赤い閃光。
吹き飛ぶ頭。
飛び散る血潮。
「……え?」
紅い雨に呆然とうたれる少女。
足元では、頭部を失った死体が血溜りを作る。
「あ……れ……」
少女が自分の体を見下ろす。
自身に何が起こったのか、確かめる為に。
「駄目!」
私は声を掛ける事しかできなかった。
動ける筈もない。
私は無理に飛んだ所為で、すぐに動ける体勢ではないのだから。
しかし制止の声は、少女に届かなかった。
暗がりの中、袖を持ち上げ全身に付着したものの正体を認識してしまう。
「い……や…………!」
まるで一枚一枚の絵を連続で見ているようだった。
拘束されたかのように、私の体はいう事をきいてくれない。
少女の持ち上げた腕が、だらんと垂れ下がる。
そして、それはゆっくりと少女の手から滑り落ちた。
白い毛糸が地に触れる。
その瞬間、息を吸う音までがはっきりと私の耳朶を叩いた。
「―――イヤァァァァァァァァ!!」
闇を切り裂く悲鳴が、世界を……私を震わせる。
血溜りに膝を付いた少女が、否定の声を叫ぶ。
体を強く抱きしめ、外界から自分を必死に守っている。
そこでやっと、私は戒めから解放された。
「カナエ!」
悲鳴に掻き消されないように、彼女の名を叫んだ。
声に反応して、カナエがこちらに振り向く。
その一瞬、彼女の悲鳴は止まった。
私は安堵して、近寄りながら問い掛ける。
「どうしたの?」
「あ……あ……」
カナエは私と自分を交互に見てから、最後に顔を上げて止まった。
返り血を浴びて、呆然とした瞳が私のそれと重なる。
しかしその眼は、私を写してはいなかった。
当然だ。
カナエに私の姿が見えるところまで、まだ近付いていない。
彼女は声のした空間に、私以外を見ていた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい―――!!」
突然鬼気迫る顔で謝りだしたカナエに、歩みが止まってしまった。
彼女は私のいる場所に、何を見ているのか。
半狂乱に陥っているカナエからは何も読み取れない。
どうすればいいのよ?
「カナエ!」
再び名を叫ぶ。
今度はカナエも止まらなかった。
逆に、私のいる空間を見つめる瞳に、罪悪感と恐怖が浮かび上がる。
私は唇を噛み、拳を握り締めた。
解決策を見つけられない自分が苛立たしい。
「カナエ! 落ち着きなさい!」
苛立ちが口をついてしまい、語気が意図せず荒くなる。
カナエの取り乱しように、私まで焦ってきていた。
無意味に声を張り上げても、落ち着くはずがないのに。
カナエの必死さが、焦燥感を駆り立てる。
「……あぅ、ごめんなさい―――ごめんなさい―――!」
落ち着きなさいよ、私。
既に虚空を見据えて、同じ言葉を繰り返しているカナエは正気じゃない。
私の言葉も聞こえていなかった。
それならば、少し手荒な方法を取るしかないのよ。
私は焦る気持ちを何とか抑え込み、刺激しないよう静かに歩み寄る。
「もう、大丈夫だから」
カナエは敏感に反応して、尻餅をついてしまう。
私が近付くたびに後退りを試みるが、血溜りがそれを阻んでいた。
痛々しい光景だった。
カナエは私の陰に恐怖を見ている。
私が動けばそれも動くのだろう。
それでも私は、折れそうになる心を叱咤して、彼我の距離を縮める。
立ち止まっていては何もできない。
「あ、やだ―――ごめんなさい―――」
目の前まで来た私を見上げて、涙まで溜めている。
ごめんね……すぐ済むから……
私はカナエの頭に優しく手を乗せる。
カナエのそれに対する反応は、全身を震わせ、身を縮ませるだけだった。
意外と大人しくしている彼女を疑問に思う。
あれだけ錯乱していたから、払い除けられる事も覚悟していた。
その時は無理にでも押さえつけるつもりだったから、正直助かる。
しかし、より一層の怯えを含んだ表情が私の心を刺した。
「少し、眠りましょう」
今は自分のことに構っている暇はない。
私は優しい言葉に魔法を乗せ、眠りへと誘う。
カナエが抵抗できるはずもなく、静かに眼を閉じた。
そのまま後ろに倒れようとする体を、肩を掴んで支えてやる。
思っていたより軽い体が私の不安を煽った。
起きた時には正気に戻っていてくれればいいんだけど……
ここで心配していても仕様がない。
私はカナエを背負って、家へと引き返した。
―――貴女は、世話が焼けるんだから。
自分の部屋へと戻ってきてから、どのくらいの時間が経っただろう。
私は机にうつ伏せ、軽くまどろんでいた。
戦闘、カナエの異変、事後処理に看病……。
思っていたより、心身ともに疲れていたのかもしれない。
血に濡れた服を着替えさせてやり、私のベッドで眠るカナエ。
見ている限りでは偶に寝返りをうつだけで、発作のようなものもなかった。
「……ぅ……ん」
小さな呻き声がカナエから漏れる。
悪夢でも見ているのか、少し苦しそうにしている。
私は僅かに躊躇った後、声を掛けた。
「カナエ」
ぎりぎり届く声で、優しく名前を呼ぶ。
これで起きなければ、もう少し寝かせてやろうと思った。
しかしカナエは、ゆっくりと瞳を開いた。
そのまま何も喋らず、ぼんやりと天井を見つめている。
「……大丈夫?」
無用に刺激しないよう、穏やかに話しかけた。
恐る恐るといった方が近いかもしれない。
また錯乱されても、私にはさっきのように無理矢理寝かせる事しかできない。
「……あぁ……はい」
気だるげな声で返事をするカナエ。
まだ、意識がはっきりしていないのか。
横になったまま視線をあちこちに飛ばし、私と眼が合うと、のろのろと訊ねる。
「あの……ここは……?」
「私の部屋よ」
カナエが私を見ても取り乱す事はなかった。
私は胸を撫で下ろし、軽く息を吐く。
心配は杞憂に終わってくれた。
「―――ああ、そっか」
徐々に理解の色を示していく。
カナエは一言呟いた後に、視線を天井に移した。
そこに何を見ているのか、憔悴した瞳に戸惑いはほとんどない。
「貴女、憶えてるの?」
「はい、何となくですが」
「……そう」
私は短く言葉を切り、相槌を打った。
少しでも憶えていれば、自分が何故ここで寝かされているのかも想像がつくのだろう。
私がどんな存在かも、多少は知ってしまったのかもしれない。
まぁ、ここまできたら隠し通す意味も大してない。
明日……いや、正確には今日になったかな。
お別れする事になるんでしょうから。
「あの、アリスさん。……その、ごめんなさい」
カナエが謝る。
その言葉は外で聞いたものとは違い、しっかり私に向けられていた。
「何を、謝ってるの?」
「だって私、アリスさんの言う事を聞かなかったし、また迷惑も掛けてしまったから」
それは違うでしょ。
私がもっと事前に説明してあげていれば、貴女はきっと外に出なかった。
そうすれば今回のような事も起こらなかったはず。
他にも、私が妖怪を簡単に始末していれば……
でも何を言ったところで、カナエは自分の所為にしたがるだろう。
そういう性格をしている事は、もう知っている。
「いいのよ、悪いのは貴女だけじゃないから」
「違いま―――」
「いいって言ったでしょ。私にも反省させる余地を残しなさい」
少し厳しく言って、無理にでも納得してもらった。
そうしなければ、話しは平行線を辿ってしまうだろう。
それから暫くは、お互い何も喋らなかった。
やはり、外での事が重い空気を引きずっている。
そのことについて、私は何度かカナエに訊ねようかと思った。
しかし私が訊いてもいいことか、判断がつかないでいた。
「―――アリスさん、いつまでもお布団をお借りしてごめんなさい」
体を起こしながら、唐突にカナエが沈黙を破った。
「いいわよ。それより起きても平気なの?」
「はい……」
ベッドに腰掛けて、カナエは体のあちこちを探っている。
何か探しモノをしているようだった。
「あの、アリスさん、私のひもを知りませんか?」
やはりそれか。
ちゃんと拾っておいたけど、これは渡してもいいものなのか。
「あるけど、汚れてしまったわ。新しいの作る?」
「いえ、やっぱりあれが良いです」
私は躊躇いながら、カナエ用に作ったひもを取り出した。
「あ……」
白かった毛糸。
それは血に濡れて、私が持つものより更に赤く染まっている。
カナエも困惑と動揺、そして哀しみが混ざった声を漏らした。
「……やっぱり新しいの作りましょう?」
血で染まった毛糸なんて欲しがる訳がない。
私は毛糸の束に手を伸ばしながら提案した。
しかしカナエは首を振りながら、紅いひもを受け取る。
「これが良いんです。アリスさんに始めてプレゼントしてもらった物ですから……それに―――」
カナエは紅いひもを指に掛けながら、微笑んでいた。
「―――アリスさんと一緒が良いんです」
私の赤はもっと薄い色をしている。
でも、それは些細な事だった。
同じ赤という色に分別できれば、それで構わない。
「そうね。……これで、お揃いね」
私はカナエの正面で膝をつき、向けられた『あやとり』を取った。
「はい、お揃いです」
本当に嬉しそうに、私の手からも『あやとり』を取る。
またカナエの手から私が取ろうとしたところで、彼女は腕を引っ込めた。
怪訝に窺うと、カナエは手のひもを解いてしまった。
「どうしたの?」
「あの、アリスさんは他の『あやとり』も知りたいですよね?」
「まぁ、それはね」
「じゃあ、今からやりましょう。ゆっくりやるのでついてきてください」
カナエは少し横にずれて、私を隣に座らせようとする。
今からって、深夜も良いところなんだけど。
しかし、カナエがやる気になってるのに水を差すのも気が引ける。
「仕様がないわね」
私はカナエの隣に腰を下ろして、自分のひもを取り出した。
それを確認したカナエが、ひもをいつか教えてくれた基本の形というところまで繰る。
私も、それを見ながら少し遅れてついていく。
「アリスさんなら、口で説明しなくても憶えられますよね?」
「ゆっくりやってくれれば、何とかなると思うけど」
「それじゃあ、簡単なのからいきますね」
言葉通り、カナエは一つ一つゆっくりとひもを繰って見せてくれる。
何故口で説明しないのかは直ぐに分かった。
彼女は全く関係ないことを、話さなくてはならなかったから。
「私は、一人っ子だったんですよ。……これで『1だんばしご』です」
ひもを解いて、また始めから作り直す。
私も小さく相槌を打つだけで、後に続いた。
「お父さんもお母さんも働いていたから、結構小さな時から皆のご飯を作っていました。……『2だんばしご』です」
「他にも、忙しい二人の為にほとんどの家事をやっていました。……『3だんばしご』です」
「外は危ないからって、私、滅多に家を出る事もなかったんです。……『4だんばしご』です」
「偶に外に出た時は大抵夜で、よくお酒を買いに行きました。……『5だんばしご』です。6だんはできましたよね」
「え、ええ」
懐かしいものでも見るかのように、カナエはその時の事を話してくれる。
その内容を聞く限りでは、良い思い出と呼べるものではないだろう。
しかしカナエに、辛い過去を話すような素振りはない。
私には生活無能力者とも思える両親なのに。
私も、どちらに相槌を打っているのかよくわからなくなってきていた。
「次は『はしご』以外のをやりますよ」
「待って、あなたの両親って―――」
「……いきますね」
私の言葉を無視して『あやとり』を始めるカナエ。
何故か私は疑問を引っ込めて、カナエの手の動きについていってしまう。
「私って不器用だからよく怒られて、泣いちゃったりしてました」
……カナエはどちらかと言えば器用な部類に入ると思うんだけど。
私の基準とカナエの基準はそんなに違うのかしら。
「でも、お母さんは『あやとり』を教えてくれたりして、とっても優しいんです。……これで『あみ』です。ここを外すと『おこと』になります」
「……本は誰に買ってもらったの?」
「それもお母さんに買ってもらったんですよ」
じゃあやっぱり、優しい両親で正しいのかしら?
カナエはどんな内容でも嬉しそうに話すから、判断が付けにくい。
「他のが気になるならこれを見て練習しなさいって、貰ったんです」
「……」
「家事以外碌にすることもなかったから、凄く嬉しくって、とっても練習しました」
嗚呼、そうか。
……どうしてカナエが親に不満を持っていないのか、大体想像がついた。
「貴女は友達っている?」
「……いえ」
やっぱり。
外出が許されてなく、偶に外に出れた時は夜。
こんな子供が友達を作れる筈がない。
そして友達がいないという事は、比べる対象も持っていないということ。
そこに不満は生まれない。
仮に不満があったとしても、比べるものがなければ現状を当たり前として納得し、受け入れてしまう。
理不尽な事を理不尽とも思わず、怒られる時は素直に怒られる。
真実、カナエにとって両親との記憶は良い思い出でしかないのだろう。
「でも、お母さんもお父さんも居たから、寂しくはなかったんです」
「……そう」
カナエが本当に寂しいという感情を理解できていたのかすら怪しい。
そんな思いが芽生える隙なんて、本当にカナエにあったのかしら。
「あ! 今度は『1人あやとり』っていうのしますね」
「はいはい」
「これは1人で何度も繰り返し出来るんですよ」
「……」
カナエはたくさんやってそうね、とは訊かなかった。
そんな事、訊かなくても判るから。
「…………」
「どうしたの?」
カナエは言ったきり、手も口も止めてしまった。
「……一歩、だったんです」
そして自分のひもをじっと見て、ぼそりと呟いた。
その手はゆっくりと確実に、ひもを繰り始める。
あれ程楽しそうに話していたのに、今は違った。
カナエが抱えているのは多分、後悔と自責の念。
「一歩……何となく踏み出してしまったら……」
「カラダは勝手に動いてしまって……」
「気付いたら私は包丁を握っていて……」
「お母さんもお父さんも私をじっと見つめていて……」
「でも全然動いてくれなくて……」
「それで、全部が赤いんです!」
「私はあんな事したくなかったのに!」
「私は唯、一緒に居られればそれだけで良かった筈なのに! それなのに何で!」
カナエは『あやとり』を繰るのも忘れて、私を見る。
訴えるような視線が私と重なる。
激情に駆られた瞳が私に答えを求めていた。
「カナエ……」
「私は……もうどうしていいか判らなくて、怖くって、泣きながら逃げたんです!」
カナエはきっと、両親に耐えられなくなっていたのだろう。
外でカナエが錯乱していた時、私を見てはいなかった。
あの時私が大きな声で呼んだから、両親に怒られていた時の事を思い出したのかもしれない。
そうだとしたら、なんて哀しい。
カナエは、只管に謝る事しかしなかった。
私が頭に触れた時さえ、恐がるだけで大人しくしていた。
カナエは表層では両親と一緒に居たいと思いながら、その実、解放されたがってもいた。
推測の域を出ないが、大きく間違ってはいないと思う。
「……それを私に聴かせて、貴女はどうしたいの?」
しかし私は冷たい声で、突き放した。
もう、カナエに肩入れしたくなかった。
だってもう直ぐ別れなくてはならない。
推測を語っても、私はカナエに何もしてやれない。
それに、これ以上カナエと距離を詰めれば、私がカナエを壊してしまう。
そうしたがっている自分が、私の中にいる事に気付いてしまったから。
「……判りません」
さっきまでの激情が嘘のように、カナエは呟いた。
視線も手元に戻して、俯いてしまう。
「アリスさんに叱って欲しいのか、同情して欲しいのか、それとも慰めて欲しいのか……よく分からないんです」
「じゃあ、どうして?」
「もう自分一人でいるのは辛くって、怖くって、寂しくって。誰かに私を知って欲しかったのかもしれません。それにアリスさんは優しいから―――」
そうね。
私はこのままカナエに優しければいい。
カナエもそれを望んでくれている。
まだ大丈夫だから、私も貴女には優しい私のままで居てあげたい。
「カナエ、もう疲れたでしょ。少し休みなさい」
「……はい、そうしますね。あの、聴いてくれてありがとうございました」
「いいのよ。それより、このまま私のベッドを使ってくれても構わないけど?」
「あ、平気です。でも、一つだけお願いしてもいいですか?」
「何?」
カナエは立ち上がり、振り返る。
そして申し訳なさそうに、少しだけ照れながら言った。
「あの、アリスさんが使っているひも、今だけ貸してくれませんか?」
「別にいいけど、どうしたの?」
「えっと、持って寝れば、一緒に居られるような気がするから……です」
顔を赤くしている。
もう何度も見た顔だった。
「それなら、涎で汚さないでね」
「そ、そんな事はしません」
変わらないやりとりをして、カナエに赤いひもを渡してやった。
カナエはそれを大事そうに抱えて、部屋を出て行く。
「本当にありがとうございました。おやすみなさい」
深々と頭を下げる丁寧さに、苦笑してしまう。
「ええ、おやすみ」
私が短く言うと、カナエはドアを閉めた。
私はベッドに腰掛けたままでいた。
カナエが隣室に入る音を聞いてから、まだほとんど時間は経っていない。
いろいろあったから、直ぐに眠りに着けると思っていたんだけど。
困った事に余り眠くないのよね。
そろそろ朝になってしまう。
「ちょっと、整理した方がいいわね」
徹夜の一回や二回は慣れている。
魔法の研究中はそのぐらい平気でやっていた。
整理する事柄はカナエの事……ではなく自分自身の気持ち。
今まで意識していなかったのに、急に気付かされてしまった。
「いつから? ……って、決まってるわね」
私は顔を抑えて、二度三度首を振る。
気付いたのはついさっきだけど、兆候は始めからあった。
カナエと始めて出会った時から、私はカナエに興味があった。
その時は着ている服に注意がいってたけど、似たようなものね。
翌日からカナエが働いてくれて、私の仕事は減った。
「あんまり熱心にやりたがるもんだから……」
溜息混じりにぼやく。
退屈だったけど、楽ができて、便利だと思った。
私がやらせていれば、文句を言うこともない。
しかし同時に、何故そこまでやりたがるのか気になってしまった。
問いただしてみたら、カナエはとても珍しい生い立ちをしている様だった。
「興味があって、気になって、そしたらやっぱり珍しいもので―――」
その後、暫く一緒に居ることになってるけど、今の生活も悪くない。
カナエは不満も言わず家事をやってくれるし、からかえば楽しい。
よく言うことも聞いてくれた。
「―――便利で、文句も言わない。……それに楽しいのよね」
やはり誤魔化しようもない。
それどころか、今まで自覚せずに過ごしてきた事に驚いてしまう。
相手が人間だったからだろうか。
明確な意思を持ったものが……私の癖の対象になるなんて。
気付くきっかけは、カナエの話を聞いてる辺りだろう。
カナエは表層と深層で逆の事を考えていた。
それは、私も同じだった。
でも、私は最後までカナエの面倒を見てやろうとしていたのだから……
「きゃっ!」
突然隣の部屋から床を叩くような音がした。
考え事に集中していたから、そんなに大きい音でもないのに驚いてしまった。
カナエはとっくに寝たものと思っていたけど。
家具でも倒したのかしら?
って、あの部屋には机と椅子とベッドしかないのよ。
そう簡単に倒れるようなものなどない。
私は気になり、様子を見る為に自分の部屋を出た。
「カナエ、大丈夫?」
扉をノックしつつ、声を掛ける。
返事はなかった。
「―――入るわよ?」
嫌な予感がする。
私は扉を叩く手を強めながら、ノブにも手を掛けた。
しかし鍵が掛かっていて、乱暴に回してもびくともしない。
「ちょっと、カナエ!?」
やはり返事も、中で動く気配すらない。
予感が膨らむ。
ああもう、こうなったら実力行使で入ってやるわよ。
狭い廊下の壁まで後退する。
私は、軽く勢いをつけた前蹴りを扉に見舞った。
目論見どおり蝶番ごと扉は吹っ飛んだが、気にする必要はない。
どうせ私の家だ。
後で直せば良い。
私は部屋に眼を向けて、中の状況を確認す…………
「か、カナ、エ?」
瞳に涙をいっぱいに溜めたカナエと、視線が交錯する。
そのまま、頭の中が真っ白になった。
頭では理解している筈なのに、心が受け入れようとしない。
カナエから眼が離せない。
だって、だって……
カナエが宙に浮いている。
苦しそうに口を開いている。
何か話そうとしているのに、ちっとも形になっていない。
『見ないで』と必死に訴えている。
何が、何で、何故、どうして?
有り得ない。
意味がわからない。
何だあの、赤い紅い二本のひもは?
どうしてそんな物がカナエの首に巻きついている?
どうしてそんな物に吊るされなければ―――
「カナエ!!」
受け入れた瞬間、私は弾けた。
駆け寄りながら、魔法で宙へと縛り付ける戒めを焼き切る。
重力に引かれてカナエが落ちてくる。
私はカナエを抱きとめ、そのまま手を振りかぶって……
「この、馬鹿!」
罵声と同時にその頬を……叩けなかった。
私に果たして、殴る資格があるのだろうか。
私だって、カナエを壊そうとしていた。
それは今も変わらず、私に中に潜んでいる。
そんな私が、カナエを叱る事ができるのだろうか。
私の手の中で、カナエは怯えた瞳に涙を溜めて、私を見上げていた。
駄目だ、できる訳がない。
私は振り上げた手を背中に回して、きつく抱きしめた。
「……ぁ!」
直ぐ側で驚く声が聞こえたけど、気にならない。
殴れない私ができる事は、抱きしめてやる事だけだった。
「どうして、どうしてこんな馬鹿な事したのよ?」
「…………あったかい」
カナエも私の背中に手を回し、私を求めてきた。
瞳を閉じて、私の胸に顔をうずめている。
それはとても幸せそうで、穏やかなものだった。
「カナエ……」
そんな顔を見ていたら、問いただす気も失せてしまった。
そのままカナエの髪を何度も何度も撫でてやると、私の中で気持ち良さそうに表情を緩ませる。
こうしていると、私も安心できた。
カナエの存在が確認できて、守っている実感が沸く。
「もう、誰とも別れたくないの」
カナエは抱きついたまま、ゆっくりと口を開いた。
「別れなくちゃいけないのなら、誰にも会いたくないんです」
「独りぼっちはイヤだから、アリスさんのも使えば、いつまでも一緒に居られる気がして」
だから私のひもまで使って、自殺しようと思ったのね。
私は回した手に力を込めて、しっかりとカナエを感じる。
良かった、この娘を失わずにすんで。
「死にたくなるほど、私と離れるのはイヤなの?」
私の中で、カナエは静かに頷いた。
多分私に限らず、別れる事になるのが怖いのだろう。
出会ってしまえば、いつか別れる時は必ず来る。
その出会いさえも、カナエは否定している。
「アリスさん、私はどうすればいいんでしょう?」
「それは、カナエが自分で決めることよ」
私には、そう言うしかなかった。
カナエの前では優しい私で居続けたい。
しかし今の私に決めさせたら、絶対に癖が出てしまう。
ここまで大切に守ってきたものを、自分で壊すことになる。
既に私は、カナエと距離を詰めすぎている。
後一押しでもされたら……
もう自分を抑える自信などなかった。
「できません」
「何故?」
「……お願いします、命令して下さい。アリスさんの命令ならどんなものでも大丈夫です。このまま里で暮らしていけと言われれば、そうできます」
そうだった。
カナエがこの手の話を自分で決められる筈がない。
カナエは以前、自分から動いてしまって大切な人を失っている。
きっとそれまでは、何でも命令されていたのだろう。
素直に聞いているうちは、何事も無かった筈だ。
でも無意識だったとはいえ、自分から動いてしまったが故にカナエは失ったのだ。
そのトラウマがあるうちは、命令されなければ前にも後ろにも進めない。
代わりに、命令があればどんな事でもできるだろう。
それは、私のしたいようにもできてしまって……
「私……私は……」
声が震える。
私の戸惑いをどう見たのか、カナエは私の服を掴むように抱きついている。
視界の端では、赤と紅のひもが寄り添い合っていた。
嗚呼、カナエは一歩踏み出してしまったら、と言っていた。
その一歩が、こんなに軽いものだったなんて。
「……アリスさん?」
「私は、貴女が、カナエが欲しいわ」
「え?」
カナエが驚いたように私を見上げる。
とうとう、言ってしまった。
最後の一押しは本当に簡単なものだった。
『アリスさんと一緒が良いんです』
カナエのそんな些細な一言を思い出したら、自制など効かなくなっていた。
「それは……お嫁さんですか?」
「カナエはそれが良いの?」
「アリスさんがそう言ってくれるのなら」
頬を朱に染めたカナエと、視線が重なる。
ええ、それでも良かったかもしれないわね。
でも、これまで抑え続けてきたからだろうか、そんな中途半端な形では我慢できなかった。
「私はカナエの全部が欲しい……」
「カナエが映す色、カナエに届く音、カナエの持つ感覚……」
「過去も現在も未来も……」
「貴女の魂や心、感情や記憶でさえも……」
「貴女が持っているもの、これから持ち得るもの……」
「その全てを私のものにしたいのよ」
優しい私を脱ぎ捨てた、自分の本性。
気に入ったものは全て手に入れたくなる、蒐集癖を持つ略奪者。
優しいなんてものはとんだ虚像で、エゴの塊だ。
だからカナエ、私を否定して。
そうすれば、きっと私は貴女に興味を失くすから。
「どうして、そんなに辛そうにしているんですか?」
「カナエは恐くないの?」
カナエは私の告白に恐れることなく訊ねてくる。
「少しだけ。でも、それはアリスさんの中にずっと居られるという事ですよね?」
淡い期待だという事は解っていた。
カナエは素直に受け入れてしまうだろう。
だってこれは私の命令だし、カナエにとっては一番望んでいる形なのだから。
それに何でも言う事を聞いてくれるから、私は欲しくなったのだ。
「ええ。貴女は全てを失う代わりに、私と一緒に在り続ける事になるわ」
……あっ! 何で私はこんな事を言ってしまったの?
本当の事を言う必要などなかった。
嘘を吐けば、言う事を聞かなかったかもしれない。
「アリスさん、私は―――」
「待って、まだよ。まだ私は言ってないわ」
まだ、私は自分の気持ちを全部言っていない。
優しい私でいようと、そう思った気持ち。
それだって、間違いなく私だ。
それをカナエが聞く前に、答えてもらう訳にはいかない。
そんなのでは、私が納得できない。
「カナエ、私はね、貴女には幸せになって欲しいのよ」
「私なら貴女を守って、幸せにできると思っている……いいえ、してみせる」
「貴女が好きだから、そうしてやりたい」
「だから、だから―――」
自分の蒐集癖に気付く前は確かにこう思っていた。
いえ、今だってカナエには幸せになって欲しいと思っている。
この言葉に嘘偽りはない筈なのに。
私はカナエの幸せを壊してでも、自分の所有物(もの)にしたがっている。
でも、だから……
私は次のカナエの答えに期待している―――期待していない。
私は肯定する返事を聞きたい―――聞きたくない。
私はきっと喜ぶ―――喜ばない。
二律背反、矛盾、どっちが本当の私?
知っている、どちらも同じ私だ。
だからこそ、判らない、解らない、分からない、ワカラナイ。
私は一体カナエになんて言って欲しいの? なんて言わせたいのよ!
「そんなに、辛そうにしないで下さい。アリスさんに必要とされている、その事だけで私は十分幸せです」
「―――カナエ?」
思考の闇に沈んでいた私を引き上げてくれたのは、気遣うカナエの声だった。
カナエは憂いの無い瞳で、私を見ている。
「それにアリスさんのものになれば、もう離れることなくずっと一緒に居られるんですよ」
「違うわ。私の所有物になったら、貴女の意思はいらなくなってしまう。それが私の理想だから」
「それなら、もう寂しい思いもしなくて済みますよね?」
「そういう感情も、不要になるわ」
「寂しくもなくなって、アリスさんはずっと側に居てくれる―――私には贅沢すぎるぐらいです」
「……」
「だからアリスさん、私を気に病まないで下さい。できれば、微笑っていて欲しいです」
カナエはまた私の中に潜り込んだ。
眼を閉じて、幸せそうにその時を待っている。
「―――ぁ! ぁーーーーーーーーーーーーーーー!!」
私は咆えた。
カナエを精一杯抱きしめて、声にならない声で。
全て吐き出す為に。
私の心は決まってしまった。
この決断に、後悔は許されない。
だからもう迷いや葛藤は邪魔だ。
そんなものがあったら、微笑える筈がない。
そして、カナエにはちゃんと説明しなければならない。
それがカナエを奪う、アリス・マーガトロイドの責任だから。
「カナエは私の事を、よく知らないわよね?」
「……優しい魔法使いさん、が良いです」
もう解っていたか。
「前半は間違ってるけど、後半は合ってるわ」
「いいえ、全部合ってますよ」
変なところで譲らないのね。
「この世界は幻想郷。妖怪が跋扈する、力のない人間には危険な所よ」
「平気です。アリスさんが側にいてくれるから。でも、できれば私もアリスさんの力になりたいです」
ええ、一緒に頑張りましょう。
「私も人間ではないの。そうね、人妖かな」
「魔法使いさんですよ」
その通りだけど、多分誤解してる。
まぁ、その辺はいっか。
……口にすれば、こんなに簡単に済んでしまった。
カナエに隠している意味なんてなかったのかしら。
「じゃあ、その魔法使いさんが貴女に魔法を掛けるから、ちょっと説明するわね」
「はい」
「効果は今まで貴女に話したとおり、貴女の全てを奪う代わりに私と共に在り続けてもらう」
こく、と胸の中で頷く。
「持続時間は…………永遠よ」
カナエが私を抱く手に力を込める。
私は優しく髪を撫でながら続けた。
「だって、これは私と貴女を繋ぐ魔法」
「場所、時を超えて、いつまでも切れない糸を結ぶ」
「二人が朽ち果てようとも終わらない」
「呪いの契約だから―――」
これは二人が求めていた幻想(ゆめ)。
他に思い描く場所なんてなかった。
「怖い?」
「……いえ…………大好きです」
カナエは、微かに震えていた。
だから、想いを届けた。
最期に、微笑みながら、額に口付けて―――
「―――ぁ」
「私も、大好きよ」
ねぇ カナエ
貴女の名前も貰うわね
カナエ―――とても素敵な名前
絶対に失くさない 誰にも渡さない
今から 貴女の名前は『首吊り――――』
それだけに、別れを拒むために2人のとった選択はどこか歪で、否定したい気持ちがあるのですが
2人はきっとしあわせで、彼女達が求めた幻想なんだ……と、思うとなんとも言えない気持ちになりました。
どうか2人の糸は切れないで欲しいと願います。
最後に、貴方の書く東方キャラとオリキャラの交流はとても好きです。