだろう。白髪が目立つ四十過ぎの見た目に反して、加齢による弱さは微塵もない。腰に差していた刀は横に置き、胡坐をかいて座っている。
「まさか人が来るとは思っておりませんでしたので、大したもてなしもできませんが」
「いや、押しかけたのは私の勝手。貴方が気にすることはない」
言いつつ、差し出したお茶を一口飲む。出された物を拒んでは失礼だと知っており、その所作も落ち着いている。なかなか清廉な人のようだ。男が湯飲みを置いて一息ついたところで、こちらから口を開く。
「それで、本日はどのようなご用件で?」
うむ、と男は頷いて、顔を横に向けた。男の視線の先、障子の奥にあるのは、あの妖桜。雪も解け始め、その身に多くの蕾を蓄えている。男は見えない桜を睨みつけたまま、
「西行妖を斬りに参った次第」
「……西行妖を?」
「左様。あの桜は少々人の血を吸いすぎている。これ以上の犠牲が出る前に、止めねばならない」
男の言ったことを理解できず、しばし呆然とする。
斬りに来た、と言った。あの巨大な妖桜を、人の身で斬ろうと言ったのだ。何という豪快さだろう。あまりの豪胆さに、思わず笑みがこぼれてしまう。「如何した」と尋ねてくる男に「なんでもありません」と返して、私は一度居住まいを正した。わざわざ頼みに来る彼の真っ直ぐさは好ましいけれど、それを認めるわけにはいかない。
「あの西行妖を間近にしながら平静を保つ貴方の心力は素晴らしいものと存じます。しかし、貴方を西行妖に近づけることはできません」
私の否定に、男がわずかに苛立ちを見せる。
「理由を聞きたい。何故私を止める?」
「まず、あの桜は先祖より代々管理を任された大切な桜故、他人様に勝手にどうこうされる訳には参りません。そしてもう一つ、貴方はあの妖桜を甘く見ております。もし貴方が敵意を持ってあそこへ行けば、貴方は無数の死霊にとりつかれ命を落とすでしょう」
男は苦い顔をして黙り込んだ。その表情は、命を落とすことに迷うのではなく、管理者として伐採を拒む私をどう説得しようかと考えているもの。
大した自信だ、と気づかれない程度に肩を落とす。おそらく多くの妖怪と切り結んできたのだろう。それこそ”妖忌――妖怪が忌み嫌う”の名に恥じないほどに。
「どうしても、承諾はしないと?」
それは確認ではなくこちらの腹をさぐるもの。必ず斬りおとしてみせるという強い意志を瞳に乗せて、鋭く私を見据えてくる。その目には剣客としての誇りが並々と湛えられていた。誇り高いのは良いことではあるけれど、ことこれに関しては彼の誇りは驕りである。
「例え貴方がどれほどの剣客であろうとも、認めるつもりはございません。人の身で西行妖に近づくなど、ただの自殺行為です」
男に負けないくらいの意志をこめて、真っ向から睨み合う。しばらくして、私が折れないことを悟った男は目を閉じることで睨み合いを終え、「邪魔をした」と言って立ち上がった。私はその後ろをついていき、玄関まで見送る。
「また参る。その時は良い返事を期待している」
ごめん、と礼をして男は去っていった。
五日後、再び男が現れた。
「かの桜が貴方にとって大切なものだということは分かる。しかし、だからといって人を誘い殺す妖を野放しにしては置けぬのだ。どうかそれを分かって欲しい」
男の言うことは正論だ。でも、論点はそこではない。それが分からぬのであれば、私が首を縦に振ることはできない。
「先日も申しましたとおり、私は貴方の自殺に手を貸すつもりはございません。お引き取りください」
無言の対峙はほんのわずかの間。私の考えが変わっていないことを知った男は、再び礼をして去っていった。
さらに五日後、三度男は屋敷を訪れた。過去二度の訪問とは違い、男の纏う空気はある種の決意が滲み出ているように見える。
「もはや四の五のは言わぬ。どうかあの桜を斬らせて欲しい。頼む!」
この通りだ、と深く頭を下げる。微動だにしない様子を見れば自ずと分かる。彼にとってこれが正真正銘最後の交渉なのだと。愚直なまでの真摯さが心地良い。されど、これが最後ならばなおさら、一分の許しも見せずに断らなければならない。もうここへ来させないよう、拒絶しなければならない。男に顔を上げさせてから、しっかりとその目を見つめて答える。
「何度請われても私の答えは変わりません。管理者としても一個人としても、貴方を西行妖に近づけることはできません。どうかお引き取りを」
頭を下げて、そのまま静かに相手の対応を待つ。そのまましばし、静寂が佇む二人を包み込む。
沈黙を破ったのは男の方。承知した、と諦観の息をもらし、顔を上げた私に三度に渡る勝手な訪問を詫びてくる。分かってくれれば良いという私の返答にもう一度詫びてから、男は去った。
翌日、太陽が傾き始めた頃にそれは起きた。
絶叫。全身の力を搾り取ったと思えるほどの、長く大きな叫び。どこか聞き覚えのある声に、何事だろうかと声を頼りに部屋を飛び出し廊下を走り――そして見つけた。数十の死霊が、何かに取り付いている。
また誰かが誘われたのかと納得しかけて、ふと思いとどまる。今まで誘われた人たちを、死霊があのように囲むことはしていない。死霊は人が来ると仲間が増えることを喜んでいた。あれはその逆。明らかにやって来た人を拒んでいる。
訝しげに目を細めて死霊の中心を覗き込む。しかし死霊の群れは厚く層を作り、奥を隠していた。舌打ちして死霊に退くよう命じる。そうして死霊の群れの中から現れたのは、
「……なん、で?」
先日、確かに西行妖に挑むことを諦めたはずの男だった。倒れている男の手には抜き身の刀が握られており、その刀で西行妖に斬りかかろうとしたことは明白である。
「なんで? だって彼は昨日、もう来ないって」
あの男の性格からして、私に無断でこのような蛮行に至るとは思えない。礼節を重んじるということを理解したからこそ、あそこまで頑なに彼を拒んだのだから。
拒んだ、ともう一度繰り返したところで思考が止まった。
「彼を、拒んだ……?」
甦るのは、いつか来た女妖怪の言葉。”人を遠ざける最も簡単かつ効果的な方法とは、何か”、そう言っていた。拒むことは即ち遠ざけること。私が遠ざけようとすると人が死ぬと言うのなら、私に拒まれた彼はどうなるか?
「なんて、おろかなことを」
自責が私の胸を縛りつけ、罪悪が私の体を押し潰す。それでもわずかに残る責任を活力に、男の元へ走り寄ってその身を抱きかかえた。私の接近に妖桜が身をわずか震わせる。その様に恐怖し、少しでも早く妖桜から遠ざけようと男を引きずっていく。庭から廊下へと何とか持ち上げて、客間へと引きずりを再開する。急げと逸る気持ちのせいか、見たくないと拒む後ろめたさのせいか、顔は前だけを向いて動かない。その為に、私が男の異常に気付いたのは、男を客間の布団に寝かしてからになった。
球に尾びれをつけた真白の物体。最初は死霊かと思い、庭へ戻るよう命じたけれど、動かない。眉をひそめて注視していると、それが死霊ではないことを理解できた。これは死霊ではなく、生霊。おそらく、死霊に襲われたとき体から抜き出されたもの。この生霊は、間違いなく男の一部。一度抜かれた魂を元の肉体に返す方法など知らない。この男はこれからの生を、半人として生きていくことになったのだ。
男を何とか助けたと思った次の刹那に訪れた現実。目に見える結果に再び自責の念がこみあげてくる。胃が収縮して胃液が食道を這い上がってくるのを堪えきれず、口から零れないよう手で塞いで廊下へ走り、庭に胃の中身を全て吐き出した。
「なんて、ことを」
呟く声はうわ言の様。涙が止め処なく溢れてくる。人を殺すだけでも罪深いというのに、それだけでは飽き足らず、私の異能は人を人の道から外れさせてしまった。
彼になんと言えばいいのだろう。人としての生を殺してしまった私は、彼になんと詫びればいいのだろう。
いや、それ以前にもう、私の方が限界だ。機械のように、人形のようにと己を殺してきたけれど、もう駄目だ。喉に張り付く胃液の感触に顔をしかめながら、救いを求めて視線を上へ。見えるのは蕾を咲かさんと構える妖桜。その幹をなぞるように上へ。枝を越えて空に至る。そこに輝く月を見つけ、ああ、と息を吐く。
「数日で、月が満ちそうね」
その夜私はじっと、九分ほど満ちた月を見上げ続けた。
次の日、男が目覚めた。目の前に浮いている霊に動揺した素振りは見られない。無意識の領域でそれが己の半身だと理解しているのだと思う。取り乱すことを予想していたので少々拍子抜けした感はあったけれど、落ち着いているのならそれに越したことはない。深く、床に額がつくほど深く頭を下げ、謝罪する。気にするなという言葉に逆らう様にもう一度、二度と頭を下げる。四度下げようとしたところで、男の困り戸惑った表情を見て止めた。その後男の体調が万全になるまで、この屋敷に滞在することに決め、その日を終えた。
月はまだ満ちない。
また次の日、男が庭に下りているのを見つけた。慌てて声をかけると、男は問題ないと振り返った。半身が霊となったことで、西行妖の放つ死の力が効かなくなったらしい。今年はここで花見をしようか、と楽な表情で笑いかけてくる。後ろ暗さからどうしても目を逸らしてしまう。その日男は山を自由気ままに散策していた。
月はまだ満ちない。
さらに次の日。庭で久しぶりに舞の練習をしていたら、男に見られてしまった。是非もう一度との頼みに人様に見せるほどではないと断るも、男はそんなことはないとさらに詰め寄ってくる。仕方なく、私は母に見せた時以来、実に六年ぶりに人に舞を見せることになった。幾度か舞子を見たことがあるがそれ以上だと褒めてくれたけれど、あまりに手放しすぎて面映(おもはゆ)く、私は素直に喜べなかった。
月の満ちは九分九厘。明日、月は満ちるだろう。
そしてその日が来た。私は朝から部屋に籠り、特に気に入っている歌を一つ一つ、ゆっくりとかみ締めながら詠み返していた。外に出たのは、台所での食事の準備と居間での二人の食事、それと食事の片付け。その時以外は部屋から一切出なかったので、夕食時に男から心配されてしまった。歌を詠んでいるだけと言っておいたけれど、男の顔から不安が消えることはなかった。さすがは剣客、相手の表情を読み取ることに長けていると思わず感心してしまう。
夕食後の食器も洗い終えて部屋に戻る。墨と筆を準備して、懐から短冊を取り出した。歌聖の想いが詰まった上の句を手に、瞼を下ろす。暗闇と静寂に、しばしその身を浸す。とりとめのない思考は流れるに任せ、体の鼓動は零へと近づいていく。自身が闇と同化したと錯覚するほどの一体感が心地良い。
すぅ、と瞼を上げる。闇の余韻をたっぷりと味わいながら、筆へと手を伸ばす。右手に筆を、左手に短冊を。障子越しに月の明かりが目に入る。その明かりで自身の闇が晴れていく様を想像する。
心が晴れた。一点の曇りもない心持ちで、障子の向こうの月を思いながら筆を走らせる。できた句を一度声に出さずに詠み、満足して筆を置く。
これでもう、引き返す道は消えた。そのことが何故か清々しい。歌を机に置いて、代わりに取るのは小刀。障子を開け、一度部屋を振り返り名残を失くしてから廊下へ。
「今日はお花見ができるのかしら?」
妖桜へと続く庭に面した廊下に、いつかの女がいつかの様に傘を差して腰掛けていた。まるで全てを見透かしているかのような、こちらの不快を煽る笑み。
「貴方、今度ばかりは死ぬかもしれないわよ。悪いことは言わないから帰りなさい」
「それは楽しみですわね。何分私、今まで死にそうになったことがないもので」
忠告に返ってきたのは軽口。それはそれは、と呆れて二の句が浮かばない。元より相手にする気もなかったので、勝手にしなさいと放っておいて庭へと下りる。
一歩二歩と歩いたところでふと足を止め、女に振り返った。
「そういえば、お互いの名前も知らなかったわね」
「あら。それを今から言う意味があるのかしら?」
「これから花見をさせてあげる相手の名前ぐらい、知っておきたいじゃない」
自分の名を告げて、貴方は? と問いかける。
「私の名前は紫。八雲紫よ、お嬢さん」
何が楽しいのか、彼女はくすくすと笑っている。全くもってその思考が理解できない。私も妖怪のように長い生を過ごせば、少しはその思考に近づけるのだろうか。どうでもいいことではあるけれど。
嘆息して妖桜へと向き直り、歩みを再開する。一歩近づくごとに妖桜の枝が仲間の到来に、蕾が開花の予感に、その身を震わせる。同調のせいか、その様子が愛おしく感じる。
根元にたどり着き、その幹を撫ぜる。瞬間、一際大きく妖桜がその身を震わせた。
「そう、喜んでいるのね」
こんな状況だというのに、笑みが浮かぶ。周りから疎まれ続けてきて、こんな時になって初めて喜ばれたのだ。
幹に背を預けて空を見れば、屋敷と桜の間から、満ちた月が星と共に輝いている。桜、屋敷、月。三つが一堂に会す光景を、身じろぎもせずに目に焼き付ける。
屋敷の奥から慌しい足音が届いた。あまりゆっくりとしている時間はなさそうだ。後ろ髪引く思いを目を閉じて断ち切り、小刀を鞘から抜く。深く息を吐くのに合わせて顔を正面に戻して目を開ける。視界の中では女妖怪が変わらず笑みを浮かべてこちらを眺めていた。見届けるのが彼女一人というのは少々不愉快ではあるけれど、一人でもいてくれることがそれ以上に喜ばしい。
私は小刀を逆手に振り上げて、
「さようなら」
胸に目掛けて振り下ろした。
全身を襲う奇妙な感覚に目を覚ますと、頭上で半身が何かを拒むような動きを見せていた。死霊に襲われ抜き出されたと聞いた己が魂。生霊の名に恥じず、霊的な事象に敏感に反応する。さすがに人から外れたと分かった時は混乱したが、なったものは仕方がないと半ば強引に割り切った。それが自分の為でもあるし、あの娘の為でもあったのだから。
立ち上がって上着を身に着け腰に刀を差す。この屋敷で半身が反応する霊的現象があるならば、それは西行妖に他ならない。一直線に向かおうとして思いとどまり、進路を反転する。向かう先は管理の娘の部屋。すでに迷惑をかけた身、無断の行動でさらに輪をかけるわけにはいかない。
障子の前に立ち、声を控えめに呼びかけ返事を待つ。返ってこない。眠っているのかともう一度、少し声を強める。それでも応答がないことに眉をひそめ、断りを入れてから障子を横に引いた。
「? もう向かったのか?」
無人の室内で無駄とは知りながらも今一度呼びかけてみる。やはり反応はない。中に入ってざっと部屋を見回して、その視点が机で止まった。
机に置かれていたのは、一つの歌と一冊の本。それが無性に気になり、心中で詫びながら机の前に座る。歌を手に取り、その内容を理解して、
「……この歌は」
一瞬、心臓が止まった。まさか、という思いが何度も浮かぶ。しかしそれは歌の内容から導かれた答えを否定できずに消えていった。負の想像を打ち消したいと本へ手を伸ばす。動き出した心臓は一転して早鐘を打ち鳴らしていた。
日記だった。最初の記録は一年前。個人の領域に踏み入ることに良心が痛むが、無理矢理抑えつけた。何を探しているのかも曖昧なまま次々と項を捲っていき、所々現れる変に浮いた墨の多さに項を捲る手を止めた。何だ? と一項ずつ確認しながら読み進めていく。
墨が多いのは、一度書いた文章を乱暴に横線で消していたからだった。消されていた文章は、西行妖に誘われ人が死んだという内容のようだ。その脇にはただ一文。墨をべっとりと含み、本の体裁など無視した大きさでただ一言。
”私が殺した”。
思わず顔をしかめて本から顔を離した。その文に込められた生々しい感情が殴り書きの字の端々から滲んでいる。墨のない場所にできた皺は涙の跡だろうか。
負の感情に軽い吐き気すら覚える。それを堪えながら項を進めていく。歌や舞という日常に紛れ込んで現れる”私が殺した”という一文。
何だこれは? これは本当にあの娘の日記なのか? まだ二十歳そこそこの少女の内に、これ程の闇が巣食っていたのか?
日記は私との出会いにまで進んでいた。三度自分の来訪を簡単に記している。正直に言って、この先を読むのが怖い。だが、ここで止まるわけにはいかない。どのようなことが書かれてあったとしても、読まなければならないのだ。内から震える体を数度の深呼吸でなだめて、自分の四度目の来訪についての記述を読んだ。
書かれていたのは、西行妖の側に倒れていた私を保護したことだけだった。淡々とした文章だが、文字に幾らか揺れが見て取れた。己の愚行に吐き気がする。一体彼女はどれほどの思いを隠してこの文を書いたのか。今すぐにでも少女の元へ行って償いたいという衝動に駆られる。
日記はその後三日、何事もなく続いていた。そして今日の分に書かれていたのは、”楽になろう”、と一言だけ。
「ふざけるな!」
机を全力で叩いて立ち上がり、歌を握り締めて部屋を飛び出た。
認めない。この歌を認めるわけにはいかない。生きてもらわねば。生きて自分に償いの時間を貰わねば。走り、居間を通り抜けて反対側に出て――――満開の桜が、そこにあった。
視界を埋め尽くすほどの、満開の西行妖。思考も何もかもが洗い流され、ただただその絶景に魅了された。目は固定されたかのように西行妖を見上げたまま動かせない。突っ立ったまま、西行妖に吸い寄せられる感覚に身を任せてしまいそうになる。
「そこから先に出たら、死ぬわよ」
「っ!」
急速に全身の感覚が復活する。知らず西行妖に誘われていたらしい。容易く折れた自身の心に叱責を入れて声の主を見る。一目見て怪しいと分かる女の妖怪。いつでも腰の刀を抜けるように警戒する。女はこちらの半身を見ると、へえ、とかすかに目を見開いた。
「驚いた。魂が肉体から離れている人は初めてよ」
女は見ていて不愉快になる笑みを浮かべた。そもそもここでこのような女に構っている場合ではないと首を振り、西行妖を見据える。少女は西行妖の根元で、幹に背を預けて西行妖を見上げていた。胸には小刀が突き立っており、まるでその小刀で西行妖に縫い付けられているようにも見える。強く大きな声で呼びかけると、緩慢な動作で虚ろな瞳を向けてきた。
そして微笑して一礼、そのまま前のめりに倒れた。
反射的に飛び出そうとして、女の傘に視界を覆われ失速した。湧き上がる激情に右手の歌を放り出し、居合いの構えをとる。あらん限りの殺気を向けられても尚、女の表情から笑みは消えていない。その事が激情をさらに加速させる。
「貴方、そんなに死にたいのかしら?」
「黙れ……!」
「私は今お花見を楽しんでいますの。貴方の様な不純物が入られると、折角の桜が台無しになってしまいますわ。大人しくあの娘の望んだ桜を観賞しなさいな」
あの娘が望んだ。その言葉に理性が活性化する。激情に身を任せる本能を包み込み、少女の最期を見届けろと声高に叫ぶ。逡巡は長くなかった。苦々しい顔で構えを解き、頭を振って余計な思考を排除。西行妖とその根元に倒れる少女を見る。
少女はすでに動きを止めている。まだ息はあるかもしれないが、もって後わずか。自分にできるのは、その死に様を見届けることだけ。
西行妖は満開の峠を越え、先ほど見たほどの威厳は感じられなくなっている。目を凝らせばいくつかはすでにその花を散らしていた。
女と二人、声もなく西行妖が散り行く様を観賞する。舞い散る桜の花がまるで垂れ幕の様に視界を遮る。花は加速度的に散る速度を増して行き、思っていたより早くその花を散らし終えた。残ったのは二つだけ。再びその身を幹と枝だけとした西行妖、そして西行妖の花に埋もれ息絶えた少女。僅かなりとも動かないその景色は、まさに祭りの終わりを告げるもの。
長い時を挟んで、女の手が動いた。どこからか扇子を取り出しその先端で空間をなぞる。するとそこに不気味な隙間が生じ、中から別の女が現れた。現れた女は「紫様も式使いの荒い」とぼやいて、西行妖の元へ行き、持っていた鍬で土を掘り始めた。その背には、金色の尾が九本。
九尾の狐。見たのは初めてだが、驚くべきはそこではない。九尾ほどの妖怪を苦もなく従えるこちらの女の方だ。一度解いた警戒心が高まる。女は横目でこちらを見て、小さく笑声をあげる。
「また緊張しているわね。安心なさい。今貴方をどうこうするつもりはないわ」
「……では、あの狐に何をさせている?」
「埋葬の準備ですけれど」
女は傘で私が落とした歌を手繰り寄せて、一読してからこちらに見えるよう掲げた。
「この如月の望月の中、花の下にて眠るがあの娘の望み。何か異論がありまして?」
女の言う事は確かに正論。だが、
「それだけではあるまい。貴様のような女が、人一人の為にそこまでするとは到底思えぬ」
「これは手厳しい」
「答えろ。貴様の目的は何だ?」
こちらの追及にも、女の笑みは変わらない。くすくすと、何事にも動じず、何事をも見通しているかの如く、相手を見下ろし笑っている。酷く気分が悪くなる。
「私の目的は、貴方と同じ、西行妖を封じること。あの娘を封ずれば、共鳴同調している西行妖も封印される。そうすれば西行妖は花を咲かすことができなくなり、人を誘うこともなくなりましょう」
あっさりと答えが返ってきた。悟る。この女は別に目的を隠していたわけではなく、問われなかったから答えなかっただけなのだと。女からすれば、こちらがどう動こうが関係ない。聞かれれば答え、聞かれなければ気にしない。私はその程度のものだと、女は考えている。
気に食わない。剣士としての誇りが自然と構えをとらせた。
「何か、お気に触ったかしら?」
「貴様のその態度が気に食わぬ」
「それはご免なさい。でも、これが私ですのでご勘弁を」
一閃。女の首目掛けて最速で居合い抜く。しかし刀は何の感触も返してこない。己の目が信じられない。首の手前、女がなぞった空間を通った刀は、半分より先が綺麗に消失していた。あまりの異常に、振りぬいた体勢のまま次の動作に移ることができない。
背後から首に衝撃。脳がぐらぐらと揺れ、立つことはおろか意識を保つことすら覚束ない。倒れざまに後ろを確認すれば、そこには狐の立ち姿。
「ご苦労様ね、藍」
「このくらい、ご自分でなさればよろしいでしょうに」
狐の溜息を最後に、意識が消えた。
強い光に網膜が脳へ覚醒を促す。目を開けた途端飛び込む日の光に目を細めて顔を逸らし、目が明るさに慣れるのを待つ。視界には障子と板張りの床。昨夜倒れたまま放置されていたらしい。光に順応した瞳で反対を見れば、周囲を花開いた桜に囲まれた西行妖が、枝と幹だけの姿で屹立している。その根元には誰もいない。
「終わったのか」
「お蔭様で、つつがなく」
呆然と呟いた声に、横からの返事。ちらりと見れば、昨夜と変わらぬ姿勢、変わらぬ笑みで女が座っていた。
「ならばもう、西行妖が人を誘うことはないのだな?」
「ええ。生者が死に誘われることはないでしょう」
この事を知れば、少しはあの少女も救われるだろうか。そう思うと、複雑な気持ちになる。結局、自分は少女に何もしてやれていないのだから。
「――けれど」
思考を中断して女を見る。女は前を見据えたまま、
「西行妖はすでに死霊を吸い寄せすぎている。ここにさらに負の魂が集ってしまえば、最悪幻想郷全体に影響を与えかねない」
「それで、どうすると?」
「この山一帯に結界を張り、冥界としてこの世から隔離します。このことはあのお方にも承諾を頂いておりますゆえ、早急に」
山を下りるならお早めに、そう言われるが、動くつもりはない。
私はここに留まらねばならない。過程はどうあれ、最終的に少女を殺したのは私に違いない。それを償うためにここに留まり、少女の弔いに生きるのだ。そう伝えると、女は意外そうに数度その目を瞬かせた。女の驚く顔は初めてで、そのことに妙な達成感を感じて笑ってしまう。
その後女は結界を作り、去っていった。
「貴方の愚直さに負けて良い知らせを二つ程。貴方の半身は不滅の魂となり外に出た。おそらくそれに引きずられて、貴方の命は人の数倍になっていると存じます。そしてもう一つ。正直私は貴方が残るとは思いませんでしたので、西行妖の管理者として別の者を考えておりました。人を死に誘う哀れな亡霊なれど、まあ仲良くどうぞ」
最後まで笑みを浮かべて、そんな置き土産を残していった。
さて、と大きく伸びをする。とりあえずはあの客間を自分の部屋として使わせてもらおう。無断で入るのは少々気が引けるが、少女の部屋も簡単に片付けておかねばなるまい。少女がいつ帰ってくるかは分からない。ならばいつ帰ってきてもいいようにしておかなければ。
歩き出そうとして、足元に落ちた短冊に気が付いた。少女の辞世の句が書かれた短冊だ。無言で拾って、懐にしまいこむ。少女に見せるつもりはないが、己の戒めの為に貰っておこう。
長い長い償いの時間が始まる。いつか自ら償いを終える瞬間が来ることを望んで、歩き出した。
――願わくは 花の下にて 春死なむ
その如月の 望月のころ――