闇の中に蠢くモノ。
記憶の中に刻まれたモノ。
脳裏に過ぎるモノ。
影の中に潜むモノ。
空に境を作るモノ。
死へと誘うモノ。
心の中に塞がれたモノ。
世界を歪めるモノ。
世界は境を作るモノ。
私はそれを見据えるモノ。
日が沈むたびにのびていくモノがあった。
ある時、それに触れてみた。
とても冷たく、そして嫌な感触がしたと思う。
そのことを父や母に言ったらひどく怒られたのを憶えている。
それ以来、そういったモノには触れず、極力避けるようにした。
それが、怖かったから。恐ろしかったから。
明らかに異質なそのモノ。世界に消して溶け込まないそのモノ。
でも、それでもそのモノは見えるのだ。
どうすればいい?
逃げる?
避ける?
どちらも出来ない。どれもどうすることも出来ない。私にはどうすることも出来ない。
そのモノは世界のいたるところにあるのに。私のこの狭い世界にも。
ある時、夢を見た。世界がそのモノで覆われていた。
正直、気が狂うと思った。どこまで走っても、どれだけ走っても、そのモノはあったから。
どこを見ても、どこを触ってもそのモノ。気が狂わない方がおかしかっただろう。
それは夢だったからよかったものの、もし現だったならば私はどうなっていたのか。
だから私にはそれから逃げるしかなかった。例えそれが無駄だとわかっていても。
歪んだ心には、逃げるという選択肢しか残されていなかった。
道には、どこまでもそのモノがまとわりつく。
後ろからはそのモノが迫ってくる。
例え道が分かれていても、それは迫ってくる。どこまでも。
前も、後ろも、右も、左も、上も、下も。そのモノ。
一歩先へ足を伸ばす。二歩先へ足を伸ばす。
モノも、一歩先へ足を伸ばす。二歩先へ足を伸ばす。
反転、円を描き拳をモノに叩き付ける。
それは歪んで消えた。そしてまたそれは生まれた。遠くに。そう、遠くに。
声をあげる。先へ、先へ、ただ先へ。遠くへ、そう遠くへ。
これでは、イタチごっこだ。水粒を潰そうとするのと、同じこと。
だから私は逃げた。相手が追いかけてくるのなら、私は逃げるまで。
先が行き止まりとわかっていても、ただ喰われてやるわけにはいかなかった。
もし行き止まりにまで来てしまったら、その時は―――
そんな私の気持ちを知ってか知らずか年月は過ぎていった。
私は年月のなすままに日々を送り、そして成長した。
それまでの年月は地獄だったけれど。
ある時。そう、ある時。私は昼ごはんのためにある店に入った。
注文を決めようと思っていたその時、ウエイターが声をかけてきた。相席のお願いだという。店にはけっこうな人数客がいた。私は一人だったので一応了解しておいた。
そのあと、年のころは私と同じくらいの女の子が来た。この子が相席なのだろうと思ったが、実際の所どうでもよかった。注文はそばにしておいた。おろし。
数分後、そばがやって来た。さっさと済ませようと箸を取ろうとしたとき、それは見えたんだ。
私と反対の席に座っている女の子に、モノが見えたのだ。あの、忌々しいモノが。
人には見えていなかった。今までは。これではどうしたらいいのだろう?人にまで見えるの?これは。
頭が痛くなった。目の前が真っ暗になった。
「どうかしたの?食べないの、それ」
放って置いて欲しい。こっちは自分の今後がかかっているのだから。
「なら貰おうかな。それっと」
え?
「ち、ちょっと、何勝手に人のそばとっててるのよ」
「え?いらないんじゃないの?」
「だったらたのまないっての」
おそろおそろ取り戻す。今月は色々ピンチなのだ。昼ごはん取られるなどたまったもんじゃない。
「変な人ね。いきなり人の顔見て頭抱えるなんて」
「そっちが後?なら一応謝っておくわよ。ごめんなさい」
「いや、別にいいんだけど…。しかし貴方はなかなか面白いわね」
「はい?」
「いや、こっちの話。ああ、こっちね。さぁてお昼ごはんお昼ごはん」
わけのわからないことを言った後、彼女はオムライスとの壮絶な戦闘に突入していった。
しかし、何が面白いのだというのだろうか。こんなわけのわからないモノが見える女が。
そういえば、もう彼女からモノは見えなかった。見間違えたのだろうか?
考えても仕方がなかったのでとりあえず昼ごはんを済ませることにした。
うん、そばはやっぱり美味しい。完食すると、目の前の例の人物が恐ろしいくらいの笑顔でこっちを見ていた。
「…、何よ?」
「いやー。貴方、なかなか面白いわね」
だからそれはなんなんだ。
「何が面白いのよ?わけがわからない」
「いや。貴方の立ち位置がねぇ。無性に違っていてね。空想意欲が湧くのよ」
「立ち位置?何が違うのよ?立ってる場所は違うけど、みんなそうでしょ?」
「うんにゃ。私が言ってるのは貴方の心の立ち位置よ」
心の立ち位置?そんなものは聞いたことがない。考えたこともないし。
「貴方はそれが他人とは違いすぎる。そうね、経度にして6度7分、緯度にして9度4分くらいね。ほとんど常人とは異なる世界の住人のよう」
「何?貴方は私が異常だって言いたいの?」
「極論ならそうだね。でも、異常の度合いはそう大きくない。まだその異常に困惑しているレベルかな」
困惑?これが困惑だとでも言うの?この、苦しみが。
「結局、貴方は何が言いたいの?人を異常者扱いしてどうするつもり?」
「ああ、言いたいのは私も同じようなもんだ、ということさね」
「はぁ?」
今度こそ何かが切れそうだった。いい加減、我慢の限界だったから。
「しっかし、ここじゃ話ずらいね。場所を変えようか?」
「いいわよ。とことん話をしてやろうじゃないの」
「よしきた」
そうして彼女が向かったのは私が通っている大学だった。同じ大学の生徒だったのかと驚いたのは後の話。この時は頭が一杯でとても他のことを考えられなかった。
「ようこそ、秘封倶楽部へ」
とある部屋へ入ると、彼女はそんなことを言って私を迎えた。意味がわからなかったのでとりあえず無視しておいた。
「で、どういうことよ、同じようなものって」
「あらら。つれないねぇ。それじゃ言おうか。っと、その前にこれ見て」
いきなり出鼻をくじかれたけど、とりあえずよこされた古ぼけた写真を受け取って見る。そこには…。
「え?何で、これが…。」
そこには、見慣れていたモノが映っていた。その、世界に刻まれた線。そこのスキマから見える別な世界。蠢く目。這いずる手。まさにそれは私が見ていたモノ。
しかしそれが写真に写るなどとは知らない。今まで見てきた写真にもそれは映ってはいなかった。
「ねぇ、貴方にもこれ、見えるの?」
「うん?まぁ一応ね…。写真でだけだけど。ところでこれの正体、知ってる?」
「いや。見えるだけで他のことは知らないもんだから」
「ほうほう。なーるなーる。これはね、結界の境目。ここと、あっちの境界よ。例えるなら、この世とあの世のあいだに流れてるっていう三途の川?あれみたいなもん」
私の脳裏によくわからない色をした川とその向こうのお花畑が過ぎった。ああ、もはや遺影でしか会えないおばあちゃんがあっちにーって違う。
「じゃあやぱりこれは触っちゃいけないものなんじゃないの?」
「たぶんね。結界だって元は神聖なモノを護るためのモノっていう仏教用語だし」
「それじゃあ結局、私にはどうすることも出来ないのか…」
「うーん、あえて開けてみるってのはどう?」
それさっき言ってたことと矛盾してない?
「何言ってるのよ。どうしようもないから避けるんじゃないの?」
「いんや、よく臭いものには蓋をしろ、なんて言うけど、私は違うと思うんだね。なるべく有効利用したほうがいいんじゃないかと思って」
「有効利用って、こんなのどうすればいいのよ?気持ち悪いだけで役に立つの?」
「私は有効利用してるけどねぇ。カウンセリングとかにも役立つし」
そうだ。それを聞いていない。彼女の理由を聞いていない。
彼女が異常である理由は。
「貴方には何があるの?心でも見えるの?」
「いんや。自分の位置と今の時間がわかるだけ。そんな程度よ」
「位置と時間って…。それでなんでさっきの言葉なわけ?勘?」
「勘ねぇ…。そう言われればそうかもしれないけど…、実際にはわかるのよ、なんとなく。相手の位置。そしてズレが。そう、心の座標が」
「心の座標ねぇ…」
こいつは5本目の軸を作ろうとでも言うのか、と思ったが案外しっくり来たので黙っておいた。
「で、どうしようっての?開けてさ」
「別の世界に行くんでしょ?便利じゃない。まぁ自由に開けられはしないだろうけど」
「別の世界に行くって…。ゲームじゃあるまいし、帰ってこれる保証なんてないのよ?そんなんで手を出せるほど私は度胸ないわよ」
「わかってないね。何のために私がいるのさ?」
はい?
「なに?貴方は私の船頭にでもなると?」
「船頭ねぇ…。多いと山登っちゃうけどねぇ。私一人くらいならちゃんと進めるでしょうよ、たぶん」
「たぶんで命賭けろって?さすがにそれは…」
「そんなに重く考えない。軽く考えようよ、ちょっとおつかい、程度で」
「おつかいねぇ…。軽く考えすぎじゃない?さすがにそれは」
「重く考えてのしかかられるよりはずっとマシじゃない。逃げても、いずれつっかえてしまうなら―――立ち向かうしかない。違う?」
そうだ、私はこの答えが欲しかった。
ずっと。あのときから。
「仕方ない。しっかりエスコートしてよ?船頭殿」
「了解、まぁエスコートするのは実際にはそっちなんだけどね、航海士殿」
「決まらないねぇ」
「そっちがでしょうが。そういえば名前言ってなかったわね、マエリベリー・ハーンよ、よろしく」
「ずいぶんと今更だねぇ。まぁいいや。私は宇佐見蓮子。この秘封倶楽部の部長よ、一応」
「部長ねぇ…。他の部員は?」
「いないですね。貴方以外は」
「…また頭痛くなってきた…」
「だーかーらー言ったでしょうが。船頭多くして船山に登るってね。だから少人数の方がいいでしょ」
「まぁそうだけどね…。で、どうするの蓮子。この、写真の結界に行ってみるわけ?」
「いんや。結界は夜出やすいからね。まぁ夜を待ちましょうか」
「…。不安になってきた…」
「ババ抜きでもする?」
「だれがするかっ」
「…。革命」
「甘い。革命返し」
「え?」
「階段、8切り、まった私の勝ちね。これで13戦12勝1敗ね。メリーってトランプ弱いねぇ~」
「蓮子が強すぎるのよ…」
「まぁそうかもしれないけど。ああ、日も暮れてきたね。んじゃそろそろ行こうか」
「うーん、流されてる気がするなぁ…」
「みんなそんなもんじゃない?何かに流されてる。でもその流される何かは、自分で決めれるんだよ。ある程度は」
「そういうもんかな。ところでこの結界はどこにあるの?」
「この大学よ」
「え?近いわね」
「近いわよ。歩いて3分だもの」
「へぇ…。あれ?じゃあなんで私を誘ったわけ?」
「うん?」
「いや、だからそんな身近なものになんで今まで手を出さなかったか、ってこと」
写真はずいぶんと昔のものらしかった。手に入れたのが最近でなければ、十分に調査しようと思えば出来たはずだ。それなのに、何故。
「ああ、私には、どうしようもなかったから」
「どういう、こと?」
「私はこれを知っていただけだった」
「じゃあ、なんで」
「私は、これの存在を知ることが出来ても、それ以外にはどうすることも出来なかった。これの存在を知って、必死に過去の文献を漁って調べて、正体を突き止めた。これがどういうもので、どういうふうにできているのか、どこにあるのか、とかね。でも、それまでだった。これを映す方法もわかった。でもそれまでだった。私は、これに触れられないんだもの。それで、それで、どうすればよかったのよ…」
蓮子の目は伏せられていたけど、泣いていたように思えた。
ああ、そういうことか。
「それじゃ、私は助けられたけど、助けてもいたわけだ」
「なんか、悔しいなぁ」
「ふふ、誉めなさい、崇めなさい」
「それは無理」
「はいはい。ところで蓮子、開けるために必要なものは何だと思う?」
「えぇ?手、とか?」
「うんうん。必要なのはね、入り口と鍵よ。あなたは入り口を見つけられなかった。鍵を持っていたのにね。私は鍵を持っていなかった。入り口は見えていたのに。だから結局、私たちは出逢うしかなかったのよ」
「なんか、臭いわね…」
「ええ臭いわよ。だから、開けて調べなくちゃいけないの。わかった?」
「うんわかった。それじゃ」
「行こう。扉の向こうへ」
暗夜を僅かに欠けた月が照らす。ああ、今日は十六夜か。
星までもがかすんで見えるくらい、明るい月。2番目だけどね。
「おや、奇遇だね。今日は十六夜じゃない」
「何が奇遇なのよ?満月でもないのに」
「メリーさぁ、十六夜の別名って知ってる?」
「有明?」
「いや違う。まぁ合ってるけど。でもまだあるんだね。その中の一つが既望(きぼう)っていうんだよ」
「既望?」
「既に望みは満たされた、ってね」
「あら奇遇」
「でしょ」
「でもまだ、全部は満たしてないよ」
「そう言うと思った」
歪む世界。
劈く過去。
それは、世界を区切るモノ。
そして、閉ざすモノ。
「ここね」
「見えてる?入り口」
「ええ。それじゃあ、始めよう」
ああ、思えばあれが入り口だったのかもしれない。
この世界への。
「入り口は見つかった」
「鍵はここにある」
「曇った過去に終止符を」
「澄み渡る未来にコーダはなく」
「どこまでも続く第2楽章を」
「今、ここから始めよう」
「続けていくために」
「終わらせるために」
「「心を鳴らせ。心の奥を」」
二人の会話が楽しくて。でも魅せられたのは間の取り方。成長するメリーのところ。
私としてはうまいなぁと感心しきりなのです。