太陽は間もなくタイムカードを押すべく動き、入れ替わりに月が出社へと赴く時間帯。
白玉楼の一角にて、向かい合う妖夢とレミリアの姿があった。
「……ついにこの時間が来ました」
「……」
「この仕事は白玉楼において、もっとも困難な物と言って良いでしょう。
恐らくは、レミリアさんもそれも覚悟されていると思います」
「大丈夫よ。……多分」
「……それで良いです。少し不安が残るくらいのほうが、不測の事態に対処し易いですから」
「……」
二人の表情はどこまでも真剣。
妖夢は元より、レミリアにも事実の重さは認識出来ていた。
「いくつか前提を述べておきます。
一つ、ああ見えて幽々子様はかなり料理に五月蝿いです。
下手なものを作ろうならば、器が飛んで来るのは間違いないでしょう。
勿論、中身を空にした後ですが」
「……」
「一つ、言うまでもなく、召し上がられる量は半端ではありません。
常識の範疇で考えていたら、きっと痛い目を見ます」
「……」
「そして最後に一つ。
これまでの傾向から推測するに、恐らく幽々子様は企みを秘めている事でしょう。
残念ながら、それが何であるかは私の理解し得る所ではありませんが」
「……ええ」
それはレミリアとて十分理解していた。
これまでも何か仕事を始める度に、図ったようなタイミングで闖入してきたのだから、当たり前ではあるが。
もっとも、何を企んでいるのかは分からないというのも同意である。
こと下らない悪戯に関しては、幽々子に及ぶものなどいないのだ。
「そこで、私は一つの指示を下そうと思います。
レミリアさん。今すぐ冥界を発って下さい」
「……何ですって?」
きゅぴーん、とレミリアの瞳が光る。
「馬鹿にしないで。ここで引くくらいなら最初から……」
「誤解の無きよう。別に逃げろと言っている訳ではありません」
「どういう事よ」
「簡単です」
妖夢は気圧された様子も無く、鋭い視線でレミリアを見つめ返した。
瞳からは強い意志が満ち溢れている。
そこに、胃薬を友とする哀れな子供の姿は無い。
「レミリアさんになら出来る、レミリアさんにしか出来ない事。
それを成し遂げて貰うが為に!」
「えりんぎしいたけぶなしめじ~」
羽根はあるが、某夜雀ではない。
青みがかった髪色であるが、某氷精でもない。
空は橙色になっているが、某式の式とは関係無い。
「あいまいみーまーいーん」
無邪気な様子とは裏腹に、疾走する速度は尋常では無い。
ソニックブームの発生により、通りすがりの妖怪が何人か叩き落とされた程である。
「私なら出来る、私にしか出来ない……ふふ、中々いい事言うじゃないの。
どこかで聞いた事があるような気もするけど」
延々と歌と独り言を垂れ流すその物体は、紛れもなくレミリアその人。
日が落ちかけているのもまた、彼女の上機嫌に上乗せしているのだろう。
さて、レミリアが妖夢より受けた密命。それは……
『直ちに出立し、青果店『八百万』にて、軍需物資を調達してくる事』
以上である。
目的地が視界へと入ってきたところで、レミリアは地表へと降り立つ。
流石に、この勢いのままに突入しては、密命どころではない事くらいは心得ていた。
「さて、確か機密書類が中に……」
レミリアは、妖夢から託された鞄へと目を向ける。
いや、それは鞄と呼ぶにしては少し作りが大らか過ぎた。
何しろ360度どこからでも中身が丸見えなのだ。
しかも、素材は皮ではなく、弾力性のある合成物である。
「……ん? 何かしらこれ」
その中には、件の機密書類とやらの他に、一枚の布切れが収められていた。
用途は分からないが、入っていた以上は、何かに使うものなのだろう。
そう判断すると、レミリアは布切れを取り出すと同時に、機密書類に目を走らせる。
「ええと、葱に白菜、じゃが芋、人参、キャベツ、ほうれん草……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……って、どう見てもただのお使いじゃないのっ!」
ノリツッコミと共に、鞄……買い物籠を、力任せに放り投げる。
そう、彼女は今頃になって気がついたのだ。
抜けているにも程がある、と言いたい所だが、今の彼女にそれを求めるのは酷であろう。
慣れぬ仕事への従事と、度重なる虐待からの精神的疲労。
そして、今や恐怖の総本山とも言える白玉楼からの離脱による開放感。
その二つが重なった結果、このようなアホの子が誕生してしまったのだ。
元々そうだという噂も一部で流れているようだが、それに関してはノーコメントを貫かせていただきたい。
「あー、馬鹿らしい。だったら最初からそう言えってのよ」
愚痴りつつも、その足は目的地へ向けて動かされていた。
実の所、レミリアは単独で町を歩いた経験に乏しい。
自身が大っぴらに出歩く事が許されない存在であるというのが大きな理由だ。
咲夜等を引き連れて冷やかした記憶こそあれ、純粋に買い物目的で歩くなど初めての経験である。
言うなれば、はじめてのおつかいだ。
平仮名なのは変換ミスではない。
故に、任務の放棄は、レミリアの頭にはなかった。
それどころか、僅かながらの高揚すら感じている程である。
しかし、同時に、絶対的に守らねばならない事柄もあった。
それは、自分がレミリア・スカーレットであると知られてはならないという点に尽きる。
畏怖の象徴とでも言うべき吸血鬼の王が、あろうことかはじめてのおつかい。
しかも、対象となる品は日常的な食料品である。
これまでに積み重ねてきた威厳を吹き飛ばすに十分な出来事であろう。
「……ま、平気でしょ。そこらの庶民が私の顔なんて知る筈もないわ」
レミリアが辿り着いたのは、十分に年季の入った一軒の商店。
全面的にオープンスタイルの店構えに、大量に並べられた生鮮食料品の数々。
俗に言う八百屋である。
「……すみませーん」
決して威圧感が現れぬよう、意識的に小声で呼ぶ。
カモフラージュの為に背中の羽根も隠している。
問題は無い……筈。
「へい、らっしゃい!」
間髪入れず、威勢の良い声が返って来た。
いかにも人の良さそうな、中年の男である。
推測するまでもなく、彼が店主なのだろう。
「……ん? いつものお嬢ちゃんじゃないね」
「は、はい?」
「その格好は、冥界の子だろう? 妹さんかい?」
「い、妹……」
店主が妖夢の事を言っているのは分かった。
また、その妖夢が、一目で判別出来るくらい、ここを頻繁に訪れているのだとも分かる。
それが冥界の住人に相応しい行為であるかどうかは別として、妹とはいったいどういう事なのか。
確かにとある事情で、妖夢の服を着てはいるが、それだけで妹扱いとはどういう審査眼をしているのか。
「ははっ、そりゃ無いわな。全然似てないしなぁ」
「あ、あはは……そう、ですね」
ここまでの会話で、この店主はレミリアの存在を知らないと判断できた。
もしくは、知っていたとしても、外見までは把握していないのだろう。
でなければ、こうも軽い口が叩けるはずもない。
「(愚鈍な人間如きが、私を揶揄するなど百年早い!)」
「い、今、ちょっとした理由でお世話になっているんです」
「そうかい。ま、詮索はしないよ」
「(自分から聞いておいてなんだそれは。吸血鬼を無礼るな!)」
「……ありがとうございます」
心の声を押し殺し、ただの子供になりきるレミリア。
プライドを守る為にプライドを投げ捨てているのだから、何ともやり切れないだろう。
「っと悪い、で、何をお買い求めだい?」
「は、はい、このリストの物を……」
レミリアは震える手で、メモ書きを差し出す。
それが緊張ではなく、憤りによるものなのは明らかだ。
「あいよ。ちょいと待ってな」
そんな事を知るよしもない店主は、品を揃えるべく動き始めた。
「(……落ち着くのよ。このまま何事もなく終わらせれば良いんだから……)」
精神的なものはともかく、正体に気付かれなかった事自体は悪いものではない。
ならば、多少の憤りは無視して、このまま冥界の居候に徹するのが上策である。
どうせこの先、二度と会うことも無い相手なのだから。
「こんにちはーーーっ」
と、そんな事を考えていた矢先、能天気と呼ぶに相応しい声が背後から響いた。
「へい、らっしゃい! 今日も元気だねぇ」
「あはは、それが私の取り得ですから」
「……?」
レミリアはちらりと背後を振り返る。
が、その相手を認識した瞬間、表情が驚愕に歪んだ。
買い物袋を手にした笑顔の少女。
が、その頭部と背中から露出した黒の羽根が、人間では無いという事を示していた。
記憶が確かなら、いつも図書館でぱたぱたと動き回っている小悪魔に相違ない。
「(な、な、な、なんでこの娘が……)」
買い物に出るな、とは言わない。
小悪魔の主はあくまでもパチュリーであり、レミリアには命令権が無いのだ。
が、事はそういう問題ではない。
どうしてこんな時間に、よりにもよって八百屋で鉢合わせせねばならないのか、だ。
運命の悪戯とも言えたなら良かったのだろうが、レミリアにだけは絶対に口にできない言葉である。
「そういやあ、小悪魔ちゃんも野菜作り始めたんだっけ。どうだい、上手く行ってるかい?」
「うーん、正直あんまり……ちょっと収穫が怖いです」
「はは、まぁ初めてじゃ仕方ないさな」
「でも、その内、ここのお野菜くらいのものが作れるようになりたいです」
「お、大きく出たねぇ。その心意気だよ」
「はいっ」
「(あんた仮にも魔族でしょ!? 農業を極めてどうすんのよ!?
というか、どうしてそんなにフレンドリーなのよ!?)」
言いたい。けど言えない。
もし口に出してしまえば、これまでの苦労が全てウォーターバブルなのだ。
「んじゃ、ちょいと待っててくれるかい、品を揃えてくるよ」
「あ、はい。……あれ? 貴方もお買い物?」
「……!?」
そこでついに、小悪魔がレミリアの存在に気付く。
当然レミリアとしては答える訳にも行かず、ただ沈黙をもって返す。
が、それが仇となった。
「まだこんなに小さいのに一人でお使いだなんて偉いね。よしよし」
何を思ったか、小悪魔はレミリアの頭を撫でたのだ。
「……ぐぐ……」
レミリアは叫び出したい衝動を、必死に押し殺す。
変装しているのだから、気付かないのも無理からぬ事……。
と言いたい所だが、そんな訳がない。
仮にも、数十年に渡り同じ屋根の下で暮らしている当主様だ。
多少外見を変えたくらいで気付かないとはどういう事か。
天然の力には、驚嘆せざるを得ない。
「……どうしたの? 私、何か変な事言っちゃった?」
「……」
「御免なさいね。私ってよく回りから空気が読めてないって言われるの」
「い、いえ、そんな事、無いです。ちょっと驚いただけです」
レミリアは前を向いたまま、慣れぬ声色と口調をもって答えを返した。
黙っていても、疑念を深めるだけ。
ならば、適当にやり過ごして、さっさと退散するのが上策と判断したのだ。
「……でね、うちのお嬢様って……」
「……」
「……しかも、持ってばかりで……」
「……」
レミリアの見通しは甘かった。
あろう事か、その後も小悪魔は、ひっきりなしに話を振ってきたのだ。
振り向いた瞬間におしまいという超至近距離での事である。
傍から見れば、面倒見の良いお姉さんと人見知りするお子様といった光景なのだろうが、
当のレミリアにとっては、平行棒の上をムーンウォークしているようなものである。
即ち、まだ落ちていないのが不思議だと。
「はいよ、お待たせ」
救いの主の声は、野太かった。
「(……やっと来たか)」
そんな安堵の息を吐くとともに、顔を上げる。
が、またしてもレミリアは驚愕に硬直する羽目となった。
「注文通り揃えたよっ……と」
「……」
「うわぁ……」
小悪魔の呻きが、すべての答えを示していた。
店主が持ち出してきたのは、袋に詰められた野菜の数々。
その量たるや半端なものではない。
十や二十ではきかない、天文学的数字と言っても差し支えなかろう。
この小ぢんまりとした店構えのどこに、それだけの品を隠していたのか疑問である。
さては倉庫の奥がスキマと直結しているのやも知れないが、真相は店主のみぞ知っていた。
「ね、ねぇ、良かったら手伝いましょうか?」
気を利かせたのか、小悪魔が戸惑いがちに声を掛ける。
どう見たところで、一人で持てる量とは思えなかったのだろう。
「……いえ、平気です」
「で、でも……ひっ!?」
小悪魔の言葉が不自然に詰まった。
それもそのはず、後姿の少女から立ち上る闘気。
僅かでも心得のあるものなら、それがいかに強力なものであるか分かるのだろう。
何の心得かは知らないが。
「(……こういう意味だったのね)」
レミリアは、先程取っておいた布切れを引っ張り出す。
そして、それをばさりと広げると、袋の山を次々と上に乗せてゆく。
お使いというよりは、工事現場に近い光景である。
「ほう、出来るねぇ。あらかじめ聞いてたのかい?」
「……いえ。今気付きました」
そう、気付いたのだ。
買い物籠は、品を入れる為ではなく、この布を運搬するためにあったのだと。
また、この布が、風呂敷と呼ばれる代物である、と。
すべての袋を乗せ終わったレミリアは、間髪入れず風呂敷の対角となる点同士を結ぶ。
そして気合一閃、背中へと担ぎ上げた。
「……では失礼します。お代は白玉楼にツケておいて下さい」
「ああ、毎度あり」
レミリアは軽く頭を下げると、日の沈んだ方向に向けて歩き出した。
風呂敷包みを背負った少女というと、何かしら不幸な印象を受ける筈なのだが、
どう見ても、デンドロビウム発進の図としか認識出来ないので問題は無い。
なお、ニンジンはある。
「……やっぱり吸血鬼ってのは力持ちなんだねぇ」
「あの方はちょっと特別ですけどね」
そして、バレバレだった。
「こんちくしょうがっ! 只今戻ってやったわよっ!」
レミリアは苛立たしさを隠すことなく、台所の扉を蹴り開ける。
というか大荷物のせいで、手が使えなかったのだが。
軽く室内を見渡すと、調理台の前に立つ妖夢の姿が目に入った。
「ちょっとあんた! これの何処が私にしか出来ない……」
怒りに満ちた言葉が不意に途切れる。
と、同時に、背にしていた荷物が、どすんという音を立てて落ちた。
その音に反応したのか、妖夢がくるりと振り返る。
「……ん? あ、レミリアさん、お帰りなさい」
「……」
「どうしました?」
「……何でもないわ。ほら、注文通りか確認しなさい」
「はい、お疲れ様でした」
「……」
レミリアは、不機嫌さを表に出しては押し黙る。
それが、演技でしかないのは、自分自身が一番良く理解していた。
が、そうと分かっていてもやらずにはいられなかったのだ。
決して言えない。
調理に取り組む妖夢の後ろ姿。
そこに、ほんの一瞬とは言え、尊い物を感じてしまったなどとは。
「戻ってきて早速で悪いんですが、調理を手伝って頂きます」
「ええ」
「と、その前に一応……レミリアさん、お料理したことありますか?」
「それを聞くことに意味があるとでも思ってるの?」
「……済みません、愚問でしたね」
「言っておくけど私は作るのは愚か、食べるほうも殆ど縁が無いのよ。
少しは吸血鬼という存在を勉強しておきなさい」
「……」
「まったく、少しは出来るのかと思ったら、やっぱり中身は未熟なままか。
妙な期待を抱かせないで欲しいものね」
「(どうして私が怒られてるんだろう……)」
そんな疑問が浮かぶが、やはり口には出来ない。
実際の所、レミリアの物言いには、先程の照れ隠しが含まれていたのだが、
それに気付くほど、妖夢の感は鋭くなかった。
「そうなると簡単な作業か……野菜の皮むきでもしますか?」
「何で疑問系なのよ。あんた仮にも私の上司でしょ? 命令しなさい」
「え、でも」
「でももデモモもテンテンくんも無いの。早くなさいな」
「……はぁ、それでは」
「ならば私が命令してあげましょう!」
そこに、図っていたようなタイミングで幽々子が姿を現した。
空気の破壊などまるでお構いなしに、相変わらずのニコニコ顔で、おいすー、とばかりに手を上げる。
「誰もあんたに聞いてなんか……」
「ストップ! 堪えて下さい!
……幽々子様。支度は順調ですので、もう少々お待ち下さい」
「えー? 私はのけ者なの?」
幽々子はぷぅと頬を膨らませるという、分かりやすい不機嫌さを示す。
もっとも、それが演技でしかないのは明白であったが。
「ま、良いわ。それよりも、私から一つリクエストがあるの」
「リクエスト、ですか?」
「ええ。今日の夕食だけど……」
そこで、幽々子の視線が、妖夢の隣へと向けられる。
その対象たるレミリアは、悪寒が走るのを止められなかった。
「言っておくけど、別に貴方を取って喰おうなんて思ってないわよ。……今の所は」
「そ、そう……って、今の所って何!?」
「御黙りなさい。そうじゃなくて、ちょっと貴方の腕を確かめさせて貰いたいのよ」
「……?」
「レミリア。今宵の夕餉、何でもいいから貴方一人の手で一品作ってご覧なさい。
勿論、妖夢は一切手を貸しては駄目よ」
「なっ……!」
これに驚いたのは、本人よりも、むしろ妖夢のほうだった。
掃除という例外はあったが、レミリアが家事についてドの付く素人なのは確か。
何しろ、レミリア自身が堂々と言ってのけたのだから間違いようもない。
それを幽々子が分かっていない筈が無いのに、この命令はいかにも解せない。
とすると、考えられるのは……。
「(やっぱり……いやがらせ、かな)」
導き出されたのは、極めてシンプルな結論。
大方、右往左往するレミリアの姿を見て楽しもうという算段だと。
おおよそ良い趣味とは言い難いのだが、それを止める権利は妖夢には無いのだ。
したがって、この場で出来ることといえばただ一つである。
妖夢が次なる胃薬に手を伸ばす最中。
覚悟が出来たのか、レミリアは苦虫を噛み潰したような表情で、言葉を搾り出した。
「わ、分かった、わよ……作れば、いいんでしょ」
「言葉」
「……作らせて、頂きます」
「宜しい。あ、言っておくけど、毒を混入しても無駄ですからね。
それに限らず、私に認められる品を出すまで、何回でも作り直させるからそのつもりで」
「……」
「さて、どんな料理が出来るのかしら。楽しみ楽しみ……」
幽々子はわざとらしく言い残すと、ふよふよと厨房から去って行った。
「……」
「あ、あの……」
俯き、ぴくぴくと肩を震わせているレミリアを前に、妖夢は必死で言葉を探す。
薬の効きが鈍いのか、胃がキリキリと痛むが、そんな事はどうでも良かった。
ここで爆発されては、すべてが台無しなのだ。
「お、お願いです、どうか怒らないで下さい。
幽々子様にも悪気は……いえ、悪気の塊ですけど、元々そういう方ですし。
って、それじゃ解決になってない……あああ!」
「全然……コー……怒ってなんて……ホー……いないわ……コー……動揺するんじゃ……ホー……無いの」
呼吸法がウォーズマン入っているので、説得力の欠片も無かった。
「か、彼が迫害を受けたのは顔が醜いからではなく、袋を被っていたからだと思います」
「コー……何を……ホー……言ってるの?」
「し、失礼しました。と、ともかく、あまり気になさらないで下さい。
どうせただの思いつきです」
「……でも……コー……アレの言ったことは……ホー……事実……コー……でしょう……ホー
……満足させない限り……コー……何度でも……ホー……作らせると……」
「……」
確かにその通りである。
一度言い出したからには、幽々子が言を引っ込める事など有り得ない。
それこそ、夜が開けようとも、だ。
しかし、どうにも解せない。
レミリアが白玉楼で働くに際し、幽々子が何かしらの介入をしてくるのは予想していた。
しかし、だからといって、こうも執拗に挑発行為に出るとまで思っていなかったのだ。
それほどまでに、レミリアに含むものがあったのだろうか。
「(……逆よね。どっちかと言えば、レミリアさんの方が一方的に絡んで来たくらいだし……)」
妖夢は考える事をやめた。
元々、あの幽々子の意向など読み取れる筈も無いし、そんな余裕も無い。
今はなんとかレミリアを抑えるよう動く他ないだろう。
どうせとばっちりを受けるのは全部自分、これ以上胃薬に世話になるのは御免なのだ。
「……」
「(……あれ?)」
そこで異変に気付く。
レミリアの呼吸法が、普通に戻っていたのだ。
が、落ち着いたとの判断も危険と思われた。
でなければ、顔を伏せたままピクリとも動かない筈もあるまい。
「……」
「(弱ったな……下手に声も掛けられないし……)」
「……」
「(でも、このまま待ってたら、時間が……)」
「……妖夢」
「は、はイっ!」
思わず声が裏返った。
同時に、普通に名前で呼ばれたのは初めてだなぁ。等と場違いな感想が浮かぶ。
大いなる動揺の表れだ。
「……どうしよう」
「え」
顔を上げるレミリア。
その表情は、今にも泣き出しそうな気弱なものであった。
しかも、目が完全に死んでいる。
憤怒の形相を想像していただけに、妖夢の動揺は更に強まる。
「わ、私、料理なんてできないし……このままじゃ幽々子様に……」
「れ、れ、れ、レミリアさん!? ど、どうか冷静に!」
明らかに妖夢のほうが冷静ではないのだが、残念ながら突っ込みは無い。
「また幽々子様に怒られちゃうよう……そんなのやだよう……」
言動が明らかに幼い。
そして、ナチュラルに幽々子への畏れを口にしている。
また、表情もそれに準じて弱気そのもの。
吸血鬼の王の威厳は何処へやら、今のレミリアは恐怖に怯える幼女でしか無い。
どうやら爆発するよりも先に、精神汚染に屈してしまったようだ。
「ううう、もうやだ、助けて、助けてさくやぁ……」
ついには身を抱えるようにして、しゃがみ込んでしまった。
恐るべきは幽々子のプレッシャーである。
「(ううう……助けて欲しいのはこっちなのに……)」
ここに妖夢は進退窮まった。
早く調理に取り掛からないと、幽々子から壮絶なお叱りを受けるのは想像に難くない。
しかし、このままレミリアを放置する気にもなれなかった。
それは義務というより、心情的なものが大きい。
「(どうする……? こっそりとレシピでも教えようか……)」
しかし、その案は直ぐに却下された。
三百六十五日、常に妖夢の料理を口にしている幽々子である。
従って、僅かな癖から、独自の味付けまですべてを理解しているのは間違いない。
ならば、介入に気付かない筈もないだろう。
一切の手助けを許さないと念を押されたくらいだ、それが許されるとは思えないのだ。
「(なら一体……ん?)」
「うう、ひっく……」
「レミリアさんっ!」
「ひっ!?」
突然の大声に、レミリアは驚き竦み上がる。
「こうしていても埒が開きません。調理に入りましょう」
「でっ、でも、私……」
「レシピや行程は私が教えますので、レミリアさんはその通りに調理して下さい」
「え? それだと……」
「大丈夫です。どうかさ……いえ、私を信じて下さい」
妖夢はいつになく自信に満ち溢れた様子で、真っ直ぐに視線を送る。
俯き震えていたレミリアだったが、やがて呼応するかのように顔を上げた。
「……」
「……」
交錯する視線。
時間にして五秒程だったろうか。
レミリアが、ゆっくりと口を開く。
「私、やる」
変わらぬ震えた声ではあるが、確かにはっきりと宣言した。
「……では早速かかりましょう。
口頭で伝えるのと実際にやるのは大きな差があります。
余りのんびりしている時間はありませんよ」
「うん」
いかにも素っ気無いという感じの妖夢の受け答え。
が、内心までそうであるかというと話は別である。
「(……こ、これは強烈だ……)」
妖夢にとって、涙目で見上げられる、というのはこれまでに経験したことのない状況である。
しかもその相手が、幻想郷に名を轟かすレミリア・スカーレットなのだ。
イメージのギャップと、現実の映像の鮮烈さは、狙い違わず妖夢の鼻腔を直撃していた。
「ぐっ……ちょ、ちょっと失礼します」
「??」
妖夢は、鼻を押さえつつ、台所を飛び出して行った。
「(……咲夜さん、感謝します)」
数分後、何故か鼻にティッシュを詰めた妖夢が戻る。
兎にも角にも、幽々子の胃腸との戦いの火蓋は切って落とされた。
……と言いたいところだが、早速問題が起きていた為に前言撤回。
「……届かない」
「あ」
白玉楼の厨房は、主たる妖夢が使いやすいよう、その背丈に合わせて低めに改造されていた。
が、それをもってしても、レミリアの背丈は低きに過ぎる。
顔と手を出すのがやっとで、とても調理どころでは無いというのが現実である。
そこで、妖夢は一計を講じた。
伝説のアイテムと称される、その名も高き……。
「みかん箱です。これに乗って下さい」
普段ならば、舐めるなとばかりに蹴り上げたろう。
が、レミリアは甘んじて……というよりは嬉々としてそれを受け入れていた。
今だに精神状態が退行しているらしい。
かくして、レミリア・スカーレットin白玉楼withみかん箱の完成である。
だからどうした、と言われればそれまでだが。
ちーん、ちーん。
夜雀の鳴き声ではなく、ここでは表記し辛いアレでもない。
行儀良く席に着いた幽々子が、行儀悪く茶碗を箸で叩く音だ。
どこぞにこれを十字路で三人同時に行うと幽霊が現れるとの噂があるが、
叩いているのが幽霊の場合はどうなるのか、疑問は尽きない。
「よーむー、ごはんまだー?」
「はーい、今参ります」
回答は半分だけの霊だった。
お盆……と言うにはあまりにも巨大な板切れを抱えつつ姿を見せる妖夢。
その上には大量の料理の皿。
閑散としていた筈の食卓は、たちまち豪勢な晩餐会の様相を呈した。
ほぼ一人の胃に収められるのが、晩餐会と呼べるのかは怪しいが。
「レミリアはどうしたの?」
その胃袋の主は、猛烈な速度で料理の山を削りつつ、傍らに控えた妖夢に問いかける。
ともすれば、行儀が悪いと映りそうなものだが、
そういったものを一切感じさせないのが幽々子の力である。
無論、米粒一つとして飛び散る事はない。
「今、調理の最中です」
「へぇ……着いていなくて大丈夫なの?」
「手助け禁止と仰られたのは、幽々子様なんですが」
「……ん。まあ、ね」
「……?」
「失礼します」
妖夢の疑念を消し飛ばすかの如く、ソプラノボイスと共に一人の幼女が姿を現した。
その手は絆創膏だらけで……と言いたい所なのだが、
吸血鬼とは包丁如きで傷つけられるような柔な存在ではない故、まったくの無傷である。
なら書くな。と言われそうだが、丁重に断らせて頂く。
「早かったわね。もう出来たの?」
「はい」
レミリアは静々と歩み寄ると、卓上に一枚の皿を置いた。
自然、幽々子と妖夢の視線が、そこへ集中する。
「こ、これは……!?」
「……これは?」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……何かしら」
妖夢はコケた。
「知らないのなら、もったいぶった驚き方しないで下さい!」
「食事中に大声を出さない。私にだって知らないものくらいあるわよ」
もっともその料理は、妖夢の知識にもまったく存在しないものだった。
外観からなんとなく西洋風の肉料理だと判断できる程度である。
「……で、レミリア。これは何という料理なの?」
「はい、羊のポロポロ風マッチョレーネソース和えに御座います」
「ポポロのきんにくん……何?」
「羊のポロポロ風マッチョレーネソース和え、です。
幽々子様、どうぞ暖かい内にお召し上がり下さいませ」
「……ええ」
促された幽々子は、いくらか真剣な表情を作ると、ナイフとフォークを手に取った。
……つもりだったのだろうが、何故か手にしていたのは箸とレンゲだった。
動揺していると見るのか、ボケと見るのか、はたまた真剣なのか、まことに判断に苦しむ所である。
「……もむもむ……」
「……」
「……もむもむ……」
「……」
「……もむもむ……」
幽々子はただ黙々と箸とレンゲを進める。
ラーメンじゃあるまいに、その二つでどうやって肉料理を口にしているのか疑問だが、
実際に出来ているのだから仕方ない。
華胥の亡霊に不可能はないのだ。多分。
「……如何でしたか?」
皿が空になったのを見計らい、レミリアが問いかける。
幽々子は、手を膝の上へ置くと、僅かに目を細めつつ口を開いた。
「私はね、洋食にはあまり造詣が無いの」
「……はい」
「それでも、些かバランスの悪い盛り付けや、肉への火の通しの甘さ、ソースの温度の不自然さくらいは分かるわ」
「……」
心無しか、レミリアの表情が重く沈む。
今の彼女であれば、泣き出すまでに要する時間はゼロに等しかろう。
それを知ってか知らずか、それまで一貫して険しかった幽々子の表情が、
ふわりと柔らかいものへと転じた。
「……ま、その点を差し引いても、及第点を挙げざるを得ないでしょう。
ご苦労様、レミリア。美味しかったわよ」
「……あ……は、はい! ありがとうございます!」
対するレミリアもまた、一転して花の咲いたような笑顔を浮かべたのだった。
「……」
が、その中で、ただ一人。
妖夢だけは、難しい表情のままであった。
物事の表面だけを見て楽観的になるには、彼女の心は荒みすぎていたのだ。
「(一件落着、と言いたいところだけど、
もしも、レミリアさんが普段のままだったら……)」
『ほーら幽々子様っ! 私の愛が大量に篭ったニトログリセリンスープをどうぞっ!』
『まぁ、なんて爆発的な味なの! でもこの程度で私の舌を満足させようなんて四百九十九年早いわ!』
『ええ、良くってよ! お次はバナナの皮100%の焼き物が控えておりますわ!』
『それは楽しみね! ならご褒美に深夜のお菓子、うさぎパイをあげましょう! 勿論漢字表記は牌よ!』
「……」
そして、妖夢は考える事をやめた。
胃薬はもう、無い。
かぽーん。
いつもいつも思うのだが、この音は一体何を表現しているのだろう。
恐らくは桶だか腰掛けだかを床に置いた音だとは思うのだが、些か独創性に欠ける気がしてならない。
もう少し象徴的な音を用いても良いのではなかろうか。
例えば……。
ザザーン。
ダメダメだ。
多いに却下である。
そんな音は崩壊後の世界で十分だ。
ゴシカアン。
雅だと言えないこともない。
だが、この場所に相応しいかというと議論の余地がある。
残念ながら却下せざるを得まい。
オイーッス。
もうドリフはいい。
そも、名言であっても擬音ではない。
だめだこりゃ。
話が存分に逸れた気がするので、本題に戻らせていただこう。
ともかく、かぽーんと言えば風呂である。
白玉楼の浴場は、屋敷の雄大な作りと比例して大きい。
故に、多人数が同時に入ったところでスペース的な問題が生じることはない。
「東村山音頭を編み出すまでの酷さといったら……」
「何か言いました?」
「……何も」
という訳で、妖夢とレミリアは並んで湯船へと漬かっていた。
不思議なことに、こういう事象に際し、必ず生じるであろう羞恥心といったものは、
二人共に、まったく感じていなかった。
恐らくは、互いに見せたところで恥じ入るような代物ではないから……ゲフンゲフン。
あー、その辺りはフィーリングでお願いしたい。
「そういえば私、ここ数時間の記憶が曖昧なんだけど。あんた何か知らない?」
「い、いえ、別に何も無かったですよ。普通に夕食の準備をしただけです。
きっと慣れないお仕事でお疲れなだけだと思います。ええ、はい、うん」
「……語尾が不自然に聞こえるんだけど」
「き、気のせいです。あ、そうだ。私も聞きたい事があったんですけど」
「何よ」
「その、確か吸血鬼って水に弱かったような記憶があるんですが、
お風呂に入ったりして大丈夫なんですか?」
「……はぁ」
レミリアは呆れたかのようにため息を吐く。
「私、変な事言いました?」
「十分変よ。あのね、本当に弱点ならこうして暢気に漬かっていたりする筈が無いでしょ?」
「……それもそうですけど」
「大体、吸血鬼は水に弱いってのが間違いよ。
一般的に伝聞されているのは、『吸血鬼は流水の上を渡れない』という一点だけ。
まぁそれは事実なんだけど、結局は概念的なものに過ぎないわ」
「……?」
「少し難しくなるから、気にしないでおきなさい。
ともかく私は水なんて恐れたりしないわ。
ましてや湯汲みも出来ないなんて、性質の悪い冗談よ」
「そうですか……」
「でも、どうしてそんな事を聞くの?」
「いえ、無理して付き合わせてしまったのなら、申し訳ないな、と」
「……はぁ」
二度目となるため息。
先程と比べ、一層重さを増した感があった。
「あんたねぇ、何を気を使ってるのか知らないけど、上役ならそれらしくもっと堂々としてなさい。
過程はどうあれ、今の私がここへ仕える身であるのに違いは無いんだから」
「ですが……」
「デスもデジョンも無い。……この際だから、はっきり言っておくわ。
あんたの取ってる態度は、私を馬鹿にしているのと同じなのよ」
「……え?」
「言い方を変えると、哀れんでいるという事になるかしら」
「そ、そんな事……」
「あるでしょう。そりゃ私の態度は従者然とは程遠いものかも知れないわ。
でも、それならそれで、矯正してやるくらいの気概を見せてご覧なさいよ」
「……」
「確かに私は、あの亡霊……幽々子が大嫌いよ。
でも、あいつの一貫した姿勢には、腹は立つけど感心もしているの。
仮に立場が入れ替わっていたとしても、同じように出来る自信が無いくらいね」
「……」
「今日一日で、私の覚悟は決まったわ。
だから、もう腫れ物扱いはもう止めなさい」
「それを命令している時点で何か間違っている気がするんですが」
「……」
「に、睨まないで下さいよ……分かりましたってば」
「本当に? 理解してる?」
「もう少し偉そうにしてろって事ですよ……ね?」
「……」
「レミリアさん?」
「……はぁ~~~~~」
ついに繰り出された、三度目のため息。
重さばかりか、長大さまで兼ね備えた一品だった。
「あ、あの、間違ってましたか?」
「……もういいわ。あんたがどういう奴なのか大体理解したから。
これ以上を半人前に求めるのは酷ってもんね」
「何か酷い事を言われてるような……」
「酷い事を言ってるのよ」
「うー……」
恨めしげな呻き声と共に、湯の底へぶくぶくと沈んでいく妖夢。
潜水したい年頃だから……という訳でもなく、
この後に及んで解答へと辿り着けない己が気恥ずかしかったのだ。
「……これは、ただの独り言よ」
「ぶく……はい?」
「独り言に返答は不要」
「……」
「盲目なまでに従順なのは、決して忌避されるものじゃない。むしろ私は賞賛する。
そういう意味では、貴方からは完成の域に近いものを感じるわ」
「……」
「ただ、それと狡賢くなることはまったく別。要は使い分けの問題なのよ。
半人前と呼ばれたく無いのなら、その辺を良く考えることね」
「……」
「独り言終わり。さ、いい加減上がるわよ」
「……はい」
ざぶりと音を立てて立ち上がる二人。
互いに体の容積が極めて少ない為、湯船の水位は殆ど変化を見せなかった。
と、脱衣所への扉に手を掛けたところで、レミリアが足を止めた。
「……あー、それともう一つ」
「古畑!?」
「コロンボよ。って、腰を折らないでよ」
「し、失礼しました」
「ったく……で、何だったかしら」
「私に言われても……」
「あ、そうそう。
もしも、ここを出るような事態に遭遇したら、紅魔館に来なさい。
特別に面接無しで雇ってあげるわ」
それは恐らくはレミリアなりの心遣いなのだろう。
もっとも、口調こそ自然ではあったが、顔がそっぽを向いている辺りに、プライドが見え隠れしている。
そんな事は有り得ない。と言い返すは容易い。
しかし、それを口に出す愚かさは、妖夢にも分かっていた。
故に、導き出される返答は一つ。
「……ありがとうございます」
「……ふぅ……」
幽々子は自室にて、粛々と茶を啜っていた。
夕食後の幽雅なる一時といった所か。
が、その眠たげであった瞳が、一瞬にして鋭いものへと変化すると、背後の襖へと向けられる。
「……黒」
そして、一言口にした。
『……幕』
一拍間を置いて、返事らしき物が返される。
「入りなさい」
幽々子が促すと同時に、音も無く襖が開かれる。
それを行ったであろう人物は、幽々子が認識するよりも早く、向かいの座布団へと鎮座していた。
タイムラグは皆無である。
「お邪魔するわ」
「そういう台詞はお邪魔する前に言うものよ、十六夜咲夜」
皮肉めいた幽々子の言葉に、咲夜は軽く笑みを浮かべて答えた。
「首尾は……いえ、その血塗れの服が雄弁に物語っているわね」
「何を言っているのか分からないけれど、上々よ」
言葉通り、咲夜の着たメイド服は至る所が赤黒く変色しており、
何ともスプラッタな様相を呈していた。
それが、決して戦闘による返り血などでは無いのを、幽々子は良く知っていた。
もっとも、咲夜自身にはまったく省みる様子が見られない。
大方、慣れすぎて日常となっているのだろう。
「一応確認して貰おうかしら……こんな所よ」
「ほう、これはこれは……」
咲夜が差し出したのは、黄金色の餅……ではなく、数枚の写真だった。
「ひとりで必死に着替えるお嬢様、労働に汗を流すお嬢様、
みかん箱に乗って包丁を恐々と扱うお嬢様、浴場の一糸纏わぬおっ、おぜうさまっ」
「わ、分かったから落ち着きなさい。ここまで汚されては堪らないわ」
「……おほん、失礼したわ」
咲夜はわざとらしく咳払いをすると、鼻にティッシュを詰めなおす。
「見事な手際と褒めておきましょう。
これほどの近距離撮影、あの烏天狗とて出来るものでは無いでしょうね」
「ふふ、ピューリッツァー賞と風魔流忍術皆伝を得た私には軽いものよ」
「……そ、そう。今度爆裂究極拳でも披露してもらおうかしら。
嘘だろう。と断じることは出来なかった。
彼女ならば本当に取得していても不思議ではないと思ったのだ。
「しかし、敬愛するご主人様を売るだなんて、とんだ従者もいたものね」
「あら、人聞きの悪いことを言わないでくれるかしら。
お嬢様は日頃体験し得ない貴重な経験を得る。私はそんなお嬢様の様子を存分に愛でられる。
そして貴方達は無償の労働力を得る……誰もが得をする素晴らしい作戦じゃないの」
「物は言いようね。ま、人知れず手助けするくらいの良心は残っていたみたいだけど」
「あら、気付いていたの?」
「当然でしょう。あんな料理をレミリアが知っている筈が無いし、妖夢のレパートリーにも無いわ」
「流石、食べる事に関しては目ざといわね。
もっとも、あれは貴方の観点から見ても有意義なイベントだったと思うけど?」
「人聞きの悪い事を言わないで頂戴」
幽々子は意図的に同じ台詞で返す。
そう、この会話はすべてが予定調和なのだ。
「そうかしらね? 板挟みに苦しむ従者の姿を見て愉悦に浸るなんて高尚な趣味、
貴方にしか持ち得ないものだと思っていたけれど」
「褒め言葉として受け取っておきましょうか」
事実、皮肉だとも思っていない。
己の嗜好が常人に理解されようがされまいが、知ったことではないのだ。
「それにしても、レミリアも気付かないものかしらね。
麻雀の負けくらいで傾くような柔な経済状況でも無いでしょうに」
「言わないであげて。お嬢様はそれだけ純粋なのよ」
「純粋、ねぇ」
恐らくは、紅魔館の財政のすべては咲夜が掌握しているのだろう。
そういう意味では純粋とも言えないことも無いだろうが、些か気の毒ではある。
「大体、貴方だって自分の所の財政事情なんて把握してないでしょう」
「……そういえばそうね」
「まぁ、心苦しくないと言えば嘘になるけど、これもお嬢様の為を思っての事なのよ」
「それは私も同じよ。妖夢にとって、こんな機会は滅多に無いでしょう」
お互い、そのあたりが建前でしかないのは良く分かっている。
そしてこの二人は、強固極まりない心の棚を持っていた。
なんとも救い難い。
「でも、少し上手く行きすぎで怖いわね。この調子のまま進めて大丈夫なのかしら」
「ふふ……安心なさいな。明日にはもっと鮮烈なイベントを用意するつもりよ」
「へぇ、期待して良いの?」
「勿論よ、私を誰だと思っているの」
「ならばモータードライブ搭載の新型を投入しようかしら。……ああ、楽しみ」
咲夜はうっとりした表情で、一人悦に入る。
もっとも、幽々子のほうも同じような様子だったりする。
中々に怖い光景ではある。
「ふふふ、十六夜屋。そちも悪よのう」
「いえいえ、姫様には敵いません」
「「ほっほっほっほ」」
二人の変態の笑い声が、高らかに響き渡った。
「楽 し そ う ね」
別段、大きな声ではなかった。
それでも、全身を貫くような鮮烈さをもって、その言葉は届いていた。
幽々子は油の切れた人形のような動きで、視線を動かす。
そこには、満面の笑み……らしき物を称えたちんまい人影。
全身からほこほこと湯気のようなものが立ち上っている。
ああ、風呂上りだからな。と納得しておきたい所だが、どう見ても闘気です。
「レミリア、私は唐突に理解したわ。
亡霊と吸血鬼は決して遠い存在ではない。分かり合えるのだと!」
「素晴らしい事ね。
でも残念。私にはまだ到達し得ない領域みたい」
「……で、何処から聞いていたの?」
「首尾がどうこうとか貴方が言い出した辺りからかしら」
「……」
早くも幽々子は、独力での事態収拾を断念した。
いくら言いくるめようと努力したところで、聞き入れられる状態ではないだろう。
となると、頼れるのは……。
「ほ、ほら、咲夜。貴方からも何か……って、いない!? 不在通知!?」
座布団の上には誰もいなかった。
が、つい先程までの出来事が夢でないのは、
持ち去り損ねたであろう数枚の写真がはっきりと示している。
「チクチョウめ! 時間止めて逃げたわね!」
冷静かつ大胆、そして迅速な判断。
彼女は謀を行うにあたり、まさに完全な能力の持ち主であったのだ。
無論、今の幽々子にとっては最悪だが。
「アレの処遇は後にして……幽々子。あんたに残念な知らせがあるの」
「な、何かしら」
「せっかく貸してもらったこの服なんだけど……」
見れば、レミリアは浴衣のようなものを身に着けていた。
風呂上りということで、妖夢あたりが用意したのだろう。
「あ、あら、意外と似合うのね」
「ありがとう。でも、残念なことに、洗い落とせない段階まで汚れてしまうと宣言するわ」
「そ、その汚れの主成分に関しては余り聞きたくないわね」
「聞く必要は無いわよ。体で分かるでしょうから」
一歩、また一歩とレミリアが歩み寄る。
その表情は、どこまでも輝かしき笑顔。
これから起こるイベントを夢想しての笑みであろうか。
幽々子は動かない。
というかピクリとも動けなかった。
これまで与えに与え続けた心理的プレッシャーが、すべてまとめて返されたかの様子である。
まさに自業自得だ。
「ほ、ほら、こんな良い夜に肉体言語で語り合うのはどうかと……」
「語り合いなんてしないわよ。私からの一方的なコミュニケーションだもの」
「そ、それはそれで……あ、妖夢!」
「……?」
幽々子の声にも、レミリアは振り返らない。
軽く横目で確認を取っただけであった。
一部の隙も見せない……そんな印象である。
もっとも、別に幽々子はレミリアの隙を突こうとした訳ではなく、純粋に助けを求めての声だった。
それほどまでに追い詰められていたのだ。
「……」
すっ、とレミリアの背後から姿を現す妖夢。
表情は、無い。
まるで悟りを開いたかのような印象すら感じられた。
「ほ、ほら妖夢。ご主人様のピンチなのよ?」
「そのようですね」
「分かったならそこの狼藉物を排除……は無理かしら。と、とにかく何とかなさい」
恥も外聞もなく、命を下す幽々子。
「……」
それを受けた妖夢は、視線を隣へと移す。
そして、何時の間にか抜いていた楼観剣をレミリアへと向けた。
「(ああ、やっぱり私の教育は間違ってはいなかったのね……)」
その光景に、幽々子が歓喜の涙を浮かべたのは言うまでもなかろう。
「この剣、使ってみませんか。霊体相手への殺傷力は保障しますよ」
「妖夢ぅううう! お前もかぁあああ!!」
歓喜の涙は、一瞬で悲観の涙へと変わった。
もっとも、先に裏切ったのは幽々子のほうなので、やはり自業自得である。
「折角の心遣い有難いけれど、今宵は得物を使いたくない気分なの。御免なさいね」
「いえ、お気になさらず。あ、出口は固めておきますので存分にどうぞ」
「何を存分に!?」
数秒後。
幽々子の悲痛な突っ込みは、絶叫へと変化して冥界全土に響き渡った。
「あ、咲夜さん。おはようございます」
「……ええ。おはよう、美鈴」
「朝帰りですか? お安く無いですね」
「……そうね、本当に高く付いたかもしれないわ」
「???」
疑問符に埋め尽くされた門番長を余所に、咲夜は重い足取りで館内へと歩みを進めた。
「(……私とした事が……浮かれすぎていたわね)」
昨晩の顛末がどうなったのかは知らない。
だが、幽々子が辿ったであろう末路は、嫌でも想像がついてしまう。
そして、下手を打てば、次は自分の番であろう、と。
故に咲夜は、夜を徹して解決策を練っていたのだ。
レミリアの詰問に対する回答パターン、実に三万二千七百六十八通り。
これだけ用意しておけば、どれか一つは近いものがあるだろう。
ならば、それに従い『誤差修正範囲内よ』の一言を付け加えれば良い。
これぞ完全なる事後処理策だ。
……というのが咲夜の結論である。
天才的な変態の思考回路は、些か理解に苦しむ。
そして、時は直ぐにやって来た。
「あら、おはよう咲夜」
「……おはようございます、お嬢様」
何処という事もない、ただの廊下の一角での邂逅。
内容もごく普通の朝の挨拶といった塩梅である。
が、この主従にとって、朝の挨拶は夜に交わすものである。
今という不自然さを、如実に現す事態であろう。
「どうしたの? 何だか疲れているみたいだけど」
「す、少し仕事が忙しかったのかもしれませんわ」
「そう、どんな仕事だったのかしらね」
この時点で、咲夜は回答例から半分を削除した。
即ち、昨晩の出来事を無かった事にするというパターンである。
が、無駄だった。
レミリアの様子を見る限り、殆どの事実はバレバレ。
大方、幽々子がある事無い事語ってしまったのだろう。
逃亡した手前、それを責める権利が無い事は分かっていたが。
ともあれ、こうなった以上は、残りの半分……徹底的に誤魔化す以外のパターンは無かった。
どこまで通じるかは怪しいものだが、これまで培ったであろう信頼に賭けるより他無い。
「え、ええと、実はですね。昨晩の事なのですが」
「ああ、そんな事別にもういいわ」
「へ?」
「それよりも咲夜。貴方に良い知らせがあるのよ」
「よ、良い知らせ、ですか」
レミリアの表情は、何の曇りもない笑顔。
本来ならば歓迎すべきものの筈だが、今の咲夜にとっては困惑以外にない。
あろうことか、この時点で、用意した全ての回答パターンから大きく逸脱してしまったのだ。
抗弁をする前に許されるなどという例は、想定できなかったのだろう。
例えそれが、偽りであったとしても、だ。
「ええ、私は気付いてしまったのよ。労働というものを甘く見てはいけないのだ、と。
たった半日の事ではあるけれど、それを実感するに十分な体験だったわ」
「は、はぁ……」
「そういう訳で、私は一つの答えを見出したわ」
するとレミリアは明後日の方向に向けて、手を動かした。
それが、誰かを呼ぶ動作であるのは明白だった。
「紹介は……するまでもないわね」
廊下の影から、姿を見せる一人の人物。
確かに紹介の必要は無かった。
そも、この時点で、咲夜は全てを理解していたのだ。
もうだめぽ、と。
「今日からこの娘に侍従長に就いて貰う事にしたわ。これは決定事項よ」
「魂魄妖夢です。宜しくお願いしますメイド長……いや、咲夜」
後日。
白玉楼に一人のメイドが住み着いたとの噂が流れたが、真相は定かでは無い。
萌えて良し、笑って好し!
幼児退行と恥じらいと変態とが奏でるトリコロール・・・
これ以上に何を語る必要があろうかっつ!!!
長文を書き上げるのも大変だが、一定の範囲でオチをつけて終わらせるのもまた大変。その点、御見事です。
しかし一つ疑問。台所での件、妖夢は咲夜が隠れていることに気が付いた、という事なのでしょうか? 最初は妖夢の知っている咲夜流のレシピを教えたのか、と思いましたが違うようでしたし。でも、咲夜に気付いたなら腹芸の出来ない妖夢のことだし、露骨に態度に出そうだし。
自分の読解力不足かもしれないですが、その辺がちと分からなかったです。
そして「侍従長 魂魄妖夢」の期待を此処に
そして黒幕が出てきてからの怒涛の如くオチへの流れ、お見事でした。
読み応えのあるギャグでした、多謝(礼
さくぽ…絵に描いたような自業自得だよ
それよりこの後の紅魔館の最強ロリペア話マダー?(AA略
高いテンションをずっと維持していく文章はお見事です。
大変、結構でございました。
ムンムンと。
えっと……もちろんこのレミリアお嬢ちゃんはエプロンを(ry
時代劇のあのシーンで吹いた
マイクロミサイルの事かーっ
堪能させていただきました、ハイ
>そして、妖夢は考える事をやめた。
>胃薬はもう、無い。
普段の妖夢の生活を考えたらもう不憫で仕方ない。
続く…!?
相変わらずの結構なお手前で。
デンドロビウムの辺りで吹きました。いや、凄い比喩ですなw
時折ホロリとくるシーンを交えながらも、ハイレベルな笑いのデンプシー
ロール。スタンディングオベーションでララパルーザですよw
ポロリがないのが残念でしたが。
レミリアと妖夢の入浴シーン? あんなもん只のツルリじゃな(不夜城レッド
+迷津慈航斬)
うん・・良い感じに笑えたわ。
俺は続きが読みたいんだよ、早く書いてくれ
>「あの方はちょっと特別ですけどね」
>
>そして、バレバレだった。
主を茶化す小悪魔は悪魔だから良いとしても、八百屋のおっちゃん凄すぎるよ!!
多分、八雲ゆかりんと縁のある名のある妖怪なのかもしれない・・・。
次回作「白玉楼のメイドさん」に期待しますって、メイド長、霊体に!!!!1!!!!!
そして矢吹ジョーに続くのですね!(作品が違う
ではこれは「はじおつ」とか読めば良いですか?(満面の笑みで
妖夢メイド長はりっぱな責務を果すでしよう。
とりあえず妖夢に胃薬を!誰か!
そして、一言口にした。
『……幕』
レティ「呼ばれてきました!」
楽しませていただきましたwww
うん、楽しかったw