――まだ、地上の人間が『クニ』という概念を持たなかった頃から。
彼らの頭上に浮かぶ月には――人と、規律と、文明があった。
皇宮。
月を統べる君主である『皇』のためだけに作られた居住区にして、政の中核たる巨大な建物。
数々の試験を突破し、皇の下で働く事を許された――超一流の人材だけが集うこの建物の中で。
私は颯爽と白衣を翻し、埃一つ落ちていない磨きこまれた廊下に、律動的な靴音を響かせて進む。
その途中、すれ違った相手の半数が思わず振り返り、残り半数は慌てて道を開け、深く頭を下げた。
それを横目に見ながら――私は肩で風を切るように、堂々とした足取りで廊下を歩いていく。
ここで、私の事を知らぬ者はいない。
ここで、私の事を畏れぬ者もいない。
『月の頭脳』――そう呼ばれてから、いったいどれ程の年月が過ぎたのかしら。
私の見た目は、ここで働く者にとって、まだ少女の域を抜け出した青二才にしか見えないと思う。
まるで光を選りすぐり、一本一本束ねていったような透ける銀の髪を三つ編みにして。
少しだけ反抗的な鋭さを秘めた表情の私は、今年から皇宮で働き始めた新米とならべても何ら違和感は無い。
自分の実力と自尊心に絶対的な自信を持ち――まだ、譲歩するという余裕を知らない若き精鋭たち――
けれど。
この建物で、私は間違いなく最古参の人間。
なぜなら私は、この皇宮が建てられた時に――その場に居合わせていたのだから。
私の名は、八意永琳。
気の遠くなるほど昔から生き続ける『月の頭脳』。
永遠にその歩みを止めない『終わりなき者』。
この皇宮に関わる全ての者が、尊敬と畏怖をもって接する者――それが、私。
足を止めずに――透き通った廊下の天井から、私は空を見上げた。
そこには、ぞっとするほど黒い空と、膨大に散りばめられたの星々の輝き。
そして、静謐な闇の中に浮かぶ、大きく美しい蒼の円盤。
それは、この月から見た地上の姿。
何時の頃からか、暇さえあれば私はあの蒼い星を見上げることが多くなっていた。
……きっとそれは、親近感のようなものだったのかもしれない。
何故なら、私は――
「――なんで、怒ってるの?」
がらんと広い廊下に――その声は、よく響く。
辺りには私以外の誰もいなかったから、それは私に対してかけられた言葉だったんだろう。
それは、幼い少女の声だった。
それが、妙に私の気を引いた。
私の視線の先にいたのは、その声に違わず――まだ年端も行かない、一人の少女。
つやつやとした長い黒髪を垂らしたその少女の笑顔は、子供特有の愛嬌がたっぷりと感じられる。
まだ、女性特有の美しさは微塵も感じられない。
それでもあと数年もすれば――輝くような美しい女性に育つだろう、そんな少女。
……思えば、不思議な夜だった。
皇宮にこんな幼い子供がいたことに、普段の私なら疑問を持ち、まともに取り合おうとはしなかった。
しかし、この時の私は何故か――少女の言葉に、立ち止まっていた。
「……怒っている……私が?」
「だって、とってもこわい顔してるよ? そんなに――きれいなのに」
台詞だけを考えれば、まるで一昔前の口説き文句の様な言葉だった。
しかし、それを口にする少女の大きな瞳は――あまりに、真っ直ぐ私を見るものだから。
少女の瞳の中に映る、私の表情は――確かに少し、怖かったから。
「……なら――これで、どうかしら?」
引き締めていた頬を緩め、真一文字に引き結んでいた唇に――緩やかな弧を描かせる。
少女の瞳の奥で、穏やかな笑顔を浮かべる私の姿が見えて。
「うん――もう、こわくない」
少女はまるで、満月のように柔らかく――華のように可愛らしい笑顔を咲かせた。
それが、姫様と私の――最初の出会いだった。
人妖弾幕幻夜 東方永夜抄 ~ Imperishable Night.
Eirin Yagokoro -“永”き罪を、紅に刻んで-
八意家といえば、月でその名を知らない者のないであろう、薬師・医師の名門中の名門。
遥かな昔から、数々の優れた薬師や医師を世に送り出し、現在の当主である人物も名の知れた薬師である。
そして、私の名前――『八意 永琳』の名が示すように、この私もまた、八意家に関わりを持っている。
ただし、『八意家』は世間に広く認知されていても――『八意 永琳』を『外』で知るものは誰もいない。
「永琳様。ご注文の薬草と器材――それから調剤を頼まれていた新薬の試供品です」
「ご苦労様――そちらの棚に並べておいていただけるかしら」
八意家で、世間に知られている部分を『表』と表すのなら。
世に知られていない、私という存在は――八意家の『裏』と呼ぶのが相応しいのかもしれない。
表の八意家が、大衆のために薬を作り、患者を診ているのとは対照的に――
裏である私は、高貴な身分の方達だけのために薬を考え、病気を診る――皇室専門の薬師である。
「永琳様、ご依頼のあった資料です――纏めておきました」
「有難う。……ええ、これなら充分ね……この辺りの事を調べておきたかったのよ」
もっとも実際のところは、本来の仕事の合間に、余暇として『表』用の薬剤を考案してたりするのだけれど。
皇族というのは数が少ないし、健康にも気を配った食事を摂り、たっぷりと睡眠もしている。
非常に健康的な生活を送っているために、あまり病気にかかることもなく――平たく言うと、暇なのである。
「それで、次にご注文いただける品はどのような感じでしょうか」
「ん……そうね。まず、いの一番で足りなくなってるのが――」
てきぱきと指示を出し――細やかなところまで、きちんと説明を加える。
この診療所を兼ねた研究室は、私の第二の家であると同時に、私の戦場。
自然、表情も意識も引き締まるのを感じ――
「…………永琳……?」
その、遠慮がちな声に――ふっと、顔を上げた。
部屋の入り口から、僅かに顔を覗かせてこちらを伺う黒髪の少女の姿。
私はふっと表情を緩めて――席を立ち、少女の下に歩み寄っていく。
「わざわざ訪ねに来られたのですか?」
目の前でしゃがみ込み――同じ高さに視線を合わせると。
少女は遠慮がちに、こくりと頷く。
その姿が、いじらしくて――私は優しく少女の頭を撫でると、
「それでは、ここで立ち話もなんです……少し場所を変えましょうか」
少女の小さな手を取り、私はゆっくりと立ち上がる。
「次に入荷して欲しい薬品のリストはその書類に纏めてあるわ――お仕事、ご苦労様。もう下がっていいわよ」
私のこの行動にぽかんとなっている業者の者に振り返りそれだけを告げて、私達はそのまま部屋を後にした。
「永琳……お仕事中じゃなかったの……?」
皇宮の廊下は広い――
特に中庭に面した部分は大きく窓が設けられ、この時期には温かい風が香しい花の香りを連れてくる。
そんな中を歩きながら、少女は不思議そうに私を見上げ、聞いてきた。
「仕事といっても、あれは半ば趣味の範囲ですからね……問題ありません」
「そうなんだ……」
「ええ。つまり、ああ見えても大概は暇ということです」
「そういうこと言ってもいいの?」
「いいのですよ、たまには」
この、満月のように白い肌に夜のような輝く黒髪を持つ少女の名は「カグヤ」。
名が片仮名なのは、まだ成人としての年齢に達していなく、その名前に値する漢字が与えられていないため。
そんな年端もいかない子供が、何故この皇宮にいるのか――
「私の本来の仕事が忙しくなったら――それこそ一大事です。
それはつまり、貴女や陛下の身に何かが起こっているということなのですからね」
それは、彼女もまた、皇族の一人だから。
しかも、皇族の中でも最重要中の最重要人物――現在の皇の一人娘。
いずれは皇の後を継ぎ、女皇としてこの月を統べるべき尊き御身ということになる。
「――今度からは、もっと気安く声をかけて下さっても大丈夫ですよ」
私の言葉に――姫様はぱちくりと目を数度瞬かせる。
「気付いてたの!?」
「いえ。……でも、私に遠慮して、ずっとあの場所で待っていたのでしょう?」
私の言葉に――姫様は恥ずかしそうに目を背けて、こくんと頷く。
その姿がとても微笑ましい。
「……しかし、姫様も随分と変わってられますね」
「……?」
「貴女様は姫で、私は臣下の一人。
私も数々の姫を見てきましたが、そう遠慮なさらずとも――」
「……そういうのは、あんまり好きじゃないの」
姫様の表情が、その話題に移った途端、はっきりと曇ったのが判った。
だから私は、そんな姫様を――ぎゅっと抱きしめる。
「なら、尚更ですよ。子供が大人に対して、遠慮することなんて無いんですから――ね?」
暖かい匂いのする、小さな少女は――私の腕の中で、嬉しそうに頷いた。
それからも、姫様はよく研究室に足を運ぶようになっていた。
私も私で、どうしても外せないような用件の場合以外は、出来る限り姫様の相手になった。
皇宮で働く職員達は最初、私のこの態度に何故か随分と驚いていたけれど――
やがて「私は姫のお気に入り」という理由をつけて納得したらしいようだった。
果たして「お気に入り」かどうかは知らない。
ただ、姫様は私と一緒にいるのが楽しそうで。
そして私も、姫様と一緒にいることが楽しかったことだけは確かだった。
やがて姫様が成長し、皇として恥ずかしくないような人物になるため、
数々の講師を呼び、学問を修めるようになった。
私も薬学の分野において、教鞭を振るうことになり――
それにより、さらに姫様と関わりあいになる時間が増えた。
いざ勉強を教える身になって知ったこともある。
姫様は、単なる皇の一人娘にしておくには勿体ないほど、数々の分野において才能を発揮した。
まるで、乾いた土地に水が染み込むような勢いで、
教わった事をどんどんと吸収し、自らの知識へと蓄えていく。
単に記憶するだけではない。その知識を応用し、活用する術にも非常に長けていた。
私も『月の頭脳』などと呼ばれ、それなりに自分の頭の冴えには自信があったほうだけど、
その私でさえ、果たして姫様の年頃の頃にこれほどまでの賢さを持っていたとは思えない。
学問と治世の才が直結しているわけではないけれど、
この時から姫様は、希代の名君になるだろうという期待の眼差しを一身に受けていた。
実際、永らく皇宮に居座る私も、姫様以上の才覚を持った皇は見たことは無かった。
しかし、姫様は確かに賢く、公の場では正に『絵に書いたような賢姫』という姿を保っていたけれど。
実際は、年相応の子供らしいわがままを言ったりすることがある事もあった。
そういった場合、他の講師なら、懇々と姫の在り方について説教をするか、
二つ返事で聞いてくれるかの二つの反応しか無かったらしい。
私の場合は、少し違った。
例えば、授業を休みたいといった際――単に面倒くさいからなどといった場合、それを許すことは絶対にしなかった。
しかし、ある時の姫様が授業の休止を願った際――
「折角満開の桜が咲いたのに、全然見にいけなくて……ほんの十分でいい、見に行きたいんだけど……駄目?」
――私の授業の担当時間は、たまたまその日の一番最初にあったんだけれど――
結果として姫様は、その一日の授業を全て無断欠席することとなった。
他ならぬ私自身が率先して姫様を誘い、日が暮れるまで花見に興じていたからだ。
当然、私も姫様もこっぴどく叱られたが――わがままを通すのに、犠牲というものはつきものというもの。
あの日一日に受けるはずだった授業の内容より、一緒に見た桜の美しさのほうがずっと価値があったと、
後で顔を見合わせてこっそり笑ったりもした。
私は姫様に甘い人間だったのかもしれない。
ただ、私は「姫だから」という理由で彼女を甘やかすことは絶対にしなかった。
姫様は「姫だから」という視点や考え方で自分を取られたり、それを利用することが嫌いなようだった。
だからといって、自分が姫である事を否定するほど愚かではなかったし――
姫だからこそ持ちうる力の使い道も熟知していたけれど。
その気持ちは、私も判らないわけではなかった。
私もまた――姫様と同じだったから。
『月の頭脳』『終わり無き者』。そういった私の側面に畏怖するか、媚び諂うか。
なまじ、皇よりも遥かに昔から生き続けているという立場からか、それは皇相手でもそう変わらなかった。
私を、遥か昔から生き続ける賢人として崇めるか――
それとも自らの部下としての扱いを徹底するかの二つでしかない。
姫様のように真っ直ぐに私を見てくれた者は、誰もいなかったから。
私は姫様が、心から愛しかった。
私を慕ってくれるこの少女を見ていると、まるで昔に戻ったような気がして。
まだ私が、他の皆と同じ『終わりある者』だった頃に。
周りの皆と同じ場所に立ち、同じ足取りで歩く、
ただの『永琳』である私を見てくれていたあの頃に戻った気がして。
私は、この体になってから恋愛も結婚もしなかった。
もう大分、直接的な血の流れも薄れつつある、『表』の八意家の人間が亡くなるだけで、心は痛むというのに。
自分が愛した人が、自分より先に逝ってしまう。
そして、その愛した人との間に育んだ子までもが、私より先に亡くなる。
その痛みに耐えられるとは思えなかった。
だから私は、決して口には出来ないけれど――姫様を、自分の娘のように。
自分には持つことの出来ない「子供」を授かったような、そんな気分で姫様と接していた。
だから。
「永琳って、まるで私のお母さんみたい。
本当のお母様より、乳母達より……ずっとずっと、暖かくてやさしくて……大好きだよ」
そんなことは、決して口にしてはいけませんと――嗜めながらも。
その言葉が、凄く嬉しかったのを今でも覚えている。
「永琳様は、随分とお変わりになられましたね」
いつも薬の材料や、調合を依頼した新薬の試薬を持ってくる業者の青年が、珍しく仕事以外のことで口を開いた。
それも内容が内容であるだけに、私はちょっと目を見張って青年を見やる。
「変わった……どこが?」
「丸くなられたといいますか、なんといいますか……。
姫様と親しくなられてから、雰囲気が随分とお優しくなられたような気がします。
今までが別に冷たかったとかそういうわけではありませんが……何処かやはり、硬い印象を受けていたもので」
申し訳無さそうに頭を掻きながら話す青年の様子は――あまり冗談を言っているような様子ではなかった。
と――
「永琳、いる?」
ひょいと顔を覗かせた姫様の姿は、もうあの頃の小さな姿ではない。
まだまだ「女性」と呼ぶには遠いが――顔つきも大人らしくなり、背丈も随分と伸びていた。
年齢も、また――あと数日すれば、社会に成人として認められるほどの年月を重ねてきている。
そんな姫様の来訪と同時、業者の青年は姫様に深く頭を下げ――入れ替わる形で部屋を後にした。
「……? どうしたの永琳、ぼうっとして」
「え? あ……いえ。先刻の彼に、昔に比べて随分と雰囲気が丸くなったと言われましてね」
「ああ……うん、そうだね。永琳、昔はもっと近寄りがたい雰囲気だったし」
姫様はうんうんと頷く。
「……そうだったのですか?」
「なんだかこう、いかにも才媛っていうか、冴え渡ってるっていうか……ちょっと、怖かったかな」
……そういえば、一番最初に姫様と会ったときも――怖い、と言っていた。
「でも、今は随分と親しみやすくなった気がする。……何でかしら?」
「…………さて――何故でしょうね」
恐らく、その変わるきっかけとなった少女は――全く気付いていない様子で首を傾げていた。
「……そういえば、永琳ってさ」
湯飲みを膝の上で持ちながら、姫様が口を開く。
この頃になると、流石に外で遊んだりすることは無くなり――
この部屋でお茶でも飲みながら、時間を過ごすことが多くなった。
いつまでも子供だと思っていた姫様が、いつのまにかこうして同じ目線で話が出来るようになっている――
これが、成長した子供と杯を交わしたくなる親の心理というものなのだろうか。
「永琳って持ってる服、全部白と黒しかないの?」
「服……ですか?」
「仕事場は、永琳の立場上白しか着れないのは判るけど……。
永琳、普段の私服も白とか黒とか、灰色とか……そういった感じの色合いの服しか見たこと無いもの」
言われてみて、思い返して――確かに、思い当たる節があった。
しかし、当の本人でさえ自覚していなかったものを、本当によく見ていると思う。
別段、色合いに何か意識していたわけではないのだけど――きっと、無意識のうちに避けていたのだろう。
「このような髪の色である以上……あまり赤や青といった色は似合いませんからね」
太い三つ編みにした長い髪の毛先を、指先でそっと弄った。
まるで雪のように白く輝く、この髪――銀糸のように輝くこの髪は、少々目立ちすぎる。
主張が激しいために、他の原色と共に着ると互いの色を喰らいあってしまって、かえって駄目になってしまう。
「そっか……大変なんだ。永琳の髪、綺麗で羨ましいんだけどなぁ」
「何を仰います。姫様の髪だって、まるで夜を溶かし込んだように綺麗な色合いをしているじゃありませんか」
「そう……?」
「ええ。姫様の髪……美しくて、私は好きですよ」
本当にそう思う。
滝を打つように長い黒髪は、鴉の濡れ羽――宝石のように美しく、それでありながら強い生命の輝きを感じさせる。
それだけではない。白磁のような白い肌に、血の色を透かし桜色に輝く頬。
かつて愛くるしかった面持ちは、今では凛とした涼やかさと利発さを兼ね備えている。
何より、その瞳――上に立つものとしての風格と、芯の強さを感じさせる輝き。
女皇になった時、彼女がこの世で最も美しく輝く存在になるのは誰の目にも明らかだ。
「ん……ありがと。そうね……永琳とおそろいだったら、美人親子で通せたんだけど。
よく考えたら、白と黒……対照的だし、これはこれでありかな?」
「姫様……せめて、美人「姉妹」ぐらいにはなりませんか……?」
「美人ってところは否定しないの?」
「自分で言っているのならなんとやら、ですよ」
やりとりの合間に、思わずふっと笑みが零れる。
永劫の時を生きてから、このような時間が再び送れるようになるなんて思っても見なかった。
「……そういえば、姫様の成人の儀まで五日を切りましたね」
「そうね……私もいよいよ、大人なんだよね……」
あと数日で、姫様は誕生日を迎え、成人として認められる年齢に達する。
そしてその際、新成人の誕生日を祝う為に行うものが「成人の儀」と呼ばれる古来からの行事である。
ごく一般の家庭でも、この成人の儀には類を見ないほどの贅沢を尽くし、
親戚一同から隣近所の赤の他人まで呼び込んで新たな大人の誕生を祝うほどの規模の大きさで知れるこの行事。
皇の一人娘である姫様の成人の儀は、恐らく月を上げての一大行事となるだろう。
事実、その日のために、姫様が生まれたその時から、成人の儀のための実行委員会が設立されている。
彼らはいよいよあと数日に迫った決行日を歴史に残る一日とするため――今頃は全力で最終調整を行っているのだろう。
「いきなりそう言われても、ぴんときませんか?」
「まあね……。
当日は立ち位置とか覚えなくちゃいけない台詞とかが沢山あるし、もう半年前から予行演習はやってきてるから、
ああ、成人の儀をするんだなぁ――っていう実感はあるけど、それとこれとは……ね」
「『大人』の定義次第ですね。単なる肉体の成熟のみをもって『大人』と呼ぶのか、
それとも精神的な円熟を持って『大人』であるとするべきか……」
「永琳はそういう意味だと『大人』よね」
「気の遠くなるほど永く生き続けていれば、自然と落ち着きはついてくるものですよ」
あの頃の可愛らしい少女が年を重ね、あと数日もすれば大人の仲間入りをする。
それだけならば、幾らでも見てきたというのに――その対象が姫様だというだけで、色々な感情が胸の中で溢れている。
暖かいような、寂しいような――嬉しい反面、何かに姫様を取られてしまうような気がして。
不思議な気分だった。
「ねぇ、永琳。もし永琳が、私の名前に漢字をつけるとしたら……どんな漢字を当てはめる?」
成人の儀は、子供から大人へと生まれ変わる日。
その中で、一番祝われる側に大人としての自覚を促すのが――
今までの読みだけしか存在しなかった名前に、漢字が貰えられるというものだ。
自分の名前をはっきりと書き記し、示す。
自らの名前に責任と自覚を持ち、これからは一人の大人として振舞って欲しいという願いが込められている。
勿論、姫様の名前にどのような感じが当てはめられるかは――
既に実行委員会が厳重な会議と打ち合わせを行い、専門の命名師によって決められている。
しかしそれでも気になるものは気になるわけで、
皇宮中の職員の間では、どのような字が姫様に与えられるかの話で持ちきりだった。
姫様と最も共にいる事が多いこともあってか、私のところに足を運ぶ者は皆、一度はこの話題に触れてきている。
どのような漢字を持って『カグヤ』を表すのか。
皆が思い思い、予想を立ててその日を待つ中――私も一つ、考えていた。
成人の儀において、姫様がどのような漢字を与えられるのか――私なら、どのような漢字を当てはめるか――
「……輝くの『輝』に、『夜』で……『輝夜』などは如何でしょう?」
「『輝』く『夜』……かぁ。何か、幻想的な感じだね」
「姫様の黒髪の輝く様子はまるで、満天の星をちりばめた夜のようですからね」
「うわ……私ってもしかして、今口説かれてるのかしら。どきどき」
「何を言ってるんですか、もう」
こんな穏やかな日々を――これまでずっと、積み重ねてきた。
きっとこれからも、積み重ねていくんだろう。
ずっと――ずっと。
「……と。代わりのお茶を淹れて来ますね」
姫様の湯飲みの中身が空になって久しいことにようやく気付く。
私も素早く、自分の手元の冷えたお茶を飲み干し――湯飲みを受け取り、盆を抱えて席を立つ――
「――あ、ちょっとまって永琳!」
待ったがかけられたのは、正にそんな時。
「……それさ、今度は私に淹れさせてくれない?」
「姫様が……ですか?」
「ほら、いっつも私、永琳にさせてばっかりじゃない。だからたまには、ね?」
一国の姫とあろう人が、自らお茶を淹れるなんて在り得ない事――
でも、私は。
私の事を想ってくれる、その気遣いを――無下にしたくなかった。
「……なら、お願いできますか?」
「任せて♪」
妙に嬉しそうにお盆を手にして、姫様は隣の部屋へと歩いていく。
あの頃の幼い背中。手を引いて歩いた、少女が。
今ではこうして、自分のためにお茶を淹れてくれることに――少し涙腺が緩みそうになる。
けれど、こんな所で泣くわけには勿論行かなかったから、私は目元を軽く揉む様にして俯き、誤魔化して――
その時だった。
がたんっ!! ――という、何かが折れ砕けたような鈍く、激しい音と共に。
姫様の左手にあった、重厚な棚が傾き、姫様へと倒れ掛かってきたのは。
あの棚の中には空気に触れると有害なものや、劇薬などが大量に保管してある。
いや、それ以前にあの棚自体の重量だけでも、姫様の華奢な体を割り箸のように折ることは容易い――
音に反応してから、顔を上げた。
その僅かな――時間の無駄が。
私から術を使うだけの時間を奪っていた。
戸惑っていては。
考えていては。
間に、合わない――
「――姫様!!」
何かにぶつかった棚が、鈍い激突音と衝撃を響かせ。
硝子の割れる音が、連続して響いた。
姫様は――無事だった。
「あ、ああ……え、永琳……っ……!?」
他に手段がなかった。
棚が姫様を押し潰す寸前、その間に私は割り込んで――私自身を盾にして、その厄災から身を護った。
焼けるように、背中が熱く痺れている。
背中に無数の硝子の破片が突き刺さり、いくつかの劇薬を浴びたのだろう――肉が焦げるような、嫌な匂いが漂っていた。
かろうじて体で支えている棚は重く、気を抜けばそのまま押し潰されてしまいそうで。
妙に喉に詰まるものを感じるのは、刺さった硝子の一片が槍の穂先のように鋭く、私の肺を貫いているから。
着ていた白衣が、見る見るうちに紅に染まっていく。
……良かった。
傷ついたのが、私で。
この少女に、こんな傷を負わせることが無くて良かった――
「――近寄ってはいけません!!」
私に触れようとした姫様を、私は鋭く一喝した。
此処まで鋭い語調をぶつけたのは初めてだった。
びくりと震え、そのまま動きを止める姫様を見やって、私は圧し掛かってくる棚をなんとか押し返す。
そのまま、もたれかかるようにして体を支えると、出来る限り穏やかに微笑んでみせた。
「今の私に触っては……血でお召し物が汚れてしまいます」
しかめそうになる顔を、どうにか押さえ込む。
蒼白の姫様に、これ以上心配をかけたくなかったから。
さらに、言葉を紡ごうとして――これは失敗した。
気管に血が詰まってしまい、咽るように咳が連続する。
「そんなこと、言ってる場合じゃ……永琳、そんな大怪我……怪我して……っ……」
くしゃくしゃになった泣き顔で、どうすることも出来ずに立ち尽くす姫様。
でも、私に心配は要らないのは、嘘じゃないから。
「大丈夫です……。私なら、これくらいの怪我は……なんとでもなります」
――変化が生じたのは、その時だった。
突如、私の内側から膨れ上がるように輝いた銀光――
この髪よりなお眩い銀の輝きがみるみる湧き上がり、私の傷ついた体を箇所を覆っていく。
まるでそれは、私の痛みを慈しむかのように、暖かく――優しく。
光はまるで、炎が爆ぜたように一際強く輝き、まるで太陽が落ちたような閃光となって部屋に広がり――
……再び、目を開けた時。
私の体には、もう傷一つとして残ってはいなかった。
あれだけ突き刺さっていた、硝子の破片も。
胸を貫いていた、槍の穂先のような一本も――跡形も無く『消滅』している。
引き裂かれ、ぼろぼろなった服と、血に染まった紅い白衣だけが――それが夢の光景などではなかったことを訴えていた。
姫様の瞳が、驚愕に大きく見開かれるのを、見ながら。
「……これが『蓬莱の薬』の力です」
私は――ほろ苦い笑みを、口元に零していた。
「このぐらいの傷で、私は死ぬことが出来る体ではないのですよ」
遥かな昔。
もう、記憶も飛びそうなほどの昔に、私が嘗めた不思議な薬。
肉体を解脱することによって、肉と時の呪縛から解き放たれる。
魂を安定させることで、巨大な『輪廻』の力を解脱して――『永遠』を与える、神秘の霊薬。
――『蓬莱の薬』。
後に、私は薬をこう名付けた。
この薬を服用したものは、老いることも死ぬこともない。
病に冒されることもないし、あらゆる薬や毒も受け付けぬ肉体となる。
例え心臓を抉られようと、肉体を粉々に吹き飛ばされようと――それは命を脅かす脅威にはならない。
今の私が確立しているのは、肉体ではなく魂――だから、魂の容れ物ぐらい、壊れてもいくらでも作り出せる。
永遠の命という『理想』――追い求めるだけの『幻想』を『現実』へと換える薬。
そして――
人を、人とは違うモノに変えてしまう、薬。
「……本日はもう、お引取り下さい」
肉体を蘇生した反動で、言葉さえ紡ぐのが億劫な中。
肩で息をしながら、私はそれでも細々と口を開く。
俯いたまま。
姫様の顔を見ることが。
……蘇生の瞬間を見た、今の姫様がどのような顔をしているのか、見ることが――
私には出来ないでいた。
「もうこれでは、今日はお話しするのは難しいでしょう……ですから。
本日は、もうお帰りになってください……」
沈黙は、決して――短くなかった。
それでも、やがて――姫様の足音が部屋を出て、段々と遠ざかっていく。
その心まで、遠ざかっていったような気がした。
顔を上げた時には、もう姫様の姿は影も形もなく。
額に張り付いた、髪の一房を――ゆっくりとかきあげ。
がらんと静寂の訪れた部屋の中で――私は黙って、夜空の蒼珠を見上げる。
いつもと変わらぬ、あの蒼い星は――今日も、美しく。
孤独に空に浮かんでいた。
その後の調査で、あの時の棚の転倒は意図されたものではなく、
棚自体の老朽化による疲労からだということが判明した。
姫様の命を狙おうとする不届き者の仕業ではなかったことに、私は心から安堵して。
けれど。
心の、痛みは――どうにも、消せそうに無かった。
単純に、知識としてなら。
姫様は私が不老不死であることを知っている。
世間的には私の存在は隠し通されているが、皇宮の中では、逆にこの体の事を知らないものなどいない。
だが、それでも。
ただ知っているだけであるのと――実際に目の当たりにしたのとでは、全くといっていいほど印象は違ってくる。
人と同じ姿をして。
人と同じ言葉を話して。
人と同じように傷つき、人と同じように血を――流すのに。
まるで悪趣味な手品のように、この体は死なない。
常識では考えられないほどの速度で再生するあの姿を見て、そういうものだと割り切れるほど、都合よく人は出来ていない。
何度か、不注意で負った大怪我が癒える瞬間を、誰かに見られたことはあったが――
驚愕の後に訪れるのは、嫌悪か、畏怖か。
少なくとも、それまでと全く同じように付き合える面の皮の厚さを持つものは誰もいなかった。
そしてその度、私と他の人間は『違う』のだと。
決して、交わることの出来ない存在なのだと――思い知らされてきた。
あの日から。
姫様は、来ない。
彼女も、やはり自分とは異なる存在だった。
いくら、私が母親を気取ろうと。
いくら、心が通っていると思い込んでいても――事実は、変わらない。
せめて夢なら、覚めないで欲しかったのに。
そうすれば、私はそれを夢だと気付かず――もう少しだけ、束の間の幸せを楽しめたかもしれなかったのに。
夢は覚めてしまった。
これからも――彼女は来ないのかと思うと。
堪えがたい胸の痛みに、瞳の端から涙が零れた。
時間だけが流れた。
無為で、無駄な時間だけが流れていった。
姫様の成人の儀を、いよいよ明日の夜明けに控えた――丑三つの刻。
その日、珍しく私は酒に酔っていた。
蓬莱の薬の影響で――私は真っ当な手段では、酒に酔うことも出来ない。
だから今呷っている杯の中には、致死量を大幅に超えた大量の阿片を放り込んである。
万能の蓬莱の薬も、流石にこれならば多少堪えるらしい。
脳に霧がかかったように、ふわふわとした気分を味わっていた。
そんな時だ。
「……永琳」
その声に机に突っ伏していた私は、ぼんやりと振り返る。
酔いすぎた私は、どうやら幻覚まで見るようになったらしい。
姫様の声が聞こえたような気がして――姫様の姿が、見えるような気がする。
寝室着の上に一枚、薄く羽織っただけの姿で。
控えめに顔を覗かせる様子は、酷くあの頃の姫様を思い出させるような姿で――
違う。
これは――幻覚じゃない――!!
「……ひ……姫様……!?」
――誰もが寝静まるようなこんな夜中に、どうして――?
驚く私を、軽く手を翳して制して――姫様はひたりと、私を見つめる。
「永琳……今日は、お願いがあってきたの」
夜空の星々のあえかな輝きを受けたその瞳は。
何かの決意に、夜空そのものを封じ込めたような不思議な輝きを放っていた。
「蓬莱の薬を――作ってくれないかしら」
「蓬莱の……薬を……ですか……?」
何かの冗談かと思ったが――姫様はこくりと、縦に頷く。
その表情にも様子にも、冗談を言っている様子はまるで感じられなかった。
しかし。
「残念ですが、姫様……それは不可能です」
「不可能……どうして? 永琳だって、蓬莱の薬を嘗めたから、今の様に――」
「確かに、私は蓬莱の薬を嘗めたことがあります。
しかしそれは、私の先祖が気の遠くなるほど古から代々受け継いできたものでした。
私自身が作り出したものではありません。
……勿論、自らの手で作り出してみようと試みたことは否定しませんけどね」
もう、思い出すことも難しいほど過去のことになるが。
かつては私自身、蓬莱の薬について研究していた時期があった。
ただし、あくまで個人の趣味の域を出ないレベルでの研究ではあったのだが。
別に、誰かを不老不死にしたかったわけではない。
それならばわざわざ零から薬を作り上げるよりも、手っ取り早く私の生き胆を食べさせれば済む。
蓬莱の薬の力は、不老不死の人間の生き胆に溜まる――それを食せば、蓬莱の薬と同じ効能が得られる。
そして私自身は不老不死なのだから、例え生き胆を食べられたところで死ぬことは無い。
私が蓬莱の薬を作ろうと思ったのは、純粋に――薬師としての力を試したかったから。
数々の名の知れた薬師達が挑み、敗れていった『永遠の命』。
作り出せるのは、きっと私だけだという自覚があった。
何よりも、かつて私自身が嘗めたように、蓬莱の薬は『実在』している。
ならば、もう一度作り出せない道理は無いはずだった。
時間なら、それこそ永遠にあるのだから。
しかし、実際には――
「材料は整え、作り方の手段も導き出しました。
しかしそれでも、私には蓬莱の薬を再現することが出来ませんでした。
……たった一つ、蓬莱の薬を作るに当たって――私に出来ないことがあったからです」
「出来ないこと?」
「蓬莱の薬を作るには、あの薬に――『永遠』を与える力が不可欠なのです」
始まりがあるものには、終わりがある。
表裏一体だからこそ整合の取れているその大原則を、捻じ曲げてしまうのが蓬莱の薬。
輪廻転生という大きな輪から外れ、小さな転生の輪を自らの内に作り出す。
それが、蓬莱の薬のもたらす『永遠』の正体。
だが、この永遠を生み出す力は、材料を混ぜ合わせただけでは生み出せぬものだった。
この永遠の力は、零から生み出すものではなく――外部から注ぎ込んで固着させるのである。
薬の材料と手順は、言うならば永遠の力を『薬』という物質的な存在に固着させるための媒介ということになる。
生き胆が蓬莱の薬と同じ役割を果たすのも、すでに『永遠の力』が服用者の肉体で固着していて、
結果として蓬莱の薬に永遠の力を付与するのと同じことが再現されているからだと判った。
だから、蓬莱の薬を作るためには。
永遠を与えることのできる――永遠を操る能力が無ければ、完成を見ない。
その最も肝心な部分が、到底乗り越えられるような壁ではなく。
研究は座礁に乗り上げ、中止。
後にはただ、蓬莱の薬となる「一歩手前」のものだけが残る結果となった。
「……なら……永琳は、その力さえあれば……蓬莱の薬を作ってたってことなの?」
「……そうですね。折角研究した以上、完成させたかったのは事実です。
ですが、肝心要の『永遠の力を与えてやる』行程が不可能な以上、作成は――」
「出来るわ」
短く、きっぱりと。
姫様は言い放った。
「……永琳。私はね……その『永遠の力』を操ることが出来る」
私は最初、何を言われたのか理解できず――数秒後、思わず姫様を見返していた。
「この力だけじゃ、大したことは出来ない。
どこまで、どう操ることが出来るか正確に把握してるわけじゃない。
でも――私は永遠を操ることが出来るの」
姫様の瞳は、真っ直ぐ私を見返す。
そこから、偽りを見出すことは出来なかった。
「だからお願い。蓬莱の薬を――作って」
客観的に考えて、悪い条件など何一つ無かった。
私は、永遠に完成を見ることが無いと思っていた研究のひとつを、これでようやく終わらせることが出来る。
そしてその結果、姫様は蓬莱の薬を手に入れることが出来る。
ただ、それだけのことだ。
…………いや――
「……姫様。それがどういうことになるのか……判っておいでですか?」
永遠の命を手に入れる。
……それは、つまり――
「皇としての位を受け継ぐ権利を捨てなければなりませんよ?」
永遠を生き続ける者に、権限というものを与えてはいけない。
何があろうと――絶対にそれだけはいけない。
仮に、姫様がこのまま皇になれば。
世代交代をする事無く、姫様は永遠に月の皇として君臨し続けることになる。
仮に皇の位を自ら退くことで、その冠を後続に託したとしても。
それで、皇としての力や威厳の全てを失うわけではない。
むしろ、そういった存在は皇を傀儡に取り、かえって影から皇宮を支配するような存在に化ける。
そのような存在になれば。月は永きに渡り、腐敗の温床が根付く地に成り下がってしまう。
赦されることではなかった。
だから私も規模は違えど、八意の姓を持ちながら、決して八意の表には立たないのである。
これは姫様に昔、しっかりと話したことだった。
「今のように皇宮で過ごすことは叶わなくなります。
人との付き合い、関わり方も――変えていかざるをえなくなるでしょう。
それに、言い方に語弊がありますが……もう『ちやほや』されることは絶対にありません。
生まれてきて、その生き方しか知らない姫様は……それに耐えられるのですか?
全てを失う覚悟は――あるのですか?」
私は、これ以上ないほど苛烈なまでの眼差しで姫様を射抜いた。
それこそ、並大抵の度胸の持ち主なら――震え上がって、逃げ出したくなるほどに鋭く。
だが。
「……ええ」
私の視線に、真正面から向かい合い――逃げる事無く。
「それでも、私は――蓬莱の薬が、欲しいの」
その言葉。
その覚悟に。
「……判りました。なら――作りましょう。蓬莱の薬を」
――普段の、私なら。
絶対にこのような判断はしなかったと弁明したところで、意味がないことなのは判っている。
私は、この時過ちを侵した。
聞かなかったのだ。姫様に。
『何故、そんなに蓬莱の薬を求めているのか?』――と。
普段なら、まず最初に聞いていた。
必ず、聞くべきだったのに。
深く酒精に呑まれていた私は、それに思い至ろうともしなかった。
どんな理由があろうと、私には。
所詮、姫様と別の存在である私には――関係ないと。
そんな事を考えて。
私は蓬莱の薬を作った。
姫様は、それを服用し。
不死の存在となった。
夜が、明けて―― 一世一代の大仕事と深い酔いに、泥のように私は眠り。
大逆を侵した者として、姫様が処刑された――職員の一人が血相を変えて駆け込んできたのは、その二日後のことだった。
考えれば、すぐに判ることだった。
不老不死になった姫様から、その事実を押し隠したまま、その皇族としての地位だけを剥奪する形になれば。
皇以外の全員が黙ってはいなかっただろう。
事情を知らなければ、私だって猛然と抗議しているはずだからだ。
抜きん出た才覚と、息を呑むような美貌――姫様の民衆に対する人気は凄まじいものがあった。
それこそ、強硬手段に出ようものなら国を割った内乱に発展しかねないほどに。
当然この月を統べる皇として、そんな判りきった未来を選択するわけにはいかない。
結局、姫様から皇の継承権を奪い、同時に民衆達も納得させるためには。
百の弁明よりも、一つの事実を突きつけること――罪人として『殺す』ことが一番有効な手段だったというわけだ。
勿論、蓬莱の薬を服用した姫様は死ぬことはない。
要は、そこから歴史の表舞台に二度と出なければ――社会的に『死んだ』と認知されれば充分だった。
しかし、いざ罪を着せると言っても、そこで問題が生じる。
幼い頃から、姫様を将来の皇として見込み、後援してきた貴族達である。
彼らは、いずれ姫様が女皇として台頭し、その恩恵に預かれる事を見込んで惜しみない支援をし続けてきた。
そんな彼らが、金の卵を産むであろう鶏を殺されるとわかっていて、黙って言う事を聞くだろうか?
例え、普通の者なら即座に処刑を言い渡されるような罪状であっても――
彼らは暗躍を繰り返し、黒を白に変えようとするだろう。
元々が白かったものを黒と言い張っているのだから、それこそ彼らのやっていることの方が本来は正しいのである。
そんな彼らを黙らせるほどの、大罪。
どれほど証拠を積み上げようとそれを打ち崩し、問答無用で処刑にすることが出来る唯一の罪。
それが『大逆』――皇を狙って危害を加えたり、加えようと企むことでのみ訴えられる罪状。
例え親族であろうと、自分の娘であろうとも、無関係に死刑を言い渡すことの出来る、最も重い罪――
そして、姫様は処刑された。