―――カナエが幻想郷に来た理由を知った、その翌日。
「アリスさーん。お掃除終わりましたー」
「ん、お疲れ」
「あれ? 何してるんですか?」
「……見ての通りよ」
戻ってきたカナエの疑問に、簡単に答えてやる。
今日の私は昨日と違い、暇を持て余してはいなかった。
これも今の生活を支える為である。
昨日はしなかったが、やらなければならない事、それに手をつけていた。
「えーっと、服を作ってるように見えます」
「―――本当に?」
「あ、違うんですか? それだとよく分かんないです」
「いいえ、正解よ」
今日も雪が降っているので外には出られない。
それに加えて、カナエが家事のほとんどをしてしまう。
その結果、私は内職しかする事がなくなっていた。
……ああ、他にもあるわね。
カナエをからかうのも重要な仕事だったわ。
そんな私の家事場泥棒さんは、ご機嫌斜めだった。
「アリスさんて、本当に……」
「私がどうしたの?」
「いいえ、何でもないです」
「そう、変な子ね」
うぅー、と唸りながら私を睨むカナエ。
そんな心地良い視線を浴びせられても、私には内心で笑みを作ることしか出来そうにない。
心の中で微笑んでいると、彼女の機嫌がまた少し傾いた。
あら、顔にまで出ていたのかしら?
しかしカナエは溜息を吐くと、私の笑みには何も触れなかった。
傾きすぎて、一周して、機嫌が良くなった?
「―――誰の服を作ってるんですか?」
「はぁ。あなたは昨日の食べ物がどこから沸いて出てきてると思ってるの?」
「えっ! それじゃあもしかして」
「そう、ここからよ」
口を開けたまま驚いていた。
そんなに驚く事もないと思うんだけど。
まさか、私が狩猟生活でもしていると思っていたのだろうか。
「私は狩り―――」
「ふふ、カナエ。思っても口には出さない方が良い事もあるのよ。
それが例え、冗談だとしてもね」
「あ、ごめんなさい」
まったく、酷い勘違いだ。
「ほら、前に言ったでしょ。私が良く行く里があるって」
「はい、そこまで私を連れて行ってくれるというのは訊きました」
「それは雪が止んだらね。私はその里に洋服とか手提げとか、いろいろ持って行ってるのよ」
「えっともしかして、最初から最後まで全部アリスさんのお手製ですか?」
「生地や糸以外はね」
私が作った物は、他の物と比べて少しだけ丈夫に出来ている。
理由は簡単、魔法で補強しているから。
偶にデザインが良い、と言って買ってくれる人もいるけど。
殆どの人には長持ちするといわれて喜ばれていた。
まぁ、真剣に魔法で補強すれば、多少のことじゃ傷まないようにする事もできる。
しかし、今のところそこまでする気は微塵もない。
取り替える必要がなかったら、皆買いに来なくなってしまう。
親切心で自分の首を絞めるのも莫迦らしい。
「す、凄いですね。やっぱりアリスさんは、私なんかより全然しっかりしてるんですね」
「当たり前でしょ……っと言いたいところだけど。
しなければしないで、私が干上がっちゃうから。やらない訳にはいかないのよ」
「それでも凄いと思います。できれば私もお手伝いしたいんですけど。
服なんて作った事もないし、アリスさんのように器用でもありませんから。
きっと足引っ張っちゃいます」
「こればっかりはね。……そうそう、お掃除は終わったのよね。
取り敢えず夕飯までする事ないから、休んでて良いわよ」
「はい。じゃあ、見させてもらっても良いですか?」
「そのぐらい別に構わないけど」
カナエは向かいの椅子に腰掛けた。
そのまま笑顔で私の手の動きを追っている。
正直見ててもそんなに楽しいものじゃないと思う。
彼女が楽しいのならそれでいいか。
「あの、アリスさん。私を案内してくれるという里には、よく行くんですよね?」
「ん~、そうね。他の所に比べれば割と多いわ。
それでも私は出歩く事が少ないから、頻繁に通ってるとは言い難いけど」
興味深げに眺めていたカナエは、突然不安そうに訊ねてくる。
私はその質問の真意を今一計りかねた。
私が里に行かないと、何か不都合でもあるのだろうか?
「じゃあ、私を送ってくれた後も、また会えますよね?」
ああ、そういうことか。
もう二度と会えないんじゃないか、と不安だったらしい。
私はまだ、カナエに自分が魔法使い―――人間ではないという事を話していない。
その事を知ったとき、彼女がどんな反応を私に示すか判らないからだ。
今までと変わらず私に接するのか。
それとも恐れや嫌悪感を持って私を避けるのか。
「貴女さえ会いに来てくれれば、会えるわよ」
私はカナエに自ら正体を明かす気はなかった。
それは私の事を知って、尚付き合ってくれている里の人たちが教えるだろう。
その時に彼女が―――カナエ自身が判断すれば良い
無理に今の関係を壊すようなことをしても、何の意味もない。
でも、私としては…………
「絶対に会いに行きます。だから、絶対来てくださいね」
「ええ、そうしてくれると私も嬉しいわ」
その後、暫くは緩やかに時間が流れた。
私は自分のしている事に集中しているし。
カナエも楽しそうに私を見ている。
特に変化はなかったけど、穏やかな一日だった。
―――その翌日。
「アリスさーん!」
「どうしたの、そんなに慌てて?」
私は洋服作りの手を止めて、廊下から姿を現したカナエを見る。
カナエは珍しく興奮しているようだった。
彼女は私がからかうとき以外、そんなに慌てたりしない。
それが廊下から駆けてきたのだから、ただ事じゃないのかもしれない。
……かと思ったら、大したことではなかった。
「ゆ、雪が止みましたよ」
「ああ、なんだ、そのことね」
「あれ? なんでそんなに反応が薄いんですか? 手を取り合って喜んだ方が良いのかと思ってました」
「―――それはやりすぎ」
今日の午前中まで降り続いていた雪が、午後になって、遂に止んでくれた。
それ事態は確かに嬉しい事なのだが。
「ちょっと……いえ、本当は凄く寂しいんですけど、これでお別れです」
「そう言うのなら、後一日二日ぐらいなら居ても良いわよ」
カナエは私の言葉に、今までの決意を揺らがせる。
それでも結局、直ぐにここを出て行くことを彼女は選んだ。
それはとても勇気のある、悪くいえば無謀な挑戦ともいえるだろう。
「やっぱり、これ以上は迷惑を掛けられません。里まで、案内してもらえますか?」
「うん、きっぱりとイヤ」
「えっ! で、でも」
私は満面の笑みでお断りした。
飛ぶのならいざ知らず、こんな時にカナエに付き合って歩いて行く気には到底なれない。
カナエはどうして良いか分からず、おろおろしていた。
まさか私に断られるとは思っていなかったらしい。
「いいから一度外に出てみなさい。それでも行きたいというのなら、道ぐらい教えてあげるから」
「は、はい。わかり、ました」
カナエは頭にハテナを乗せて玄関に向かった。
それを見送ると、私はまた作業を再開させる。
直ぐに戻ってきたカナエの答えは、分かっていた。
「どう?」
「私の背丈ぐらいありました」
「貴女は私より小さいからね」
「一人ではしゃいで、何だか私莫迦みたいですね」
そんな事を言いながら、向いの椅子にちょこんと腰掛けるカナエ。
随分落ち込んでいる様だった。
何も考えずに喜んでいたから、余計恥ずかしいのだろう。
少しぐらい慰めてあげようかしら。
「カナエ、自分の事を余り悪く言うものじゃないわ!」
「あ、はい、ごめんなさい」
「私は貴女のそういうところが大好きなんだから。
それをカナエが否定したら、私に失礼でしょ?」
「うぅ、アリスさん。フォローする気全然ないんですね。
それにそんなところ好きにならないで欲しいです」
私の思い切った告白を聞いたカナエは、もっと落ち込んでしまった。
せっかくあんなに恥ずかしい言葉まで使ったのに、勿体無いわねぇ。
「それでどうするの? 約束通り、道教えましょうか?」
「ごめんなさい。多分、五分で遭難しちゃいます」
「五分で家の庭から出られるのかも怪しいけどね」
「きっと無理だと思います」
雪はカナエの身長ほども積もっていた。
それを除雪しながら進んだら、絶対に森を抜ける前に力尽きる。
そんな訳で、雪が溶けるまでもう何日か、カナエは泊まっていくことになった。
もし、その間にまた雪が降ったら……
その時は、私が飛んで運ぶしかなさそうだった。
私の正体はそれでばれるけど、これ以上ぐだぐだやるのは面倒臭い。
後、食料事情。
「そういえば、何でこの家の周りだけ雪が積もってないんですか?」
「私が頑張って雪掻きしたから」
直ぐにばれる嘘だった。
カナエの言うとおり、家とその周りには雪が積もっていない。
それも途中から、区切られるように綺麗になっているはずだ。
それを見てきたカナエは『本当ですか?』、と視線で訴えてくる。
「前に少し説明したでしょ。ここでは貴女の常識は通用しないって」
「あ、そうでした! 何だか魔法みたいで吃驚しました。
アリスさんは雪掻きが上手いんですね」
「それは嘘だから」
見当外れなことも言ってるけど、しっかり核心も突いてきていた。
カナエは案外鋭いのかもしれない。
それとも、幻想郷のことを何となく理解しているのか。
彼女は妖怪に攫われて来た訳ではない、所謂(いわゆる)異端である。
いえ、異端じゃないわね。
珍しい事は変わらないけど、幻想になったのなら、これは当然の現象だ。
自然とこちらに来てしまったカナエは、普通より馴染みやすいのかもしれなかった。
「そう、なんですか?」
「私が雪掻きしてるところ、想像できる?」
「えっと、ちょっと難しいです」
「でしょ? だからこれからはカナエが雪掻き担当ね」
「あ! じゃあ、かまくら作ってもいいですか?」
「本気で雪掻きをしようとしているところは好感触だけど、かまくらなんて作れるの?」
カナエに冗談はなかなか伝わらない。
だからからかうと面白い。
しかし、逆にそれが彼女の強みでもあった。
偶に恐ろしい事を平気で口にする。
「外への扉を開けたら、かまくらでした!」
「貴女……どこに作るつもりなのよ?」
「玄関とかまくらが合体してたら、わくわくしませんか?」
「それって、単に出入り口を塞いだだけでしょ」
「違いますよ。かまくらです。
中でお餅食べたり、炬燵に入って蜜柑を食べたりするんです」
「雪掻き、しなくていいわ」
投げやりになりながらも、カナエに雪掻きはやらせない方がいいと判断した。
きっと、玄関をかまくらで塞いだ後のことまで考えていない。
それに、かまくらの中で炬燵に入ってどうするのだろうか?
家に炬燵はないから実現不可能なのだが。
でも、その構図が絵になるような気がして、何だか悔しい。
「……かまくらだけでも、作ってきていいですか?」
「落ち込んでる理由は何となく想像できるけど、それが一番駄目よ」
「アリスさんにそこまで言われたら、仕方ありません」
「そうよ、雪が積もったぐらいで駆け回らないでね」
「私、犬みたいにはしゃいでいたんでしょうか?」
「ここに駆け込んできたじゃない」
それに対するカナエの反論はなかった。
一応事実だし。
……あら?
何かおかしいわね。
さっきの会話、不思議とすんなりいってしまった。
もっと私たちの会話は支離滅裂になるのが基本なのに。
…………ああ、成る程。
私が揶揄した事を、カナエが珍しく分かってくれたのだ。
嬉しい事ではないけれど、少しばかり感動した。
「カナエもやればできるじゃない」
「え、何がですか?」
カナエはカナエだった。
私はガクリと肩を落とす。
期待していたつもりはなかった。
それでも、涙が出そうだった。
「大きくなれば、貴女にも、きっとわかる日がくるわ」
「あ、アリスさん、泣いてるんですか!?」
「この涙の意味も含めて、いつかわかってくれる日が来ることを祈ってるわ」
「あの、どこか痛い所でもあるんですか?」
私はどこの子供よ。
「強いてあげれば、貴女かな」
「私が……痛いんですか? 何ともありませんけど」
まぁ、理解できるはずがないわね。
そろそろ、どっちが主導権を持っているのかわからなくなってきたわ。
傍(はた)から見たら、私まで滑稽に映るんじゃないかしら。
「カナエ、貴女に罪はないけど、もっと頑張りなさい」
「は、はい。努力してみます」
大丈夫、カナエにもきっとわかる日がくる。
本当は絶対に無理だと思ってる。
でもそんな気持ちを押し殺して、私は貴女の成長を諦観しながら待ってるわ。
ええ、今のままでも十分魅力的だわ。
って、私まで無茶苦茶に……
「ちょっと冷静に―――いえ、集中したいから、静かにしてくれる?」
「あ、ごめんなさい。迷惑をお掛けして」
自分を落ち着けるために、無理矢理カナエに黙ってもらった。
彼女が悪いわけではないが、申し訳なさそうにしている。
少し悪い事をしてしまったかもしれない。
後で、お詫びに紅茶でも淹れてあげましょう。
私は微妙な静寂の中、裁縫に集中することにした。
近々、今作っている服も完成する。
「ぁっ!」
そんな時だった。
向いで今まで静かにしていたカナエが、小さく声を上げる。
「ん、どうしたの?」
「あ、ごめんなさい。何でも、ないです」
彼女はまだ、さっきの事を引きずっていた。
私に謝ると、俯いてモジモジしている。
そんなにきつく言ったつもりはなかったけど、カナエには堪えたらしい。
落ち込んでいるところを見るのも、あまり気分のいいものではない。
もう少し打たれ強くなって欲しいものだ。
「いいから言ってみなさい。気になるじゃない」
「はい。じゃあ、その、毛糸を少しもらってもいいですか?」
「毛糸?」
テーブルに準備しておいた、二つの毛糸。
鮮やかな赤と、汚れのない白。
綺麗な色だけど、特に珍しいものではなかった。
私も偶にしか使っていない。
今日も用意しておいただけで、使う事はなかった。
「はい。えっと、両手を広げたぐらいの長さでいいんですけど」
「別にそのくらい構わないわよ。色はどうするの?」
「白い方が、好きです」
「わかったわ。ちょっと待ってね」
カナエに言われた通り、長さを測って渡してやる。
「……どうぞ。でもこれだけでどうするの?」
「えへへ、楽しい事です」
おもちゃを貰った子供のように喜ぶカナエ。
実際カナエは子供だし、そのまんまかな。
意外と簡単に元気を取り戻してくれて安心した。
私は嬉しそうに毛糸を弄るカナエを確認してから、また作業を再開させる。
幾分、ここの空気も軽くなったような気がした。
それから、暫くの間没頭していた作業にも、漸くキリが付く。
今日はこのぐらいにして、一息入れましょう。
夕飯の時間にも早いので、カナエに紅茶でも入れてあげようと思い、顔を上げ……。
「ちょっとカナエ、何してるの!?」
顔を上げたその向こうには、私の理解不能な世界が広がっていた。
はっきり言って、どう対処していいのかもわからない。
正気か、この娘は?
「んんんん、んん」
「いいから離しなさい。『ん』しか言ってないわよ」
カナエは両手に毛糸を引っ掛け、その中心を咥(くわ)えていた。
そんなにお腹が空いていたのかしら。
私は、いつもしっかり食べているものだと思っていた。
その思い込みが、毛糸を貪るところまで追い詰めていたなんて。
「ぷはぁ」
「悪かったわねカナエ。お腹が空いてるのなら何でも言って」
「え? 全然そんなことはないですよ」
楽しそうに微笑みながら、毛糸を口から離した。
お腹は空いていない?
他に、毛糸を咥える理由なんてあるのだろうか。
「じゃあ、さっきのは?」
「あぁ。あれは『あさがお』です」
「あさがお?」
ますます意味がわからない。
「……あの、アリスさんは『あやとり』って知りませんか?」
『あやとり』?
字面からすると、こんな感じかしら。
「文鳥ね。字を書く鳥の事でしょ? 主に人里近くに生息していると言われていて、渡りの習性はなし。だと言うのに、何故か見かけることはほとんどなく、幻の鳥とも言われているわ。中でも片翼を器用に動かして字を書く姿は非常に稀で、例え見る事ができたとしても、それを信じてくれる人なんてまずいないわ。逆に世迷いごととバカにされる事もあるから、口に出す時は注意する事ね。一説では、伝説上の生き物という意見もあるほどよ」
「……」
「ちょっと、何で笑いを堪えてるのよ」
カナエは肩を震わしながら、口元を隠している。
私の知ったかぶりは、大外れだったらしい。
途中から自然と嘘八百になったけど。
それでもカナエに笑われると、屈辱ね。
「ごめんなさい。でもアリスさんて、とっても器用なんですね」
「……何でよ?」
「だって、あんなにすらすら言葉が出てくるから……」
私の不機嫌さが伝わったのか、カナエは慌てて謝った。
それでもまだ、笑いの衝動は過ぎ去っていない。
字を書く鳥ぐらい、幻想郷にならいるでしょ。
多分妖怪になってるけど。
「悪かったわね。じゃあ『あやとり』って何なのよ」
「あ、はい、ええっとですね―――」
私が声のトーンを落とすと、やっとカナエも落ち着く事ができたらしい。
すると、渡した白い毛糸を凄い速さで繰っていく。
「―――これで、後は指を隙間に差し込んで、真ん中を口で引っ張れば、さっきの『あさがお』です」
言いながら、毛糸を口に咥えて私の方に向けてくれる。
ここまで本当にあっと言う間だった。
「ふ~ん、確かに言われてみれば『あさがお』に見えないこともないわね」
「ぷは。本当に知らないんですか?」
「ええ、始めて見たわ」
「あ! じゃあ、ちょっとだけ手、借りていいですか?」
私は言われるがままに、カナエに手を差し出した。
カナエはそのままでは届かないのか、身を乗り出しながら、私の手に糸を絡めて行く。
これは、カナエの反逆?
私を拘束しているようにしか見えない。
「黒魔術でも始めるの? 先に言っておくと、私の手はあげないわよ」
私は結構本気で言ったつもりだった。
だけど、カナエは笑ってそれを否定する。
ひょっとして、さっきから私ボケまくりかしら。
「違いますよ。見ててください―――えいっ!」
カナエは掛け声と共に、自分の手にも掛けていた糸のうち、小指だけを外した。
「あら? 外れてるわね」
「えへへ、成功です。何だか不思議ですよね」
私は心の中で感嘆していた。
カナエが魔法を使ったようにも見えないし、使えるわけがない。
何故、カナエの気の抜ける掛け声だけで、腕に通した糸が外れたのだろうか?
確かにいろいろと不思議だった。
「カナエにも、家事以外に得意なものがあったのね?」
実はこれが一番不思議だった。
「何でそこに驚くんですかぁ?」
そんな事を不満そうに言われても、それが正直な感想だ。
他にも、指の動きを見ていると案外器用に糸を繰っている。
こっちは家事をしている時からそんな節はあったから、どうということはない。
「『不思議ですよね』、て事は貴女もよく分かってないみたいだし」
「そ、それはそうですけど。でも、こうすればこうなるって事ぐらいはわかってますよ」
「へぇ~。まぁ、一応今のが『あやとり』て言うのね?」
「はい、他にもたくさんあるんですよ」
カナエはもっといろいろ訊いてくれ、と言わんばかりに私を見ている。
水を得た魚という表現がぴったりな状態だった。
「じゃあ、どんなのがあるの?」
正直に言うと、私もかなり興味があった。
嬉しそうにしているカナエも微笑ましい。
「はい!」
元気に返事をして、今度は自分の左手に糸を掛ける。
それを右手で取りながら、左手の指に掛けていく。
そして最後に、親指の糸を外した。
そこまでモノの数秒なのだが。
見ていて何となく分かったことがある。
カナエが糸を繰るのを早いのは、確かに器用なのもある。
でもそれ以上に、手馴れているのだ。
今までのも全て、考えながらやっているというより、手が勝手に動いているような感じがする。
たくさん練習して始めて、この早さが出るのだろう。
「アリスさん、ここの糸を引っ張ってみてください」
カナエは私に糸の絡まった――ようにしか見えない――左手を差し出す。
「……全力で引っ張ってみてもいい?」
「ふふ、良いですよ」
「何となくこれを引くとどうなるか想像できるわ。きっと、摩擦で燃えるわね」
「え!? あの、ごめんなさい。少し手加減してくれると嬉しいです」
「あらあら、仕様がないわね」
ゆっくりと糸を引いていく。
カナエの指に絡まっていた糸は、スルスルと指から抜けていった。
私もそろそろ、どうなるか読めてきた。
それでも不思議な事に変わりはないから、興味深い。
「なんと指から抜けちゃいましたー」
「うーん、やっぱり不思議ね」
「そうですよね。まだまだ一杯一杯あるんですよ!」
また、『あやとり』を始めようとするカナエ。
「ちょっと待って、カナエ」
「えっ?」
私が止めると、あれほど楽しそうにしていたカナエの表情が曇る。
極端から極端に走りたがる娘ね。
私はカナエにやめさせるつもりはないんだけど、そう取ったのかも知れない。
「そんなわかり易い顔しなくても、取り上げたりしないわよ」
「あ、はい」
「私もそれ、『あやとり』ができるようになるかしら?」
「えっ?」
好奇心から出た言葉だった。
それが、再びカナエの表情を曇らせる事になるとは思わなかった。
落ち込ませるようなことを言ったつもりなんてない。
それによく見たら、落ち込んでる顔じゃなかったわ。
「何でそんなに嫌そうなのよ」
「だって、アリスさんに教えたら、すぐ私より上手になっちゃいそうで」
そんな子供染みた理由なの。
「安心しなさい。いくら私でも、貴女より上手くなるのは当分先の話よ」
嘘でも冗談でもなく、本当にそう思った。
器用さは、カナエより私の方が上だろう。
それでも、カナエには積み重ねてきた練習量がある。
これを埋めなければ、カナエを上回ることはできない。
無理に超える必要は感じないけど。
「えへ、実は私もそう思います。『あやとり』だけは自身ありますから」
「へぇ、まさか貴女から、自身があるなんて言葉を聞けるとは思ってなかったわ」
「本当にこれだけですけどね」
カナエは少し恥ずかしそうにしながら、そう言った。
その事だけでも、『あやとり』がどのくらい好きなのかがわかる。
見たところ、カナエは三食『あやとり』でも生きていけるはずだ。
「じゃあ、アリスさんの分も作ったほうが良いですよ。一緒にやった方が憶えやすいです」
「わかったわ」
えっと、じゃあこっちにしようかな。
少し逡巡してから、私は赤い毛糸を選んだ。
適当な長さに切って、カナエのと同じように端を結ぶ。
「アリスさんは赤が好きなんですか?」
「そんなことないわよ」
「せっかくだから、お揃いが良かったのに……」
「私もそうしようかと思ったんだけど、真似してるみたいで悔しいじゃない」
「意地っ張りなんですね」
「ふふ、個性を出したかったのよ」
毛糸を渡してから随分強気になったわね。
それに、今の方が自然に振舞ってる気がする。
肩の力も抜けてきたようだ。
表情にも今までの固さは見えなくなってきている。
「な、何で笑うんですか?」
「可愛い顔してるなぁ、と思って」
「そ、そんなことないです!」
せっかく褒めているんだから、そんなに力一杯否定しなくても。
極度の照れ屋さんなところは相変わらずね。
「始めて会ったときと比べれば全然良いわよ」
「う、あ、でもアリスさんだって……」
「私?」
「凄く優しくて、温かいです」
「………………」
ちょっ、拙い。
自分でもしっかり顔が赤くなってるのがわかる。
カナエからこんな反撃がくるなんて予想もしてなかった。
私も褒められると弱かったのか。
それが何の悪意もない、純粋な言葉だからなのか。
妙にくすぐったくて恥ずかしい。
言ったカナエ本人も照れて俯いちゃってるし。
冷静にならないと。
私が落ち着かないと話が進まないわ。
「えーっと……この後はどうすればいいのかしら?」
「あ! はい。じゃあ簡単なのから」
強引に話題を『あやとり』に持っていく。
カナエも逆らう事なく、その流れに乗ってくれる。
相変わらず器用に繰って……
「ちょっと、待ちなさいよ」
「最後に小指を外せば『2だんばしご』です。って、え? 何ですか?」
「早すぎて何やってるかわかんないわよ」
「あわわ、ごめんなさい」
よし、カナエがボケてくれたお陰で落ち着けた。
その変わりに、カナエはますます焦ることになったが。
「はぁ。落ち着いて、もっとゆっくりやってくれる?」
「は、はい。えっとですね」
「……ほら、深呼吸して」
胸に手を当てて、大きく息を吸って吐くカナエ。
それを何度も何度も繰り返している。
「……ふぅ。もう大丈夫だと思います」
「そうみたいね」
「はい」
カナエは返事をすると、自分の毛糸を持って席を立った。
何をするのかと思い、目で追っていく。
彼女は私の隣まで来ると、にっこりと笑う。
「なに?」
「同じ向きになった方が、わかり易いと思って」
「ああ、そうかもね」
「はい。じゃあ始めに、親指と小指に糸を掛けてください」
カナエは手本を見せながら、口でも説明してくれる。
「こうね。次は?」
「中指で反対側の手の糸を取ってください。両方ともです」
「はいはい」
一つ一つ丁寧に進んでいく。
まだ、そんなに難しくない。
「今の形が大体の基本になると思います。ここからいろいろな形にしていきます」
「ここまでなら簡単ね」
「それじゃあ、さっき私が作った『はしご』にしてみます」
「ええ」
その瞬間、カナエの目が光り輝いた。
「えっと……親指を外して、一番遠くのひもを下から取って、そのまま中指のも取って小指を外します。小指でこのひもを取ってまた親指のひもを外します。親指で中指のひもを押さえながら両手の小指のひもを捻ったら、中指のも同じように捻ってください。できたら親指で小指のこのひもを取って中指のひもも取ります。親指の奥にある方のひもだけ外すと三角の隙間ができるので、そこに中指を入れて、小指のひもを外しながら手を向こう側に向けると……。ほら、『6だんばしご』です!」
そこまで一息に捲くし立ててくれた。
早いよ……
しかも、はしごの数がさっきの三倍になってるんですけど。
説明を終えたカナエは楽しそうな笑顔で私を見ている。
どうやら、私の反応待ちらしい。
「……ふーん」
何を期待しているのかよく分からない。
私はカナエがやった通りに繰っていく。
今度は説明しながらだったので、十分眼で追うことができている。
……なに言ってるのかは解らなかったが。
「確かここでこうしてこうだったわね。最後はここを外した後に、出来た隙間に入れて小指も外して前に向ける……これでいいのよね?」
「あ、えっと、はい。完璧です」
「そうかしら? カナエの方が綺麗に出来てるわよ。私みたいに迷う事もなかったし、完璧とはほど遠いわ」
「あはは、そうかもしれませんね。…………はぁ」
笑顔を作り笑いに変えて、一頻り笑うカナエ。
最後に深い溜息を吐くとうな垂れてしまった。
「カナエ、ずっと立ってるのも疲れるんじゃない? 椅子持ってきて座ったら」
「はい、そうします」
私の隣まで椅子を引っ張ってきて着席する。
やはりその顔は冴えない。
気を遣って座らせてあげても、余り意味がなかったみたい。
でも、これで大体目線が合ったわね。
私はがしっ、とカナエの両肩を掴んで、これ以上ないほどの笑みを向けてやる。
「ふふ、ねぇカナエ?」
「は、はいぃ~」
カナエは悲鳴のような返事をすると、体を震わせた。
あらあら、どうしてそんなに怖がってるのかしらねぇ。
可哀想に。
しっかり理由を聞いてあげる必要があるわ。
「何をそんなに怯えているの? 一体どんなやましい事をしたのか私に言って御覧なさい」
「あ、あう、えっと……私は大丈夫です。お願いですから気にしない方がいいです」
しどろもどろになりながらも気丈に振舞う。
そこまで言うのなら、私は介入できないわね。
仕方なくそぅ、と呟いてあっさり追求を諦める。
しかし余程の事なのか、私と眼を合わせられないでいた。
体だけは、私が掴んでいるからこっち向き。
「じゃあカナエ、私の方から言いたい事があるんだけど、訊いてくれるわよね?」
「は、はい! ごめんなさい、調子に乗ってしまいました」
「……まだ何も言ってないんだけど」
「あの事だと思うので、怒られる前に謝った方が良いと思って」
「やっぱり、悪気はあったのね。それで、教える気はあるの?」
「そ、それは勿論あります。是非憶えて欲しいです」
そんなに憶えて欲しいなら、最初からちゃんとやりなさいよ。
魔が差しただけなんだろうけど、ちょっと焦ったわ。
あの速さでもう一度教えられても、次は憶えられるか分からない。
よくあの一回でできた、と自分を褒めてやりたくもなった。
それに、先に謝られると非常に困る。
これだと余り苛められないじゃない。
「次やったら、夕飯抜きよ」
「あ! 今日はアリスさんの日……だ、大丈夫です。もう絶対しませんから」
「貴女食べ物につられてない?」
夕飯は交代で作る事になっている。
これなら、和食と洋食が交互に食べられるので飽きが来ない。
それと同時に、和食の研究でもしようかなと。
カナエはカナエで、私の作る洋食に興味があるようだった。
「そ、そんなつもりはないです。ホントはですね、『はしご』なんかより憶えて欲しいものがあるんです」
「……それなら最初からそっち教えなさいよ」
眉を細めながら呆れる。
ついでに溜息まで漏れた。
「ごめんなさい。舞い上がってたみたいです」
「はいはい。で、私はどうすればいいの?」
「えっと、『2人あやとり』って言うんですけど、基本の形のところまで作ってもらえますか?」
私は頷いて、言われたところまでひもを繰っていく。
「―――貴女は?」
私にだけさせておいて、カナエは何もしていない。
これで何を教えるつもりなのだろう?
「私はアリスさんのを取ります」
「私のを?」
「はい。でもその前に、このひもを潜らせて、こっちのひもも潜らせてください」
「ちょっと待ってね……これでいいのよね」
カナエの指示通りにひもを通す。
できたところで、次にどうすればいいのか訊く為に顔を上げる。
そこで口を尖らせているカナエと御対面した。
また判り易い不満の表し方ね。
「アリスさんに、私が教える意味はあるのでしょうか?」
「何よそれ?」
「だってだって、全部一回でやっちゃうんだもん。今回のなんて口でちょっと説明しただけなんですよ」
「そんなこと言われても、説明してもらってるんだからできるのは当然でしょ」
「む、むぅ。でも私は中々できなかった……」
尻すぼみにカナエの声は消えていく。
カナエの不満の理由は嫉妬だった。
しかも私にはどうしようもない事だ。
まったく、困った娘ね。
「ほら、カナエの教え方がわかり易かったのよ」
「そ、そうですか?」
「ええ、そうよ。だから次はどうすればいいのかしら?」
「えへへ、次はですね。私がそれを取るので、取り方を見ていてください」
簡単に機嫌を直してくれる。
これだけ単純だと、扱いやすくて私は楽で良い。
でも、もうちょっと疑う事も覚えた方が良いわよ。
そのうち絶対騙されるから。
「こことここを摘んで、下から上に持ってくるんです。
……って、ちゃんと見てますか? 次はアリスさんにやってもらいますよ」
「大丈夫よ。貴女の将来以外しっかり見えてるから」
「よく分かりませんけど。じゃあ、アリスさんも私がやったようにこれを取ってください」
「確か、交差している所を摘んで下から上だったわね」
「はい――――」
私が『2人あやとり』を憶える頃には、陽も完全に沈んでいた。
そこに至って漸く、私はカナエに紅茶を淹れてやろうとしていたことを思い出す。
しかし、時間は既に夕飯を取るのにも遅い時間。
思ったより『あやとり』に熱中していたらしい。
仕方ないわね。
「今日の夕飯はちょっと奮発するわよ」
これで許してもらおう。
―――更に翌日
闇夜に閃光が奔る。
血風が舞う。
命という華が散っていく。
もう、その数を数えるのにも飽きた。
「ハァ……ハァ……」
休む間もなく襲って来ていた妖怪を相手に、体が疲労を感じ始める。
右手に持った細剣が、やけに重い。
魔力は有り余ってるというのに、今使える魔法はひどく限られていた。
「……フゥ」
事実、こんな低級な妖怪がいくら束になったところで、私の敵ではない。
それが、自分の魔力を十分に活かせないような状況だったとしてもだ。
問題は別にある。
「……チッ」
こんな事は、とっとと終わりにしたかった。
家の中には不安な気持ちを抱えて私を待つ娘がいるから。
だというのに、まだ半分近く残っている。
どうせ敵う筈もないのだから、逃げれば良いのに。
しかし、森の中に潜んでこちらを窺う妖怪等に、未だその気配はない。
「バカね」
一瞬空いた襲撃の間に、私は呼吸を整えた。
舌打ちをした。
短く毒づいた。
そんな暇もなく襲ってくれば、もっと苦戦したかもしれない。
もっと早く、片付けられたかもしれない……。
私は無造作に左手を上げる。
木の陰からやっと出てきた妖怪の一匹が、赤い閃光に貫かれて倒れる。
私は違う方向から肉薄してきた相手に、右手を閃かせる。
細剣は鍔元まで妖怪の急所を刺し貫いた。
すぐにそいつを振り捨て、間合いの外にいる相手に左手を掲げる。
漸く、妖怪達は攻勢をかける気になったようだ。
事の発端などないようなものだけど、妖怪が襲ってきたのにも一応理由があった。
時刻は、私とカナエがその日の夕食を食べ終わるところまで遡る。
私は今日も、カナエに『あやとり』を教わっていた。
「アリスさん! 『2人あやとり』しませんか?」
「それは昨日教えてもらったわよ」
「そ、そうですけど。反復練習は大切だと思うんです」
「他のもいろいろ知りたいんだけど」
「だ、駄目ですよ。一つ一つしっかり憶えていかないと、えと……そう! 大変なんです」
「……仕方ないわねぇ」
……訂正、カナエの『あやとり』に付き合わされていた。
私が『2人あやとり』を憶えてからは、ずっとこんな感じだ。
時間があれば二人で遊んでいる。
私はひもを繰って、カナエに向けてやる。
「よいしょ。はい、アリスさんの番です」
私からひもを取ったカナエは、今度はそれを私の方に向けてくれる。
その表情からは、心の底から楽しんでいるのが分かる。
私はというと、多少飽きてきていた。
昨日の夜から今まで、ずっとこればっかりなのだ。
そんなことを思っても、情状酌量の余地ぐらいはきっとある。
「はいはい。……ねぇカナエ、やっぱり違うの教えてくれない?」
私はひもを取りながら、カナエに頼んでみた。
今私ができる『あやとり』は、『これ』と『6だんばしご』だけ。
多分、凄く偏った憶え方をしてる。
「い、いきなりどうしたんですか?」
いや、いきなりじゃないと思うけど。
何でそんなに『2人あやとり』に固執するのよ。
「雪も大分溶けてきたみたいだし、明日には貴女を送ってあげられると思うのよ。
それまでに、いろいろ知っておきたいじゃない」
「そ、そっか。でも大丈夫ですよ。アリスさんが来たときでも教えてあげられますから」
その時も、『2人あやとり』をする事になりそうな気がする。
……結局、今は大人しくカナエに付き合うしかないんだけど。
「はぁ。じゃあその時は頼むわよ」
「……あの、私―――」
「ん?」
私のところからひもを取る手を止めて、彼女は俯いた。
さっきまでの明るい声から、真剣なものになる。
「私、夢だったんです」
「……」
私はひもを持ったまま、黙ってその続きを待った。
「誰かと、こうやって『あやとり』をしてみたかったんです」
「…………貴女は」
「はい」
私がする質問は、ひどく場違いな気がする。
それでも始めに疑問に思った事だった。
「誰に『あやとり』を教えてもらったの?」
「……お母さんに、少しだけ教えてもらいました」
驚くように私を見ると、カナエはまたすぐに俯いて、呟いた。
私も軽く驚いていた。
始めて、カナエが家族の事を口にしたのだ。
避けていたとはいえ、こんな形で出てくるとは思っていなかった。
「カナエのお母さんも、上手にできるの?」
「よく分かりません。教えてもらったのは最初だけで、ほとんど自分で本を見ながら憶えたから」
否定に首を振りながら、ぽつぽつとその事を話していく。
「でも、今やってるのなんて一人じゃできないでしょ?」
「そんな事はないんです。ちょっと見ててくださいね」
カナエは自分の白い毛糸のひもを取り出す。
それを繰って、『2人あやとり』の始めの人が取るところまで進めた。
「……こうすれば」
形を崩さないように、ひもをテーブルの上に置く。
そして、彼女はそのままひもを取って見せた。
「できるんです」
カナエは翳りのある笑みを浮かべた。
自分がどんなに滑稽な事をしているのか、自覚があるのだ。
普通二人でやるものを、無理矢理一人で練習する姿など、見ている私の方が辛くなる。
「何で、貴女のお母さんは――」
「いいえ、もういいんです。今はアリスさんが一緒にやってくれますから」
「……そう」
やはり翳のある笑みのまま、私の言葉を遮った。
それはこれ以上、この話をしたくないという意思表示だった。
「あの、取ってもいいですか?」
「え? ああ。はい、どうぞ」
二の句が告げなくなっていた私と違い、カナエはいつもの調子を取り戻していた。
珍しく私の方がついていけずに、慌ててカナエの方にあやとりを向ける。
それをカナエが取ったところで、異変は起こった。
「アリスさんの―――」
「ごめん、カナエ。ちょっとお客さんがきたみたい」
「えっ!?」
今度は私がカナエの言葉を遮った。
そのまま難しい顔で席を立ち、しかしカナエにはおどけて見せた。
「こんなところに美少女が二人もいるから、悪漢が来るのかしらねぇ?」
「えっ、えっ?」
カナエは事態を呑み込めずにその場でおろおろしている。
まだ距離はあるものの、小さな妖気が大量にこっちに向かってきていた。
暫く姿を見せていなかったから、とっくに諦めたと思っていたのに。
私は壁に飾っておいたレイピアを手に取る。
「あ、あの、アリスさん。その剣は本物だったんですか?」
「まぁ、護身用にちょっとね」
私は言葉を濁した。
礼装用の装飾が施されているから、カナエには唯の飾りに見えていたようだ。
このレイピア、あまり使い勝手が良いとはいえない。
一般的なものより装飾が多いせいで、無理に力を加えればすぐに折れてしまうだろう。
握りに精巧な彫刻が施された護拳が付いているのは良いとして。
刀身にまで不思議な模様が入っているのだ。
確かに観賞用に用いた方がいいのかもしれない。
しかし、雑魚を相手にするのだから、普段は余り使わないものを試すいい機会だ。
実際、私は普通に魔法で押した方が強い。
でもそれをやると、余裕がないみたいだから嫌だった。
多分今日は、派手な魔法は使えないだろうし。
「そ、それは使うんですか?」
「まさか。脅しに使うだけよ」
「良かった」
カナエは心配そうに訊ねてきた。
血生臭い風景でも想像してしまったのかもしれない。
―――ごめんね。
私は心の中で、カナエに短く詫びた。
脅しにも使うけど、きっとそれだけじゃ引き下がってくれないのよ。
「危ないから外に出ちゃ駄目よ。後、遅くなるかもしれないから先に寝ててくれる?」
「は、はい。わかり、ました」
完全に納得がいってないような返事だった。
何の前触れもなく客が来たと教えられ、しかも私は武装までしているのだ。
不安になるのも無理はない。
―――だからごめんって謝ってるじゃない。
こんなの貴女には説明できないわよ。
「じゃ、ちょっと行ってくる」
「行って、らっしゃい」
まだ私にいろいろ訊きたそうなカナエを残して、玄関に向かった。
集まってきている妖怪の数は、感心するほど多くなっている。
よくもこんなにいたものだ。
どうせ、逆恨みの類いだろう。
私は毎日品行方正に、誰にも恥じる事なく生きている。
玄関に着くと、レイピアを鞘から抜き放った。
中からは美しい細工の施された刀身が姿を表す。
この細工に惚れ込んで手に入れたのだ。
実用的かどうかなど二の次。
第一に気に入ったものでなければ欲しくもならない。
結局、レイピアを使うのも趣味の域を出ない。
「折らないようにしなくちゃね」
鞘は玄関に置き、抜き身のまま庭へと踏み出した。
降り積もっていた雪は、もうほとんどなくなっている。
立ち回りに足を取られる事もないだろう。
空を見上げれば、圧倒された。
月と星が顔を出し、宝石を鏤めたような空に見惚れてしまう。
この調子なら、明日もきっと晴れるに違いない。
「気ニ入ラナイナ」
無粋な声が、明日へと馳せていた思考を遮った。
代表格らしき妖怪が声を掛けてきている。
その聞き取り難いくぐもった声は不快だった。
少しはこの美しい夜を愛でさせなさいよ。
「何のこと?」
私は嘲弄する。
以前私にやられた妖怪の敵討ちとか、そんなくだらないことだろう。
他に思い当たる節はない。
「中ニイル人間ノ事ダ」
私の予想は外れ、意外な事を言ってきた。
こいつらはカナエを御指名らしい。
「何で人間一人に、こんなに集まってるのかしらね?」
「コレハ保険ダ。オ前ガ大人シクシテイレバ、何モシナイ」
「ああ、なるほど」
私を抑えるためか。
まぁ、この程度の妖怪をいくら集めたところで、雑魚には変わらないんだけど。
面倒ではあるわね。
「それで、何で私の家に人間がいると気に入らないのかしら?」
「オ前ハソイツヲ喰ウノカ?」
「さぁ、どうしましょう?」
惚けた返事をして、様子を窺う。
用件は理解できた。
カナエを喰いに来たこいつらに、渡すつもりはない。
しかし、できれば戦闘は回避したい。
その為には、どこまでその気があるのか知りたかった。
「喰ワナイナラ、渡シテモラオウ」
「天然な娘だけど、それでも一応私の客よ。あなた達に口出しされる言われはないと思うけど」
「妖怪ハ人間ヲ喰ウモノダ。喰ワナイノナラ、我々ガ貰ッテモ問題ナイハズダ」
これだから、本能で動くような妖怪は嫌いなのだ。
喰うか喰わないかだけで物事を決めるんだから。
もっと思考に幅を持たせなさいよ。
……まぁでも、私が喰うと言ってやれば引き下がるかもしれない。
「後で食べるつもりだったのよ。今は蓄えもあるから、彼女は保存用よ」
「……」
人間なんか食べた事ないし、食べようとも思わないけど。
私の返答に、妖怪は黙って考え込んだ。
もしかしたら穏便に済むかな。
「ヤハリ駄目ダ。喰ウナラ今スグダ」
「何でよ?」
「オ前ハ信用デキナイ」
ちっ、始めから引き下がる気なんてないじゃない。
この様子だと、私が今すぐ喰うと言ってやっても難癖をつけるのだろう。
周りの異様に殺気だった空気を見るに、私怨で集まってるヤツも多そうだし。
時間が惜しいというのに、変な期待を持たせるんだから。
まったく、何が信用できないよ。
初対面の上に私を信用した事もないくせに。
「はぁ、分かったわ。じゃあ今すぐ―――」
こんな低脳な妖怪相手に、話し合いで決着をつけようとした私がバカだった。
「―――殺してあげる」
何の前振りもなく、レイピアを振り上げる。
妖怪は遠く間合いの外。
しかし妖怪は何が起こったのか理解する前に、体の中心から半分に分かたれる。
レイピアの軌跡に魔法で鎌鼬を乗せてみた。
やっぱりこういう魔法は得物があった方が形にしやすい。
一瞬の静寂。
他の妖怪の反応も鈍かった。
これだけはっきり敵対行動をとって見せたんだから、することは決まってるじゃない。
私が右手に持ったレイピアを構えた頃に、やっと家を囲む森の中で動きがあった。
大量の、しかし安っぽい敵意が私に注がれる。
数だけは多い。
それに加えて、狙いは一応カナエらしい。
となると、家から離れて戦うわけにはいかない。
方針は森から出てきたところを、確実に一匹一匹仕留めていく。
接近されたらレイピアで、といったところか。
私は早速、不用意に森から出てきた妖怪の二匹を魔法で葬った。
片方は氷弾で氷漬け。
もう一匹は雷弾で感電死。
全部同じ倒し方では芸がないので、可能な範囲でいろいろ工夫してみる事にした。
周りが森なので、炎系の魔法が使えないからどうしても派手さに欠けるところが珠に瑕かな。
一閃一殺。
一匹に時間を掛けていたら、物量で押し潰される。
こちらは弾幕という物量が使えない。
適当にばら撒けば妖怪は簡単に倒せるのに。
では、何故使っていないのか。
外れた弾は自然破壊になってしまうのだが、その事だけなら特に問題はない。
……心配なのはカナエの方だ。
木を薙ぎ倒しながら戦ったら、それは凄まじい轟音が響く。
それを聞いたあの娘が、家から出てこないとも限らない。
まぁ、いろいろ枷のある戦闘だったけど、大分数も減ってきた。
今まで通り確実に仕留めていけば、後は余裕……
「なっ……!」
森の一角から、耳に響く遠吠えが木霊する。
思わず呻いてしまった私の声も、それに呑み込まれた。
遠吠えのした方、そこから刹那遅れて弾幕が現れる。
私を狙って放たれたそれは、狙いも甘く避けるのは容易い。
「……くっ」
私は一瞬躊躇った後、その弾幕に正面から突っ込んだ。
避けるわけにはいかないのだ。
私の後ろには家がある。
当たって壊れるほど脆くはないが、振動は中にまで伝わってしまう。
「ちゃんと狙いなさいよ」
木の陰に隠れたのか、放った相手は私の位置から確認できない。
私は自分から遠いものを優先して、レイピアで弾いていく。
数はそれなりにあるものの、幸い速度は大したことない。
妖怪を相手にした時より、レイピアは数段早い軌跡を残す。
幾つか落としたところで目の前に迫る弾幕。
慌てることなくバックステップを踏み、下がりながら更に二つ。
着地してから迫るまでの間に出来るだけ弾く。
それの繰り返し。
「……ぎりぎり」
背中が壁に付いた所で残り五つ。
―――でも、拙い!
レイピアが……軋む……
残りはかわしてしまうか、折れるまで続けるか。
迷ってる暇はない、簡単な計算だ。
私にとって大事な方を優先させれば良い……
しかし葛藤を抱えたまま、私の腕は無意識にレイピアを動かした。
「なっ……!?」
一つ弾く度に軋みは大きくなる。
残りは四つ。
仕方ない、やれるところまでやってしまおう。
一つ……二つ……みっ!
三つ目を落とそうとしたところで、私の意志に反してレイピアの動きが止まった。
右腕が急に重くなり、遅れて鋭い痛みが走る。
こんな下らないミスを……。
狼の妖怪が、私の腕に牙を突き立てている。
自分の行動の不可解さが気になり、周囲の警戒を怠っていた。
……もう、間に合わない。
私は咄嗟に身を捻って、残り二つをかわしてしまう。
やり過ごした後に、着弾音と背中越しに伝わる衝撃。
中に居るカナエにも軽い揺れぐらいは感じた筈だ。
そして第二陣でも放つ気なのか、森の中からまたあの遠吠え。
「……邪魔、なのよ!」
私は低く押し殺した声に怒りを込め、右腕を無理矢理体の前まで持ち上げる。
いつまでも噛み付いている妖怪の腹に左手を当てた。
妖怪の背中を貫通する、赤い閃光。
その先には、弾幕を放とうとしている妖怪。
二回も吠えてくれれば、位置ぐらい特定できるわよ。
隠れている木ごと、その妖怪を貫いた。
「……」
木が倒れる。
想像通り派手な音が、夜を震わせる。
私がそれに対する反応は顔を顰めるだけ。
もう一度弾幕を張らせるわけにはいかなかった。
こればかりは、諦めるしかないだろう。
「ふぅ……」
私は体重を壁に預けて力を抜いた。
周りの気配を注意深く探っても、散り散りになっているのが分かる。
弾幕を放った妖怪が死んでから、他の妖怪の戦意も喪失していった。
「……終わったようね」
はぁ、どうしようか。
死屍累々としている家の庭。
私自身は所々返り血が張り付いている。
死体はカナエが寝た後にでも、こっそり燃やせばいいか。
とりあえず、自分の部屋に行って先に着替えてしまおう。
カナエと鉢合わせすると拙いから、部屋の窓から侵入した方がいいわね。
それじゃ早く着替えて、カナエに顔を見せてやりましょう。
どうせ心配してるだろうし。
私は壁に預けていた体を剥がし、窓へと向かうために玄関に背を向け……
「あの、アリスさん?」
ドアの開く音とカナエの声に、体が強張る。
ぎこちなく振り返れば、玄関の所にはやはりカナエの姿。
右手には自分の白い毛糸を握り締めている。
「……どうしたの?」
私は震える声を隠し、いつものように自然に問いかけた。
カナエに驚きや恐怖の気配はまだ薄い。
多分、揺れや木の倒れる音に耐え切れず、出てきてしまったのだろう。
夜目の効かないカナエに、庭の惨状や私ははっきりと見えていない。
「あの、ごめんなさい。どうしても怖くなって」
「はぁ、先に寝てなさいって言ったでしょ。もう大丈夫だから早く家に戻りなさい。私もすぐに行くから」
「は、はい」
私の声が聞けて安心したのか、カナエは素直に踵を返す。
私はカナエが家に入るのを確認してから、窓に向かうつもりだった。
……そう出来ると、思っていた。
「カナエ!!」
「え?」
咄嗟に名前を叫んだが、意味などなかった。
カナエの更に奥から、妖怪がカナエ目掛けて迫っている。
まだ生き残りがいたか。
棒立ちでいる彼女に、それに気付く様子はない。
私は左手を上げて魔法を放とうとするが、射線上にはカナエが―――
「くっ」
横に飛び、直ぐにカナエを射線から外す。
間に合え!
カナエの目前にまで迫った妖怪目掛け、魔法を放った。