どきどきわくわく。
と、ベタな擬音が鳴り響きそうな、胸に両手を合わせ、あまつさえ瞳を輝かせたりなどする宇佐見蓮子秘封倶楽部代表。
実に嫌な予感がする。
「メリー、バレンタインのお返しはまだかなー」
やっぱりだった。
はあ、と溜息混じりに懐の財布を叩く。
「蓮子からチョコとか貰ってもないし、仮に貰っていたとしてもお断りせざるを得ない経済状態なのよ」
「緩やかな回復の兆しが見えつつある?」
「それ、本当によくなってんかしらね……」
本当の景気は目には見えない、とはよく言ったものである。
誰の台詞かは知らない。
「何はともあれ、メリーがクッキーじみたものを買ってくれれば景気も上向くわよ!」
「どんだけ買わなきゃならないのよ……」
「企業買収ってリスク高いわよねー」
「いや、私そんじょそこらのゲイツさんじゃないし……」
早くも蓮子のテンションに付いていけない。
空気はとても乾燥していて、そりゃ唇も乾くわけである。
「そうだメリー。現物支給が困難なら、『今日一日蓮子の下僕になります券』を発行するのもひとつの手よ」
「そんな手はない」
ちぇッ、と舌を打つ蓮子は誠に友達甲斐がない。そも、下僕だの奴隷だのを名案として発表すること自体が人間として誤っている。蓮子はまずそれを知るべきだ。
コートのポケットに両手を突っ込んで、わりあいに寂れた通りを二人並んで歩く。この時期、学生の身分である私たちは多分に暇を持て余す。バイトもなく、予定もない日にすることと言えば、蓮子に付き合ってあてもない結界探索なのであった。
「そういや蓮子、あのお父さんにチョコとかあげたの?」
「ん、どのお父さん?」
「……あなたのお父さんは一人しかいないでしょう」
二人も三人もいたら反応に困る。
しかも何となく二人も三人も居そうだからもっと困る。
「ああ、そうだったっけ。うん、チョコじゃないんだけどね、ちゃんとあげたわよ」
「ふうん、家族想いなのね」
「そうそう、ちゃんと『これが、私からのバレンタインプレゼントだよ……』って、受話器越しにキスをひとつ」
「……」
「お父さん『キモい』って言ってたわ」
でしょうね、と言おうか言うまいか真剣に迷った。
ともあれ、蓮子の家族が洒落や冗談の通用する一族だということは分かったので、今後はそのていで話を進めることにしよう。
「だったら、あげてもいない私からの自動的なカウンターを期待するんじゃなくて、そのお父さんからのプレゼントを待ち望んだ方が現実的なんじゃないの?」
「んー、どのお父さん?」
「だからそのお父さん。ていうかその反復はお父さん泣くわよ」
「そうだね、泣くわねー」
ははは、と明るく笑い飛ばされる蓮子のお父さんに、本気で幸あれと願う。
他愛もないやり取りの果て、とことこと歩き続けていた道程の先には、計ったかのように洋菓子店がぽつんと建っていた。蓮子は私の顔を見る。私は右の頬を掻く。春風と冷気が交じり合う弥生の一日、抜き身の手のひらではいささか肌に冷たい。
そんなことを思いながら、私は懐の厚みに思いを馳せた。
薄いけど。
「蓮子は、バイトの人にもあげたんでしょう」
「うん、後は喫茶店のマスターに」
「それは私もあげたけど……見返りは、紅茶一杯無料とか『マスターから愛を込めて』シリーズの最新作を無料体験とかそんなのでしょう」
体験と実験の境界は一体どこにあるのだろう。
蓮子は、マスターのことなど無視してさっさと話を進める。
「でもまあ、バイトの人からは後々徴収するわよ。今はメリーよメリー。日本各国に点在する八百万の神々の導きにより、なんだか知らないけどクッキーやらビスケットやらを売っているぽいお店に辿り着いたのよ! 私が信じているメリーなら! メリーならきっと買ってくれる!」
「蓮子うるさい」
「ごめん」
素直に謝るところは好感が持てる。実際、近所の方々が何ごとかと窓を開けたりしていたから、相当やかましくはあったのだけど。
「あ、それじゃあお店の中に結界の境界があるわメリー!」
「ないよ」
二秒でばれる嘘をつくな。
「というかその前に見えないでしょう蓮子は。しかも最初にそれじゃあとか言ってるし何それ」
「メリークールね」
実際は呆れているだけなのだが、クールなのは確かかもしれない。寒いし、風は強いし、いつまでお店の手前でまごまごしてなきゃならんのだろう。
と、言いますか。
「蓮子さんさぁ、以前喫茶店かどこかで私は太ってしまいましたのよって仰ってませんでしたか」
時間が止まる。
実際、停止したのは蓮子の時間だけだったようだが。
十秒ほど経って、現場に復帰した蓮子の第一声は。
「メリィクールね」
だった。
流そう。
「太るわよ。横に」
「クールクール」
「そうね、寒いわね」
どうやら本格的に逃避したいようだったので、軽やかに流した。
世の中には、不意に忘れてしまいたくなることがある。私はそれを痛いほど知っている。具体的には膝とかが。
ともあれ、これだけは訊いておかなければいけない。何やら意味もなく空を仰いでいる蓮子に向けて、是か否かを決する最後通告を。
「で、どうするの?」
「行く」
めげない人である。
多少目が泳いでいても、やはり蓮子は蓮子と言ったところか。そんじょそこらの難題くらいでは、彼女の歩みを止められはしない。それは、体重とて例外ではないのだろう。
個人的には、大いに例外であってくれと思ったりもするのだけど。
蓮子は、覚悟を決めた男の顔で私の肩を叩く。
「メリー。クッキーは主に小麦粉やミルクでできているのよ」
「確実に太るわね」
「それが、不思議と太らないのよ!」
「不思議ね」
「まあ私が決めたんだけども」
「……だと思ったわ」
肩を竦めながら、私はお店の扉を開けた。
蓮子の辞書に挫折がないのなら、私の辞書には拒絶がない。
正確には、蓮子が激しく求め訴えるものに限って、なのだけれど。
私の前を歩く蓮子は、綺麗に包装されていた箱の中から早くもクッキーを物色している。
大枚と言わずとも、結構な値段がしたのだからもう少し味わってほしいとも思うのだけど、まあ、蓮子はあの性格だから細かいことを言っても詮がない。
蓮子の機嫌が上向いたところで再開された結界探索の旅は、もはや目的なき散歩と化していて、緊張感も何もあったものじゃない。ぱりぱりぽりぽり、クッキーの粉をこぼしながら歩く蓮子は、スズメの餌付けでもしているのではないかと思うくらいのほほんとしていた。
「んー、メリーも食べる?」
「後でね」
「そう? 美味しいのにー」
はむはむ、と実に美味しそうに食べる蓮子はCMか何かやればいいと思う。
そしてその出演料をマネージャーである私に。
「というか、やっぱり納得いかないんだけども」
「ん、バレンタインのこと?」
「だからやっぱり貰ってないんだってば」
「……本当に、そう思う?」
蓮子は不意に足を止めて、歩道もなく、自動車がすれ違うのも難しい道の狭間で、静かに話し始める。
「ね。楽しいでしょ? 秘封倶楽部」
たった一言、その言葉だけで私の時間は停止する。
蓮子には、そういう力がある。星読み、月詠みは蓮子を構成するほんのひと欠けらでしかない。
宇佐見蓮子の根幹を成しているものは、もっともっと深いところにある。
たとえば、世界の端々に隠されている幻想を、次々に暴こうと考える、その思想。行動。そして、意志。
異能の力は、ただそれを補助しているに過ぎない。
「私には、メリーが楽しんでサークル活動してるってのがよく分かる。まぁ、私が唯一の理解者だーなんて言う気はないけど、これでも結構、メリーのこと分かってるつもりよ?」
時折やわらかく微笑みながら、蓮子はゆっくりと事の真相を告げる。
それから包みのフォーチュンクッキーを摘まんで、また美味しそうに頬を緩ませるのだ。
私が蓮子の恐ろしさを思い知るのは、ちょうどこういうときである。常人なら気恥ずかしくて言えないことを、いとも平然と言ってのける。敵わない、と思う。羨ましい、とも思う。加えて、この気勢があれば恋人のひとりやふたり確保できて然るべきなのに、と考えもする。
それは、追々追求するとして。
「はぁ、分かったわ……。蓮子の言う通り、楽しかった。飽きたことなんか一回もないし、まあ、疲れたり挫いたり死にそうになったことは何度もあるけど」
「うんうん、私も理解が得られて嬉しいわー」
若干恨みがまく蓮子を見ても、大して気にも留めないのが蓮子の長所であり短所である。
こういうところも、十分に理解している。私も、蓮子もきっと。
「……でもね、蓮子」
クッキーを摘まみ、微笑ましげに咀嚼する蓮子の手首を掴む。
瞳は燃える焔を宿し、寂しげな懐の音を活力とする。
「幸福とは、常に双方向性であるべきだと思うのです」
「う、うん。分かるわ。でもなんでメリーは目がマジなのかな」
「つまり、私が楽しんでいたってことは、蓮子もまた楽しんでいたということなのですよ。分かる?」
「分かる分かる。だから手首離して痛いから手首てくび」
「じゃあ」
私は、左手を裏返して蓮子に催促する。
「蓮子、バレンタインのお返しはまだかしら?」
「き……汚いッ!」
それは蓮子が言うことではない。
策士、策に溺れる。その好機を私は見逃さない。
「蓮子の詭弁に比べりゃあ大したことないわよ。だから可及的速やかに私にも何か奢ると幸せよ。私も蓮子も」
「そ、それは双方向性とは程遠い観点だと思うわね! だからメリーはクッキー食べればいいと思うよはい」
「んぐ、もがが! て……そんな……ことで、わたひが……だまはれる……とでも思った!? ッて先に行くなー!」
私が丁寧に噛んで砕いて咀嚼しているのをいいことに、蓮子は脱兎のごとく逃亡する。
ようやくフォーチュンクッキーであったものを嚥下し終え、駆け出した頃にはもう蓮子の背は既に遠く、それでもなお私は親指で強く地面を蹴った。
債権はこちらに渡った。
ならば、この懐を潤すのは今しかない……!
「蓮子ぉー!」
「はっはっはー! 追いつけるものなら追いついてみぎゃあぁぁぁ!?」
こけた。
後ろを振り返りながら走っていれば、そりゃ足ももつれると言うものである。
はあ、と嘆息を交えながら全速力で追いすがる私の脳裏に、ふと浮上する単語があった。
「メリー、クールね」
いや、意味わかんないけど読み終わってなんか脳裏にそんな言葉が浮かんだのです。
ナイス親父。
よって今回は点数は入れません。ご容赦を。
シーザーのような漢であると私は思っております。
これ流行りそう