「それは不死ではないな」
その男は、そう言ったものだ。
「不死の実証はこの世界を永遠に呪うんだとか何とか」
それはくだらない話だったが。
「本当に永遠に終わらないものなんか、ないんだそうだ。人間の一生の上では永久と言っていい時間ではあるのだろうが、宇宙の歴史という尺度で見れば決して長くはないんだろう」
ある晴れた秋の日のことだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
例えば季節が移り変わっても、環境に劇的な変化が現れるわけではないし、習慣というのはその程度のことで揺らぐものではない。
博麗霊夢は落葉の降りしきる乾いた境内を眺めていた。傍らには茶碗を置き、何をするでもなく石畳に視線を落としている。
風が虫達を呼んではどこかへと誘っていく。そろそろ斜めに差し始めた日の光を透かし、トンボが数匹墨を引くような軌跡で上空を飛び去っていった。
彼女はのんびりとお茶をとり、ずずずとすすり始める。
そのとき意識したのは、いずれは掃き清めないと落ち葉が厄介なことになるなとか、そういったことだったが、
「ぶめぎゃ!」
突然境内に響いた悲鳴のせいで、広場の真ん中に目を向けた。
そこでは、なにやら一人の男がうつぶせに不自然な姿勢で横たわっている。間違いなくついさっきまではいなかったが。
――不自然な姿勢。霊夢は胸中で繰り返した。
地面に叩きつけられたような格好で寝ている上、右腕がありえない方向に捻じ曲がっているように見えた。
「ぐぅ……うーむ、ぬかった」
しかし当人はそんなことには気づいてもいないらしい。老人を思わせるふらふらした動きでやたら時間をかけて身を起こす。
奇妙な男ではあった。
霊夢には背中を向けているので子細は掴めないが、一枚でできた大振りな黒いマントで体全体を覆っている。ところどころ垣間見える内部は、光沢を湛えたマントとつりあわない簡素な造りの服ようで、着古した旅装を思わせた。針のように鋭い髪を首の辺りで無造作に縛っているが、それは銀色に薄紅色をしみこませたような特長的な色をしていた。
男は、そういった観察を終えたあたりでようやく立ち上がる。背は高い。
右腕はいつの間にかマントの中に仕舞われていた。
顔を上げ、秋の空を見上げながら何事かひとりごちる。
「奴め、殺す気か。こっそり忍び込むはずが……やれやれ、予定変更だ」
軽い調子にもかかわらず、その声にはどこか落ち着いた重みと深みがあった。声からすると、中年かそこらという感じだ。
最後まで霊夢に背を向けたまま、その男は何事もなかったように外へと足を向けた。実際、本当に気づいていなかったのかもしれない。
あまりにも自然な足取りで神社を後にする男の背中を見送ると、霊夢はずっと茶碗を握っていたそのままの姿勢で、
「……何、誰?」
とだけつぶやいた。
■ ● ■
朝早くからやってきた慧音が、大根を掲げている。
「どうだ、新鮮だぞ?」
「おいしそうね。ありがと」
巨大なかごに突っ込まれた無数の野菜を一つ一つ取り出しながら、慧音は農家の人々の暮らしをいくつか聞かせてくれたりした。里の人たちは、皆気のいい連中らしい。
妹紅は必要な分だけ野菜を受け取って、慧音に礼を述べる。
本来彼女の肉体は食事を必要としない、食べるという行為はある種の娯楽のようなものだ。昔、しばらく何も口にしないで生きていた時期に比べれば、今はかなり健康的になった。
もちろん生理的な意味での健康とは無縁だが。
慧音は再びかごを背負うと、窓の向こうに見える数本のうねを眺めた。
「外のあれだが……」
「うん、種を植えて水をやるだけであそこまで育つのね。簡単じゃない」
「本業はそうはいかんぞ。病気や環境に気を使わねばならんし……養分の問題でな、いずれは必ず土地の枯れる日が来るのだ。しかしそれを少しでも先延ばしにするため、先人達は知恵を絞ってきた」
そう言って外へ出る。妹紅がそれに続くと、慧音は畑――というにはあまりにも小規模だが、とにかく――で青々と茂る葉っぱを、一つずつ手にとって細かい確認をしていた。
「このシソ、もう食べ頃だぞ。キュウリも順調だな」
「へぇ、こんなんだけど、もう食べれるんだ。昨日まで普通に育ててたのに、なんか変な感じ」
「刻んでご飯に振るか? 葉っぱを一枚丸ごと油で揚げるのも、なかなかおいしいが」
「じゃあてんぷらで」
その後も豆や芋など、畑に育つ作物たち全てを見て回ってくれた。
慧音は丁寧に指示を出してくれる。妹紅はそれらをしっかりと記憶しながら、数ヶ月前の開墾当時の様子を振り返っていた。
農作物を育てるなど、初めてだったのだ。実際には整備は全て慧音と里の人たちがやってくれたので、妹紅のやったことは本当に種をまいて水をやっただけだったが。
それでも育つものだ。しかもついに食べられるという。複雑な心境ではあるものの、やはり嬉しい。
「いよいよ食べられるんだ――」
と、そのとき。
「助けてくれぇぇ……!」
ふいに叫び声が聞こえた。竹林の向こうで、何か穏やかならぬ気配を感じる。遠いが……
妹紅が慧音を見やると、彼女はすでにかごを下ろして声の元へ駆け出しているところだった。
「なんなのよ、せっかく喜びに浸ってるときに……」
放っておくわけにもいかない。妹紅も声の方向に当たりをつけて走り出す。
進路をさえぎる邪魔な竹は全て気合でふっとばし、野生動物じみたキレのよさで木立を縫っていく慧音の背中目指して疾走した。
しばらく走って分かったが、悲鳴の主は声の割に余裕があるようだった。ぐおぁ、だの、でやぁ、だのいまいち中途半端な叫びを響かせて、しかも移動しているらしい。妹紅たちのコースが若干カーブしている。
やる気が薄い妹紅は、この時点で走るのをやめた。先行する慧音に任せ、事態が終わってから到着するつもりでゆっくりと進んでいく。
そんな妹紅の視界の隅を何かが横切った。気づいたのは歩調を緩めたからだろう、その影は意外な近さにいた。
「猿」
竹にしがみつくその姿を見上げ、妹紅は眉をひそめる。
ただの猿ではなく、歴とした妖怪――霊獣だ。いわゆる雑魚なのだが、群れで生活する彼らの総数はしゃれ抜きに尋常ではない。下手にちょっかいを出すとその群れ全体で襲ってくるため、この猿を相手にするような人間はいないはずだった。妖怪もいないだろう。
「どこのバカよ」
つまり、何かの理由でこの猿の群れに追われているのだろう、悲鳴の主は。
本当に幻想郷の住人なのかと良識を疑いたくなるような行動だが……
前方がなにやら騒がしい。見覚えのある赤と青の光線が竹林を容赦なく破壊していくのが見えた。猿どもにも理性っぽいものはあるらしく、大規模な破壊を見せ付けられて一様に距離をとっている。
光線はなおもビカビカと派手にあたりを照らして威嚇を続けていた。その発信源が見えるあたりまで近づくと、案の定慧音が猿の大群ににらみを利かせている。
その背後に、見知らぬ男が一人。
片膝立ちの姿勢で顔の前に腕をかざしている。それに隠れて表情は窺えなかったが、あごに蓄えたヒゲや口元などから、どこか異質なものを感じる
――とても強く、感じる。
波が引くように、慧音の攻撃が静まった。猿たちもすぐに突っ込んでくるということはない。倒された数本の竹を乗り越え、妹紅は目を細めて男を見つめた。
「……そいつは?」
「さぁな、だが人間ではない。そしておそらくは……」
慧音は苦々しく言った。人間でないものを助けたというのがまず気に食わないのだろうが、それ以上におそらくは、
おそらくは。
薄ら寒いものを感じながら、妹紅にもその言葉の先が予見できた。
――幻想郷の外など、今となっては想像も出来ない世界だが。
「ここじゃ落ち着いて話も出来ないわね。家まで案内するよ」
ようやく警戒を解いて立ち上がる男に、妹紅は告げた。
その顔は、大部分が驚きに満ちているようだったが、あるいは好奇心らしき光も宿っていたかもしれない。
■ ● ■
「いや、すまん。なんと言って礼をすべきか……とにかく助かった」
茶の湯を沸かす慧音の傍らに座り、その男はまずそう切り出した。
帰り道にも猿たちは散発的に仕掛けてきたが、妹紅が手加減抜きの攻撃でまとめて吹っ飛ばしたのでもう懲りただろう。そういうわけで、まだ男の素性は聞いていない。
妹紅はもう一度、男を上から下まで眺めた。
奇天烈な印象の男である。
目鼻立ちや肌の色、輪郭、仕草――そう、仕草だ。細かい部分ではあるが、彼の立ち居振る舞いには妹紅たちと決定的な隔たりがあった。それを具体的に指摘出来るほど妹紅は鋭くはなかったが、漠然と脳裏で警鐘が鳴る。
正確な年齢はわからない。最後に見た父親より、多少若い……そんな歳。
長旅を経たのか、彼はあちこち擦り切れた頑丈な服を着ていた。彫りの深い目の奥には青い瞳があり、鼻梁も高い。あごは鋭角的で、それと同様に目つきにも険しさがあった。だが心中は穏やかな男なのだろう、それは声で分かる。
彼は妹紅の知るあらゆる男性より大きく見えた。
何より目を惹いたのが、銀糸を血で染めたような、錆びた毛の色。
「私のことは、ヴィクトールと呼んでくれ。なに、怪しい者ではない。私にできるお礼なら惜しまないが、何か――」
「何者だ?」
茶碗を差し出しながら、慧音が鋭くささやいた。
簡潔な問いだったが、ヴィクトールは何を指すかすぐに分かったらしい。もとより隠す気はないのか、茶碗を取りながら気楽に彼は告げた。
「外から来た。海の向こうでな、欧州の……いや、言っても分からんか。遠くの地で怪物をやっている」
「外……幻想郷の外、なの?」
予想していたとはいえ、自ら繰り返した言葉は思っていたより重い響きを持っていた。指をこすって、落ち着かない心地を無理に鎮める。
ヴィクトールは、こともなげに首を縦に振った。
「その通りだ。いわゆる博麗大結界を越えてきた」
「よく出来たな、そんな真似が……定住する気なのか?」
慧音は驚きというより、呆れたような顔でヴィクトールを見ていた。妹紅も詳しくは知らないが、博麗大結界にはとんでもなく難解な法則があるらしい。入ろうと思って入れるものではない……と思っていたが。
ヴィクトールは苦笑して頭を振った。
「いや、人に会いに来た。終わったら帰るつもりだ、故郷が心配だし」
「そうか……まぁ、人探しなら手伝えんこともない。何かの縁だ、道案内くらいはできるぞ」
「あぁ、そうではない。居場所は分かっているのだが、先方の都合でな。すぐに会いにいくということが出来んので、こうしてぶらぶらと物見遊山していた、というわけだ」
分かるような分からないようなことを言うヴィクトール。
慧音も特に追求しないようで、煎餅などつまんで窓の外を見上げていた。
(それにしても……)
外。
もし本当に外から来たのなら、只者ではないはずだ。
猿に追われていたのは、多分縄張りに踏み込んだからだろう。反撃かなにかしてしまい、数に圧されてなす術もなく撤退したというところか。一気に吹き飛ばすとか、そういった力はなかったようだ。
妹紅の目から見て、ヴィクトールはとても強そうには思えない。弱くもないだろうが、可もなく不可もなくというライン上に位置している気がする。
そんな妖怪がやすやすとこの地に踏み入れるのか?
納得いかない。
「結界の管理人、紫だっけ……あいつに招待されたの?」
「うん? あぁ、うむ、一応話はつけて、通してもらった」
「どうやって」
「……あの女怪、以前欧州で散々暴れまわった過去がある。そのときのツテを使って、何とか口を利いてもらったのだ」
「ほんとに?」
「さて、嘘かもしれん」
彼はいけしゃあしゃあと、そうつぶやいた。
妹紅は眉間にしわを寄せて立ち上がる。
「ビクトールとやら」
「ヴィクトール」
「あんた、人間襲う?」
「……襲うが」
「襲うな」
「そんな無茶な」
「そのお茶を飲み終わったら、とっとと出てけ。お礼はいらない。そして人は襲うな」
「…………」
ヴィクトールは何か反論しようとして、結局口の中に含んだだけで取り消したようだった。
慧音は無言で煎餅をかじっている。
妹紅は厳しい視線でヴィクトールを睨み続け、彼が無理やりな勢いでお茶を飲み干すまでずっと目を外さなかった。
残念そうな顔でため息を一つつきつつ、ヴィクトールは一気飲みしたお茶をことりと受け皿に戻す。
「大変世話になった、ありがとう。私はこれで失礼するよ。人間は襲わない」
「達者でな」
「不慣れなんでしょ、せいぜい慎重に行動するのよ」
ヴィクトールは苦笑を浮かべ、妹紅と慧音にそれぞれ視線を投げてから扉をくぐっていった。
奇妙な男ではあった。
妹紅は腕を組んで玄関の柱へもたれかかる。すぐに林に隠れて見えなくなった後姿を脳裏に再現し、どこか不機嫌な自分を自覚した。
「彼は……気に食わなかったようだな」
「何?」
慧音は座布団に座ったまま、妹紅を見ていた。あるいはその向こう、外のどこかか。
「妹紅の趣味ではなさそうだ、ということだ」
「……何をいきなり」
「ふふ……ただの例えだよ。どこかずれたような奴だったな。変わった男には違いない」
お茶を飲んで一拍入れると、慧音は思い出したように付け加えた。
「そう、人間を襲うなといってくれたな。ちょっと嬉しかった」
「慧音なら、あいつが“襲わない”って約束するまで帰さないでしょ? 成り行き上、私が代わりに言っただけよ。まぁ、気に食わない奴だったけどね」
「そうか……うむ、そうか。ありがとう」
慧音はいつもの厳しい顔を崩してふっと笑う。
妹紅もそれに笑みを返した。
■ ● ■
数日後が経った。
妹紅は崖の上に立って眼下に広がる幻想郷を見渡す。
そこからは遠くまでがとてもよく見通せる場所だった。山は遠く、ひたすらに平らな盆地がずっと向こうまで突き抜けるように伸びている。
その途中に、ぽつぽつと人工物が見て取れた。
いくつかは、里だ。それはつまり人の住む集落で、細々と質素に、だが活力にあふれ希望と共に生きる者たちの暮らす場所。
「かつて――」
誰もいない虚空へささやいた。
とうの昔に人間であることをやめた彼女は、いまさら何を言ったところで昔日の想い出に立ち返れるということはないのだろうが。
一抹の――あくまで一抹の寂しさはあった。
過去は変えられないものなのだろう。かつて彼女が一人の少女であったという歴史は、どんな手を使っても覆ることはない。それは、決められたことなのだ。
当たり前に受け入れねばならないことなのだ。
それを理解するということに、一抹の寂しさを感じる。
否定しても変わらないのだから、受け入れるしかないではないか……
それはつまり、人間をやめたということに対する、最後の証。
自ら永遠の民であることを認める。そういう儀式。
「……やっぱりちょっと寂しいものね」
妹紅は、人が好きでも嫌いでもない。
昔は嫌いだったが、友人の助けなどで色々変わった。たまに会いに行ったり向こうから来たりする里の人たちも、妹紅の心を少しずつ変えていったものだ。
もう、人の里で暮らすことはないだろうが――
「む」
ぼんやりと漂わせていた視界に気になるものを見つけ、妹紅は思考に沈んでいた意識を遠くの林に集中した。
木の群れを切り開いて作られた道がある。馬車が通れるほどの広さで、道端には一人の男が座ってなにやら休憩中らしかった。
遠目には、もちろん詳しい造作までは分からない。だがその髪の色だけは間違えようがなかった。
銀を紅く染めたような錆びた色。
「……あいつ」
妹紅は崖から踏み出すと、その男のいる道端までゆっくりと飛んでいった。
「まだいたのか」
「お? 君か。ご覧の通りだ」
妹紅が声をかけると、ヴィクトールは振り向いて肩をすくめてみせる。
「あんたさぁ」
「なんだ」
「喋りが慧音に似てるのよ。何とかならない?」
「……どうしようもなかろう。おそらくその慧音という人物と私は、似たような時期に似たようなものを見て似たようなことを考えたのではないかな。いまさら無意味だ」
苦笑と共に腕を持ち上げるヴィクトール。
その手にはヒョウタンが握られていた。それをあおる彼を見ながら、妹紅は手近な幹に背中を預ける。
「ビスクドールとやら」
「ヴィクトール……わざとやってるだろう。まぁ実家にはコレクションも数体あるが」
「そのヒョウタンはなんだ?」
「頂き物だ。この道の向こうの、あの村の男集から餞別に贈ってもらってな。昨夜は遅くまで飲み明かしたが、なかなか楽しかった」
「……村に、入ったの」
「これでも義理堅いつもりだ。約束を破ることはしない……私はな、今までもかなりの地域を旅してきた。当地の酒を味わうというのは、私の旅の楽しみの一つでもある。そこまでは奪わんでくれ」
「そう。何もしていないのなら、構わないけれど……」
ヴィクトールが指した村のほうを見やり、妹紅はなんとなくため息をついた。
何かあれば慧音がすぐに気づくだろうし、本当にただ酒を飲んだだけのようだ。
「彼らは凄いな」
ヴィクトールは独り言のように、本当にポツリとそうもらした。
返答を期待した台詞ではないらしく、手で虫を払うような仕草を交えてから、彼は付け加えた。
「私が怪物であることを見抜いた上で、共にテーブルを囲もうというのだから。まぁ、さすがに多少は怯えていたようではあったがね。だがそこは私の人当たりのよさでうまいことカバーし、大いに盛り上がったものだ」
「外の人間は、やっぱり怖がるのかしら」
大げさに語るヴィクトールは無視し、妹紅は気になったことを訊く。
「そうだな。もう地図の空白は埋まってしまった。怪物は消滅し――あぁ、やめよう。忌々しい」
言葉通りに苦い顔で、ヴィクトールは話題を打ち切った。
――地図の空白は埋まってしまった。
独特の印象を残す言葉だ。それと同時に唐突に浮かんだ疑問を、そのままヴィクトールへ問いかける。
「外の世界の妖怪は、どうやって暮らしてるの?」
「一般論というのはないな。地域によってまちまちだが、私の例でよければ身の回りの数点を説明しよう。例えば私は永遠の華の都、と呼ばれる都市で人間社会に混じって暮らしている。隣人は私のことを人間だと思って接しているし、人間としての仕事も立場もある。同じような境遇で生きている怪物たちは、あの都市にはかなり多い。他に……いや、そうだな。何よりも大切なことだが、私の故郷では、人間が主役なのだ」
彼が最後に、理解しかねるようなことを言った。
数秒ほどその言葉を反芻する。一応の答えは出たが、結局のところ、ヴィクトールの言わんとしていることとは別の解釈になっただろう。結論を出すまで黙考する間を与えてくれたということは、一拍あけて理解をしみこませるというつもりだったのかもしれない。
なんにせよ、感じたままを返す。
「妖怪が人間に従ってるって?」
「違うな、怪物はいないんだ。人間達の世界の中に、怪物の住める余地はない。人は、人の力をより高めるために、多くのものを後に捨ててきた……そういうものなのだろうよ」
ヴィクトールはヒョウタンに蓋をし、何気ない風でそう告げた。
多分、何気なく見えるのは外見だけで、彼もまた何か……一抹の寂しさを感じている。一瞬の会話の空隙というべきか、そんな“間”が、彼女にそう思わせた。
妹紅は木から離れると、地面に直接座っているヴィクトールの隣に腰を下ろした。
間近で見るヴィクトールは、どこか自嘲的な表情であるようにも見える。
「……これは全く関係のない話だがな。昔、ある修羅と会ったとき、こんなことを聞かされた。曰く。何十年かかっても決して海へ着かない隔絶された地があり、それは<ひむがし>と呼ばれている」
ヴィクトールは前触れなく話題を変えた。
「無意味にもそのときの話を思い出したよ。奴はこうも言った。人間は子を産む――つまり、不滅。命を語り継ぐ連綿とした蓄積は、おそらく誰もが持っている不滅への理想像に近い形なのだろう……」
彼はどこか、遠いところを見ていた。
ヴィクトールは今の言の通り、人間の持つ不滅性を信じているのだろうか。いや、おそらくは違う。あるいは本当に、意味もなく思い出したことをそのまま告げたのかもしれない。
どちらでもいい――妹紅は膝を抱えると、ほんの一瞬言葉を選んでから、ヴィクトールと同じように空に向かって口を開いた。
「蓬莱の薬っての、知ってるかしら」
「蓬莱。蓬莱というと……神仙の不死か」
「それを飲んだことがあるのよね」
「うむ?」
「だから、私は昔蓬莱の薬を飲んで不老不死になったの。もう何百年も昔のことだけどね」
視線をヴィクトールに向けると、彼はすでにぽかんとした表情で妹紅を見ていた。
「特に意味はない。あなたが不滅がどうとかいったから、単に言ってみただけで。あなたは人間が不滅だって言うけど、私は人間が滅びた後でもきっと生きてるわ」
「それは不死ではないな」
「――え?」
唐突に、かつ当たり前のようにヴィクトールは言い切った。この男と話していて、色々と意味不明なことを聞かされたが、その言葉は特に強烈だった。
思わず固まってしまった妹紅を見て、彼は――例えば、面白くもない冗談で空気が白けてしまって、それをごまかす。そんなありきたりさで普通に解説を入れてくる。
「いや、人類の不滅というのも、私から見れば不滅から程遠いとは思うよ。それと同様に、君の存在も不死とは違うと思う」
「……だ……な、何言ってるのよ?」
混乱で一瞬声が裏返った。
ヴィクトールはこともなげに続ける。
「一応、根拠はある。宇宙開闢以来、本当に不滅の物質など、何一つ存在していないからだ」
彼は言いながら、腰に下げた吊り紐からヒョウタンを取り外すと、
「飲むか?」
と妹紅に突き出してきた。
それは無視し、彼女は額を押さえてうめく。
「言ってる意味が分からない……」
「まぁ、そうだろうな。とりあえず飲んで落ち着け」
「…………」
からかって遊んでいる、のか?
いや、そうは思えない。彼はきっと、自分の思っていることをごく普通に口にしているだけだ。そういう空気を感じる。
ひとまずヒョウタンをひったくって喉に流し込む。一気に飲み下そうとして、強烈な喉の痺れに思いっきりむせた。
身体を折りながら、口に含んだ分の酒を全て吐き出す。頭の冷静な部分が、もったいないと不平をこぼしているが、どうしようもない。
ゴホゴホとあえぐ妹紅の背中に、誰かの手が添えられる。背後からはその主の声が聞こえた。
「……大丈夫か? すまん、強い酒だと先に伝えておくべきだった」
「うぅ……いや、いい。吹いた分はもったいないけど、多少は落ち着いた」
手を払い、強烈な睨みと共にひょうたんをつき返す。
口元を拭う妹紅を見ながら、ヴィクトールは笑顔で再びヒョウタンを腰へ吊るした。
「不死じゃないって言うけどね……実際、私は何度も蘇生してきたわよ。身体をばらばらにされても、結局は生き返った」
「家の外で、畑を耕していたな」
「……それが?」
「人間の多くは、肥料さえ適切にまけば半永久的に作物が取れるものだと思っている。だがそれは間違いだ。土壌はな、表面だけで出来ているのではない。人の手の入らない深い層からも、植物に必要な栄養は吸い出されていくんだ。だから、いずれは絶対に土地が枯れる。土地が永久的な存続を続けるには、別のサイクルが必要なんだ」
「…………」
「だがその理論を、現代学問の不備だと指摘することもできる。君が感じているのは、そのあたりの感情だろう」
ヴィクトールは一度言葉を切ると、道に視線を落として数秒沈黙した。
彼は、妹紅を不死ではないと言う。確かに彼は彼女の蘇生を目にしたことはない。しかし彼の場合は偏見とは違う……彼はすぐ隣に座っているが、実際はもっと遠い場所から妹紅のことを見ているようだ。だから、ただ言葉を聞いただけでは彼の言いたいことを取り違えてしまう。
「大昔、ある魔術師がいた。そいつは数多くの実績を残した偉大といっていい魔術師だったが、不死についてもコメントを残している。なんでも真に不死秘法に到達した術者は、この宇宙に留まることは出来ないらしい」
ヴィクトールは無表情とも取れるような真面目顔で、指で地面に丸をなぞり始める。
「どういうこと?」
「私にも分からん。ただ、不死の実証はこの世界を永遠に呪うんだとか何とか」
指を止め、顔を上げて、
「君は、君とその周辺の何かを呪っているかもしれないが、さすがに世界とまでは呪っているわけでなかろう。不死ではない、という理由の一つにはなる」
「……私は」
ポツリとつぶやいた言葉の続きを探し、妹紅は自然と膝頭に目を落とした。
私は――なんなのだろう。
今まで不死不滅だと思っていた。だがこの男はあっさりとそれを否定する。
“不死ではない”とはいってもその意味は、限りなく不死に近いが完全ではない、そういうことだと思う。完全ではない。
妹紅は肩を落とし、認めた。数分前までは完全だと思っていた。だがヴィクトールは、妹紅と会う遥か昔から、完全なものなど何もないと――そう結論している。
先を続けられなくなった妹紅を察したか、ヴィクトールはまた話題を変えた。
「君は、映画を見るか?」
「……エイガ? 妖怪か何か?」
「……そうか、無いのか。まぁいい、勝手に進める。一昔前の作品だが、ドクターE.L.Bとその友人マクフライのドタバタ活劇を描いた素晴らしい映画があった。不死の実在は、その物語のパラドックスに通じる概念があると思う」
「全く分からない」
「すまん、言ってみただけだ……」
ヴィクトールはぽりぽりと頬をかいてごまかす。
話が続かなくなったらとりあえず目先を変える主義なのか、彼はさらに趣旨を切り替えて続けた。
「これも他人の受け売りだがな。繰り返しになるが、本当に永遠に終わらないものなんか、ないんだそうだ。人間の一生の上では永久と言っていい時間ではあるのだろうが、宇宙の歴史という尺度で見れば決して長くはないんだろう」
「本当に永遠に、ね……もしそうなら――」
「そうなら?」
「私は現状でも十分満足してるほうだけど、多少は先が見えたような、そんな気分かな」
「……そうか。うむ」
ヴィクトールはうなずくと、後ろに手をついて高い空を見上げた。
妹紅もそれに倣う。霞がかったうす雲が、青空にいくつかのすじを引いていた。秋の空は抜けるように高い。遠くでは、野鳥達がくの字に編隊を組んで飛んでいた。
隣でヴィクトールが身じろぎと共に立ち上がる。目で追うと、幹に手をついて軽く身体をほぐしていた。
「そろそろ行こうと思う。この郷は広いしな、もうここに立ち寄ることは無かろう」
「あ、そう」
思っていたよりそっけない返事を返してしまった。ヴィクトールは少し肩をすくめて妹紅に顔を向ける。
「……さっきまでの話は、大部分を引用ですませてしまったが、最後に私から一つ。本当に不死不滅なるものがあれば、それは未来永劫に渡って同じものであり続けるということだ」
妹紅が尻をはたいて立ち上がるのに重ねるように、ヴィクトールは静かに告げてきた。
「つまりは過去にさかのぼっても、全て同じ存在であり続けてきたということでもある。もし――もしだ。もし一度でも変化を経てしまったのなら、それは二度目の変化も許すということに他ならない」
腕組みし、難しい顔で語るヴィクトールの正面に立って、妹紅は彼の別れの言葉を静かに聞いていた。
「だが私の考える限り、永遠不変の存在は一つしかない。“この宇宙そのもの”だ。君は誕生当時から今にいたるまで、ずっと同じでは、無かろう?」
つまりは、そういうことなのだろう。
彼との会話は決して長いとはいえなかったが、それでも分かることがあった。
完全ではない。そして完全ではない以上、いつかは滅びる。
それは人のいう不死に限りなく近いのだろうが、いつかは、滅びる。
ヴィクトールは話を終えると、余韻に重みを持たせることも無くくるりと背を向けた。
「ではな」
「うん、せいぜい元気でね。探し人、うまく会えるといいわね」
「うーむ、応援に応えるべく努力しよう」
気の抜ける挨拶を交し合い、ヴィクトールは道の向こうへ歩いていった。
それを見送る。
まだその影が遠くないうちに、妹紅は彼から視線を外すと、思わず苦笑いを浮かべて空へ飛び上がった。
こんな日々にも、いつかは終わりが来るという。
それは訪れるべくして訪れるだろう。排すべきものではない、それが本来の世界であり、生命としてのリスクだ。
だけど、それは永遠の未来といってもいい先のこと。
希望であるのか、絶望であるのか。
それはそのときに決めればいい。今はただ、いずれ来る日を受け入れる。それだけだ。
妹紅は秋の陽を受けてくるくると飛びながら、住まいへの帰り道を楽しんでいた。
その男は、そう言ったものだ。
「不死の実証はこの世界を永遠に呪うんだとか何とか」
それはくだらない話だったが。
「本当に永遠に終わらないものなんか、ないんだそうだ。人間の一生の上では永久と言っていい時間ではあるのだろうが、宇宙の歴史という尺度で見れば決して長くはないんだろう」
ある晴れた秋の日のことだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
例えば季節が移り変わっても、環境に劇的な変化が現れるわけではないし、習慣というのはその程度のことで揺らぐものではない。
博麗霊夢は落葉の降りしきる乾いた境内を眺めていた。傍らには茶碗を置き、何をするでもなく石畳に視線を落としている。
風が虫達を呼んではどこかへと誘っていく。そろそろ斜めに差し始めた日の光を透かし、トンボが数匹墨を引くような軌跡で上空を飛び去っていった。
彼女はのんびりとお茶をとり、ずずずとすすり始める。
そのとき意識したのは、いずれは掃き清めないと落ち葉が厄介なことになるなとか、そういったことだったが、
「ぶめぎゃ!」
突然境内に響いた悲鳴のせいで、広場の真ん中に目を向けた。
そこでは、なにやら一人の男がうつぶせに不自然な姿勢で横たわっている。間違いなくついさっきまではいなかったが。
――不自然な姿勢。霊夢は胸中で繰り返した。
地面に叩きつけられたような格好で寝ている上、右腕がありえない方向に捻じ曲がっているように見えた。
「ぐぅ……うーむ、ぬかった」
しかし当人はそんなことには気づいてもいないらしい。老人を思わせるふらふらした動きでやたら時間をかけて身を起こす。
奇妙な男ではあった。
霊夢には背中を向けているので子細は掴めないが、一枚でできた大振りな黒いマントで体全体を覆っている。ところどころ垣間見える内部は、光沢を湛えたマントとつりあわない簡素な造りの服ようで、着古した旅装を思わせた。針のように鋭い髪を首の辺りで無造作に縛っているが、それは銀色に薄紅色をしみこませたような特長的な色をしていた。
男は、そういった観察を終えたあたりでようやく立ち上がる。背は高い。
右腕はいつの間にかマントの中に仕舞われていた。
顔を上げ、秋の空を見上げながら何事かひとりごちる。
「奴め、殺す気か。こっそり忍び込むはずが……やれやれ、予定変更だ」
軽い調子にもかかわらず、その声にはどこか落ち着いた重みと深みがあった。声からすると、中年かそこらという感じだ。
最後まで霊夢に背を向けたまま、その男は何事もなかったように外へと足を向けた。実際、本当に気づいていなかったのかもしれない。
あまりにも自然な足取りで神社を後にする男の背中を見送ると、霊夢はずっと茶碗を握っていたそのままの姿勢で、
「……何、誰?」
とだけつぶやいた。
■ ● ■
朝早くからやってきた慧音が、大根を掲げている。
「どうだ、新鮮だぞ?」
「おいしそうね。ありがと」
巨大なかごに突っ込まれた無数の野菜を一つ一つ取り出しながら、慧音は農家の人々の暮らしをいくつか聞かせてくれたりした。里の人たちは、皆気のいい連中らしい。
妹紅は必要な分だけ野菜を受け取って、慧音に礼を述べる。
本来彼女の肉体は食事を必要としない、食べるという行為はある種の娯楽のようなものだ。昔、しばらく何も口にしないで生きていた時期に比べれば、今はかなり健康的になった。
もちろん生理的な意味での健康とは無縁だが。
慧音は再びかごを背負うと、窓の向こうに見える数本のうねを眺めた。
「外のあれだが……」
「うん、種を植えて水をやるだけであそこまで育つのね。簡単じゃない」
「本業はそうはいかんぞ。病気や環境に気を使わねばならんし……養分の問題でな、いずれは必ず土地の枯れる日が来るのだ。しかしそれを少しでも先延ばしにするため、先人達は知恵を絞ってきた」
そう言って外へ出る。妹紅がそれに続くと、慧音は畑――というにはあまりにも小規模だが、とにかく――で青々と茂る葉っぱを、一つずつ手にとって細かい確認をしていた。
「このシソ、もう食べ頃だぞ。キュウリも順調だな」
「へぇ、こんなんだけど、もう食べれるんだ。昨日まで普通に育ててたのに、なんか変な感じ」
「刻んでご飯に振るか? 葉っぱを一枚丸ごと油で揚げるのも、なかなかおいしいが」
「じゃあてんぷらで」
その後も豆や芋など、畑に育つ作物たち全てを見て回ってくれた。
慧音は丁寧に指示を出してくれる。妹紅はそれらをしっかりと記憶しながら、数ヶ月前の開墾当時の様子を振り返っていた。
農作物を育てるなど、初めてだったのだ。実際には整備は全て慧音と里の人たちがやってくれたので、妹紅のやったことは本当に種をまいて水をやっただけだったが。
それでも育つものだ。しかもついに食べられるという。複雑な心境ではあるものの、やはり嬉しい。
「いよいよ食べられるんだ――」
と、そのとき。
「助けてくれぇぇ……!」
ふいに叫び声が聞こえた。竹林の向こうで、何か穏やかならぬ気配を感じる。遠いが……
妹紅が慧音を見やると、彼女はすでにかごを下ろして声の元へ駆け出しているところだった。
「なんなのよ、せっかく喜びに浸ってるときに……」
放っておくわけにもいかない。妹紅も声の方向に当たりをつけて走り出す。
進路をさえぎる邪魔な竹は全て気合でふっとばし、野生動物じみたキレのよさで木立を縫っていく慧音の背中目指して疾走した。
しばらく走って分かったが、悲鳴の主は声の割に余裕があるようだった。ぐおぁ、だの、でやぁ、だのいまいち中途半端な叫びを響かせて、しかも移動しているらしい。妹紅たちのコースが若干カーブしている。
やる気が薄い妹紅は、この時点で走るのをやめた。先行する慧音に任せ、事態が終わってから到着するつもりでゆっくりと進んでいく。
そんな妹紅の視界の隅を何かが横切った。気づいたのは歩調を緩めたからだろう、その影は意外な近さにいた。
「猿」
竹にしがみつくその姿を見上げ、妹紅は眉をひそめる。
ただの猿ではなく、歴とした妖怪――霊獣だ。いわゆる雑魚なのだが、群れで生活する彼らの総数はしゃれ抜きに尋常ではない。下手にちょっかいを出すとその群れ全体で襲ってくるため、この猿を相手にするような人間はいないはずだった。妖怪もいないだろう。
「どこのバカよ」
つまり、何かの理由でこの猿の群れに追われているのだろう、悲鳴の主は。
本当に幻想郷の住人なのかと良識を疑いたくなるような行動だが……
前方がなにやら騒がしい。見覚えのある赤と青の光線が竹林を容赦なく破壊していくのが見えた。猿どもにも理性っぽいものはあるらしく、大規模な破壊を見せ付けられて一様に距離をとっている。
光線はなおもビカビカと派手にあたりを照らして威嚇を続けていた。その発信源が見えるあたりまで近づくと、案の定慧音が猿の大群ににらみを利かせている。
その背後に、見知らぬ男が一人。
片膝立ちの姿勢で顔の前に腕をかざしている。それに隠れて表情は窺えなかったが、あごに蓄えたヒゲや口元などから、どこか異質なものを感じる
――とても強く、感じる。
波が引くように、慧音の攻撃が静まった。猿たちもすぐに突っ込んでくるということはない。倒された数本の竹を乗り越え、妹紅は目を細めて男を見つめた。
「……そいつは?」
「さぁな、だが人間ではない。そしておそらくは……」
慧音は苦々しく言った。人間でないものを助けたというのがまず気に食わないのだろうが、それ以上におそらくは、
おそらくは。
薄ら寒いものを感じながら、妹紅にもその言葉の先が予見できた。
――幻想郷の外など、今となっては想像も出来ない世界だが。
「ここじゃ落ち着いて話も出来ないわね。家まで案内するよ」
ようやく警戒を解いて立ち上がる男に、妹紅は告げた。
その顔は、大部分が驚きに満ちているようだったが、あるいは好奇心らしき光も宿っていたかもしれない。
■ ● ■
「いや、すまん。なんと言って礼をすべきか……とにかく助かった」
茶の湯を沸かす慧音の傍らに座り、その男はまずそう切り出した。
帰り道にも猿たちは散発的に仕掛けてきたが、妹紅が手加減抜きの攻撃でまとめて吹っ飛ばしたのでもう懲りただろう。そういうわけで、まだ男の素性は聞いていない。
妹紅はもう一度、男を上から下まで眺めた。
奇天烈な印象の男である。
目鼻立ちや肌の色、輪郭、仕草――そう、仕草だ。細かい部分ではあるが、彼の立ち居振る舞いには妹紅たちと決定的な隔たりがあった。それを具体的に指摘出来るほど妹紅は鋭くはなかったが、漠然と脳裏で警鐘が鳴る。
正確な年齢はわからない。最後に見た父親より、多少若い……そんな歳。
長旅を経たのか、彼はあちこち擦り切れた頑丈な服を着ていた。彫りの深い目の奥には青い瞳があり、鼻梁も高い。あごは鋭角的で、それと同様に目つきにも険しさがあった。だが心中は穏やかな男なのだろう、それは声で分かる。
彼は妹紅の知るあらゆる男性より大きく見えた。
何より目を惹いたのが、銀糸を血で染めたような、錆びた毛の色。
「私のことは、ヴィクトールと呼んでくれ。なに、怪しい者ではない。私にできるお礼なら惜しまないが、何か――」
「何者だ?」
茶碗を差し出しながら、慧音が鋭くささやいた。
簡潔な問いだったが、ヴィクトールは何を指すかすぐに分かったらしい。もとより隠す気はないのか、茶碗を取りながら気楽に彼は告げた。
「外から来た。海の向こうでな、欧州の……いや、言っても分からんか。遠くの地で怪物をやっている」
「外……幻想郷の外、なの?」
予想していたとはいえ、自ら繰り返した言葉は思っていたより重い響きを持っていた。指をこすって、落ち着かない心地を無理に鎮める。
ヴィクトールは、こともなげに首を縦に振った。
「その通りだ。いわゆる博麗大結界を越えてきた」
「よく出来たな、そんな真似が……定住する気なのか?」
慧音は驚きというより、呆れたような顔でヴィクトールを見ていた。妹紅も詳しくは知らないが、博麗大結界にはとんでもなく難解な法則があるらしい。入ろうと思って入れるものではない……と思っていたが。
ヴィクトールは苦笑して頭を振った。
「いや、人に会いに来た。終わったら帰るつもりだ、故郷が心配だし」
「そうか……まぁ、人探しなら手伝えんこともない。何かの縁だ、道案内くらいはできるぞ」
「あぁ、そうではない。居場所は分かっているのだが、先方の都合でな。すぐに会いにいくということが出来んので、こうしてぶらぶらと物見遊山していた、というわけだ」
分かるような分からないようなことを言うヴィクトール。
慧音も特に追求しないようで、煎餅などつまんで窓の外を見上げていた。
(それにしても……)
外。
もし本当に外から来たのなら、只者ではないはずだ。
猿に追われていたのは、多分縄張りに踏み込んだからだろう。反撃かなにかしてしまい、数に圧されてなす術もなく撤退したというところか。一気に吹き飛ばすとか、そういった力はなかったようだ。
妹紅の目から見て、ヴィクトールはとても強そうには思えない。弱くもないだろうが、可もなく不可もなくというライン上に位置している気がする。
そんな妖怪がやすやすとこの地に踏み入れるのか?
納得いかない。
「結界の管理人、紫だっけ……あいつに招待されたの?」
「うん? あぁ、うむ、一応話はつけて、通してもらった」
「どうやって」
「……あの女怪、以前欧州で散々暴れまわった過去がある。そのときのツテを使って、何とか口を利いてもらったのだ」
「ほんとに?」
「さて、嘘かもしれん」
彼はいけしゃあしゃあと、そうつぶやいた。
妹紅は眉間にしわを寄せて立ち上がる。
「ビクトールとやら」
「ヴィクトール」
「あんた、人間襲う?」
「……襲うが」
「襲うな」
「そんな無茶な」
「そのお茶を飲み終わったら、とっとと出てけ。お礼はいらない。そして人は襲うな」
「…………」
ヴィクトールは何か反論しようとして、結局口の中に含んだだけで取り消したようだった。
慧音は無言で煎餅をかじっている。
妹紅は厳しい視線でヴィクトールを睨み続け、彼が無理やりな勢いでお茶を飲み干すまでずっと目を外さなかった。
残念そうな顔でため息を一つつきつつ、ヴィクトールは一気飲みしたお茶をことりと受け皿に戻す。
「大変世話になった、ありがとう。私はこれで失礼するよ。人間は襲わない」
「達者でな」
「不慣れなんでしょ、せいぜい慎重に行動するのよ」
ヴィクトールは苦笑を浮かべ、妹紅と慧音にそれぞれ視線を投げてから扉をくぐっていった。
奇妙な男ではあった。
妹紅は腕を組んで玄関の柱へもたれかかる。すぐに林に隠れて見えなくなった後姿を脳裏に再現し、どこか不機嫌な自分を自覚した。
「彼は……気に食わなかったようだな」
「何?」
慧音は座布団に座ったまま、妹紅を見ていた。あるいはその向こう、外のどこかか。
「妹紅の趣味ではなさそうだ、ということだ」
「……何をいきなり」
「ふふ……ただの例えだよ。どこかずれたような奴だったな。変わった男には違いない」
お茶を飲んで一拍入れると、慧音は思い出したように付け加えた。
「そう、人間を襲うなといってくれたな。ちょっと嬉しかった」
「慧音なら、あいつが“襲わない”って約束するまで帰さないでしょ? 成り行き上、私が代わりに言っただけよ。まぁ、気に食わない奴だったけどね」
「そうか……うむ、そうか。ありがとう」
慧音はいつもの厳しい顔を崩してふっと笑う。
妹紅もそれに笑みを返した。
■ ● ■
数日後が経った。
妹紅は崖の上に立って眼下に広がる幻想郷を見渡す。
そこからは遠くまでがとてもよく見通せる場所だった。山は遠く、ひたすらに平らな盆地がずっと向こうまで突き抜けるように伸びている。
その途中に、ぽつぽつと人工物が見て取れた。
いくつかは、里だ。それはつまり人の住む集落で、細々と質素に、だが活力にあふれ希望と共に生きる者たちの暮らす場所。
「かつて――」
誰もいない虚空へささやいた。
とうの昔に人間であることをやめた彼女は、いまさら何を言ったところで昔日の想い出に立ち返れるということはないのだろうが。
一抹の――あくまで一抹の寂しさはあった。
過去は変えられないものなのだろう。かつて彼女が一人の少女であったという歴史は、どんな手を使っても覆ることはない。それは、決められたことなのだ。
当たり前に受け入れねばならないことなのだ。
それを理解するということに、一抹の寂しさを感じる。
否定しても変わらないのだから、受け入れるしかないではないか……
それはつまり、人間をやめたということに対する、最後の証。
自ら永遠の民であることを認める。そういう儀式。
「……やっぱりちょっと寂しいものね」
妹紅は、人が好きでも嫌いでもない。
昔は嫌いだったが、友人の助けなどで色々変わった。たまに会いに行ったり向こうから来たりする里の人たちも、妹紅の心を少しずつ変えていったものだ。
もう、人の里で暮らすことはないだろうが――
「む」
ぼんやりと漂わせていた視界に気になるものを見つけ、妹紅は思考に沈んでいた意識を遠くの林に集中した。
木の群れを切り開いて作られた道がある。馬車が通れるほどの広さで、道端には一人の男が座ってなにやら休憩中らしかった。
遠目には、もちろん詳しい造作までは分からない。だがその髪の色だけは間違えようがなかった。
銀を紅く染めたような錆びた色。
「……あいつ」
妹紅は崖から踏み出すと、その男のいる道端までゆっくりと飛んでいった。
「まだいたのか」
「お? 君か。ご覧の通りだ」
妹紅が声をかけると、ヴィクトールは振り向いて肩をすくめてみせる。
「あんたさぁ」
「なんだ」
「喋りが慧音に似てるのよ。何とかならない?」
「……どうしようもなかろう。おそらくその慧音という人物と私は、似たような時期に似たようなものを見て似たようなことを考えたのではないかな。いまさら無意味だ」
苦笑と共に腕を持ち上げるヴィクトール。
その手にはヒョウタンが握られていた。それをあおる彼を見ながら、妹紅は手近な幹に背中を預ける。
「ビスクドールとやら」
「ヴィクトール……わざとやってるだろう。まぁ実家にはコレクションも数体あるが」
「そのヒョウタンはなんだ?」
「頂き物だ。この道の向こうの、あの村の男集から餞別に贈ってもらってな。昨夜は遅くまで飲み明かしたが、なかなか楽しかった」
「……村に、入ったの」
「これでも義理堅いつもりだ。約束を破ることはしない……私はな、今までもかなりの地域を旅してきた。当地の酒を味わうというのは、私の旅の楽しみの一つでもある。そこまでは奪わんでくれ」
「そう。何もしていないのなら、構わないけれど……」
ヴィクトールが指した村のほうを見やり、妹紅はなんとなくため息をついた。
何かあれば慧音がすぐに気づくだろうし、本当にただ酒を飲んだだけのようだ。
「彼らは凄いな」
ヴィクトールは独り言のように、本当にポツリとそうもらした。
返答を期待した台詞ではないらしく、手で虫を払うような仕草を交えてから、彼は付け加えた。
「私が怪物であることを見抜いた上で、共にテーブルを囲もうというのだから。まぁ、さすがに多少は怯えていたようではあったがね。だがそこは私の人当たりのよさでうまいことカバーし、大いに盛り上がったものだ」
「外の人間は、やっぱり怖がるのかしら」
大げさに語るヴィクトールは無視し、妹紅は気になったことを訊く。
「そうだな。もう地図の空白は埋まってしまった。怪物は消滅し――あぁ、やめよう。忌々しい」
言葉通りに苦い顔で、ヴィクトールは話題を打ち切った。
――地図の空白は埋まってしまった。
独特の印象を残す言葉だ。それと同時に唐突に浮かんだ疑問を、そのままヴィクトールへ問いかける。
「外の世界の妖怪は、どうやって暮らしてるの?」
「一般論というのはないな。地域によってまちまちだが、私の例でよければ身の回りの数点を説明しよう。例えば私は永遠の華の都、と呼ばれる都市で人間社会に混じって暮らしている。隣人は私のことを人間だと思って接しているし、人間としての仕事も立場もある。同じような境遇で生きている怪物たちは、あの都市にはかなり多い。他に……いや、そうだな。何よりも大切なことだが、私の故郷では、人間が主役なのだ」
彼が最後に、理解しかねるようなことを言った。
数秒ほどその言葉を反芻する。一応の答えは出たが、結局のところ、ヴィクトールの言わんとしていることとは別の解釈になっただろう。結論を出すまで黙考する間を与えてくれたということは、一拍あけて理解をしみこませるというつもりだったのかもしれない。
なんにせよ、感じたままを返す。
「妖怪が人間に従ってるって?」
「違うな、怪物はいないんだ。人間達の世界の中に、怪物の住める余地はない。人は、人の力をより高めるために、多くのものを後に捨ててきた……そういうものなのだろうよ」
ヴィクトールはヒョウタンに蓋をし、何気ない風でそう告げた。
多分、何気なく見えるのは外見だけで、彼もまた何か……一抹の寂しさを感じている。一瞬の会話の空隙というべきか、そんな“間”が、彼女にそう思わせた。
妹紅は木から離れると、地面に直接座っているヴィクトールの隣に腰を下ろした。
間近で見るヴィクトールは、どこか自嘲的な表情であるようにも見える。
「……これは全く関係のない話だがな。昔、ある修羅と会ったとき、こんなことを聞かされた。曰く。何十年かかっても決して海へ着かない隔絶された地があり、それは<ひむがし>と呼ばれている」
ヴィクトールは前触れなく話題を変えた。
「無意味にもそのときの話を思い出したよ。奴はこうも言った。人間は子を産む――つまり、不滅。命を語り継ぐ連綿とした蓄積は、おそらく誰もが持っている不滅への理想像に近い形なのだろう……」
彼はどこか、遠いところを見ていた。
ヴィクトールは今の言の通り、人間の持つ不滅性を信じているのだろうか。いや、おそらくは違う。あるいは本当に、意味もなく思い出したことをそのまま告げたのかもしれない。
どちらでもいい――妹紅は膝を抱えると、ほんの一瞬言葉を選んでから、ヴィクトールと同じように空に向かって口を開いた。
「蓬莱の薬っての、知ってるかしら」
「蓬莱。蓬莱というと……神仙の不死か」
「それを飲んだことがあるのよね」
「うむ?」
「だから、私は昔蓬莱の薬を飲んで不老不死になったの。もう何百年も昔のことだけどね」
視線をヴィクトールに向けると、彼はすでにぽかんとした表情で妹紅を見ていた。
「特に意味はない。あなたが不滅がどうとかいったから、単に言ってみただけで。あなたは人間が不滅だって言うけど、私は人間が滅びた後でもきっと生きてるわ」
「それは不死ではないな」
「――え?」
唐突に、かつ当たり前のようにヴィクトールは言い切った。この男と話していて、色々と意味不明なことを聞かされたが、その言葉は特に強烈だった。
思わず固まってしまった妹紅を見て、彼は――例えば、面白くもない冗談で空気が白けてしまって、それをごまかす。そんなありきたりさで普通に解説を入れてくる。
「いや、人類の不滅というのも、私から見れば不滅から程遠いとは思うよ。それと同様に、君の存在も不死とは違うと思う」
「……だ……な、何言ってるのよ?」
混乱で一瞬声が裏返った。
ヴィクトールはこともなげに続ける。
「一応、根拠はある。宇宙開闢以来、本当に不滅の物質など、何一つ存在していないからだ」
彼は言いながら、腰に下げた吊り紐からヒョウタンを取り外すと、
「飲むか?」
と妹紅に突き出してきた。
それは無視し、彼女は額を押さえてうめく。
「言ってる意味が分からない……」
「まぁ、そうだろうな。とりあえず飲んで落ち着け」
「…………」
からかって遊んでいる、のか?
いや、そうは思えない。彼はきっと、自分の思っていることをごく普通に口にしているだけだ。そういう空気を感じる。
ひとまずヒョウタンをひったくって喉に流し込む。一気に飲み下そうとして、強烈な喉の痺れに思いっきりむせた。
身体を折りながら、口に含んだ分の酒を全て吐き出す。頭の冷静な部分が、もったいないと不平をこぼしているが、どうしようもない。
ゴホゴホとあえぐ妹紅の背中に、誰かの手が添えられる。背後からはその主の声が聞こえた。
「……大丈夫か? すまん、強い酒だと先に伝えておくべきだった」
「うぅ……いや、いい。吹いた分はもったいないけど、多少は落ち着いた」
手を払い、強烈な睨みと共にひょうたんをつき返す。
口元を拭う妹紅を見ながら、ヴィクトールは笑顔で再びヒョウタンを腰へ吊るした。
「不死じゃないって言うけどね……実際、私は何度も蘇生してきたわよ。身体をばらばらにされても、結局は生き返った」
「家の外で、畑を耕していたな」
「……それが?」
「人間の多くは、肥料さえ適切にまけば半永久的に作物が取れるものだと思っている。だがそれは間違いだ。土壌はな、表面だけで出来ているのではない。人の手の入らない深い層からも、植物に必要な栄養は吸い出されていくんだ。だから、いずれは絶対に土地が枯れる。土地が永久的な存続を続けるには、別のサイクルが必要なんだ」
「…………」
「だがその理論を、現代学問の不備だと指摘することもできる。君が感じているのは、そのあたりの感情だろう」
ヴィクトールは一度言葉を切ると、道に視線を落として数秒沈黙した。
彼は、妹紅を不死ではないと言う。確かに彼は彼女の蘇生を目にしたことはない。しかし彼の場合は偏見とは違う……彼はすぐ隣に座っているが、実際はもっと遠い場所から妹紅のことを見ているようだ。だから、ただ言葉を聞いただけでは彼の言いたいことを取り違えてしまう。
「大昔、ある魔術師がいた。そいつは数多くの実績を残した偉大といっていい魔術師だったが、不死についてもコメントを残している。なんでも真に不死秘法に到達した術者は、この宇宙に留まることは出来ないらしい」
ヴィクトールは無表情とも取れるような真面目顔で、指で地面に丸をなぞり始める。
「どういうこと?」
「私にも分からん。ただ、不死の実証はこの世界を永遠に呪うんだとか何とか」
指を止め、顔を上げて、
「君は、君とその周辺の何かを呪っているかもしれないが、さすがに世界とまでは呪っているわけでなかろう。不死ではない、という理由の一つにはなる」
「……私は」
ポツリとつぶやいた言葉の続きを探し、妹紅は自然と膝頭に目を落とした。
私は――なんなのだろう。
今まで不死不滅だと思っていた。だがこの男はあっさりとそれを否定する。
“不死ではない”とはいってもその意味は、限りなく不死に近いが完全ではない、そういうことだと思う。完全ではない。
妹紅は肩を落とし、認めた。数分前までは完全だと思っていた。だがヴィクトールは、妹紅と会う遥か昔から、完全なものなど何もないと――そう結論している。
先を続けられなくなった妹紅を察したか、ヴィクトールはまた話題を変えた。
「君は、映画を見るか?」
「……エイガ? 妖怪か何か?」
「……そうか、無いのか。まぁいい、勝手に進める。一昔前の作品だが、ドクターE.L.Bとその友人マクフライのドタバタ活劇を描いた素晴らしい映画があった。不死の実在は、その物語のパラドックスに通じる概念があると思う」
「全く分からない」
「すまん、言ってみただけだ……」
ヴィクトールはぽりぽりと頬をかいてごまかす。
話が続かなくなったらとりあえず目先を変える主義なのか、彼はさらに趣旨を切り替えて続けた。
「これも他人の受け売りだがな。繰り返しになるが、本当に永遠に終わらないものなんか、ないんだそうだ。人間の一生の上では永久と言っていい時間ではあるのだろうが、宇宙の歴史という尺度で見れば決して長くはないんだろう」
「本当に永遠に、ね……もしそうなら――」
「そうなら?」
「私は現状でも十分満足してるほうだけど、多少は先が見えたような、そんな気分かな」
「……そうか。うむ」
ヴィクトールはうなずくと、後ろに手をついて高い空を見上げた。
妹紅もそれに倣う。霞がかったうす雲が、青空にいくつかのすじを引いていた。秋の空は抜けるように高い。遠くでは、野鳥達がくの字に編隊を組んで飛んでいた。
隣でヴィクトールが身じろぎと共に立ち上がる。目で追うと、幹に手をついて軽く身体をほぐしていた。
「そろそろ行こうと思う。この郷は広いしな、もうここに立ち寄ることは無かろう」
「あ、そう」
思っていたよりそっけない返事を返してしまった。ヴィクトールは少し肩をすくめて妹紅に顔を向ける。
「……さっきまでの話は、大部分を引用ですませてしまったが、最後に私から一つ。本当に不死不滅なるものがあれば、それは未来永劫に渡って同じものであり続けるということだ」
妹紅が尻をはたいて立ち上がるのに重ねるように、ヴィクトールは静かに告げてきた。
「つまりは過去にさかのぼっても、全て同じ存在であり続けてきたということでもある。もし――もしだ。もし一度でも変化を経てしまったのなら、それは二度目の変化も許すということに他ならない」
腕組みし、難しい顔で語るヴィクトールの正面に立って、妹紅は彼の別れの言葉を静かに聞いていた。
「だが私の考える限り、永遠不変の存在は一つしかない。“この宇宙そのもの”だ。君は誕生当時から今にいたるまで、ずっと同じでは、無かろう?」
つまりは、そういうことなのだろう。
彼との会話は決して長いとはいえなかったが、それでも分かることがあった。
完全ではない。そして完全ではない以上、いつかは滅びる。
それは人のいう不死に限りなく近いのだろうが、いつかは、滅びる。
ヴィクトールは話を終えると、余韻に重みを持たせることも無くくるりと背を向けた。
「ではな」
「うん、せいぜい元気でね。探し人、うまく会えるといいわね」
「うーむ、応援に応えるべく努力しよう」
気の抜ける挨拶を交し合い、ヴィクトールは道の向こうへ歩いていった。
それを見送る。
まだその影が遠くないうちに、妹紅は彼から視線を外すと、思わず苦笑いを浮かべて空へ飛び上がった。
こんな日々にも、いつかは終わりが来るという。
それは訪れるべくして訪れるだろう。排すべきものではない、それが本来の世界であり、生命としてのリスクだ。
だけど、それは永遠の未来といってもいい先のこと。
希望であるのか、絶望であるのか。
それはそのときに決めればいい。今はただ、いずれ来る日を受け入れる。それだけだ。
妹紅は秋の陽を受けてくるくると飛びながら、住まいへの帰り道を楽しんでいた。
どっちか判りませんでしたが面白かったです。
よくは知らないのですが、けれど興味深く読ませていただきました。
身近な人や時代の移り変わりよりも遥か先、人の計りの及ばないところを考えた時
蓬莱人はどうなるのか。私は卿とは逆に蓬莱人の存在こそ、幻想郷の魂世界の
不滅を意味すると楽観視していましたが。永遠についての考察は尽きないですが、
この出会いが妹紅の人生に良い意味を与えたのではと考えると嬉しいですね。
卿の人柄にも惚れましたw
元ネタがあるのかどうかは解りませんでしたが、素で楽しめました。
最後に……
日本語圏の人に『ヴィ≠ビ』を理解してもらうのは無理があると思うぞ、卿ww
「なんという厚かましい山師だろうと私は思ったが、不思議と不愉快な気分にはならなかった。何事にも非凡な才能をもった驚くべき男だ」