上は26集にあります。
*
私が私の力に呑まれようとした時、手が差し伸べられた。私は藁をも掴む思いでそれに触れ、手を伸ばした者達に連なる暖かい運命に惹かれ、しがみついた。
伸ばされた手が軋みを上げる。
まだ出会ってもいない、あり得ないことを起こす歪みが運命をねじ曲げていた。未だ生まれていない者の存在をねじ曲げ。既に生まれている者の在り様さえねじ曲げ。
*
ぱちり、と音が耳を刺激する。しばし間を置いてまた、ぱちり。今度は続けざまにぱちぱちと。体を包もうとする冷気と、それに抗う熱気。相反する、或いは同居が自然な空気を感じる。
体を包んでいる何かを振り払い、少女は音を立てて起き上がった。体と空間を探って武装を確認しながら素早く辺りを見回す。近くに熱気の元であろう焚き火と、それを挟んだ反対側に一人の女がいた。
女は少女の様子を見て笑うと口を開き、しかし、何を言っているかは聞き取れなかった。
「あん?」
少女は警戒の色を強めて疑問の声を上げる。起きがけで聞き取れなかったのであろうとは思うが。ともあれ、状況把握が出来ていないのは危険であると少女は考えた。
その様子を見て取ったか、女は再び口を開く。先ほどよりゆっくりとしているようではあるが、認識に根本的な間違いがあったようだと少女は思い直した。女の喋っている言葉は、全く聞き覚えのないものだった。
なにやら妙に抑揚のない言葉は、いくら何でも訛りによるものではないだろう。しかし少女は、言葉の通じない相手に出くわすなどと思ってもみなかった。
「ちょっと待ってくれ。あんたが何を言ってるのかさっぱり解らない」
女が表情にありありと疑念を浮かべて話すのを、少女は遮って言った。
それを聞いて、女の表情がきょとんとしたものになる。額に手を当てて考え込み始めるのを見て、少女にようやく相手の様子を見定める余裕が出来た。
相手は黒髪の女で、それを肩程まで緩く波打ちながらのばしている。肌の白さと赤みを帯びた目のせいで兎のようである、というか頭に兎の耳を付けていた。
そこで襲いかかった凄まじい違和感に、少女は辺りを良く見回す。周りは見慣れない真っ直ぐとした緑色の木が立ち並ぶ林で、女の格好も山歩きに適しているような格好である。客引きのバニーガールとはあまりにもミスマッチな光景、服装だった。
「えーっと。英語、よね? 私の言ってるの、通じる?」
思案を終えたらしい兎耳の女が、今度ははっきりとした英語で話しかけてきた。発音は問題ないと言うよりも、少女には自身の母国語よりは余程問題なく聞こえる。
「解るよ。バニーガールだからって、兎の言葉で話すことはないと思うけどな」
「へ? バニーガール?」
兎耳の女は鳩が豆鉄砲でも食らったかのような、ありありと不可解を表情に浮かべた。そして、一瞬置いて大きく息を吸い込むと、
「ぷ。あはははははは!」
突然腹を抱えて大笑いを始めた。余程笑いのツボにでも嵌ったのか、辺りに生える木をバシバシと叩いて軋ませたり、ごろごろと転げ回ったりしている。少女には何がそこまでおかしかったのか、全くの理解の外であったが。
少女が兎耳の狂態を眺めることしばし、体に付いた土埃などを払い目の端に浮かべた涙を拭きながら、女はようやく向き直った。
「あー、おかしかった。でも、外の人間の反応はこんなものかな」
「外?」
ここが屋内であればそれも通ったのだろうが、ここは既に紛れもなく外である。この見慣れぬ木の林を内として考えることも可能だろうが、彼女の言う「外」には意識の差が生じるほどのものだろうと少女は思った。
「まぁ外がどうとか以前に、ずいぶんと場所も違うんだけどねー。……おっと」
女は、コホン、と咳払いをすると、大仰な動作でもって少女に一礼をして見せた。
「不思議の国へようこそ、アリス。チェシャ猫もトランプの兵隊も近場には居ないけれど、幻想的な何某かが貴方を歓迎するわ」
言ってにこりと笑う。
……。
「あれ? 無反応? ツッコミも無し?」
期待していた反応を得られなかったのか、兎耳の女が首をひねって不思議がる。
「いや、あんたが何を言ってるのかさっぱりだ」
何を反すことを期待されていたのか少女には見当も付かなかったし、そもそもそんな事を求められても困る話である。
「英国人だと思ったんだけど、はずれ? おっかしいなぁ、勘鈍ったかな」
自信あったんだけど、などとぶつぶつ呟きながら納得出来ない様子がありありである。
「いや、それは合ってる」
少女の言葉を聞いて益々首をひねり、
「不思議の国のアリスって童話なんだけど。ホントに知らない?」
最後の頼みとばかりに、そう尋ねてきた。ネタの説明なんてお寒いなぁ、など愚痴っている。
「本なんて読んだことないよ。そもそも字が読めない」
「ゑ?」
兎耳の女が動きを止める。
停止することしばらく。女は面倒くさそうに頭を振ると、
「手間省けてシチュエーションばっちり、って思ったのになー。んじゃ一から説明しましょっか、あんたが迷い込んだ幻想郷のこと」
彼女が迷い込んだというこの土地、幻想郷は、ニホンという国にある妖精の国のような所らしい。ニホン自体聞き覚えがある程度だったが、おとぎ話のような馬鹿馬鹿しさが真っ先に嘘くささを醸し出していた。
「あんた頭は大丈夫か? そんなおとぎ話みたいなのを信じろって?」
確かに辺りに生える木、竹というらしい、は見たこともなかったが、彼女の行動範囲自体が大して広くなかったこともあり、英国にこのような木が生えているのを知らなかっただけどいう可能性もある。
「それにニホンって何処だよ。世話になったのは有り難いけど、あまりゆっくりもしていられないんだ」
少女の正直なところを言えば、戯言に付きあってなど居られないと云うところである。記憶にある最後の光景は、生きているのが不思議なほどの切迫具合だったのだ。
或いは、ここが死後の世界だと云われれば信じてしまったかも知れないが。
「んー。急いだって無駄だと思うけどなぁ」
それに対し、女の反応は至って気がない。いっそ冷淡に近いのかも知れないが、ただ事実を述べているだけという風で悪意が見えないのだ。
「地球の裏側って程じゃなかったと思うけど。それよりはマシってくらいよ?」
「それじゃどうやって俺がここまで来たんだ……。って今日何日だ?」
「十一月の九日よ」
彼女の言に依れば、ほとんど時間が経過していないと云うことになる。益々どう考えても、
「無理だろ」
そうとしか思えない。少女の追求に女は軽く考え込むと、
「いや、人間以外にはそうでもないよ? ここには人間なんて過小も良いところだし、かく言う私も人外だしね」
嘘くさい話はやめろと言おうとした矢先、兎耳が動くのが目に入った。音に反応するかのように動き、まるで本物のように見える。
「それにそう云う、常人が嘘くさいって思うこと。あんたにも心当たりないかな?」
女が見せる、体の芯まで見通すような凝視。赤みを帯びたその視線が今初めて、女が得体の知れないものであるような雰囲気を醸し出していた。
それに指摘されれば、少女にもそう云う現象に心当たりがある。止まった時の中で動けたり、空間を歪ませて物を隠し持ったりなどは普通の人間には出来ない。
「ところでお腹減ってない?」
女の身が凍るような視線の矢先に、それである。指摘されれば空腹を覚えないでもないが、少女は何か拍子抜けさせられてしまった。
「……まぁ、少し空いてる」
正直に、ついそう答えてしまう。それを見て女はにこりとすると、
「正直でよろしい。ねー! おむすび残ってたよね!?」
上の方に向けて大声を上げる。釣られて少女も上方へと視線を向けると、目の前の兎女と似たような人物が竹の先に座るっているのが見えた。腰掛けるには頼りない木だが、揺らぐ様子もない。
竹の上の人物は頷いて身を乗り出すと、何かの包みと竹の節一つ分を切り離した物を落としてきた。まるで体重がないかのように、やはり竹は傾ぎもしない。
兎女がそれを受け取ると、少女の方へと投げ渡す。少なくとも彼女たちは、少女の異常性を圧して常人では無さそうである。
女から受け取った携帯食を摂りながら、先ほどの話の追加を聞く。蒸したライスを握って固め塩をまぶした簡単な食べ物だったが、材料と塩加減が良くかなりの美味だった。竹の筒に入っていたのもただの水だったが、やはり上級の喉越しである。
そもそも普通に飲める水というのは、少女にとってむしろ希少品だった。最も兎女曰く、この国ではいくらでもあるそうだが。
「カミカクシ?」
「そ、神隠し。妖精の取り替え子だとか、そっちにもそんな話があったと思うけど」
幻想郷にはしばしば外の世界、すなわち通常の世界から迷い込む者が居るらしい。その多くは彼女曰くとびきり性格の悪い妖怪、この国で言う怪物の総称、の仕業らしいのだが。
「どうもおかしいのよねー。あんたから帰り道が見えない」
兎耳の彼女は、迷い人を外に還すのを密かな趣味としているらしい。そこだけ取ればとても性格が良く聞こえるが、帰るまでにさんざん遠回りをするのは欠かさないのだとか。妖怪のしてのたしなみだ、とは彼女の言。
「占いみたいなものか?」
確かに常人とは違う様子をうっすらとは感じさせるが、どうにも胡散臭さが拭えない。どうせ彼女くらいしか頼る者もないのも事実ではあるが。
「その辺の占いと一緒にされちゃあ困るわね。年期が違うよ、年期が」
自信ありげに胸を張り、指を折り始めたのは年期とやらを確認しているのだろうか。せいぜい十代後半から二十代前半程度にしか見えないが。人外の者は人より永く生きそうではあるから、おかしくもない事なのかも知れない。
「……まぁ年期はいいや」
ため息混じりに言って、突然数えるのをやめる兎女。思っていたより短かったのか、それとも永すぎたのかは判らない。
「それはともかく!」
誤魔化すように強く言うと、女は真面目な顔を作り直す。
「おかしいのは本当なのよ。人攫いなんて遊び半分にやらかすか、ら帰り道くらい残すはずだし。そうでなくても、私にかかれば送り還せるものなんだけど」
不機嫌そうに首を傾ける。余程納得がいかないらしい。
「でも捕まえるなら、逃げられないよう八方ふさがりにしたいんじゃないのか?」
目的を果たすなら、そうするのが当然ではある。
「だから遊びなの。フェアとまでは行かないけどねー」
言って肩を竦めた。
「あんたの言う帰り道以外に方法はないのか?」
少女の問いかけにしばらく女は考え込み、
「痕跡が見えないのよ、あんたがここまで来たね。まるでここに初めから居たみたいにさ」
ついでに、匂いまで途切れていると付け加えた。つまり怪しげな手段を除いても、不自然な点ばかりだと云うことである。
まともな手段を考えては見たが、あまり芳しくない。少女の立場はそう云った視点からは密入国の上、気が狂っているととられるだろう。旅券を調達することは難しいだろうし、よしんば出来ても船で何日かかるか分かったものではない。
「後は本当に占いくらいしかないよ」
「それは駄目だったんじゃないのか?」
「帰り道って話ならねー。そっちに行けば運が良くなる方角を教えてあげようか、って事」
本当にどうにも胡散臭い話になってきた。ただ一般的な詐欺と異なるのは、金銭の要求をされているわけではないと云うところか。
「それでも良い。教えてくれ」
そう言ったのは、結局今のところ失うものがないからである。よしんばこの兎女に欺されたにせよ、そもそも今取れる行動の指針がないのだから。
*
「ねぇ。あの子に教えた方角、アレで合ってたの?」
少女が去ってしばし。竹の上から降りてきたもう一人の兎女が、少女と話していた方を問い質す。
「え、なぁに? 私が嘘吐きとでも?」
白々しい顔つきの女にもう一人が呆れる。
「あんたねー。あっちって吸血鬼が棲むようになった所じゃない」
「だから良いんじゃないの。人間大歓迎! って感じじゃん?」
にやにやと言うその様子には、誠意の欠片も見あたらない。
「大体怪しいと思ったなら、降りてきて言ってやればいいのにさ。すぐ死ぬ人間に関わりたくない、とか恥ずかしいこと考えてたとか?」
「違うって!」
もはや邪悪に近いような笑い顔で言ってくるのを手で振り払う。
「いや、でも嘘吐いてなんか居ないって。あのお嬢ちゃんのアタリは紅魔館。って私の幸運センサーが言ってた」
何か言い返そうとして、思い留まる。とってつけたような嘘くさい話だが、何処まで嘘か判りにくいのはこの兎女の性だとよく知っても居たので、頭から否定するのもはばかられたのだ。
「さって、今日も月人の姿は幻想郷になかったし。うちのガキンチョが五月蠅いから帰ろ帰ろ」
踵を返して竹林の奥の方へと向かい、
「あの娘が五月蠅いのは、あんたがさぼりまくってるからでしょ」
悪態を吐きながら追いかける。
彼女たちが奥へと向かうにつれて、いつの間にかぼやけてその姿が薄れてゆく。完全にその姿が失われる刹那を見る者があれば、彼女たちがもっと幼く、薄い桃色のワンピースを着ている光景を目にしたかも知れない。
*
幻想郷にある、おそらくは一番大きな湖。その湖上に紅き悪魔の館、紅魔館がある。何度か場所を変えたらしいが、現在はほぼその中央に位置している。面倒でつまらない客足を減らしたいとか、その方が見栄えがするだとか、理由は種々様々だ。
「……」
その片隅で、一人の少女が湖面をじっと見つめていた。紅く長い髪が、地味目の旗袍に良く映える。彼女の名は紅美鈴、紅魔館の門番を務める妖怪だ。
彼女が真剣に見つめる先には、一つの波紋が揺れ動いていた。その中心には一筋の糸。更に遡れば彼女が持つ棒きれがある。棒きれと言うには些か立派な竿であったが。
有り体に言って、彼女は釣りの真っ最中だった。まだ始めたばかりなのか、それとも当たりがないのか、魚籠は未だに空である。
ぴくり、と。水面が揺れる。
僅かに竿が軋むが早いか、目を見開いた美鈴は豪快に竿を引っ張り上げ、
「フィーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッシュ!」
叫びながら豪快な一本釣りでもって、宙へと獲物を舞上げた。魚が宙を舞う最中、美鈴は喜びを表すように拳を天へと突き上げ、どすりという妙に堅い音を聞いて一気に冷めた表情に戻った。
釣り上げた鱒が凍り、頭から地面に突き刺さっていたのである。
冷え込む時期にはなって来ていたが、空中の魚が瞬間冷凍されるような奇怪な気候は、平時において存在しない。その平時ではない何かの気配が、辺りの温度を急激に下げていた。
「ふっふ。あたいにかかれば飛ぶ魚も凍るよ」
胸を張ってふんぞり返るのを筆頭に、数人の妖精が宙を飛んでいた。辺りを冷やす気配は氷の精のものである。申し訳なさそうな顔をする一名を除くと、前面の氷精に似たような様子だ。
「って無視して釣り直し始めないでよ!」
両手をぶんぶんと振って自己主張をする氷精を余所に、美鈴は気のない顔で釣りの再開中である。
「はいはい。魚が逃げるから騒がないでね、チルノ。飴あげるから」
「わーい、飴ー。って馬鹿にすんなーー!」
一瞬物欲しそうな目をした後で、頭から湯気を出しそうな具合に憤慨し出す氷精チルノ。氷の精なのだが。
チルノが怒りも露わに振りかざす手に従うように、無数の氷柱が美鈴目掛けて降り注ぐ。後ろの氷精たちも続くように美鈴を狙う。
「いつもいつも飽きないわねぇ、あんたたち」
釣りを諦めて竿を放り出すと、降り注ぐ氷の弾幕を縫いながら美鈴がぼやく。とは言っても大量に湖を彷徨く彼女たちのおかげで、勘違いした木っ端者が通れないのは便利なのだが。
「いっつも済みませんねー。チルノちゃんがご迷惑を」
言いながらも的確に美鈴を狙うのは、ただの氷精より幾ばくか強い大妖精である。ただし彼女の特異なところは、妖精にしては思慮があるところだろうが。
「ああ、良いわよ。だっていつもの事じゃない?」
美鈴に言われて大妖精はため息混じりに、
「はい。……いつものことなんですよね」
と、漏らす。
美鈴は紅魔館が出来る前からこの辺りに居着いていたので、彼女たちとの付き合いは長いと言えば永い。どうでも良いことで騒ぐのが常だが、それが楽しいと言えないこともなかった。
「よ、っと」
美鈴は腰の後ろからクナイを数本引き抜くと、その旧知である氷精たちに投げつけた。避けたチルノと大妖精を除き、残りの氷精たちに突き刺さる。
「あ」
チルノが目を丸くする中で美鈴は大きく息を吸い込み、
「絶ッ!」
裂帛の気合いと共に、氷精たちの間で鋼同士を叩き付けるような甲高い音が響く。その衝撃をまともに受けた氷精たちは、次々に湖へと落下して水柱を立てた。
「あああああああああんた、なんてことすんのよ!」
仲間たちが墜落するのを見て、チルノは怒り荷口も回らない様子で騒ぎ立てる。大妖精は頭を抱え、ああまたか、といった表情である。
「ああ、峰打ち峰打ち」
クナイに結びつけた紐を引いて回収しながら、手をぱたぱたと振りながら気軽そうに美鈴が言う。
「刺さってたじゃん!」
「あーんじゃ、手加減したって事で」
「絶とか言ってたでしょ!」
「あ、意味判ったんだ?」
適当な様子がありありとしていた。美鈴は妖精が死ぬ、といった話はとんと聞いたことがなかったからである。力こそ大したものではないが、自然そのものである妖精はほぼ不死ですらあるのだ。一つの波が割れても、またすぐ波が現れるように。風が止んでもまた吹き始めるように。
だから手加減も適当で良かろう、というのが美鈴の主張である。おそらく妖精たちには受け入れられないだろうが。
「くー! また馬鹿にして!」
怒り心頭のチルノが手を振り回すと、とびきりに強い冷気が辺りを覆った。それが収束して美鈴に迫ると、バチバチと激しい音を立てながら氷塊が降り注ぐ。音を立てているのは、いわゆるドライアイスが発生する音だった。
「まぁ、馬鹿よね。これ」
チルノの振るう力は、妖精としては飛び抜けて強い。空気の成分の一部を凍結させるような妖精は通常居ないのである。妖怪に匹敵する力は、馬鹿力と表しても過言ではないだろう。
だが、しかし。バチバチと音を立てるせいで、至極避けやすく馬鹿そのものだったが。
「所詮馬鹿よね。これ」
横合いから誰かが相づちを打った。同時に鋭い風切り音が響く。
「バカバカ言うな馬鹿! わぷぅ?」
激しい水音がチルノの言葉を遮る。横合いからの言葉と同時に凄まじい速度で飛んできた石ころが、チルノの足下で巨大な水柱を作ったのだ。それは更に水音とは別の異音を生じ始める。
「いやー。馬鹿の鑑ですねぇ」
耳慣れない何かを砕くような音を聞きながら、水柱に包まれたチルノを見て美鈴が言った。呆れと感心が混じったような、どうにも微妙な表情である。
「輝かんばかりの馬鹿ね」
日傘を差した小さな人影が、チルノを見上げて愉快そうに言った。紅魔館の主、レミリア・スカーレットである。
「んぎぎぎぎぎ! バカバカ五月蠅い!」
バカバカと言われる氷の精はその溢れんばかりの、というより溢れてしまった自らの冷気で、氷柱に閉じこめられていた。一方の大妖精は泡を食って、抜け出そうと顔を真っ赤にしているチルノの周りで右往左往している。
「美鈴」
「はいな」
レミリアに呼ばれ、委細承知とばかりに美鈴が頷く。美鈴は体重がないかのように軽やかに跳躍し、チルノ入りの氷柱の基部がある凍り付いた湖面に降り立った。
「よっ」
氷柱に手を当てて支えるようにしながら、美鈴は根本を軽く蹴りつける。鋭い音と共に一瞬のうちに亀裂が入り、倒れかかるそれを美鈴が保持した。
「ほい、どぞ」
軽いかけ声と共にかなりの重量があるであろう氷柱を、美鈴は軽々とレミリアの方へと放る。
「わぁ!」
レミリアは突然加速のかかったチルノが軽い悲鳴を上げるのを聞き流しながら、
「あの辺で良いかしらね」
手の平の上でバランスを取るように氷柱を乗せ、残りの手には日傘を保持したまま、紅魔館側の岸と対岸の中程辺りに狙いを付けた。そして一呼吸。
「ひゅ!」
鋭い呼気と共に氷柱を投げ放った。チルノを収めた氷柱は高速で湖上を飛び、
「憶えてなさいよ~~~~~~~~~~~~!」
ドップラー効果の一例を残しながら駆け抜けていった。それを呆然と見ていた大妖精がはたと気付き、
「チ、チルノちゃ~~~~~~~~~~ん!」
遠くで派手な水音が響いた辺りで飛び出していった。
「ところで貴方の仕事はなんだったかしら。妖精と遊ぶこと?」
飛び去って行く大妖精を見送り、首を傾げてレミリアが揶揄するように聞くと、
「いえいえ、お嬢様。地元民との交流を深めていたのですよ」
大げさに頭を垂れながら、美鈴がもっともらしげに反す。レミリアはそれを聞きながら視線を移し、傍らに転がる竿を目で指して見せた。同じくそれに目をやった美鈴はしばらく視線を彷徨わせたあげく、
「と、ところで今日はずいぶん朝更かしじゃないですか。何か面白い予定でも?」
話題を逸らすことにしたようである。しばらくジロリとした目で門番の気まずい表情を眺め、仕様がないとばかりに軽くレミリアが笑う。最近は、前より暇であるのは間違いではないのだし。
「今のところ、目立った道筋は見えてないよ。でもそう云うときは、レアなイベントに出くわしたりするの」
レミリア曰く大きな出来事はその大きさ故に、時節が多少前後しても確実に起こるという。因が多いために、果へと至らざるを得ないのだとか。
逆に、偶然が重なり起こる事象は至極予想し難い。また予想外であるが故に、レミリアの楽しみでもある。
「って事は何か起きる?」
「かもね」
*
竹。横を見れば竹。振り返っても竹。兎女の言った方角へと延々と歩き、竹林をようやく抜けた。その時点でもずいぶんと歩いたのだが。そう思い少女は懐の銀時計を取り出すと、
「二時間以上歩いてなんにも無しか。あいつの言ってたちょっと、ってどれだけだよ」
ちょっと歩けば何かが起きるかも、などとあの兎女は言っていた。
感覚のズレなのか、それともやはり謀られたのか。どちらにしろ、銀髪が汗で湿って肌に張り付くのが不快だった。竹の水筒が途切れるほどでもなかったが、そろそろそれらしいところがあって欲しいものである。
「ん、兎?」
銀時計を見ながら、何かが脳裏に引っかかる。兎と時計。
「あ! あの時のか」
倫敦の路地裏で自分にこの時計を渡したのは、確かに兎耳の女だったはずである。今まで全く思い出せなかったが、物心付くか付かないかの辺りでは仕方ないことかも知れない。或いはバニーガールに渡されるには違和感あるものだ、というせいだったのか。
「あの人も妖怪だとかだったのか?」
先ほどのような兎女を知れば、少女としてはバニーガールと考える方が不自然なような気もした。今思えばその様子は、通りすがりに手渡した様子でもなかったようにも思えたのである。
そう思案を巡らせた辺りで、新たに入り込んだ普通の林が途切れた。木々に遮られていたであろう冷気が吹き付け、時を同じく開けた少女の視界にいっぱいの湖が映る。
「結構でかいな」
感嘆混じりに少女が呟く。倫敦から出たことがあったわけでもなく、湖と言われても今ひとつピンと来なかったのだが。深い青に染まる水面と、さざ波をうけて時折輝く神秘的な様に少女は圧倒されていた。
「なんだ?」
湖の異様に心動かされる最中、少女の視界に奇妙な影が映ったのだ。蒼い湖と相反するような紅い何か。
「……城?」
湖の中央辺りに位置すると思われる小島に、ひどく紅い城がそびえ立っていた。蒼に逆らうかのように屹立するそれはしかし、まるでそこにあるのが当然であるかのように堂々と在る。
「いかにもそれらしいけど。橋も船もないのはどういう事だろうな」
あそこに建っているのが廃墟でなければ、何らかの手段であそこに行けるはずなのは間違いない。しかしながら、ずいぶんと時間をかけて湖の周りを回っては見たものの、めぼしい橋も船着き場も見当たらなかった。
「まさか空を飛べとかって言うんじゃ、」
遮るように大きな水音が響く。音に釣られて少女がそちらに目をやると、湖上に一本の柱が立っていた。先ほどまではなかったはずだから、落ちてきたか浮き上がってきたかだろうと思われる。
柱のある方に向かうと、それが氷で出来ていることが見て取れた。と言うよりはそれを中心として、湖上に氷が広がっていることから判断したのである。兎女の言っていた、幻想的な何某か、だろうか。
そこでふと何かを思いつき、少女が氷を数度蹴りつけた。みしりとも音を立てず、かなり堅い。なぜいきなり氷が張ったのかは、とんと見当も付かなかったが。
「行ける、か?」
*
レミリアが城内に下がってからすぐ、美鈴は挙動不審な人間を注視していた。そもそも紅魔館辺りに人間が寄りつくことも少ないのだが、近付くだけで咎める気はない。むしろ騒ぎを起こしてくれるのは歓迎なくらいだったのだが。
どうもこちらの方を探っている様子なのが気になったのである。
「今更吸血鬼退治? まさかねぇ」
釣りをしていた辺りから、湖周りに珍しく人間が居るとは思っていたのだが、紅魔館に用だとは思っていなかったのだ。そもそも人の住む辺りからここに来るだけでも骨が折れるし、用があるなら近辺に住む妖怪を通した方が余程早い。
「迷子の子猫ちゃん、かな?」
独りごちたそれが一番正解に近いような気がした。何となく雰囲気とでも云うものが、幻想郷内の人間とずれているように感じられたのである。
美鈴が見たところ対岸にいる少女は、チルノ入りの柱が生んだ氷の強度を確認しているようである。かつかつと踵で蹴りつけた後で大きく頷くと、忽然と姿を消した。
「!」
いや、消えたのではなく。突然別の場所へ、湖を渡ったこちらの岸へと至ったのである。
「おいおいおい。迷子の子猫ちゃんかと思ったら、面白そうな感じじゃない」
素早いだとか云う問題ではない、と美鈴は断定した。速さだけで、氷を叩く足音が近い方から聞こえてきたりはしない。
無論気配を遮断したなどでもない。位置を忽然と変えた瞬間に、美鈴は少女の位置を把握し直している。と言うより自分が観察されているという挙動ではなく、見失うはずもない。
にわかに高揚した美鈴が、気配を殺して少女に近付く。天地の流れを読み、辺りの気配と違和感なくとけ込むのだ。殆ど子供か妖精じみた悪戯心を持ってその背後に接近し、
「貴方のおうちは何処かしら、お嬢ちゃん?」
反ってくる驚きの気配を感じ取り、次の反応はいかなるものかと期待する美鈴の目前で、
「え?」
少女の姿が一本のナイフにすり替わっていた。刃先が指すのは、正確なまでの心臓一点。迷いなく狙い定めたそれの見事さに、美鈴は消えた少女の気配を追うことすら思いつかず、避けることも忘れて見入っていた。
宙を走るナイフを目で追い、トスリという軽い音を聞いた。
少女が投げ放ったナイフが、忽然と背後に現れた女の胸を貫いた。何が起こったのか理解していないような表情のまま女はふらりと揺れ、仰け反るようにして湖に落下し大きな水音を立てた。
時を止めて距離を置きそれを見届けた少女は、荒い息を整えようとしていた。背には冷たい汗さえ流れている。殆ど一方的に攻撃したようなものだが、一体いつ近寄られたのか判らなかったためだった。相手が無警告で攻撃に移るつもりなら、対処のしようもなかっただろう。
そこではたと気付く。
「いきなり穏便な手が取れなくなった……」
職業病のようなもので仕方ないと自分では思うが、相手もそう思ってくれるか甚だ疑わしい。
「なるようになるか」
状況が悪化したのは間違いないが、初めから雲を掴むような話である。それに今更気にしてもどうしようも無いと考え、少女は歩を進めることにした。
*
「おーい、正門前~。門番さーん。美鈴さ~~ん」
何かの装置の前でメイドが一人、先ほどから延々と呼びかけている。ここは紅魔館の警備詰め所のようなところで、基本的にあまり人はいない。何らかの襲撃を受けるにしても美鈴を始め察知が早いため、常に詰めている必要性は薄いのである。彼女も軽食をつつきながらで緊張感がない。
「応答無し、と。サボリじゃないよねぇ」
美鈴の場合、見た感じさぼっていることは少なくないが、本当にサボりきっていることはまずない。危機的状況、というもの自体があまりないのだが。
「パチュリー様は作業中だったしな~」
魔女の邪魔は、紅魔館でやってはいけないことの一つである。後は不用意にヴワル以外の地下へ向かわないことなどがあるが、これは一部の者のみの常識でありあまり一般的ではない。結果、ほぼ一番やってはいけないことである。
考え込むメイドの耳に甲高い警戒音が入る。
「侵入者!?」
事前に用意して派手に歓迎してやることはままあるのだが、このような形での侵入は例がない。言い換えれば、本当に侵入されたという状況である。メイドは表情を引き締めると、
「警戒態勢に移らないと」
「いや、そのまま通しちゃって大丈夫よ」
全館に呼びかけようとしたところで、横合いから声が掛かった。
「あ、美鈴さん。何やってたん、ってずぶ濡れ?」
「ちょっと寒中水泳、ってわけでもないんだけど。タオルタオル~」
濡れた服よりも水を吸った紅髪が重そうな美鈴は、体を拭こうと探して部屋を彷徨いている。暑さ寒さでどうにかなる妖怪は希有だが、進んで泳ぎたい時期ではない。
「あれ。美鈴さん、そんなナイフ使ってたっけ?」
見れば、美鈴は片手にナイフを持っていた。特異な形状ではないが見覚えのあるものでもない。刀身が鮮血で朱に染まって、まだ乾いていない様子である。
「いやー、いま件の侵入者にここをブッスリとね」
苦笑いしながら美鈴が指した左胸は、確かに大きく裂けて肌を晒していた。体の傷は既に残っていない。大概丈夫な妖怪だとメイドは呆れるが、
「って、それ危険な侵入者じゃ」
侵入者は殺る気満々としか思えない。美鈴は通しても大丈夫と言ったが、そんな相手とは考えにくかった。
「まぁ、これ見てちょうだいよ」
言いながら美鈴は、むき身のままのナイフをひょいと放る。それを何とはなしに受け取ったメイドが、これ美鈴さんの血じゃん、などと言いながら顔を顰めた後、その表情を怪訝なものに変えて行く。
「これ、ただの鉄じゃない」
当然不純物や強度を上げるための混じりものは含まれているが、正真正銘あまりにも普通の鉄過ぎた。妖怪退治をしようという者が、このような普通の刃物を用いるのはあり得ないのである。
妖怪に効果的な損害を与えるためには、純粋に物理的な手段でもってするのは賢くない。その存在が精神体に近いため、妖怪を退治しようとする者は霊的手段や魔法などを用いるのだ。武器の材質は、金属であれば銀などが好まれる。
「素人なのよ、あのお嬢ちゃん」
結論すればそうなる。惑いなく急所を狙ってナイフを投擲した所などを見れば、人間相手には習熟しているのだろう。しかし、相手がそれ以外であることを想定していない。
「もしかして、迷子?」
幻想郷の住人であれば人間であっても、いや人間であればなおさら、妖怪の存在を警戒しないはずはない。対抗できるかはまた別の話ではあるが、対策をしないはずはないのだ。
「多分ね」
「そんなド素人お嬢様に会わせてどうするんですか。……お食事?」
メイドが呆れたように言った。素人となれば、食料としての価値がせいぜいだろう。と言うよりは、素人だからこそ食料としての価値が高い。
しかし、レミリアの下にたどり着けるかが問題であるが。距離を歪める結界などのおかげで、常人は真っ直ぐ進むことさえおぼつかないはずだった。
「それもありなんだけど。お、やっぱアタリかな」
紅魔館内を模式的に示す画像が宙に浮き、鋭い警戒音が鳴り響いた。
「嘘! 結界が破られてる? パチュリー様謹製のが?」
めまぐるしく変わる画像は、張り巡らされている結界が次々と破られていることを示していた。それもまるで、人が蜘蛛の巣に引っかかりそのまま破ってしまう程度の気軽さである。
「あの娘の能力はやっぱこれかぁ。それなら空間も当然支配する、ってわけね」
言いながら美鈴は、面白そうに笑っていた。
*
どこもかしこも紅い城内を少女が進む。ここまで紅で満たされていてはけばけばしさを感じそうなものなのだが、どこか統一感と気品を感じさせる内装だった。ただ、その内装を整えるべき住人とまだ出会していない。
少女は中にいる誰かに取り次ぎでも頼もうかと考えていたのだが、中に入って以来誰とも出くわさなかった。もしかすれば先ほどの女がその取り次ぎ役だったのかも知れないが、全く悟られずに背後を取る受付というのも少々考え難い。どのみち、彼女に頼む手段はないのだが。
少女が実用性を疑うほどに広い城だったが、あまり複雑な構造をしている様子はなかった。外観と内部で違和感を感じるところはあまりない。
「ん?」
少女があからさまな違和感を感じ取る。ようやく誰かが現れたのかと思ったが、そうではなかった。手入れされた様子から人が居ないはずはないのだが。
その違和感は少女の目にはっきりと映り、また、馴染みのあるモノだった。明快な造りをしているはずの城内を上書きでもするように、少女が何もないところにナイフを仕舞うように、空間が歪んで存在しないはずの分岐が生じていたのである。
「同じようなことをするやつが居るのか?」
兎女の言を信じれば、この幻想郷に棲む者の多くはヒトではないという。少なくとも人間である自分がこのような能力を備えている事を考えれば、妖怪が似たようなことをしても何ら不思議はないのかも知れない。
これだけ広い空間に干渉しようというのは少女の考慮の外であった。ナイフを忍ばせる程度にしか用いたことはなかったが、
「もしかしたら同じようなことが出来る?」
初めて目の当たりにする自分以外の、自分と共通する異能が少女にそのような発想を与えた。ナイフを忍ばせる空間を元の何もない状態に戻す要領で、少女はねじ曲がった通路を元通りの状態に出来はしないかと手探りに感覚を伸ばし。
至極あっさりと空間の歪みは消え去った。
まるで歯車がかみ合ったように、拍子抜けするほどの感触だった。この城の元の状態など知るはずもないのに、元通りになったという確信まである。
「案外上手く行くもんだな」
歪みの消えた通路の先に大扉が見える。歩を進める事にそれの偉容がつまびらかになり、少女もいきなり大物の所に押しかけて良いものかと考えてしまう。
「成るように成れだ。あの兎女も不思議の国とか言ってたし、不思議と何とかなるかもな」
慰めにもならないことをやけくそ気味に口走って、少女は足を速める。次第に近付きノックでもするべきかと考え始めた辺りで、その外見に相応しく重い音を扉が立てて開き始めた。
覗き込んだ先でまず少女の目に付いたのは玉座である。それ自体がかなり大きいのも確かだったのだが、座る人物が不似合いに小さく玉座の方に目が行ったのだ。
「子供?」
そこに居たのはどう見てもまだ幼い少女だった。少女から見ても明らかに年下だろう。少女と同じく銀色の髪をしていたが、それは紅い着衣と対照的に蒼みを帯びて全く別の雰囲気を発している。
そうでありながら少女が目の前の人物に感じたのは、紅だった。何か服以外にも、雰囲気とでもいうべきだろうか。
「ご挨拶だな、人間。こう見えても、おまえの何十倍かは生きているわ」
その声もまだ小さい子供のものだというのに、その響きにはどこか重さを感じさせるものがあった。彼女はばさりと翼を広げ、悠然と立ち上がる。少女がその存在に驚いた翼は、蝙蝠のような黒い羽である。
「それで。人間が悪魔であり吸血鬼に何の用かしら。功名心かつまらない話なら、今日がおまえの命日になるよ」
言葉とは裏腹に、にこりと笑う悪魔。牙を見せて微笑む姿に恫喝の要素はないが、冗談で言ったというよりはその程度の軽さで発言を実行に移しそうな凄味があった。
「帰り道を聞きたいんだ」
「うちで迷子の世話はしていないよ」
悪魔はけんもほろろに返すがすぐさまにやりと笑い、
「と言いたいところだけど、うちの知識人に口を利いてやっても良いわ。でも、道案内なんてつまらない話だけじゃね」
「カネならそれなりにあるけど、ここで通じるのか?」
少女の言葉に、悪魔が呆れ返った顔をする。
「そんなもの出されてもねぇ。悪魔には魂、吸血鬼になら生き血。それくらい出して欲しい所だけど」
小さな悪魔が言葉を止めて少女を見つめる。
「おまえは少なくとも、ここまで来た。余人ではそれすら不可能な事」
品定めするような視線に、少女は嫌な予感を覚える。
「それを可能にした何か、見せてご覧なさい」
後の文節は間近から聞こえた。風を引き連れて目にも留まらず迫った悪魔は、少女の驚愕を見て笑う。そして、その様がすべて凍り付く。
凍りついた時の中で悪魔が一瞬に縮めた距離を再確認して驚きながら、少女は離れて死角に移動しながら再び時の流れへと戻る。嫌な予感は当たったようだが、相手がどこまでのつもりか判断できず攻撃には至らなかった。
少女を見失い、しかし、すぐさま把握し直した悪魔は意外そうに、
「へぇ。でも遠慮は結構よ、人間?」
悪魔は微笑みを見せながら、手本とばかりに指先を翻して紅い何かを放つ。高速で飛来するそれを今度は時を止めずに避ける。
「あら。普通に避け」
そこですべてが静止する。
「そんなに見たいなら見せてやるよ」
少女は円を描くようにして悪魔の周りを駆け、続けざまにありったけのナイフを投げて配置する。避けた先にも当たるように配置したナイフの群れに、避ける余地もない。静止した流れは動き始め、
「るのね?」
殺到した銀光の群れを前に、言葉の続きが発せられた。にわか雨のように突然注ぐナイフの雨を前に、反応すら出来なかったのか。
その光景に呆然としているのは少女の方だった。数十本に及ぶ銀色をした驟雨の中、悪魔は平然と立っていたのだから。その手には投げつけられたナイフがいっぱいに抱えられ、残りも一切彼女を傷つけることなく足下に散乱していた。
いや。
「当たり一、と」
感心するように言いながら悪魔は唯一肩口に突き起ったナイフを引き抜き、少女の方に軽く放る。傷口から一瞬血が流れるが、すぐさまそれも塞がった。それどころか破れた服までもが、である。
「さて。おまえの能力が私の思った通りなら、見事避けて見せなさい」
言葉と共に悪魔の姿がかき消え、少女の周りをつむじ風が舞った。消えたのはそれだけではなく。
世界が凍りつく。
少女は悪魔の足下に転がっていたナイフがすべて消えているのを察知するや否や、間髪入れずに時を止めたのである。止めて確認した状況は最悪と言っていいだろう。先ほど少女がして見せたように、周囲をナイフが取り囲んでいたのだ。上からも配置されている分、状況はなお悪いのかも知れない。
おそらくあの悪魔は、信じがたい速度で飛び回りながらナイフを投げたのだろう。見れば彼女はいつの間にか玉座に着いて、凍りついたままこちらを見て笑っていた。
「遊んでいるのか、こいつ」
ナイフの飛んでくる方向を短時間で確認し、少女はそれが降り注がない空白域を見つけていた。幾らでも時間を止めていられるわけでもないからである。用意でもされたかのような穴に、少女は嬲られていると感じていた。
身を投げ出すようにしてそこに飛び込みながら、ちらりと見た光景に少女の背を悪寒が走る。玉座に座る悪魔と正反対の方向から一本、他のものから一回り遠いところにあるナイフを見逃していたのだ。その軌道は丁度、安全地帯に逃げ込んだ獲物を串刺しにすものである。止まった時が限界に達した。
轟音。
腕の痺れと肩が外れるような衝撃と、しかし、突き刺さることはなかったナイフ。少女はかかった罠の先に転がっていた一振りのナイフを掴み、飛来した銀色の一閃を迎撃したのである。それは、先ほど悪魔が少女の方に投げたものだった。
その事実に歯がみしながら少女が玉座を睨み付けると同時に、悪魔の手を叩く音が聞こえた。
「おめでとう人間。賞賛に値するわ」
悪魔の顔に厭味の色はなく、それがむしろ少女を苛立たせる。
「巫山戯てるのか、それは」
「巫山戯る? 遊んではいてもそれは見当違いよ」
悪魔は肩を竦め、
「私を殺しに来たというならともかく、おまえは客の部類でしょう。呼んだわけではないけれど」
「いや、まぁ」
言われればその通りではあるが、少女は釈然としない。
「失敗すれば死んだのは確かだろうけど、ね」
そこで悪魔は張り付いたような薄い笑いを浮かべ、
「おまえはどう在れ、悪魔に願い事をしたの。命を賭けるのは当然じゃない?」
その様子はまるで道理を諭すようで。或いはここでの常識として、それは正しいのかも知れない。見方を変えれば、彼女は抜け道を与えておいたのだ。そこには誠意というものを見いだすことも可能だろう。
普通ならばそこに誠意など見いだすことはなかったろうが、少女にある実感はそれを正しいものと認識させた。この悪魔はやろうと思えばいつでも少女を殺せるだろうと云うのに、勝ちの目を用意しておいたのだから。
「まぁ、なかなか楽しませてもらったわ。人生にはイレギュラーがないとね」
悪魔は人生を語りながら、少女を見据えた。少女を見ながら別の何か、或いはひどく深いところを覗くような視線が寒気さえ感じさせる。
少女はふと、幻想郷で最初に遇った兎女を思い出した。この視線がもしかすれば最も、ヒトとそうでないものを隔てるのかも知れない、と。
「ふん。でもおかしいな。私にもおまえの辿った運命が見えないなんて」
悪魔の鋭い視線が失せ、普通の子供が癇癪を起こしたような苛立たしげな声を出す。彼女は、自分にも解らないことが不満のようである。
「まぁうちの知識人なら何とかするでしょう、面倒くさがるだろうけど。それでも外の情報源を無碍にはしないと思うわ。二度目のグレートウォーの顛末、知りたがってたし」
「グレートウォー?」
訝しげに少女が聞き返す。その言葉に思い当たるところがなかったのである。
「ちょっと、聞いた事無いの? 英国人でしょう、おまえ。世界大戦とまで言われる戦争を何で知らないのよ」
そう言われても少女は困惑するしかなかった。名前からすれば世界中を巻き込むような戦争と云うことになるのだろうが、そこまでの規模の戦争など聞いたこともない。
「それ、いつの話だ? 昔の歴史だって言うなら、学校なんて所行った事無いから知らないぞ」
少女の言葉に悪魔は考え込み、
「終わったのは二十世紀の中頃だって云うから……。ふん、まぁ五十年も経てば人間には歴史なのかしらね」
「二十世紀?」
今が何世紀か、などとは普段少女は使わない。その為少しピンと来なかったのだが、
「一八八八年って二十世紀で合ってるか?」
男が読んでいた今日付の新聞。その日付欄を思い出しながら少女は悪魔に言う。日付くらいならば読めるし、自覚はないが少女の記憶力は決して悪くないのである。
「一八八八年は十九世紀よ。……ちょっと待ちなさい。今年は一八八八年だとでも言いたいの?」
呆れたように返しながら、話のズレに気付き悪魔が聞き返す。
「知り合いが読んでた新聞がそうだったけど、何か違うのか? あれ、二十世紀って?」
少女も話の奇怪さに気付き、困惑を露わにした。何か話が決定的にずれている。
「私がここに来た時点で、一度目の世界大戦はもう終結しているわ。一八八八年の三十年ほど後に。おまえの今は、一体何時なのかしら?」
断罪するように悪魔が現実を突きつける。少女は笑い飛ばしたかったが、担ごうとしているにはあまりに突拍子もない。
「十一月九日、一八八八年の。……そうじゃないのか?」
幽かに震える声を聞いて、悪魔は初めてその表情に暗いものを混ぜた。少女も見るとは思わなかった沈痛そうな視線を、しかし、一瞬で消し、表情のない顔で悪魔は告げた。
「今日は確かに十一月九日よ。けれど、その日はもう百年以上前に過ぎたわ」
「意外と平静ね。嘘だとは思わないのかしら?」
少女の反応は、悪魔が予想したよりずいぶんと温和しかったようだ。泣き叫んでも不思議はないと考えたのだろう。
「そう云うこともあり得るか、って納得しただけだよ」
少女の動揺は小さくなかった。元居たところには帰りようもない。もう、疾うに過ぎてしまったのだから。それ自体は彼女にとって、ひどく深い衝撃であった。
ただ、しかし。彼女自身の能力を鑑みればあり得ないことではないと。この異常の前に現れた奇怪なバケモノを見れば、起きても不思議はないことだと納得してしまったのだ。
「結構な事ね。おまえはどうあれ、此処と現在に適応しなくてはならないのだし」
悪魔の言う通りだろうと少女は思った。たとえこの幻想郷から出たとして、百年以上前から来ましたなどと通用するだろうかと考えれば。
「それに此処なら、時間をどうにかするくらい普通そうだしさ」
この幻想郷ならば、倫敦では異形である自分も当然のものとなる気がしたのだ。それどころか、此処では下位者ですらあるかも知れなかった。少なくともこの悪魔をどうにか出来るとは到底思えない。
そして、自分を取り巻く異常に他者を巻き込むこともないだろうと。
「まぁ、珍種ではあるけど。そう言えばうちには人間は居なかったわね。飼ってやっても良いわよ?」
悪魔の言い様は本当に犬の子でも飼おうかという様子である。呆れて少女が何か言い返そうとしたところで、悪魔が別の方へと視線を向けた。その視線を少女が追いかけると同時に、何かの影が悪魔へと殺到した。
肉がひしゃげる音と共にそれは跳ね飛ばされ、壁に激突して重い音を立てる。悪魔が五月蠅げに振り払った手で打ち据えられたのだ。それは床から起きあがると、機をうかがうように悪魔の方へ向き直った。
「この無粋者は知り合いかしら? 唐突に出現したけど」
冷たい目でただの人影にしか見えないモノを映し、悪魔が少女に問う。
「こいつ!」
それは少女が倫敦で遭遇した、正体不明の人影だった。少女を追ってきたのか、それとも百年に渡る時間移動に巻き込まれたのか。
「知り合いか。友人は選びなさい? ましてや、悪魔憑きなんて間抜けに関わるのはね」
「誰が友達だ。悪魔憑き?」
嫌そうに言いながら少女が返す。
「魂と引き替えに三つの願いを。聞いたことはない?」
「聞いたことくらいなら」
少女の答えに悪魔は頷き、
「こいつは悪魔だとかそう云うものに分不相応な願いを言って、挙げ句に何もかも持って行かれたのよ。誰、ということすら判らないほどに」
人間であるということすら禄に残らず、見た相手にとっての人間という情報でようやくそれが判る。それ故に人間には、誰か知っているような人物、として認識されるのかも知れない。
「もうこいつを動かしているのは取り憑いたヤツか、残りカスの妄執くらいよ」
悪魔は嘲るように、哀れむように言い放った。
「こいつ、散々串刺しになっても動いたぞ。どうにか出来るのか?」
「散々、ね」
確かにその体は見るも無惨に刺し傷で覆われ、血に塗れている。肉体そのものは率直に言って、死体が動いているようなものだろう。その死体が再び、恐ろしく機敏に悪魔へと襲いかかる。
「散々って言うのは、こうかしらね!」
その声に応えるように紅い絨毯が床ごと、鋭く盛り上がって人影を空中に縫い止めた。それに続くかのように床は幾重にも牙を剥き、中心が見えないほど執拗に突き刺さる。それでは足りぬとばかりに、悪魔は掲げた手に巨大な火球を生みだし躊躇なくそれを投げつけた。
空気を音と熱波が揺るがす。
「そら。とっととその抜け殻から出て、私の城からも失せるが良い。それとも、この世からも退場したいか?」
少女が呆気に取られるほど恐ろしい手際で、悪魔は倫敦に現れた怪物を圧倒しその残骸を冷たく睨め付ける。彼女の言からすれば、中身を倒してこそ終結と云うことなのだろうが。
残骸から何か、昏い何かが溢れ出る。
「……え?」
悪魔はただの少女のように呆然としていた。冷徹に怪物を始末した手際が嘘であったかのように、目の前に現れたモノを凍りついたように凝視している。
少女からすればそれは、あまり印象が変わったとは思えなかった。誰かから何かに変わった、その程度である。同様に固有の印象を掴むことが出来ない。
ふと。そうであれば、中身であるこの存在も何もかも奪われたのだろうかと、少女は思いついた。
「----!」
正体不明の何かが、音ではなく直接鼓膜を叩くような不快な振動を発する。紅い光が悪魔に向けて伸び、それは避けもしない標的を打ち据えた。
「は?」
予想もしない光景に、少女は唖然とする。それが幻でない証拠とばかりに、悪魔は床に叩き付けられた。追い打つように無数の光芒が降り注ぎ、悪魔はまるで無抵抗の様子で床を跳ねる。
「ちょっと待てよ!」
あまりの光景に少女は思わず駆けだし、時間を凍りつかせながら悪魔の方へと向かう。停止しているとは言え、受けるのを想像したくない量の光線が悪魔の周りを覆っていた。
隙間を縫って拾った悪魔の体は、見た目通りにひどく軽い。それは少女を前に見せた大立ち回りこそ幻ではないか、と感じさせるほどであった。
「あんた何やってるんだ」
少女の口調は知らず、咎めるようなものとなっていた。彼女の態度への不満と言うべきか、この悪魔は傲然と振る舞うべきだと感じていたのである。らしくない、と少女は思ったのだ。
「あ」
悪魔は少女が何を言っているのか判らない、それどころか何が起きているのか判らないような呆とした視線を彷徨わせた。そして一つ瞬きをし、
「ああ」
口元に付いた血を親指で拭い、その視線を鮮明なものとした。影をどこか苦いものの混じる視線で睨み付け、少女の手を離れて立ち上がる。
「ふん。我ながらみっともない」
悪魔は自重するように低く呟き、目にも留まらぬ速度で影へと殺到した。降り注ぐ光の矢を判っていたかのように避け、鋭い鉤爪を生やして影を一撃する。
吹き飛んだ影を追って飛翔し、激しい音を立てて幾度も打ち合う。
「たかがこんな事で取り乱すなんて、ね!」
鉤爪に追い立てられて動きを乱した影に、悪魔はその手に生み出した赤光を解き放つ。それは真っ直ぐ突き刺さり、影を激しく床に叩き付けた。
「ねぇ、お父様?」
そう言う悪魔の口調は、ひどく歪んでいた。
「お父様って、え?」
少女に背を向け表情の見えない悪魔は、天高く手を掲げた。その手に紅色の光が強く集って濃縮され、
「私が大昔に殺し損ねた」
一本の紅い大槍が悪魔の手に握られ、勢いよく投げ放たれたそれは一直線に影を目指す。空気を灼いてなお紅く染まる槍に反応し、影が素早く避け。
避けたはずの槍が突き刺さる。
「どうやっても私に昏い運命しか寄越してくれないお父様よ」
見間違いかと目を疑う少女を尻目に、悪魔が二本目を投じる。防ごうとしたらしい構えを、横合いから槍が射抜く。
「何も為すことも為されることもないよう、運命を全て剥ぎ取ってやったけど。それが失敗の元ね。おかげで私の予知にもかからなかったわ」
三本目が突き刺さる。
「最初から、こうしておけば良かった」
渇き切った言葉が口を吐き、だらりと下がった羽とは対照的に巨大な気配が悪魔に集う。
止めなくてはならないという思いが少女を突く。しかし、その理由も思い当たらず、直感的に手出しすべき立場でもない。
少女が躊躇する刹那、横合いから伸びた光が影を薙ぎ払った。
影を飲み込んだ万色の光はゆっくりと収まり、五色に別れて消え去る。光が収まった後には何一つ残っていない。悪魔はその光景に呆然としていた。
「パチェ? 何で?」
悪魔は光が伸びてきた方を見やる。そちらにはどういう仕掛けか、宙に浮く五冊の本を従えた少女が居た。長く密度の濃い紫がかった髪が特徴的である。
「なにやら不審人物が居たから始末しただけよ」
他に何か理由が必要か、といった口調だ。宙を舞っていた本がばらけて紫の少女の手元に集い、一冊の本になる。
「私がやり合ってる横合いから?」
悪魔の表情は不満げで、詰問するような様子であった。ただ先ほどのような張りつめたような気配は薄く、ある種安心しているようにも見える。
「だって貴方、どう見てもやけくそだったじゃない」
紫の少女は、あまりにも歯に衣着せていなかった。とっさに言い返そうとしたらしい悪魔は、そのようなことを言われるとは思っていなかったのか口を開け閉めして停止している。
「それとも五〇〇年も先送りにしていたこと、今更納得して実行したとでも言うの?」
紫の少女の言葉に悪魔はしばらく考え込み、観念したように溜め息を吐いた。
「どっから見てたのよ。やらしいわね」
「割と初めからよ。食い入るようにね」
「それでデバガメがご趣味の知識人は、何で見計らったかのように現れたのかしら? まさかいつも覗いてるんじゃないでしょうね」
あまりにタイミング良く現れたことの前に、今日に限ってなぜ悪魔の様子を注視していたかと云うことだろう。たまたま今日に限って覗き見していた、と云うのでなければ不可解である。
「今日の貴方の運勢は波乱含み。ラッキーアイテムは時計。ラッキーカラーは紫」
「はぁ?」
到底予想できなかったであろう妙な答えに、悪魔の表情が不可解で満たされる。
「運命を見るのは良いけど、レミィは足元を見ないんだもの。強い魔物にありがちな落とし穴かしらね」
「……もしかして何かありそうなときは見張ってた?」
「そうよ」
紫の少女は、だからどうしたと言わんばかりである。
「あまり借りを増やされると困るわ」
「それは新しい見解ね。てっきり私の方で負債を抱えていると思ってたのだけれど」
悪魔は首を振ると、
「私は初めから、貴方に大きな借りがあるのよ。返しきれるとは思えないほどの」
その様子はまるで罪を懺悔するかのようで、ひどく痛々しかった。
「ふぅん。それで仕方なく友達付き合いをしてやってる、とか?」
冷たい目で見る紫の少女に悪魔はひどく慌てた。
「そ、それは別よ。貴方が友達だったらいいな、ってだけで」
「じゃあやっぱり貸し借りは無しね。私もあなたが友達で良かったと思うし」
恥ずかし気もなくもなくにこりと笑う紫の少女に、悪魔はしばらく黙り込む。
「あーあーもう。良い友達を持ったもんだわね! プライバシーとか問いつめたいことは山ほどあるけど」
頬を紅潮させて悪魔は言うが、
「ところでこの子はどうしたの? 見た感じ人間みたいだけど」
それをを聞き流すように、紫の少女が銀髪の少女に目をやる。そちらを向いた彼女の顔も赤みがかっていたようだが、悪魔の方からは見えていない。
「……覚えてなさいよ、このもやし」
恨みがましげに友人を睨み付けながら、悪魔が怨嗟のように曰う。気を取り直したように少女に視線をやり、
「本日最初のイレギュラー。名前は……、訊いてなかったわね。私はレミリア・スカーレット。この目つきの悪い魔女はパチュリー・ノーレッジ」
「ちょっと、何その説明」
悪魔はレミリアと名乗り、魔女をパチュリーとおざなりに紹介した。仕返しとばかりに、レミリアは不満げな友人を完全に無視している。仲が良いのか悪いのか、少女は判断に困りながら口を開き、
「ジャックって呼ばれたりはするよ。ちゃんとした名前は持ってないんだけど」
「ジャック!」
とんでもないことを聞かされたかのようにレミリアが声を荒げる。
「仮にも年頃の女の子が、そんな名前でいいと思っているのかしら! 不許可よ」
レミリアはなにやらひどく不満な様子で、理不尽なことを言ってのけた。
「何か別の、……あれ?」
レミリアの憤慨が突如どこかに消え、訝しげな様子が前面に現れる。その視線は少女の首もと、銀色の鎖に寄せられていた。それに気付いた少女が、懐から銀時計を引き出す。
「これ、もしかしてあんたの持ち物か?」
思えばあの影は倫敦に現れた時、この時計にひどく反応していた。レミリアのものであることに気付いたとすれば納得も行く。
「普通の品じゃないのは確かなようね」
覗き込んだパチュリーがそう評したが、レミリアはそれに反応する様子もない。一心に時計に視線を送っていた。
「それ、どこで手に入れた?」
「倫敦でずいぶん前に兎耳の女がくれた。あんたの知り合いだったのか?」
レミリアはそれにも答えずに考え込んでいる。そして顔を上げ、しばらく少女の顔を眺め、
「ふん。使命だけは果たしたわけか」
レミリアの表情は納得したような、呆れたような、複雑に混じり入ったようなものだった。ただ、その様子に暗いものはない。
「おまえは今日から十六夜咲夜よ。ずいぶん大袈裟な名前になったけど、まぁ仕方ないわ」
レミリアは一方的に宣言すると踵を返し、
「私はいい加減寝るから。後は宜しくね、パチェ」
本当にそのまま去っていった。後には少女とパチュリーだけが残る。
「貴方、十六夜咲夜って名前に不満は?」
パチュリーの問いを少女はしばらく吟味し、
「良いんじゃないか、な? 多分、すごく」
少女はその感触を確かめるように一度、十六夜咲夜、と呟いてみる。突然押しつけられた上に返答も聞かずに名付け相手に去られたが、とても良く馴染むものを感じた。まるでそう呼ばれるのが当然のように。
*
今幸せか、と尋ねて回ったとして。何か企んでいるのかと思われるのが関の山だろう。
今辿っている運命は正道ではない、とふれて回ったとして。正道があまり楽しく無さそうだと言われそうである。
そもそも気に入らないのなら、此処に留まる理由もない。根無し草の妖怪どもになにをかいわんや。
「あー、もう。馬鹿みたい。寝よう」
*
私が私の力に呑まれようとした時、手が差し伸べられた。私は藁をも掴む思いでそれに触れ、手を伸ばした者達に連なる暖かい運命に惹かれ、しがみついた。
伸ばされた手が軋みを上げる。
まだ出会ってもいない、あり得ないことを起こす歪みが運命をねじ曲げていた。未だ生まれていない者の存在をねじ曲げ。既に生まれている者の在り様さえねじ曲げ。
*
ぱちり、と音が耳を刺激する。しばし間を置いてまた、ぱちり。今度は続けざまにぱちぱちと。体を包もうとする冷気と、それに抗う熱気。相反する、或いは同居が自然な空気を感じる。
体を包んでいる何かを振り払い、少女は音を立てて起き上がった。体と空間を探って武装を確認しながら素早く辺りを見回す。近くに熱気の元であろう焚き火と、それを挟んだ反対側に一人の女がいた。
女は少女の様子を見て笑うと口を開き、しかし、何を言っているかは聞き取れなかった。
「あん?」
少女は警戒の色を強めて疑問の声を上げる。起きがけで聞き取れなかったのであろうとは思うが。ともあれ、状況把握が出来ていないのは危険であると少女は考えた。
その様子を見て取ったか、女は再び口を開く。先ほどよりゆっくりとしているようではあるが、認識に根本的な間違いがあったようだと少女は思い直した。女の喋っている言葉は、全く聞き覚えのないものだった。
なにやら妙に抑揚のない言葉は、いくら何でも訛りによるものではないだろう。しかし少女は、言葉の通じない相手に出くわすなどと思ってもみなかった。
「ちょっと待ってくれ。あんたが何を言ってるのかさっぱり解らない」
女が表情にありありと疑念を浮かべて話すのを、少女は遮って言った。
それを聞いて、女の表情がきょとんとしたものになる。額に手を当てて考え込み始めるのを見て、少女にようやく相手の様子を見定める余裕が出来た。
相手は黒髪の女で、それを肩程まで緩く波打ちながらのばしている。肌の白さと赤みを帯びた目のせいで兎のようである、というか頭に兎の耳を付けていた。
そこで襲いかかった凄まじい違和感に、少女は辺りを良く見回す。周りは見慣れない真っ直ぐとした緑色の木が立ち並ぶ林で、女の格好も山歩きに適しているような格好である。客引きのバニーガールとはあまりにもミスマッチな光景、服装だった。
「えーっと。英語、よね? 私の言ってるの、通じる?」
思案を終えたらしい兎耳の女が、今度ははっきりとした英語で話しかけてきた。発音は問題ないと言うよりも、少女には自身の母国語よりは余程問題なく聞こえる。
「解るよ。バニーガールだからって、兎の言葉で話すことはないと思うけどな」
「へ? バニーガール?」
兎耳の女は鳩が豆鉄砲でも食らったかのような、ありありと不可解を表情に浮かべた。そして、一瞬置いて大きく息を吸い込むと、
「ぷ。あはははははは!」
突然腹を抱えて大笑いを始めた。余程笑いのツボにでも嵌ったのか、辺りに生える木をバシバシと叩いて軋ませたり、ごろごろと転げ回ったりしている。少女には何がそこまでおかしかったのか、全くの理解の外であったが。
少女が兎耳の狂態を眺めることしばし、体に付いた土埃などを払い目の端に浮かべた涙を拭きながら、女はようやく向き直った。
「あー、おかしかった。でも、外の人間の反応はこんなものかな」
「外?」
ここが屋内であればそれも通ったのだろうが、ここは既に紛れもなく外である。この見慣れぬ木の林を内として考えることも可能だろうが、彼女の言う「外」には意識の差が生じるほどのものだろうと少女は思った。
「まぁ外がどうとか以前に、ずいぶんと場所も違うんだけどねー。……おっと」
女は、コホン、と咳払いをすると、大仰な動作でもって少女に一礼をして見せた。
「不思議の国へようこそ、アリス。チェシャ猫もトランプの兵隊も近場には居ないけれど、幻想的な何某かが貴方を歓迎するわ」
言ってにこりと笑う。
……。
「あれ? 無反応? ツッコミも無し?」
期待していた反応を得られなかったのか、兎耳の女が首をひねって不思議がる。
「いや、あんたが何を言ってるのかさっぱりだ」
何を反すことを期待されていたのか少女には見当も付かなかったし、そもそもそんな事を求められても困る話である。
「英国人だと思ったんだけど、はずれ? おっかしいなぁ、勘鈍ったかな」
自信あったんだけど、などとぶつぶつ呟きながら納得出来ない様子がありありである。
「いや、それは合ってる」
少女の言葉を聞いて益々首をひねり、
「不思議の国のアリスって童話なんだけど。ホントに知らない?」
最後の頼みとばかりに、そう尋ねてきた。ネタの説明なんてお寒いなぁ、など愚痴っている。
「本なんて読んだことないよ。そもそも字が読めない」
「ゑ?」
兎耳の女が動きを止める。
停止することしばらく。女は面倒くさそうに頭を振ると、
「手間省けてシチュエーションばっちり、って思ったのになー。んじゃ一から説明しましょっか、あんたが迷い込んだ幻想郷のこと」
彼女が迷い込んだというこの土地、幻想郷は、ニホンという国にある妖精の国のような所らしい。ニホン自体聞き覚えがある程度だったが、おとぎ話のような馬鹿馬鹿しさが真っ先に嘘くささを醸し出していた。
「あんた頭は大丈夫か? そんなおとぎ話みたいなのを信じろって?」
確かに辺りに生える木、竹というらしい、は見たこともなかったが、彼女の行動範囲自体が大して広くなかったこともあり、英国にこのような木が生えているのを知らなかっただけどいう可能性もある。
「それにニホンって何処だよ。世話になったのは有り難いけど、あまりゆっくりもしていられないんだ」
少女の正直なところを言えば、戯言に付きあってなど居られないと云うところである。記憶にある最後の光景は、生きているのが不思議なほどの切迫具合だったのだ。
或いは、ここが死後の世界だと云われれば信じてしまったかも知れないが。
「んー。急いだって無駄だと思うけどなぁ」
それに対し、女の反応は至って気がない。いっそ冷淡に近いのかも知れないが、ただ事実を述べているだけという風で悪意が見えないのだ。
「地球の裏側って程じゃなかったと思うけど。それよりはマシってくらいよ?」
「それじゃどうやって俺がここまで来たんだ……。って今日何日だ?」
「十一月の九日よ」
彼女の言に依れば、ほとんど時間が経過していないと云うことになる。益々どう考えても、
「無理だろ」
そうとしか思えない。少女の追求に女は軽く考え込むと、
「いや、人間以外にはそうでもないよ? ここには人間なんて過小も良いところだし、かく言う私も人外だしね」
嘘くさい話はやめろと言おうとした矢先、兎耳が動くのが目に入った。音に反応するかのように動き、まるで本物のように見える。
「それにそう云う、常人が嘘くさいって思うこと。あんたにも心当たりないかな?」
女が見せる、体の芯まで見通すような凝視。赤みを帯びたその視線が今初めて、女が得体の知れないものであるような雰囲気を醸し出していた。
それに指摘されれば、少女にもそう云う現象に心当たりがある。止まった時の中で動けたり、空間を歪ませて物を隠し持ったりなどは普通の人間には出来ない。
「ところでお腹減ってない?」
女の身が凍るような視線の矢先に、それである。指摘されれば空腹を覚えないでもないが、少女は何か拍子抜けさせられてしまった。
「……まぁ、少し空いてる」
正直に、ついそう答えてしまう。それを見て女はにこりとすると、
「正直でよろしい。ねー! おむすび残ってたよね!?」
上の方に向けて大声を上げる。釣られて少女も上方へと視線を向けると、目の前の兎女と似たような人物が竹の先に座るっているのが見えた。腰掛けるには頼りない木だが、揺らぐ様子もない。
竹の上の人物は頷いて身を乗り出すと、何かの包みと竹の節一つ分を切り離した物を落としてきた。まるで体重がないかのように、やはり竹は傾ぎもしない。
兎女がそれを受け取ると、少女の方へと投げ渡す。少なくとも彼女たちは、少女の異常性を圧して常人では無さそうである。
女から受け取った携帯食を摂りながら、先ほどの話の追加を聞く。蒸したライスを握って固め塩をまぶした簡単な食べ物だったが、材料と塩加減が良くかなりの美味だった。竹の筒に入っていたのもただの水だったが、やはり上級の喉越しである。
そもそも普通に飲める水というのは、少女にとってむしろ希少品だった。最も兎女曰く、この国ではいくらでもあるそうだが。
「カミカクシ?」
「そ、神隠し。妖精の取り替え子だとか、そっちにもそんな話があったと思うけど」
幻想郷にはしばしば外の世界、すなわち通常の世界から迷い込む者が居るらしい。その多くは彼女曰くとびきり性格の悪い妖怪、この国で言う怪物の総称、の仕業らしいのだが。
「どうもおかしいのよねー。あんたから帰り道が見えない」
兎耳の彼女は、迷い人を外に還すのを密かな趣味としているらしい。そこだけ取ればとても性格が良く聞こえるが、帰るまでにさんざん遠回りをするのは欠かさないのだとか。妖怪のしてのたしなみだ、とは彼女の言。
「占いみたいなものか?」
確かに常人とは違う様子をうっすらとは感じさせるが、どうにも胡散臭さが拭えない。どうせ彼女くらいしか頼る者もないのも事実ではあるが。
「その辺の占いと一緒にされちゃあ困るわね。年期が違うよ、年期が」
自信ありげに胸を張り、指を折り始めたのは年期とやらを確認しているのだろうか。せいぜい十代後半から二十代前半程度にしか見えないが。人外の者は人より永く生きそうではあるから、おかしくもない事なのかも知れない。
「……まぁ年期はいいや」
ため息混じりに言って、突然数えるのをやめる兎女。思っていたより短かったのか、それとも永すぎたのかは判らない。
「それはともかく!」
誤魔化すように強く言うと、女は真面目な顔を作り直す。
「おかしいのは本当なのよ。人攫いなんて遊び半分にやらかすか、ら帰り道くらい残すはずだし。そうでなくても、私にかかれば送り還せるものなんだけど」
不機嫌そうに首を傾ける。余程納得がいかないらしい。
「でも捕まえるなら、逃げられないよう八方ふさがりにしたいんじゃないのか?」
目的を果たすなら、そうするのが当然ではある。
「だから遊びなの。フェアとまでは行かないけどねー」
言って肩を竦めた。
「あんたの言う帰り道以外に方法はないのか?」
少女の問いかけにしばらく女は考え込み、
「痕跡が見えないのよ、あんたがここまで来たね。まるでここに初めから居たみたいにさ」
ついでに、匂いまで途切れていると付け加えた。つまり怪しげな手段を除いても、不自然な点ばかりだと云うことである。
まともな手段を考えては見たが、あまり芳しくない。少女の立場はそう云った視点からは密入国の上、気が狂っているととられるだろう。旅券を調達することは難しいだろうし、よしんば出来ても船で何日かかるか分かったものではない。
「後は本当に占いくらいしかないよ」
「それは駄目だったんじゃないのか?」
「帰り道って話ならねー。そっちに行けば運が良くなる方角を教えてあげようか、って事」
本当にどうにも胡散臭い話になってきた。ただ一般的な詐欺と異なるのは、金銭の要求をされているわけではないと云うところか。
「それでも良い。教えてくれ」
そう言ったのは、結局今のところ失うものがないからである。よしんばこの兎女に欺されたにせよ、そもそも今取れる行動の指針がないのだから。
*
「ねぇ。あの子に教えた方角、アレで合ってたの?」
少女が去ってしばし。竹の上から降りてきたもう一人の兎女が、少女と話していた方を問い質す。
「え、なぁに? 私が嘘吐きとでも?」
白々しい顔つきの女にもう一人が呆れる。
「あんたねー。あっちって吸血鬼が棲むようになった所じゃない」
「だから良いんじゃないの。人間大歓迎! って感じじゃん?」
にやにやと言うその様子には、誠意の欠片も見あたらない。
「大体怪しいと思ったなら、降りてきて言ってやればいいのにさ。すぐ死ぬ人間に関わりたくない、とか恥ずかしいこと考えてたとか?」
「違うって!」
もはや邪悪に近いような笑い顔で言ってくるのを手で振り払う。
「いや、でも嘘吐いてなんか居ないって。あのお嬢ちゃんのアタリは紅魔館。って私の幸運センサーが言ってた」
何か言い返そうとして、思い留まる。とってつけたような嘘くさい話だが、何処まで嘘か判りにくいのはこの兎女の性だとよく知っても居たので、頭から否定するのもはばかられたのだ。
「さって、今日も月人の姿は幻想郷になかったし。うちのガキンチョが五月蠅いから帰ろ帰ろ」
踵を返して竹林の奥の方へと向かい、
「あの娘が五月蠅いのは、あんたがさぼりまくってるからでしょ」
悪態を吐きながら追いかける。
彼女たちが奥へと向かうにつれて、いつの間にかぼやけてその姿が薄れてゆく。完全にその姿が失われる刹那を見る者があれば、彼女たちがもっと幼く、薄い桃色のワンピースを着ている光景を目にしたかも知れない。
*
幻想郷にある、おそらくは一番大きな湖。その湖上に紅き悪魔の館、紅魔館がある。何度か場所を変えたらしいが、現在はほぼその中央に位置している。面倒でつまらない客足を減らしたいとか、その方が見栄えがするだとか、理由は種々様々だ。
「……」
その片隅で、一人の少女が湖面をじっと見つめていた。紅く長い髪が、地味目の旗袍に良く映える。彼女の名は紅美鈴、紅魔館の門番を務める妖怪だ。
彼女が真剣に見つめる先には、一つの波紋が揺れ動いていた。その中心には一筋の糸。更に遡れば彼女が持つ棒きれがある。棒きれと言うには些か立派な竿であったが。
有り体に言って、彼女は釣りの真っ最中だった。まだ始めたばかりなのか、それとも当たりがないのか、魚籠は未だに空である。
ぴくり、と。水面が揺れる。
僅かに竿が軋むが早いか、目を見開いた美鈴は豪快に竿を引っ張り上げ、
「フィーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッシュ!」
叫びながら豪快な一本釣りでもって、宙へと獲物を舞上げた。魚が宙を舞う最中、美鈴は喜びを表すように拳を天へと突き上げ、どすりという妙に堅い音を聞いて一気に冷めた表情に戻った。
釣り上げた鱒が凍り、頭から地面に突き刺さっていたのである。
冷え込む時期にはなって来ていたが、空中の魚が瞬間冷凍されるような奇怪な気候は、平時において存在しない。その平時ではない何かの気配が、辺りの温度を急激に下げていた。
「ふっふ。あたいにかかれば飛ぶ魚も凍るよ」
胸を張ってふんぞり返るのを筆頭に、数人の妖精が宙を飛んでいた。辺りを冷やす気配は氷の精のものである。申し訳なさそうな顔をする一名を除くと、前面の氷精に似たような様子だ。
「って無視して釣り直し始めないでよ!」
両手をぶんぶんと振って自己主張をする氷精を余所に、美鈴は気のない顔で釣りの再開中である。
「はいはい。魚が逃げるから騒がないでね、チルノ。飴あげるから」
「わーい、飴ー。って馬鹿にすんなーー!」
一瞬物欲しそうな目をした後で、頭から湯気を出しそうな具合に憤慨し出す氷精チルノ。氷の精なのだが。
チルノが怒りも露わに振りかざす手に従うように、無数の氷柱が美鈴目掛けて降り注ぐ。後ろの氷精たちも続くように美鈴を狙う。
「いつもいつも飽きないわねぇ、あんたたち」
釣りを諦めて竿を放り出すと、降り注ぐ氷の弾幕を縫いながら美鈴がぼやく。とは言っても大量に湖を彷徨く彼女たちのおかげで、勘違いした木っ端者が通れないのは便利なのだが。
「いっつも済みませんねー。チルノちゃんがご迷惑を」
言いながらも的確に美鈴を狙うのは、ただの氷精より幾ばくか強い大妖精である。ただし彼女の特異なところは、妖精にしては思慮があるところだろうが。
「ああ、良いわよ。だっていつもの事じゃない?」
美鈴に言われて大妖精はため息混じりに、
「はい。……いつものことなんですよね」
と、漏らす。
美鈴は紅魔館が出来る前からこの辺りに居着いていたので、彼女たちとの付き合いは長いと言えば永い。どうでも良いことで騒ぐのが常だが、それが楽しいと言えないこともなかった。
「よ、っと」
美鈴は腰の後ろからクナイを数本引き抜くと、その旧知である氷精たちに投げつけた。避けたチルノと大妖精を除き、残りの氷精たちに突き刺さる。
「あ」
チルノが目を丸くする中で美鈴は大きく息を吸い込み、
「絶ッ!」
裂帛の気合いと共に、氷精たちの間で鋼同士を叩き付けるような甲高い音が響く。その衝撃をまともに受けた氷精たちは、次々に湖へと落下して水柱を立てた。
「あああああああああんた、なんてことすんのよ!」
仲間たちが墜落するのを見て、チルノは怒り荷口も回らない様子で騒ぎ立てる。大妖精は頭を抱え、ああまたか、といった表情である。
「ああ、峰打ち峰打ち」
クナイに結びつけた紐を引いて回収しながら、手をぱたぱたと振りながら気軽そうに美鈴が言う。
「刺さってたじゃん!」
「あーんじゃ、手加減したって事で」
「絶とか言ってたでしょ!」
「あ、意味判ったんだ?」
適当な様子がありありとしていた。美鈴は妖精が死ぬ、といった話はとんと聞いたことがなかったからである。力こそ大したものではないが、自然そのものである妖精はほぼ不死ですらあるのだ。一つの波が割れても、またすぐ波が現れるように。風が止んでもまた吹き始めるように。
だから手加減も適当で良かろう、というのが美鈴の主張である。おそらく妖精たちには受け入れられないだろうが。
「くー! また馬鹿にして!」
怒り心頭のチルノが手を振り回すと、とびきりに強い冷気が辺りを覆った。それが収束して美鈴に迫ると、バチバチと激しい音を立てながら氷塊が降り注ぐ。音を立てているのは、いわゆるドライアイスが発生する音だった。
「まぁ、馬鹿よね。これ」
チルノの振るう力は、妖精としては飛び抜けて強い。空気の成分の一部を凍結させるような妖精は通常居ないのである。妖怪に匹敵する力は、馬鹿力と表しても過言ではないだろう。
だが、しかし。バチバチと音を立てるせいで、至極避けやすく馬鹿そのものだったが。
「所詮馬鹿よね。これ」
横合いから誰かが相づちを打った。同時に鋭い風切り音が響く。
「バカバカ言うな馬鹿! わぷぅ?」
激しい水音がチルノの言葉を遮る。横合いからの言葉と同時に凄まじい速度で飛んできた石ころが、チルノの足下で巨大な水柱を作ったのだ。それは更に水音とは別の異音を生じ始める。
「いやー。馬鹿の鑑ですねぇ」
耳慣れない何かを砕くような音を聞きながら、水柱に包まれたチルノを見て美鈴が言った。呆れと感心が混じったような、どうにも微妙な表情である。
「輝かんばかりの馬鹿ね」
日傘を差した小さな人影が、チルノを見上げて愉快そうに言った。紅魔館の主、レミリア・スカーレットである。
「んぎぎぎぎぎ! バカバカ五月蠅い!」
バカバカと言われる氷の精はその溢れんばかりの、というより溢れてしまった自らの冷気で、氷柱に閉じこめられていた。一方の大妖精は泡を食って、抜け出そうと顔を真っ赤にしているチルノの周りで右往左往している。
「美鈴」
「はいな」
レミリアに呼ばれ、委細承知とばかりに美鈴が頷く。美鈴は体重がないかのように軽やかに跳躍し、チルノ入りの氷柱の基部がある凍り付いた湖面に降り立った。
「よっ」
氷柱に手を当てて支えるようにしながら、美鈴は根本を軽く蹴りつける。鋭い音と共に一瞬のうちに亀裂が入り、倒れかかるそれを美鈴が保持した。
「ほい、どぞ」
軽いかけ声と共にかなりの重量があるであろう氷柱を、美鈴は軽々とレミリアの方へと放る。
「わぁ!」
レミリアは突然加速のかかったチルノが軽い悲鳴を上げるのを聞き流しながら、
「あの辺で良いかしらね」
手の平の上でバランスを取るように氷柱を乗せ、残りの手には日傘を保持したまま、紅魔館側の岸と対岸の中程辺りに狙いを付けた。そして一呼吸。
「ひゅ!」
鋭い呼気と共に氷柱を投げ放った。チルノを収めた氷柱は高速で湖上を飛び、
「憶えてなさいよ~~~~~~~~~~~~!」
ドップラー効果の一例を残しながら駆け抜けていった。それを呆然と見ていた大妖精がはたと気付き、
「チ、チルノちゃ~~~~~~~~~~ん!」
遠くで派手な水音が響いた辺りで飛び出していった。
「ところで貴方の仕事はなんだったかしら。妖精と遊ぶこと?」
飛び去って行く大妖精を見送り、首を傾げてレミリアが揶揄するように聞くと、
「いえいえ、お嬢様。地元民との交流を深めていたのですよ」
大げさに頭を垂れながら、美鈴がもっともらしげに反す。レミリアはそれを聞きながら視線を移し、傍らに転がる竿を目で指して見せた。同じくそれに目をやった美鈴はしばらく視線を彷徨わせたあげく、
「と、ところで今日はずいぶん朝更かしじゃないですか。何か面白い予定でも?」
話題を逸らすことにしたようである。しばらくジロリとした目で門番の気まずい表情を眺め、仕様がないとばかりに軽くレミリアが笑う。最近は、前より暇であるのは間違いではないのだし。
「今のところ、目立った道筋は見えてないよ。でもそう云うときは、レアなイベントに出くわしたりするの」
レミリア曰く大きな出来事はその大きさ故に、時節が多少前後しても確実に起こるという。因が多いために、果へと至らざるを得ないのだとか。
逆に、偶然が重なり起こる事象は至極予想し難い。また予想外であるが故に、レミリアの楽しみでもある。
「って事は何か起きる?」
「かもね」
*
竹。横を見れば竹。振り返っても竹。兎女の言った方角へと延々と歩き、竹林をようやく抜けた。その時点でもずいぶんと歩いたのだが。そう思い少女は懐の銀時計を取り出すと、
「二時間以上歩いてなんにも無しか。あいつの言ってたちょっと、ってどれだけだよ」
ちょっと歩けば何かが起きるかも、などとあの兎女は言っていた。
感覚のズレなのか、それともやはり謀られたのか。どちらにしろ、銀髪が汗で湿って肌に張り付くのが不快だった。竹の水筒が途切れるほどでもなかったが、そろそろそれらしいところがあって欲しいものである。
「ん、兎?」
銀時計を見ながら、何かが脳裏に引っかかる。兎と時計。
「あ! あの時のか」
倫敦の路地裏で自分にこの時計を渡したのは、確かに兎耳の女だったはずである。今まで全く思い出せなかったが、物心付くか付かないかの辺りでは仕方ないことかも知れない。或いはバニーガールに渡されるには違和感あるものだ、というせいだったのか。
「あの人も妖怪だとかだったのか?」
先ほどのような兎女を知れば、少女としてはバニーガールと考える方が不自然なような気もした。今思えばその様子は、通りすがりに手渡した様子でもなかったようにも思えたのである。
そう思案を巡らせた辺りで、新たに入り込んだ普通の林が途切れた。木々に遮られていたであろう冷気が吹き付け、時を同じく開けた少女の視界にいっぱいの湖が映る。
「結構でかいな」
感嘆混じりに少女が呟く。倫敦から出たことがあったわけでもなく、湖と言われても今ひとつピンと来なかったのだが。深い青に染まる水面と、さざ波をうけて時折輝く神秘的な様に少女は圧倒されていた。
「なんだ?」
湖の異様に心動かされる最中、少女の視界に奇妙な影が映ったのだ。蒼い湖と相反するような紅い何か。
「……城?」
湖の中央辺りに位置すると思われる小島に、ひどく紅い城がそびえ立っていた。蒼に逆らうかのように屹立するそれはしかし、まるでそこにあるのが当然であるかのように堂々と在る。
「いかにもそれらしいけど。橋も船もないのはどういう事だろうな」
あそこに建っているのが廃墟でなければ、何らかの手段であそこに行けるはずなのは間違いない。しかしながら、ずいぶんと時間をかけて湖の周りを回っては見たものの、めぼしい橋も船着き場も見当たらなかった。
「まさか空を飛べとかって言うんじゃ、」
遮るように大きな水音が響く。音に釣られて少女がそちらに目をやると、湖上に一本の柱が立っていた。先ほどまではなかったはずだから、落ちてきたか浮き上がってきたかだろうと思われる。
柱のある方に向かうと、それが氷で出来ていることが見て取れた。と言うよりはそれを中心として、湖上に氷が広がっていることから判断したのである。兎女の言っていた、幻想的な何某か、だろうか。
そこでふと何かを思いつき、少女が氷を数度蹴りつけた。みしりとも音を立てず、かなり堅い。なぜいきなり氷が張ったのかは、とんと見当も付かなかったが。
「行ける、か?」
*
レミリアが城内に下がってからすぐ、美鈴は挙動不審な人間を注視していた。そもそも紅魔館辺りに人間が寄りつくことも少ないのだが、近付くだけで咎める気はない。むしろ騒ぎを起こしてくれるのは歓迎なくらいだったのだが。
どうもこちらの方を探っている様子なのが気になったのである。
「今更吸血鬼退治? まさかねぇ」
釣りをしていた辺りから、湖周りに珍しく人間が居るとは思っていたのだが、紅魔館に用だとは思っていなかったのだ。そもそも人の住む辺りからここに来るだけでも骨が折れるし、用があるなら近辺に住む妖怪を通した方が余程早い。
「迷子の子猫ちゃん、かな?」
独りごちたそれが一番正解に近いような気がした。何となく雰囲気とでも云うものが、幻想郷内の人間とずれているように感じられたのである。
美鈴が見たところ対岸にいる少女は、チルノ入りの柱が生んだ氷の強度を確認しているようである。かつかつと踵で蹴りつけた後で大きく頷くと、忽然と姿を消した。
「!」
いや、消えたのではなく。突然別の場所へ、湖を渡ったこちらの岸へと至ったのである。
「おいおいおい。迷子の子猫ちゃんかと思ったら、面白そうな感じじゃない」
素早いだとか云う問題ではない、と美鈴は断定した。速さだけで、氷を叩く足音が近い方から聞こえてきたりはしない。
無論気配を遮断したなどでもない。位置を忽然と変えた瞬間に、美鈴は少女の位置を把握し直している。と言うより自分が観察されているという挙動ではなく、見失うはずもない。
にわかに高揚した美鈴が、気配を殺して少女に近付く。天地の流れを読み、辺りの気配と違和感なくとけ込むのだ。殆ど子供か妖精じみた悪戯心を持ってその背後に接近し、
「貴方のおうちは何処かしら、お嬢ちゃん?」
反ってくる驚きの気配を感じ取り、次の反応はいかなるものかと期待する美鈴の目前で、
「え?」
少女の姿が一本のナイフにすり替わっていた。刃先が指すのは、正確なまでの心臓一点。迷いなく狙い定めたそれの見事さに、美鈴は消えた少女の気配を追うことすら思いつかず、避けることも忘れて見入っていた。
宙を走るナイフを目で追い、トスリという軽い音を聞いた。
少女が投げ放ったナイフが、忽然と背後に現れた女の胸を貫いた。何が起こったのか理解していないような表情のまま女はふらりと揺れ、仰け反るようにして湖に落下し大きな水音を立てた。
時を止めて距離を置きそれを見届けた少女は、荒い息を整えようとしていた。背には冷たい汗さえ流れている。殆ど一方的に攻撃したようなものだが、一体いつ近寄られたのか判らなかったためだった。相手が無警告で攻撃に移るつもりなら、対処のしようもなかっただろう。
そこではたと気付く。
「いきなり穏便な手が取れなくなった……」
職業病のようなもので仕方ないと自分では思うが、相手もそう思ってくれるか甚だ疑わしい。
「なるようになるか」
状況が悪化したのは間違いないが、初めから雲を掴むような話である。それに今更気にしてもどうしようも無いと考え、少女は歩を進めることにした。
*
「おーい、正門前~。門番さーん。美鈴さ~~ん」
何かの装置の前でメイドが一人、先ほどから延々と呼びかけている。ここは紅魔館の警備詰め所のようなところで、基本的にあまり人はいない。何らかの襲撃を受けるにしても美鈴を始め察知が早いため、常に詰めている必要性は薄いのである。彼女も軽食をつつきながらで緊張感がない。
「応答無し、と。サボリじゃないよねぇ」
美鈴の場合、見た感じさぼっていることは少なくないが、本当にサボりきっていることはまずない。危機的状況、というもの自体があまりないのだが。
「パチュリー様は作業中だったしな~」
魔女の邪魔は、紅魔館でやってはいけないことの一つである。後は不用意にヴワル以外の地下へ向かわないことなどがあるが、これは一部の者のみの常識でありあまり一般的ではない。結果、ほぼ一番やってはいけないことである。
考え込むメイドの耳に甲高い警戒音が入る。
「侵入者!?」
事前に用意して派手に歓迎してやることはままあるのだが、このような形での侵入は例がない。言い換えれば、本当に侵入されたという状況である。メイドは表情を引き締めると、
「警戒態勢に移らないと」
「いや、そのまま通しちゃって大丈夫よ」
全館に呼びかけようとしたところで、横合いから声が掛かった。
「あ、美鈴さん。何やってたん、ってずぶ濡れ?」
「ちょっと寒中水泳、ってわけでもないんだけど。タオルタオル~」
濡れた服よりも水を吸った紅髪が重そうな美鈴は、体を拭こうと探して部屋を彷徨いている。暑さ寒さでどうにかなる妖怪は希有だが、進んで泳ぎたい時期ではない。
「あれ。美鈴さん、そんなナイフ使ってたっけ?」
見れば、美鈴は片手にナイフを持っていた。特異な形状ではないが見覚えのあるものでもない。刀身が鮮血で朱に染まって、まだ乾いていない様子である。
「いやー、いま件の侵入者にここをブッスリとね」
苦笑いしながら美鈴が指した左胸は、確かに大きく裂けて肌を晒していた。体の傷は既に残っていない。大概丈夫な妖怪だとメイドは呆れるが、
「って、それ危険な侵入者じゃ」
侵入者は殺る気満々としか思えない。美鈴は通しても大丈夫と言ったが、そんな相手とは考えにくかった。
「まぁ、これ見てちょうだいよ」
言いながら美鈴は、むき身のままのナイフをひょいと放る。それを何とはなしに受け取ったメイドが、これ美鈴さんの血じゃん、などと言いながら顔を顰めた後、その表情を怪訝なものに変えて行く。
「これ、ただの鉄じゃない」
当然不純物や強度を上げるための混じりものは含まれているが、正真正銘あまりにも普通の鉄過ぎた。妖怪退治をしようという者が、このような普通の刃物を用いるのはあり得ないのである。
妖怪に効果的な損害を与えるためには、純粋に物理的な手段でもってするのは賢くない。その存在が精神体に近いため、妖怪を退治しようとする者は霊的手段や魔法などを用いるのだ。武器の材質は、金属であれば銀などが好まれる。
「素人なのよ、あのお嬢ちゃん」
結論すればそうなる。惑いなく急所を狙ってナイフを投擲した所などを見れば、人間相手には習熟しているのだろう。しかし、相手がそれ以外であることを想定していない。
「もしかして、迷子?」
幻想郷の住人であれば人間であっても、いや人間であればなおさら、妖怪の存在を警戒しないはずはない。対抗できるかはまた別の話ではあるが、対策をしないはずはないのだ。
「多分ね」
「そんなド素人お嬢様に会わせてどうするんですか。……お食事?」
メイドが呆れたように言った。素人となれば、食料としての価値がせいぜいだろう。と言うよりは、素人だからこそ食料としての価値が高い。
しかし、レミリアの下にたどり着けるかが問題であるが。距離を歪める結界などのおかげで、常人は真っ直ぐ進むことさえおぼつかないはずだった。
「それもありなんだけど。お、やっぱアタリかな」
紅魔館内を模式的に示す画像が宙に浮き、鋭い警戒音が鳴り響いた。
「嘘! 結界が破られてる? パチュリー様謹製のが?」
めまぐるしく変わる画像は、張り巡らされている結界が次々と破られていることを示していた。それもまるで、人が蜘蛛の巣に引っかかりそのまま破ってしまう程度の気軽さである。
「あの娘の能力はやっぱこれかぁ。それなら空間も当然支配する、ってわけね」
言いながら美鈴は、面白そうに笑っていた。
*
どこもかしこも紅い城内を少女が進む。ここまで紅で満たされていてはけばけばしさを感じそうなものなのだが、どこか統一感と気品を感じさせる内装だった。ただ、その内装を整えるべき住人とまだ出会していない。
少女は中にいる誰かに取り次ぎでも頼もうかと考えていたのだが、中に入って以来誰とも出くわさなかった。もしかすれば先ほどの女がその取り次ぎ役だったのかも知れないが、全く悟られずに背後を取る受付というのも少々考え難い。どのみち、彼女に頼む手段はないのだが。
少女が実用性を疑うほどに広い城だったが、あまり複雑な構造をしている様子はなかった。外観と内部で違和感を感じるところはあまりない。
「ん?」
少女があからさまな違和感を感じ取る。ようやく誰かが現れたのかと思ったが、そうではなかった。手入れされた様子から人が居ないはずはないのだが。
その違和感は少女の目にはっきりと映り、また、馴染みのあるモノだった。明快な造りをしているはずの城内を上書きでもするように、少女が何もないところにナイフを仕舞うように、空間が歪んで存在しないはずの分岐が生じていたのである。
「同じようなことをするやつが居るのか?」
兎女の言を信じれば、この幻想郷に棲む者の多くはヒトではないという。少なくとも人間である自分がこのような能力を備えている事を考えれば、妖怪が似たようなことをしても何ら不思議はないのかも知れない。
これだけ広い空間に干渉しようというのは少女の考慮の外であった。ナイフを忍ばせる程度にしか用いたことはなかったが、
「もしかしたら同じようなことが出来る?」
初めて目の当たりにする自分以外の、自分と共通する異能が少女にそのような発想を与えた。ナイフを忍ばせる空間を元の何もない状態に戻す要領で、少女はねじ曲がった通路を元通りの状態に出来はしないかと手探りに感覚を伸ばし。
至極あっさりと空間の歪みは消え去った。
まるで歯車がかみ合ったように、拍子抜けするほどの感触だった。この城の元の状態など知るはずもないのに、元通りになったという確信まである。
「案外上手く行くもんだな」
歪みの消えた通路の先に大扉が見える。歩を進める事にそれの偉容がつまびらかになり、少女もいきなり大物の所に押しかけて良いものかと考えてしまう。
「成るように成れだ。あの兎女も不思議の国とか言ってたし、不思議と何とかなるかもな」
慰めにもならないことをやけくそ気味に口走って、少女は足を速める。次第に近付きノックでもするべきかと考え始めた辺りで、その外見に相応しく重い音を扉が立てて開き始めた。
覗き込んだ先でまず少女の目に付いたのは玉座である。それ自体がかなり大きいのも確かだったのだが、座る人物が不似合いに小さく玉座の方に目が行ったのだ。
「子供?」
そこに居たのはどう見てもまだ幼い少女だった。少女から見ても明らかに年下だろう。少女と同じく銀色の髪をしていたが、それは紅い着衣と対照的に蒼みを帯びて全く別の雰囲気を発している。
そうでありながら少女が目の前の人物に感じたのは、紅だった。何か服以外にも、雰囲気とでもいうべきだろうか。
「ご挨拶だな、人間。こう見えても、おまえの何十倍かは生きているわ」
その声もまだ小さい子供のものだというのに、その響きにはどこか重さを感じさせるものがあった。彼女はばさりと翼を広げ、悠然と立ち上がる。少女がその存在に驚いた翼は、蝙蝠のような黒い羽である。
「それで。人間が悪魔であり吸血鬼に何の用かしら。功名心かつまらない話なら、今日がおまえの命日になるよ」
言葉とは裏腹に、にこりと笑う悪魔。牙を見せて微笑む姿に恫喝の要素はないが、冗談で言ったというよりはその程度の軽さで発言を実行に移しそうな凄味があった。
「帰り道を聞きたいんだ」
「うちで迷子の世話はしていないよ」
悪魔はけんもほろろに返すがすぐさまにやりと笑い、
「と言いたいところだけど、うちの知識人に口を利いてやっても良いわ。でも、道案内なんてつまらない話だけじゃね」
「カネならそれなりにあるけど、ここで通じるのか?」
少女の言葉に、悪魔が呆れ返った顔をする。
「そんなもの出されてもねぇ。悪魔には魂、吸血鬼になら生き血。それくらい出して欲しい所だけど」
小さな悪魔が言葉を止めて少女を見つめる。
「おまえは少なくとも、ここまで来た。余人ではそれすら不可能な事」
品定めするような視線に、少女は嫌な予感を覚える。
「それを可能にした何か、見せてご覧なさい」
後の文節は間近から聞こえた。風を引き連れて目にも留まらず迫った悪魔は、少女の驚愕を見て笑う。そして、その様がすべて凍り付く。
凍りついた時の中で悪魔が一瞬に縮めた距離を再確認して驚きながら、少女は離れて死角に移動しながら再び時の流れへと戻る。嫌な予感は当たったようだが、相手がどこまでのつもりか判断できず攻撃には至らなかった。
少女を見失い、しかし、すぐさま把握し直した悪魔は意外そうに、
「へぇ。でも遠慮は結構よ、人間?」
悪魔は微笑みを見せながら、手本とばかりに指先を翻して紅い何かを放つ。高速で飛来するそれを今度は時を止めずに避ける。
「あら。普通に避け」
そこですべてが静止する。
「そんなに見たいなら見せてやるよ」
少女は円を描くようにして悪魔の周りを駆け、続けざまにありったけのナイフを投げて配置する。避けた先にも当たるように配置したナイフの群れに、避ける余地もない。静止した流れは動き始め、
「るのね?」
殺到した銀光の群れを前に、言葉の続きが発せられた。にわか雨のように突然注ぐナイフの雨を前に、反応すら出来なかったのか。
その光景に呆然としているのは少女の方だった。数十本に及ぶ銀色をした驟雨の中、悪魔は平然と立っていたのだから。その手には投げつけられたナイフがいっぱいに抱えられ、残りも一切彼女を傷つけることなく足下に散乱していた。
いや。
「当たり一、と」
感心するように言いながら悪魔は唯一肩口に突き起ったナイフを引き抜き、少女の方に軽く放る。傷口から一瞬血が流れるが、すぐさまそれも塞がった。それどころか破れた服までもが、である。
「さて。おまえの能力が私の思った通りなら、見事避けて見せなさい」
言葉と共に悪魔の姿がかき消え、少女の周りをつむじ風が舞った。消えたのはそれだけではなく。
世界が凍りつく。
少女は悪魔の足下に転がっていたナイフがすべて消えているのを察知するや否や、間髪入れずに時を止めたのである。止めて確認した状況は最悪と言っていいだろう。先ほど少女がして見せたように、周囲をナイフが取り囲んでいたのだ。上からも配置されている分、状況はなお悪いのかも知れない。
おそらくあの悪魔は、信じがたい速度で飛び回りながらナイフを投げたのだろう。見れば彼女はいつの間にか玉座に着いて、凍りついたままこちらを見て笑っていた。
「遊んでいるのか、こいつ」
ナイフの飛んでくる方向を短時間で確認し、少女はそれが降り注がない空白域を見つけていた。幾らでも時間を止めていられるわけでもないからである。用意でもされたかのような穴に、少女は嬲られていると感じていた。
身を投げ出すようにしてそこに飛び込みながら、ちらりと見た光景に少女の背を悪寒が走る。玉座に座る悪魔と正反対の方向から一本、他のものから一回り遠いところにあるナイフを見逃していたのだ。その軌道は丁度、安全地帯に逃げ込んだ獲物を串刺しにすものである。止まった時が限界に達した。
轟音。
腕の痺れと肩が外れるような衝撃と、しかし、突き刺さることはなかったナイフ。少女はかかった罠の先に転がっていた一振りのナイフを掴み、飛来した銀色の一閃を迎撃したのである。それは、先ほど悪魔が少女の方に投げたものだった。
その事実に歯がみしながら少女が玉座を睨み付けると同時に、悪魔の手を叩く音が聞こえた。
「おめでとう人間。賞賛に値するわ」
悪魔の顔に厭味の色はなく、それがむしろ少女を苛立たせる。
「巫山戯てるのか、それは」
「巫山戯る? 遊んではいてもそれは見当違いよ」
悪魔は肩を竦め、
「私を殺しに来たというならともかく、おまえは客の部類でしょう。呼んだわけではないけれど」
「いや、まぁ」
言われればその通りではあるが、少女は釈然としない。
「失敗すれば死んだのは確かだろうけど、ね」
そこで悪魔は張り付いたような薄い笑いを浮かべ、
「おまえはどう在れ、悪魔に願い事をしたの。命を賭けるのは当然じゃない?」
その様子はまるで道理を諭すようで。或いはここでの常識として、それは正しいのかも知れない。見方を変えれば、彼女は抜け道を与えておいたのだ。そこには誠意というものを見いだすことも可能だろう。
普通ならばそこに誠意など見いだすことはなかったろうが、少女にある実感はそれを正しいものと認識させた。この悪魔はやろうと思えばいつでも少女を殺せるだろうと云うのに、勝ちの目を用意しておいたのだから。
「まぁ、なかなか楽しませてもらったわ。人生にはイレギュラーがないとね」
悪魔は人生を語りながら、少女を見据えた。少女を見ながら別の何か、或いはひどく深いところを覗くような視線が寒気さえ感じさせる。
少女はふと、幻想郷で最初に遇った兎女を思い出した。この視線がもしかすれば最も、ヒトとそうでないものを隔てるのかも知れない、と。
「ふん。でもおかしいな。私にもおまえの辿った運命が見えないなんて」
悪魔の鋭い視線が失せ、普通の子供が癇癪を起こしたような苛立たしげな声を出す。彼女は、自分にも解らないことが不満のようである。
「まぁうちの知識人なら何とかするでしょう、面倒くさがるだろうけど。それでも外の情報源を無碍にはしないと思うわ。二度目のグレートウォーの顛末、知りたがってたし」
「グレートウォー?」
訝しげに少女が聞き返す。その言葉に思い当たるところがなかったのである。
「ちょっと、聞いた事無いの? 英国人でしょう、おまえ。世界大戦とまで言われる戦争を何で知らないのよ」
そう言われても少女は困惑するしかなかった。名前からすれば世界中を巻き込むような戦争と云うことになるのだろうが、そこまでの規模の戦争など聞いたこともない。
「それ、いつの話だ? 昔の歴史だって言うなら、学校なんて所行った事無いから知らないぞ」
少女の言葉に悪魔は考え込み、
「終わったのは二十世紀の中頃だって云うから……。ふん、まぁ五十年も経てば人間には歴史なのかしらね」
「二十世紀?」
今が何世紀か、などとは普段少女は使わない。その為少しピンと来なかったのだが、
「一八八八年って二十世紀で合ってるか?」
男が読んでいた今日付の新聞。その日付欄を思い出しながら少女は悪魔に言う。日付くらいならば読めるし、自覚はないが少女の記憶力は決して悪くないのである。
「一八八八年は十九世紀よ。……ちょっと待ちなさい。今年は一八八八年だとでも言いたいの?」
呆れたように返しながら、話のズレに気付き悪魔が聞き返す。
「知り合いが読んでた新聞がそうだったけど、何か違うのか? あれ、二十世紀って?」
少女も話の奇怪さに気付き、困惑を露わにした。何か話が決定的にずれている。
「私がここに来た時点で、一度目の世界大戦はもう終結しているわ。一八八八年の三十年ほど後に。おまえの今は、一体何時なのかしら?」
断罪するように悪魔が現実を突きつける。少女は笑い飛ばしたかったが、担ごうとしているにはあまりに突拍子もない。
「十一月九日、一八八八年の。……そうじゃないのか?」
幽かに震える声を聞いて、悪魔は初めてその表情に暗いものを混ぜた。少女も見るとは思わなかった沈痛そうな視線を、しかし、一瞬で消し、表情のない顔で悪魔は告げた。
「今日は確かに十一月九日よ。けれど、その日はもう百年以上前に過ぎたわ」
「意外と平静ね。嘘だとは思わないのかしら?」
少女の反応は、悪魔が予想したよりずいぶんと温和しかったようだ。泣き叫んでも不思議はないと考えたのだろう。
「そう云うこともあり得るか、って納得しただけだよ」
少女の動揺は小さくなかった。元居たところには帰りようもない。もう、疾うに過ぎてしまったのだから。それ自体は彼女にとって、ひどく深い衝撃であった。
ただ、しかし。彼女自身の能力を鑑みればあり得ないことではないと。この異常の前に現れた奇怪なバケモノを見れば、起きても不思議はないことだと納得してしまったのだ。
「結構な事ね。おまえはどうあれ、此処と現在に適応しなくてはならないのだし」
悪魔の言う通りだろうと少女は思った。たとえこの幻想郷から出たとして、百年以上前から来ましたなどと通用するだろうかと考えれば。
「それに此処なら、時間をどうにかするくらい普通そうだしさ」
この幻想郷ならば、倫敦では異形である自分も当然のものとなる気がしたのだ。それどころか、此処では下位者ですらあるかも知れなかった。少なくともこの悪魔をどうにか出来るとは到底思えない。
そして、自分を取り巻く異常に他者を巻き込むこともないだろうと。
「まぁ、珍種ではあるけど。そう言えばうちには人間は居なかったわね。飼ってやっても良いわよ?」
悪魔の言い様は本当に犬の子でも飼おうかという様子である。呆れて少女が何か言い返そうとしたところで、悪魔が別の方へと視線を向けた。その視線を少女が追いかけると同時に、何かの影が悪魔へと殺到した。
肉がひしゃげる音と共にそれは跳ね飛ばされ、壁に激突して重い音を立てる。悪魔が五月蠅げに振り払った手で打ち据えられたのだ。それは床から起きあがると、機をうかがうように悪魔の方へ向き直った。
「この無粋者は知り合いかしら? 唐突に出現したけど」
冷たい目でただの人影にしか見えないモノを映し、悪魔が少女に問う。
「こいつ!」
それは少女が倫敦で遭遇した、正体不明の人影だった。少女を追ってきたのか、それとも百年に渡る時間移動に巻き込まれたのか。
「知り合いか。友人は選びなさい? ましてや、悪魔憑きなんて間抜けに関わるのはね」
「誰が友達だ。悪魔憑き?」
嫌そうに言いながら少女が返す。
「魂と引き替えに三つの願いを。聞いたことはない?」
「聞いたことくらいなら」
少女の答えに悪魔は頷き、
「こいつは悪魔だとかそう云うものに分不相応な願いを言って、挙げ句に何もかも持って行かれたのよ。誰、ということすら判らないほどに」
人間であるということすら禄に残らず、見た相手にとっての人間という情報でようやくそれが判る。それ故に人間には、誰か知っているような人物、として認識されるのかも知れない。
「もうこいつを動かしているのは取り憑いたヤツか、残りカスの妄執くらいよ」
悪魔は嘲るように、哀れむように言い放った。
「こいつ、散々串刺しになっても動いたぞ。どうにか出来るのか?」
「散々、ね」
確かにその体は見るも無惨に刺し傷で覆われ、血に塗れている。肉体そのものは率直に言って、死体が動いているようなものだろう。その死体が再び、恐ろしく機敏に悪魔へと襲いかかる。
「散々って言うのは、こうかしらね!」
その声に応えるように紅い絨毯が床ごと、鋭く盛り上がって人影を空中に縫い止めた。それに続くかのように床は幾重にも牙を剥き、中心が見えないほど執拗に突き刺さる。それでは足りぬとばかりに、悪魔は掲げた手に巨大な火球を生みだし躊躇なくそれを投げつけた。
空気を音と熱波が揺るがす。
「そら。とっととその抜け殻から出て、私の城からも失せるが良い。それとも、この世からも退場したいか?」
少女が呆気に取られるほど恐ろしい手際で、悪魔は倫敦に現れた怪物を圧倒しその残骸を冷たく睨め付ける。彼女の言からすれば、中身を倒してこそ終結と云うことなのだろうが。
残骸から何か、昏い何かが溢れ出る。
「……え?」
悪魔はただの少女のように呆然としていた。冷徹に怪物を始末した手際が嘘であったかのように、目の前に現れたモノを凍りついたように凝視している。
少女からすればそれは、あまり印象が変わったとは思えなかった。誰かから何かに変わった、その程度である。同様に固有の印象を掴むことが出来ない。
ふと。そうであれば、中身であるこの存在も何もかも奪われたのだろうかと、少女は思いついた。
「----!」
正体不明の何かが、音ではなく直接鼓膜を叩くような不快な振動を発する。紅い光が悪魔に向けて伸び、それは避けもしない標的を打ち据えた。
「は?」
予想もしない光景に、少女は唖然とする。それが幻でない証拠とばかりに、悪魔は床に叩き付けられた。追い打つように無数の光芒が降り注ぎ、悪魔はまるで無抵抗の様子で床を跳ねる。
「ちょっと待てよ!」
あまりの光景に少女は思わず駆けだし、時間を凍りつかせながら悪魔の方へと向かう。停止しているとは言え、受けるのを想像したくない量の光線が悪魔の周りを覆っていた。
隙間を縫って拾った悪魔の体は、見た目通りにひどく軽い。それは少女を前に見せた大立ち回りこそ幻ではないか、と感じさせるほどであった。
「あんた何やってるんだ」
少女の口調は知らず、咎めるようなものとなっていた。彼女の態度への不満と言うべきか、この悪魔は傲然と振る舞うべきだと感じていたのである。らしくない、と少女は思ったのだ。
「あ」
悪魔は少女が何を言っているのか判らない、それどころか何が起きているのか判らないような呆とした視線を彷徨わせた。そして一つ瞬きをし、
「ああ」
口元に付いた血を親指で拭い、その視線を鮮明なものとした。影をどこか苦いものの混じる視線で睨み付け、少女の手を離れて立ち上がる。
「ふん。我ながらみっともない」
悪魔は自重するように低く呟き、目にも留まらぬ速度で影へと殺到した。降り注ぐ光の矢を判っていたかのように避け、鋭い鉤爪を生やして影を一撃する。
吹き飛んだ影を追って飛翔し、激しい音を立てて幾度も打ち合う。
「たかがこんな事で取り乱すなんて、ね!」
鉤爪に追い立てられて動きを乱した影に、悪魔はその手に生み出した赤光を解き放つ。それは真っ直ぐ突き刺さり、影を激しく床に叩き付けた。
「ねぇ、お父様?」
そう言う悪魔の口調は、ひどく歪んでいた。
「お父様って、え?」
少女に背を向け表情の見えない悪魔は、天高く手を掲げた。その手に紅色の光が強く集って濃縮され、
「私が大昔に殺し損ねた」
一本の紅い大槍が悪魔の手に握られ、勢いよく投げ放たれたそれは一直線に影を目指す。空気を灼いてなお紅く染まる槍に反応し、影が素早く避け。
避けたはずの槍が突き刺さる。
「どうやっても私に昏い運命しか寄越してくれないお父様よ」
見間違いかと目を疑う少女を尻目に、悪魔が二本目を投じる。防ごうとしたらしい構えを、横合いから槍が射抜く。
「何も為すことも為されることもないよう、運命を全て剥ぎ取ってやったけど。それが失敗の元ね。おかげで私の予知にもかからなかったわ」
三本目が突き刺さる。
「最初から、こうしておけば良かった」
渇き切った言葉が口を吐き、だらりと下がった羽とは対照的に巨大な気配が悪魔に集う。
止めなくてはならないという思いが少女を突く。しかし、その理由も思い当たらず、直感的に手出しすべき立場でもない。
少女が躊躇する刹那、横合いから伸びた光が影を薙ぎ払った。
影を飲み込んだ万色の光はゆっくりと収まり、五色に別れて消え去る。光が収まった後には何一つ残っていない。悪魔はその光景に呆然としていた。
「パチェ? 何で?」
悪魔は光が伸びてきた方を見やる。そちらにはどういう仕掛けか、宙に浮く五冊の本を従えた少女が居た。長く密度の濃い紫がかった髪が特徴的である。
「なにやら不審人物が居たから始末しただけよ」
他に何か理由が必要か、といった口調だ。宙を舞っていた本がばらけて紫の少女の手元に集い、一冊の本になる。
「私がやり合ってる横合いから?」
悪魔の表情は不満げで、詰問するような様子であった。ただ先ほどのような張りつめたような気配は薄く、ある種安心しているようにも見える。
「だって貴方、どう見てもやけくそだったじゃない」
紫の少女は、あまりにも歯に衣着せていなかった。とっさに言い返そうとしたらしい悪魔は、そのようなことを言われるとは思っていなかったのか口を開け閉めして停止している。
「それとも五〇〇年も先送りにしていたこと、今更納得して実行したとでも言うの?」
紫の少女の言葉に悪魔はしばらく考え込み、観念したように溜め息を吐いた。
「どっから見てたのよ。やらしいわね」
「割と初めからよ。食い入るようにね」
「それでデバガメがご趣味の知識人は、何で見計らったかのように現れたのかしら? まさかいつも覗いてるんじゃないでしょうね」
あまりにタイミング良く現れたことの前に、今日に限ってなぜ悪魔の様子を注視していたかと云うことだろう。たまたま今日に限って覗き見していた、と云うのでなければ不可解である。
「今日の貴方の運勢は波乱含み。ラッキーアイテムは時計。ラッキーカラーは紫」
「はぁ?」
到底予想できなかったであろう妙な答えに、悪魔の表情が不可解で満たされる。
「運命を見るのは良いけど、レミィは足元を見ないんだもの。強い魔物にありがちな落とし穴かしらね」
「……もしかして何かありそうなときは見張ってた?」
「そうよ」
紫の少女は、だからどうしたと言わんばかりである。
「あまり借りを増やされると困るわ」
「それは新しい見解ね。てっきり私の方で負債を抱えていると思ってたのだけれど」
悪魔は首を振ると、
「私は初めから、貴方に大きな借りがあるのよ。返しきれるとは思えないほどの」
その様子はまるで罪を懺悔するかのようで、ひどく痛々しかった。
「ふぅん。それで仕方なく友達付き合いをしてやってる、とか?」
冷たい目で見る紫の少女に悪魔はひどく慌てた。
「そ、それは別よ。貴方が友達だったらいいな、ってだけで」
「じゃあやっぱり貸し借りは無しね。私もあなたが友達で良かったと思うし」
恥ずかし気もなくもなくにこりと笑う紫の少女に、悪魔はしばらく黙り込む。
「あーあーもう。良い友達を持ったもんだわね! プライバシーとか問いつめたいことは山ほどあるけど」
頬を紅潮させて悪魔は言うが、
「ところでこの子はどうしたの? 見た感じ人間みたいだけど」
それをを聞き流すように、紫の少女が銀髪の少女に目をやる。そちらを向いた彼女の顔も赤みがかっていたようだが、悪魔の方からは見えていない。
「……覚えてなさいよ、このもやし」
恨みがましげに友人を睨み付けながら、悪魔が怨嗟のように曰う。気を取り直したように少女に視線をやり、
「本日最初のイレギュラー。名前は……、訊いてなかったわね。私はレミリア・スカーレット。この目つきの悪い魔女はパチュリー・ノーレッジ」
「ちょっと、何その説明」
悪魔はレミリアと名乗り、魔女をパチュリーとおざなりに紹介した。仕返しとばかりに、レミリアは不満げな友人を完全に無視している。仲が良いのか悪いのか、少女は判断に困りながら口を開き、
「ジャックって呼ばれたりはするよ。ちゃんとした名前は持ってないんだけど」
「ジャック!」
とんでもないことを聞かされたかのようにレミリアが声を荒げる。
「仮にも年頃の女の子が、そんな名前でいいと思っているのかしら! 不許可よ」
レミリアはなにやらひどく不満な様子で、理不尽なことを言ってのけた。
「何か別の、……あれ?」
レミリアの憤慨が突如どこかに消え、訝しげな様子が前面に現れる。その視線は少女の首もと、銀色の鎖に寄せられていた。それに気付いた少女が、懐から銀時計を引き出す。
「これ、もしかしてあんたの持ち物か?」
思えばあの影は倫敦に現れた時、この時計にひどく反応していた。レミリアのものであることに気付いたとすれば納得も行く。
「普通の品じゃないのは確かなようね」
覗き込んだパチュリーがそう評したが、レミリアはそれに反応する様子もない。一心に時計に視線を送っていた。
「それ、どこで手に入れた?」
「倫敦でずいぶん前に兎耳の女がくれた。あんたの知り合いだったのか?」
レミリアはそれにも答えずに考え込んでいる。そして顔を上げ、しばらく少女の顔を眺め、
「ふん。使命だけは果たしたわけか」
レミリアの表情は納得したような、呆れたような、複雑に混じり入ったようなものだった。ただ、その様子に暗いものはない。
「おまえは今日から十六夜咲夜よ。ずいぶん大袈裟な名前になったけど、まぁ仕方ないわ」
レミリアは一方的に宣言すると踵を返し、
「私はいい加減寝るから。後は宜しくね、パチェ」
本当にそのまま去っていった。後には少女とパチュリーだけが残る。
「貴方、十六夜咲夜って名前に不満は?」
パチュリーの問いを少女はしばらく吟味し、
「良いんじゃないか、な? 多分、すごく」
少女はその感触を確かめるように一度、十六夜咲夜、と呟いてみる。突然押しつけられた上に返答も聞かずに名付け相手に去られたが、とても良く馴染むものを感じた。まるでそう呼ばれるのが当然のように。
*
今幸せか、と尋ねて回ったとして。何か企んでいるのかと思われるのが関の山だろう。
今辿っている運命は正道ではない、とふれて回ったとして。正道があまり楽しく無さそうだと言われそうである。
そもそも気に入らないのなら、此処に留まる理由もない。根無し草の妖怪どもになにをかいわんや。
「あー、もう。馬鹿みたい。寝よう」
中になって安心しました。下が楽しみです。
完結してませんよね?
この後の話も読みたいなぁ