あれから。
私はまるで、腑抜けてしまったかのように何も出来なくなっていた。
姫様は――来ない。
『死んだ』とされ、皇宮の奥深くに幽閉されている現在、会いにこれるはずがなかった。
たった一人の部屋。
僅かに、視線を横に向ければ。
そこには、大きな壷が一つあるだけ。
あの時、作った――蓬莱の薬。
何故私は、あんなにも軽率にこれを作ってしまったのだろう。
何故私は、あの瞬間――ああも残酷な事を、考えてしまったのだろう――
例え、どれほど忌まれようと。
嫌われようと。
私が、姫様の事を大事に思うその気持ちが変わるわけではなかったのに。
どうして私は、それに気がつけなかったのだろう。
あの子の『母親』などと、分不相応な事を考えていた自分が情けなかった。
私が裏切ったのは、姫様を思う私自身だ。
それに気づいた時、自分を八つ裂きにしたいほどに呪った。
罪悪感と後悔で、気が狂ってしまいそうだった。
姫様は、私の事を恨んでいるだろうか?
永く永く、続くであろう――罪人としての生き方を強いられたことに。
幽閉された場所に立ちいるだけの権限が私にはあったが、とても足を踏み入れるだけの勇気が無かった。
たった一人の部屋。
空を見上げれば、蒼い星――美しく輝く地上。
本当は、様々な混沌と穢れに支配され、決して「美しい」とは言いがたい星というのに。
ここから見る限りでは、まるで計算されたような美しい輝きを放ち、見るものを虜にする。
あの蒼の星の実際の姿は、ここからでは見えない。
ただ美しい星としか、見て取ることは出来ない。
そして、夜空には沢山の星々があるというのに。
決して彼らとは調和することは出来ず、美しく輝きながらも、孤独に浮かぶあの星が。
――まるで私のようだった。
本当に大切なものを失ったのは、棚の倒れたあの時ではなかった。
私が、大切なものを失ってしまったのは。
自分の手で、全てを失う過ちをしてしまったのは――
悔やんでも、悔やみきれないほどの後悔が――私の心を蝕んでいた。
人妖弾幕幻夜 東方永夜抄 ~ Imperishable Night.
Eirin Yagokoro -“永”き罪を、紅に刻んで-
それでも、年月だけは無慈悲に流れた。
人々の記憶から、姫様の存在が過去の遺物と消えてしまうほどの長い年月が――過ぎていった。
私も、ずっと無気力になっているわけにもいかず――気が付けば、薬の開発と研究に忙殺される日々に戻っていた。
てきぱきと指示を出し、資料に目を通して次々に新薬を調合し、月の医薬技術は類を見ない向上を見せた。
仕事に忙殺されている間だけは。
自分の罪と、罪悪の記憶から――目をそらすことが出来た。
そうしている内に、姫様の置かれた状況に――少々、変化が訪れた。
一切の食物を絶ち、どれほどの責め苦を与えようと死なない姫様に、罪を償わせるための次なる案として。
あの蒼い星に転生し――賤しき地上の民とともに暮らすという罰が与えられることになった。
言ってみれば、流刑のようなもの。
蓬莱の薬を服用している以上、転生したとしても姫様が死ぬことは未来永劫無い――
それでも、想像を絶するような苦しい生き方を強いられることになるのは目に見えていた。
……姫様が、地上に落とされてから、数日が経過していた。
姫様が地上に落とされるその日さえ顔も出さなかった私に、姫様を心配する権利などない。
姫様の姿を観ることさえ、許されるようなことではなかっただろう。
それでも。
それでも――私は。
地上の様子を観察するために、術を組み上げる事を止められないでいた。
水鏡を思わせるような、半透明の薄い膜が目の前に生まれる。
僅かな時間差を置いて、そこに映像が結ばれていく。
距離の問題、月の満ち欠け――月と地上の関係は、そういったもので驚くほど左右される。
私の力をもってしても、映像に時々砂嵐が走るのを防ぐことは出来なかった。
それでも。
映像の中、特に取り立てて特徴があるでもない地上人の一人の手に、赤子が抱かれている。
私は、赤子の頃の姿を知らなかったが――それでも。
嬉しそうにきゃっきゃと笑みを浮かべるその赤子は、紛れなく姫様で。
変わりの無い――その、愛らしい笑顔に。
頬を伝うものを感じた。
その日から、私は暇さえあれば、地上の様子を眺めて過ごした。
姫様を拾った地上人が、姫様に対して与えられた名は――輝夜。
それは奇しくも、かつて私が姫様に提案した名と同じものだった。
やがて姫様はすくすくと成長し、私の知っていた頃の姿に近づいていった。
姫様を拾った地上人は、不幸にもあまり裕福な層の民ではなく――
姫様に食べさせてやるだけでも一苦労しているようだった。
だからこっそり、術を組み―― 一年もする頃には、一財産を持つ立派な暮らしを出来るようにしてやった。
成金となったことで、地上人の性格が歪むことだけを懸念したけれど、
少々臆病な気性が幸いし、あくまで謙虚さを貫いたのには感心した。
姫様はすくすくと成長され――地上の民と転生したにも関わらず、その姿も才覚も月にいた頃と変わっていなかった。
途中、幾人もの男達に求婚を迫られた時――機転を利かせ、上手く彼らを撒いた時は本当に感心したものだった。
やがて、時は流れ――蓬莱の薬を嘗めたあの日と同じ姿にまで成長した時。
これ以上、姫様の体が成長しないことに疑問を持たれると厄介なため、
永きに渡って罪人といて扱われ続けてきた姫様の処罰が、ようやく許されることとなった。
ついては、地上まで姫様を迎えに行く――そのための使者団を編成することとなり。
……今まで、散々避けていた――姫様との邂逅。
それにようやく、決心がついた。
使者団の一員に、私は立候補した。
姫様を向かえるために編成された使者団は、地上で姫を渡すまいと地上人に抵抗されることが予想されたため――
私以外の全員が軍人で構成されるという、仰々しいものであった。
穢れた地上人に対して、わざわざ言葉による説得など必要ないという判断からだった。
地上の民が、天から降りてきた我々に畏怖し、無血で姫様を渡すか――それとも、あくまで抵抗するのか。
別に地上の民が血を流そうと、斃れようと。
私には大した感心ごとではなかったが――それでも、彼らがいなければ姫様はここまで育たなかった。
その恩は、感じていたから。
地上人達が抵抗しようとする直前、私は彼らの力を奪う術を広範囲にわたって展開し。
誰一人、血を流させることなく、姫様を迎えることが出来た。
月と地上が結ばれるのは、満月の夜に限られている。
少なくとも、これだけの大人数で月まで向かおうと思うなら――
一番その『道』が安定する満月でなくては難しいだろう。
そのために一度機会を逃せば、次に満月の昇る一ヶ月間もの間、地上に足止めされてしまうこととなる。
それを考慮して――使者団はかなりの強行軍で、即座に月に戻る予定を立てていたのだけれど。
しかし、数々の厳しい訓練を潜り抜けた精鋭の彼らをもってしても、一夜の間に月と地上を往復するのは不可能の領域だった。
疲れ、それ以上に果てた彼らに、私は一日ぐらいの月の満ち欠けなら術を使うことで満月に戻せる事を伝えると。
――誰も異を唱える事無く、野営を張って今日は休むこととなった。
炎を焚き、野営用の天幕を張っていく彼らを横目に、私は夜空を見上げる。
そこに浮かんでいたのは蒼の円盤ではなく――白銀に輝く、小さな球。
まさか、月を地上から眺めることがあるとは思わなかった。
永き年月を生きる私でもそうなのだ――
使者団に借り出された兵の多くが空を見上げ、ため息とも感嘆ともつかない声を洩らしている。
今回の使節団には、私の正体を知らないものも多い――そのため、一看護兵と身分を偽って参加していた。
流石に、何処に行こうとこの銀髪は目立つものの、こうやって白衣の看護服に身を包めば、年頃の娘とそう変わりは無い。
私の本当の正体を知っているのは、使者団の現場責任者を任された、この軍隊の指揮官でもある老将ただ一人だ。
空を見上げる誰一人として、私が永い時間を生き続けた『月の頭脳』であるなどとは想像もしないことだろう。
ちらりと、視線を横へと向ける。
その先にあった、一つの天幕。その中には、姫様がいる。
看護兵を名乗ったのは、正解だった。
ここの兵士達は、姫様がはるか昔に不老不死になった人物であることなど知らないから、
仮に私の正体を明かしたところで面会は難しい。
しかし看護兵としての立場ならば、長い時間滞在することは不可能でも、顔を見せるくらいのことは出来る。
今更、どういった表情で顔を出せばいいのか、私には判らなかった。
それでも。
姫様に。
自分に。
自分の犯した――許されぬ罪に。
いい加減に私は、向き直らねばならないから。
私は意を決して――天幕へと足を向けた。
「……永琳?」
映像で、毎日その姿を見ていた。
けれど、こうして顔を合わせるのは、一体幾年ぶりになるのだろう――
姫様の姿は、最後に会ったあの時から何一つ変わっていなかった。
私の顔を見つめるやいなや――姫様は嬉しそうに微笑み、出迎えてくれたのだ。
こんな――私を。
「久しぶりね――相変わらず、綺麗みたいだし……それに、元気そうでなにより」
――本当に、永い永い年月が過ぎたのかと疑うほど、姫様の様子に変わりは無く。
「永琳の事、ずっと待ってたのよ?
使者団の中に貴女の姿を見つけたときは嬉しかったのに――全然声をかけてくれないんだもの。
ひょっとしたら私、永琳に忘れられてるんじゃないかってちょっと心配しちゃった」
そういって、にっこりと笑う。
……何故――
「……何故です?」
「……え?」
「何故、姫様は――私に、笑いかけることが出来るのです?」
冷静であろうと、心に誓っていたのに。
「私があの時、姫様を止めていれば。蓬莱の薬を作らなければ、こんなことにはならなかったのに」
姫様の顔を見た途端――言葉が。
「私がもっとしっかりと注意していれば。姫様の事を、きちんと考えていれば」
溢れ出して、止まらなかった。
「……このような、ことには……!!」
後はもう、言葉にならない。
自らの行いへの後悔と罪悪感で、ぎゅっと握った手が僅かに震えていた。
「…………そっか……」
私の言葉に、姫様は胸元で軽く手を組むと――
「そうしたら、私も罪人なんて処刑されることも無くて、
皇位を継いで女皇になって……寒くも、苦しくも無い生活を送って……」
何処か、遠いところを見つめながら――姫様はぽつぽつと呟いて。
「――でも、それだと今こうやって、永琳とは会えなかった」
…………え――?
ぽかんと口を開く私に、姫様はくすくすと笑うと、
「私が頼んだのよ? 永琳に蓬莱の薬を作って欲しいって。
それで永琳を恨んだら、私はただの人でなしじゃない」
楽しげに呟く姫様の様子は、本当に――その事を気にしていない様子で。
……もし、立場が逆なら。
私はこうして、笑えているだろうか――?
「それはね、牢屋に閉じ込められて、時々思い出されたように処刑されて……殺されて。
お世辞にも、楽しい日々とは言えなかったけど。でもね。
これは、私が選択した生き方だから――後悔はしなかったし、永琳を恨んだことも一度もない。
だから……そんな暗い顔をしないで。折角、またこうして会えたんだから」
――その言葉の一つ一つが、本当に暖かく、優しくて。
私はそのまま、自分自身を許してしまいそうになる。
けれど――そういうわけにはいかない。
まだ私には、聞かなければならないことがあったから。
「姫様……一つだけ、伺ってもよろしいですか?」
「……何?」
――あの時、聞くべきだった言葉。
「姫様は何故――あの時、蓬莱の薬を欲しいと仰ったのですか?」
永劫の時間を囚われ、痛みと苦しみのみが与えられる日々を過ごしてなお。
怒りを感じなかったその『理由』とは、一体なんだというのか。
――永きに渡って、聞けなかったその答えは。
「永琳を―― 一人にしたくなかったからだよ」
「……蓬莱の薬を欲しいって言った、あの日の少し前――大きな棚から、永琳が私を庇ってくれた時。
私は、凄く怖かった……優しかった永琳が、あんなに傷だらけになって。
……あんなに、傷だらけだったのに――ほんの数秒で元の姿に戻った永琳が。
まるで別の生き物に見えて……怖かった」
私も感じていた。
姫様は、私を恐れて――忌んで。
もう二度と、昔のような関係には戻れないだろうと思っていた。
でも、と姫様は顔を上げる。
「あの後、部屋に戻って……ずっと、考えてたのは永琳のことだった。
あの時、凄い悲しい顔をしてた……永琳のことだった。
……変だよね。怖いって思ってるはずなのに、心が震えてるはずなのに……それでも。
永琳のことが大事だって感じる気持ちのほうが――ずっと強かったの」
昔を懐かしむように、目を細める――そこに称えられていたのは、優しく――そして少し寂しい、光。
「私はずっと……ずっと考えた。
きっと、永琳が悲しい顔をしてたのは――昔にも、似たようなことがあったからなんじゃないかって。
ずっと一緒にいた誰かに、ある日突然……否定されて、拒絶されて。
それに慣れてるから、あんなに悲しい顔をするんじゃないか……って」
少し恥ずかしそうに笑って、頬をかく。
「そう考えたら、永琳の事を怖いって思う気持ちが――凄く、恥ずかしくなったの。
永琳は、別の生き物なんかじゃない……例え体が傷つかなくても。心は……傷つくんだから。
なのに私は、あの時永琳を『怖い』って感じて……永琳の心を、傷つけた」
そっと、瞳を伏せて。
「最初はただ、謝ろうって思った。
本当に心から謝れば、永琳なら許してくれると思った。
……でも、ね。もしそれで仲が治って、今までのように過ごしていけるとしても。
私は、もっと残酷に――必ず永琳の心を傷つけることに気がついた」
言いにくそうに、言葉を躊躇った後で。
……姫様は、やがて顔を上げて――唇を開いた。
「いくら、一緒にいても。心を通わせても。……私は必ず――永琳を置いて、逝ってしまうから」
天幕の外の、兵士達の喧騒も――暖を取る為に焚かれた炎の爆ぜる音も。
いつしか、何も聞こえなくなっていた。
「永琳は、私のお母さんみたいな人だから。……だったら、自分の子供が自分より先に死ぬなんて。
それが、これから先の人生も、ずっと……ずっと続いていくなんて、悲しすぎるから」
私の耳にはただ、姫様の声だけが届いていた。
「この蒼い地上にだって、回りを廻るようにして――月がいつも、傍にいるのに。
永琳だけが、ずっと一人で傷を抱えて生き続けないといけないなんて――私は嫌だったから」
姫様の瞳は――真っ直ぐに私を映して。
「だから私は、永琳の『月』になろうって思ったの」
本当に、嬉しそうに――そう、告げる。
「今までずっと、永琳が私の事を支えてくれていたから。だから今度は、私が永琳を支えようって。
永琳が嬉しい時は、傍で一緒に喜んで。永琳が悲しい時は……一緒に泣いて、慰めてあげようって。
……まあ、永琳はあんまり弱いところを見せたりすることは無いし、
私が永琳と離れたく無かったって言うのもあるけどね」
月の光が、優しく差し込む天幕の中。
「永遠を生きるって言うことが、どれだけ辛い生き方になるのか……判らないけど、さ。
それでも、私は幸せになれるって信じてたよ?」
満月を思わせる、柔らかい微笑みと共に――
「だって私には――永琳がいるんだから」
――私は。
この命を差し出して、あの時の罪を償うことが出来るのなら、いくらでも差し出したかった。
姫様が、こう考えていた時に――私が感じていた、あの感情を消すことが出来るのなら。
ただ、ひたすら――自分が情けなく、申し訳なかった。
顔を上げることも、憚られた。
今すぐここから――走り出してしまいたかった。
姫様の、真っ直ぐで素直で――暖かい気持ちに。
私は、応える資格などないのに――
それでも姫様は、惜しみなく私に温かい心をくれるから。
「……いつか、いつかね? 罪人や重臣なんていう関係じゃなくて。
また、昔みたいに……ゆっくりお茶でも飲みながら、永琳と一緒に過ごせるようになるのが。
今の私の私の夢なの」
あの頃に戻ったように、話してくれる姫様に。
「今はまだ、駄目でも……いつか。いつか、そういう日が来たら……永琳、付き合ってくれない?」
――私も精一杯、あの頃のように笑顔を浮かべて――
「――ええ。その時は、こちらこそよろしくお願いします」
私が天幕を離れたのは、穏やかな表情で眠る姫様を見届けてからのことだった。
思ったよりも長い間、天幕に入り浸ることとなったが、幸いにそのことに気付いたものは誰もいない。
天幕の外へ踏み出したと同時――私は表情を引き締める。
肌寒い空気に、心さえ研ぎ澄ますように。
仮に、このまま月に帰ったとしても。
姫様が本当に身柄の自由を約束される保障は何処にも無い。
もし、私が現在の皇と同じ立場なら、永い間隔離されてきたことによる外部社会との情報の齟齬を問題にして。
絶対に外に出られないよう――皇宮の奥に、隔離するだろう。
あの時の皇も同じ事を言ったが――皇族にとって。
姫様が生きているということは、厄介な頭痛の種以外の何者でもない。
ふとした拍子に、自分が不老不死であることや、かつて皇族だったこと。
冤罪で投獄され、以後ずっと非人道的な扱いを受け続けてきたこと――
洩らされでもすれば、皇の権力そのものを揺るがしてしまいかねない。
そんなリスクを犯すよりかは、
生きることに不自由しない裕福な生活を皇宮の中でずっと送り続けてもらっているほうがずっと楽で済む。
今までとは違い、食事も出れば不当に体を傷つけられることも無い。
しかし、それは――どれ程飾り立てしたとしても。
永遠に外に出られぬ、牢獄でしかない。
いつか、叶えたいと言った、姫様の夢。
かつての姫様の立場と、力を考えれば――あまりにもささやかな、その夢を。
今――私は、叶えようと思った。
……例え、このままの状態で姫を連れ、逃げたとしても。
この使者団にいる面々は、言わばそういった分野のエキスパートである――逃げ切れるはずがない。
そういった私の『暴走』を抑える目的も兼ねて、この人選となったのであろうが。
追いかけられて逃げられないのなら、追いかけられないようにすればいいだけのことだと判らなかったのだろうか。
ここにいる者達を、全員殺してしまえば――誰も私達を追ってくることなど、出来ないのだから。
元々この使者団をまともに月に返すつもりは毛頭無かった。
ただ、先刻までは私に覚悟が足りなかっただけのこと。
孤独に慣れていた私は、誰かを想って動くのが――極端に、下手だったから。
母親が、自分の子供の幸せを願い――そのために命さえ投げ出すのなら。
命を投げ出せない私は、その代わりに全ての罪を重ねよう。
私の事を慕ってくれる、一人の少女のために。
私に、共に在ることの暖かさを思い出させてくれた、たった一人の姫君のために。
どれほどの血を流そうと。
どれほどの罪を重ねようと。
もう――私には、恐れも迷いも無かった。
人を狂わせるといわれている、満月の夜。
その下で、一人、また一人と。
動くものの姿が減っていった。
……どれだけの時間が経ったのだろう。
月はまだ出ている。そう長い時間ではなかったと思う。
誰から奪ったかも判らない、血と脂で切れ味を失った短剣が、指の先からするりと零れて地に落ちる。
響く、乾いた音に――しかし、応えるものは誰もいない。
辺りには――ただ、熱を失った骸だけが累々と転がっていた。
訓練を受けた兵士達は、毒に対して耐性を得るための訓練も欠かしていなかったために、毒を使うことが出来なかった。
訓練で耐性がつくような毒ではなく、一瞬でその命を奪うような毒を使えば話は別だったのだと思う。
ただ、そういう気分にはなれなかった。
どうしても――この手で。
一人一人の息の根を止めなければいけないという思いがあった。
どれほど、血の匂いを嗅いだだろう。
どれほど、死の呪詛を聞いただろう。
ふと、目を落とせば――開いた掌は、私自身の血と返り血が混ざり、真っ赤に染まっている。
誰一人、逃さなかった。
一人一人、確実に殺めた。
逃げようとする者も、徹底的に追いかけて、追いかけて、追いかけ続けて。
何処までも追いかけ、倒れたその背に死の一撃を見舞った。
勿論、私自身も無傷では済まなかった。
普通の人間なら、両手で数えて足りないほどの致命傷を受け続けた。
武術に関して素人同然の私と、戦闘訓練をみっちりと積んだ兵士達の違いというものだった。
ただ、彼らと私がその点において違うように。
兵士達はどれほど強くても死ぬけれど、私は決して死ぬことは無い。
それが、たった一つの、そして決定的な違いとなってこの情景に繋がっている。
死に瀕した彼らの行動は、様々だった。
痛みに泣き叫ぶ者。
まだ死ねないと、未練を延々と呟き続ける者。
最後まで諦めず――私から逃げようとする者。
死ぬその直前まで、私に斬りかかろうとした者もいた。
死ぬことは、何よりも怖い。
こんなところでは死ねないと、誰もが思っていただろう。
ひょっとすれば、月で帰りを待っていてくれる誰かが居たかもしれない。
そんな彼らを、皆殺しにした。
全員の死に様を――私は見た。
この髪に。
この顔に。
この体に。
この手に――
彼ら全員の怨念と恨みがこびりついていた。
噎せ返るほどの、強い血と死の匂いの中で。
私はのろのろと、空を見上げる。
凍えるほど冴え冴えとした夜。
浮かぶ銀盤だけが、妙に優しく血染めの私を見下ろしていた。
――だが、その瞬間。
完全に無防備だった私の首を、凄まじい力で何かが絞め上げていた。
完全な不意打ち、そして訓練によって身に付けられた的確な動きが、完全に気道を絞めている。
私は、目だけを動かして――私に手を掛けているその人物を見やった。
「……よくも、やってくれたな…………八意、永……琳……」
それは、この使者団に駆り出された部隊の老将軍。
年老いてなお、巌のように屈強な肉体からは、流れ出る血が止まらない――
脇腹のその傷は明らかに死に至る一撃だというのに、瀕死だとは信じられないほど私の首にかけられた力は強かった。
「許されぬ罪を犯した者に肩入れし……蛮族のように、我ら月の民を手にかけ、殺めるとはな……」
首からは、骨の軋む音が響く。
常人なら、とっくに死んでいてもおかしくはない膂力だった。
「脆弱な人である、我々を戯れに殺して……さぞ、楽しかったろう……」
けれど、私の体は死を感じられない。
酸素が足りなくなる。苦しさに目が霞む。
それでも、声だけが聞こえた。
「だが、忘れるな……貴様の犯した、その罪……二度と、月に戻れぬものと……思え……」
その言葉に血泡が混じる。
ごぼごぼと、ところどころ不明瞭にもつれる言葉。
しかし。
「さぞ、その血に穢れた白衣は……これからのお前が撒き散らす厄災を、判りづらくするだろう……だが」
言葉の一つ一つが、まるで鏨で掘られたように、鋭く、重く。
「……だが……その、体と心に染み付いた、我々の……血、は……永遠に、貴様を赦さん……ッ……!!」
――怨念のように、私の耳に響いた。
「……お前の……『永』の、字と同じ…………永遠の、罪人……が……!!」
くわっと、目を見開き。
殺された彼らの命に責任を背負っていた老将は、そのままゆっくりと倒れていく。
静寂を取り戻した、夜の闇の中で。
「……こんなものは、罪とは呼べない」
それでも。
「……これは、ただの……確認に、過ぎない」
全ての真実が、この老将に理解出来るとは思わなかった。
理解して欲しいとも思わなかった。
それは、私だけが知っていればいいこと。
「この心に、思い知らせるための」
私はただ、彼らを殺した――その事実だけ、知られていればいいことだった。
「ただの、罪の確認作業に……過ぎないのよ」
ふと、視線を横手に向けた時。
「……永……琳…………?」
姫様が――そこにいた。
姫様が見ている私の姿は、どのようなものだったのだろう?
人を狂わす、満月の光の元。
純白だった看護服は――血の紅と、死の黒に染めて。
雪のように白い肌も、白銀の髪も――冷たくなった血で、べっとりと濡れている。
冗談のように転がっている『死』の中で、『不死』の私は立ち尽くしている。
血も凍るほど、忌まわしい姿。
この手を清水で洗おうと、決してこの血は拭い落とせず。
私に染み付いたこの死の香りは、永遠に薄れることは無い。
こんな私を見て――姫様の心に浮かぶ感情は、一体何なのだろうか。
恐怖?
あるいは、嫌悪?
けれど。
私は、この姿を目の当たりにした姫様から。
逃げようとは――しなかった。
「申し訳ありません――姫様」
これが本当の、私の姿。
「使者として、貴女様を迎えに来たというのに……私は彼らを、この手で殺めてしまいました」
姫様の流した血に、この体は紅に染まって。
姫様に与えた苦痛に、この心は黒く穢れている。
「もう、姫様を――月に連れて帰ることが、出来なくなりました」
それでも私は、もう逃げない。
かつて犯した過ちを、もう一度繰り返すことはしない。
「私も、貴女と同じ――罪人です」
浮かんだ笑みは、自分でも驚くほど穏やかで――優しいものだった。
「こんな、私でも。姫様は共に在りたいと――想っていただけますか――?」
私の、その言葉に。
血に濡れた、私の胸に飛び込んで。
――大きな声を上げて、姫様は泣いた。
「ひ、姫様……!? そんな事をされては、お召し物が血に汚れて――」
私の言葉に――姫様は顔を上げる事無く、首を横に振る。
あちこちが裂けた看護服の端を、ぎゅっと握り締めて――その姿が、血まみれになることも厭わず。
「ごめんなさい…………永琳……ごめんな、さい……っ……!!」
私の胸の中で――ただひたすらに、泣き続ける。
ぽろぽろと、大粒の涙を零して。
大きな声を上げて。
私に、何度も何度も謝りながら――姫様は、泣き続けた。
泣きたくても泣けない、私の代わりに――姫様はずっと、泣き続けてくれた。
……そんな、姫様を――私はそっと抱きしめる。
あの時、恐怖に震える姫様を包むことが出来なかったこの手で。
心がすれ違った、あの日と同じこの手で――姫様の頭を、優しく撫でる
掛け替えの無い、優しさをくれた――この少女の温もりを、もう二度と失わないように。
私は――空を見上げる。
満天の星が散りばめられ―― 一片の欠けも見当たらない、美しい満月の夜。
この蒼い地上に、ずっと寄り添い続けてくれた月が空に輝く。
その光は――何故だか少し、滲んでいた。
その日から、私達の地上での逃亡生活が始まった。
姫様を地上で育ててくれた人間に、口止めの取引として蓬莱の薬を手渡して。
私達はそのまま、深山の奥へ奥へと、落ち延びるようにして逃亡を続けた。
不老不死ということに関して言えば、地上は月よりもその存在が認められていない。
正体がばれるようなことは出来ない以上、一つ所に居座り続けるのは無理だと、色々な土地を渡り歩いた。
そして、長い長い逃亡の果てに、ようやく私達は安住の地を探し出すことに成功した。
そこは、人里から遠く離れた山奥の集落――それも、人間と妖怪が共存しているという極めて稀な土地。
妖怪の中には、地上で自然に生まれたもの以外に、月の民の力によって人間を魔物に変えた類の者もいる。
地上の穢れを調整するために存在している彼らは、決して人間と共存関係を築けるような間柄ではない。
にもかかわらずここの妖怪達は、そんな私達の意図を無視するように独特な関係を築き、文明を発達させてきていた。
勿論、月の民は誰一人として――この様な土地がある事を知らない。
私は確信した。
この地ならば、追っ手が私達に気付くこともない――と。
だからこの地の奥に、私達はひっそりと屋敷を立て――誰の目にもつかぬように、静かに暮らすこととした。
時が流れ、いつしかこの地は幻想郷と呼ばれるようになり、それに伴って妖怪達の数も増えていった。
この頃になると、幻想郷の存在に月の民も気付いていたようなのだが――追っ手が差し向けられることは無くなっていた。
やがて、外と幻想郷を隔離するため――集落全てを取り囲むような巨大な結界が張られ。
てゐが流れ着き、ウドンゲが月から降りてきて。
姫様を隠すために、つい先日などは満月をこの幻想郷から奪ったりもした。
私達がこの地上で暮らしてから、千年以上の年月が流れていた――
夜。
縁側に腰掛け、私は空を見上げていた。
今日も満天の星空の中、銀盤が柔らかな光を投げかけている。
「……永琳?」
その声に、私は首だけを振り返る――もう随分と長い付き合いになる、聞きなれた姫様の声。
振り返った先にいた姫様は、丁度お風呂から出てきた直後らしい。
束ねた髪はしっとりと濡れ、肌は桜色に輝いていた。
「そんな所で、何をしてるの?」
「月があまりに綺麗なものですから、眺めていました……と言えれば、美談なのでしょうけどね」
ちょこんと隣に座った姫様に、私は苦笑しながら膝の上を示した。
「……くぅ……すぅ…………」
私の膝を枕代わりに、規則正しい寝息を立てている少女。
一見すれば、ただの人間に見える――
しかし、その頭からにょきりと生えた、長い二本の耳を見逃すわけにはいかない。
「……あら、イナバ?」
「どうやら、また弾幕負けしたみたいで……傷の手当をしている最中に、この有様です」
鈴仙・優曇華院・イナバ――つい百年ほど前、この永遠亭に転がり込んできた月の兎だ。
色々あったけれど、今はこの屋敷でてゐ同様、兎たちを指揮する立場に立っている。
「仮にも永琳を師匠と仰いでるなら、負けっぱなしはちょっと問題ね?」
「私もそう思っていたところです。さて、どういった仕置きを与えれば宜しいでしょう……?」
「……ぅぅ……し、ししょぉ……いたいのは……いやですぅ…………すぅ……」
あまりにタイムリーな寝言を返したウドンゲに、私と姫様は思わず顔を見合わせ。
思わず、ぷっと吹き出し――くすくすと笑い出した。
「…………はれ……師匠…………?」
揺れた体に小刻みに揺すられ、ウドンゲがゆっくりとその目を開く。
「ウドンゲ……こんな時間に寝起きなんて、随分と立派になったものね……?」
「はひ……?」
少し意地悪い表情で微笑した私と、隣で似たような表情をしている姫様に。
ウドンゲの意識は、ようやく覚醒してきたようで――かっ、と目を見開くや否や、
「!? もっ――もも、申し訳ありませんっ!」
慌てて跳ね起き、頭を擦り付けるような勢いで土下座する。
その反応の一つ一つが可笑しくて、私達は笑っていたのだけれど――
ウドンゲはどうやらそれを別の意味で捉えているらしい。
面白いから、もう少しからかってみる。
「いいのよ、ウドンゲ……痛いのは嫌だって、先刻寝言で口走ってたものね?」
「そっ――そんなことを、私が!?」
「ごめんなさいね。私の記憶が確かなら、お前に手を上げたことは滅多に無いはずなのだけれど。
どうやらお前の『師匠』は、お前が思わず悲痛な言葉を洩らすほどにものの教え方が乱暴みたいね?
そのせいか、弾幕では競り負けるし、狂気の術は侵入者の足止めにもにならないし――」
頭を下げたままのウドンゲの尻尾と耳が小刻みに震えていた。
既にその表情は、蒼白を通り越して土気色になりつつある。
私たちは必死に笑いを噛み殺そうとして、かなり情けない表情なのだが――頭を下げている彼女にはそれが見えない。
さて、次はどうやってからかってやろうかなと、思考を巡らせたその時――
「鈴仙様――鈴仙様! どちらにおられますか――鈴仙様!!」
屋敷の中で働く兎の一羽のものだったのだろう。
ウドンゲは、これぞ天の助けとばかりにがばりと顔を上げると、
「すみません、呼ばれているようですので――こっ、これで失礼しますっ!」
もう一度だけ深々と頭を下げ、そのまま逃げるようにして私たちの前から立ち去っていく。
実際、半分以上は本当に逃げ出したかったのだろう。
磨きこまれた廊下に滑りそうになりながらも、必死に走り去っていく――
「……逃げられてしまいました」
「もう少し、楽しませてくれてもよかったのに……ねぇ?」
こうしていると、まるで孫をからかう意地悪なお婆さんになった気がする。
まあ、あの素直さが――ウドンゲの欠点でもあると同時、いい所でもある。
あまりに永い年月を生きてきた私たちには、流石にもうあの素直さからは馴染みが薄かった。
「まあ、あの様子なら多分――また負けて戻ってくるでしょう。続きはその後に出来ますよ」
「うわ、永琳が黒い!?」
「ああいう子は、ちょっとからかってあげるくらいが礼儀というものですからね」
必死の様子を思い出して、笑い出してしまいそうになるのを堪えながら――私達は空を見上げる。
「にしても、本当……綺麗な月ね……」
「ええ。……今年一番の名月だと思いますよ」
眩いほどに、白く輝く月が――私の姿を照らしていた。
私の、この――紅と黒で染め上げた看護服を照らしていた。
「……永琳……」
「大丈夫ですよ。あれはもう随分と昔のことじゃないですか」
「でも、永琳――あの日から一度も、白い服を着なくなったじゃない」
確かに。
あの日から、私は一度も白い服に袖を通さなくなった。
何か着る時は、決まって闇のように黒い服か――血の様に紅い服のどちらか。
この看護服も、あれからわざわざ特注で作り上げた一枚である。
――心配そうな表情で、見上げてくる姫様に。
しかし、私は軽く笑って――
「今の私が、こういった色合いの服を着てるのは…………新たな発見のようなものですよ」
「慣れ……?」
「ええ。何事もやはり、経験ですね……この服のデザイン、格好いいとおもいませんか?」
裾を摘んで――ぱちりと、ウインクをしてみせる私に。
「……何よ、それ――」
姫様の顔から――笑みが零れる。
「姫様と私は美人姉妹ですから。どのような服も似合うというものです」
「そういうこと、自分で言うかな……?」
「間違ってますか?」
「うわ、永琳が開き直った」
「これが年月の重みから来る功というものですよ」
あまりに滅茶苦茶なやりとりの可笑しさに――私達はしばらく、少女のように笑い続ける。
忘れているわけではない。
殺めた相手の血で、この手は紅に染まり。
心の弱さが招いた過ちに、黒く穢れて。
わざわざ服で表さなくても、私の体と心は――どうしようもないほど、罪に汚れている。
それでも。
「――姫様、師匠ぉぉぉぉぉ!!」
「あらイナバ、どうしたのそんな血相を変えて? しかもまた随分派手にやられたわねぇ……」
「い、言わないで下さいぃ……ってそうじゃなくてですね!! また来ましたよ――あの騒動の時の奴等が!
このままじゃ、永遠亭の物という物を根こそぎ蒐集されてしまいかねません――!!」
「貴女がきちんと止めれば済んだ事態じゃないの」
「姫様ぁぁ……だから、それを言わないで下さいぃぃ……」
黒く穢れた、私の心を。
「で――まさか、そのままにして逃げ帰ってきたわけじゃないわよね?」
「はい、それは勿論! 館の無限回廊になんとか誘い込んでおきました。
今頃は、永久に続く廊下を飛び続けていることかと」
「なるほどね……まあ、そのまま20年ほど放置しておけばいいんでしょうけど……。
私の屋敷に、正面口以外からそうそう簡単に入り込めると思われるのも癪ね――
まあ、時間つぶしに遊んであげようかしら」
血に染まった、私の手を――
「永琳も――手伝ってくれない?」
――求めてくれる、人がいるから。
「……ええ――お供させて頂きます」
だから私は、今日も永遠の旅路をゆっくりと歩いていく。
のんびりと、お茶でも飲みながら。
もう、独りではない旅路を――傍らで付き合ってくれる、少女と共に。
――此処の名は幻想郷。
妖怪と人間――少女達の飛び交う、幻想と弾幕の世界。
永い時の果て、ゆるやかな時を――私は今日も生きている。
こういうの読むだけでも自身も精進せねばと思います。今後も頑張ってください。
お見事です。
大抵は輝夜と言えば難題…であるために忘れられがちな『永遠を操る能力』というのをここまで印象付けられたSSは初めてでした。個人的にはその能力を使っている描写も欲しかったと思ったり。