「まことに人生はままならないもので、生きている人間は、多かれ少なかれ喜劇的である」
三島由紀夫
月日が流れるのは誠に早いものであり、一体自分は何のために生きているのかもわからなくなる日常。
時間はあっという間に過ぎていき、今日1日、これといった活動も行わずに終わっていく。
一言で言ってしまえば、それはあまりにも怠惰すぎた。
しかし、少なくともそれが日常茶飯なこの幻想郷では、『当たり前』としか言いようが無かった。
いつの世にあっても、安居楽業を大衆は求めている。
完全に外の世界から隔離された無何有の郷では、まさにそうであった。
豊かな自然に恵まれ、のどかな日々を十二分に満喫できるこの地は楽園。
のんびり悠々自適な暮らしが行える人里で、人間は有意義に営みを行っていた。
人里。今は主が無きその空間で、少女がひとり、ぽつんと立っていた。
何処か遠くを見る眼差しで、少女は丁寧に書物が陳列された本棚を見ていた。
それは天守閣から城下を見下ろす、戦国大名のような目付きだった。
彼女、藤原妹紅はさっきまでポケットに突っ込んでいた両手のうち、右腕を抜いて一冊の本に手を伸ばした。
伸ばした事は伸ばしたが、途中でその手を止めた。別に殺気を感じたわけではないが、彼女はためらった。
首を右に動かし、妹紅は部屋の主がかつて使用していた机の方向を向いた。
もう誰も使うはずがないが、綺麗に掃除されており、埃は僅か程度しか付着していなかった。
それは、妹紅が定期的に掃除を行っているからだが、別に他人の机を掃除する理由は無い。
それでも妹紅は机―――それだけではない。この家全体の掃除をしていた。
何故ならば、この家は今はこの世にいない彼女の大切な人の家だったからだ。
妹紅は何故か幻影を見ている気分になっていた。
今でも机の傍に鎮座している椅子を見れば、そこにかつての主人が座り、自分に微笑みかけてくれる姿が映った。
弓手には辞書、馬手には筆という普段通りの様式で、彼女が仕事を行っている。
そんな光景が、脳裏に焼き付いて離れなかった。それは致し方無かった。
今まで孤独であった自分自身を受け入れ、何かと面倒を見てくれた世話焼きの女性。
どうしてか知らないが、妹紅はこの机と椅子を見るたび、それを思い出さずにはいられなかった。
それほど、妹紅にとってその人物は大切だった。
妹紅は椅子を引いて座り、引き出しを開けた。
そこには数冊の巻物が保存されていた。ずっとその中にあったため、状態はかなり良い。
風化する事も無く、朽ち果てる事も無く、書いた人物以外触れていない巻物。
妹紅は、それが
実は初めて開ける日記。
他人の視点から見た出来事や感想の記録を閲覧するのは決して初めてでは無いが、妹紅にとっては初体験のように感じられた。
旅行記や随筆は、読んだ事はある。
この家に無数に保管されている蔵書の中には、ひとつやふたつは存在していたからだ。
基本的に人里で暮らし、そこで居座らせて頂いている対価として妖怪退治に従事しているが、暇な時間も作る事は出来る。
その暇な時間を、妹紅は読書に当てていた。理由はただひとつ、他にやる事が無かったからだ。
妹紅の仕事は妖怪退治だけではなかった。
野良仕事を手伝い、里の子供達に歴史や道徳を教えていた。
それは、親友がかつてやっていたのと全く同じ事であった。
妹紅は、そんな自分を二宮尊徳と重ねていた。彼の略歴については、無尽蔵にあるこの家の書物から汲み取っていた。
江戸末期の篤農家。「金次郎」の名で知られ、自ら興した報徳教を説き、陰徳・積善・節倹を行った人物。
いつの間にか農業に関する知識をも手に入れた自分は、まさかこんな事をやるなんてとは思っていなかった。
全く、人生は本当に何が起こるかわからなくて、本当に面白い。
自分には老いも死も無い。それがわかっているから、年を重ねる事に衰えるのではなく、逆に強くなる事が出来た。
誰にも負けない力と、誰にも負けない知識と、誰にも到達する事の出来ない経験を積んでいった。
それは、妹紅にとっての人生だった。終わりの無い人生。ならば継続していくしかない。
先がずっと続いていくからこそ、未来が面白い。終わりがないのならば、満足がいくまで物事を見聞できる。
もしも満足がいったら、その時はどうなるのだろう。新たな満足を得るために、先の見えない努力を続けるのだろうか。
そのような、ある意味下らない事を考えるのは、妹紅にとって余興であり、また面白い事であった。
彼女は親友が遺した日記を読みながら、無限の想像に耽っていた。
そういえば、物を考えるのは、呆け予防にもなると図書館に住む知識人が言っていた。
今ではその知識人も亡く、利用する者が圧倒的に少なくなっていた。ちなみに妹紅は最近になって利用するようになっていた。
いろいろと自由な時間を抽出するのが困難なため、一冊の小説を読破するのにかなりの時間を要した。
妹紅が日記を読んでいると、ふと気になった箇所が存在した。
そこにはこう書かれていた。
『第百十七期 葉月之二十一 晴
ソノ日、珍シク炎暑ナリ。畑ニテ作業中ニ、村ノ者大声デ叫ビタリ。
彼、北方ニ妖怪ガ出現シタト言フ。
私ト妹紅、現場ニ急行セリ。蜘蛛ノ妖怪、乱暴狼藉ヲ働キケリ。
スペルカードニテ攻撃ヲ試ミントシタトキ、妹紅妖怪ニ炎ヲ浴ビセ、消シ炭ニシタリ。
彼女ノ良識ヲ疑フ。私、恐ラク顔面蒼白ノ表情シテ、「何故殺シタ」ト繰リ返シ尋ネタリ。
妹紅、「止ムヲ得ン」ト答フ。私、茫然自失ス。
ソノ晩、妹紅トハ殆ド口ヲ利カズ。悲シイ哉、ヤハリ互イガ考エル事、甚ダ相異アリケリ』
妹紅はその文章を読んだ時、「ああ」と声を発した。
今となってはかなり、…いや、その表現もどうかと思うが、とにかく昔の事だった。
日記の事柄は事実だった。突如現れた妖怪から人間を守るため、速やかに戦いを実行した。
あの時の事は、今でも鮮明に覚えていた。
自分が発生させた紅蓮の炎を浴び、妖怪は瞬時にして燃え盛り、火達磨となって炭化した。
任務が終わった事を親友に伝えようとした時、親友は全身が震えていた。
『………何故だ。……妹紅、お前は何故殺した!?』
その直後、親友がわんわんと泣き叫んだ事は記憶している。思えばあれが始めての喧嘩だったのかもしれない。
恐らく、価値観の違いだったのだろうか。
あの後の事はまるで無かったかのように双方問題にせず、事件も忘却してしまったから、本当に無かった事になっていた。
―――――上白沢慧音は、やはり自分とは違っていた。
半人半獣ながら、人間を愛し、人間を守るのを「使命」と考えている慧音と、何の主義も無く普通に暮らしている妹紅。
妖怪が人里を襲撃しても、慧音はただ追い払うだけで、命は取らない。だが妹紅は確実に殺していた。
何かの違いが2人にはあったのは確かだった。それについて、「そりゃそうだろうな」と妹紅は思っていた。
上白沢慧音は上白沢慧音であり、藤原妹紅は藤原妹紅。考え方が違うのは当然の事だ。
しかし、それで良く慧音が亡くなるまで親友であり続けたなと妹紅は思っていた。
自分でも知らない強い絆で結ばれていたのか、私達は。
そんな事を考えながら、妹紅は慧音の日記を読み、過去を回顧していた。
その時だった。玄関口からドンドンと戸を叩く音が聞こえた。
私に客人というのも珍しいな、と思考を巡らせながら、妹紅は玄関へと向かった。
「はいはい、どちら様だ?」
妹紅はそう言いながら戸を開いた。
そこには里の青年が立っていた。
「妹紅殿。永遠亭の兎から、手紙を預かっています」
青年は言いつつ手紙を妹紅に渡した。
永遠亭といえば、妹紅にとっては不倶戴天の敵である蓬莱山輝夜の居城であった。
その永遠亭から手紙が届いたとなると、差出人は絶対奴に決まっている。それは妹紅でなくても考えうる事項だった。
そして、妹紅は何故直截自分に渡さないと疑問に思っていた。だが、その思考も通常に戻る。
あいつらしい、回りくどいやり方だ。
「ああ御苦労。―――ちょっと待ってろ」
妹紅は言うと居間へ足を走らせ、お茶請けの饅頭をひとつ取り、再び玄関に戻った。
そして青年に「取って置け」と言って渡した。
幻想郷でこのような心遣いが出来る人間は、今では少数派であった。
妹紅は頭を右手でポリポリ掻きながら、何でこんな時期に手紙なぞと思いながら家へ戻った。
慧音の日記を読む気もすっかり失せたため、巻物を片付けて手紙を読む事にした。
多分配下の兎が代筆したと思われるが、手紙に書かれた文字は結構な達筆であった。
妹紅は眼を泳がせて手紙を読んだ。読み終えるや否や、彼女は手紙をぐしゃりと潰し、次には手紙を炭に変化させていた。
妹紅は口を動かし、不敵な笑みを作る。
それは挑戦状でも果たし状でもなかったが、彼女にとっては至極面白い内容だった。
幻想郷の竹林地帯。
常に霧が立ち、視界が悪いこの迷いやすい地に、ぽつんと大きな日本屋敷が建っている。
名前を永遠亭。非日常で出来ているこの日本屋敷には、無数の兎とわずかな人間が暮らしていた。
「姫様、本当によろしいのですか?」
人間を狂気に誘う赤い瞳を向けながら、鈴仙・優曇華院・イナバは言った。
彼女の耳は、少しばかりかうなだれていた。
相手は永遠亭の主である蓬莱山輝夜。藤原妹紅の不倶戴天の敵にして、地上に隠れ住む月の姫である。
輝夜は戦戦兢兢の様子である鈴仙に顔を向け、にこやかに笑みを作った。
「大丈夫よ。あの妹紅だもの」
「姫様はそうお思いになられていると、私は存じ上げますが……」
鈴仙はそれから先を言えなかった。
理由は、妹紅と輝夜が―――現在では半ば趣味でやっている―――殺し合いの度に、永遠亭が壊滅的な被害を受けるからだった。
無数の弾幕と、火炎の流れ弾が命中する事だってある。
それはかなり危険であり、竹林に火が燃え移り、消火する事だって大変だった。
鈴仙はそれを危惧しているわけであり、今日は別に殺し合いをするわけでもないのに妹紅を招待するのは反対だった。
勿論、それに反対しているのは鈴仙だけではなかった。
永遠亭の兎達を実質的にまとめている因幡てゐも然りであった。
「あら、不服?」
「いえ、別にそうではありませんが…」
「ならばいいじゃない。妹紅はただの宴会で暴れるようなタマじゃないわ」
輝夜の言葉は、鈴仙にとっては至極受け入れがたいものであった。
元々月の民、つまり宇宙人の思考は一般の人間には理解しにくい。否、それが普通だった。
常人には、宇宙人の思考回路と行動は、誠に意味不明であったからだ。
元来は月に住んでいた鈴仙であったが、それでも輝夜の言っている事が理解出来ない事があった。
それは自分の師も然りであった。
今回、蓬莱山輝夜が藤原妹紅に送った手紙の内容は、永遠亭での酒宴の招待状だった。
呆れる程平和な幻想郷では、夜間になると専ら宴会が行われる。
2週間連続で宴会がある事も珍しく無い方であったが、ここの住人は誰一人嫌がる事もなく酒を楽しんでいた。
それは、他にやる事がないからかもしれない。やる事がないのならば、酒でも飲んで馬鹿騒ぎをする方がマシだった。
ちなみに、今日は輝夜が妹紅と2人で雑談をしながら酒を飲むという事になっている。
「…失礼しました」
鈴仙はそう言うと、輝夜の部屋を退室した。
うーんと唸り、腕組みをしながら彼女は永遠亭の廊下を歩き出した。
果たして、本当に大丈夫なのだろうか。改めて姫様に陳情したが、予定に変更は無い。
兎を代表して取り合ってみたものの、まんまと向こうの術中に嵌ってしまったような気がした。
「あ、鈴仙ちゃん。どうだった?」
とたとたと可愛らしく廊下を走ってくるのは、因幡てゐだった。
「やっぱりダメね。姫様は説得に応じて下さらなかった。
それに、
鈴仙は完全に浮き足立っていた。
藤原妹紅の性格を考えれば、間違いなく来る。その確率は100%。
最大の不安は、妹紅が宴会の場で暴れる事だった。
永遠亭が全焼し、そして兎の丸焼きが完成するのは―――想像したくない。
「一体、姫様は何をお考えでいらっしゃるのかなぁ…」
首を傾けながらてゐは言った。
彼女は幻想郷に土着していた兎であったので、本当に宇宙人の思考は意味不明であった。
敵を自ら拠点に呼び出す、その行動が理解出来ないのである。
「でも、姫様の御命令は絶対」
「……そうだよね」
永夜異変の時にそれを経験している彼女達にとっては、それは当然の事だった。
そして、お互い、ため息をついた。
「どうしたの? 元気ないじゃない」
そこにひとりの女性が現れた。
「師匠」
「永琳様」
鈴仙とてゐは同時に言った。鈴仙にとっては師匠であり、てゐにとっては上司。
立てば芍薬、座れば牡丹。歩く姿は百合の花。
蓬莱山輝夜の懐刀にして、天才薬剤師。『月の頭脳』の異名を持つ、八意永琳だった。
「師匠、本当にあれを実行なさるのですか?」
鈴仙は改めて自分の師に言った。
永琳ならば、あのような微妙に馬鹿げた計画を中止してくれると思っていた。
「姫様の御意思に変更無し。貴女達への命令は逐次与えるわ」
「ですが、永琳様!」
てゐは食って掛かった。あの人間火炎放射器をここに招き入れる事は、どうしても阻止したかった。
「これは姫様の御聖断よ」
「う………」
てゐは何も言えなくなった。確かに永遠亭の頂点は蓬莱山輝夜。
側近中の側近である八意永琳が諭しても、無駄だというのは初めからわかっておくべきだった。
「私に出来る事は、宴会の現場監督だけよ」
永琳は笑みを浮かべながら言った。それは、鈴仙とてゐに安堵を与えるような聖母の微笑みのようだった。
宴会に使う酒や食事の材料や、その他諸々の手配は全て兎に任せれば良い。
それを指揮する役目が永琳である。輝夜直々に言われたのか、それとも自分から買って出たのかは知らない。
いや、ただでさえ人員が少ない永遠亭の中で、そういう仕事の指揮官は彼女しかいなかった。
そして、永琳が現場監督と言った事は、既に計画は発動しているのを言っているのも同然だった。
「安心しなさい。何事も無く行くから」
永琳はそう言ったが、鈴仙とてゐにとっては、その言葉がどうしても信用できなかった。
何故ならば、宇宙人の思考は、常人には理解できないものだからだ。
「師匠。もしも緊急事態があったならば、然るべき行動は取ってよろしいですか?」
「了承」
永琳は右手を頬に付け、左手は右肘を抑えるという独特のポーズをしながら瞬時に答えた。
その日の夜は、幻想郷の夏にしてはかなり涼しい方だった。
外の世界と重ねれば緯度が高いこの地の夏は、確かに涼しい。
だが、夜間でも立ち込める霧と、鬱蒼とした竹林を見れば、外気が一気に下がっていくように感じられた。
藤原妹紅は永遠亭に赴いていた。
案内役の兎の後を歩きながら、妹紅は永遠亭内部へ入る。
当然ながら、かなり警戒されていた。所々、兎達の赤い瞳が光っているのがわかった。
「約束通り、来たぞ」
両手をポケットに突っ込むいつものスタイルで、妹紅は言い放った。
即席の宴会場の奥でゆったりと座っているのは、今まで何回も殺し合ってきた宿敵、蓬莱山輝夜。
「まさか本当に来てくれるなんてね。光栄だわ」
「タダで酒が飲めるんだ。来ない奴なんてこの世界にはいねーよ」
ずかずかと歩き、妹紅は用意された席へ座った。
場所は輝夜の隣。上座で芸者をあげ、酒をゆっくり飲む事になっている。
一方で、兎達はまだ警戒していた。
不測の事態に備えている兎はともかく、料理を運んでくる兎まで、妹紅を油断の無い目付きで見ていた。
「今日は連中は誘ってないのか?」
「ええ、たまには貴女と2人っきりで酌み交わしたいからね」
同時、輝夜はくすりと笑みをこぼした。
妹紅は背筋が凍るような感覚に襲われた。
輝夜の言葉に、一種の恋愛感情のようなものが感じ取れたからだった。
「さあさあ、遠慮しないで飲んで飲んで」
「言われなくても飲んでやる」
妹紅は、輝夜が手酌を酌んだ清酒をぐいと飲んだ。
「まあ、良い飲みっぷり。貴女らしいわ」
「ふん…」
彼女達の前では、芸妓の兎が舞踊を行っていた。
三味線の高音が耳を揺さぶる。
妹紅は、どうせなら永遠亭に貯蔵している酒全てを飲み尽くしてやろうと思っていた。
酒はかなり強い方だし、何遍飲んでも肝臓を壊す事は無い。自分は不老不死なのだから。
妹紅は輝夜に勧められるまま、酒をぐびぐびと飲み、肴に手を出した。
焼き鳥の串を掴み、力強く肉を引き千切る。
「いつものとは違う味だな」
「あら、わかった? 雀の肉を使ってみたの。美味しいでしょう?」
雀と言われて、妹紅は思い当たる節があった。
それなりに歴史のある八目鰻料理店を経営するのは、確か自ら歌をサービスする夜雀だったか。
まさかそいつを取っ捕まえて―――いや、よそう。
「…妹紅?」
「あ、いや…。美味いよ」
肉を噛み、咀嚼する。妹紅は何故だか知らないが複雑な気持ちになっていた。
……今度、店主が生きているか会いに行こう。
そう思いながら、妹紅は酒に口を付けた。
「しかし、お前と酒を飲むのも悪くないな」
その小柄な体躯の何処に入るのだろうと思うくらい、妹紅は酒を鯨飲していた。
輝夜は首を動かして妹紅を見た。
「それだけ私も貴女も成長したって事よ」
「だろうな。昔はただ感情に任せて殺し合ってたもんな」
けらけらと笑いながら、妹紅はまた一杯飲み干した。
自分達には、老いも死も無い。外見は確かに10代の少女だが、中身は何千年も生きている。
身体だけ成長して、頭はガキではない。若いままの姿形を保ちながら、大人ですら凌駕する知識と経験を手に入れた。
それが、不老不死だけに与えられる特権だった。
「そうそう妹紅。訊きたい事があるのよ」
日舞を演じる兎を見ながら輝夜は言った。
「何だ?」
「最近、皆は元気にしているかしら?」
それはいかにも輝夜らしい質問だった。
普段、永遠亭から殆ど外に出ない彼女ならではの問いだった。
というのも、永琳が何かと言いつけて外出を許さないからである。
もしも妹紅が輝夜だったら、警護を振り切って逃亡しているかもしれないが、輝夜は自分から外に出る事は無かった。
そのため、「永遠亭のお姫様は引きこもりである」という、誠に不名誉な噂が流れていた。
「ああ、元気だよ。里の人間も、今の博麗も、紅魔館のお嬢も、お変わり無く元気にしているさ」
嬉々として酒を楽しみながら妹紅は言った。
酒に滅法強い彼女は、感情が高ぶる事も悪酔いする事も無く、順調に、愉快そうに飲んでいた。
「そう、良かった」
輝夜は安心した顔を作る。それは明眸皓歯の表情だった。
あれから何年の月日が流れただろう。既に千年以上生きている彼女達にとっては、時間の流れなど関係無かった。
しかし、寿命ある者にとっては関係がある。現に、散っていった弾幕少女は存在する。
「仕事は順調?」
子の現在を気遣う老母のような口調で輝夜は言った。
妹紅からしてみれば、実は、案外輝夜はいらぬ心配をしているのかもしれなかった。
「私がヘマをするわけにはいかんだろうが」
妹紅は何処かのネジが外れたように笑った。
今では人里の「お手本」として農業指導を行う側に立っているのならば、なおさらだった。
「……妹紅、大人になったわね」
「大人………か。はてさて、本当に私は立派になれたのだろうかねぇ」
「充分立派じゃない。あの
妹紅は突然口を閉ざした。
今は亡き親友、上白沢慧音。彼女がはかなくなった時、もっとも泣いていたのは妹紅だった。
幾多の不幸を経験した妹紅は、長い年月を経て、自分は涙を捨てたと思っていた。
だが、やはりあの時は泣かざるを得なかった。
「だから貴女は頑張りなさい」
「へっ、まさかてめーに励まして貰うとは。人生何が起こるかわからんな。どれ、礼にはならんが私が注ごう」
「それじゃあ、遠慮無く頂こうかしら」
そう言うと、妹紅は空になっていた輝夜の盃に清酒を注いだ。妹紅も美味そうに酒を飲んだ。
(………姫様と妹紅さん、何だか凄い仲よさそうなんだけど)
(うん。本当に何が起こるかわからないね)
永琳の命で見張り役を行っていた兎2羽は、揃って驚いていた。
「あー、飲んだ飲んだ」
妹紅は、至極満足した様子で縁側に座り、外の涼しい空気に当たっていた。
横には輝夜が座っている。脚を子供みたいにぶらぶらさせ、妹紅を見ていた。
「ふふ。平和ね、妹紅」
「そうだな。だけど私達が暴れたら、それも一気に崩れ落ちる」
「それもそうね」
口元を裾で隠しながら、輝夜はくすくすと笑った。
その時だった。何処か後方で轟音が鳴り響いた。
妹紅と輝夜は、平和が崩れ落ちたのかと思った。
直後、1羽の兎が2人の元にやってきた。
「何事?」
輝夜は落ち着いた素振りで兎に尋ねた。
「姫様! よ、妖怪が!」
「妖怪だとぉ?」
妹紅は呆れるような口調で言った。
こんな夜に永遠亭を襲撃する妖怪がいるとは。
一体、何処の馬鹿がこんな事をやらかしたのか。妹紅はその妖怪の親の顔を見たい気分になっていた。
「おーおー。こりゃ見事な妖怪さんだこと」
現場に駆け付けた妹紅は、関口一番そう語った。
至る部分に篝火が焚かれていたので、妹紅は、相手をしっかり見る事ができた。
姿形は凶暴化したライオンのような獣の妖怪だった。
―――――待てよ。
何処かで見たと思ったら、この前人里を襲撃して、返り討ちにしてやって、取り逃がした奴だ。
多分、消し炭にされた仲間の仇を討つため、私の匂いをかいでここに来たのだろう。
その時、兎数羽が赤い弾幕の集中砲火を浴びせていたが、決定打にはなっていなかった。
妖怪も何とか反撃を伺うも、次々と放たれる攻撃に、防御する事が手一杯だった。
「どけ、私が始末してやる」
鈴仙達の臨戦態勢が整う前に、妹紅は退治を買って出た。
「あら、頼もしいわね。それじゃあ、お手並みを拝見」
いつもの口調で輝夜は言った。
「言われなくても!」
次の瞬間、妹紅は縮地から飛び蹴りを妖怪の顔面にお見舞いした。
よろめく妖怪の腹部に右足を放ち、左上段回し蹴りを頭部に喰らわせる。
妹紅の攻撃は止まらない。炎を纏った拳を連続で腹部に叩く。
左、右、左、右。リズミカルに打ち込まれる連打の後、強烈な左ストレートを放った。
妖怪の巨大な身体が大きく吹き飛ばされる。
それでも妖怪は体勢を立て直し、その牙を向けて妹紅に突進した。
妹紅は左のポケットから、一枚のカードを取り出した。
その動きは洗練されていてまさに瀟洒。カードを天に投げると、彼女は技を発動させるために口を動かした。
「光符―――――『アマテラス』!!!」
次の瞬間、カードから無数の赤と青の光が放たれた。
全方位
光は妖怪に確かに命中したが、分厚い外皮がある程度のダメージを和らげた。
だが、それでも効いているのは確かだった。妖怪は
「チッ、ならば完全にチリひとつ残さず、消滅させてやる!!!」
妹紅が叫んだと同時、彼女の背部から炎の翼が展開された。
それだけではなかった。全身が炎に包まれ、それと一体化しているようであった。
「蓬莱―――――凱風快晴―――――――――――」
そこまで言って、妹紅の脳裏に親友の言葉が過ぎった。
『………何故だ。……妹紅、お前は何故殺した!?』
………何故殺すかって? 妖怪は人間の敵だ。
私だって、力が無かった時は妖怪に襲われ、不老不死であるが、死ぬかと思った。
妖怪は人間を喰う。喰われたくなければ追い払うか殺すしかない。
私はそいつが二度と襲ってこないようにする。つまり殺す。
しかし、この虚しさは何だ?
別に殺す事に感情など持たないはずの私が、どうして今ここでためらっている。
頼む、教えてくれ慧音。私はどうすれば良いんだ?
『………殺すな、妹紅』
その時だった。
妹紅の身体から、炎が消え去っていった。
彼女は何処か遠くを見詰めていた。倒すべき妖怪ではなく、本当に遠い何処かを見ていた。
妖怪は、雄叫びを上げながら退散していった。ガサガサと竹薮の中を抜けていき、姿を掻き消した。
右手には今だ炎が燃えていた。妹紅はそれを空で払って消した。
誰もが皆、時間が止まってしまったかのように動かなかった。
ただひとり、妹紅は両手をポケットに突っ込んで、縁側へ戻ろうとした。
輝夜は何も言わずに立っていた。妹紅は黙って輝夜の横を通り過ぎる。
「………どうして止めを刺さなかったの?」
輝夜は言った。
「―――慧音は言ってた。むやみやたらに妖怪を殺すなって」
首を上げ、綺麗な星を見ながら妹紅は言った。
確か、人間は死んだら星になるって、誰が言っていたっけ。
それはあくまで俗説に過ぎないが、もしそれが本当ならば、慧音は何処で輝き、何処で自分を見守ってくれているのだろうか。
「ふぅん。…それは貴女にとっては有益なのかしら?」
「さあな。ただ、わかった事があるよ」
妹紅は腕を組みながら言った。
「何?」
「慧音が言ってた事は、私を良い方向に導いてくれた事だ」
そう言うと、妹紅は大きく息を吐いた。
「邪魔したな。帰る」
「……………」
輝夜は黙っていた。
何か言うべき言葉があったのは確かだが、彼女は何も言わなかった。
妹紅は、炎の翼をはためかせると、そのまま暗い上空へ飛んでいった。
輝夜はずっと見送っていた。
赤く光る物体が視界から消えても、そのまま立っていた。
「全く、貴女らしい悲しみの表現方法ね」
そう呟くと、輝夜は帰るべき方向へと足を運んだ。
藤原妹紅は、自宅へと戻っていた。
かつて上白沢慧音が建て、今では妹紅が受け継いだ、人里が見下ろせる位置にある家。
カンテラに火を灯し、わずかな明かりを付ける。
妹紅は椅子に座り、両肘を机の上に付け、両手で頭を抑え、大きく息を吐いた。
悲しみなんて、克服したはずだった。
だが、それでもその傷が癒える事は無かった。
幻想郷に始めてやってきて、見ず知らずの人間火炎放射器を怖がらず、暖かく迎えてくれたのは慧音だった。
元々身内から疎まれ、世間から見捨てられたも同然だった妹紅は、『他人』というのがどうしても信用出来なかった。
しかし、何故だか彼女はそんな自分に対し、あれこれと面倒を見てくれた。
思えば、あれが始めて出来た友達だった。共に語り合い、笑い合い、泣き合い―――喧嘩だってした。
「………慧音」
妹紅は左手で目頭を抑えた。
自分らしくもない。どうしてそれだけで泣いてしまうのだろうか。
ふと、急用を思い出したかのように、妹紅は足を動かした。
窓を開け、星空を眺めた。
「……………」
見た所で、妹紅は何も言えなかった。
ただ、涙がぽろぽろと零れていくのはわかった。
自分が星になる事は無い。だから、一層悲しい。
その悲しさを一緒に背負っていくのは、不倶戴天の敵だというのはわかっているけれど。
ああ、そうか。それを乗り越える事が私の使命なのかもしれない。
全く、何処のお姫様じゃあるまいし、難題を私に与えるなんて。
妹紅はあれこれ思いながら窓を閉めた。
安心しろ、私はひとりじゃない。
私には、大切な友達と、賑やかな知り合いがいるんだ。
妹紅は机に戻ると、読みかけの日記を取り出した。
今日は何処まで読む事ができるのだろうかと思いつつ、彼女は巻物を広げた。
幻想郷の夜は更けていく。
無数の星と、見事な月の輝きが、暗い夜を照らしていた。
確かに。
私のイメージではアー○デー○ンの方と被るのですg(アポロ13