力ある者というのは、得てして孤独である。
本人がそう意識していなくても、周囲が自然と距離を置いてしまうからだ。
かと言って力ある者同士が集うのかというと、そうとは言い切れない。
力の方向は各自によって違う。
違うものを簡単に認める事は出来ないし、
仮に同じであったとしても、それ故認めたくないと思うのが自然だ。
良い関係を保つ条件の一つに『付かず離れず』というのがあるが、
それは比喩でも何でもなく、まさに適当な距離を保つ事で関係を維持しているだけの事だ。
必要以上に近付けば、互いを傷付けてしまうかもしれない。
あまり遠くに行ってしまうと、孤独を意識せざるを得なくなってしまう。
無意識の内に、その中間の距離で居る事を誰もが望んでいる。
その境界を越える事は、すなわち関係を打ち切る事に繋がる。
越えるきっかけは様々だが、共通して言える事が一つある。それは、
――どちらかが境界の位置を勘違いしてしまったら、もはや修復は不可能だという事。
◆
「……規格外、だと?」
恐らく彼女にしては珍しく、煮え切らない表情で首を傾げる魔理沙。
正面に座るアリスも同様で、思いっきり眉をひそめている。
(……まあ、当然の反応よね。)
幻想の郷に暮らす者が、現実の里に生きる者に『規格外』などと言われて、何も思わないほうが不自然だろう。
第一、こちらはまだここの事を完全に知り尽くしている訳ではない。それを解った上で、郁未は説明を始めた。
「魔理沙にもまだ話してなかったわね、私の『力』。」
「……ああ、そうだな。聞いたのは、人間じゃない奴から受け継いだって事だけだ。」
「そう。人に在らざるモノが使う異形の『力』。向こうではこれを『不可視の力』と呼んでいたわ。」
「不可視……?」
アリスが顎の辺りに手を当てる。そこは、郁未が彼女をオトすために殴り飛ばした箇所だ。
攻撃を受けた時の事を反芻しているのだろう、そのまま思考に耽るアリスを横目に、
「人であろうが妖怪であろうが、意識した所で決して視る事は出来ない。現象的になら見えるかもしれないけどね。」
「視えない力、だと? そんなものがどこに――」
「原理自体は不明だけど、正体としては身近なものよ。それがヒント。」
「……身近にあって、視えないもの……?」
魔理沙も思考の渦に嵌ろうとする直前、アリスが顔を上げ、
「……もしかして、空気?」
「ビンゴ♪ やっぱり、直に受けると発想も早いわね。」
「……それは、褒めてないわね。」
普通に話しているのを見て、郁未は懸念が解除されたと判断。笑みの口調で、
「簡単に説明すると、圧縮空気の塊をぶっ放す力ね。幻想郷風に言えば、『空気を固めて放つ程度の能力』、かな。」
「成る程……つまり、さっきはアリスの顎にそれをぶつけたって事か。」
そうそう、と頷く。魔法使い二人もようやく合点のいった様子で、
「要は、不意打ちという言葉すら生温い攻撃だったから、勝負無しって言いたいんだな?」
「そうね……というか、解ってたとしても回避のしようが無いじゃない、そんなの。」
落ち込んで損した、と漏らすアリスの表情は、明るいものだ。
現金だなぁとも思うが、『弾幕ごっこ』という確立したルールを持つ彼女らにとっては、自分の力は反則過ぎる。初見であればなおさらだ。
しかし、説明はそこで終わりではない。咳払いで二人をこちらに振り向かせ、
「まあそれは力の原型で、今はかなり融通が利くようになったの。空気に色を付けるのは昔から出来たけど、元々は障害物があったらぶつけられなかったのよ。」
「って事は、今は出来るんだな。」
「というかやったじゃない。魔理沙を飛び越えてアリスに直接ぶちこんだでしょ?」
そう、昔なら魔理沙に当たって、今頃は……嫌な想像は止めておこう。
「前は掌の先からしか出せなかったんだけどね。何となく練習してる内に、離れた所にも空気の塊を作れるようになったのよ。といっても、安定させるのは難しくてね。出来てもすぐ破裂するし、圧縮率はその時でまちまちだし。成功率は低かったんだけど……。」
上手くいって良かったわ、とおどけて見せるが、当の本人は今さら焦り出し、
「ちょ、ちょっと! それってつまり、私が死んでたかもしれないって事でしょ!?」
「問答無用で殺そうとした人が言う台詞かなぁ、それ。」
う、と引き下がるアリス。……弱みを握るつもりは無かったが、まあ彼女の落度の方が大きいので、これくらいは言ってもいいだろう。
「まあそれは冗談。今はそんな事無いし、その他にも色々出来るわ。半分まともに生きる事を諦めてた事もあって、超能力者にでもなろうかなー、なんて適当な事も考えてたのよ。その甲斐なのかなるべくしてなのかは解らないけど――」
郁未は告げる。自分の今の特性、幻想郷で居る限りははっきり示さなければならない己の確固たる能力を。
「――今の私は、『空気を操る程度の能力』の持ち主、とでも言えばいいかな?」
「…………。」
「…………。」
二人の魔法使いの沈黙も素知らぬ顔で、郁未は一歩を退き、二人の丁度真ん中に立つ。
そして仰々しくお辞儀をしながら、
「こんな私でよろしければ、――どうぞお見知り置きを。」
異界人よりも異界人然とした所作で、挨拶を終えた。
◆
場に、沈黙が訪れた。
静寂が支配する部屋に佇むのは三人の少女。
一人は艶めいた笑顔を浮かべ、残る二人はその笑顔と、――文字通り空気に圧倒された、惑いの表情で一人を見つめていた。
誰も言葉を発しようとしない。いや、出来ない。
笑顔の少女は言葉を待つ身であるし、
戸惑う少女達は言葉を選べぬ身であるからだ。
しばらくの静けさの後、待ちきれなくなった笑顔の少女が口を開き、
「……うーん。言い方が悪かった? じゃあ、改めて。」
笑みを消し、真剣そのものの表情で、言った。
「まあ、こんな私だけど。――気楽にやりましょ?」
◆
「……気楽に、なんて。」
アリスは改めて自分の不覚を悟る。目の前の人間は、もはや人間とはかけ離れた存在である事を自覚しながらも、それを本心では認めたくないのだと、理解出来たから。
「何で、そんなに強いのよ、アンタも……!」
そして、自覚は無いにしても、自分がその傷を抉ってしまったというのに、それを不問に伏すどころか、こちらの気遣いまでするという、あまりにも優しい心の持ち主である事が、アリスの胸を打った。
「強くなんてないわ。ただ、諦めが悪い割に割り切りが早いってだけ。」
「……!」
それを強さと言うのだ。決して諦める事無く、しかし刻々と変化する状況に対応できる器量の持ち主こそ、本当に強い存在であるのに。
「本当……私の周りの人間は、自分を解ってない奴ばっかり。」
己がとても尊大で賢しらで美しい存在だという事に気付きやしない。
――だから人間は怖いのだ。自分の価値を知らない者ほど、恐ろしい奴は居ないのだから。
「ま……いいわ。」
――だから私は人間が嫌いなのだ。自分を平気で蔑む者ほど、平然と他者を称えるものだから。
「あんまり気は合いそうに無いけど、仲良くしましょ?」
――だから……私は人間に焦がれるのだ。
「親交を深めようって台詞じゃないなぁ、それ。」
――どうしようもなく永いこの命を、少しでも価値在るものとしたいから。
◆
二人が握手するのを見て、魔理沙は一息を吐いた。
(やれやれ……ようやく本題に入れそうだぜ。)
そもそもここに来た目的は郁未の紹介のためではない。彼女の家に引いた温泉脈、その温度調整の知恵を借りるためにわざわざ訪れたのだ。
(ま、無駄じゃないがな。)
アリスと二人だけだといつものパターンで口論になる可能性が高い。しかし、中立の立場である郁未に間に入ってもらえたら、交渉もスムーズに進むだろう。幻想郷きっての智略派を自負する彼女にとって、現状はまさに理想的な方向に進んでいる。
(さて、始めるか。)
用件を告げようと、口を開こうとした瞬間。
――チリリン。
「……あ?」
玄関の方向。自分は使用する事の無い呼び鈴の音が、控えめに響いた。
◆
チリリン。
「……こんなので、聞こえるのかしら。」
ドアの横に据え付けられた、爪の先ほどの大きさをした可愛い呼び鈴を鳴らしつつ、咲夜は首を傾げる。
「ここの住人は魔法使いでしょう? なら、魔術的な何かが仕込まれてるのでは?」
そう付け加えるのは並んで立つ鈴仙だ。
「ただ吊るしてあるだけだったりして。」
「さすがにそれは無いと……。」
思いますけど、という言葉が止まったのは、家の中から足音が聞こえたせいだ。
パタパタと急いたリズムのそれは扉の前で止まり、
「はいはい、どちら様――」
開かれた扉の向こうから、この家の主人が顔を出す。
「――って、珍しい取り合わせね。」
嫌な顔をしない所を見ると、機嫌が良いのだろう。鈴仙がそう判断していると、
「おお? 何だ、また我が侭に付き合わされてるのか、お前ら。」
後ろから、いつも通りの不敵な笑みで黒白の魔女が出迎えた。
「魔理沙こそ、どうしてここに居るのよ。」
「私の質問に答えるのが先だぜ。ちなみにここには私しか居ない。」
「……私も居るんだけど、っていうか私の家だし。」
「あのー、何も聞いてないのにそんな事言うのはおかしくない?」
「お前の家にお前が居るのは当たり前だ。こういう場合は客人しかカウントせんよ。」
「つまりうちの図書館に忍び込んでも同じ事を言うのね? いい度胸じゃない。」
「魔理沙は客としてカウントされないでしょ、どこに行っても。」
「つまり客人以上か。ははは、それは良い。」
「住人以下、の間違いよ。それに、家があるからといって主人が居るとは限らないし。」
「えーと、話がどんどんズレてる気が……。」
いや、気のせいでなく本当にズレている。
彼女の『眼』を使うまでも無く狂った会話を捨て置き、鈴仙は己の耳を立てて、目的地が正しいかどうかを確認。
直後、
「……!」
間違い無く、居る。その事を再び幻視した鈴仙は、ますます狂う三人を無視して、家の裏に回った。
カーテンに覆われた窓を幾つか検分し、一つだけ開け放たれた窓から中に入ろうとして、
「よ……っと?」
「!?」
そこから飛び出して来た人影と激突した。
「……っとと。」
人影はバランスを取って着地したが、完全に不意を衝かれた鈴仙は、
「あつつ……。」
ぶつけた鼻と尻餅で、二重の痛みを味わう事になった。
「危ない危ない……。えーと、あなたがお客さん?」
手を差し伸べてきたその少女を見て、
「――!!」
鈴仙は、はっきりとソレを視た。
――虚空にただ一つ浮かぶ、朱く円い満月を。
◆
「……大丈夫?」
自分を見て固まってしまった相手を、割と落ち着いて郁未は観察する。
流した銀髪に赤い瞳、どことなく制服っぽいブレザーにスカートまではまあいい。問題は、頭の頂きに鎮座する、二つの、
(……耳?)
ぴょこん、というよりは、みょこん、という感じの、赤と白のくたびれたそれは、赤の瞳と相まってある動物を連想させた。
(兎……の妖怪、かな。)
我ながら適応力高いな、と感心しつつ、怯えたようにこちらを見上げる彼女(スカートなら女の子だろう)に声をかける。
「どこか怪我でもした? 立てる?」
「……うん。」
頷き、ようやく立ち上がった彼女の表情は、未だ硬い。
それを緊張と受け取り、気をほぐすために笑顔で自己紹介をする。
「私の名前は天沢 郁未。たった今ここに来たばかりの人間よ。あなたは?」
「……私は、鈴仙・優曇華院・イナバ。」
名乗りはしたが、素性は明かさない。まあそれが普通だろうと思い、郁未は先に訊くべき事を優先した。
「――あなた、何しに来たの?」
◆
「――!」
郁未、と名乗った少女の質問の意図を図りかね、鈴仙は再び身を硬くする。
(まさか……既にバレて……?)
いや、そんな筈は無い。鈴仙はアレの事を直接は知らないし、それはつまり向こうもこちらの事を知らないという事だ。
目の前の彼女が聞きたいのはつまり、
(私が、誰に会いに来たのか、という事……。)
玄関から入らない時点で家の主人でない事は明白だろう。わざわざ裏手に回って窓を物色していたのを見られていなかったとしても、
(ここに居る事が、彼女が目的だという何よりの証拠……。)
バレてはいるが、本質までは掴んでいない。そう判断した鈴仙は、
「――貴方に、会いに来たの。郁未さん。」
努めて冷静に、そう答えた。
「私に……?」
首を傾げる郁未の様子に、判断が誤りでないと確信。
「そうです。……私の師匠が貴方に会いたがっているので、お迎えにあがったのですよ。」
慇懃な姿勢を崩さず、告げる。赤の両眼で見る彼女の表情は、
(……笑ってる?)
口元を押さえ、今にも堪えが利かなくなりそうな程に顔を引きつらせ、
「ふふ……まさか、こんな所でお迎えが来るなんてね。」
一瞬顔を伏せ、再び上げたその瞳は、
「――っ!!」
――昏い、朱に染まっていた。
◆
己の中で激しく打ち始めた鼓動をギリギリで抑えつつ、郁未はやはり冷静に思考を走らせる。
(ああ……つまり、ここに来るのは必然だったのか。)
ただ迷い込んだだけならば偶然と片付ける事も出来たが、そうするには否定出来ない材料が多過ぎた。
自分があまりにも馴染むのが早いのもそう。
自分の存在と過去を再確認させるような住人と出来事ばかりに出会うのもそう。
しかし、決定的なのは。
『あら、どうやら勘が鋭そうね。これは面白いわ。』
迷い込んだ直後に聞こえた、他人事のようなあの声。そして、
『――貴方に会いたがっているので、お迎えにあがったのですよ。』
目の前の兎が言った、先程の台詞だ。
(さて……どうすれば良いんだろう?)
この先が全く読めない。ただ、確実なのは、もう後戻りは出来ないのだという、その一点のみ。
だから、精一杯の壊れた笑顔で。
「じゃあ……案内してもらおうかしら。」
しかし、凍てつくような口調で、そう言った。
◆
「ひ……!」
狂気に慣れた彼女でさえ、その場に居る事を拒絶した。
それほどまでに、目の前にいるソレは――危な過ぎたのだ。
もはや永琳の命令に従う事よりも、ソレから離れる事の方が優先順位は高く、
「――どこ行くの?」
「……っ!?」
大きく飛び退った筈なのに、背後から聞こえた声に振り向く事無く、弾を――
「――おっそいなぁ。」
がし、と。気付いた時には、正面から頭を鷲掴みにされていた。
「あ……あ……。」
違う。違う。これは、ヒトの動きなんかじゃ、無い。
「自分から誘っておいて逃げる気? それっておかしいと思うんだけどなぁ。」
舌っ足らずな口調が逆に恐怖を誘い、身を強張らせた。
「別に取って喰おうって訳じゃないのよ? ただ、その師匠とやらの所に連れて行ってくれるだけでいいんだから、さ。」
ガクガクと身を震わせる事しか出来ないこちらを宥めるように、柔らかく微笑んだソレは、
(……バケ……モノっ……!)
そんなありきたりな言葉しか浮かばないほど、鈴仙は恐怖に支配されていた。
「あらあら、そんなに怯えちゃって。兎は独りになると寂しくて死んじゃうって、本当なのね。」
ふふ、と笑みの息をこぼし、こちらを掴んでいた手を放した。
「あ……。」
途端に気が抜け、腰を落としてしまう。もはや、逃げる気力さえ、失せていた。
俯いてしまったこちらに、やはり冷たい声で、
「さて、と。脅しはこれくらいで充分かな。」
呟いた途端、辺りに満ちていた狂気が急激に薄れていく。
「え……?」
未だ震える身をかき抱き、すぐそこまで迫っていた命の危機が去った事を理解出来ず、尻を着いたままの鈴仙は面を上げる。そこには、
「ごめんね。初対面だからって、ちょっとやり過ぎたわ。」
狂気の残滓すら感じさせぬ優しい笑顔で、黒目の少女が立っていた。
◆
焦点の定まらぬ目でこちらを見つめている兎の妖怪の様子に、
(うわー……我ながら、ちょっとはっちゃけ過ぎたか。)
内心で自分の行為に冷や汗をかく郁未。
ルーミアには明かさず、アリスに対しても不発で終わった分を取り返さんばかりの勢いで狂気を演じたのがまずかった。
間違い無く腰抜かしてるだろうなー、と心で呟き、
「怖い思いさせて、ごめんなさい。……まだ、ここに慣れてなくて。」
さっき自分で適応力高いって褒めてたじゃん、というツッコミはさて置いて、再び鈴仙の身を立たせた。
割としっかり足が着いてる事に安心し、幻想郷に来てから助け起こしてばっかりだなぁ、なんてどうでもいい事を考えながら、しゃがみこんで彼女の身に着いた汚れを払う。
ポンポン、と規則正しいリズムが刻まれる事に快さを感じながら、
「……大丈夫?」
下から覗き込むようにして、鈴仙の顔を見る。
ようやく視線が結ばれた事に安堵しながら、彼女の反応を待った。
「……はい。何とか……。」
数瞬の後、まだ震えの残る声で応えた鈴仙。こりゃ重症だなぁ、って他人事じゃないし、と心の中で問答を繰り返すが、それで解決する訳でもないと断ち切って、
「それじゃあ……改めて、説明してくれる?」
身を起こし、正面から相対する。
まだ硬い表情ではあったが、色々振り切るように首をぶるぶると振った後、
「……はい。……怒らないで、聞いて下さいね。」
うわー嫌なキャラ確立してるー、とふざけるのは最後にして、こちらも真剣な顔で、
「ええ。……理由も無しに危害を加える気は無いわ。」
全然信用出来ない台詞で、話を促した。
◆
鈴仙の話は実に明快で難解だった。
説明している彼女自身、(さっきの事も含めて)これで大丈夫なんだろうかという顔をしていたので、ぷちぷちツッコむのは避けたが。
で、簡潔にまとめるとこういう事だ。
彼女の主人の友人である彼女の師匠(既に解り難い!)が、郁未が幻想郷に入って来た事に気付き、詳しい事情はともかく会ってみたいとの事。
その詳しい事情とやらを聞かない事にはどうにもならない気がするのだが、弟子が師匠に逆らう事など出来る筈も無く、また彼女自身も郁未の存在が異質であると感じているため、(どっちみち)こちらに来てもらいたい、と彼女は締めた。
「説明はそれだけ?」とこちらが言うと、鈴仙は身を縮こませながら「はい……。」と返してきたので、取り敢えず自分の中で考えを巡らせてみる。
まず、重要な点が一つ抜けている。というか、短すぎてそれくらいしか追究すべき点が無いが。
(人を誘うなら、先に自分の素性を明かすのが礼儀よね。)
話し合いの場を持つ場合、目的の如何に拘らず、まずは互いの立場をはっきりと示す必要がある。無論、状況によってそれが絶対条件だとは言い切れないが、
(悪徳商法や詐欺師でも、一応身分はバラすしなぁ。)
というより、そうしなければ第一印象が悪い。まともな会見にしろ無茶な交渉にしろ、己の立ち位置をちゃんと主張しない事には信用は得られない。
(それを言えない理由が何なのか……か。)
兎であるのが明白なのにも拘らずそれすら言わないのは何故か。そこまで考えて、
(――あ。)
郁未は思い出す。鈴仙が最初にこちらを見た時の反応を。
最初は緊張しているだけかと思っていたが、さっき脅した時の表情と比べて、
(恐怖を差し引いても、驚き過ぎよね、あれは。)
さらに、彼女の説明にあった『異質な存在』という言葉から邪推するに、
(……向こうは、『私』の事を知ってる?)
私個人ではなく、今ここに在る『私』という存在について、こちらが知る以上の何かを掴んでいるのではないか、という所まで考えて、
(……うーん、ますます厄介だなぁ。)
当たりにしろ外れにしろ、直接話を聞いてみない事には解決しないな、と結論。
既に、彼女の意向は定まっていた。
◆
郁未がよし、と首肯したのを見て、鈴仙は伏せがちになっていた面を上げた。
「あの……。」
先程の事が尾を引いていて、思うように声が出ない。それをもどかしく思いつつ、鈴仙は正面に立つ人間の少女の瞳を改めて見る。
(……青を含んだ、黒……。)
異形を微塵も感じさせない、強い意志を秘めた目に吸い込まれそうな錯覚を得て、慌てて目を逸らす。
(狂気の瞳を持つ私が……人間に取り込まれそうになるなんて……。)
いや、違う。今は確かにヒトに見えるが、アレは――
「鈴仙。」
「……っ。は、はい?」
いけない、その先は考えては危険な事。
郁未に声をかけられ、自分の心を占める余計な感情を捨てた。
前に居る少女は素知らぬ風に小さく微笑み、
「それじゃあ、案内してくれる?」
先程と同じ台詞。それを聞いて、自分の中に安堵が生まれたのも束の間、
「抜け駆けとは良い度胸じゃない。」
「――!」
今度は物理的に、冷たいものが首元に触れたのが解った。
◆
「……!?」
郁未は、突然の事に対応が遅れていた。
今まで二人で話していた筈が、気付けば気配の数が増えている。
自分の後ろに立つのは、
「成る程、これが時を支配する感覚か。なかなか良い気分だな。」
「アンタはこんな時でも緊張感の無い……。」
対照的なようでいて、実はどちらも他人事的なスタンスで状況を見ている二人の魔法使い。
そして鈴仙の後ろから右手のナイフを突きつけているのは、
「言ったでしょう? 余計な弾幕は張らない、って。」
同じくナイフのように研ぎ澄まされた冷徹な声を放つ、銀髪のメイドだ。
魔理沙の台詞が正しければ、この状況を支配しているのは青の給仕服を纏った彼女なのだろう。
郁未は幻想郷に来てから始めて、固唾を呑み込む。
(時を……支配する、か。)
自分の力も大概なものだと思うが、時間操作とはこれまた別格だ。
敵か味方かも解らぬ侍従の手元に気を配りつつ、郁未は口を開く。
「……あなたは、誰?」
「そうね……この場合はこっちから名乗るのが礼儀か。」
底の読めない微笑を保ちつつ、
「私の名は十六夜 咲夜。悪魔の館のメイド長を勤める者です。」
鈴仙の身体を抱えているため、会釈だけで礼とした。
丁寧な仕草とはちぐはぐな状況に苦笑しつつ、こちらも名乗る。
「私は天沢 郁未。さっきこの幻想郷にお邪魔したばかりの人間よ。」
「人間、ね。」
一瞬、表情に翳りが差したように見えたが、それはすぐに消え、
「会ってばかりで悪いけど、うちのお嬢様に会ってもらえるかしら?」
「お嬢様?」
その姿に相応しい単語が出た事もそうだが、いきなりの勧誘に郁未は内心で首を傾げる。
(まさか……二つもアプローチがあるなんてね。)
表情に出さないように努めながら、二つ目の誘いが正当なものであるかを確かめようとして、
「どういう理由で会いたいの?」
「さあ、それはお嬢様にしか解らないわ。」
こっちもか、と独りごちる。
アリスにしても鈴仙にしてもそうだが、手段と目的が逆転し過ぎじゃないだろうか、ここの住人達は。
いや、そもそも目的の目的がはっきりしないのだから本人にとっては逆転も何も無いのだろうが、それは即ち短絡的という事でもある。
実はあんまり平和じゃないのかなー、と思いながら、自分の行くべき方向がどちらなのかをはっきりさせるため、もう一度問うた。
「あなたは私を識ってる(しってる)?」
「…………。」
鈴仙の師匠が恐らく前提として持っているであろうもの。それが咲夜の主人にもあるのかどうかを訊ねると、瀟洒な侍従長は一瞬考えた後、
「興味が無いわね。」
「――そう。」
仮面のような微笑で返された答えに、郁未は行き先を完全に決定。
「なら、彼女を放してくれるかな。少なくとも、あなたに付いて行くメリットは無さそうだし。」
「……ふうん、そう。」
冷め切った口調。直後、
「――無知って怖いわね。」
――彼女の左手が、跳ねた。
◆
「……っ!」
バキンッ!!
殺意などまるで感じさせずに放たれたソレを、反射的に『力』で弾く。
乾いた音を立てて地面に落ちたのは、
「……いつの間に、出したのよ。」
答えなど解りきっているのに、刃の折れ曲がったナイフを見て、問う。
「成る程、やはり貴方も同類ね。とっておきだったのに。」
同じように折れた刃を見ながら、やはり微笑(むひょうじょう)のまま呟く奇術師。
「もう殺気を出さなくなって久しいけど、それでも初見で無反応な人間なんて、そんなのはもう人間とは言えない。」
「……言ってくれるじゃない。まあ、ついさっき自分でもそう思ってた所なんだけどね。」
身を低く構え、次の攻撃に備える。目の前の人間(バケモノ)はやはり微笑を崩さず、
「貴方にも言っておかないといけないわね。私は無駄な仕事はしない主義なの。」
「無駄かどうかは後で判断する事でしょう? 将棋と同じで、最善手なんて現場の人間に解る筈が無いんだから。」
もはや両者の目に鈴仙(ひとじち)など映っていない。いや、そもそも彼女に人質としての価値など無い。何故なら、
――咲夜が手をかけた瞬間に彼女の頭は吹き飛ぶだろうし、
――郁未が気を取られた瞬間に彼女の胸にナイフが突き立っているのは明白だからだ。
傍観者に徹する魔法使い達の視線すら無視して、膠着を解除するチャンスだけを見計らう二人の異端者。
五回、十回、二十回と呼吸だけで過ぎた間の後、
「――っ!」
恐怖を堪えきれずに鈴仙が目を閉じたのを合図に、
「「――!!」」
両者が弾けんとした、その瞬間。
「……もう、いいわ。」
「「!」」
上空からの突然の声に、二人は即座に見上げた。そこには、
「――既に、運命は変わった。これ以上は無意味よ。」
日の傾きかけた空の下。
夕焼けを背にした真紅の吸血鬼が、日傘を差してそこに在った――。
To be continued…
本人がそう意識していなくても、周囲が自然と距離を置いてしまうからだ。
かと言って力ある者同士が集うのかというと、そうとは言い切れない。
力の方向は各自によって違う。
違うものを簡単に認める事は出来ないし、
仮に同じであったとしても、それ故認めたくないと思うのが自然だ。
良い関係を保つ条件の一つに『付かず離れず』というのがあるが、
それは比喩でも何でもなく、まさに適当な距離を保つ事で関係を維持しているだけの事だ。
必要以上に近付けば、互いを傷付けてしまうかもしれない。
あまり遠くに行ってしまうと、孤独を意識せざるを得なくなってしまう。
無意識の内に、その中間の距離で居る事を誰もが望んでいる。
その境界を越える事は、すなわち関係を打ち切る事に繋がる。
越えるきっかけは様々だが、共通して言える事が一つある。それは、
――どちらかが境界の位置を勘違いしてしまったら、もはや修復は不可能だという事。
◆
「……規格外、だと?」
恐らく彼女にしては珍しく、煮え切らない表情で首を傾げる魔理沙。
正面に座るアリスも同様で、思いっきり眉をひそめている。
(……まあ、当然の反応よね。)
幻想の郷に暮らす者が、現実の里に生きる者に『規格外』などと言われて、何も思わないほうが不自然だろう。
第一、こちらはまだここの事を完全に知り尽くしている訳ではない。それを解った上で、郁未は説明を始めた。
「魔理沙にもまだ話してなかったわね、私の『力』。」
「……ああ、そうだな。聞いたのは、人間じゃない奴から受け継いだって事だけだ。」
「そう。人に在らざるモノが使う異形の『力』。向こうではこれを『不可視の力』と呼んでいたわ。」
「不可視……?」
アリスが顎の辺りに手を当てる。そこは、郁未が彼女をオトすために殴り飛ばした箇所だ。
攻撃を受けた時の事を反芻しているのだろう、そのまま思考に耽るアリスを横目に、
「人であろうが妖怪であろうが、意識した所で決して視る事は出来ない。現象的になら見えるかもしれないけどね。」
「視えない力、だと? そんなものがどこに――」
「原理自体は不明だけど、正体としては身近なものよ。それがヒント。」
「……身近にあって、視えないもの……?」
魔理沙も思考の渦に嵌ろうとする直前、アリスが顔を上げ、
「……もしかして、空気?」
「ビンゴ♪ やっぱり、直に受けると発想も早いわね。」
「……それは、褒めてないわね。」
普通に話しているのを見て、郁未は懸念が解除されたと判断。笑みの口調で、
「簡単に説明すると、圧縮空気の塊をぶっ放す力ね。幻想郷風に言えば、『空気を固めて放つ程度の能力』、かな。」
「成る程……つまり、さっきはアリスの顎にそれをぶつけたって事か。」
そうそう、と頷く。魔法使い二人もようやく合点のいった様子で、
「要は、不意打ちという言葉すら生温い攻撃だったから、勝負無しって言いたいんだな?」
「そうね……というか、解ってたとしても回避のしようが無いじゃない、そんなの。」
落ち込んで損した、と漏らすアリスの表情は、明るいものだ。
現金だなぁとも思うが、『弾幕ごっこ』という確立したルールを持つ彼女らにとっては、自分の力は反則過ぎる。初見であればなおさらだ。
しかし、説明はそこで終わりではない。咳払いで二人をこちらに振り向かせ、
「まあそれは力の原型で、今はかなり融通が利くようになったの。空気に色を付けるのは昔から出来たけど、元々は障害物があったらぶつけられなかったのよ。」
「って事は、今は出来るんだな。」
「というかやったじゃない。魔理沙を飛び越えてアリスに直接ぶちこんだでしょ?」
そう、昔なら魔理沙に当たって、今頃は……嫌な想像は止めておこう。
「前は掌の先からしか出せなかったんだけどね。何となく練習してる内に、離れた所にも空気の塊を作れるようになったのよ。といっても、安定させるのは難しくてね。出来てもすぐ破裂するし、圧縮率はその時でまちまちだし。成功率は低かったんだけど……。」
上手くいって良かったわ、とおどけて見せるが、当の本人は今さら焦り出し、
「ちょ、ちょっと! それってつまり、私が死んでたかもしれないって事でしょ!?」
「問答無用で殺そうとした人が言う台詞かなぁ、それ。」
う、と引き下がるアリス。……弱みを握るつもりは無かったが、まあ彼女の落度の方が大きいので、これくらいは言ってもいいだろう。
「まあそれは冗談。今はそんな事無いし、その他にも色々出来るわ。半分まともに生きる事を諦めてた事もあって、超能力者にでもなろうかなー、なんて適当な事も考えてたのよ。その甲斐なのかなるべくしてなのかは解らないけど――」
郁未は告げる。自分の今の特性、幻想郷で居る限りははっきり示さなければならない己の確固たる能力を。
「――今の私は、『空気を操る程度の能力』の持ち主、とでも言えばいいかな?」
「…………。」
「…………。」
二人の魔法使いの沈黙も素知らぬ顔で、郁未は一歩を退き、二人の丁度真ん中に立つ。
そして仰々しくお辞儀をしながら、
「こんな私でよろしければ、――どうぞお見知り置きを。」
異界人よりも異界人然とした所作で、挨拶を終えた。
◆
場に、沈黙が訪れた。
静寂が支配する部屋に佇むのは三人の少女。
一人は艶めいた笑顔を浮かべ、残る二人はその笑顔と、――文字通り空気に圧倒された、惑いの表情で一人を見つめていた。
誰も言葉を発しようとしない。いや、出来ない。
笑顔の少女は言葉を待つ身であるし、
戸惑う少女達は言葉を選べぬ身であるからだ。
しばらくの静けさの後、待ちきれなくなった笑顔の少女が口を開き、
「……うーん。言い方が悪かった? じゃあ、改めて。」
笑みを消し、真剣そのものの表情で、言った。
「まあ、こんな私だけど。――気楽にやりましょ?」
◆
「……気楽に、なんて。」
アリスは改めて自分の不覚を悟る。目の前の人間は、もはや人間とはかけ離れた存在である事を自覚しながらも、それを本心では認めたくないのだと、理解出来たから。
「何で、そんなに強いのよ、アンタも……!」
そして、自覚は無いにしても、自分がその傷を抉ってしまったというのに、それを不問に伏すどころか、こちらの気遣いまでするという、あまりにも優しい心の持ち主である事が、アリスの胸を打った。
「強くなんてないわ。ただ、諦めが悪い割に割り切りが早いってだけ。」
「……!」
それを強さと言うのだ。決して諦める事無く、しかし刻々と変化する状況に対応できる器量の持ち主こそ、本当に強い存在であるのに。
「本当……私の周りの人間は、自分を解ってない奴ばっかり。」
己がとても尊大で賢しらで美しい存在だという事に気付きやしない。
――だから人間は怖いのだ。自分の価値を知らない者ほど、恐ろしい奴は居ないのだから。
「ま……いいわ。」
――だから私は人間が嫌いなのだ。自分を平気で蔑む者ほど、平然と他者を称えるものだから。
「あんまり気は合いそうに無いけど、仲良くしましょ?」
――だから……私は人間に焦がれるのだ。
「親交を深めようって台詞じゃないなぁ、それ。」
――どうしようもなく永いこの命を、少しでも価値在るものとしたいから。
◆
二人が握手するのを見て、魔理沙は一息を吐いた。
(やれやれ……ようやく本題に入れそうだぜ。)
そもそもここに来た目的は郁未の紹介のためではない。彼女の家に引いた温泉脈、その温度調整の知恵を借りるためにわざわざ訪れたのだ。
(ま、無駄じゃないがな。)
アリスと二人だけだといつものパターンで口論になる可能性が高い。しかし、中立の立場である郁未に間に入ってもらえたら、交渉もスムーズに進むだろう。幻想郷きっての智略派を自負する彼女にとって、現状はまさに理想的な方向に進んでいる。
(さて、始めるか。)
用件を告げようと、口を開こうとした瞬間。
――チリリン。
「……あ?」
玄関の方向。自分は使用する事の無い呼び鈴の音が、控えめに響いた。
◆
チリリン。
「……こんなので、聞こえるのかしら。」
ドアの横に据え付けられた、爪の先ほどの大きさをした可愛い呼び鈴を鳴らしつつ、咲夜は首を傾げる。
「ここの住人は魔法使いでしょう? なら、魔術的な何かが仕込まれてるのでは?」
そう付け加えるのは並んで立つ鈴仙だ。
「ただ吊るしてあるだけだったりして。」
「さすがにそれは無いと……。」
思いますけど、という言葉が止まったのは、家の中から足音が聞こえたせいだ。
パタパタと急いたリズムのそれは扉の前で止まり、
「はいはい、どちら様――」
開かれた扉の向こうから、この家の主人が顔を出す。
「――って、珍しい取り合わせね。」
嫌な顔をしない所を見ると、機嫌が良いのだろう。鈴仙がそう判断していると、
「おお? 何だ、また我が侭に付き合わされてるのか、お前ら。」
後ろから、いつも通りの不敵な笑みで黒白の魔女が出迎えた。
「魔理沙こそ、どうしてここに居るのよ。」
「私の質問に答えるのが先だぜ。ちなみにここには私しか居ない。」
「……私も居るんだけど、っていうか私の家だし。」
「あのー、何も聞いてないのにそんな事言うのはおかしくない?」
「お前の家にお前が居るのは当たり前だ。こういう場合は客人しかカウントせんよ。」
「つまりうちの図書館に忍び込んでも同じ事を言うのね? いい度胸じゃない。」
「魔理沙は客としてカウントされないでしょ、どこに行っても。」
「つまり客人以上か。ははは、それは良い。」
「住人以下、の間違いよ。それに、家があるからといって主人が居るとは限らないし。」
「えーと、話がどんどんズレてる気が……。」
いや、気のせいでなく本当にズレている。
彼女の『眼』を使うまでも無く狂った会話を捨て置き、鈴仙は己の耳を立てて、目的地が正しいかどうかを確認。
直後、
「……!」
間違い無く、居る。その事を再び幻視した鈴仙は、ますます狂う三人を無視して、家の裏に回った。
カーテンに覆われた窓を幾つか検分し、一つだけ開け放たれた窓から中に入ろうとして、
「よ……っと?」
「!?」
そこから飛び出して来た人影と激突した。
「……っとと。」
人影はバランスを取って着地したが、完全に不意を衝かれた鈴仙は、
「あつつ……。」
ぶつけた鼻と尻餅で、二重の痛みを味わう事になった。
「危ない危ない……。えーと、あなたがお客さん?」
手を差し伸べてきたその少女を見て、
「――!!」
鈴仙は、はっきりとソレを視た。
――虚空にただ一つ浮かぶ、朱く円い満月を。
◆
「……大丈夫?」
自分を見て固まってしまった相手を、割と落ち着いて郁未は観察する。
流した銀髪に赤い瞳、どことなく制服っぽいブレザーにスカートまではまあいい。問題は、頭の頂きに鎮座する、二つの、
(……耳?)
ぴょこん、というよりは、みょこん、という感じの、赤と白のくたびれたそれは、赤の瞳と相まってある動物を連想させた。
(兎……の妖怪、かな。)
我ながら適応力高いな、と感心しつつ、怯えたようにこちらを見上げる彼女(スカートなら女の子だろう)に声をかける。
「どこか怪我でもした? 立てる?」
「……うん。」
頷き、ようやく立ち上がった彼女の表情は、未だ硬い。
それを緊張と受け取り、気をほぐすために笑顔で自己紹介をする。
「私の名前は天沢 郁未。たった今ここに来たばかりの人間よ。あなたは?」
「……私は、鈴仙・優曇華院・イナバ。」
名乗りはしたが、素性は明かさない。まあそれが普通だろうと思い、郁未は先に訊くべき事を優先した。
「――あなた、何しに来たの?」
◆
「――!」
郁未、と名乗った少女の質問の意図を図りかね、鈴仙は再び身を硬くする。
(まさか……既にバレて……?)
いや、そんな筈は無い。鈴仙はアレの事を直接は知らないし、それはつまり向こうもこちらの事を知らないという事だ。
目の前の彼女が聞きたいのはつまり、
(私が、誰に会いに来たのか、という事……。)
玄関から入らない時点で家の主人でない事は明白だろう。わざわざ裏手に回って窓を物色していたのを見られていなかったとしても、
(ここに居る事が、彼女が目的だという何よりの証拠……。)
バレてはいるが、本質までは掴んでいない。そう判断した鈴仙は、
「――貴方に、会いに来たの。郁未さん。」
努めて冷静に、そう答えた。
「私に……?」
首を傾げる郁未の様子に、判断が誤りでないと確信。
「そうです。……私の師匠が貴方に会いたがっているので、お迎えにあがったのですよ。」
慇懃な姿勢を崩さず、告げる。赤の両眼で見る彼女の表情は、
(……笑ってる?)
口元を押さえ、今にも堪えが利かなくなりそうな程に顔を引きつらせ、
「ふふ……まさか、こんな所でお迎えが来るなんてね。」
一瞬顔を伏せ、再び上げたその瞳は、
「――っ!!」
――昏い、朱に染まっていた。
◆
己の中で激しく打ち始めた鼓動をギリギリで抑えつつ、郁未はやはり冷静に思考を走らせる。
(ああ……つまり、ここに来るのは必然だったのか。)
ただ迷い込んだだけならば偶然と片付ける事も出来たが、そうするには否定出来ない材料が多過ぎた。
自分があまりにも馴染むのが早いのもそう。
自分の存在と過去を再確認させるような住人と出来事ばかりに出会うのもそう。
しかし、決定的なのは。
『あら、どうやら勘が鋭そうね。これは面白いわ。』
迷い込んだ直後に聞こえた、他人事のようなあの声。そして、
『――貴方に会いたがっているので、お迎えにあがったのですよ。』
目の前の兎が言った、先程の台詞だ。
(さて……どうすれば良いんだろう?)
この先が全く読めない。ただ、確実なのは、もう後戻りは出来ないのだという、その一点のみ。
だから、精一杯の壊れた笑顔で。
「じゃあ……案内してもらおうかしら。」
しかし、凍てつくような口調で、そう言った。
◆
「ひ……!」
狂気に慣れた彼女でさえ、その場に居る事を拒絶した。
それほどまでに、目の前にいるソレは――危な過ぎたのだ。
もはや永琳の命令に従う事よりも、ソレから離れる事の方が優先順位は高く、
「――どこ行くの?」
「……っ!?」
大きく飛び退った筈なのに、背後から聞こえた声に振り向く事無く、弾を――
「――おっそいなぁ。」
がし、と。気付いた時には、正面から頭を鷲掴みにされていた。
「あ……あ……。」
違う。違う。これは、ヒトの動きなんかじゃ、無い。
「自分から誘っておいて逃げる気? それっておかしいと思うんだけどなぁ。」
舌っ足らずな口調が逆に恐怖を誘い、身を強張らせた。
「別に取って喰おうって訳じゃないのよ? ただ、その師匠とやらの所に連れて行ってくれるだけでいいんだから、さ。」
ガクガクと身を震わせる事しか出来ないこちらを宥めるように、柔らかく微笑んだソレは、
(……バケ……モノっ……!)
そんなありきたりな言葉しか浮かばないほど、鈴仙は恐怖に支配されていた。
「あらあら、そんなに怯えちゃって。兎は独りになると寂しくて死んじゃうって、本当なのね。」
ふふ、と笑みの息をこぼし、こちらを掴んでいた手を放した。
「あ……。」
途端に気が抜け、腰を落としてしまう。もはや、逃げる気力さえ、失せていた。
俯いてしまったこちらに、やはり冷たい声で、
「さて、と。脅しはこれくらいで充分かな。」
呟いた途端、辺りに満ちていた狂気が急激に薄れていく。
「え……?」
未だ震える身をかき抱き、すぐそこまで迫っていた命の危機が去った事を理解出来ず、尻を着いたままの鈴仙は面を上げる。そこには、
「ごめんね。初対面だからって、ちょっとやり過ぎたわ。」
狂気の残滓すら感じさせぬ優しい笑顔で、黒目の少女が立っていた。
◆
焦点の定まらぬ目でこちらを見つめている兎の妖怪の様子に、
(うわー……我ながら、ちょっとはっちゃけ過ぎたか。)
内心で自分の行為に冷や汗をかく郁未。
ルーミアには明かさず、アリスに対しても不発で終わった分を取り返さんばかりの勢いで狂気を演じたのがまずかった。
間違い無く腰抜かしてるだろうなー、と心で呟き、
「怖い思いさせて、ごめんなさい。……まだ、ここに慣れてなくて。」
さっき自分で適応力高いって褒めてたじゃん、というツッコミはさて置いて、再び鈴仙の身を立たせた。
割としっかり足が着いてる事に安心し、幻想郷に来てから助け起こしてばっかりだなぁ、なんてどうでもいい事を考えながら、しゃがみこんで彼女の身に着いた汚れを払う。
ポンポン、と規則正しいリズムが刻まれる事に快さを感じながら、
「……大丈夫?」
下から覗き込むようにして、鈴仙の顔を見る。
ようやく視線が結ばれた事に安堵しながら、彼女の反応を待った。
「……はい。何とか……。」
数瞬の後、まだ震えの残る声で応えた鈴仙。こりゃ重症だなぁ、って他人事じゃないし、と心の中で問答を繰り返すが、それで解決する訳でもないと断ち切って、
「それじゃあ……改めて、説明してくれる?」
身を起こし、正面から相対する。
まだ硬い表情ではあったが、色々振り切るように首をぶるぶると振った後、
「……はい。……怒らないで、聞いて下さいね。」
うわー嫌なキャラ確立してるー、とふざけるのは最後にして、こちらも真剣な顔で、
「ええ。……理由も無しに危害を加える気は無いわ。」
全然信用出来ない台詞で、話を促した。
◆
鈴仙の話は実に明快で難解だった。
説明している彼女自身、(さっきの事も含めて)これで大丈夫なんだろうかという顔をしていたので、ぷちぷちツッコむのは避けたが。
で、簡潔にまとめるとこういう事だ。
彼女の主人の友人である彼女の師匠(既に解り難い!)が、郁未が幻想郷に入って来た事に気付き、詳しい事情はともかく会ってみたいとの事。
その詳しい事情とやらを聞かない事にはどうにもならない気がするのだが、弟子が師匠に逆らう事など出来る筈も無く、また彼女自身も郁未の存在が異質であると感じているため、(どっちみち)こちらに来てもらいたい、と彼女は締めた。
「説明はそれだけ?」とこちらが言うと、鈴仙は身を縮こませながら「はい……。」と返してきたので、取り敢えず自分の中で考えを巡らせてみる。
まず、重要な点が一つ抜けている。というか、短すぎてそれくらいしか追究すべき点が無いが。
(人を誘うなら、先に自分の素性を明かすのが礼儀よね。)
話し合いの場を持つ場合、目的の如何に拘らず、まずは互いの立場をはっきりと示す必要がある。無論、状況によってそれが絶対条件だとは言い切れないが、
(悪徳商法や詐欺師でも、一応身分はバラすしなぁ。)
というより、そうしなければ第一印象が悪い。まともな会見にしろ無茶な交渉にしろ、己の立ち位置をちゃんと主張しない事には信用は得られない。
(それを言えない理由が何なのか……か。)
兎であるのが明白なのにも拘らずそれすら言わないのは何故か。そこまで考えて、
(――あ。)
郁未は思い出す。鈴仙が最初にこちらを見た時の反応を。
最初は緊張しているだけかと思っていたが、さっき脅した時の表情と比べて、
(恐怖を差し引いても、驚き過ぎよね、あれは。)
さらに、彼女の説明にあった『異質な存在』という言葉から邪推するに、
(……向こうは、『私』の事を知ってる?)
私個人ではなく、今ここに在る『私』という存在について、こちらが知る以上の何かを掴んでいるのではないか、という所まで考えて、
(……うーん、ますます厄介だなぁ。)
当たりにしろ外れにしろ、直接話を聞いてみない事には解決しないな、と結論。
既に、彼女の意向は定まっていた。
◆
郁未がよし、と首肯したのを見て、鈴仙は伏せがちになっていた面を上げた。
「あの……。」
先程の事が尾を引いていて、思うように声が出ない。それをもどかしく思いつつ、鈴仙は正面に立つ人間の少女の瞳を改めて見る。
(……青を含んだ、黒……。)
異形を微塵も感じさせない、強い意志を秘めた目に吸い込まれそうな錯覚を得て、慌てて目を逸らす。
(狂気の瞳を持つ私が……人間に取り込まれそうになるなんて……。)
いや、違う。今は確かにヒトに見えるが、アレは――
「鈴仙。」
「……っ。は、はい?」
いけない、その先は考えては危険な事。
郁未に声をかけられ、自分の心を占める余計な感情を捨てた。
前に居る少女は素知らぬ風に小さく微笑み、
「それじゃあ、案内してくれる?」
先程と同じ台詞。それを聞いて、自分の中に安堵が生まれたのも束の間、
「抜け駆けとは良い度胸じゃない。」
「――!」
今度は物理的に、冷たいものが首元に触れたのが解った。
◆
「……!?」
郁未は、突然の事に対応が遅れていた。
今まで二人で話していた筈が、気付けば気配の数が増えている。
自分の後ろに立つのは、
「成る程、これが時を支配する感覚か。なかなか良い気分だな。」
「アンタはこんな時でも緊張感の無い……。」
対照的なようでいて、実はどちらも他人事的なスタンスで状況を見ている二人の魔法使い。
そして鈴仙の後ろから右手のナイフを突きつけているのは、
「言ったでしょう? 余計な弾幕は張らない、って。」
同じくナイフのように研ぎ澄まされた冷徹な声を放つ、銀髪のメイドだ。
魔理沙の台詞が正しければ、この状況を支配しているのは青の給仕服を纏った彼女なのだろう。
郁未は幻想郷に来てから始めて、固唾を呑み込む。
(時を……支配する、か。)
自分の力も大概なものだと思うが、時間操作とはこれまた別格だ。
敵か味方かも解らぬ侍従の手元に気を配りつつ、郁未は口を開く。
「……あなたは、誰?」
「そうね……この場合はこっちから名乗るのが礼儀か。」
底の読めない微笑を保ちつつ、
「私の名は十六夜 咲夜。悪魔の館のメイド長を勤める者です。」
鈴仙の身体を抱えているため、会釈だけで礼とした。
丁寧な仕草とはちぐはぐな状況に苦笑しつつ、こちらも名乗る。
「私は天沢 郁未。さっきこの幻想郷にお邪魔したばかりの人間よ。」
「人間、ね。」
一瞬、表情に翳りが差したように見えたが、それはすぐに消え、
「会ってばかりで悪いけど、うちのお嬢様に会ってもらえるかしら?」
「お嬢様?」
その姿に相応しい単語が出た事もそうだが、いきなりの勧誘に郁未は内心で首を傾げる。
(まさか……二つもアプローチがあるなんてね。)
表情に出さないように努めながら、二つ目の誘いが正当なものであるかを確かめようとして、
「どういう理由で会いたいの?」
「さあ、それはお嬢様にしか解らないわ。」
こっちもか、と独りごちる。
アリスにしても鈴仙にしてもそうだが、手段と目的が逆転し過ぎじゃないだろうか、ここの住人達は。
いや、そもそも目的の目的がはっきりしないのだから本人にとっては逆転も何も無いのだろうが、それは即ち短絡的という事でもある。
実はあんまり平和じゃないのかなー、と思いながら、自分の行くべき方向がどちらなのかをはっきりさせるため、もう一度問うた。
「あなたは私を識ってる(しってる)?」
「…………。」
鈴仙の師匠が恐らく前提として持っているであろうもの。それが咲夜の主人にもあるのかどうかを訊ねると、瀟洒な侍従長は一瞬考えた後、
「興味が無いわね。」
「――そう。」
仮面のような微笑で返された答えに、郁未は行き先を完全に決定。
「なら、彼女を放してくれるかな。少なくとも、あなたに付いて行くメリットは無さそうだし。」
「……ふうん、そう。」
冷め切った口調。直後、
「――無知って怖いわね。」
――彼女の左手が、跳ねた。
◆
「……っ!」
バキンッ!!
殺意などまるで感じさせずに放たれたソレを、反射的に『力』で弾く。
乾いた音を立てて地面に落ちたのは、
「……いつの間に、出したのよ。」
答えなど解りきっているのに、刃の折れ曲がったナイフを見て、問う。
「成る程、やはり貴方も同類ね。とっておきだったのに。」
同じように折れた刃を見ながら、やはり微笑(むひょうじょう)のまま呟く奇術師。
「もう殺気を出さなくなって久しいけど、それでも初見で無反応な人間なんて、そんなのはもう人間とは言えない。」
「……言ってくれるじゃない。まあ、ついさっき自分でもそう思ってた所なんだけどね。」
身を低く構え、次の攻撃に備える。目の前の人間(バケモノ)はやはり微笑を崩さず、
「貴方にも言っておかないといけないわね。私は無駄な仕事はしない主義なの。」
「無駄かどうかは後で判断する事でしょう? 将棋と同じで、最善手なんて現場の人間に解る筈が無いんだから。」
もはや両者の目に鈴仙(ひとじち)など映っていない。いや、そもそも彼女に人質としての価値など無い。何故なら、
――咲夜が手をかけた瞬間に彼女の頭は吹き飛ぶだろうし、
――郁未が気を取られた瞬間に彼女の胸にナイフが突き立っているのは明白だからだ。
傍観者に徹する魔法使い達の視線すら無視して、膠着を解除するチャンスだけを見計らう二人の異端者。
五回、十回、二十回と呼吸だけで過ぎた間の後、
「――っ!」
恐怖を堪えきれずに鈴仙が目を閉じたのを合図に、
「「――!!」」
両者が弾けんとした、その瞬間。
「……もう、いいわ。」
「「!」」
上空からの突然の声に、二人は即座に見上げた。そこには、
「――既に、運命は変わった。これ以上は無意味よ。」
日の傾きかけた空の下。
夕焼けを背にした真紅の吸血鬼が、日傘を差してそこに在った――。
To be continued…